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2008年12月31日

2008年12月31日 アンチ大晦日〜リターンズ〜

本日は大晦日。わたしが一年のうちで最も嫌う日です。
どうして大晦日を嫌うのかというと、ソレが消滅の日だからです。すなわち、当然のコトですが、一年は1月1日から始まります(カレンダーの上では)。そして、その対極にある本日12月31日大晦日こそは終わりの日、今年が消滅する日なのです。


今日が終わりで明日はまた始まり。今日が始まりで昨日が終わり。始まりと終わりが背中合わせになっています。


「日々の積み重ね」などといいますが、一年間の流れというのはまさにそのようなモノでしょう。1月1日から12月31日まで、1秒1分1時間1日1ヶ月と積み重ねてやっていくワケです。しかし、豈図らんや、12月31日の23時59分59秒をもって、その積み重ねが全てリセットされてしまい、我々はまた最初から山を築くことを余儀なくされます。何たる無情!
このように「大晦日」というのは実に悪いヤツでして、一年間の積み重ねを全て消去してしまい、強制的に「ハイッ、また明日。最初からね」という命令に従事させようとするなんとも卑劣な野郎だと言わずにはおけません。
せっかく10月11月12月と順調に月日を積み重ねてきて、月の数も二桁になったんです。それなのに、それなのに明日からまた1月1日。まるでゴールに到達するや否や振り出しに戻されるかのようなこの絶望感。


──残るものは記憶と記録。
それで十分だとは思いますが、一方でどこかにやるせなさをも感じてしまう。


わたしにとって12月31日大晦日というのは、徒労感を前に屈服せざるを得ない日だというワケです。ですから、1月1日元日なんてのも何も御目出度くはありません。「ま〜たやり直しかよ」という気持ちが心の片隅にありますので、骨を抜かれたかのようにただガックリとしているだけ。年賀状もしめ飾りも全部投げ捨てたいくらいだ。か弱い力で。何が「謹賀新年」「迎春」だ。白々しいったらアリャしないぜェ。
──この虚無感を理解して頂こうとは思いません。が、それでもわたしは敢えて言いたかった。「12月31日大晦日。ソレはわたしの一番嫌いな日」だと。
紅白歌合戦の日でも、格闘技の日でもありません。不可抗力によって強制的に振り出しに戻らされる前日、刑執行の前、“安堵できない最後の安楽日” …コレこそが大晦日の実体である。


さようなら2008年、平成二〇年。
また最初からのやり直し。明日から12ヶ月間一緒にお供しましょう2009年、平成二一年、宜しく。

この文章は2006年12月31日に記した「安堵できない最後の安楽日」を加筆・修正したモノです。──アレから二年、やはり大晦日は大っっっっっっっっっっっっっっっっ嫌いなのであった。(来年もこのブログが存続していたならば、性懲りも無く再度この文章をココに掲げるコトでしょう。)


しかし、わたしは次の一言を述べます。社交辞令として。


良いお年を!

2008年12月30日

2008年12月30日 大相撲'2009

来年のお相撲について、その展望を記したいと思うのです。ホントなら九州場所が終わった時に書くべきだったのですが、如何せん無精モノですのでご寛容のホドを宜しくお願い申し上げます。


さて、何から書きましょう。やはり朝青龍でしょうか。それとも本年巷を賑わせました不祥事を巡る一連の問題についてでしょうか。それとも日馬富士を初めとする若手力士への期待等についてでしょうか。どれも重大な問題ですので、順を追って書いていきましょう。

まずは朝青龍。彼の周囲に生じている問題については人口に膾炙していますので、改めて説明するまでもないコトと捉え、詳細な言及は省きます。初場所は出場してくるのでしょうか。仮に出場したとしても──昨年の初場所のような相撲が取れるのか、横綱としての使命は果たせるのか、品位は、自覚は、などと内舘の婆サンややくみつるの如き気狂いが発狂するのが目に見えているのですから、何ともまぁ苦しい事情です。彼には熱烈な支持者も多いが、熱烈なアンチも多い。ソレが強者の宿命なのかもしれませんが、果たして今の彼を「強者」と呼んで良いのか否か、という問題になりますと、はたと困惑してしまうのです。
しかしながら、そう考えてみると、現在の彼が置かれている状況というモノはスゴく分かりやすいと思います。すなわち、次の場所で勝てなかったらもう終わり。たったコレだけのコトなのです。品位、自覚などの問題を横綱が担う最優先事項とするのであれば、彼などはもうとっくに廃業せざるを得なくなっているはずですので。現在では良くも悪くもお相撲さんは土俵の上での結果がまずあって、その次に広義でのマナーが問われてくる。その点に欠点を見出すのは容易ですが、しかしソレを改善しようとするコトが如何に困難な業か。内舘の老婆やおそよみつる、イヤ違った、やくみつる氏の如き人物が朝青龍を巡って情緒不安定に陥るのも、その辺の問題に関して、相撲界の現実と自身の意識とを巧く咀嚼するコトができていないからなのだ。而して、朝青龍についても、まずは彼が次に残す結果へと注目せねばなりません。ソレはあくまでも彼自身の問題であって、(関係者は別としても)一相撲ファンの方々はただただ見守るより他に仕様のない事態なのです。以上が朝青龍について。


次は2008年度の相撲界に一大旋風を巻き起こした大麻→解雇・暴行→解雇というまさかの解雇ブームについて。およそ今年ほどお相撲の世界及び相撲協会に対して不信の目が寄せられた年もなかったのではありますまいか。前者に関しては、今のトコロ、ロシア人力士のみに限定された問題ですので、ソコを叩けば簡単に片付きそうなコトではあります、一見すると。つまり、外国人力士との間に生じた風習、文化、或いは法律に対する認識の食い違いであると。ロシアと日本との間にある大麻に対する意識の差異、ソレが諸悪の根源であったとして斥けてしまうのは何の雑作もないでしょう。(確かにわたしもタバコと同等の害悪しか無い大麻の如きモノに対して厳罰処分を下す日本の法律には著しい欠陥があると思いますが)ですが、果たしてその程度の問題で終わらせて良いコトなのかというと、どうもそうとは思われない。ここにはもう少し複雑な問題があるのです。
その点を考察するに当たって、もう少し見方を簡略化しておきたいと思います。すなわち、上に記した大麻問題と暴行問題は全く異なる次元のモノなのです。大麻問題というのは相撲の世界対外側の世界の問題、それに対して暴行問題というのはあくまでも相撲の世界のみの問題なのです。畢竟するに、「内」対「外」と「内」の問題。そしてその根本にあるのが相撲の世界という「内」のなかに存在するある種の曖昧さだと思うのです。
この「内」と「外」に対して境界線を引いて、その違いを厳密に定式化するコトは不可能です。大半の力士が「外」の世界で生まれ育って、ソコに馴染んだ身を引っさげて「内」の世界(=相撲の世界)という特殊な空間へと入って来ます。それ故、「内」は常に「外」の情勢、風習、或いは雰囲気や「空気」といった事柄と密接にリンクせざるを得なくなる。だとすれば、「内」の力のみによって「外」から持ち込まれてきたモノを断絶させるなどというのは「およそ不可能なBET(楽しみたいな I think I can)」ですので、柔軟さを欠いた対応をしてしまうと却って「内」の世界は抑圧機構として狂った機能を有してしまうコトすらあります。こういうおハナシをすると甚だ抽象的なようにも思われてしまうかもしれませんが、わたしは大麻の問題も暴行の問題も「内」と「外」との不均衡によって生じた事件、両者の間のズレに起因する事態ではないかと思うのです。ですので、こう言うコトもできましょう。要するに、「内」の構成物質が「外」からの刺激に対して堪え切れずに過って自己を肥大化させてしまい、行き場を喪失した瞬間に、過激に己を拡散するに至った、と。──その点で相撲協会が外部のモノの声を取り入れようとするのは(遅きに失したのは言うまでもありませんが)極めて適切な判断なのです。が、次なる点として、ココにも極めて大きな問題が横たわっています。ソレは外部の声を取り入れたからとて「内」と「外」のバランスが保たれ得るという確証はないという苦悩です。もとより相撲界というのは「外」からは一定の距離を置いた特殊な階層を持つ世界だと思います。平易に言ってしまうと、全くもって非デモクラティックな世界だというワケです。この認識がなければ相撲界は理解できないような気がします。その歴史には多少の歪みを伴う貴族主義的要素(半分朽ち果てたノブレス・オブリージュが支配的)があります。そしてココにこそ大きな陥穽があるのですけれども、しかし相撲界という「内」の世界を維持しているのも他ならぬこの点なのです。ですから、ソレを一気に害悪であるといって放擲してしまおうなどというのでは困ります。コレほどの愚行もありますまい。斯様なコトを企てようとするのは死罪に相当します。というか死んでも良い。重要なのは、その「内」の特殊性と「外」との情勢、風習、或いは雰囲気や「空気」といった事柄をどう適合せしめてゆくかというコト、付かず離れずの状態に維持しておくにはどうすべきかというコトなのです。徒に「内」に閉じこもり固執するのでもなく、かといって無謀にもそれまでの伝統を軽蔑して一気に「外」の世界に擦り寄り、デモクラティックな考え方でもって「内」を統率しようなどというのでもない、「内」と「外」との中和という作業こそ相撲界に突きつけられた喫緊の課題なのだと思います。重要なのは今日までの「内」の伝統のなかに如何にして「外」の芽を植え付けてゆくかです(モチロン、こうした問題は以前からずっと「内」の世界たる相撲界にはあった事項でしょう。けれども、今日ほどその重要性が問われている時も無いと思うのです)。──そして、ソコには当然土俵の上と土俵の下のバランスをどのようにして安定させてゆくべきかという難問が待ち構えています。相撲は単なる勝ち負けで終わるものではなく、「様式美」としての一面をも包含しているのだという意識、コレこそが「内」にある見事な伝統に他ならないのです。この点こそが新たな芽を植え付けるための壮大な土壌になり得るとわたしには思えてならないのです。
外部に設けられた委員会も、果たしてソレがどのような役割を果たし、どれほど機能するのかは依然未知数であります。しかも、ソコに関与するモノがどういった路線で相撲界に言及していこうとしているのかも、未だに判然としていません。また、相撲協会についても理事長が代わり、コレから徐々に「内」全体を新たにしていこうとはしているみたいですけれども、コチラも何か漠然としていて、目処が立っていないように思われます。従って、一相撲ファンとしては伝統のなかにどのような芽を植え付けようとしているのかという点をまず明らかにして欲しいと願う次第なのです。最近の「内」の世界ではもうずっと芽が育っていないばかりか、何かが枯れ始めているのではありますまいか。ソレを象徴しているのが、昨今の大麻問題であり暴行事件だったのかもしれません。わたしには「内」と「外」との混合と分離、それが極端なカタチとなって露呈してしまったようにも思われるのです。
全体的な、詳細な点に立ち入ってのわたしなりの意見を記そうなどという大作業は到底なすことができませんが、ココでは来年以降の相撲界がその新たな一歩を踏み出すには? という観点からわたし個人の願望を勝手に、独り言的なモノとして書かせてもらいました。すなわち、「内」の伝統のなかに「外」と乖離することのないよう如何にして新たな芽を植え付けていこうとするか(=中和)、ソレに尽きると思います。


最後に若手力士について書きます。安馬が大関に昇進し、日馬富士へと発展を遂げたコトでますます活気付けば良い大相撲。やはり若手力士の活躍が来年以降も相撲界の一大焦点ともなってくるでしょう。個性豊かな若手力士も数としては立派に台頭してきているのですが、どうしてもまだあと一歩盛り上がらないというのは、多くの相撲ファンが抱いている悩みの一つかもしれません。ですが、コレも朝青龍の問題と同様、最後は彼ら自身がどうにかせねばならないコト! 願わくば来年は無駄な不祥事等がなく、相撲生活全般に渡って楽しい一年でありますように。 環境さえ整っていれば、あとは彼ら個人の才能と努力如何に関わってくるモノと思われます。相撲ファンとしては、彼らが相撲に集中できるような一年であって欲しいと願うばかりなのです。
日馬富士、把瑠都、豪栄道、稀勢の里、豊ノ島、琴奨菊、こういった若手力士には誰もが期待している通り。彼らと白鵬は同年代です。皆、自分の型を持っていて、ソレが発揮できた時には非常な強さを見せますので、(「外」から言うのは簡単ですが…)是非とも横綱を凌ぐような活躍を!(本当はこの若手力士に関しても、もっと沢山書くはずだったのだけど、二番目の相撲界のコトを書き過ぎたので、これ以上書くことは控えさせて頂きます。体力の限界!)
以上、来年のお相撲をめぐっての私見でした。

2008年12月25日

2008年12月25日 タイトルの不必要な文章

愈々年の瀬です。一週間後にはもう元日になっています。「光陰矢の如し」と言います、街行くヒトたちは皆。今日だけでもこのフレーズを36回は聞きました。定年間近と思われるサラリーマン、ピザを配達している兄ちゃん、スーパーで長ネギをカゴに入れて買い物中の主婦、かくれんぼをする幼稚園児たち、初めて日本に来たアフリカ人観光客、結婚式のスピーチをする中年男性、ビブラートが自慢のフォーク歌手、ゲイバーから出てきた若手会社員、誰も彼も「光陰矢の如し」と口をついて出ています。さきほどもニュース速報が出て「光陰矢の如し」という文字が流れました。──まったくその通りです。


今日は多くの日本人にとって無関係のキリスト誕生の日、つまりクリスマスです。クリスマスといえばクリスマスソング。わたしのナンバーワンクリスマスソングはXTCの「Thanks For Christmas」かもしれません。(以下参照。音だけですが。)



ゲイ!のワム!の「Last Christmas」もキライではありません。大滝詠一サンの「クリスマス音頭」も捨て難い。「戦後変わったクリスマス 天下晴れてのクリスマス 日本すみずみクリスマス 何処にいるのかクリスマス」と大滝サンは歌います。本当にそうです。一週間後にはお寺に行って鐘を鳴らすくせに。どうせなら一人で五回くらい鳴らしちゃいましょう。この御時世ですから煩悩の数を百ちょっとに限定してしまうのは遠慮勝ち過ぎるというモノです。二百や三百くらいはあっても良い。昔よりも煩悩は増えたのです。本来は全く関係がないのにクリスマスを祝っちゃうようなのも新たな煩悩の一つなのです。大半の日本人にとってクリスマスは煩悩だ。同様にしてハロウィンも煩悩。そして、イ・・・ああ、コレは煩悩じゃないや。
ええっと、ちょっと毒が効いてきたような気配がしますので、ココらで切り上げざるを得なくなりました。指先が痺れてきました。さっきは血を吐きました。クソ! ゲイ! ワム!

2008年12月23日

2008年12月23日 文章で漫画を説くコトの限界について

文章だけによって漫画の内容を云々するコトはできないんじゃないか、わたしは最近はそのような疑念を抱いているのです。


漫画について何か語ろうとするとき、どのような点を取り上げるでしょうか? ソレはまずもってストーリー、そしてセリフ、登場人物の個性、コマ割り、作者の表現技法、或いは伏線などについてのはずです。このなかで文章によって比較的容易に説き明かすコトができるのはどれでしょう。言うまでもありません。ソレこそストーリーであり、キャラについてでありセリフであって話の伏線です。他方で、コマ割りや表現技法をめぐって云々するコトは非常に難しい。例えば文章のみで或る象徴的なシーンに関して、その表現の仕方を云々しようとするとソレはソレは非常に厄介なコトになってしまうのです。こういう風に。──○○のシーンにおいて作者は△△のペンと□□のトーンを多用し、またこの場面の構図は××であって、そうして主人公の表情を☆☆に描くコトで・・・
このようにして何かしらの説明を試みても、よほど文才のあるヒトでなければ的確な指摘はできますまい。改めて強調するまでもないのですが、漫画とは往々にして少しの文字と豊富な絵によって成立しているモノです。従って、単にストーリーなりセリフなりに関して何かを語っても、ソレはまだ一部に触れただけに過ぎないのです。本当に問題にしなければならないのは、むしろ文章によっては説き難い作者の表現、描き方、構図、使用する道具等々ではないでしょうか。ソコにこそ各々の作品と作者の持つ特徴なり個性なり魅力なりがあるはずで、その点に触れない漫画論評なるモノはさほど意味をなさないのかもしれません。
わたしは滅多に見ないのですが、不定期に放送されている「BSマンガ夜話」においては、出演者の方たちがパネルを用いまして作者の表現手法などについての解説を多々試みていたように記憶しています。コレこそ真に漫画の核心に触れる行為ではないかと思うのです。でも、こういったやり方はテレビという媒体であるからなせる技かもしれません。例えば、コレと同じことを雑誌上で、個人のブログ上で、或いは少しお堅くなって論文・論説等でできるでしょうか。できないコトはないと思いますが、ヘタをすると非常に抽象的なハナシになってしまい、書き手と読み手の間に大きな壁が立ちはだかる事態へと陥ってしまうかもしれません。また相当気を遣って書かないと、すぐに誤解を与えてしまうといった災難に見舞われるだろうと思います。かと言って、直接画像を取り込んで、ソレを参考図として掲載し、ソコに解説を加えようにも、このご時世ですからすぐに出版社側からの「著作権侵害」であるとのクレームを頂いてしまいます。まったく面倒なハメになるのです。
そして、この問題において最も難儀なのが、ある表現技法について何かを語ろうとする場合、フツウのシロウトにはソレが出来やしないという点です。いえ、単純に線が太いとかGペンを使用しているとかパースペクティブが巧みだとか、そうした表面的な内容であれば誰だって述べるコトができましょう。けれど、なぜソレが良いのか、なぜ作者はこの場面をこうした手法を用いて描かざるを得なかったのか、などという点にまで及んで具体的な解説をなせるヒトがどれくらいおられるでしょうか! そのような繊細な事柄を華麗に説いてみせる能力を持っているヒトなど、およそ同業者であるか、少なくとも自らもペンを取って何作品かを描いた経験のあるモノをおいて他にはないと思います。しかし、ソレこそが真の評価であり批評であり賞賛の域に達する解説であるはずなのに……


以上です。この問題に関して、所詮はシロウトのわたしもこれ以上のコトは書けません。漫画においては「絵」という要素が混在しているため、全体を捉えて話すのが難しいというコト、「絵」というモノは我々が日常的に目にする機会はあるものの、自ら積極的にソレを創り出したりするような行いは少なく、ソレ故にその良し悪し、レベルの高低、あるいは適不適、美醜といった点を必ずしも相応の判断でもって評価を下すのが難しいモノであるコト、ソコにこそ決定的な難点があるように思われるのです。従って、もはやそうなると、シロウトが漫画について何を語れるのか、何を問題とすれば良いのか、何をどう見るのかという問題が立ち現れてくるワケですが、う〜ん、コレについては現時点にあっては「語り得ぬことについては、沈黙しなければならない。」と言うより他にはありません。残念です。残念でした。

2008年12月21日

2008年12月21日 スロベニアに怨みはないけど

年末から年始にかけての間には、どうして駅伝が急増するのでしょうか? 全くもって理由が分かりません。──その理由については、このご時世ですからインターネットを駆使して、もっと限定してしまえばGoogleを駆使して調べると分かるのでしょうけど、分からないままにしておこうと思っています。私的七不思議の一つに留めておく所存なのです。何でも知ってしまえば良いってモンじゃないでしょう。知らない方が良いコトだって山ほどあるし、知らなければその分色々な妄想が脳内を走り回って暇潰しにはなるのです。「互いの全てを知り尽くすまでが 愛ならばいっそ永久に眠ろうか」とはWANDSの歌の一節です。高校生の時にちょっとだけ聴いていたWANDS、何が良いのかというと、スラムダンクのアニメのエンディング曲に採用されていたから良いのです。あの番組のエンディング曲は決して外さなかった。WANDSにZARDにMANISH、どれも映像と見事なまでに重なり合う曲でした。
おっと、駅伝からいつのまにかビーイングの話へと引っ越ししてしまいました。本当はVan der Graaf Generatorの「Still Life」は素晴らしいアルバムだ! というコトをスイス人風に書こうと思っていたのですが、今日の体調ではスロベニア人が精一杯ですから、また日を改めて書こうと思います。(書かないかもしれません。)
ところで、Youtubeには外人のオッサンの弾き語り動画が多数アップされているのですが、なかには異常に上手なヒトがいるのでビックリします。多分皆アマチュアのはずなのに。──上手いのは全部スイス人でしょう。音を外すようなのはスロベニア人に決まっている!・・・今日のオレは、所詮スロベニア人か・・・・


どーでもいーコトですが、いや、どーでもいーコトではないのかもしれませんが、昨年のMー1におけるサンドウィッチマンは本当に凄かった。ソレを改めて実感した日です。

2008年12月19日

2008年12月19日 悪癖

ブッシュ大統領にもモノが飛ぶ時代です。そのうち麻生サンにも・・・・などと考えて、イヤイヤその前に金正日か? と思っていた矢先に...


金正日総書記暗殺を阻止


誠に残念なニュースではありませんか。この事件が実際に起きていたのなら、そして本当に失敗したのなら、のハナシですが。──世界が揺れています。日本も色々と揺れていますが、地面の底が揺れないというのは不気味だと思います。関東大震災、東海地震、南海地震。いつ発生してもおかしくありません。首都直下型なら、日本はどうなるのでしょうか。政局は混迷し、経済は長期不況の真っ直中、その上(下?)地面まで崩れちゃったらもうオシマイだよ。
いずれ来る、それ来る、ほら来る、とマスコミは煽ります。統計上のデータから推測するに、もう明日発生してもおかしくないとのコトですが、所詮は統計です。統計で世の中を理解できるというのであれば、統計学のセンセイは神様になります。人知の過大評価! 今の政府こそそうじゃないかと思うのですが、安易には言えたモノじゃない。浅学のロマンチスト!
ロン・ポール氏なら言うでしょう。言っているでしょう。経済問題に関しては。わたしはほぼ門外漢ですが、理論的には彼の信奉しているトコロのモノをそっくりそのまま支持したいくらいです。あくまでも理論的には、ですけど。リバタリアニズム。ノージックの考えているコトも本の上ではピッカリ光る。でも、ソレをどうやって現実に持ち込むのか、ソレが皆目分からないのです。無駄な税金も無駄な規制も無駄な保護も無駄な戦争も廃止するぅ〜! そりゃそうだ。しかしながら、ソレができない。派遣社員のクビが切られ、それでも足りなければ次は正社員にまで魔の手が・・・ 無駄な規制と無駄な保護がもたらす大惨事。やっぱり無能な年寄りが強くて、威勢の良い若者は瀬戸際へ。時給五百円でも仕事が無いよりはマシだと思うんですけどねぇ。この御時世だからこそ、でしょうか、最低賃金法を罵倒するヒトの意思も分からなくはありません。名医の仮面を被ったヤブ医者の親切な治療が却って傷口を拡げているというのなら、やはり彼は殺されるべきです。


今夜は月の色が綺麗ですから(今、正面に赤々とした月が見えています。形こそ中途半端ですが)、つい独り言を言ってしまいました。「僕の悪い癖です。」

2008年12月18日

2008年12月18日 寺脇サンと亀山巡査部長への謝辞

ついに亀山クンが旅立ってしまった。「相棒」のコトです。元旦SPはどうなるのでしょう。──田畑智子サンは久しく見ていませんでした。いかんせんテレビドラマを滅多に見ないモノですから。ハッキリと彼女の演技を見たのは高校生の時、つまり7〜8年前です。NHKのドラマでした。ソコまで遡ります。その時には非常な好印象を抱いて、「おお! このヒトは随分有名な女優サンになるかもしれんなぁ」などと偉そうに考えもしましたが、思えばその頃から徐々にドラマを見なくなった。大変な放ったらかしです!
しかし、寺脇サンに代わって“相棒”を演ずるヒトは誰になるのでしょうか。真木蔵人氏などであれば、私は転げ落ちてしまうでしょう。かといって、不破万作というのもなぁ。もうほとんど爺さんだしなぁ。平田満、というのも年齢的にムリがあるだろうし・・・竹脇無我サンや田中要次サンもちょっと似合わないだろうなぁ・・・ どうしても適役が見当たりません。もしかすると女性でしょうか?
それにしても、この絶好調の時期に交代するのですから、よほどの技量が無ければ務まらないのは確かだろうと思います。…となると、舘ひろしクラスじゃないとダメなのでしょうか? でも、ソレだと右京サンのキャラが喰われてしまいそうでいけない。伊武雅刀氏があと20歳若ければ良かったのに。(ところで、伊武雅刀氏の独創的なオフィシャルサイトを見よ! 参考リンク:伊武雅刀
いずれにせよ、寺脇サン及び亀山薫巡査部長、お疲れさまでした。これからは「ミューズの晩餐」も見るし、「モンカフェ」も買うのです。気が向けば。──私は専ら紅茶体質でして(右京サンでは非ず!)、コーヒーを飲むと逆に眠くなってしまう場合がしばしばありますから、もうここ半年くらいは飲んでおりません。


「正義」は伝わるのです。時に闘い、時に想い、時に笑い、そして、常に強くあってこそ!!

2008年12月14日

2008年12月14日 5兆円のゴミ

久しぶりに喫煙者もしくはタバコをバカにしたモノを書いてもイイ頃合だと思います。
天下り組織である気狂い企業JTの見かけだけ爽やかなHP(JT delight world)においては、知能と精神の粗野な喫煙者及び天下る連中を擁護するために「タバコ税増税断固反対!!」などという、どこぞの市民団体顔負けのパフォーマンスを行いまして、増税を回避し得たコトをカルト宗教の説法の如く、また昏睡状態に陥り教祖様の尿を一気飲みするが如き信者のイカれたテンションと化して喜んでいる最中です。(参考リンク:タバコ税増税断固反対!!) 
このカルト教団は次のように書いております。


平成10年のたばこ特別税創設、平成15年および平成18年のたばこ税増税と、たばこは過去10年間で3度も増税されており、税負担率がいまや6割を超えるわが国でもっとも税負担の重い商品です。


喫煙者はよく言います。「タバコは税金がかかっていて、廃止なんてとんでもない! そうすると税収が大変なコトになっちゃうんだよ!」
──ハイハイ、誠に結構ですね。さて、それでは以下のサイトを御覧なさい。


タバコ税収と喫煙によるコスト


コレ、約10年ほど前の少し古いデータなのですが、一年当たりのタバコによる税収が2兆2797億円だとされています。2279700000000円です。他方、タバコによる損失額というモノがあるのです。すなわち、幼児性の著しい分裂症的な喫煙者がタバコによって病気になる、仕事ができなくなる等の原因から病院へ隔離されたり、家で引き蘢り状態になったり、現世を放棄したりするなどした場合の経済的損失や保険金の無茶な適用といった措置の結果を勘案してみたら、終局的に他者の上にのしかかってくる負担が7兆1540億円、7114000000000円に上るというワケです。タバコ税からタバコが全体にもたらす損害を計算してみたら、4兆8343億のマイナスです。タバコ税の倍でございます。
タバコ税が収入になる? 無くなれば困る? とんでもない! こんなコトを言っているので、発狂してクリスマスに鬼の面を被って豆まきをする病人を手厚く処遇するかの様に、喫煙者は日増しに所謂「公共の施設」から締め出され、シマウマかキリンか分からない世界三大珍獣の一つであるオカピを見る人々の奇異な眼差しに似た視線を受けるコトを余儀なくされる「喫煙スペース」などという廃人収容所に押しやられるのです。──約5兆円です。タバコがあるコトによる損失額が年間5兆円なのです。ビル・ゲイツの資産に匹敵する額が、喫煙者によって毎年雲散霧消してゆくのです。ビル・ゲイツは多大な貢献をした結果の5兆円ですから文句なしにアッパレなのですが、喫煙者は貢献どころかゴミ以外の何者でもありません。5兆円をもたらすどころか、逆に闇の中へと葬り去るのです。コレでは国家の財政を蝕むシロアリです。お、お国の敵!? 社会のゴミ!?


「たばこは過去10年間で3度も増税されており」などというJTの見解も、前科三犯の悪人が強盗放火殺人で逮捕されて、「過去に3度も逮捕してんだからもう良いだろ!」というようなモノです。3度増税しても依然として元が取れないのだから、漸進的にあと5回くらいは増税しなければならない。タバコに関してはさすがに「death by hanging」を宣告して、この世から抹消してしまうようなコトはできません。つまり、独裁国家でもない限り、それを突如として消し去るコトは許されない。だから増税するしかないのだけど、この度の増税にしても、他国のタバコの値段と我が国の値段を比した場合に、何の行き過ぎもないコトが判然とするでしょう。故にソレを批難するのも、やはり奈良の騒音オバサンに匹敵する他を顧みない喫煙者特有の横暴さというべきです。さすがに一箱1500〜2000円であるとか、過剰に至るトコロで喫煙禁止といった事態の予兆が生じてくるようですと、愈々「禁煙ファシズム」なるモノの危険な香りが漂ってきますので、私も(喫煙者とは関係無く)反対の方へと回りたいと思いますが、現状ではより値上げをし、5兆円の損失を何とかしなければいけません。


タバコは百害あって一利なし、といいますが、確かにソレはそうなのかもしれません。彼らの頼みの綱の一つである「タバコ税による税収」云々も、虚妄、虚言、錯覚、誤解、無知、まやかし…なのです。「税負担率がいまや6割を超えるわが国でもっとも税負担の重い商品です。」などとほざき立てる天下り専用組織のJTは、なぜ己が商品に斯様に高額の負担がのしかかるかを考察しなさい。そして誇らしげに「297万1206件」の署名が集まったなどとデカデカと掲載していますが、なんだコレは、全盛期のミスチルのアルバム出荷枚数より少ないじゃないか。宇多田ヒカルの「First Love」に関しては、この倍以上の数のヒトが買いました。署名はタダ、一方のアルバムは3000円の出費(しかも街頭での署名活動ではなく、ネット上で簡単にできるようにした結果がコノ数)。ああ、やはりタバコに関わる連中は脳が思いもかけずニコチンで損傷してしまって、物事を正確に認識できなくなっているのではないか。

2008年12月13日

2008年12月13日 軽い一語で虚無の世界へ

世の中簡明なモノが勝ちます。他者を思考停止に陥れたモノが勝つのです。ヒトラーは決して難しいコトを言わなかった。猫も杓子も理解できる演説をこなして支持を得ました。近年でソレをやったのが小泉元総理で、アホの一つ覚えの如く「構造改革」、「郵政民営化」を唱えて、政治をよく分からない人々からも何となくの支持を受けちゃったのです。その後の安倍さんは「美しい国」と言って波に乗ろうとしたのかもしれませんが、具体的には何のコトやら分からないなどと言われて、かなり頑張ったのですが、体調を崩してしまいました。その後の二人は…ダメだ。何もない。
ちょっと見るトコロを変えてみれば、「流行語大賞」などというバカみたいなイベントが、そういった風潮を象徴しているといえるのではないでしょうか。「だっちゅーの」、「なんでだろ〜」、「グ〜」・・・猫も杓子も、です。
何も考えなくて良いから、ちょっと爽やかで明るい感じなら、すぐに伝播するのです。尤も、イイ大人が「グ〜」などと街中で言っているのを見聞したコトこそありませんが。考えなくて良い分、根は浅い。表面的にしか入り込んでいないから、時間が経つとすぐに抜けてしまうのです。どーでもいーコトをすぐに忘却してしまうのと同じように、軽薄な事象ほど消え去るのも早いんです。──娯楽の場合、そうであっても何の問題もありませんが、政治家が軽薄に流行を作り出してしまうのはいけません。現在はそのような気配がないから良いと思います。バカでも分かっちゃう一語ほど、悪徳政治家にとって便利なモノはない。政治家の言うことが全く分からないのも困りモノですが、安易に理解できてしまうのも困りモノだというコトになります。政治家のセンセーたちに、もっと分かるように喋れというのは半分妥当な意見で半分はクズかもしれません。
ところで、分からないというのは、相手の言葉遣いが適切ではないからか、それとも聞き手の勉強不足に基づく無知故にか。

2008年12月10日

2008年12月10日 外界へは行けない

昨日読んでいた本のなかでこのようなやりとりが紹介されていました。


「一体全体あなたがいつも話してらっしゃるような神さんなど、どこにあるというのです。」
「あゝ、このお方は。神樣方はこの世にはいやしませんよ。神様のなかにこの世があるのですもの。」


「思想とは真理に対する王手である」と言ったのはオルテガですが、この場合、既に王手がかかっています。こう反撃されたのでは、もうどうしようもない。われわれは神様の外に出る能力をもっていないのだから、神を顕在化させるコトなんてできやしないんだぜ、ベイベー!
──「じゃあ、聞くけどさ、いったいどうして私たちが神のなかにいるというコトが分かるんだい?」
この問いに如何に返答するかによって、そのヒトの思想が窺われる。わたしなら如何様に答えましょうか?


Youtubeでスゴい動画を見つけました。



細野さん、TIN PAN ALLEY、年齢不詳、奇妙な雰囲気のライヴ映像、「トロピカルダンディー」の頃でしょう。
初めて聴いたときはあまりピンと来なかったけど、最近はスゴく良いアルバムだと思っています。この奇妙な陽気さが、今の季節には特に効く。
まったく貴重な映像で、非常に有り難いコトです。この映像を発見したときは「南無阿弥陀仏」と言った。仏様に感謝するという意味です。
仏様は私たちの内側か外側か、どちらでありましょう? 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・

2008年12月08日

2008年12月08日 “武雅”の境地

時期も時期ですから卒業へ向けて論文を書いているのですが、本日書き上げた一節に関しては本文と註釈の割合が4:3になってしまいました。こんなに鬱陶しい論文で良いのでしょうか。以前にセンセイから「説明不足かなぁ。註釈が足りのないかなぁ。もっと書いてもイイんだけどなー」みたいなコトをソレとなく言われましたので、思い切って書いてみれば、まったくどうしようもない状態になりました。他人が書いた論文を読んでいて註釈が多いと「ああああ もーっ!」となるのはわたしだけではないはずです。なんか色々と手間をおかけ致してゴメンナサイ。


今朝、数ヶ月ぶりに母親からメールが届きまして見てみるに、毎度のコトとして「元気?」的な文面があったのまでは良いのですが、その後に「家を買った」と書いていたのには笑ってしまいました。ウチにそんな金はないはずなのですが。思い出す過去。──実家は結構古い家で、場所的にも入り組んだトコロでしたので、以前に母が「歳をとった時のコトを考えて、今の家では」云々と言って安価な分譲住宅でも…と放言していたのは知っている。冗談だと思っていた。メールの続きには「二階建て」云々と。・・・二階? アレ? オレに帰って来いと言ってる? 二階にオマエの部屋もあるぞ、ってコトを仄めかしているのでしょうか。老後生活に二階建ての家は却って不便ですから。う〜ん、何がどうなっているのかサッパリ分からない。でも、あまり気にしないようにしている。むしろ「ドランクドラゴン塚地さん骨折」のニュースの方へと意識が行ってしまう。(参考リンク:ドランク塚地さん左脚骨折 番組収録中、全治2−3カ月

2008年12月06日

2008年12月06日 明日のコトも分からない

早起きはキラいです。冬場になると尚更イヤになります。朝が昼で、昼が夜で、夜が朝ならどれだけ良いコトでしょうか。
子供の頃は裕福な生活を送りましたが、自分が裕福であればある程、何か申し訳のない様な気がして・・・ 兄がいました。父親は兄に多大な期待を寄せ、末っ子の自分の様なモノなど眼中にないといった感じで。上京してからのコトですか? フランス文学を学ぼうと思ったのですが…
今は・・・住所不定無職定収入です。いいえ、細野サンの曲ではありません。女神にも出会わないしランデブーとも無縁です。
火をつけました。お寺に。ソレをおかずにしたコトもあります。妄想観念です。どんどん肥大化していきました。思えば父親の影響かもしれません。子供の頃は絵画を見て性的興奮を覚えました。
気が付けば閉じ込められていました。先生のコトは信頼していたのですが・・・ 胎児のコトは…よく分からないのです。
あんたが あたいの 寝た男達と 夜が 明けるまで お酒のめるまで あたい 男やめないわ ムーーーーーー

2008年12月05日

2008年12月05日 「わたし」

街中にクリスマスソングが轟き渡るイヤな季節になりました。ワム! 、ジョン・レノン、マライア・キャリー、山下達郎、B'z・・・ まったくどうしようもありません。私がお店の経営者なら今こそTUBEを鳴らしに鳴らします。冬を追い払っちゃいます。広瀬香美は入店お断りだ!


ところで、以前にも一度だけココに書いているはずなのですが、ブログといった空間にて一人称として「私」を遣うのに違和感を覚えるのです。日常生活において「私」とは言いません、私は。尤も言文一致を志しているワケではありませんから、日常で用いないからといって弊害があるとは申しません。日本語にあっては幸か不幸か多種多様な一人称が存在していますので、各自の選好によって遣い分ければイイというのでしょうけど、コレを確定するのが容易ではない。果たして「私」が最適な一人称であるか否かを他の一人称と比較検討してみることで考察してみましょう。

「俺(オレ)」…コレは何か偉そうな感じがします。親しいモノとの会話のなかであれば自然な感じに聞こえるのかもしれませんが、文章にしてしまうと傲慢かつ尊大な雰囲気が漂う。却下。


「俺様」…こんなのばいきんまんしか遣ってないよぉ〜 却下。


「僕(ボク)」…コレは何でしょう、ややナルシズムの気配があります。下手に出ているようにも思われて、わざとらしい謙遜があるとも誤解されかねないのではないでしょうか。却下。


「ボクちゃん」…みっともない。二十歳を超えたヤツが用いるモノではございません。却下。


「当方」…文章でコレを繰り返されるとちょっと堅苦しいかなぁ。「当方は次のように思いました」──このような文章は不自然でもあります。却下。


「ワシ」…オッサン臭い。奇を衒っているようにも思われる上に、ココにも尊大さがあって良くない。却下。


「ワテ(ワイ)」…この言葉にイヤなイメージを覚えるコトはありませんが、やはり文章のなかでコレを遣うのはわざとらしい。また、あまりにも「ワテ(ワイ)」などと繰り返すのは寒いようにも思われます。ギリギリ却下。


「オラ」…悟空か! でも、正直、悪くはないなぁ… けれど、マジメな文章を書いている最中に唐突にも「それ故にオラは・・・」などと書いてしまいますと、コレは途端にその文章自体がバカっぽく見えてしまうという欠点が浮上します。ギリギリ却下。


「オイラ」…眞鍋かをりサンがブログでこの一人称を用いていたはずです。イヤらしいイメージはありませんが、コレも上の「オラ」と同じような理由でギリギリ却下。


「手前」…時代劇などではたまに耳にする言葉です。「手前どもは」と言いますが、文章のなかで「手前の感想は」と書くのはオカシイかもしれません。却下。


「拙者」…お侍さんみたいです。奇を衒っているようにも思えます。ソレにこんなモノを多様していると、ちょっとイタイ。却下。


「我輩」…デーモン小暮閣下になっちゃうよ。被っちゃうので却下。


「筆者」…コレは良いかもしれません。でも相当に堅苦しいと思います。論文などではコレを用いるのですが、硬軟遣い分けたいこういった空間ではやや不適か。保留。


「自分」…コレも悪くはないと思います。でも無機質な感じがしてしまうのです。保留。


「お兄サン」…子供向けならば良いのかもしれませんが、不特定多数に公開する文面にて「お兄サンの見解は次のような点に集約されます」などと言ってみたトコロで、説得力は限りなくゼロです。圧倒的に却下。


「ミー」…ルー大柴サンと被っちゃいそう。また、かなりイタイタしい。却下。


「小生」…この言葉は結構好きです。今まで出てきたなかでは最良かもしれません。とりあえず保留。


「朕」…うわぁ〜 王様か皇帝にでもなりきってるつもりかい? 却下。


「アナタが今読んでいる文章を書いているモノ」…回りくどい。こんなモノを多様されるとイライラして仕方ないでしょう。「アナタが今読んでいる文章を書いているモノは今朝驚くべき体験をしました。アナタが今読んでいる文章を書いているモノはとても信じられないと思いました。しかし、コレこそアナタが今読んでいる文章を書いているモノにとって一大転機ともなる・・・」 余裕で却下。


「わたくし」…堅いなぁ。それなら「私」の方が宜しい。却下。


「アタシ」…女ならなぁ 遣っても良いんだけど、いかんせん男だしなぁ。却下。


「愚生」…この遜った感じはどうでしょう。相手がハッキリしている場合に、このような単語を用いるのは良いのかもしれませんが、ブログでは少し違和感があるかもしれません。ギリギリ却下。


「○(←適当な一人称を入れて下さい)」…読み手に任せるという斬新な発想です。「今日の昼に○(←適当な一人称を入れて下さい)は同僚とハンバーガーを食べに行きました。○(←適当な一人称を入れて下さい)はチーズバーガーとポテトを、○(←適当な一人称を入れて下さい)の友人はフィッシュバーガーと・・・」邪魔臭い! 即座に却下。


色々と検討して参りましたが、まずは保留しておいたモノを改めて確認しておきましょう。「筆者」、「自分」、「小生」──この三つです。そして従来の最も無難に思える「私」を加えて四つが最終候補に残りました。どうしましょう。う〜ん、まずは「自分」を投げ捨てましょう。コレを多様すると些か文面が混乱してしまうかもしれません。また、文章で一人称を「自分」に固定してしまうのはどうか、という問題も提起されます。
さぁ、「筆者」、「小生」、「私」の三つ巴です。「筆者」と「小生」と「私」 どれかを落してやろう。 う〜ん・・・・「筆者」を蹴落とそう。コレは論文の如き堅苦しくて面白みに欠ける文章に隔離してしまいましょう。…となると「小生」と「私」が残ります。これは難しい。間を取って「小私」としたいトコロなのですが、意味不明ですので、どちらかにしなければなりません。文面上読みやすいのは「私」かもしれません。「小生」も独特の味があって良いと思います。ひらがなで書いてみたらどうなるでしょう? 「しょうせい」「わたし」 おお! コレは悪くないかもしれん。「しょうせい」は理解し難いですが、ひらがなの「わたし」は妙な手垢が付着しておらずに、何か中性的な感じがイイと思います。というコトで・・・


確定:「わたし」
明日からは「わたし」でいきます。

2008年12月03日

2008年12月03日 田舎の頃

暖冬です。今日、暖かいモノに接してみれば、汗をかいてしまいました。ジンワリとではありません。額から流れる汗です。12月にココまで汗をかいたコトはありません。流れ方が全盛期のラモス瑠偉みたいだったのですが、髪型は違いました。今はショートヘアーがちょっと伸びたレベルで、到底ラモスにはなれない… ああ、現実は残酷だ。
ラモス瑠偉といえば「Jリーグカレー」であるコトは十中八九疑い得ません。私が知っている限りで最も不味いインスタントカレーでした。二回食べて二回とも半分以上残して捨てました。小学生の頃のおハナシ。Jリーグチップスにはカードが、Jリーグアイスにはキラキラのステッカーが付いていました。チップスもアイスもよく買いました。サッカーになんて何の興味もなかったのに、シールやカードはナゼか欲しかった。柱谷や長谷川健太や高木琢也のカードが良かったらしい。「良かったらしい」というのは、私はサッカー選手に詳しくないのだけど、当時(小学4〜5年生くらいの頃だったはず)のクラスメートがそういう選手のカードがイイらしいというコトを吹聴していたので、ついつい真に受けてしまっただけなんです。
「ドーハの悲劇」は見ていません。寝ていた。夜も遅くなり果てていましたから。翌日、試合を見ていた母親からその模様を聞かされたのだけど、事情が全く分かりませんでした。まずワールドカップが何なのか分からない、知らないという状態でした。
あの頃は良かったのでしょうか。分かりません。オウム真理教が取り沙汰される直前くらいの時期です。ルーズソックスやPHSや「チョベリバ」はその二年後くらいだったと思います。私は四国の田舎町の生まれで、小六の時に修学旅行で広島へ行ったのですが、ソコで始めてルーズソックスなるモノに邂逅しました。カルチャーショックを受けました。文明開化です。「ダルダルの靴下をたたいてみれば、文明開化の音がする」 思わず私はそう言ってしまいました。
果たして依然としてルーズソックスなんてモノは存在しているのかしらん? 私が高校生の時分は頑としてありました。私のような田舎の公立高校生にとってはルーズソックスなどというモノは無縁でしたから、非常に他人事として、「ああいうのは落ちぶれた私立の高校に行く奴しかやってないんじゃないか?」などと内輪で話し合ったモノですが、真実はもう分かりません。しかしみっともないないのは、そういったモノとは無縁の田舎の女子高生が普通のソックスをちょっとユルくしてソレっぽく見せている姿です。ああいうのを見て私などはよく嗤ったモノです。ソレは文明開化ではなく野蛮化現象の一種です。単にゴムが伸びて古くなった靴下に過ぎません。
だから都会の高校生は自分と同い年でも皆怖いと思っていた。誰も彼もが「東京生まれ ヒップホップ育ち」みたいなコトを言っていると思っていた。漱石の『坊ちゃん』を読んで田舎をバカにしてみたり、藤村操になりきって「ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ」などと呟いてみたり、街中でブレイクダンスをしてみたり、手当たり次第ナンパをしてみたり。私たち田舎の高校生は宮沢賢治のユートピアに共感し、多少ムリしてワケも分からず村上春樹に手を出してみたり、運動会でやるフォークダンス以外に踊る機会はなくて、ナンパというよりは相槌で・・・都会のヒトなら「オーエル」と聞けばOLとジョージ・オーウェルを同時に連想するのに、田舎のヒトたちは大洋ホエールズしか連想できなくて・・・
都会モンはシニカルじゃ。

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