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2007年07月31日

2007年07月31日 負の分配

7月最後なので、もう一つ書かせてもらいます。


先日放送された「ルパン三世 霧のエリューシヴ」
これはわざとこんな風に製作したのだろうか。
わざとつまらなく作り上げたのだろうか。
わざと雑な部分を取り入れたのだろうか。
わざと素人の声優を起用したのだろうか。


ここ数年、ルパンSPが年々ヒドくなっていくのは、気のせいではない!
個人的なフェイバリット。
「バイバイ・リバティー・危機一発!」と「ルパン暗殺指令」
この両者が双璧。もうこのレベルのルパンは見えないんだろうなぁ。
残念だ。上記のDVDでも買おうかな。


最近のルパンは何も盗んじゃいない。むしろ視聴者に失望と怒りを分け与えているだけだ。

2007年07月31日  「あつい」

飲酒運転だけではなく、「喫煙」運転をするバカからも罰金を取れ、と思う夏。私は突き詰めて言えば「あつい」モノが嫌いなのであろう。


暑い季節が嫌い。
熱い人物が嫌い。


だらしのない猫舌。熱い食べ物は苦手。
キャンプが嫌い。キャンプといえばキャンプファイアー。炎は熱い。よって嫌い。
炎。花火大会。超苦手。ドーン、パッ。で終わる儚いモノを楽しくは見れないゼ。
炎、というか火、といえばタバコ。大っ嫌い!
暖房も嫌い。すぐに火照る。嫌。
熱血、情熱。「熱」い。苦手。


私が嫌いなモノの公約数的な存在として「あつい」というキーワードがあげられる。
そして、花火もキャンプも夏の風物詩。・・・完全に夏がイヤなんだ。
そういえば子供の頃大好きだったスイカも、中学生くらいから苦手になった。アレは汁がボトボト垂れて汚いんだ。


ところで、GooTaの「煮玉叉焼麺」というカップ麺がやたらと美味い。なんだこれ。グッジョブ!

2007年07月29日

2007年07月29日 VS

うほー!!テンション急上昇!!! 暑いのに。
『スペリオール』次号より「キーチ!!」再開決定とのこと。


参考リンク:『スペリオール』次号予告


タイトル変わってる!「キーチVS」。「VS」って何だ?
もっと喧嘩売っていくということか。さらなる暴走?
「衝撃の第二部」って煽り文句があるなぁ。良いなぁ。どんどんやってくれ。「不愉快さ」こそ新井さんの独壇場じゃないか。
昨夏は「真説 ザ・ワールド・イズ・マイン」が出てテンションが上がったけど、今夏は「キーチVS」なのね。誠に結構です。


選挙なのに選挙に行けない。住民票を移してないから。実家に空しく投票案内はがきみたいなのが届いていることだろう。情けない。こんなに情けないコトは無い。せめて私の代わりと言っては何だが、社民党か共産党の候補or比例代表に投票しようとしているヤツの一人が、急性盲腸炎になって投票出来なくなれば、それが私の一票になる。相殺。VS。
暑い。新聞のテレビ欄を見て驚いた。お昼から幾つかのチャンネルで高校野球の地区予選を放送するみたいだけど、全部で4つの県の予選が見えるみたい。野球好きには良い季節ですね。野球だらけ。四国なんて地元の県の予選しか放送していなかったはず。熱い。球児たちの闘い。VS。


テンション上がったから余計に暑い。でもキーチはもっと熱くなってて欲しい。

2007年07月28日

2007年07月28日 傷と治癒

Part.1
先日から少しずつ読んでいる『共同研究 転向(上)』
この前、藤田省三さんのがよく分からないと書いたが、もっと分からない論文があった。「一国社会主義者ー佐野学・鍋山貞親」高畠通敏
中盤からサッパリ分からなくなる。何をいっているのか皆目捉えられない。内容を把握する以前に、ここで使われている日本語を読み解けない。「状況追随論理」って何じゃ。試しに一文を抜き出してみようか。

そして、絶対的な実体の規定が、個人的な「意味づけ」に連関されているここにおいて、状況への追随は状況へのオポチュニズムと同時に状況の規定への論理的オポチュニズムをまた内包するようになる。それはすなわち、この「理論的」状況規定が、あらゆる個人的動機を包含することができるということに他ならない。「誠実さ」はつねにまた、この倫理の下にそのまま温存される私的な動機によって裏打ちされているのである。たてまえにおける「道徳主義」と行動における卑俗な「政治主義」、認識と良心の絶対性の主張と対置される動機曝露のイデオロギー批判の悪循環は、すべてここに根をもっている。

真ん中くらいからずっとこんな調子だから、途中で読むのを止めた。止めてしまった。情けない。今まで幾つか論文を読んできたけど、途中で投げ出したのは始めて。実に不甲斐ない。糞ぉー!
藤田さんのは噛み砕いていけば、なんとなく掴めるのだが、これは完全に無理。噛み砕きようが無い。まったくとんでもない論文だ。
まったくとんでもない本だ。上下二段組みでギッシリ文字が書かれてるし。読むのに時間かかるし。難しいし。困ったもんだ。


Part.2
Rie fu「ツキアカリ」(Live)
なんでRie fuは売れないんだろうか。地味だからか。そりゃ倖田來未みたいな派手さはないし、そんなモノいらんけど、良い曲は多いんだよ。まず何よりもこのヒトの出すオーラのようなものが素敵じゃないか。
私とは正反対の雰囲気を醸し出している。彼女は育ちが良いんだろうな。上品さが窺える。それが下品な私のココロをくすぐる。
上記の論文に打ちのめされた私を癒してくれるんじゃないだろうか、と傍若無人な期待をこめつつ・・・本人にとっては迷惑だろうけど、そういう気持ちで聴いているのです。ハイ、今日の分はこれで終わりです。

2007年07月27日

2007年07月27日 出てくるもの

最近変なタイミングでくしゃみが出て困る。誰かが私の噂をしているのだろうか。親類か友人か学校の関係者か、はたまた謎の人物か分からんが、ちょっとイヤだ。戸惑う。「おぎやはぎのカッコイイ方」と言われて、判断しなければいけない時くらい、戸惑う。


今日のMステにMONKEY MAJIKが出ていた。外国人と日本人混合バンドの。
仙台在住なんだってね。良いじゃないか。
日本はメジャーでやっている連中の多くが東京在住みたいだが、それは良く無い。
アメリカやイギリスのミュージシャンを見てみろ。それぞれいろんな街に住んでいるじゃないか。アメリカでは西海岸やロサンゼルスといった地域によって、独特の音楽が生まれている。地域(環境)が音楽を育む。日本にはそういうコトがあまりない。インディースに幾つか例が見られるだけ。ミュージシャンの8割9割が東京の街を見て、東京の空気に包まれて音楽を創っても、面白味が無いだろう。
日本はアメリカみたいに面積が大きな国じゃないから・・・ということもあろうが、しかし東京以外にも大きな都市はある。札幌、仙台、横浜、名古屋、大阪.神戸、広島、福岡・・・それぞれの地域に特有の“シーン”が出てくるようになれば、日本の音楽もより面白くなるはずである。
メジャーデビューすることになっても、自分が生まれ育った環境で音楽を創造していけるような状態であれば、無理して上京しなくても良いと思うのだけども。スタジオの問題とかがあるのかな。それとも東京以外の都市で活動することは、(主に経済的な可能性の面で)限界があるのかな。そういう点では、もっと環境が整備されるべきなのかも。現実がどうかは知らんが。


まー、それはそうとして、噂は止めてね。くしゃみが出て困るから。
まさかウチの親父がしてるんじゃないだろうな!?

2007年07月26日

2007年07月26日 ∞

『共同研究 転向(上)』、藤田省三「昭和八年を中心とする転向の状況」
私は今までにこれほど難解な論文を、哲学関連のものを除いて、読んだことが無い。鶴見俊輔さんの論文が中学生の読書感想文に思える。
私がこの論文を読んで辛うじて理解出来たこと、それは「この論文は日本語を用いて書かれている」ということだけである、極端に言ってしまえば。
うへぇ〜、ダメだぁー。私はまだまだ力不足だ。どうやって読み解けば良いんだ。ばいきんまんがおそらく永遠にアンパンマンを殺せないように、私は永遠に藤田さんの思考過程を理解できないかもしれん、と思うと果てしなく慚愧に堪えない。ピロウズがどうやっても売り上げではミスチルに敵わないように、私はどうやっても藤田さんの境地には達せないんじゃないかしらん。中川八洋先生みたいになんでもかんでも共産主義(者)のせいにしているような分かり易い論調じゃないから、これは厄介。


さて、さしあたり問題がひとつだけある。
明日と明後日の天気予報、最高気温が34℃になっている。
最高気温が34℃になっている。
この予報に対して私からの言葉は、実に単純ながら次の一言に尽きる。
死ねええ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
「!」の数が私の怒りとやるせなさを物語っている。
夏の無い国に行きたい。


・・・南極!?

2007年07月25日

2007年07月25日 強敵の再来

暑いなんてもんじゃねー


早く7月去れ。
8月来い。
そして至急夏よ終われ。


日中の室温が華氏90度って・・・
オレの夏休み、どこかに避難しなきゃならん。
そう思えば小学生の時の避難訓練って全然役に立たないじゃん!
暑さから逃げる方法も教えてくれ。


ここからあと一ヶ月が真剣勝負。命を懸けた勝負。
私の記憶が正確ならば、毎年高校野球が終わる頃から少しずつ涼しくなってゆく。
・・・・・
今、調べた。高校野球は22日に終わる予定らしい。
じゃあ早く22日来い。早く球児の夏が終われ。


暑さを紛らわすために小熊英二さんの「〈民主〉と〈愛国〉」でも読んでみようかなと思っている。
今まで読んでなかったんだよなぁ。だってあの本7000円くらいするし、1000ページくらいあるんだもん。
1000ページってねぇ。上下二巻で出した方が良かったんじゃないの。
ちょっと考えてみよう。
ホントは暑いから何も考えたくないんだけどなぁ。

2007年07月24日

2007年07月24日 「ジギール」と「ハイド」

竹山道雄に『ハイド氏の裁き』というエッセイがある。
これは「東京裁判」を素材にして書かれた短い文章であり、当初はGHQの検閲により発禁になったものである。
ここではその内容と核心に迫ってみることにする。


竹山が東京裁判の傍聴に行ったときのことである。

この日に論告されてゐたのは、まだ新聞にも報道されたことのない人であつた。その顔もつひぞ寫眞(写真)でも見たことがなかつた。…(中略)…その様子はすさまじかつた。全被告席を壓倒(圧倒)してゐた。他の被告たちもみな落ちついて、考への狭い人間のもつ威嚴といつたやうなものをもつて、一種の凄味を發散してゐる人たちではあつたがこの未知の被告に比べては影がうすかつた。その獰猛兇惡な風貌はかつて映畫(映画)で見たハイド氏にそつくりであつた。
 法廷で私語は禁ぜられてゐたが、私はそつと隣の人にきいた。
「あのあたらしい被告の名は何といひますか?」
 隣の人は教へてくれた。
「近代文明といひます」


【※ 原文に忠実にあらんと思い、旧字体をそのまま記しました。(一発変換できなかったから、出すのにすっごい大変だったの。読み辛いと思われる部分にだけ、括弧中に新字体を記しておきました。親切!)】

これは架空の東京裁判であり、したがって架空の物語である(ただし、キーナンは冒頭陳述において「文明」を原告とする旨の発言をしているが)。
竹山がここで問題にしようとしているのは、すなわち真に裁かれるべきものは、東條英機や松井石根といった「A級戦犯」とされた人々よりもむしろ「近代文明」そのものであるということだ。
これは瞠目すべき着眼点であるといえる。
もう少し見てみよう。


(被告人「近代文明」はー筆者註)長ずるに及んで、ある時期にいたつて、俄然かゝる醜惡なる半面に變貌(変貌)するやうになりました。今もなほジキールの姿のときには、驚嘆すべき業績をあげ、高潔な品位を保つてをります。しかるに、彼は一たび國際的貧民窟に足をふみ入れると必然的に、このやうな暗黒な魔物となるのであります。
 この大切なことがまだ知られてゐません。
「持たざる國」の國民すら、なほこの男のかがやかしい少年時代の姿のみを念頭に描いてゐます。さうして、若いジキールをたよつて救ひを求めました。しかるに、あにはからんや、彼はこゝでは老いたハイドであつたのです。
…(中略)…
 この被告が「持たざる國」に入ればかならずハイドの姿に轉(転)ずるといふことは、眞にゆゝしい大問題であります。これは將來のためにもお十分に檢討されねばなりません。…(中略)…また被告がいつからかういふ分裂をするやうになつたか、またいかなる條件が具はるとかゝる姿になるのか、これらのことは將來學者によつて徹底的に研究されるべき問題であります。


竹山は指摘する。「近代文明」には「ジキール」と「ハイド」という二つの姿があると(ここでいう「ジキール」と「ハイド」とは、スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』によるものと推定される)。「ジキールの姿のときには、驚嘆すべき業績をあげ、高潔な品位を保つてを」るのだが、それが「國際的貧民窟(戦前の日本のような国を指しているー筆者註)に足をふみ入れると必然的に」「暗黒な魔物」すなわち「ハイド」になるのだという。そして「暗黒な魔物」(=「ハイド」)となった「近代文明」は、「ありとあらゆる科學的利器を使ひ」、自己の力を確立する。さらにそれをより徹底するために、「近代文明」である

被告は自分の所有のうちでもつとも立派なもの━━學問の力を貸與(貸与)しました。政治學、社会學、ありとあらゆる自然科學、さらには哲學や心理學のやうなものまで提供し…(中略)…さうして、支配下にある人間は、その心理の底までを改變され、命ぜられるまゝの世界觀を信奉し、あるいは正氣の沙汰とは思へない幻影を描き、あるいはニヒリズムをもつて「悠久の生命に生きる」所以と考へ、つひにはみづからの人間的價値をすゝんで抛棄することに満足を覺えるまでにいた
らしめるのである。そのような世界において、人々はいうまでもなく「反抗はできない。情報はもたない。發言の自由はない」、ただその支配に屈服するしかない状態に立たされる。


ここで竹山が言わんとしていることは、他でもない「近代文明」が「前近代的文明」に打ち克ち、それを全批判するために用意された「東京裁判」及びアメリカの占領政策に対する批判である。アメリカ(英米)の「近代文明」が日本の「侵略的で野蛮な文明」を打破したのだとする、占領期にアメリカが定着させようとした歴史観(結果としてそれは広く定着することになったが)に対する、根底からの批判の声が、ここには存在している。
竹山がいう「ジキールの姿」のときの「近代文明」は「高潔な品位」を持っているが、それが「ハイド」の姿に豹変するとき、人々から自由を奪い、思考停止させ、虚空の観念の中に埋没させてしまう。そのような「近代文明」の悪しき顔を、我々はアメリカの「近代文明」の中にも見出すことができる。それこそ、すなわち「東京裁判」であり、言論弾圧が徹底された占領政策である。人々に反抗を許さず、情報を制限する極めて許容範囲の狭い社会が構築された一連の欧米諸国による歴史を振り返るとき、竹山がここで指摘している「近代文明」が合わせ持つ二つの姿に関する問題を、我々は無視することができないのである。アメリカが「前近代的文明」であると否定した戦前の日本の文明と、戦後のアメリカによる戦犯裁判及び「近代文明」を植え付けるための占領政策、竹山にいわせるとこの両者にはともに「ハイド」の姿の「近代文明」である。
元来「ジキール」を標榜して一貫した態度を維持してきたつもりのアメリカですら、戦後において「ハイド」の姿を現わしたのだ。これは戦後間もない頃の日本をめぐって、「ハイド」が「ハイド」を支配していたことに他ならない。こうしたこと念頭におき、上記の中の次の一文を読むと、「近代文明」というものの何とも言えない不可解さを思わずにはいられない。「『持たざる國』の國民すら、なほこの男のかがやかしい少年時代の姿のみを念頭に描いてゐます。さうして、若いジキールをたよつて救ひを求めました。しかるに、あにはからんや、彼はこゝでは老いたハイドであつたのです。」
これらの点においても明らかなように、「近代文明」とは、アメリカが戦前の日本を卑下していう「前近代的文明」というものと決して異質なものなどではなく、ただその変質形態に過ぎないことが指摘できる。
竹山の論をもう一歩前進させてみれば、あの戦争は「近代文明」が「前近代的文明」を打破するための戦争ではなく、二つの「近代文明」の衝突ー「ハイド」対「ジキール」ーだったことになる。(それにしてもGHQが発禁処分にしたことも納得のいく、激烈にして刺激的な内容である。そして、アメリカの占領政策真っ直中の1940年代後半にここまでの洞察力を備えていた竹山道雄という人物に対しては、只々驚嘆するばかりである。)


文字通り、敗戦までの日本には至るところに「國際的貧民窟」があり、敗戦後の日本もまた何も無い「國際的貧民窟」であった。終戦後、そこに「足をふみ入れると必然的に」、「ジキール」の「近代文明」を維持してきたアメリカも「ハイド」の「近代文明」を持つ国へと変質することとなった、いや変質せざるを得なかったのだ。
「泥沼」というありふれた形容詞で語られることの多くなったイラク戦争も、今まさにアメリカが「國際的貧民窟」であるイラクにおいて、「ハイド」の姿に転じざるを得なかったが故に打開困難な状態に陥っているといえるのではなかろうか。
竹山の「近代文明」に対する瞠目すべき見解は、今なお生きている。


何もイラク戦争に限ったことではない。「近代文明」が備え持つその脆さを今一度考慮する上で、この「ハイド」と「ジキール」という二面性は大いに示唆的なものである。
「近代文明」は決して単一ではない。複数の形態があり、それが如何なる態に変容するかという点にこそ、我々は注意を払わねばならない。そしてまたそれは、常に不変で一定の型を維持し続けるものではなく、ある機会を境にして土砂崩れの如く人々を傷つけ、あらゆるものを容赦なく略奪し、排撃していくものとなる可能性を多分に含んでいることを、決して忘れてはならないのである。

2007年07月22日

2007年07月22日 大相撲名古屋場所感想07

やはり朝青龍だ。
琴光喜はとりあえず置いとこう。
白鵬と朝青龍の終盤戦を見ているだけで、その差は歴然だったね。
序盤こそ慎重だった朝青龍、日に日に本来の強さが出てきた。白鵬は琴欧洲に負けた時点で、実質優勝圏内から外れたようなものじゃないかなー。
今日の結びはちょっと一方的過ぎたけど、それもこれまでの流れを見ていれば納得出来る。“勢いの差”というありふれた言葉で片づけるのもアレだけど、いや、しかし横綱朝青龍健在を思わせる場所だった。


白鵬。横綱として臨んだ始めての場所だったけど・・・う〜ん、中盤戦までは良かったんだけど、琴欧洲と千代大海に連敗して、完全にペースを崩しましたね。ま、来場所の巻き返しに期待。まだまだ白鵬はこれから!
ただ、立ち合いから張ってスペースを空けてしまうような相撲はどうにかした方が良いんじゃないかな、と相変わらず思う。踏み込みがしっかりしている時は、すぐにイイ形が作れるんだけど、今場所は中盤から(もしくは序盤の終わりくらいからかな?記憶が曖昧)終盤にかけてちょっとモタモタしてたねぇ。


琴光喜。まさかここまで勝つとは!大関か〜 万全の相撲続きだったもんねぇ。今場所一番内容の良い相撲を取ったのは、間違いなく琴光喜。大関昇進とはいえ優勝を逃した今日、その涙は分かるような気がするけれども、だが、今場所の彼みたいなのを「天晴」というのだろう。来場所からは「大関」らしい相撲を求む。


千代大海、魁皇、琴欧洲。三大関。問題児トリオ。やはりどうしようもない相撲が多くて萎えた。大関ってこんなもんだよ、という琴光喜へのメッセージのつもりか。


新入幕の豊響。11勝とは。そんなに勝ったという印象が無いんだけど…不思議な気がするなぁー。敢闘賞おめでとう。
海鵬。相変わらずイヤラシイ勝ち方をする(←褒め言葉、のつもり)。このヒトの技量は抜群だよなぁ。相撲が巧いんだ。
番付を下げていた稀勢の里の11勝。今日は勝たなくて良かったのに勝っちゃうし。良い内容の相撲が多かったとは思えないけど、また三役目指して頑張って下さい。


十両。
幕内定着していた岩木山と旭天鵬が12勝、で、岩木山が十両優勝。当然と言えば当然かもしれん。まだまだ幕内上位を目指せるんだから。
個人的には若ノ鵬と千代白鵬の勝ち越しが嬉しい。
その他、幾つか感想もあるけど、・・・もうイイや。


来場所に向けて言いたいコトは一つだけ。
朝青龍と白鵬は言うまでもなく最高レベルの相撲を取るだろうから、そこで重要となるのがその下、大関だ。琴光喜を加えてまた4人になる。彼らがどれほどの相撲を取れるか、それによって随分と変わる。今場所は(名古屋というコトを差し引いても)琴光喜の(まさかの!?)大活躍で面白い場所になった。下から突き上げてくる力があれば、上の意識も変わる。全員が魁皇じゃダメなんだよ。今場所の琴光喜みたいなのが、毎場所一人くらい出て来なきゃ。
そこで注目したいのが、一番若い大関の琴欧洲。最近はロクでもない内容の相撲ばかりで、見ていてイライラするけど、能力はあるんだから奮闘して欲しい。彼も自分の体勢になれば、そのリーチを活かした良い相撲が取れるんだから。最近は立ち合いから完全に“崩れている”ように思う。
例年、客入りの悪い名古屋が久々に活気づいた。琴光喜のおかげなのだろうが、果たして来場所は誰が活気づけてくれるのかしらん。そういう淡い期待を持ちつつ、この感想の締めとさせて頂きます。

2007年07月22日 今更ながら

このサイトを開設してもう一年半以上が経過した。
この一年半、ワタシは顔の見えない存在として適当なコトを書き殴ってきた。
その反省を込めて・・・という建前で、今更ながら改めて自己紹介でもしてみようかしらん。・・ということで、O&A。


私のQ&Aなどは何も面白く無いけど、見たければどうぞ。
なお、ココでは「自己紹介用100の質問」というモノを使用させて頂きました。

参考リンク:自己紹介用100の質問配布所


No.1
Q : お名前はなんですか。(ハンドルネーム可)
A : キチリン


No.2
Q : 血液型は。
A : B


No.3
Q : 性別は。
A : ♂


No.4
Q : 趣味は。
A : お相撲観戦


No.5
Q : 好きな食べ物は。
A : 激辛カレー、「俺の塩」


No.6
Q :お住まいはどこですか。都道府県ていどで。
A : 「西日本」ていどで


No.7
Q : 性格を一言でいうと。
A : ロクでなし


No.8
Q : わりとがんばっている方ですか。
A : わりと、ね。


No.9
Q : 利き腕は。
A : 右


No.10
Q : 好きな番組は。
A : お相撲中継 「名探偵モンク」シリーズ


No.11
Q : 最近、どのようなことで笑いましたか。
A :千代大海の取り組みを見て


No.12
Q : 尊敬する人物を教えてください。
A : (詳しく知らないけど)エドモンド・バーク、(詳しく知らないけど)セーレン・キルケゴール


No.13
Q : 買ってしまったけど、失敗したなーというものは。
A : Illustrator


No.14
Q : 今までで1番高い買い物は。
A : PhotoshopとIllustrator


No.15
Q : 自分を動物にたとえると。
A : カバ


No.16
Q : 春・夏・秋・冬どれが好きですか。
A : 秋


No.17
Q : その理由は。
A : 夏死ね!冬カモーン!の体感


No.18
Q : 憧れの職業は。
A : 個室に引き蘢り状態のような研究者


No.19
Q : 生まれ変わったら、男の子と女の子どちらになりたい。
A : 男


No.20
Q : その理由は。
A : 女だとお化粧に時間かかったり生理の心配したり、フェミニストに巻き込まれる可能性があったりと、神経を使いまくらなければいけないから


No.21
Q : 旅行したいところはどこですか。
A : 古代遺跡巡り


No.22
Q : 口癖はありますか?
A : 「どーでもいーんだけど」、「ああ、そう」、「多分・・」


No.23
Q : どのようなアルバイトをしたことがありますか。
A : 店頭業務的なモノ


No.24
Q : 今日の気分を天気で言うと。
A :曇り


No.25
Q : いま一番欲しいものは。
A : 爽快さ


No.26
Q : 「さぁ、リズム良く♪あ、ワン、あ、ツー、あ、ワンツースリーフォー」の「あ」をどう思いますか?
A : 知らんよ


No.27
Q : ジャージで町を歩けますか。
A : ジャージによる


No.28
Q : ところで、今何時。
A : 午後4時


No.29
Q : 髪の毛の色は。
A : 黒


No.30
Q : 小学校のときに好きだったテレビ番組は。
A : 「ダウンタウンのごっつええ感じ」、(所ジョージが辞めるまでの)「マジカル頭脳パワー!!」


No.31
Q : 印象に残っている映画は。
A : 「E.T.」


No.32
Q : お酒は好きですか。
A : まずまず


No.33
Q : ネットをどのように利用していますか。
A : 暇つぶし


No.34
Q : あなたのサイトのセールスポイントは。
A : 誰が好んで見るんだよ!という対象の不明瞭さ


No.35
Q : 昨日の夕食に何を食べましたか。
A : 豚丼・・・


No.36
Q : 今日の朝ごはんは。
A : クリームパンと紅茶


No.37
Q : 平均の睡眠時間は。
A : 7時間くらい


No.38
Q : 昨日何時に寝ましたか。
A : 1時30分くらいに


No.39
Q : で、何時に起きましたか。
A : 8時30分くらいに


No.40
Q : 小学校の給食で好きだったものは。
A : ハンバーグに添えてある甘いニンジン


No.41
Q : 同じく、嫌いだったものは。
A : コッペパン


No.42
Q : 親友に一言お願いします。
A : やぁ


No.43
Q : では母親にも。
A : ああ、ちょっと、あのね


No.44
Q : 小さいころ何をしていましたか。
A :夢を見ていた


No.45
Q : 苦手なことは。
A : 水泳とか習字とか


No.46
Q : 得意なことは。
A :咄嗟に架空のコトを言うこと


No.47
Q : あ、目の前に宇宙人が・・・
A : かなり遠くまで逃げて、そこから様子を窺う。大丈夫そうなら「宇宙人がいる〜」と笑う。


No.48
Q : お化けを見たことがありますか。
A : ない


No.49
Q : 携帯電話はメール派?電話派?
A : 出来れば使いたくない派


No.50
Q : ペットはいますか。
A : いません


No.51
Q : アクセサリーは好きですか。
A : 嫌いです


No.52
Q : 小学生のとき好きだった教科は。
A : 社会


No.53
Q : 今まで経験したことのないことで、やってみたいことは。
A : 内田裕也が「シェキナベイベー」と言うのを、生で見ること


No.54
Q : 好きな動物は。
A : ネコ


No.55
Q : 2000円札についてどう思いますか。
A : 必要悪


No.56
Q : 人以外に変身するなら何になりたい?
A : ネコ


No.57
Q : 好きな言葉はなんですか。
A : どーでもいー


No.58
Q : 日本の政治家に一言
A : 伝統を守れ。共産党と社民党を早く解体しろ


No.59
Q : メル友はいますか。
A : 「メル友」の定義が曖昧だから解りません


No.60
Q : ネットオークションに参加していますか。
A : 時々


No.61
Q : ストレス解消法は
A : 寝ること


No.62
Q : 「じゃんけんポン!!」多いもん勝ちでこれを出すと必ず勝つというものがありますか。
A : ない


No.63
Q : 「最近この人1番がんばっているな。」と思う人は。
A : プーチン大統領(笑)


No.64
Q : 最近できるようになったことは。
A : 残念ながら特に無し


No.65
Q : 最近はまっていることは。
A : プリングルズの全種類制覇


No.66
Q : 長所は。
A : 記憶力が比較的良い所


No.67
Q : ハイ、ポーズ!
A : ・・・


No.68
Q : 幸せですか。
A : そんなに・・・


No.69
Q : 占いについてどう思いますか。
A : 信じたければ信じれば良い


No.70
Q : ではやくざは。
A : こわい


No.71
Q : もういっちょ!政治家は。
A : 共産党と社民党の政治家は絶対に消えろ。あと公明党議員も。


No.72
Q : 好きな色は。
A : 濃い目の黄土色


No.73
Q : 好きな花は。
A : レンゲ


No.74
Q : さあ、今から何か叫んでください。
A : ・・・ゴメンナサイ。そういうテンションじゃ無いんで・・・


No.75
Q : もし1週間しか生きられないとすると、何がしたいですか。
A : 1週間だけって・・・「あと1週間しか無い・・・」と脅迫観念的な状況に支配されながら無理して何かをするよりも、いっそ死んでしまおう


No.76
Q : もし1週間しか生きられないとするとまず何を食べたいですか。
A : あり得ないほどカロリーの高いB級グルメモノを


No.77
Q : 夏といえば。
A : ウザい


No.78
Q : では冬といえば。
A : 良いねぇ


No.79
Q : 中学生・高校生のときの変な校則は。
A : 中学:自転車に乗る時にヘルメット着用 高校:特に無し


No.80
Q : 恋していましたか。
A : していなかったなぁ


No.81
Q : 東京ディズニーランドは好きですか。
A : キライ


No.82
Q : 遊園地の好きな乗り物は。
A : ナシ


No.83
Q : お勧めのホームページは。
A : 教えません


No.84
Q : 携帯電話に知らない番号からかかってきました。でますか。
A : とりあえず出てみる


No.85
Q : メールは1日に何回しますか。
A : 2回未満


No.86
Q : 電車ではお年寄りに席を譲りますか。
A : さりげなく席を空ける


No.87
Q : 今日のお天気は。
A : 曇り


No.88
Q : B型についてどう思いますか。
A : 何のB型ですか? 血液型ですか、それとも肝炎ですか。


No.89
Q : A型は。
A : 血液型なら、日本人で一番多い種類ですね。


No.90
Q : O型は。
A : 血液型なら、世界で一番多い種類ですね。


No.91
Q : 夏休みの宿題は早く終わらせる方でしたか。
A : 7月以内には終わらせていたなぁ


No.92
Q : 学校の先生は好きでしたか。
A : ちょっとだけ


No.93
Q : 団体行動は好きですか。
A : かなり嫌いです


No.94
Q : ルールや規則は守りますか。
A : 基本的には


No.95
Q : 嫌いな職業ベスト3は
A : 1位 共産党員、2位 社民党員、3位 人権派弁護士


No.96
Q : 待ち合わせの時間に間に合っていますか。
A : 間に合います


No.97
Q :警察署の前で1000円札を見つけました。どうしましょう。
A : とりあえず拾いましょう。その後は・・・状況によりけり、ですね


No.98
Q : コンビニでよく買うものは。
A : 飲料


No.99
Q : ここまで読んでくれた、サイトのお客様に一言お願いします。
A : 暇は人生に付き物ですよね。


No.100
Q : お疲れ様です。最後に一言お願いします。
A : 意味のある質問ばかりで、大変結構でした。

2007年07月21日

2007年07月21日 「共通語」と「方言」

「共通語」というモノは人工的に作られたものである、という説はそれなりに有力なようである。
日本でいう「共通語」は東京地方の言葉だが、東京に中心を置き、そこから国家を統制していこうとするためには、まずは言葉を一定のモノにしなければいけない。同じ日本語でも地域によって言葉がバラバラだと、国家が大切なことを伝達できなくなるかもしれぬ。そういう危惧から、東京の言葉=「共通語」として全国に普及するようになった、という。
あながち間違いではなかろう。


ところで東京近辺にいる者は「方言」を話さない、という認識は間違いじゃないかしらん。前述の「共通語」化された東京地方の言葉、しかしながら「共通語」化される前は主に東京地方だけで流通していたモノなんだから、それは「方言」だろう。今日的な意味での「方言」は、東京を中心に見て、それ意外の地域の言葉を指しているようだが、字面の上では「(地)方(の)言(葉)」、「(地)方(の)言(語)」という風にも見えるワケだから、東京地方独特の言葉を「方言」であると捉えることも可能だろう。


例えば、関西弁でいう「何やねん」の「やねん」の部分が東京地方だと「何だよ」の「だよ」に相当し、四国地方で使われる「何しよん?」という「しよん?」が東京地方だと「何してるの?」の「してるの」に当たり、それは関西弁だと「何してんねん」の「してんねん」に当たる。「だよ」も「してる」も東京地方の「方言」ではないか。それが「共通語」になり、全国に普及している今日では、「だよ」も「してる」も普通の日本語のように思われているが、元々は「方言」であったのではないかしらん。いや、その辺の変遷具合については、専門家ではないから知らんけれども。


とりあえず字面の上でいう「方言」というものは、全国各地にあるものであり、東京地方だけはそんなモノが無い、というのはおかしいじゃないかと思った、というだけの話。
今回書いたコトも、大したコト「ないんだよ」(←コノ部分も「方言」?)

2007年07月20日

2007年07月20日 何を書いているのか解らない

ヒトには抽象的観念に無上の安心感を抱き、その中に安住してしまおうとする、現実逃避的な願望があるのかもしれぬ、と思う時がある。
例えば「愛」という言葉。日常にコレほど溢れ返っているにも関わらず、依然としてその実態が明瞭でないものも珍しい。未だかつて万人に受け入れられる「愛」についての普遍的定義を唱えた哲学者が、社会学者が、歴史学者が、心理学者が、いたであろうか。結局、誰も分からないのである。分かったような気がしているだけで、誰一人として「愛」というものを明確に発表できないのである。あるヒトはSEXをもって「愛」の発露だという、あるヒトは人間同士の結びつきを見て、そこに生じる信頼関係・相互扶助の間柄に「愛」が存在しているという・・・
しかし、SEXの中にあるとされる「愛」を、人間同士の結びつきの中に生じるとされる「愛」を、他の言葉に変換して表明することはほぼ不可能な仕業であるといえるのではなかろうか。


斯様な実態不明瞭の抽象的存在によってヒトは支えられているとするならば、ヒトそのものもまた抽象的存在であるということになる。
ヒトの内から外に向かって発生するエネルギーが文明創造の礎となり、それは日々「進歩」しているとされるが(実際には文明は何も「進歩」しておらず、ただ科学技術が向上しているだけであるが)、その内面の一角を占める観念を説き明かすことができていない以上、それが創出するものもまた、不完全で不明瞭な実態を伴わずにはいられないのではないか。その事実を覆い隠し、誤摩化し、そこに絶対的価値を見出し、ヒトの歴史は常に「進歩」と隣り合わせだとする認識の愚昧さ!


言語による共通の認識を構築することが困難だと思われる「愛」という観念、にも関わらず何故日常にこの言葉が散乱しているのか。それは何らかの方法でこの不可解な言葉の持つ内情が共有されているからであろう。具象化されることのない「愛」というものに、人類共通の価値を見出し得るとして、その方法とは如何なるものであるのか。究極的には「感覚」によるものなのか。
それならば、その「感覚」はどの程度統一されているのか。そもそも、人類に完全なカタチでの統一は存在し得ないのではないか。妥協が伴ったカタチでの共通、妥協による統一がどこかでなされていると考えることは、誤りか。


「愛」を伝える「感覚」、そこにもしも妥協というものが入りこんでいるのならば、現在我々が受け止める「愛」も、妥協されたものと考えることは、これまでの思考過程から自ずと導き出されてくることに他ならない。
「愛」に限らず、普段我々が受領する「感覚」はどこかで妥協を伴う。妥協せねば共有できないトコロに人間の認識能力の限界がある。だが、しかし、個人が本来的に備え持つ「感覚」ー妥協が生ずる以前の「感覚」ーを究極至上のものとして認めて良いものか否か。


そうなると、現世に「本物の」「純粋の」などというものはあり得なくなるのではないか。我々は「本物の」「愛」を、「純粋の」「愛」を、理解できていないことに気付くことなく、錯覚したままで、妥協された「愛」を「本物の」ものと看做して、「感覚」的に共有しているつもり、なのではないか。
自らの中に「愛」という抽象的感情が伴うとして、それを一切の錯誤無く他者に伝えることは不可能なのではないか、自らの、または他者の妥協によってしか共有できない感情なのではないか。妥協に次ぐ妥協で続いてきた記録!?

2007年07月17日

2007年07月17日 夏本番前の声

今年の夏はスロースターターのようだ。まだ本格的に暑くはならない。
暑くならないのを良い事に、前言撤回させてもらう。しばらくタバコに関する個人的苦言は書かないと言ったが、夏本番を迎える前に、もう一度だけ書かせてもらう。そして、これは偽らざる私の本音であり、あるいはこういうコトを記すと人間性を疑われる可能性を多分に含むが、それもまぁ、良しとする。ありのままを出す。これさえ言ってしまえば、もう私の言う事は無くなるんじゃないか、と思うくらい、私の心境を全て吐き出す。


最近の若いヒトは喫煙率が下がってきている、と言われるが果たして本当か。今の言葉で言えば「マジ」か?
高校生でも吸いまくっているぞ。男女関わらずに。ロクでもないヤツばかりだ。(←自己を忘却した発言!?)


一昔前のヒトたち、つまり私の父親くらいの年齢のヒトたち(団塊の世代前後のヒトたち)の話を聞いていると、「お前も大人になったんだから」と、タバコを吸うように勧められることが多かったようだ。“男の嗜み”としてタバコを吸うのは、ひとつのステータスであり、車の免許を取るのと同じような感覚でタバコを覚えたということである。確かにその年代のヒトで喫煙者は多い(その世代の喫煙者は主に男だが)。時代と環境によるものか。


しかし時は流れ、世界的にタバコがタブーとなりつつある現在、本当に若い世代で喫煙率が下がってきているか。【重要ポイント:以下、昨今の時流である“タバコはタブー”という認識に盲目的かつ過激に依拠して話を進める】


もはや“男の嗜み”でも無くなり、タバコを吸う事が一人前の証でも無くなった現在においても、かなりの喫煙者がいるように思えてならない。
彼らを見ていると、タバコを吸う=カッコ良い、というまるで共産主義を信奉するのと同レベルの浅はか過ぎる認識で喫煙者になった者が多いような気がする。それこそ不良中学生がカッコをつけて吸うというレベル、非常な低レベル。阿呆である。馬鹿である。勘違いである。勘違いに気付いていないから、尚更勘違いの馬鹿である。
好きで吸うなら良い。何も違法行為じゃないんだから、好きにすれば良い。しかし、喫煙行為そのものをいかにもクールな人間の代名詞であるというような、時代遅れの感覚で喫煙しているヤツは、消えてしまえば良い。そんなものは精神錯乱者と変わりはしない。気狂いである。気狂いであることに気付いていないから、尚更気狂いの馬鹿である。吉本隆明は転向について「日本の近代社会の構造を、総体のビジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思考変換をさしている(『マチウ書試論・転向論』)」という有名な定義付けをなしたが、それをモトにして勘違い喫煙者についていえば、「己の感覚が時代と乖離したものであるということを捉えそこなったために、自我の中だけに没入し完結する、偏狭的思考をさしている」という具合になる。
1970年代半ば以降に生まれた者で、未だにタバコを吸う=カッコ良いなどと捉えているヤツは、副流煙以上に有毒な存在である。隔離した方が良いかもしれん。社会的に区別されて当然である(区別であり、差別ではないことに注意して欲しい)。というか、社会的に区別すべきである。区別しなければならぬ。有毒汚染存在!近寄ルベカラズ!


・・・もう良い。久々に腹の底から声を出した。これで本当にタバコに関するコトはお休み。
ハイ、失礼致しました。夏よ、ウェルカム。

2007年07月16日

2007年07月16日 おバカさん

プリングルスのチーズ&チーズ味が超絶にウマい。でもカロリーが高いから食べ過ぎには要注意だぜ。


今日から「愛の劇場 大好き!五つ子Go!!3」が始まった。もはや夏の風物詩である。シリーズ9作目になるのか。私は2作目か3作目から見ている。ハッキリとは覚えていないが、高校生の夏休みに見たのが始まり。もう6年か7年見ていることになるのかぁ。
安っぽい家族愛が良いじゃないか。子沢山なのに貧しさを感じさせない爽やかさ。
子供たちはもう高三だ。今回が最終シリーズかな、とも思う。それで良いんだ。これ以上やるとキリがなくなる。お昼の息抜き程度に見られるトコロが良いんだよ。


名案を思い付いた!
性犯罪を犯したヤツに対しては、永久に選挙権を剥奪しろ!
「“性犯罪者”のお前は、国の事に関して口を差し挟む余地が無い。どんな政策が決まっても、“性犯罪者”であるお前には何の権限も付与しない。国家はお前達のような人間を眼中に入れない」という国家からのメッセージがそこにはある。
なあーんだ、選挙権くらい と思ったヤツは、多分痛い目に遭う。選挙権を剥奪されるということは、国民として認められていないということ。日本にいなくても良いですよ、つーか外国に行って下さい、と宣言されているようなモノである。そうすると、性犯罪者は「ココではもう生きてらんない」となり、アナーキストになる。そうすればアナーキストの選挙権も・・・ という風になって国はメチャクチャになる。
結論。選挙権剥奪は自分で自分の首を絞める行為になる。
おバカさんの考えだね。

2007年07月15日

2007年07月15日 吉田満と戦後社会

「ガンバレ、ガンバレ」甲板ヨリ、耳ヲ突キ刺ス兵ノ声
彼ラ、ワガ苦闘ノ一切ヲ目撃シイタルナリ 真情ニ貫カレタルコノ激励
「生キロ、生キロ、ココマデ来テ死シテ相済ムカ、死ンデ許サレルカ」身ウチニ叫ブ声ス
初メテ、真ニ初メテ、生ヲ求ムル意地、カット開ク
生キタキ希求ニ非ズ、生キズンバヤマザル責務ナリ
肉体消エントシテ魂魄ヨウヤクニ燃エ、スベテヲ奪ワレテタダ真ニ己レナルモノ残ル
血、油ニマミレ、縄ニカラマレシワレニアルハ、カノ消エザル火ノミ
コレゾワガ死スベキ窮極ノ時、死ヲ許サレン至福ノ時
故ニコソマタ果敢ニ生クベキ時


戦艦大和ノ最期吉田満の不朽の名著『戦艦大和ノ最期』の一節である。(講談社文庫版の一四五〜一四六頁)
「天一号作戦」により沖縄に向けて特攻出撃した大和は、昭和20年4月7日14時20分過ぎに連合軍の攻撃を受け、鹿児島県坊ノ岬沖90海里の地点に沈没した。
上に引いた一節は、大和撃沈後、海面に漂流していた吉田がまさに救出されんとしている場面を描いたものである。
特攻出撃という事態の真っ直中に身を置き、そして連合軍の熾烈な空爆との戦闘に死力を尽くし、最早死だけを想定していた心境が、突如としてここで変転する。死ぬ為に生きる、この瞬間に己の生命の全てを賭ける、戦闘中にー命のやり取りをしている瞬間にー戦争の善悪などを問う余地はなく、ただ美しく死ぬために闘い、己の生の価値というものをそこに植え付けようと必死でもがいていた吉田の中に、死への意志を放棄し、限りない生への希求をもたらした瞬間。ー確かにそれは「瞬間」であったが、この時の吉田は明確に「戦死する」という自らにとって宿命的ともいえる願望を振り切っている。


初版のあとがきで、吉田は次のようにいう。

この作品の中に、敵愾心とか、軍人魂とか、日本人の矜持とかを強調する表現が、少なからず含まれていることは確かである。だが、前にも書いたように、この作品に私は、戦いの中の自分の姿をそのままに描こうとした。ともかくも第一線の兵科士官であった私が、この程度の血気に燃えていたからといって、別に不思議はない。我々にとって、戦陣の生活、出撃の体験は、この世の限りのものだったのである。若者が、最後の人生に、何とか生甲斐を見出そうと苦しみ、そこに何ものかを肯定しようとあがくことこそ、むしろ自然ではなかろうか。(同上書一六七頁)


吉田は大和の乗組員として、間違いなく戦争の中に「何とか生甲斐を見出そうと苦しみ、そこに何ものかを肯定しようとあが」いていた。
戦闘が終わり、大和は轟沈し、暗黒のような海中に投げ出された吉田に助けの手が差し伸べられたとき、「コレゾワガ死スベキ窮極ノ時、死ヲ許サレン至福ノ時/故ニコソマタ果敢ニ生クベキ時」との感を吉田に抱かしめる“転機”となったものは何であったか。


決して意識が戦場から離脱したり、無類の安心感を得たというわけではなかろう。一度は死を必定のものと受諾し、それならばそこに向かって精根尽き果てるまでエネルギーを注入せんと試みた者だけが手にすることのできる死に対するある種の希望と、死にゆく己に対する信頼感というものがあるはずだ。しかしながら、そうした思いは、生きとし生けるものの深奥に根ざす本能的な防御意識とどこかで交わることがあるのを忘れてはなるまい。すなわち、一度は死を決意し、承認するがゆえに湧き出てくる生への憧憬がそれである。死への意志に身を包みながらも、その綻びの隙間からこぼれ落ちてくる生への渇望。吉田ならずとも、死と否応無く対峙せねばならぬ状況下に佇むことになった者ならば、誰しもが避けては通れぬ葛藤がある。それが顕在化した瞬間が、他ならぬ上記の場面である。


一度は死への意志を放棄したかのように見える吉田であるが、彼の胸のうちもまた二転三転する。その葛藤する様を拾ってみよう。

特攻作戦終結ヲ耳ニシテ、生死ノ関頭ヲ踏ミ越エタル歓喜ナシ
死ハナオ間近ニアリ、生コソムシロ苦痛ナリ 克己ナリ(同上書一四九〜一五〇頁)


艦スデニ九州西岸ヲ走ル 陽光沁ミワタル眸ニ、内地ノ山ノ、麗ラカナル美シサ
思ワズ嘆声アガル「生キルノモ、ヤッパリイイナア」
(中略)
生還ハ我ラガ発意ニ非ズ、僥倖ノ結果ナリトミズカラヲ慰ムルモ、ナオ後メタサ消エズ我ラ救ワレタルハ、正シキカ(同上書一五八頁)


吉田は、自らの葛藤を臆するところ無く吐露した『戦艦大和ノ最期』を著したことにより、次のような問題と向き合わねばならなかった。

戦争の中の赤裸々な自分を、戦後の立場に立つ批判をまじえることなく、そのまま発表するという姿勢からは、戦後時代をいかに生きるべきかについてわれわれに訴えるものがないという指弾は、初版が公にされて以来絶えずおこなわれてきた。(同上書一七六頁)

「戦争の中の赤裸々な自分を、戦後の立場に立つ批判をまじえることなく、そのまま発表する」といういわば一度全てを受け入れた所からの発言、それは吉田が戦闘経験によって手に入れた唯一の戦争と向き合う手段であったのである。観念的な反戦活動や実態を知らない平和主義者の叫び声を軽薄なものと見なし、己の肉体と魂に刻み込まれた「記憶」によってのみ、戦後の自分を確立する。死とは何であるか、生とは戦争とは平和とは何であるか… すべてを実体験によって学んだ吉田の中には、揺るぎない視点が確立されているように思われる。それは、以下のような発言の中にも顔を覗かせている。
われわれは戦争のために死ぬことによって、ようやく後世への発言を認められる世代であった。(中略)戦中派世代の生き残りは、生き残ったことで存在を認められるのではない。(『戦中派の死生観』)

吉田は戦闘によって、肉体的な死を迎えることはなかった。だが、彼は命を賭けた戦争経験を通じて、死の寸前に迫ることで、死ぬことの意味も生きることの意味も悟ったのではなかろうか。つまり、戦争による死と生が表裏一体であるということの実感ー「いかに死ぬか」は「いかに生きるか」と同義であるということの発見ーは、吉田にとって意識的な上で死の経験に等しいものであったといい得る。戦争を経験することによってしか生まれ出てこなかったであろうそのような新たな思想(戦争に全身全霊をかけた己を肯定し、全てを受け入れた所からの働きかけ・戦争の真っ直中で、生きようとすることにも、死を欲することにも、意味を見出した得た経験からの働きかけ)を獲得した吉田は、自らの体験を普遍化し、その中に自己を確立させることのみが、戦後社会に対する有効な身の施し方であると確信するに至ったのだ。そしてまた、これこそが戦争を通じて「何とか生甲斐を見出そうと苦しみ、そこに何ものかを肯定しようとあが」いていた彼の手にした至上ともいうべきものであった。
吉田の以下の言に注目してみよう。
戦後派にとっては、戦争対平和は、ただ戦争は憎悪すべきもの、平和は歓迎すべきものとの当然かつ単純な対比関係として片づけられ、その仮りの保証の上に、彼ら自身の生涯の逸楽が追い求められているのであろう。戦中派にとっては、戦争対平和は、まず何よりも痛みを持った、自分の生の意味を賭けた問題である。戦後の平和が、例えば気持ちのいい議論や景気のいい宣伝とは全く無縁の、泥まみれな、血みどろの世界であることを身をもって知らされているのである。(『平和への巡礼』)


吉田本人もあとがきで述べているように、『戦艦大和ノ最期』は戦争文学である以上に、吉田満というひとりの人間が、戦後社会の中に己の意識を植え付けようとした最初の一歩に他ならない。
戦後、我々は意識の上での戦争問題とばかり対決してきた。その半狂乱のような状況の中で、吉田がやらんとしたことの重要性を改めて問い直してみる必要もあるのではないか。観念的な戦争問題ではなく、実態としての戦争を通過してきた者の声から意識を再構築するという作業が、もう一度顧みられても良いはずである。ただし、それは大変な勇気を伴う所行でもある。今後、我々はその勇気をどれほど持ち得るか。持ち堪えられ得るか。

2007年07月14日

2007年07月14日 オリジナルTシャツ

オリジナルTシャツを作りたいと思っている今日この頃。
世界で一つだけの漢字Tシャツ(文字Tシャツ)が欲しい。
そこで問題となるのが、どういう文字を入れるかである。他人が見て「コイツアホだな」と思うようなTシャツが良いじゃないですか。幾つかTシャツに入れる文字の候補を考えてみた。


1.「荻生徂徠」
2.「一概には言えない。」
3.「大阪県知事」
4.「東京府知事」
5.「イヌイット」
6.「まさかの一軍昇格」
7.「夏目葬式」
8.「見るな」
9.「善意の蹂躙」
10.「前方包茎墳」
11.「俺の口臭に注意」
12.「日本浪漫派のやうな物」
13.「Do You Remember 三木道三?」
14.「瀬戸内寂聴」
15.「放送大学」


オリジナルTシャツを作るなら、以上の候補の中からどれかを選ぶ。
今のトコロ選ぶとすれば、1か3か13か14か15の中からどれか。
思い切って5つ作ってやろうかしらん、と思うけど、費用が1万円くらいかかるので、やはり作るならどれか一つだ。う〜ん・・・「瀬戸内寂聴」にしようかなぁ。
・・って、本気で作る予定は無いんだけどね。

2007年07月12日

2007年07月12日 未知の存在

コンビニで大量の買い物をしているヒトを見た時に感じる気分は何だろう。上手く言葉にできないが、ちょっと残念な気分になる。う〜ん・・・
ヴィトゲンシュタインが「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」と言ったが、まさに沈黙しなければいけないのだろう。適当な言葉が見つかるまでは。


そもそも、言葉に出来ない、というのはまだハッキリと認識できていないということだろう。
本当に認識できているものについては、すぐに言葉が出てくるはずである。空腹を実感すれば「お腹がすいた」と言える。殴られているヒトを見れば「痛いだろうな」と思うコトがある。いずれもその感覚を理解できているから、言葉が出てくる。しかし、コンビニで大量の買い物をしているヒトを見た時の妙な気分を上手く表現できないのは、すなわちその気分をハッキリと認識できていないからに他ならない。「何となく分かっているんだけど、上手く言葉に出来ないんだよなぁ」というのは、本当はまだハッキリと認識できていないということである。それは感覚として分かっているだけで、頭ではまだ理解できていないということ。頭で理解できてこそ(言葉で説明ができてこそ)、一つの完全なカタチの認識が成立する。


元来人間というのは言葉を使わずに物事を考えることができない。
頭の中から言葉を消して、生きていく事はできない。
言葉を忘れろ、言葉を使うなと思っても、「言葉を忘れろ、言葉を使うな」という言葉を使っている時点でアウト。
言葉がなければ文明も生じない。


誰か忘れたけれどもー多分どこぞの哲学者だったと思うー、言葉とは妥協の産物である、というようなことを言った人物がいた。
私たちが今、物事を認識するのは言葉を介してのみである。リンゴを見れば瞬時に「リンゴ」という言葉が出てくる。「リンゴ」という言葉が出てきた時点で、認識が成立する。仮に現在「リンゴ」と呼ばれているモノに対応する言葉が無ければ、私たちはそれを「赤くて丸くて手のひらに乗るくらいの大きさで木になっているモノだよ、ホラ 分かるだろう?」と言わなければいけない。そんなコトをやっていては、情報交換や意志の共有などできたものじゃない。だから、手っ取り早く情報交換や意志の共有をするために、ヒトは言葉を生み出したのだ、とか。
「赤くて丸くて手のひらに乗るくらいの大きさで木になっているモノ」などというのでは、認識活動において限界があるから、それは放棄せねばならない。そこで共通のモノを指示する言葉を作り出した。それが「リンゴ」というモノに他ならない。
結局、言葉は妥協の結果なのである。面倒なことはやってられないと投げ出して、便利な方へと向かったのが、人間の認識能力を高める事になった、というおハナシ。


誰でも物を見て、それを認識する時には言葉が出てくる。言葉が出て来ない物は、自分が知らない物であり、もしくはまだ世間に知られていない物であるかもしれない。
私からすれば、コンビニで大量の買い物をしているヒトに対する適切な言葉が出てこないのは、そのヒトが私にとって未知の存在であるということだ。ワケの分からない存在なのだ。スーパーで買った方がお得だろうよ!

2007年07月10日

2007年07月10日 暇つぶし

オトコなんてバカよ、とオンナは言う。
オンナなんて単純さ、とオトコは言う。
そういうモノである。
もし、オトコなんてバカよ、とオトコが言えば、ソイツはホモだと思って良い。逆に、オンナなんて単純よ、とオンナが言えば、ソイツはレズだと思って良い。
そこで私は敢えてこう言う。オトコなんて単純さ、オンナなんてバカよ。どっち付かずである。オトコでもオンナでもイけるということである。


さて、ロンリーなミーのナイトはセンチメンタルなフィーリングで、シェド・ティアーズ(shed tears)なベッドイン。
・・・と、なんとなくルーブログのマネ。こんなに愉快なブログは無い。


ハッキリ言う。
今日は何も書く事がない。暇つぶし。暇つぶし。
朝青龍は大丈夫だろうか。今場所も白鵬がいっちゃいそうな予感がもう既にしているのは気のせいで済む事では無いだろうと思わずにはいられないのだけど。


趣味でどじょうすくいを始めました。

2007年07月09日

2007年07月09日 小さな世界は大きな世界?

わにとかげぎす4巻「わにとかげぎす」4巻について。
以下にはネタバレが大いに含まれております。未読のヒトは見ない方が宜しいと思います。


え〜、私は途中でヤンマガの連載の方を読むのを止めたから知らなかったんだけど、終わってたんだねコレ。打ち切りか!? それっぽい終わり方だよなぁ。


一応完結ということで、物語の終わりを見ての感想を次の一言で表すのが適当かどうかは分からないがー多分不適当だと思うー、敢えて一言で。


なんじゃこりゃ。


何この終わり方。何このラスト。・・・捉え辛いよ…
富岡は果たして本当に孤独では無くなったのか?
この物語の主人公は他ならぬ富岡であるから、ココではあくまでも富岡目線で考えてみたい。羽田さん目線で見ると、あるいは全く逆のモノが見えてくるのかもしれないが、ここではそこまで踏み込むことはしないでおく。富岡という一人の男について、ちょっとだけマジメに考えてみたくなった。


最終話で富岡が「オレはもう 孤独じゃない」といい、その後に富岡らしき人物が血を流して倒れている描写があるけれど、おそらくこれは富岡が過去の自分との訣別を悟ったということを描いたものだろう。今までの孤独だった自分は死んだ、これからは「孤独じゃない」人間として生きてゆける、という意味を含んだ“過去の富岡”の死。


でも、本当にそれで良いのか、と思わずにはいられないんだよなぁ。
再び富岡のセリフを持ち出してくるが、「自分が生きている様を見ていてくれてる…証人だ いるといないじゃ大違い」というその認識は、真っ当なものだと感ずる。しかし、彼にとっての証人は羽田さんという特定の人物に留まったままであり、その先が開かれていないのだ。確かに、従来は己の中だけで物事を完結させていた彼に、羽田さんという新たな視点が加わったことは大きな進化だといえよう。しかし、彼の世界は富岡⇔羽田という二者に限定されたものであり、他者との関係は依然として遮られているようにさえ思えてくる。結局モノ凄く閉塞された空間に存在し続けているような印象を拭いされないまま、物語は幕を閉じてしまったのである。


私はそこに妙な違和感を覚える。


富岡が目標としていた孤独からの脱出という点は、一応達成されたものとして見受けられるかもしれない。が、やはり彼は羽田さんという人物と親密になったことにより、幸か不幸か、そこに全てを吸収されているような感じを受けてしまうのである。彼のエネルギーはもう一点にしか向けられていない、本当に視野が拡がったという感じを受けない、羽田さん以外の他者は排除されているような視点の中にいる、そうした近視眼的な世界に収束してしまった感が否めないのだ。孤独からは脱出できたのかもしれないが、その代わりに別の問題が浮上してきていることに、おそらく本人は気付いていない。


・・・ああ、「恋は盲目」ってヤツですか。
拡がったようで、あまり拡がっていないようでもある世界。
これから拡げていくのはアナタの想像力です、ってことでしょうか?
それとも、人生なんて本当は狭い世界に収束していくもんなんだよ、という作者の或る見解の露呈でしょうか?
まだ私には分かりません。


ただ、もしかすると、小さな世界の中にしか本当に自分を満たしてくれるものなんて無いのかもしれませんね。


追伸:『シガテラ』の頃から強く思っていたのだけど、古谷さんに「伏線」というものは無いのか。毎回ソレらしいモノが出てきては、何事も無かったかのように過ぎ去ってしまう。伏線をぶった切るような展開ばっかりだ。(私は個人的にこうしたモノを「ぶった切り」と呼んでいるが)読者にアレコレ推測させては、「ぶった切り」してしまう実にイヤらしい作風が定着しつつあるのが、面白くもあり変でもある・・・

2007年07月08日

2007年07月08日 大相撲名古屋場所展望

毎度お馴染みのヤツ。
アテにならない展望。


久々に東西横綱が揃った場所。
白鵬が最も注目されることは必至だろうけど、だからこそ私が注目したいもう一方の横綱朝青龍。あのプライドの高い第68代横綱が、白鵬に三連覇を許すかねぇ。もし今場所も白鵬に取られたら、“青白時代”なんていってられなくなるよ。
もしかすると気分的には白鵬の方が楽かもしれない。そんなことを思ったりしながら、その他のこと。


琴光喜?千代大海?魁皇?琴欧洲?
どうでも良い気がする。上位陣では関脇の安馬としつこく前頭二枚目まで番付を戻してきた若の里、そして前頭筆頭の琴奨菊に注目。あとは栃煌山と帰り入幕の把瑠都、新入幕の豊響。
実は、今場所最も注目したいのが把瑠都なのです。力は比類なきものを持っているだけに、いかに安定した内容の相撲を取れるか、いかに自分に有利な体勢を作れるか、に注目して見ていきたいのです。


十両。
人身事故を起こして出場停止処分になり、十両陥落となった旭天鵬。再スタートの場所だね。
岩木山、栃乃花のベテランと、豪栄道、若ノ鵬の若手陣。―特に潜在能力が高そうな若ノ鵬。
新十両の境澤、保志光、北太樹。失礼ながら地味な感じもするけど、忘れずに見ておきたい。
まー、そんな感じ。大雑把過ぎるけど。


とりあえず初日。
両横綱がどんな相撲を取るかに大方の注目が集まるでしょう。
もしどちらかが負けたりすれば、見ている側にとっては面白い展開になると思うのですが・・・果たして如何。
夏本番を迎えて、高校野球の予選も全国で始まっております。暑いけど、誰よりも暑さを感じるだろう力士のヒトたち、ファンからの暑苦しいくらいの声援を受けて、活躍することを祈りつつ、一先ず擱筆とさせて頂きたく…。

2007年07月05日

2007年07月05日 小さくとも大きな一歩

何でも熱中してしまうといけないのだが、私のタバコ嫌いはある意味で熱中状態にあるのかもしれない。
喫煙者への個人的苦言が、高校生の頃からクセになっているようである。


指導員に警察OB、市啓発スタート 御堂筋、10月から“罰金”


大阪市は4日、路上喫煙防止条例に伴い、御堂筋と市役所周辺を喫煙禁止地区に指定、啓発活動を始めた。10月からは違反金1000円を徴収する厳しい条例で、当初はトラブルも想定されるため、市は指導員に警察OBを投入する。


罰金が1000円とは安過ぎる。せめて3000円にしろ。
路上喫煙などは禁止されて当然の暴挙である。どれだけ吸い殻が散乱しているコトやら。シンガポールみたいに、タバコをポイ捨てしても罰金を徴収するようにしろ。勿論ゴミのポイ捨ても同様に。


この条例で文句をいう喫煙者は糞阿呆である。いわゆる「先進国」といわれる国の中で、日本がどれほど喫煙者に対して親切な国であるかを知らないロクでなしである。今更路上喫煙禁止かよ、というくらいの遅さ。なんなら大阪市内のほぼ全域を喫煙禁止地区にしてしまえ。


歩きタバコほど悪質なものはない。以前にスーパーの中で喫煙(当然喫煙禁止)をしていた若いバカ女を見て、私は発狂しそうになったことがある。そこに一緒にいた友人が、「でもあのヒト綺麗じゃないか」と言ったのを聞いて、私は増々発狂しそうになった。
綺麗な女ならどこでも喫煙して良いのか、そうじゃないだろう。あの女には、以後このスーパーに立ち入り禁止処分を下さなければいけない、ついでに罰金も取ってしまえ、と私は言った。
その友人は私の怒り具合を見て、「お前はタバコを吸う女と絶対に結婚できないな」と、これまた意味不明のことを言った。何を言っている、結婚だと?馬鹿な。私が喫煙者と恋愛に関する限りでは、そこに真剣交際などというものはあり得ないじゃないか。交際あっての結婚だろうが。喫煙者と俺の間には、そもそも結婚の前提となる下地が生ずる余地が無い。私がそう言った時の、彼のあの引き具合。ドン引き一歩手前の状態だったなー。我を出してしまった私がいけなかったのか。


大変に不愉快な昔話、失礼致しました。
何がともあれ、大阪市の小さくとも大きな一歩に拍手を送りたいと思います。これからこうした動きがより拡大されていくことを願うばかりです。


※このブログにタバコに関することをどれくらい書いたかなぁ。トータルで5回以上は書いたなー、多分。ココらで暫くこの件については小休止したいと思います。熱中は良く無い。再開があるとすれば、夏が終わって涼しくなってからでしょう。

2007年07月04日

2007年07月04日 イギリスからのメッセージ待ち

シャラポワが好きだ。シャラポアに結婚を申し込まれたら、後先考えずに承諾する。


私が傘を持って外出すると雨が降らない、というジンクスがある。
今日は天気予報で、12時くらいから「強雨」となっていたので、傘を持って出掛けた。
学校は午前中だけだったので、帰る頃には降ってるかなー、でもオレが傘を持ってるしなー、などと思っていたら、12時頃は小雨だった。傘なんて無くても良い状態だった。さすが私である。雨を阻止することができるのである。そして夕方、余裕綽々で傘を持たずにバイトに出掛けたら、帰る直前に大雨になった。夕立のような雨。チクショー!
しかし、折り畳み傘を常に携帯している私。どうにかソレで凌げたものの、やはり小さいから少し濡れた。
折り畳み傘をどれだけ持ち歩いていても、雨は阻止出来ないのである。ちゃんとした傘を持って出ないといけないようである。
しかし、今夏は水不足が懸念されるといわれているのに、私が傘を持ち歩いて雨を降らさないのは、随分良く無い行為だと思う(自惚れ)。


今日ほどどーでもいーことを書いた日は無いのではないか。
書く事に意味がある?書けば何かが変わる?
でも、シャラポワは今ウインブルドンにいるんだぜ。イギリスから私に求婚してくるとは思えないんだけども…(ウザい、馬鹿、死ぬべき発言)

2007年07月03日

2007年07月03日 チョコレートうどん

「はぐれ刑事純情派」といえば、藤田まこと演じる安浦刑事を中心に描かれていた刑事ドラマであるが、私は特に思い入れがあるワケではない。しかし、このドラマについて今でも一つだけ後悔しているコトがある。
それは2002年の8月に放送された「嫁VS姑、大バトル!チョコレートうどんを食べる女」という回を見逃してしまったことである。
(参考リンク:はぐれ刑事純情派 PART15 第21話
私はこの回の予告CMを見て、その内容とタイトルに衝撃(笑撃)を受けたのであるが、とうとう見逃してしまった。今でもつくづく残念に思う。


チョコレートうどんを食べるという、ある種の罰ゲームのような役をやらされていたのは山田まりや。可哀相に。
そもそもコレはどう考えても刑事ドラマのタイトルではない。私は安浦刑事が心理カウンセラーにでもなって、奇妙な食事をする女のケアにでも当たるのだろうかと思った。
脚本家は何を考えて、こんな無茶な内容にしたのだろうか。山田まりやに恨みでもあったのかもしれん。


ちなみに「チョコレートうどん」で検索したら、一番最初に「手塚治虫は松本零士にチョコレートうどんを食べさせたことがある」という「トリビアの泉」で紹介された(という)モノの紹介が出てきた。手塚治虫が元ネタか!?


今度、機会を見つけてチョコレートうどんを作ってみようかしらん。意外と美味しかったら、ちょっとショックかも。
不味くてこそ「チョコレートうどんを食べる女」という奇怪な内容が成立するってもんだ。
山田まりやが撮影の時に美味しく食べていたなんてイヤじゃないか。藤田まことも「そんなに美味いんか?俺にも一口」なんて言って、チョコレートうどんを楽しんでいたら・・・・もう衝撃が台無しだ。チョコレートうどんが不味くありますように。星にお願い。

2007年07月02日

2007年07月02日 non title

モノ凄く機嫌の悪い時に見るAVほど馬鹿らしく見えるモノはない。
コッチはハラワタが煮えくり返りそうな程ムシャクシャしてるのに、何が「あああぁ〜イクぅー」だ。もうお前の頭がイっちゃっている事に気付けよブスが。
これほど発信する側と受信する側に意識の乖離が生ずる事はない。共産党のアホ共がやれ「護憲」だのやれ「消費税撤廃」だのというのを聞くよりも、よっぽど冷めた態度で傍観出来る。田嶋陽子も福島瑞穂も機嫌の悪い時に見るAV女優に比べたら、随分マトモな健常者に見えてくるから、これはもう世界の七不思議に加えても良い。
しかも、中途半端にカメラを意識しているようなのには殺意を覚える。コッチ見るな!なんだその顔は。ギャグのつもりか。お前もう30超えてんじゃねーか。いい加減に落ち着けよ。羞恥心というモノを持て。腹の肉が弛んでるんだよ。貴様は序二段の若手力士か。
お前等など又吉イエス氏から言わせれば一介の“パンパン”に過ぎないロクでなしだよ。しかも男の方もチューチュー音を立て過ぎだ。汚いコトこの上ない。スープは音を立てて吸うなと教えられただろう!ラーメン屋感覚で吸い上げてんじゃねーぞ。


なんだそのテンションの高さは。「ああぁぁー、キモチイイぃ〜」って、お前しか気持ち良くねぇんだよ。もうその勢いで今度の参院選に出ちゃえよ。街頭演説で「私は国民のために ああぁー 税金の無駄遣いを ああぁ〜ダメェーんんんふぅー 年金問題 ああぁイクぅー」とでもほざいてろ。
そして選挙戦の模様を「性奴快楽 マゾフィストー美しいクンニー」(「制度改革 マニフェストー美しい国ー」)という作品にでもして発売しろ。コッチはまた機嫌の悪い時に見てやる。


それにしても誰がムシャクシャした時にAVなんて見るのだろうか。

2007年07月01日

2007年07月01日 誤報を恨む

午前中、優雅な一時。紅茶を飲みながら読書に勤しむ。私の日曜日。It's my sunday
突然、けたたましいサイレン音。


ああ、もう うるさーーーい!!!


何事かと思い、外を見てみると、表の道にパトカーと消防車が来ている。
おやおや火事かしらん、と思い、読んでいた本を片手に様子を窺っていたものの、どこにも煙や炎を確認できず。なんだ?火事じゃないのか? あの消防車はレスキュー隊か何かか?と思っていたら、今度は救急車が到着。救急隊員がすかさず担架を運んでいく。野次馬も10人くらい集まってくる。アラアラ、何か事故でもあったのかしらん、と思うも、その後は何の動きも無し。はてな、いかがしたものだろうかしらと勘ぐっていると、
「え〜、住民の皆さん。○○警察署です」
パトカーのマイクから何やら放送が聞こえてくる。
「煙を探知しましたが××(よく聞き取れず)なので、消防車は退去します」と。
要は誤報か何かで出動しただけの模様。
消防車や救急車、パトカーが退去し始めた頃に、遅れて別の消防車がサイレンを鳴らしながら登場。残念!!お前は遅過ぎた。・・・そしてうるさい、と思っていたら、また別の消防車が。お前も遅過ぎる。そしてうるさい。一体何台来るんだよ。実に騒がしい。


隊員や警察の方々、日曜の朝から大変ですねぇ。
誤報というのはどうなんだろう。結構頻繁にあるとも思えるが、急いで駆けつけてきた隊員のヒトたちからすれば、ちょっとした脱力感に見舞われるかもしれん。何だよ、せっかく道を我が物顔で暴走してきたのに。いったいどうしてくれるんだ。これじゃあ、まるでスネ夫のオモチャを取り上げるジャイアンじゃないか!と思うかもしれん。こんな為に俺たちは押し分け掻き分けやってきたんじゃないんだ!と。
ああ、良かった。何事も無くて。平和が第一だ。という気持ちを持つ反面、やはり仕事をしたいという欲求。その辺りが、第三者の私からすれば微妙だ。
レスキュー隊員のヒトたちからすれば、住民が平和でいてくれることが何より大事だろうが、平和過ぎるとオレたちの仕事が無くなる、という不安。だからといって事件・事故を望むワケにはいかないという葛藤。


何も考えないのが一番なのかな。
変な心配はしなくとも、今の日本なら当たり前のように事件・事故が起きるから、オレたちの出番は幾らでもあるんだ、という、ある種の楽観、開き直りのような感覚で事態に備えていたりするのだろうか。


どうかは分からんが、とりあえず俺の優雅な日曜の朝を返せ。
それだけは言っておきたい。
隊員や警察の方々はご苦労様でした。街の平和を守り続けて頂いていることに感謝致します。
誤報は死ね。

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