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2008年11月30日

2008年11月30日 座右の銘

止まることは停滞であり死への道である。ただ動くことのうちに、それがどんなに傷ましくても、生命がある。[ヤーコプ・ブルクハルト]


霜月も過ぎ去ります。喧噪を抱える師走がもう間もなく入室して参ります。
上に掲げた一文は私の「座右の銘」です。ブルクハルトはスイスの歴史家。一時期ニーチェなんかとも親しくしたようです。(ニーチェはブルクハルトの講義を受けて大変な感銘を受けますが、「ただし、私も年齢を重ねれば出来そうなことではある。」なんて言っちゃうのです。彼が晩年には狂気へと陥り、全く何も出来る状態ではなかったコト、ソレは偶然ではないのです。しっぺ返しです。敬いを知らない不遜な輩は狂気へと向かう以外にありません。──コレはチェスタトンの受け売りですが。)


「アナタの好きな言葉は?」
もしも誰かにこんなお決まりのつまらぬ質問をされたりしたならば、それでも私は大真面目にこのブルクハルトの言葉を挙げるでしょう。一番好きな言葉です。そして、私が年齢を重ねても到底出てきそうにはない言葉である。

2008年11月28日

2008年11月28日 落書きと「逃げる」コトについて

『増補 ケインズとハイエク』という本を学校の図書館から借りてきました。ウチへ帰って中を見てみると、なんとアチラコチラに線が引かれまくっている上に、雑な文字で何やら書き込まれているではありませんか。改めて確認しておきますが、古本ではありません。図書館の本です。確かに図書館の本でも線が引かれているモノが稀にあります。しかし文字を書き入れているのはどうしたコトでしょう? 私が不思議に思うのは、次のような理由に因ります。すなわち、図書館の本は(当然のコトながら)期限以内に返却せねばならないのです。そして借りていられる期間なぞせいぜい数週間が限度です。そうなのです、私より以前にコノ本を借りて、熟読して、挙げ句に書き込みを入れるほど熱心なヒト、でもアナタがコノ本を借りていられた期間なんて高が知れているのです。というコトは、この書き込みはすぐ無駄になってしまうのではないでしょうか? そして残るモノといえば、次に読むヒトの不快感だけなのです。要は、たった数週間手元に置いておくだけの本に、御丁寧にもアチラコチラへ線を引き、文字を書き入れたアンタ、それで結局どうなるんだい? その書き込みは何に反映されるんだい? コノ点に私は深い深い不快深い疑念を寄せざるを得ないのです。
上にも記したように、図書館の本であるにも関わらず、線引きがしてある本には稀に出会います。そして、その度に私は消しているのです。学校のコトや図書館のコトや他人のコトを思ってではありません。私自身が、図書館の本に線が引かれているという事実に非常な不快感を覚えるからです。──だってソレはオレのモノでもないし、アンタのモノでもないだろ? 皆の共有物だ。ソコを汚すとは何たる大胆な挑戦であるコトよ! 私は常々そう思いながら、消しゴムをかけるのです。そうであれば、今回の件などはヒステリー沙汰です。発狂しそうになります。ちょっと落書きの一部を晒してやりましょう。173ページの「様々の矛盾や逆説やディレンマに満ちた経済、それが現代の貨幣経済であった。」という一文の下に神をも怖れぬこの冒瀆者は「経済学の脱構築」という書き込みを入れております。私はまだこの本を通読していませんから、踏み込んだ発言は控えたいのですが、それにしてもなかなかユニークな言葉を書き入れてくれます。この本を読み進めれば「経済学の脱構築」の意味も解せるのでしょうか? ちなみにその次のページの下部には「カヘイの二重性」なる文字も見受けられます。はぁ…アッチコッチに落書き、落書き、落書き。まったくコレでは「ストリートアート」などとほざいて、至る所にスプレーで落書きをする連中と同次元ではないか! 呆れます。
重要なコトが記述されている箇所に出会えば、そのページ数をメモ帳などに書き込んでおいて、後でその箇所をコピーしなさい。私はそうしています。だから夜中であってもコンビニへコピーしに行くという涙ぐましい辛酸を・・・


オハナシは変わりますが、ヒトはナゼ「逃げる」というコトに興味を示すのでしょうか。鬼ごっこ、映画「逃亡者」、「夜逃げ屋本舗」、福田和子の逃亡劇・・・ 非常な関心を持ちます。
逃げるというコトには興奮が伴いますが、でも、場合によっては恥辱も伴うと思うのです。逃げると色々なコトを囁かれてしまいます。「意気地なし」、「ヘタレ」、「人間のクズ」、「時価5円にも満たない」、「女心と秋の空」、「ピースな愛のバイブスでポジティブな感じでお願いしますよ」、「それはサイババの勝手なんですよ」・・・
ソレでも逃げちゃうんだなぁ。「逃げるが勝ち」だなどとも言いますし。いけない、情けない、しょうがない、そう思っていても逃げてしまう。でも、逃げる当人からすれば、ソコには地獄に匹敵する苦しみがあるように思われます。となると、こういうコトです。逃げているヒトを見るのが楽しいんだ。他人事だから面白く見えちゃう。捕まるか、もう捕まるか、まだ捕まらんか、いつ捕まる? そう思いながら眺めている時のワクワク感が最高なのでしょう。ソレは逃げているヒトのプレッシャーを裏返しにした面白さかもしれません。逆に逃げるモノを応援する心情──逃げ切れ、ソレ!逃げ切れ、ホラ、敵は近くにいるぞ! 志村、後ろ後ろ!──ならば、彼のプレッシャーを或る程度共有できるという感覚があるのかもしれません。疑似体験。でも、ソレは多分まやかしです。そのドキドキ感は怪しい。結局この場合でも、逃げているヒトの姿とソレを必死で追うヒト、逃げ切って喜んでいるヒトと逃げ切られて地団駄を踏んでいるヒト、そういった連中の対照的な様子を見ているのが楽しいんだ。イイ年した大人が汗かき息切らし必死で追いつ追われつしている光景は何かしら滑稽で、それ故にヒトはついつい興味を示してしまうのではないかと思われます。そうだとすれば、コレはまったく適当なモンです。やっぱり他人の不幸だから面白いというだけ。「逃げる」コトの鑑賞は空前絶後の第三者的視点での娯楽だといえるかもしれません。畢竟、彼が捕まろうが逃げ切ろうが、その結果なんてすぐに日常生活のなかで相対化されてしまう。面白いのはその姿だけ!

2008年11月27日

2008年11月27日 So farewell, Mr. Monk

「名探偵モンク」シーズン8で終了


同番組の視聴率は安定しており、人気も評価も変わらず高いが、関係者全てが「よい時期に番組を終わらせたい」という意見で一致したという。USAとユニバーサル・ケーブル・プロダクションは「ファンの期待を裏切らない、満足度の高い最終シーズンにする」との声明を発表し、最後までサポートして欲しいとファンに呼びかけている。


本国では現在シーズン7真っ最中の「Monk」(邦題「名探偵モンク」)ですが、シリーズの終了が決定しました。発表から少し時間が経過していますが…モンクさんとお別れしなくてはいけないのですね。
打ち切りにならなかっただけ良かったと思うようにしています。最後はトゥルーディの事件でしょうかね? モンクが唯一解決できていないこの事件を解かずに物語の幕を下ろすコトは考えられません。現にもう既にかなりのピースは揃ってきていますから。


The Monk is Dead


コチラは向こうの記事ですが、なかなか過激なタイトルを付けるものです。
「ええ! モンクさん殉職するの!?」 ドキッとしましたので、頑張って記事を読んでみたら、何のコトはない。これまでの概要とか素晴らしい功績とかを讃えているだけ。でもねぇ、最後に以下のような素朴な一文を寄せているのは、何と言いましょうか、英語だから違和感なく書けるのでしょうか。
「So farewell, Mr. Monk, we’ll miss you.」
自然な感じで訳せば、お別れだね、モンクさん、アナタのコトは忘れないよ。とでもなるでしょうか。・・・なんだ、コレは。死んだみたいじゃないか。まさに記事のタイトルだ。

It truly is a jungle out there in TV-land, but you survived it, and made us laugh while doing it.
Thank you for giving us eight wonderful years.

一行目の「you」について、私は思い切ってソレをモンクだけではなく警部やディッシャーやナタリーやクローガー先生や、そしてシャローナを指すモノと解釈したい。文中の「jungle out there」というのは、ランディー・ニューマンが歌うこの番組の主題歌「It's a Jungle Out There」と掛け合わせています。この曲は1分にも満たない短いものなのですが、モンクさんと重なり合う歌詞が良いのです。歌は次のような一節から始まります。


It's a jungle out there
Disorder and confusion everywhere
No one seems to care
Well I do


[都合のイイ訳:アッチはもうグチャグチャだ/どこに行っても無秩序と混乱/誰も気を払わないけど/私は気にする]
エイドリアン・モンクにピッタリな歌詞ではないかしらん。(ちなみにコチラで曲が聴けて、mp3も入手できます。)


「the final season promises to be a memorable one for all Monk fans.」──公式サイトに記されたこの誓いを私は絶対に忘れないからな! 勝手に期待しています。しかし、待て。日本ではまず来春の第7シリーズだ。「memorable one」への配慮はそれからでも遅くない。

2008年11月26日

2008年11月26日 孤独の抵抗者バートルビー

『代書人バートルビー』メルヴィルの小説『代書人バートルビー』(または単に『バートルビー』とも)についての文章です。この物語については昨日トップページで軽く触れたのですが、改めて読み直してみるに、若干の記憶違いもありまして、アチラに記したあらすじに幾らかの誤りがありました。
まずは正確なあらすじを記しておきましょう。

舞台はニューヨーク、ウォール街。ソコに事務所を置く「わたし」は、法律文章を代書する仕事をしています。「わたし」の事務所にバートルビーという青年が現れます。彼は端正な身なりでとても真面目な風貌、そして仕事を任せても黙々とこなします。雇用主としては申し分のない男を迎え入れた「わたし」ですが、しかし、ある日突発的に不穏な事態へと陥るのです。代書人としてとても真面目だったバートルビーに「わたし」が仕事を頼むと、彼は「せずにすめばありがたいのですが」と冷静に拒否します。何も妙な仕事を頼んだワケではないのに、仕事を引き受けようとはしないバートルビー。理由を問い質しても「せずにすめばありがたいのですが」の一点張り。さすがに「わたし」も困惑し、怒りを覚えますが、その場はバートルビー以外のモノに仕事を任せて、どうにかやり過ごします。けれど、その後に何度かバートルビーに仕事を依頼しても、彼はまた「せずにすめばありがたいのですが」というだけで、引き受けることがありません。彼は自分の仕事だけをこなして、他人からの頼み事を受託しないのです。それでもバートルビーは真面目に仕事をします。だから「わたし」もバートルビーを不信に思いはするものの、その勤勉さによって信頼感をも募らせます。だが、ある日、事態は一変します。バートルビーは遂に仕事そのものを拒否したのです。理由を問いつめても「もう筆写はやめたんです」と冷淡に言うだけで、具体的なコトは何も明らかにしません。彼はずっと自分の机に座し、または背後の壁と向き合い、瞑想でもするかのようにして一日を過ごします。そもそも「わたし」の観察によれば、バートルビーは間違いなく事務所に住みついていて、ソコから一歩も外に出るコトがありません。「わたし」は考えます──バートルビーは身寄りがなく、どこにも行き場のない孤独な男なのだろう。この孤独を一身に引き受ける男が私の下へ来たのは神の思し召しによるものではないか、と。しかし、他方で経営者としての苦悩も姿を現します。仕事をしないこの男を、事務所に住みつくこの男を、これ以上置いておく必要はあるのだろうか、と。
「わたし」は決断します。バートルビーにココを出て行くように命令するのです。バートルビーは答えます。「いかずにすめばありがたいのですが」 「わたし」は反論します。「すむわけはない」
果たして如何なるワケか。どのように説得してもバートルビーは出て行きません。「わたし」は悩みに悩みます。あの男をどうするべきか、私はあの男とどう付き合うべきなのか。「わたし」は再度決断します。こうなったら私の方から出て行こう、と。「わたし」は他の場所に事務所を移します。そして移転に伴ってバートルビーに解雇通告を突きつけます。バートルビーは無言です。数日後、「わたし」の新たな事務所に一人の弁護士と以前に借用していた事務所を管理する家主が現れます。家主は次のようなコトを言います。アンタが以前に使用していた建物内に男が留まり続けている。何を言っても拒否するだけで、動こうとしない。今までアンタが雇っていたのだから、責任を持ってどうにかしてくれ。「わたし」は渋々バートルビーと面会し、彼に動くように説得を試みます。が、バートルビーは受け入れません。「できません。いまはこのまま変わらずにいるほうがありがたいのです」 彼はそう言います。「わたし」の説得の甲斐無くバートルビーは建物内に留まり続けましたので、とうとう家主は警官を呼びました。バートルビーは拘置所へと連行されます。しばらくして面会に訪れてみた「わたし」は、バートルビーがソコで食事をも拒否しているコトを知ります。「今日は食事をしない方がありがたいのですが」とはバートルビーの言。
全てを拒否した結果、バートルビーは拘置所のなかで死にます。飢え死にというカタチでしょうか。終わりに数行ほどバートルビーの過去が明らかにされてお話は幕を閉じます。「わたし」は最後にこう言うのでした。「ああ、バートルビーよ。ああ、人間とは。」


この小説をどのように捉えるのか。とても難しい問題です。バートルビーは何かの象徴なのであろうか、彼の「せずにすめばありがたいのですが」という発言は何を意味しているのか、そもそも死への道をも「ありがたい」という一語によって選択したバートルビーとは何なのか。このお題は非常に難しいと思います。著者のメルヴィルは如何なる意図をもってこの話を著したのでしょうか。『代書人バートルビー』のもつ意義とは。おそらく明確な唯一の答えは出てこないと思います。(というか、解釈に関して絶対唯一のみが許容される物語、換言すれば、一つの方向からしか読むコトが出来ないお話なんていったい何の意味があるでしょうか?)
私の考えを少し述べておきたいと思います。
この物語には二つの悲哀が秘められている様な気がします。一つはバートルビーの生き方そのものに対する悲しさ、そしてもう一つは(ソコには若干の皮肉が入り交じるかもしれませんが)「わたし」のバートルビーに対する態度、とりわけ最後に「ああ、バートルビーよ。ああ、人間とは。」と嘆声をあげて、ヒトの「生」の無情さを感受する時の悲しさです。そしてそのどちらをも私たちは抱え込んでいるのです。
「わたし」が悟ったように、バートルビーは自己の内部において極めて強度な孤独を内包していたと思います。そして彼はある時を境に全ての行動を拒み、無為の世界へと降り立ちます。それは何故か。ココにこそこの物語の今日的意義とでもいうべきモノが隠されているように思えるのです。すなわちバートルビーとは、慌ただしく次から次へと変転を余儀なくされる現代人にとってこそ、一種の警鐘となり得る存在ではないか、と私はそのように考えています。


バートルビーは無理をしてまで今あるカタチを変えようとはしません。そうするコトを選択するよりも、彼は死を選び取りました。コノ点にこの物語が提出する私たちを取り巻く現実への悲哀があるのです。変わらずにソコにいるというコトの難しさ、ソレを貫き通そうとするコトは、私たちの「生」にとって決定的な危険を孕んでいます。「できません。いまはこのまま変わらずにいるほうがありがたいのです」──そのように言うコトは、今の私たちにとってどれほど困難なコトでしょうか。現代は物事の移ろい、つまり人々の意識、流行、価値観、様式、そういったモノが目紛しく変転し、本当に沢山のモノがすぐに「過去のモノ」となってゆきます。そうしたなかにあっても、バートルビーの如く孤独を包含するモノは、いつだって変わりゆくコトを拒否できるのです。なぜといって、彼が備える他者との同調を必要としない一面によって、彼はありのままの自己を貫き通すコトを許容されるからです。
社会のなかで広く雑多な交流関係を結ばねばならない現代人の大半は、無意識的にそのなかで常にカタチを変えていかざるを得ません。周りの環境に適合していくには、常に妥協が求められています。一度ありのままの自己を堅持し続けようとすれば、アッサリと「頑固者」であると看做され、社会から追いやられてしまいかねません。バートルビーの存在とは、こうした私たちの置かれている“曖昧で都合の良い環境や運命”といった価値相対的な現状を否応無く浮き彫りにすると同時に、他方でそのなかにおいて無力な各個人へと向けられた嘆きでもあるように思われるのです。
この世界に不可避的に付き纏うそうした悲哀を意識した時、誰しもこう言うより他に方法はないのかもしれません。
「ああ、バートルビーよ。ああ、人間とは。」

2008年11月25日

2008年11月25日 Xiu XiuとDamien Rice

アメリカのXiu Xiuというバンドについては以前もココに書きました。シロウトの私には到底理解の及ばない奇怪な音楽を奏でるアバンギャルドな集団だと思います。全く、最初から最後までどうも分かりません。その音が良いのか悪いのかすら分からない。何枚かのアルバムが出ていて、私も何枚か聴いているのですが、どれを聴いても分からない。Xiu Xiuの代表作を一枚選べと言われれば、三日三晩悩み続けるでしょう。日常的には馴染みの薄い珍しい楽器を使いこなしてみたり、芯のある声でフニャフニャした歌声を出してみたと思ったら、突然轟音でヒートアップしてみたり、かと思えば怪しげな電子音を鳴らしてみたり、または一転して静寂のなかに微かな音を響かせてみたりと、とにかくやるコトなすコト全てに渡ってシロウトの私には考えのつかない手法を用いてきます。おそらく音楽に精通しているヒトならば、その優れた耳で、その多岐に渡る音、音、音を聞き分け、あれやこれやと評論するコトも可能なのでしょうけれど、私にそのような芸当はムリです。──Xiu Xiuの良さは何か。この問いは(私にとって)「邪馬台国は何処にあったか?」というに等しい難問です。楽しい、といえば楽しい。ナゾだ、といえば確かに大いなるナゾだ。そして陽気でもあるし、陰鬱でもあるし、無邪気でもあるし、冷淡でもあるし、けれども無駄はなく、惰性でもなく、脱力はしているかもしれませんが、一方で熱がある。
何度聴いても何が何だか分からないバンドですが、しかし何度でも聴き続けられる不思議な魅力(魔力?)をもっています。そんなXiu Xiuについては MySpace.com - Xiu Xiu (今年の初頭に出たアルバム「Women As Lovers」も当然の如くハチャメチャな一枚です。)


Xiu Xiuのような変わり種の後に、たとえばダミアン・ライスなどを聴いたりしますと、あまりの階層差に戸惑います。今はダミアン・ライスのセカンドアルバム「9」を聴きながら、このアルバムはアグッレッシヴだなぁ、などとテキトウなコトを考えています。ファーストアルバムの頃とは打って変わって、バンドと共に、歌詞にも勢いがあって、それで…フォークシンガーじゃなくなってるよ。でも、イイ声だと思います。最近は歌などよりも楽器の音だけを聴いている方が楽な気持ちになって良いのですけど、たまにこの手のガッチリ歌い上げるようなタイプのヒトの音源に手を出しますと、嗚呼、気持ちのやり場に困惑します。心の中はあまり大きな面積がないものですから、気分をあっち行きこっち行きさせて、狭い範囲内で誤魔化し誤魔化しやり過ごしている毎日です。
ダミアン・ライスにはまたファーストアルバムみたいな素朴かつ気迫に満ちたアルバムを出して欲しいな。ニック・ドレイクみたいにシンプルななかに陰惨さと緊張感、緩和されざる懊悩を秘めた、そんな曲を期待してはさすがにダメでしょうか。タイプが全然違う? そうかもしれません。そうでしょう。そうだ! そんなダミアン・ライスについては MySpace.com - Damien Rice


ついでに書いときましょう。ガンズの「Chinese Democracy」出ちゃったよ! 中国共産党が崩壊して、シナの地に一応のデモクラシーが形成されるまで出されないのかと思っていたのに。聞こえてくるのは1曲当たり1億円の制作費云々。いったい何をどうすればそんな莫大な費用がかかるのでしょう。
ついでに書いときましょう。いつの間にかSPEEDが再結成していた。「Body & Soul」とか「Go! Go! Heaven」なんかは覚えているのですけど。私が中学生の時、時代は彼女たちに味方していました。誠に時間の流れとは残酷なモノで・・・おそらく7〜8年後にはPerfumeも・・・ いえいえ、何でもありません。
SPEEDのプロデューサーである伊秩弘将氏が本気を出せば、Perfumeの中田ヤスタカ氏を軽く凌駕すると思っている。八反安未果に提供した「SHOOTING STAR」こそ伊秩の本領。そんな気がしていた。うろ覚え。

2008年11月23日

2008年11月23日 山中優著『ハイエクの政治思想』

『ハイエクの政治思想』山中優著『ハイエクの政治思想』
──本書はハイエクの中期〜後期(コレは私が大まかに、かつ感覚的に分類した区分ですが)の理論変遷を適格に整理した好著であろうと思います。
本書の内容をかいつまむと以下のようになるでしょう。

『隷従への道』や『自由の条件』を著した頃のハイエクの自由論は、ある種楽観主義的な面が強かった。彼は「個人的自由」というものはそれ自体で「至高の価値」を有するものであるとして、人々がそれを尊重することによって広く繁栄がもたらされるのだと強調していたのです(このようなタイプの自由論を著者は「帰結主義的な義務論」と呼びます。つまり、人々が自由を尊重していると結果的に繁栄がもたらされるんだという、ある意味では穏健な考え方です)。しかし、ハイエクは次第にその態度を変化させてゆきます。そうして後期の『法と立法と自由』を世に出した時点にあっては、結果としてもたらされる繁栄について悲観主義的な要素を伴って強調するといった風になったのでした。つまり、それはこういうことです。その時期の彼は「義務論的な帰結主義」を唱える様になっていて、「自由(を守るための正義の諸ルール)」を維持しなければ、結果として我々の「生存のチャンス」は喪失してしまうぞという意見、要するに、恐ろしい帰結を主張することによって強硬的に「自由」を尊重すべしと訴えかけるものへと変化していたというわけなのです。自由の放棄=死だというんです。
なぜこのような変化を遂げたのでしょうか。
著者はそこでハイエクの人間観を指摘します。すなわち、ハイエクが「部族社会の情緒」と称した人間に内在する性質──身内での親密さと外部の者に対する敵愾心、大胆に言ってしまえば、閉鎖的ってコト──が問題となってくるのです。その存在のために、K.ポパーが「開かれた社会」といったような空間、すなわち市場秩序に対して人々は適合的であるとはいえなくなるのです。なぜなら、そこは互いに異なる目的を有する諸個人が、各自の目的を達成する為に雑然と入り乱れる場所であって、しかも必ずしも結果を保障されたわけではなく、常に失敗の可能性と隣り合わせにありながら、勇敢に活動することを要求される冷淡な場所だからです。いわば実力と運に左右される不確実な要素な支配的で、未知の者と共存せねばならない市場という空間にいることに対して、人々は元来「弱い不適合性」にある。だから、彼らは自ずと市場における自由な活動から距離を置いてしまうといった事態へと向かいかねない(「部族社会」への憧憬による先祖帰り)。ハイエクはこの点(自由社会が必然的なものではないということ)に苦悩しました。すなわち、潜在的に「部族社会の情緒」を秘めた諸個人は、冷酷さをもつ市場における自由な活動を好まず、己の安寧を政府権力によって満たしてもらおうと願う。その時、生じてくるものはといえば、「福祉国家」の名の下における(特殊な集団利益への偏愛に満ちた)利益誘導型のデモクラシーに他なりません。ここに至り市場における自由な活動もそのスーパーパワーに依存するものとなり、社会の発展は望めなくなります。行き詰まっちゃうのだ。窮屈な生存を余儀なくされてしまう。窮極的には自由が喪失してしまうのです。自由の放棄=死の意味するトコロです。こういう風に考えていけば、ハイエクが悲観主義的になったのも当然ではないでしょうか。そして、こうした点を踏まえるならば、彼の議会制改革論も、「部族社会の情緒」に淵源する恣意的な権力を抑制するために「法の支配」を徹底させることを目的として打ち出されたものであると考えることができましょう。それは当然の成り行きだったのです。


本書において最も印象的だったのは、ハイエクが市場秩序の出現に関して、その起源を宗教的なタブー(著者はそれをヘーゲルの「理性の狡知」に倣って「タブーの狡知」と称する。モチロン、この二者に込められている含意は大きく異なるけれども)に求めたという指摘がなされてあった点です。私はハイエクに関して、その著作において宗教との結びつきが非常に稀薄な様に感じていました。ですから、本書にて記されていたハイエクと宗教の問題については、新たな発見をしたといった感を受けたのです。また、彼が市場秩序の正当性の根拠としても宗教的な規範を必要としていたのではないか、との著者の指摘は大変興味深いものがありました。本書に補論として所収されている「文化的進化論の批判的継承をめぐって その近年の動向についての素描」で、著者は以下の如く記すことで、その結びとしています。


市場において「どうして自分の所得や資産が増減しなければならないのか、どうして自分が一つの職業から他の職業へと転業しなければならないのか、欲しいものを手に入れるためにどうして自分だけこんなに苦労しなければならないのか」──こうした問い、すなわち市場における“なぜ”という問いは、やはり人間として、どうしても発せずにはいられない性質のものだろう。確かに一方でハイエクは、そうした問いに明確な答えを見つけることはできないと述べていた。それは各人の腕と運とによって決まるとしか言いようがない、それが複雑現象たる市場の本質である──という冷淡な主張をわれわれに突きつけていたのである。にもかかわらず、そのハイエクが、市場における“なぜ”という問いに答えてくれるものとして、結局は宗教的規範のもつ力に依拠せざるを得なくなったのであった。この事実は、マルクス主義なきあと“宗教の復讐”(ケベル)に揺れる現代において、自由市場経済の今後を考えていく上で、非常に大きな重みを持っているのではないか──筆者にはそのように思われてならないのである。(二二九〜二三〇頁)


著者の見解に同意します。市場と宗教の問題──日本だとそうでもない問題かもしれませんが、欧米諸国においては殊に重要な問題となるでしょう。それ故に今後この二者の間に如何なる関係が生じてくるかによって、自ずと我が国の政治・経済・文化の在り方にも何らかの影響が生じてくるのではないかと思うのです。

2008年11月22日

2008年11月22日 悪い悪いカップルについての話

先日の産經新聞に「大麻はタバコと同様に有害」という変なタイトルの記事が登場していました。一見すると、大麻が有害なのは当たり前じゃないか、と思われるかもしれませんが、真実はこうです。すなわち、タバコも大麻もソレが持つ有毒さ加減は「同様」であって、どちらがより悪いモノであるとは一概に言えない。タバコは大麻と同じくらいの有毒物で、大麻はタバコと同じくらいの有毒物である、と、こういうワケです。すると、なーんだ、大麻ってタバコと同程度の害しかないんだーと思うモノもいれば、ええ! タバコって大麻と同じくらい有毒物なの!?と思うモノもいるでしょう。上掲の記事にはこのようなコトが書かれています。ちょっと長目に引用してみましょう。


ともあれ、大麻を巡る、特に若者たちの関心の背景として指摘できるのは、近年欧米でどんどん大麻解禁への動きが加速していることである。(中略)アメリカではアラスカ、オレゴン、カリフォルニア、ネバダ、ニューヨークなど12の州で、医療用の大麻が解禁されていて、しかも大麻の個人使用が犯罪にはほぼならないという状況にある(データは『大麻大百科』、大麻研究会著、株式会社データハウスによる)。


こうした続々の解禁。それは1995年にイギリスの医学雑誌『ランセット』に発表された、30年にわたる調査で、大麻を長期使用しても健康に問題はないとの見解が示されたことが一番大きいだろう。『ランセット』は、『ネイチャー』に匹敵するくらい格式の高い医学雑誌である。(中略)その後、大麻には依存性があることがわかってきた。使用経験者の9%が依存症に陥っていて、アルコールの場合の15%、タバコの場合の32%ほどではないものの弊害がある。
そしてもっと悪いことに、大麻のタールにはタバコと同じ発がん物質、ベンツピレンやベンズアントラセンが含まれている。(リンク:【正論】動物行動学研究家・竹内久美子 大麻はタバコと同様に有害


まとめます。
近年、外国では大麻が解禁され出した。ソレはさほど大きな有害性のないコトが判明したからであるが、しかしながら、その後に大麻の依存性が報告される様になった(「使用経験者の9%が依存症に陥っていて、アルコールの場合の15%、タバコの場合の32%ほどではないものの弊害がある」)。おまけに「大麻のタールにはタバコと同じ発がん物質、ベンツピレンやベンズアントラセンが含まれている」のであった。


私は薬物の専門家ではありませんので、この記事に記されている内容に如何ほどの信憑性、妥当性があるかについての断定は下せません。仮に、この記事が真っ当なモノであったとして、という前提の上でハナシを進めますが、大胆に言ってしまえば、タバコも大麻も同じくらい良くない、もしくは同じくらいしか害がないのです。大麻で逮捕されるならタバコでも逮捕されるべきだし、タバコが逮捕されないなら大麻でも逮捕されるべきではない、とこういうコトすら言えちゃうワケなのです。ソレは大麻をムチャクチャに濫用して気狂いになったヤツは、ソコらのヘビースモーカーよりも危険な存在かもしれませんが、斯様なコトは例外として一旦置いといて、ココでは一般論とでもいうべきモノを扱いたいのです。
現実的なハナシ、タバコと大麻の有害性が同一程度のモノであったとして、それではナゼ大麻だけが違法で、タバコは合法なのか。コレが最も厄介な問題かもしれません。純粋にその有毒さだけで合法/違法の規準を定めるのであれば、両方を合法化するか違法化するかしなければならない。じゃないとワケが分からなくなる。というか、現にちょっと分からなくなりかけています。──今更、タバコを違法化するなどというのは狂気の沙汰で、レーニンやスターリンの如き独裁者でもない限り実現不可能です。となると、最も穏健かつ妥当な判断として、大麻も合法化しちゃえ! ソレがイイ。だってタバコと同じくらいしか悪くないのですから。さすがにこの程度のモノで逮捕していたらキリがなくなる。お金もムダになります。
単に従来の大麻に対するイメージが偏向的であったために(またはタバコに対するイメージについて鈍感であったために)、こんなコトを申しますと変な風に見られるのかも分かりませんが、純粋に有害/無害の観点に立つ限り、大麻もタバコも同程度に有害なんだから、扱い方は同様にしなければいけません。


喫煙者は大麻常習者と同様に有害で、大麻常習者は喫煙者と同様に有害である。──一面的に見れば、という註釈付きであれば、たったコレだけのコトなのです。
有害なモノに対する処分方法は同じにしておかないと、一方の有害物を放し飼いにしておいて、他方を鉄鎖に繋ぐというのではあまりにもオカシイ。尤も、仕事中や運転中に一服するのと大麻を軽くヤっちゃうのでは、意識に及ぼす影響が多少なりとも違うでしょうから、その辺については何らかの考慮をしないといけないのかもしれません。…となると、コレは飲酒と同じような見地からの検討をも求められる必要がありそうです。そして言うまでもなく、お酒も一定の条件さえ満たせば合法です。


でも、改めて申すまでもありませんが、タバコにも大麻にも興味がないヒトであれば、こんなコトはどーでもいーのだ。私はただ上に載せた或る一文のためだけに今回の文書を綴りました。すなわち、私は以下のコトだけを言いたかった。
「喫煙者は大麻常習者と同様に有害で、大麻常習者は喫煙者と同様に有害である。」

2008年11月21日

2008年11月21日 大愉快

『大誘拐』刑事ドラマやミステリーモノにおいて最も好きなテーマは「身代金誘拐事件」です。ソレはとてもスリリングです。犯人からの接触の瞬間、捜査本部での捜査方針の決定、どうやって身代金を渡すか、挙げ句にはマスコミを巻き込んでの大騒動・・・ 各種事件のなかで、ココまで緊迫した光景を表現できる題材は他にないかもしれません。
しかし、それにも関わらず、私は常に一片の不満を抱えていました。ソレは必ずといって良いほど最後には警察が勝利! 犯人はあっけなく御用! というお決まりの展開がどうも気に食わないからでした。──警察だって完敗するコトはあるだろう、身代金を全額取られて、犯人側の高笑いで終幕。コレも描き方によれば十分なハッピーエンドとして仕立て上げられるはずなのに… そのようなコトを思い続けていました。けれども、コレは刑事ドラマに関していえば、不可能だといわねばならないでしょう。なぜなら、単純明快、ソコでは警察側の視点でストーリーが進むから。誘拐犯にとってのハッピーエンドを表現したいのならば、(当たり前のコトを言うようですが)犯人側を中心にして物語を創作していかねばなりません。


「クソー、たまには犯人勝っちゃえよ!」と不満を垂れると、「じゃあ、『大誘拐』でも読めばイイじゃん」との返答がお決まりのように返ってきたりもしました。フム、ナルホド、その『大誘拐』ってのは犯人が勝っちゃうんだな! と、文学/ミステリー音痴の私ですが、ココは意を決して是非とも読もうではないかと決心、…して流れた月日は果たして如何ばかりでありましょうか。来る日も来る日も自分が誘拐されたり誘拐したりするモノではないからとの誤魔化し、ついつい御座なりにしてきた無数の日々。
でも、転機は不意に訪れます。先日時間があったのと『大誘拐』を購入する機会に恵まれたコトとで、何とはなしに読み始めたのがキッカケです。──コリャとんでもないお話だ! 普段は本を読み進めるのが誠に遅い私ですけれど、この物語に関してはおよそ450ページを一日で読み上げてしまった。
突拍子もない展開に実に平易な語り口調、そして誘拐犯が勝つというより当の被害者が勝つとでもいうべき斬新なストーリー …果たしてこの事件の真の被害者は!? 結局本当の犯人はどちら? 不快感が一切残らないエンディング。愉快だ。こんな身代金誘拐事件は世界のどこにもあり得ないでしょう。あり得ないからこその唯一無二の独創性が漂っています。コレは誘拐事件の仏様かもしれません。読後、皆が笑顔になってしまうほどの親和性があります。『大誘拐』その名に偽りなし。そして内容も大誘拐ならぬ大愉快。
大きい事件は必ずしも悲劇ではない。描き方によってはこれほど爽快にも仕立て上げられるんだ。フィクション・ノンフィクションを問わず、こんな事件が現出すれば、世界は大愉快になっちゃうよ。仏様の笑顔を拝みましょう。

2008年11月17日

2008年11月17日 出産はSMである

分娩室の写真を見るだけで怖くなるのです。
ただし、ソレは現在の私にとってまったく関係のないコトですが。いえ、正確に申しますと、我が身としては生涯直接の関係を持たない出産という行為が、間接的にではあれ、ソレはソレはとても怖いのです。以下のサイトを御覧になると良い。


分娩室をのぞいてみよう


「病院の一般的分娩室」という欄の「3」と「6」に注目されたい。こんな説明があります。


3.足ひも(足がバタつかないように縛る皮ひも)
6.無影灯(手術室で使うような、照らしたときに影が出ないように工夫された、めちゃめちゃ明るくてまぶしい照明)


コレは完全にSMの世界ではありませんか!? こんなモノ、多少なりともSっ気であるとかMっ気であるとか、そうした趣向のあるモノにとっては間違いなく「プレイ」の次元です。しかも、ソコには陣痛で苦しんでいるヤツがいる。ヒーヒー言っとるんです。ロウも垂らされてないのに、です。彼女はご主人様とその助手(医者と看護士)から「ラマーズ法」などというイヤらしい呼吸法を命令されてスースーハー、スースーハー...... 縛られて、無影灯なる強烈に卑猥なライトで陰部を照らされて、スースーハー、スースーハー...... オラオラ、もっと頑張れよ、と命令するご主人様とその助手。スースーハー、スースーハー......
聞くトコロによると、赤ん坊と一緒に妙なモノが出てはいけないからなどと理由付けして、事前に浣腸もするらしいではありませんか・・・ おまけに剃毛といった処置すら施されるという驚愕すべき実態!──コレをSMといわずして何というのでしょう!


嗚呼、ソコは尋常ならぬほどに怖い場所。
最近は立ち会うダンナが多いそうです。いうまでもなく、男は彼女の苦痛を直に我が身へと引き受けるコトができません。となると、彼女を心配しているにしても、ココロのなかには多少の余裕がある場合だって否定するワケにはいきますまい。すなわち、私が言いたいのはこういうコトなのです。眼前にて契りを交わした女性が浣腸をされてみたり毛を剃られてみたり、はたまた縛られてみたり陰部を強烈なライトで曝されてみたり、あるいは呼吸法を命令されてみたり…… そうした光景を目にしたとき、もしもMっ気のある夫ならば、何らかの興奮の感情が心中を去来し、またはSっ気のある夫ならば、何かイタズラをしてみたいと思うサディストの本能が顔を覗かせてみたり……
コレは恐ろしいコトなのです。おそらく当ブログ始まって以来、最も恐ろしいコトを記しています。私はもはやどうして良いのか分かりません。考えたくもない。この記憶、キレイサッパリ消されておくれ。神様……


そこで男を二分すれば、私はどうなるか? どちらに属すか?──分かり辛いので単刀直入に言いましょう。SかMかという問題。私は間違いなく後者だ。こんなコト、明日世界が終わるとしても考えたくないのですが、もしも出産に立ち会わねばならなくなったとすれば、私は、背中に「M」の十字架を背負って生まれてきた私は、果たしていかなる風体でソコにいれば良いというのでしょうか? 興奮するのか、俺は? それとも自分もこんな風にされてみたいと・・・
ココまで想像して、私はふと背筋が凍る思いに支配された。も、もしかして、私の母親もそんなコトを・・・・


ぐわぁあああああああぁぁぁあああああああ!!!!
世界の終わりですぅぅぅううぅ!!! thee michelle gun elephantはこのコトを歌っていたのかもしれない。World's End Girlfriendというのは、多分出産する女のコトだ。
くそぅ!松嶋菜々子くらいで想像を止めておくべきだった。無駄な想像はヒトを死の淵へと追いやる。

2008年11月16日

2008年11月16日 面従腹背

The Man With The Horn朝っぱらから久々にマイルス・デイヴィスなどを聞いていますと、そのトランペットの音律に誘われて妙な哀愁感を身に纏ってしまうのですから、まったくもって不思議なものだと思います。
──マイルスの遺作となった「Doo-Bop」に、復帰後第一作「The Man With The Horn」
前者はヒッポホップという当時の先端ミュージックとの融合を大胆にも企てた一作。後者はマイルスが最も刺激的だった「Bitches Brew」以降、一段落した時期に発表された一作。前者は何度聴いても曖昧な印象だけしか抱けないのに対し、後者に関してはとても音が分かりやすい分、すんなりと入ってゆけるような感を覚えるのです。受容しやすい。それはマイルスのトランペットがとても明快で音色に富んでいて、また一種「大衆向け」といった趣きさえあると表現しても良い気がします。ただし、一曲目「Fat Time」のヒリヒリとするような緊張感あるマイルスのトランペットとギター/ベースの混合や、最終曲「Ursula」の妙にタイトな旋律などは「On the Corner」からの異物的な派生状態の如き面白みがあるように思われて、これらの曲に関しては「哀愁感」というよりは「(秘めたる)勇壮感」とでも形容した方が相応しい様な、──まぁ何とも言い辛いのですけど、確かに聴くものを高揚させるナニモノかがあります。コレは確かです。他方で表題曲に関しては、ああ、なんだこのヴォーカルは。これぞ中年の哀愁感か!? 「Fat Time」、「Ursula」というスラムダンクの流川楓的な雰囲気の曲にサンドイッチされるカタチで、中にこうした曲が混入している点が、このアルバムの奇妙な点であり、また捉えようもなく神秘的でありつつ同時にどこかしら世俗的な態様を示す要因になっているのでしょう。
傑作とか名盤とかそういう枠組みでのみ一枚のアルバムを聴くというコトの無意味さ、空虚さ、儚さ、ロクでもなさ、視野の狭窄、単一の価値観に基づく姿勢の愚劣さ、弱い犬ほどよく吠える的な威勢の空回り…… そういった気持ちを抱かないではありませんが、所詮私などは素人、具体的な作品云々についての総体的評価なぞはソノ筋の専門家が発言すれば良いコトで、素人は素人なりに良いと思うモノを、それだけを選択して、また更に吟味して、自らのなかで己が特有の感慨を発酵させれば良いはずです。


一編の連続した物語よりも、単一の事象の方が何かを変えるコトだってあると思います。単体の、ある一点の極めて突出した素晴らしさが、全体としてのトータル性において平均レベル以上には優れているが、しかし決定的なインパクトに欠けるモノをアッサリと追い落とすコトだって珍しくはありません。私はそう思っています。モチロン、総合力として革新的な魅力を備えているモノが最上なのは申すまでもありませんが、かようなモノはそうそう現れはしない。そうであれば、日常的なハナシ、単一の秀逸的なる存在が、凡百の一貫した完結性ある平均物を打ち破るといった事態は何も珍しくはないのです。イヤ、むしろ、世の中の変化とは、往々にして単体の異常な飛躍が漸進的に拡大してゆくトコロから生じるとすらいえるかもしれません。
私にとって「Fat Time」、「Ursula」は、そのような優れた飛翔する単一の実在として数えられるモノなのです。


※意味ありげなタイトルほど実は意味がない。そして・・・意味ありげな文章ほど実は意味がない。

2008年11月15日

2008年11月15日 お相撲徒然草

琴光喜は誰かを笑わそうと企んで土俵に上がっているのかもしれません。5日目、6日目の相撲は無様の一言でした。他方、今場所は高見盛が比較的良い相撲を取っています。立ち合いからサッと差せているのが印象的。また、雅山も勝ちっ放しですけど、彼は今場所、なぜか落ちません。最近はすぐにゴテーンと転がっていたのですが。大関昇進のかかる安馬は、相当慎重な取り組みが続いているけど、コレが果たして今後にどのような影響を及ぼすか。一横綱一大関が休場して「狙い目」の場所なだけに、この後は負けられない。把瑠都…小柄な力士を相手にしたときに見せる例の反則的な上手を引きながら、強引に前へ出て行くパターンはどうなんだろう。最近は「おおっ!」じゃなくて「ええっ!?」
十両では玉鷲が良いんです。幕内で負け越したのが良かった、とは6日目の向正面に解説として登場した同部屋の年寄楯山親方(元玉春日)の弁。──玉春日は私と同郷の四国出身力士でした。四国出身の有力力士というのは非常に少ないものだから、彼はある意味で「希望の星」的な感じだった。7〜8年くらい前は土佐ノ海と共に土俵を湧かせたものです。親方としても頑張って頂きたい。
ところで、今場所の東幕下上位には関取経験者がかなり揃っています。彼らはどうなってしまうのだろう。西の幕下では蒼国来や風斧山、隆の山といった外国人力士がそれなりに上位へ付けていて、中でも(稀勢の里の付き人でよく映る)隆の山がイイ感じです。レスリングの選手みたいな体格がやや気がかりですが、十両で見てみたいと思います。山本山とのアンバランス対決・・・・ おっと! お相撲さんを相手にする妄想は時に危険で、時に卑猥です。道は過りたくないものです。

2008年11月13日

2008年11月13日 ラブレター講座

理想的なラブレターの書き方を教えます。以下に示すのは例文です。コレを参考にすれば、きっとアノヒトのハートを射止められます。ただし例外はありますので、個人的な苦情には応じかねます。「自己責任」という言葉は便利なものです。


例文
「※これはラブレターです。悪フザケではありません。
僕(私)は○○さんのことが一番好きです。クラスメートを消去法で選んでいった結果、○○さんが一番素敵な人だと思う様になりました。僕(私)は○○さんの恋人です。僕(私)はそう思っています。だから○○さんもそう思った方が無難だと思います。
毎日○○さんの机を雑巾で拭いているのは僕(私)です。いつもキレイでしょ?
先日○○さんが風邪で学校を休んだとき、○○さんの家のポストにその日の給食で出た麻婆豆腐がナイロン袋に入れて置かれてあったと思います。美味しく食べましたか?
○○さんが先生に怒られて泣いた後、先生の車のサイドミラーを壊しておいたのは僕(私)です。
○○さんのお父さんが勤める会社が倒産したとき、クラスメートに「○○の父さんの会社倒産って言うなよ! 絶対言うなよ!」と注意して回ったのも僕です。
僕(私)は○○さんのためなら闘います。○○さんを傷付けるヤツは絶対に許しません。先月、○○さんの家にいるペットの猫が、○○さんを指に噛み付いたのも僕(私)は知っています。その猫は僕(私)が始末しておきました。
改めて○○さんを見ると、毛の無いワニのような顔をしていますが、その点は我慢します。


ということで、なんだかんだありまして、○○さんが好きです。
返事待ってます。返事は以下の口座に3万円を振り込むだけで十分です。


△△銀行
・□□支店
・ 店番号: 988
・普通預金: 0009911
・口座名: ×××× ××××

2008年11月10日

2008年11月10日 秋の一日

寒い寒い、と思う様になったので不思議に感じていました。寒さとは相性が良いタチですが。原因はどうやら部屋の中で依然としてTシャツ姿の我が不逞の身なりにある様です。今日になって漸く扇風機を片付けました。本日の最高気温は15℃です。風は吹きません。風邪はひくかもしれません。今こそ日本男児たる我ら青少年一同は、乾坤一擲、人心を帰一し、以て寒冷前線を追い払おうではありませんか!
秋晴れのなか、浪曲を口ずさみながらの部屋掃除とは、なかなかに哀愁ある午後ではありませんか。誰がそんなコトをするのかは知りません。外からは相変わらずの音が響いて参ります。子供たちの遊ぶ声、トラックのエンジン音、重機の騒音、鳥の鳴き声、馬の蹄の音、戦闘機の爆撃音、審判のホイッスル、百姓一揆に向かう農民たちの世間話、大声でFIELD OF VIEWを歌う中学生たち、チマチョゴリを着てサンマを焼く怪しげな女とその娘の囁き声・・・
誠に日本の秋は情緒豊かで、官能に満ちています。ティッシュが何枚あっても足りそうにないとはこのようなコトを言うのでしょう。さて、友人の五兵衛が鍬を持って我が家を訪れたので、私もちょこっと鋤でも担いで代官所へ突入して来よう思います。

2008年11月09日

2008年11月09日 我が悲劇の世紀末

小学校の校歌は一番だけ歌えるのです。伊達に六年間来る日も来る日も通いに通ったワケではありません。でも、不甲斐ないコトに、中学と高校の校歌に関しては惨憺たる有り様なのです。コレが全く思い出せない。歌詞もメロディーもその片鱗を表しません。著作権以前の問題です。困りましたねぇ。こうなっては校歌の存在自体を疑わしく思っても仕方無いでしょう。(そうは言っても存在していたのは間違いのないコトなのだから、本当に疑わしいのは私の記憶力の方だ。)
中学の校歌は、音楽の授業で散々練習させられました。特に入学直後、一年生の一学期は何度も何度もうんざりするくらい歌わされた記憶があります。ですが、今となっては全く何も、その面影すら浮んできません。高校においては、音楽の授業が選択制で、私は音楽ではなく美術を選んだため、練習する機会すらありませんでした。…イヤ、正確に言うと、終業式や卒業式の前日とかに、「明日は校歌を歌わなければいけないので練習するぞ! エイエイエオー!」ってなコトで、朝会か集会の時に幾度か練習した様な気がするのですが、どうもハッキリとは覚えていません。──そんな記憶は大して必要ないのですから、覚えていないのはある意味で理に適ったコトなのかもしれません。が、私は校歌そのものをまったく記憶していないのだから、その意味では理に適っていない。先日逮捕された小室哲哉の作った曲は幾つか覚えているし、実際には口ずさんだコトがないような安室奈美恵の曲だって何となくアタマのなかで再生できます。どんなもんだい! イヤ、小室だけじゃありません。私が中学に入学した年、すなわち1997年にヒットした曲、つまり KinKi Kidsの「硝子の少年」とか猿岩石の「白い雲のように」とかだってちゃんと覚えているんです(ちなみに97年は、正に小室旋風真っ直中でした)。また、高校に入学した年、2000年のヒット曲、 サザンオールスターズの「TSUNAMI」であるとか福山雅治の「桜坂」、プッチモニの「ちょこっとLOVE」、大泉逸郎の「孫」、蓮井朱夏の「ZOO 〜‎愛をください〜‎」だって忘却してはいません。ソレだのに…オレぁ、実際に何度か歌ったはずの中学・高校の校歌を覚えていないなんて。そんなバカなっ!
「孫ぉという名ぁの〜ぅ宝ぁもぉのぉ〜」を覚えていて、校歌を思い出せない!?
「愛を くださぁ〜い うぉううぉう 愛をくぅださぁ〜い」が出てきて、校歌が出てこない!?
「人は誰も愛求めて 闇に彷徨う運命/そして風まかせ Oh,My destiny/涙枯れるまで」 我が人生にほとんど必要のないこの一節はすぐに出てくるのに、校歌は一節たりとも出てこない!? 恐ろしいコトだ… コレ、私の世紀末の出来事です。
──ちなみに我が母校の校歌は(私の中で)ポケットビスケッツにも広末涼子の「MajiでKoiする5秒前」にも「慎吾ママのおはロック」にも負けちゃってるんです。そんなバカなっ!

2008年11月08日

2008年11月08日 好きな声(後悔先立たず)

さて、前回の終わりに「私の好きな声」について書くなどと予告してしまったばっかりに、私は何かを書かなければいけなくなりました。元々はただの思いつきだったのです。正に寝耳に水です。言うなれば、或る映画監督が「次回作はラブ・ロマンスを撮るよ。それもとびきり濃厚なベッドシーンがあるヤツをね。」と予告、翌年キャストもスタッフも決定し、さぁコレからクランクインだというタイミングで、監督が「やぁスマンスマン。実は脚本がまだ出来ていないんだ。っていうか、一字一句として書けてないんだ。そもそも書く気なんてないんだ。だから仕方無いんで、キミら、今からベッドの上でソレっぽいコトをやってくれ。じゃないと、ギャラは出さんよ。」と言う様なモノです。
……監督怖いんで何かやります。何か書きます。ソレっぽいコトを。


「好きな声」とはそも何モノか。私にとってソレは中学時の同級生であるヒノ君の声であって、彼の様な声が理想だ、と宣言しても、残念ながら誰も分からないので困ります。すると、ココで飛び出し気味に「声といえば声優じゃないか」という天の声。おお、ナルホド! さもありなん。…が、私は声優に詳しくない。じゃあ、声を語る資格なんてないや。ハイ、終わり。


と、この時点で終わるコトができればどれだけ幸せなコトか。だが、ソレは先の映画の件でいうと、主演の女優が「私、処女なんです。だからムリです。そんな卑猥なコト…」と拒否するに等しい。そんなコトは許されません。暴挙です。処女膜破れてしまえ! どういう映画かは分かっていたはずでしょう。大まかな予告だけはされていたのですから。──不幸にも、私とて大まかな予告をしてしまった以上、具体的な何かを書かなければなりません。困ります。朝、自宅を出る直前にお腹が痛くなってきたときと同じくらい困ります。


それではハッキリと──どういう声が好きか。二つあります。一つ目は「スクールウォーズ」に出てきた“イソップ”君の様な捉えどころのない、ちょっとだけ高い音でフワフワとした中性的な声。上述のヒノ君はこの部類に属します。二つ目は抑揚の効いた程よい低音が響き渡る誠に紳士的な声。コッチは専ら男性に限定されます。具体的な例でいうと、アメリカの野球選手、ニューヨーク・ヤンキースのキャプテン、デレク・ジーター(が坦々と喋っているときの声)に象徴される様な、渋みのあるムーディーな声です。私の知っている限りのスポーツ選手のなかでは、彼が最もダンディな声の持ち主であるといえます。こういったタイプの声を探そうと思えば、ソウルミュージックの界隈を探索すれば良いんです。わんさかと見つかるでしょう。にも関わらず、ココであえてジーターを持ち出したのは、彼が声で勝負する仕事をしていないという事実、それでいてズバ抜けて渋い声を持っているが故です。(その分、髪型に関しては、遠くから杉苔を眺めたときのようなスタイルですけれど…)


ああ! あと、全然関係無いけど、歌手のYUKIサンの声も好きです。元JUDY AND MARYの。(友達で彼女みたいなのがいると、コッチが神経衰弱になりそうですけれど、)歌手としては素晴らしい声に恵まれた結構なお方だと思います。ソロになってからの歌い方の方が、私好みの声に響いているような気がするのですが。(声だけで選んだ場合、)オススメは「ハミングバード」って曲で、シングルでも出てたと思います。ああ、そういえば「ティンカーベル」って曲のサビ部分の声も良かった様な覚えがあります。加えて「JOY」とかいう曲も多分良かった。イヤイヤ、曲単発ではなく「JOY」ってアルバム全体で良い声だった。ビューティフルじゃなくてキュート。プリティじゃなくてキュート。そんな声。


というワケで、次は「dl-マレイン酸クロルフェニラミン」と「d-マレイン酸クロルフェニラミン」の関係について書きます。「狼少年」ってタイトルで。

2008年11月07日

2008年11月07日 六分の三

珍しくこの一週間の間にコミックを三冊も買いました。何かの間違いかもしれませんが、どうやら現実のようです。古本で三冊以上購入するコトはありましても、新刊本で三冊ともなれば、コレはもはやセレブです。


古谷実 『ヒメアノ〜ル』1巻
井上雄彦 『リアル』8巻
新井英樹 『キーチVS』2巻


三者三様の顔ぶれで、それぞれに良さがあります。
古谷サンはまた同一のシチュエーション。果たして果たして如何に進展してゆくのか。このヒトは作品でというよりも、作者として何か一つのモノを築き上げようとしているのではないでしょうか。
『リアル』はどうだろう。初めて野宮と戸川と高橋の“リアル”が同一方向に向けられた様な気がします。ココからまた始まるのです。(余談ですが、野宮のナンパした女──山下夏美は井上漫画の中で一番カワイイ少女かもしれない、と思います。)
『キーチVS』は…密度が凄い。ああ、これこそがこのヒトの漫画なんだろう。上記の三つの中では抜群に迫力がありました。全く恐ろしい。マスコミも国家も政治家も、そしてキーチも……(コッチも余談ですが、新井英樹サンのコマ割りはやっぱりスゴいなぁ。今年の春に『RIN』を見て驚いたですが、またまた驚かされました。感嘆、讃嘆。)


ところで、私が現在購入しているコミックは以下の六作品です。


井上雄彦 『リアル』
増田こうすけ 『ギャグマンガ日和』
新井英樹 『RIN』
新井英樹 『キーチVS』
つの丸 『たいようのマキバオー』
ココに此の度から古谷実 『ヒメアノ〜ル』が加わりました。変で偏な組み合わせです。
コレらのうち上から三つに限ってはコミックが年に一冊にしか刊行されません。となると、今週に三冊も購入したのは、何とも奇怪な偶然であると言わざるを得ないでしょう。六分の三にも手を出しやがった! 全く悪いモノです。…主にタイミングとかが。あと、『リアル』がコッソリ10円値上げしているのも悪いモノです。
そのうち、余裕があれば『キーチVS』2巻についての雑記を載せたいの思うのですが、現実はウソと偶然によってできている様なモノですから、アテにはして欲しくないのです。なお、次回は「私の好きな声」について書かせてもらう予定ですが、コレとて怪しいモノです。私の辞書で「有言実行」という言葉を引いてみますと、ソコには「理想の一種。そういうモノが礼賛される傾向にあるらしいコトは知っているが、当人とはあまり関係がない。『虚言癖』の項も参照。」と書かれているのです。

2008年11月06日

2008年11月06日 続かない物語

昨日は実に曖昧な内容の文章を記したものだと思います。自分のコトながらほとほと困惑致します。力はヒトを解放し、挙げ句彼を傲慢にする。ソレを抑止するための美──様式美、美徳、美意識…ソコに何かしらの期待を寄せてみたいと思ったまでです。エドマンド・バークの言葉が遠方から響いてくる思いです。


それにしても、知恵も美徳も欠いた自由とはそも何ものでしょう。それはおよそあり得るすべての害悪中でも最大のものです。


自由と抑制というこの対立する要素を調合して一つの首尾一貫した作品にするためには、多くの思考と、深い省察と、賢明で力に溢れ総合力ある精神とを必要とします。


『蟹工船』今日は午前中に小林多喜二の『蟹工船』を読んでいました。130〜40ページの小説なので意外とすんなり読めます。最近、この本がよく売れて、共産党シンパも増大しているようです。……が、私からは何も申し上げるコトがございません。
『蟹工船』を読んで、思わず笑ってしまいました。純粋なんですねぇ。非常に純粋。換言しますと、彼らは甘っちょろい。所謂「ブルジョワジー」に対してあと一歩、あと一手がない。ソレは彼らの置かれる立場上やむを得ないモノなのかもしれませんが、はからずもソコに戦前の共産主義運動が全くもって大した成果を上げられなかった要因が顔を覗かせているようにも思えます。(ソレを象徴しているのが新潮文庫などでは一緒に所収されている「党生活者」です。コッチはもっと傑作のお笑い話。)然るに作者の小林多喜二は、ご都合主義的にこの物語を一応の成功でもって終わらせているのですから、コレがなおさら厄介なのです。俺たちは狡猾なブルジョワの搾取に対して、一致団結して闘争するぞ! その心意気は誠に結構です。でも、こうした“立派な”彼らの意志も所詮創作物語の次元に止まっていて、現実との乖離を露呈しています。この小説に描かれているような人々の言動(及びソレを裏で支える背景をも加味して)が、強力なブルジョワ勢力を前にして果たしてどこまでの結果を与えてくれるか。楽観論ではなく現実主義的に考察してみた方が良い。(しかもコレを思い切って現状と重ね合わせてみるならばなおのこと…) あくまでも小説ですので、こういうコトをいうのはオカシイのかもしれませんが、コレ(『蟹工船』)はもはやただの砂上楼閣に過ぎないといえる。外見はソコソコ取り繕った風な体裁ですが、中に入ろうと扉に手をかけてみると忽ちにして瓦解してしまう。ソ連を楽園のように描いているシーンがあるのも、今となっては砂上楼閣の一端を形成するものであるといえましょうか。
共産主義運動の先には何があるか。──小林多喜二はこの点に関して何かしらの明確なイメージを持てていたのでしょうか。彼の想像力に対しては些か疑問符が付きます。もしかすると彼がこの物語の最終的結末を「附記」としてしか記さなかったのは、その「先」についてのイメージを形成するコトができなかったからではないのか? コレは私の素朴な疑いです。確かにココでは彼らの「サボ」が成功し、監督に対する抵抗は一応の成果を上げます。しかしながら、ソレをもって「プロレタリアート」の勝利だなどというには、あまりにも楽観的過ぎというものです。極小的な事象を極大的なモノへと拡大していく、そうした共産主義運動(殊に日本におけるソレ)がもたらす具体的かつ善良なる未来というモノを、小林は実体化できなかった。それ故、彼はご都合主義的に「附記」という形式でポジティブな未来を示唆するコトでしか幕を閉じられなかったのではないか。尤も小林が如何なる具象を提示しようとも、今となっては共産主義という制度がもたらした事実によって、ソレらは全て反証される可能性がありますが…
『蟹工船』は、──いや、作者の小林多喜二からして、ソレは八方塞がりの賜物であるといえるかもしれません。ココには如何なる光も射し込みません。共産主義運動の限界を披瀝したという点では、この物語、殊にその結末の書き方ほど微笑ましいモノはないでしょう。ただしソレ以上でもソレ以下でもない貧相な小説。
この本が売れるのは、或いは現在の人々の間に立ち籠める八方塞がりの状況を暗示しているのかもしれません。そしてソコに何らかの意義、論点があるとしても、ココで一つだけ明確にしておきたいコト、ソレはコノ物語が何ら具体的かつ光栄ある未来に対する一助とはならない、という点に尽きると思います。

2008年11月05日

2008年11月05日 大相撲と応援者について

朝青龍、休場へ


朝青龍が帰ってきました。尤も彼の場合、モンゴルに帰国し、日本に来ると表現した方が適切かもしれませんが。
朝青龍に対する風当たりは非常に強いものがあります。土俵上での振る舞い、土俵以外の場所での言動。「敵」を作る要因は多々あります。
ここでまず予め述べておいた方が良いでしょうが、私は朝青龍を全面的には支持致しません。一力士として見た場合、彼の行動は些か大胆過ぎる部分もあるからです。容易に見過ごすコトはできません。しかし、他方では、彼の相撲に対して尋常ならざる期待を寄せてきたのも事実であります。至るトコロで限界説が囁かれています。確かに土俵上で実力を出し切れる、その峠を超えた可能性は大いにあります。明けない夜が無いのと同時に暮れない昼は無いのです。けれども、思い出して欲しいのは、朝青龍という力士が如何に並々ならぬ相撲を披瀝してきたか。2〜3年前、彼がピーク時の迫力は正に「大横綱」の形容が相応しいものでした。現在、もう一人の横綱である白鵬にしても、依然として脂の乗り切っていた時期の朝青龍を超えるコトはできていません。立ち合い前の集中力、あの瞬間の目を一度でも見たコトがあるヒトならば、真実、彼がどれだけ稀有な素質を抱いていたかを、その記憶に刻み込んでいるはずだと思います。
おそらく朝青龍は九州場所を休場するでしょう。その間も彼に対する批難は轟々として止むコトが無いでしょう。横綱としての務めを全うしていないという指摘は誠に正鵠を射たものであると思います。その点に関しては彼も真摯に批判を受け止めなければいけません。その点に関する自覚は無ければなりません。果たして彼がどの様な意識を抱いているのか。残念ながら明確ではありません。
本人は怪我を治して、初場所に進退を賭ける覚悟なのでしょう。言うまでもなく、もはやそうする他にはありません。全てが問われる場所になりそうです。しかし、これは清算の場所ではない。けじめの場所なのです。ここまできたらもう後退はあり得ません。そして──今のトコロ、前進も望めません。もはや留まるか飛び降りるかの二者択一です。モチロン、その結果とて果たしてどうなるものか、全くもって何も分かりません。ここで再度述べておきたいと思います。私は愚鈍で、未練がましい性格ですので、そう易々と反旗を翻すような勇気を持ち合わせてはおりません。現在の朝青龍が如何に醜く、無様であろうとも、私は今日まで彼の相撲に関しては一貫して支持をして参りましたから──来年の話をすると鬼が笑うなどと言いますから、あまり具体的なコトは言えませんが──来年の初場所がどうなろうとも、また朝青龍に対して如何なるバッシングがなされようとも、私は彼に対して背を向けるようなコトだけはしないでおこうと思います。


当然、横綱の品位云々といった議論は確かに無視し得ないものです。その部分に関しては、彼を擁護し切れない部分で溢れ返っています。情けないハナシ、ココに大いなるジレンマがあるのです。整合性が著しく欠けています。私は以前に「相撲というものは土俵の上だけで成立するものではない。普段の生活、稽古、挨拶、習慣…それら全てが交叉したところに初めて真実の相撲といえるものが構築される」といった様なコトをココに記しました。それはモチロン今でも変わらぬ信念です。しかし、ソレも朝青龍を前にした時、途端に曖昧なモノと化してきたのも事実です。土俵上の魅力が全てを後退させた。それは他ならぬ朝青龍自身が演じた失態であるにも関わらず!
既にけじめをつけなければいけない時期がきているようです。
けれど、過去を単純に割り切って洗い流すフリをするのは、実は至極容易なコトではないでしょうか。私はそれ故懲りずに朝青龍を支持する側に立ちます。ジレンマを内包したまま彼に向かいます。向かわざるを得ません。私の場合、コレは土俵上の充実と様式美としての相撲の狭間に横たわる問題ではないかと思っているのです。今まではどちらか一方を選べば、どちらか一方を断念せざるを得なかった。その結果、自己分裂的なカタチとして、相撲を見る姿勢に大きな齟齬が生じてきます。強さと品位の両立。これは歴代横綱にとっても厄介な問題であり続けました。近年においてソレを象徴的に表現してしまったのが、朝青龍と、そして彼を礼賛した私のような応援者ではなかったかと思うのです。
この問題は容易に解決できるような代物ではありません。声に出すコトは容易だが、現実化するには難儀である。その時々に強いモノに対してハナから敵対視していれば、表面上は整合性を維持するコトができるように思われるかもしれません。しかし、実際のトコロ、そうした振る舞いは事の内奥に入り込んでいないように思われます。それでは本当の解答を導き出すコトができないのではないでしょうか。どこまでを支持し、どこからは善意の批判者となるか。そのような境界線がアッサリと発見されれば良いのですが…(結局、こうした問題については、どこかで割り切ろうとしなければいけないのかもしれません。ナイーヴ過ぎると却って混沌たる有り様を迎えてしまう。完璧主義者、潔癖性ではやっていけない。支点の不在という穴を埋め合わせる方途を模索していかねばならないと思います。)


…と、ココまで書きました。ココまで書いて自分自身に対しても、また相撲そのものに対しても、何ら確固たる見解を得られなかったので、とりあえず今回は円満に(!?)擱筆します。
改めて懸念の要点を絞り込んでおきますと、相撲の様式美を乱さぬよう信念を貫きつつ、他方で朝青龍のようなハデな相撲をとる力士の魅力を如何に受容していくか。すなわち、美と力の両立のためには、応援者はまずもって現実に対してどうあるべきか。この点に尽きるのですが…

2008年11月04日

2008年11月04日 「復活のための序曲」

『ビルマの竪琴』これは『ビルマの竪琴』についての文章です。
『ビルマの竪琴』は文学者である竹山道雄氏が子供向けに書いた童話です。でも、二十歳から三年間を無為に見過ごした私が読んでも、心は風に吹かれた蓮花の花の如くサワサワと動きます。これはとても感動的なお話です。これは戦争と音楽のお話です。ビルマ(現ミャンマー)に駐屯する兵隊サンたちを描いたお話です。兵隊サンたちは歌を歌うのです。戦火の下でも、終戦後に捕虜として収容所に収監されても、みんなみんな合唱するのです。「はにゅうの宿」「春らんまん」「庭の千草」といった曲を精一杯、精一杯歌うのです。それが彼らの隊の士気を鼓舞するのです。
主人公の水島上等兵は竪琴を上手に上手に弾きます。他の隊員からの信頼も厚い立派な兵隊さんです。隊長が水島上等兵に寄せる信も殊更強いものがありましたので、彼は水島にある命を託します。それは終戦を告げられてもなおイギリス軍を相手に抗戦する友軍の説得という任務です。隊長の思いはこうです。

国は廃墟となり、自分たちの身はこうした万里の外で捕虜となる──。これは考えてみればおどろくべきことだ。それだのに、私は、これはどうしたことだ──、とただ茫然自失するばかりである。それをはっきりと自分の身の上に起こったことだ、と感ずることすらできない。ただ手からも足からも力が抜けてゆくような気がする。……(中略)……そうして、もし万一にも国に帰れる日があったら、一人ももれなく日本へかえって、共に再建のために働こう。いま自分のいえることは、これだけである。


水島上等兵は、依然として頑に抗戦を続けようとする仲間を説得し、「共に再建のために働こう」とのメッセージを伝えるため、仲間の元を外れて単身三角山へと向かいます。他の兵隊サンたちは水島上等兵を信頼していましたから、きっと彼が友軍の者たちを説き伏せて、また我らの前に姿を現すであろうと信じています。信じていました。しかし、水島上等兵は帰って来ません。一月が過ぎて行きましたが、水島上等兵は戻らないのです。さすがに仲間も心配し始めます。まさかあの水島が? いや、そんなことはない。そうだ、あの水島に限って。──けれども水島上等兵は姿を現しません。水島上等兵の竪琴は響いてきません。
兵隊サンたちは捕虜となっていましたので、収容所に収監されている間、様々の雑務をしなければなりません。ある日、彼らは橋の修繕をしていました。すると、そこに何と水島上等兵とソックリな容姿のお坊さんが現れるのです。ビルマは仏教国ですから、お坊さんは沢山います。しかし、水島上等兵にソックリなお坊さんとはどういうことだろう! そのお坊さんは何も口を聞きません。隊員たちは相談し合います。あれは何者だ?水島か? いや、ただのソックリさんだろう。しかしよく似ていたなぁ。そもそもあれが水島だとしたら、なぜアイツが坊主などになるんだ。理不尽甚だしいじゃないか。そうだ!あれが水島ならば、俺たちと面会して無言で通り過ぎるわけがないだろう。


お話の内容はこの程度にしておきましょう。このお話にはどういった意味があるのか。色々な解釈ができると思います。ココでは私の見解を少しだけ記しておくことにします。
このお話は終戦後間もない昭和21年から23年までの間に書かれたものです。戦後三年と経過していません。上に引いた隊長の言葉にある様に「国は廃墟となり」、国民の多くが依然として「手からも足からも力が抜けてゆくような気」から完全に脱し切れてはいない状況のなかでこのお話は書かれました。路頭に迷ったヒトも多くいたはずです。具体的な目的を持てず、将来への目処も立たず、その日その日を生き抜くことで必死なヒトたちも沢山いたはずです。肉親を喪ったヒトもいれば、友人を喪ったヒト、恋人を喪ったヒト、教え子を喪ったヒト、その他無数のものを喪ったヒトで溢れていました。そうした状況のなかで、ある意味では必然的と言るかもしれませんが、戦争に対する怨嗟の故に、人々は非常に過去の記憶を蔑ろにした。政治家を憎み、軍人を憎み、召集された兵隊サンたちまでをも憎んだ。全部ごっちゃにされ、人々の中から死者に対する弔いの想いは稀薄なものとなりかけていた。筆者の竹山道雄氏は後に次のようなことを述べています。


当時は、戦死した人の冥福を祈るような気持は、新聞や雑誌にはさっぱり出ませんでした。人々はそういうことは考えませんでした。それどころか、「戦った人はたれもかれも一律に悪人である」といったような調子でした。日本軍のことは悪口をいうのが流行で、正義派でした。義務を守って命をおとした人たちのせめてもの鎮魂をねがうことが、逆コースであるなどといわれても、私は承服することはできません。逆コースでけっこうです。あの戦争自体の原因の解明やその責任の糾弾と、これとでは、まったく別なことです。何もかもいっしょくたにして罵っていた風潮は、おどろくべく軽薄なものでした。ようやく各地での納骨が行なわれることになったのは、うれしいことだと思います。まことに、若い人があのようにして死ぬということは、いいようなくいたましいことです。(「ビルマの竪琴ができるまで」)


竹山氏はこのお話を書くことで「義務を守って命をおとした人たち」、すなわち無名の兵士たちを鎮魂したかったのだと思います。そして隊長に言わせた様に、死者に少しでも報いることができる様に「共に再建のために働こう」と訴えたかったのだと思います。戦争を遺産とする、と言えば誤解を与えるかもしれませんが、竹山氏は少なくとも次のような想いだけは皆に抱いて欲しいと願いつつ、このお話を書いたのではないかと思うのです。それは──過去を忘れていったいどんな未来がある? 過去を引き受けて、その過去の上に新しい未来を創設していくしかないじゃないか! 過去は切り離せるものではない! 過去は私たちと密接に繋がっているんだ。だとすれば未来だって私たちと無関係にはあり得ないではないか! 過去を忘れたヤツにどんな未来が創れる? 過去を無関係のものとして斥けるヤツは、どうせまたこの先に何かあっても、何食わぬ顔でそこから自己の全てを遊離させるに違いない。責任意識を帰属させようとしない者に、己の仕事を完遂させることはできないだろう。今、私たちは何かをせねばならない。そして本気で何かをするには、全てを引き受ける用意がなければいけない。確かに私たちは多くのものを喪い、そして貴重なものを陵辱したかもしれない。しかし、だからといって、昔を何もかも捨て去れば良いってものではないはずだ。傷跡を直視して欲しい。本当に必要なもの、大切な感情を忘れないで欲しい。そしてそれを胸の奥深くに抱き込んで「共に再建のために働こう」──


このお話は鎮魂の物語であると同時に、同胞に対して向けられた「復活のための序曲」でもあると思います。兵隊さんたちの決意の合唱がここには描かれているのです。その歌が広く国民の間にも拡がることを願わずにはいられない竹山氏の姿を垣間見ることができます。事実、竹山氏はこのお話を次のような一節でもって終わらせています。


船は毎日ゆっくりとすすみました。先へ──。先へ──。そして、われわれははやく日本が見えないかと、朝に、夕に、ゆくての雲の中をじっと見つめました。


戦争が終わって今年で63年が経過しました。終戦間もない頃に「共に再建のために働こう」と決意した人たちも次々と世を去り始めています。「復活のための序曲」はどうなったのでしょう。難しい問題です。けれども、今現在、唯一確実なことは、私たちは今日も何かの歌を、メロディーを、途絶えることなく奏で続けていかなければならないということです。果たして如何なる旋律を選ぶべきか。それは私たちだけではなく、過去に音を奏でた人たちとも相談をしながら、全体の調和を乱さぬよう慎重に決定付けていかねばならない事柄です。というのは、私たちは過去から現在へ、そして未来へと続いていく組曲のなかの一小節を形成するものなのですから。

2008年11月01日

2008年11月01日 (無題)

結納したいよぉ

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