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2008年11月26日 孤独の抵抗者バートルビー

『代書人バートルビー』メルヴィルの小説『代書人バートルビー』(または単に『バートルビー』とも)についての文章です。この物語については昨日トップページで軽く触れたのですが、改めて読み直してみるに、若干の記憶違いもありまして、アチラに記したあらすじに幾らかの誤りがありました。
まずは正確なあらすじを記しておきましょう。

舞台はニューヨーク、ウォール街。ソコに事務所を置く「わたし」は、法律文章を代書する仕事をしています。「わたし」の事務所にバートルビーという青年が現れます。彼は端正な身なりでとても真面目な風貌、そして仕事を任せても黙々とこなします。雇用主としては申し分のない男を迎え入れた「わたし」ですが、しかし、ある日突発的に不穏な事態へと陥るのです。代書人としてとても真面目だったバートルビーに「わたし」が仕事を頼むと、彼は「せずにすめばありがたいのですが」と冷静に拒否します。何も妙な仕事を頼んだワケではないのに、仕事を引き受けようとはしないバートルビー。理由を問い質しても「せずにすめばありがたいのですが」の一点張り。さすがに「わたし」も困惑し、怒りを覚えますが、その場はバートルビー以外のモノに仕事を任せて、どうにかやり過ごします。けれど、その後に何度かバートルビーに仕事を依頼しても、彼はまた「せずにすめばありがたいのですが」というだけで、引き受けることがありません。彼は自分の仕事だけをこなして、他人からの頼み事を受託しないのです。それでもバートルビーは真面目に仕事をします。だから「わたし」もバートルビーを不信に思いはするものの、その勤勉さによって信頼感をも募らせます。だが、ある日、事態は一変します。バートルビーは遂に仕事そのものを拒否したのです。理由を問いつめても「もう筆写はやめたんです」と冷淡に言うだけで、具体的なコトは何も明らかにしません。彼はずっと自分の机に座し、または背後の壁と向き合い、瞑想でもするかのようにして一日を過ごします。そもそも「わたし」の観察によれば、バートルビーは間違いなく事務所に住みついていて、ソコから一歩も外に出るコトがありません。「わたし」は考えます──バートルビーは身寄りがなく、どこにも行き場のない孤独な男なのだろう。この孤独を一身に引き受ける男が私の下へ来たのは神の思し召しによるものではないか、と。しかし、他方で経営者としての苦悩も姿を現します。仕事をしないこの男を、事務所に住みつくこの男を、これ以上置いておく必要はあるのだろうか、と。
「わたし」は決断します。バートルビーにココを出て行くように命令するのです。バートルビーは答えます。「いかずにすめばありがたいのですが」 「わたし」は反論します。「すむわけはない」
果たして如何なるワケか。どのように説得してもバートルビーは出て行きません。「わたし」は悩みに悩みます。あの男をどうするべきか、私はあの男とどう付き合うべきなのか。「わたし」は再度決断します。こうなったら私の方から出て行こう、と。「わたし」は他の場所に事務所を移します。そして移転に伴ってバートルビーに解雇通告を突きつけます。バートルビーは無言です。数日後、「わたし」の新たな事務所に一人の弁護士と以前に借用していた事務所を管理する家主が現れます。家主は次のようなコトを言います。アンタが以前に使用していた建物内に男が留まり続けている。何を言っても拒否するだけで、動こうとしない。今までアンタが雇っていたのだから、責任を持ってどうにかしてくれ。「わたし」は渋々バートルビーと面会し、彼に動くように説得を試みます。が、バートルビーは受け入れません。「できません。いまはこのまま変わらずにいるほうがありがたいのです」 彼はそう言います。「わたし」の説得の甲斐無くバートルビーは建物内に留まり続けましたので、とうとう家主は警官を呼びました。バートルビーは拘置所へと連行されます。しばらくして面会に訪れてみた「わたし」は、バートルビーがソコで食事をも拒否しているコトを知ります。「今日は食事をしない方がありがたいのですが」とはバートルビーの言。
全てを拒否した結果、バートルビーは拘置所のなかで死にます。飢え死にというカタチでしょうか。終わりに数行ほどバートルビーの過去が明らかにされてお話は幕を閉じます。「わたし」は最後にこう言うのでした。「ああ、バートルビーよ。ああ、人間とは。」


この小説をどのように捉えるのか。とても難しい問題です。バートルビーは何かの象徴なのであろうか、彼の「せずにすめばありがたいのですが」という発言は何を意味しているのか、そもそも死への道をも「ありがたい」という一語によって選択したバートルビーとは何なのか。このお題は非常に難しいと思います。著者のメルヴィルは如何なる意図をもってこの話を著したのでしょうか。『代書人バートルビー』のもつ意義とは。おそらく明確な唯一の答えは出てこないと思います。(というか、解釈に関して絶対唯一のみが許容される物語、換言すれば、一つの方向からしか読むコトが出来ないお話なんていったい何の意味があるでしょうか?)
私の考えを少し述べておきたいと思います。
この物語には二つの悲哀が秘められている様な気がします。一つはバートルビーの生き方そのものに対する悲しさ、そしてもう一つは(ソコには若干の皮肉が入り交じるかもしれませんが)「わたし」のバートルビーに対する態度、とりわけ最後に「ああ、バートルビーよ。ああ、人間とは。」と嘆声をあげて、ヒトの「生」の無情さを感受する時の悲しさです。そしてそのどちらをも私たちは抱え込んでいるのです。
「わたし」が悟ったように、バートルビーは自己の内部において極めて強度な孤独を内包していたと思います。そして彼はある時を境に全ての行動を拒み、無為の世界へと降り立ちます。それは何故か。ココにこそこの物語の今日的意義とでもいうべきモノが隠されているように思えるのです。すなわちバートルビーとは、慌ただしく次から次へと変転を余儀なくされる現代人にとってこそ、一種の警鐘となり得る存在ではないか、と私はそのように考えています。


バートルビーは無理をしてまで今あるカタチを変えようとはしません。そうするコトを選択するよりも、彼は死を選び取りました。コノ点にこの物語が提出する私たちを取り巻く現実への悲哀があるのです。変わらずにソコにいるというコトの難しさ、ソレを貫き通そうとするコトは、私たちの「生」にとって決定的な危険を孕んでいます。「できません。いまはこのまま変わらずにいるほうがありがたいのです」──そのように言うコトは、今の私たちにとってどれほど困難なコトでしょうか。現代は物事の移ろい、つまり人々の意識、流行、価値観、様式、そういったモノが目紛しく変転し、本当に沢山のモノがすぐに「過去のモノ」となってゆきます。そうしたなかにあっても、バートルビーの如く孤独を包含するモノは、いつだって変わりゆくコトを拒否できるのです。なぜといって、彼が備える他者との同調を必要としない一面によって、彼はありのままの自己を貫き通すコトを許容されるからです。
社会のなかで広く雑多な交流関係を結ばねばならない現代人の大半は、無意識的にそのなかで常にカタチを変えていかざるを得ません。周りの環境に適合していくには、常に妥協が求められています。一度ありのままの自己を堅持し続けようとすれば、アッサリと「頑固者」であると看做され、社会から追いやられてしまいかねません。バートルビーの存在とは、こうした私たちの置かれている“曖昧で都合の良い環境や運命”といった価値相対的な現状を否応無く浮き彫りにすると同時に、他方でそのなかにおいて無力な各個人へと向けられた嘆きでもあるように思われるのです。
この世界に不可避的に付き纏うそうした悲哀を意識した時、誰しもこう言うより他に方法はないのかもしれません。
「ああ、バートルビーよ。ああ、人間とは。」

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