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2009年06月30日

2009年06月30日 何かが無い!?

ヒメアノ〜ル3巻古谷実「ヒメアノ〜ル」の3巻。
不思議な漫画です。バランス感覚がまるで分からない。本作もヒトが殺されるという“一見”重いシーンの背後で蠢く二十数年来童貞だった男の初恋という、最近古谷氏が描き続けている内容の繰り返しと言ってしまえば、確かにそうなのかもしれませんが、でも今回はどこか違っています。それは多分……この作品にはかつてないくらいのぶっ飛んだ快楽殺人者がいて、彼が物語に絡んできているのですが、その絡み具合というか、存在感というか、すなわち特異な殺人者がいる割にその緊迫感が決定的に感じられないのです。それが先に「“一見”」と書いた理由です。どこか空白を感じる世界観、埋められるべき場所が埋まっていないような空虚感、「日常の中の非日常」の非日常、実態の見えないコトへの違和感が募りに募る作品だと思います。
この違和が何であるか──作者が生み出した意図的なズレのようなものなのか、はたまた期せずしてそのようになってしまっているのか、もしくは受け手であるわたしの誤解か…… 現時点ではこの物語がどのような方向に進んで行くのかが分からないので、まだ何とも申せませんが、もし仮に本作もコレまでと同じような路線で、同質の展開が用意されているのだとすれば、この「ヒメアノ〜ル」という漫画、明らかに何かを欠いた危険な作品であると思います。
・・・ただし、その欠落が良いものなのか、それとも悪いものなのか、ソレについては物語の完結を待たねばハッキリとした断定を下すコトができないのでしょうけど。

2009年06月10日

2009年06月10日 傷口の中の美

たいようのマキバオー8巻つの丸「たいようのマキバオー」8巻。
どんどん円熟味を増してゆきますね。つの丸という漫画家は、今、一番面白く競馬を描けるヒトかもしれません。
この巻での主役は文太ではなく、アマゾンスピリットです。おそらく文太のライバルとして、今後本作においても重要な役割を握るであろう一頭の馬の能力の高さ、不気味さ、不敵さ、彼特有のプライドを、つの丸氏は丹念に描いています。
言うまでもなく、今回の白眉は「砂の頂上決戦」ジャパンカップダートでしょう。レースの展開については割愛されて頂きますが(というか、ココではまた決着がついていませんが)、各馬の駆け引きを映しながらも、レースの流れにムダが無く、流れるように一気に進んで行く内容は、正直なトコロ「みどりのマキバオー」の頃とは比べ物にならないくらいの現実感があります。最後の直線に入るまでの進め方は、これくらいの方がわたしは読み易くて好きだなぁ。


そしてもう一つ。「芝至上主義」というキーワードが出てきたのも、今回の(もしかすると本作の?)キーワードでしょう。これはダートを主戦場とする馬やその関係者、そして地方競馬を扱う限り避けては通れぬポイントのように思われます。作者のつの丸氏は、本作において競馬の面白さ醍醐味だけではなく、その陰にある(日本競馬界の)問題点をも同時に描き出そうとしているようです。競馬を愛しているが故のメッセージとでも言いましょうか。表面的な美しさの奥にある傷口を、彼は大きな想いで包み込もうとしているかのようです。ただ、その傷口の中にも隠された「美」はあるのでして、些か大袈裟に言ってしまうならば、本作「たいようのマキバオー」とは、そうした隠された「美」を抽出するという大胆な作業に取り組んでいる漫画なのだと思います。まぁ、詳しいコトに関しては書店で本作を購入して頂くのが一番なのです!!
このような漫画こそ、是非とも長続きして欲しいと願います。

2009年06月08日

2009年06月08日 求む!吉報! 求む!朗報!

新井英樹サンが近々コミックビームで新連載を開始されるとの報が先月くらいから流れていまして、わたしもソレに非常な期待をしておりますが、未だに詳細が判明しないのが残念です。
うぉおおおーーー 新連載じゃねーか。というテンションにもなれません。詳しいコトが何も分からないので。どういうジャンルの漫画を描くのか、ソレが最も気になるトコロではあります。


とりあえずは、以下にコミックビームへのリンクを貼っておきます。
求む!吉報! 求む!朗報!
わたしは吉報・朗報を求めて、毎分このサイトをリロードしています。コミックビームのアクセスカウンタ回りまくりです。


コミックビーム OFFICIAL WEB SITE

2009年02月01日

2009年02月01日 宮本浩という生き様

『定本 宮本から君へ』
新井英樹サンの初連載作品『宮本から君へ』が太田出版より『定本 宮本から君へ』として復刊されました。今月から4月まで毎月一巻ずつ計4巻の予定で順次刊行されてゆくとのコトです。
新井サンといえば、先日『RIN』が幕を下ろしたばかりですが、そういえば『ザ・ワールド・イズ・マイン』が『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン』として復刊されたのも『キーチ』が一旦区切りを迎えた直後でした。偶然か必然か、復刊と連載終了のタイミングが重なるかの如く動いています。また、つい数日前には短編集『あまなつ』にデビュー作となる読み切り「8月の光」を加えた『『8月の光』『ひな』その他の短編』も復刊(新刊?)されています。ココにきて過去の作品群が入手し易い状態になっているというのは、素朴なファンとしては嬉しい限りです。


さて、本作『定本 宮本から君へ』ですが、“定本”などという冠を付けられますと、わたしなどはまずもって『定本 柳田國男集』を連想してしまうのですが、コレは余談でした。
『宮本から君へ』はエレファントカシマシのヴォーカル宮本浩次をモジったと思われる名前の宮本浩を主人公とする物語です。彼は文具メーカーの営業担当の新米サラリーマン、熱意に溢れ己の信念に忠実な真っ直ぐな男…
イヤイヤ、そんなに立派なモノではないかもしれません。融通が利かず不器用で我が儘で所謂「大人の世界」などと称される場所で生きるのがヘタな男のストーリー、そういった方が相応しいような気がします。「俺がカッコいいと思ってるものをそうじゃないって言う人間に認めさせたいだけです」と本気の顔で言ってのけられるこの男は、傍から見ると時に痛々しく場違いで未熟で意固地で自分勝手で視野狭窄で疎ましく思われるコトの多い人物なのです。この『宮本から君へ』はまさにそのタイトル通りこうした宮本の姿を捉えた作品であって、彼からのメッセージを含んでいるように思われます。彼はこう叫んでいるのではないでしょうか。「これが俺のカッコいいと思う生き様だ。お前は俺よりカッコいいものを持っているか?」と。だからこれは作者である新井英樹という漫画家が、クソ頑固モノの宮本を通じて売った喧嘩であるようにもみえるのです。──誰に売っているか。都合の良い道徳や倫理、「正論」と称される「大人の世界」における一種の作法……そういったモノ(に依拠する連中)に対して。その意味では今現在彼が『キーチ』、『キーチVS』においてテーマとしている事柄に相通ずるトコロもあるかもしれません。いえ、もっとハッキリと言ってしまおう。漫画家としての新井英樹の描くモノの正体というのは、終始一貫しているのだ。彼は目に見える胸クソ悪いモノに対して、ソレを徹底的に攻撃対象としているため、そこからどうしようもないほどのあの熱烈な圧力が読み手の中へともたらされるコトになるのです。今も昔も同様に。(『ボーイズ・オン・ザ・ラン』を描いた花沢健吾氏もその圧力に絡めとられたのでしょうか!?)
本作は、確かに初の連載作品というコトもあって、現在の作品と比べると(あくまでも素人の見解ですが)非常に荒々しい点が見受けられます。が、ソレがどうしたワケだろう、宮本の熱意を倍加させるが如き演出となっているように思われます。物語はこの後(つまり『定本 宮本から君へ』2巻以降)思いもよらぬ方向へと進展していくコトになりますが、その飛躍ぶりも彼のスタンスが一貫しているコトを明証しているのだと言って良いかもしれません。
いずれにせよ、世の中の胸クソ悪いモノや大人の「正論」のなかで意地を張り通す宮本の青臭くて泥に塗れた姿や、自分勝手でありながらも一本筋の通った姿勢は、読み手の想いを目一杯掻き混ぜるコトでしょう。これは単なるサラリーマン漫画ではない、その範疇から逸脱し(それ故異常な世界観を持つ)、宮本浩の生き様に肉薄する、片意地を張る男を通じた読み手への問いかけなのではないか、そんなコトを思わせる漫画。…暑苦しくて邪魔臭い宮本の言動、だけどそのなかに何かがあるんじゃないか、宮本はダメな男で、ヤツの声をお前はただ無視するだけか。斯様な訴えに答える用意が必要かもしれません。


──この漫画を読んでいて、ふと宮本を己の中でどう位置付けるか、そのコトに思いを巡らしてしまった。宮本とは何か、如何なる意味を持つ如何なる存在か、この点がより明確になった時、『宮本から君へ』が包含する大きな大きな“凄み”が見えてきそうな気がしています。

2009年01月17日

2009年01月17日 「RIN」

「RIN」4巻新井英樹サンの「RIN」です。この4巻をもって幕を閉じました。「SUGAR」を経て愈々本格的に愉快になろうかというくらいのタイミングなのに……


天才ボクサー石川凛の居場所はリングの上にしかなかった。彼はソコで歌い笑い踊るのです。この天才、常軌を逸した動きを見せる王者を前に、多くのアンチも次第に飲み込まれ、翻弄され、やがては虜になってゆきます。──天才の異次元性というモノがあるとすれば、この漫画において描かれているが如きモノであるのかもしれません。


それにしても最後の最後でリンの凄さが目一杯に描かれたような感じを受けました。ソレがこの4巻最大の見所。そして例の如く新井英樹特有の大胆な描き方は、本当はハチャメチャに荒いはずの試合の空気の中に、キッチリと静と動をもたらす結果になっているといえましょう。大きな構図と小さな感情の交叉、重なり合う周囲の息遣い、ソレが場のムードに張りを与え、情熱と冷笑、興奮と落胆を織り込んでいるのです。また、迫真の立石、笑うリンといった対照もソコにいっそうの差異を生み出してるように思われます。両者の真逆にある目の色がそっくりそのままボクサーとしての器量にも繋がっている(最初はリンの「色」が大きな壁を作っていたのに、ソレが徐々に他者を喰い潰してゆき、大勢が彼の色に染まっていくのである!)。ですから、パンチを出すタイミング、ヒットの瞬間の表情、リンの神懸かり的な動きの上にそうした一連の模様が仔細に描かれると、天才の光景がより説得力を伴って現出する瞬間へ結びつくというワケです。


このエキセントリックなボクシング漫画が早くも終わりを迎えてしまうのはとても残念なコトです。しかし、一方でこの4巻を見ながらこうも思ってしまいました。すなわち、これ以上にリンの天才ぶりを表現するコトなんてできるのであろうか、と。立石戦で見せたのよりも上の領域で圧倒的にリンの凄さを魅せつけるとすれば、いったいソレはどういう次元になるのだろう。そのように思わずにはいられなくなるほどの熱気と迫力がココにはあった。
「RIN」もリンもその果てが分からぬままに極点へと至ってしまったという思いで満たされます。終わったのは残念ですが、もしかするとココらが適切な引き際であって、“期せずして”ソレが訪れてしまったというヤツかもしれません、コレは。──誤解を恐れずに言うなら、ある意味で本作は破滅的な漫画と呼べるのではないでしょうか。そしてこのような作品を常に生み続ける新井英樹というギリギリところを綱渡りしてゆく漫画家に、わたしは改めて敬服する次第なのです。

2008年12月23日

2008年12月23日 文章で漫画を説くコトの限界について

文章だけによって漫画の内容を云々するコトはできないんじゃないか、わたしは最近はそのような疑念を抱いているのです。


漫画について何か語ろうとするとき、どのような点を取り上げるでしょうか? ソレはまずもってストーリー、そしてセリフ、登場人物の個性、コマ割り、作者の表現技法、或いは伏線などについてのはずです。このなかで文章によって比較的容易に説き明かすコトができるのはどれでしょう。言うまでもありません。ソレこそストーリーであり、キャラについてでありセリフであって話の伏線です。他方で、コマ割りや表現技法をめぐって云々するコトは非常に難しい。例えば文章のみで或る象徴的なシーンに関して、その表現の仕方を云々しようとするとソレはソレは非常に厄介なコトになってしまうのです。こういう風に。──○○のシーンにおいて作者は△△のペンと□□のトーンを多用し、またこの場面の構図は××であって、そうして主人公の表情を☆☆に描くコトで・・・
このようにして何かしらの説明を試みても、よほど文才のあるヒトでなければ的確な指摘はできますまい。改めて強調するまでもないのですが、漫画とは往々にして少しの文字と豊富な絵によって成立しているモノです。従って、単にストーリーなりセリフなりに関して何かを語っても、ソレはまだ一部に触れただけに過ぎないのです。本当に問題にしなければならないのは、むしろ文章によっては説き難い作者の表現、描き方、構図、使用する道具等々ではないでしょうか。ソコにこそ各々の作品と作者の持つ特徴なり個性なり魅力なりがあるはずで、その点に触れない漫画論評なるモノはさほど意味をなさないのかもしれません。
わたしは滅多に見ないのですが、不定期に放送されている「BSマンガ夜話」においては、出演者の方たちがパネルを用いまして作者の表現手法などについての解説を多々試みていたように記憶しています。コレこそ真に漫画の核心に触れる行為ではないかと思うのです。でも、こういったやり方はテレビという媒体であるからなせる技かもしれません。例えば、コレと同じことを雑誌上で、個人のブログ上で、或いは少しお堅くなって論文・論説等でできるでしょうか。できないコトはないと思いますが、ヘタをすると非常に抽象的なハナシになってしまい、書き手と読み手の間に大きな壁が立ちはだかる事態へと陥ってしまうかもしれません。また相当気を遣って書かないと、すぐに誤解を与えてしまうといった災難に見舞われるだろうと思います。かと言って、直接画像を取り込んで、ソレを参考図として掲載し、ソコに解説を加えようにも、このご時世ですからすぐに出版社側からの「著作権侵害」であるとのクレームを頂いてしまいます。まったく面倒なハメになるのです。
そして、この問題において最も難儀なのが、ある表現技法について何かを語ろうとする場合、フツウのシロウトにはソレが出来やしないという点です。いえ、単純に線が太いとかGペンを使用しているとかパースペクティブが巧みだとか、そうした表面的な内容であれば誰だって述べるコトができましょう。けれど、なぜソレが良いのか、なぜ作者はこの場面をこうした手法を用いて描かざるを得なかったのか、などという点にまで及んで具体的な解説をなせるヒトがどれくらいおられるでしょうか! そのような繊細な事柄を華麗に説いてみせる能力を持っているヒトなど、およそ同業者であるか、少なくとも自らもペンを取って何作品かを描いた経験のあるモノをおいて他にはないと思います。しかし、ソレこそが真の評価であり批評であり賞賛の域に達する解説であるはずなのに……


以上です。この問題に関して、所詮はシロウトのわたしもこれ以上のコトは書けません。漫画においては「絵」という要素が混在しているため、全体を捉えて話すのが難しいというコト、「絵」というモノは我々が日常的に目にする機会はあるものの、自ら積極的にソレを創り出したりするような行いは少なく、ソレ故にその良し悪し、レベルの高低、あるいは適不適、美醜といった点を必ずしも相応の判断でもって評価を下すのが難しいモノであるコト、ソコにこそ決定的な難点があるように思われるのです。従って、もはやそうなると、シロウトが漫画について何を語れるのか、何を問題とすれば良いのか、何をどう見るのかという問題が立ち現れてくるワケですが、う〜ん、コレについては現時点にあっては「語り得ぬことについては、沈黙しなければならない。」と言うより他にはありません。残念です。残念でした。

2008年11月07日

2008年11月07日 六分の三

珍しくこの一週間の間にコミックを三冊も買いました。何かの間違いかもしれませんが、どうやら現実のようです。古本で三冊以上購入するコトはありましても、新刊本で三冊ともなれば、コレはもはやセレブです。


古谷実 『ヒメアノ〜ル』1巻
井上雄彦 『リアル』8巻
新井英樹 『キーチVS』2巻


三者三様の顔ぶれで、それぞれに良さがあります。
古谷サンはまた同一のシチュエーション。果たして果たして如何に進展してゆくのか。このヒトは作品でというよりも、作者として何か一つのモノを築き上げようとしているのではないでしょうか。
『リアル』はどうだろう。初めて野宮と戸川と高橋の“リアル”が同一方向に向けられた様な気がします。ココからまた始まるのです。(余談ですが、野宮のナンパした女──山下夏美は井上漫画の中で一番カワイイ少女かもしれない、と思います。)
『キーチVS』は…密度が凄い。ああ、これこそがこのヒトの漫画なんだろう。上記の三つの中では抜群に迫力がありました。全く恐ろしい。マスコミも国家も政治家も、そしてキーチも……(コッチも余談ですが、新井英樹サンのコマ割りはやっぱりスゴいなぁ。今年の春に『RIN』を見て驚いたですが、またまた驚かされました。感嘆、讃嘆。)


ところで、私が現在購入しているコミックは以下の六作品です。


井上雄彦 『リアル』
増田こうすけ 『ギャグマンガ日和』
新井英樹 『RIN』
新井英樹 『キーチVS』
つの丸 『たいようのマキバオー』
ココに此の度から古谷実 『ヒメアノ〜ル』が加わりました。変で偏な組み合わせです。
コレらのうち上から三つに限ってはコミックが年に一冊にしか刊行されません。となると、今週に三冊も購入したのは、何とも奇怪な偶然であると言わざるを得ないでしょう。六分の三にも手を出しやがった! 全く悪いモノです。…主にタイミングとかが。あと、『リアル』がコッソリ10円値上げしているのも悪いモノです。
そのうち、余裕があれば『キーチVS』2巻についての雑記を載せたいの思うのですが、現実はウソと偶然によってできている様なモノですから、アテにはして欲しくないのです。なお、次回は「私の好きな声」について書かせてもらう予定ですが、コレとて怪しいモノです。私の辞書で「有言実行」という言葉を引いてみますと、ソコには「理想の一種。そういうモノが礼賛される傾向にあるらしいコトは知っているが、当人とはあまり関係がない。『虚言癖』の項も参照。」と書かれているのです。

2008年10月17日

2008年10月17日 競ギャ・馬グ マンガ

たいようのマキバオー4巻「たいようのマキバオー」5巻でっせ。以下雑記。
文太も力を発揮し始めてきておりまして、愈々本格的に「来たな」との感慨もそれなりに。しかし「みどりのマキバオー」と比すれば、やはりスローペースに話が進む。つの丸先生が仕事さぼってYoutubeやニコニコ動画を見られておるからでしょうか?(カバー袖及び表紙参照)


話は九州、佐賀へと。遠征でごわす。
「ギガモッコス」は素晴らしいキャラだ。ベアナックルを彷彿とさせる。(そのベアナックルも「像」として登場しますが)
もう一方の「フラットビッキー」はカスケード産駒なのね。「マキバオー」史上最も人相…ならぬ馬相の宜しくないヤツだ。鬣(たてがみ)にその面影を垣間見るコトはできるのだけど、こりゃ過激に過ぎる。パンクロッカーに変貌したカスケードだ。而してプライドの高さはお父さんと瓜二つの如し…


レースの結果までには敢えて触れませんが、ただ一つ、ハヤトは私が勝手に思っていたよりも何倍も立派なジョッキーなんだ。少なくとも親分と共にミドリマキバオーに騎乗しておった時の菅助よりは度量がありそうな予感を感じさせる(とはいえ、彼は中央のジョッキーになれなかったのですが)。
あと、余分にもう一つ──「荒炎賞」の第三コーナーのインの突き方を見て、菊花賞を連想してしまったのは、果たして何処の誰でございましょう?


手短に綴って参りました。
この5巻全体を通じて宜しかった点をあげますと、それは他ならぬ「競馬マンガ」と「ギャグマンガ」のバランスが見事に均衡した点にこそ求められよう! 新たな領域へと向かい始めたか!? すなわち、「たいようのマキバオー」はココに至り両者を融合せしめた「競馬・ギャグ漫画」/「ギャグ・競馬漫画」ならぬ「競ギャ・馬グ(けいぎゃまぐ)マンガ」なる荒野へと単独で侵入致したのではあらぬか、などと他愛もなきコトを発言したいのであった。
他方、登場するキャラが目紛しく変転するため、どの馬が誰であるかを見分けるのに困難だってなトラブルも生じておるような気配をそこはかとなく感ずる。この点に関しては、まぁ、文太が強くなりまして、重賞に挑戦できるといった状態へと進めば克服されるのであろうけど、それは……何時!?


終わりに疑問を。「ダービーグランプリ」、存続している設定かい?


参考リンク:射程圏内? (4巻の感想文です。)

2008年07月07日

2008年07月07日 駆けずりまわる青春

Dr.スランプ実は私にとって鳥山明といって「ドランゴンボール」より「Dr.スランプ」のイメージが強烈なのであった。小学低学年の時分には、週に二、三回、夕方にアニメ版「Dr.スランプ アラレちゃん」が再放送されていまして、再放送とも知らず連日連夕「アラレちゃんアラレちゃん」と騒ぎ立てながら楽しみに見ておったのです。(ちなみに、私が中一の時にリメイク版が放送されたが、個人的にコチラはイマイチなのであります。)そのようなワケで、(多分)私が一番最初に接した漫画が「Dr.スランプ」であろうコトは確実だ(多分)。しかし、どうしてであろう? クラスに一人くらいは必ず「ドランゴンボール」に詳しいモノがいたにも関わらず、「Dr.スランプ」に詳しいモノとは出会えずに来たのです、私は。・・・ああ、無念なり。斯くなる上は、またもや独り言の如く、何かをポツポツと言い立てるより他に道は残されていないようでございます。


何が印象的といって「ほよよ〜」とか「うんちゃ!!」とか「キーン!!」とか、斯かる一言で見るものを独自の世界に誘う主人公のアラレちゃん、しかもむちゃんこ純粋な笑顔で相手をボコボコにするという、よく思考致せばとんでもない残虐性を覆い隠したその正体に言いようのない魅力を感ずるのです。この漫画をガキの頃に注入されたモノならば一度は必ずマネしたであろう「ほよよ〜」、「うんちゃ!!」、「キーン!!」の三連打、考えれば考えるほど些細な魔術である。而してその周囲にいる登場人物もほとんどがイっている。相棒のガッちゃんは言うまでもなく、鍔北弊(つばぺっぺい)なる村からペンギン村へと来った摘一家、最高のアンチヒーローでありますスッパマン、“愛の頭突き”栗頭先生、ニコチャン大王とその家来、「パパパ パーマ♪」の腐れマセガキ皿田キノコ、凄まじいお顔のお春婆さん、今では集英社の親分的存在にまで出世した鳥嶋和彦氏をモデルにしたDr.マシリト等々、どれもが一流の個性を備えたエンターテイナーの集合体ではございませぬか。


この漫画、私の生誕以前に連載が終了しておるのですが、今日原作を読み返しても実に新鮮である。この時点で鳥山明の世界観が既に確立されているのには驚嘆するのみ。それで何が愉快といってキャラだけではなく、世界全体がギャグ化されておるという事実に他ならぬ。宇宙から眺めた地球が地球儀であったり、夜と昼の転換がカーテンを開けるように移り変わったり、作者自身が作中に浸入しギャグを演じてペンギン村の世界と同化してしまったりと、およそ利用できそうなモノは悉く“道具”として遊ばれてあるのです。
改めて見るに、後に「ドランゴンボール」で採用されたアイデアの萌芽となり得るようなモノも幾つか散見されたりして、私なぞは「なんだ、ココからドラゴンボールまでは紙一重じゃないか。…そりゃそうか、同じ作者だもんなー ハハハー」などと感慨深げでございます。


さて、そういうワケでして、私が最も好ましく思っておりますキャラはと申しますに、原作コミックでは最終18巻に数回登場しただけのオートバイこぞう。ひたすらバイクに乗り続けているだけで、ずっとフルフェイスのヘルメットを着用致しております故に素顔すらも分からず仕舞いで、おまけにバイクから降りると死んでしまいます<オートバイカラオリタラシンジャウ病>に罹患していますから、食事も排泄もバイク上で済ますってな設定が最高にギャグ漫画チックで宜しい。
次いでやはり則巻千兵衛がイイ。何だかんだ言ってもこの男はどうしようもない天才だし、ギャグ漫画における存在としても満点であろうと、勝手に採点させて頂きます。そして、全然注目されないんだけど、妙に記憶に残りますのはアラレと同級生で常に面を被っているナゾの男児──ねじしきクンです。また、パトカーを壊され続ける警官二人組(ガラとパゴス)の上司的存在──パゴスも忘れられない。


アニメ版の方ではオリジナルストーリーも複数製作されており、その中でも忘れられぬ作品が幾つか存す。例えば「きせきの焼き魚定食」などはその一つで、思えばアニメではよく顔を出しておった会話をするコンピューターは原作には登場しないのであって、彼が存分に力を発揮するこの回は、やはりギャグアニメとしては秀逸であろう。内容は原作二巻に所収の「イチゴパンツ大作戦の巻」を下敷きにしているような気も致しますけど、ソレを焼き魚定食をテーマとして焼き直す辺り、誠にこの作品らしい。


先日、久々に原作を読み返しつつ実感したコト。何度も「あ、コレもアニメで見た」との回想が駆け巡り、アニメ→原作の順で「Dr.スランプ」に触れた私は、未だに六〜九歳の齢にあって強烈に叩き込まれた(テレビアニメ版の)アラレちゃん熱から解き放たれてはおらぬって事実。コレは私の中における「Dr.スランプ」の占める比率が如何に見過ごせぬモノであるかを悟らせてくれて、そうした記憶の多きコトは、今なお私がどれほどこの作品を愛好し続けているかの左証でもあるのです。

2008年05月31日

2008年05月31日 射程圏内?

たいようのマキバオー4巻「たいようのマキバオー」も気付けば4巻、連載開始から一年が経過とのコト。展開は遅いようで、意外と早い。早いようで、意外と遅い。


この4巻では前作「みどりマキバオー」の思い出が登場です。そして文太も強くなりそうな雰囲気を醸し出しておりましょうか。なにせフィールオーライとあのような結びつきを描いた以上、両者が無関係で終わるはずはなかろうってコト。マキバオーとカスケードの如き関係を期待するも、現時点ではザ・たっちときんさんぎんさんの間におけるが如き差異がある。さて、如何に進展するか。


後半は、ジャパンダートダービー。
つの丸の自在性が発揮されたレース展開でして、各馬をシッカリと描いておるのはさすがの技量。出走メンバーのメンコの模様または表情一つをとってみても、ソコに個性が刻みつけられておりますので、馬群の中であってもアノ馬のあんな表情、コノ馬のこんな表情が堪能できる。
そしてアマゾンの「凶弾」 競馬マンガにおいて斯かる直接的な表現は或る意味で新しい。こうしたユニークな描写が生き生きと存在しておるのは、つの丸の築き上げてきたスタイルがあってこそ。
いやぁ、今後が実に楽しみなマンガです。


ちなみに、どうやら表紙が「みどりマキバオー」の各巻と対応している模様でしょうか。すなわち「たいようの〜」の1巻は「みどりの〜」の1巻と、「たいようの〜」の2巻は「みどりの〜」の2巻と…といった具合であって、夫々が同様の構図、或いはパロディ的な絵柄。
こういうトコロの遊び心は、「みどりマキバオー」からのファンにとってはこの上なく嬉しいのでございます。どうか末永く続いて下さいませ。私もチュウ兵衛親分に拝もうかしらん。

2008年04月28日

2008年04月28日 悪鬼的土曜日

「キーチvs」1巻「RIN」3巻先週の土曜、26日は或る意味で凄い日であった。
「キーチVS」1巻
「RIN」3巻
新井英樹漫画が二作同時発売なんて! 斯様な事態は、私の胸の裡をゲーム好きのソレに適合致しますれば、すなわちFFとDQが同時発売されるようなモノであって、また一部のお笑い好きのソレに適合致しますれば、バッファロー吾郎と野性爆弾がいいとも!のレギュラーに抜擢されるくらいの珍事なのでありますが…後者は蛇足なのだった。


この作品は 明るく楽しい漫画ではありません。新井英樹の漫画ですから、気をつけて読んでください。内容はというと、主人公キーチが世の中の不快なものと闘う話です。正義や平和を求めて闘ったりしません。あしからず。


「キーチVS」のカバーに斯かる文句が記し上げられておった。どういうコトじゃ。珍奇過ぎる、逆説的な発想…受け手にそう思わせようと意図してはおらぬはず、だが。自ずから一歩引いて、相手を一歩コチラ側に誘い込む手段であるか!?
ところで、と言うより、しかし、「明るく楽しい漫画ではありません」と出版社側が申しておるのが裏目に出たか否かは知らぬけれども、店先扱いは芳しくないようであります。店頭で買い求めます分には些細な苦労を要すかもしれん。―これは私の勝手な註釈なのだった。コレも蛇足なのだった。
内容については触らぬ神に祟りなし的なコトもあろうから、前編「キーチ」がより巨視的に、熱狂的に民の支持を得ておるような具合であって、一体ドコまでハナシを拡げて行くのであろうか、ってコトを述べるに留めておきたいのです。依然として現状は導入段階であろうから、まだ迂闊に言を弄ぶワケにはいきますまい、寄りの状態。


「RIN」の方も多言を要せず、ぶっ飛んだボクシング漫画が存するのですから、是非「百聞は一見に如かず」を贈呈する。
…ボギャブラリーが崩壊しかけておるのでしたが、こうなるのは無理な文体の背後に去来する悪鬼的な輩の呪いなのでごいざいます。そうして当方の見解の披瀝を許容して頂けるのでありましたらば、「新井英樹の漫画ですから、気をつけて読んでください。」との概説が相応しいのは、専らコチラ「RIN」の方でして―ソレは縦横無尽、エキセントリックに貪欲過ぎな描写に驚愕せしめられるから。ああきて、こうきて、そうきた後に千代に(が)イクなんて。 ソコに加えるに中尾、1R終了間際、首を振っているシーン、これなぞは天才の慧眼だろうか、彼は最高のキャラでありましょう。
ええ、でも此の先再度一年間の待機を強要されれば、すなわち4巻はまた来年の春である由、異常にサディスティック、サディスティックな春、略してSS(Sadistic Spring)、「ダブルエス」と称し度く存じ上げます。


…わざと支離滅裂な文章を書いているワケではないんです。自然の流れの中で、今回はこうしたモノになってしまったのであるから、コレは不可抗力としか申せませぬ。故に手直しも不可能。ただ、存外、こうであっても、それなりに最低限度のモノの伝達は達成できておると思う次第なのでした。以上を以て書き終わり。

2007年09月27日

2007年09月27日 日が昇りはじめる

たいようのマキバオー1巻満を持して、というべきなのだろうか。待望の復活!?
「たいようのマキバオー」


いやぁ〜堪らんなぁ。この雰囲気。この作風。この光景。
私が今まで最も読み込んできた漫画は間違いなく「みどりのマキバオー」だが、その続編と位置付けられる今作は、前作の流れを引き継ぎながらも、新たな要素が随所に加わっている。ガチでマキバオーを描いている時のつの丸は「鬼才」に豹変するな!
まー、コレは余談だが、仮に好きな漫画家を三人あげろといわれれば、私は躊躇することなく「新井英樹、古谷実、そしてつの丸」と答える。この中で一番古くから親しんできたのがつの丸だ。


さて、この「たいようのマキバオー」であるが、ストーリーは高知競馬、すなわち地方競馬を中心に展開してゆく。地方競馬が抱える財政面、人気面、経営方針、馬とヒトの置かれる立場、などを問題として取り込みながら、そこで逞しく(?)生きようとする人馬のお話。
主役は(マキバオーの半妹)ミドリコの最後の産駒「ヒノデマキバオー」(通称「文太」)。姿はもちろんマキバオー・ミドリコとソックリなあのようなモノです。幸いお母さんに似ず気性は穏やか。口癖は「んにゃ」。脚部不安のため中央で走ることが適わず、高知に来たワケありのお馬さん。伯父さんのマキバオーとはかなり異なる境遇なんだ(ちなみに文太の父は「タマブクロス」という散々な名前です[タマモクロス→タマブクロス そりゃあ無いだろうに]。つの丸らしい名前だけどねぇ。マキバオーは「タマーキン」だったし)。
その「文太」の主戦ジョッキーは福留隼人(「ハヤト」)。あまり詳しくは言及しないが、彼もやはり地方ジョッキーによくある中央競馬に対するコンプレックスを抱いている。性格は菅助なんかよりもよっぽど負けん気が強いが、しかし内には優しさを備え持つ典型的な「土佐の男」という感じ。って私の勝手なイメージだけど。実際に高知人が負けん気の強い性格かどうかは定かでない。
この文太とハヤトのコンビが、またグッくるものを持っている。マキバオー=菅助のコンビに負けず劣らず、(作中の)日本競馬の歴史に名を残すような存在になることを期待したい。


菅助といえば・・そうそう菅助が出てくるんだよ。いつの間にか中央のトップジョッキーになってる。前作から10年後の世界が舞台となっているが、10年あればそうなるのね。「マウンテンロック」なんていうムチャクチャクールな馬を乗りこなしちゃう渋いジョッキーになってるんだから驚く(ちなみにマウンテンロックの父も「ホーケィナイナー」という散々な名前ですが。やはりつの丸・・・)。
有馬記念で勝った後に号泣してた管助が、泣きながら「たれ蔵」にしがみついてた菅助が、いつのまにかリーゼントになり、JCダートを勝っている。10年だ。月日の流れはヒトを大きく変える。嶋島なんか「マキバオー世代」なんて言われてバカにされるホームレスみたいになってるし。・・フフフ。


「みどりのマキバオー」が好きだったヒトには是非とも読んでもらいたい作品。好きでなくても読めますが、前作を知っていた方がより楽しめることは確か。
例えば、102ページの菅助のセリフ。「いや…よくわかりますよ…………」
前作を知っていれば、この言葉と結びつく様々なシーンが蘇ってくるはずだ。ちょっと泣きそうになっちゃう。「飯富厩舎」は大変だったからなぁ。
その飯富さんは出てきてないけど、どうなったのだろうか。いずれ出てきて欲しい。


ああ、何やら取り留めの無い懐古話みたいになっている・・・
とりあえず最後にこれだけは付け加えておく。
「みどりのマキバオー」にも「たいようのマキバオー」にも見られる共通点は、非エリートのエリートへの対抗である。マキバオーも菅助も決して良いとは言えない環境や条件の下で這い上がって来たじゃないか! きっと文太とハヤトも・・・ 今度の方が条件は過酷だぞ。(でも、血統的にはマキバオーも文太もかなりイイってコトは内緒)


今のところ、文太にマキバオーのような魅力的な強さを見るコトはできないが、多分この馬の素質は高いと思う。脚に爆弾を抱えているけど、“週刊10馬”などを見る限り、これは結構なモノじゃないかしらんと期待してしまう。・・・が、そう簡単にサクセスストーリーを描かないのがつの丸。つの丸は「苦労と苦悩を突拍子もないギャグを交えて描かせたらピカイチの漫画家」だと私は思っているのだが…
だから、文太もハヤトも苦しみながら上昇していくんだよね。そして地方競馬も―個人的にはそういう願いをこの作品に託したいのです。(だから「ヒノデ」なんだよな?)


まだ一巻が出ただけなのに、いきなり文太=ハヤトに惹き付けられてしまった。このコンビが大きなレースを勝ったら、正直、私は号泣するかもしれん。ウウぅ・・・ 現在22歳。
だから、お願い、打ち切りだけは勘弁して下さい。それだけはマジでお願いします。来年の七夕にこの願いを短冊に書きますから。本当にそれだけはナシよ。ね。


おまけ:14-15ページの最初のコマでベアナックルの顔が吹き出しに隠されて「あれ?」となっているのが好き。そしてこの2ページで前作を説明し切っている。凄まじい。

2007年07月31日

2007年07月31日 負の分配

7月最後なので、もう一つ書かせてもらいます。


先日放送された「ルパン三世 霧のエリューシヴ」
これはわざとこんな風に製作したのだろうか。
わざとつまらなく作り上げたのだろうか。
わざと雑な部分を取り入れたのだろうか。
わざと素人の声優を起用したのだろうか。


ここ数年、ルパンSPが年々ヒドくなっていくのは、気のせいではない!
個人的なフェイバリット。
「バイバイ・リバティー・危機一発!」と「ルパン暗殺指令」
この両者が双璧。もうこのレベルのルパンは見えないんだろうなぁ。
残念だ。上記のDVDでも買おうかな。


最近のルパンは何も盗んじゃいない。むしろ視聴者に失望と怒りを分け与えているだけだ。

2007年07月29日

2007年07月29日 VS

うほー!!テンション急上昇!!! 暑いのに。
『スペリオール』次号より「キーチ!!」再開決定とのこと。


参考リンク:『スペリオール』次号予告


タイトル変わってる!「キーチVS」。「VS」って何だ?
もっと喧嘩売っていくということか。さらなる暴走?
「衝撃の第二部」って煽り文句があるなぁ。良いなぁ。どんどんやってくれ。「不愉快さ」こそ新井さんの独壇場じゃないか。
昨夏は「真説 ザ・ワールド・イズ・マイン」が出てテンションが上がったけど、今夏は「キーチVS」なのね。誠に結構です。


選挙なのに選挙に行けない。住民票を移してないから。実家に空しく投票案内はがきみたいなのが届いていることだろう。情けない。こんなに情けないコトは無い。せめて私の代わりと言っては何だが、社民党か共産党の候補or比例代表に投票しようとしているヤツの一人が、急性盲腸炎になって投票出来なくなれば、それが私の一票になる。相殺。VS。
暑い。新聞のテレビ欄を見て驚いた。お昼から幾つかのチャンネルで高校野球の地区予選を放送するみたいだけど、全部で4つの県の予選が見えるみたい。野球好きには良い季節ですね。野球だらけ。四国なんて地元の県の予選しか放送していなかったはず。熱い。球児たちの闘い。VS。


テンション上がったから余計に暑い。でもキーチはもっと熱くなってて欲しい。

2007年07月09日

2007年07月09日 小さな世界は大きな世界?

わにとかげぎす4巻「わにとかげぎす」4巻について。
以下にはネタバレが大いに含まれております。未読のヒトは見ない方が宜しいと思います。


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2007年05月18日

2007年05月18日 「キーチ!!」ー“マナー”への視点

キーチ!!新井英樹の「キーチ!!」
大好きな漫画だが、未だにこの作品をどう捉えれば良いのか戸惑う。
新井英樹流の社会風刺として捉えるのか、究極的なカタチでの理想表現として捉えるのか、社会に対する挑発として捉えるのか、一種のニヒリズム的なものとして捉えるのか・・・


読みながら思ったことを、ちょっと書いてみようと思う。上手く整理出来なくて歯痒いが。


キーチが真っ正面から世の中に挑もうとする姿、そしてそれに対する世論・リアクション。キーチへの同調と反発、抵抗と屈服。
正義とは何か、道徳とはモラルとは人権とは信頼とは何か。ここではそれらを一纏めにして“マナー”とするが、このマナーに対する果てしない問いが、「キーチ!!」においては発せられているように感ずる。


キーチが志すマナーは、今日においては一般的な意味での、極めて純粋なそれである。要するに、現代の人々が理想とする、言うなれば「今日における常識的な最低限のマナー」を守ることである。法律や人権、平和や博愛といった観念が作られた根幹に存するところのものを死守しようとする原始的ともいうべきエネルギーが、キーチにはある。
キーチはそのマナーが犯されているみさとを救う為に、マナーを無視して行動する。本人はおそらく無自覚のうちに、一方的にコチラ側のマナーのために自らに忠実に、他のマナーを侵害して突き進んでいく。そこには明確な矛盾意識などは毫もない。
マナーを守る為には、敢えてマナーを破って動かなければならない。守るべきものを全て守って動いていても、結局何ら解決されることはない。むしろそうしていてはマナーを犯す側に蹂躙されるだけだということを、キーチは本能的に自覚している。彼にとってはそれが正当な理由であり、自らの行動原理ともなるものである。


マナーのためにマナーを破棄する、その意識を独善的であると言えるか?


作品中において、そうしたキーチの意識は世論からの支持を得た。つまり、甲斐の「国が定めた法律を破った側に味方してんねや」(9巻 第82話)と言うセリフに見られるように、キーチがなしたマナーのためにマナーを破る行為を、世間は是としたのである。おそらくコチラの世界、すなわち私たちが暮らす世界においても、キーチがとったような行動は、時として是認されることであろう。
而して、作中で見られる人々のキーチに対する熱狂は、ある問題へのメタファーとして描かれているのである。
ここで問われるべき事、それはやはり一つだけ。究極的にマナーとは何であるのか、ということだ。作者である新井英樹が「キーチ!!」を通して問い続けた問題の核心は、ここにあるのではなかろうか。
法律も秩序も人権も道徳もーここで私が言うマナーというものなどは、夫々の立場により如何様にでも定義、再定義されるということを、新井英樹は「キーチ!!」を描くことで暗示しようとしたのではないか。
キーチという一人の少年の言動により、浮き彫りにされる矛盾を孕んだマナーの存在とその意義、価値。そして、それを定義付けできる“立場”を手中に収めた者が持つ影響力に対する問題提起及び再考。無意識のうちにその影響力の傘下に入ってしまう世の中、それへの嘲笑を伴ったシニカルな警鐘。無自覚/無意識、思考停止は一つの罪だとする視点(これは新井英樹が「ザ・ワールド・イズ・マイン」の頃から現在に至るまで一貫して主張し続けていることだ)。
それと同じくして、自分たちのマナーを守るためには“タブー”が容認されるとともに、自分たちにとって不都合なマナーが打破されようとする時にもまた、タブーは黙認されるという、相反する現象も描写される。元来、反目するはずのマナーとタブーが、実は状況次第で結合するのだという、ある種の皮肉の暴露である。
それを人間の欠点・弱点と見ても良いだろうし、意外とそんなもんだと受け流しても良いだろうし、時としてマナーとタブーが妥協せねば“体制”などというものは到底維持出来ないと、二つの融和を正当化しても良いだろう。その解釈は、究極、個人と状況による。


「キーチ!!」に内包されている視点、そこから発せられる問いは、おおよそ上述のようなものであろう。ーマナーが抱える矛盾。それを暴き、ではお前はどう対応するのだという問題提示及び挑発。お前にとって真の“正しきマナー”とは何だという喧嘩腰での問いかけ。人々が信ずる“健全な”マナーを守り通すことは可能か、それを維持しようとする土壌が現代社会には存在しているか否かという疑問ー
この問いにどう対処するかは、やはり個人の問題なのである。マナーをどう捉え、それに絡むタブーを黙認するか否か…突き詰めていえば、この問題への返答は、己の人生観、価値観、倫理観、思想等といったものに、非常に強く束縛されるものになる。
今、その答えをいかにして見出すべきだろうか。答えは百人百通りであって良い。


「キーチ!!」をどう捉えるか、キーチとどう向き合うかは、必然的に己のマナー観を問うといった行為にも繋がってくる。マナー観・・・すなわち道徳、モラル、人権、信念、信条、価値観、人生観…生きていく上での基準となる諸々の事物への見方が問われるということであり、畢竟、「キーチ!!」をいかなる立場をもって受け止めるのか、このことはその者を構成する枠組みを明確に識別するフィルターのようなものとして作用することにもなるといえよう。


新井英樹からの“マナー”に向けられる峻厳なる視点、それに対して読み手がいかなるリアクションを返すか。読み手である私たちは、いま一度各々の立場からのリアクションが求められているように思えるのである。

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2007年05月05日

2007年05月05日 己への“挑戦”

特攻の島1巻二日続けて漫画のコトを書くべきかどうか迷ったけど、とりあえず書くことにした。なぜなら、そこに書くスペースがあるから。そして今日書こうとすることは、昨日のことと少なからず繋がる面があるから。敢えて書く。


佐藤秀峰「特攻の島」
発売されてからもう一年が経っている。今更言うまでもないが、「ブラックジャックによろしく」とか「海猿」を描いたヒトの作品である。でも、私はこのヒトの漫画をほとんど読んでいない。彼が扱うテーマは実に興味深いものの、なぜかイマイチ惹かれなかったからだ。とは言っても、次は「特攻隊」をテーマにしてきた。これは見過ごそうにも、そうそう素通り出来るものではない。しかも「回天」だ。


来週から「俺は、君のためにこそ死ににいく」という特攻隊の映画が公開される予定だが、それはお馴染みの航空特攻。零戦や一式陸攻に250キロ爆弾等を装着して、敵艦艇へと体当たり攻撃を仕掛ける、今日でもよく知られているものである。
飛行機による特攻というのはよく知られているものの、それ以外の方法による特攻は、一般的にはあまり認知されていないようである。例えば“人間爆弾”と称された「桜花」、これはミサイルのような形をした爆弾にジェットエンジンが付いていて、中に人間が乗り込み敵艦艇への突撃を計ろうとしたものだ。また「震洋」という特攻兵器は、モーターボードに炸薬を積み込んだものを人間が操縦して相手に突撃しようとするものであった。そしてこの作品で扱われている「回天」とは、“人間魚雷”と称され、全長約15m程の魚雷に人間が乗り込んで敵艦艇へと体当たり攻撃をするために開発されたものである。この「回天」という特攻兵器は、広く知れ渡っているとは思われないが、それでもここ数年の間に映画化されたりドラマ化されたりしているから、それなりに認知度は上がって来ているのかもしれない。
特攻。生還の余地が残されていない戦法。なぜ斯様なものが生み出されたのかという問いは、今なお続けられている。他に有効な手が無かった、と言ってしまえば、もはやそれまでかもしれない。しかし、そこまでする必要があったのか、ということや、こうした戦法を作り出した日本人の内面(精神や思想、死生観など)への問題等、未だに判然としない事柄が多いのも事実である。


この「特攻の島」では、黒木博司大尉、仁科関夫中尉という実際に「回天」開発に尽力した人物が描かれ、限りなくノンフィクションに近い形で物語が展開されている。
そして問われる「命」の問題。
おそらく、特攻隊員のほとんど全ての者が避けられぬであっただろう問い、自問自答、すなわち俺の「命」とは、俺の「人生」とは、俺が「死」ぬことの意味とは一体何であるのか。それと同時に繰り返される、俺は何を守り、何を志し、何をすべきなのかという煩悶。
そこには生還の余地が許されていない環境下においてのみ、真剣に向き合わねばならぬ己自身への回帰があったはずである。
予科練の身ながら仁科中尉と「回天」に乗り込むことになるこの物語の主人公、渡辺裕三が言う「俺自身の人生を・・・ 俺のものにするためです・・・・・・!!」という一言は、おそらく多くの特攻隊員たちが共通して抱こうとした思いに他ならない。絶対に生還出来ない特攻という戦法の下で、それならばそこに己の生命の全てを意義付けてやろうという気概。必然的な「死」を前にして、己が持つ「生」というものの内実を明瞭にするには、そうした意志の所有が不可避であることに彼らは思い至ったのだ。


特攻隊員を見つめるということは、くだんの如く、そこに自己の全てを賭けて完全燃焼しようとした人々の姿を捉えることである。死を前提に物事を捉えねばならなかったが故に、なさねばならなかった素の己への“挑戦”が、そこにはある。それは時として極めて個人的な問題へと逢着することもあれば、国家や「悠久の大義」という概念に向かうこともあろう。だが、何人たりとも避けては通れぬのが家族、友人、恋人への視点である。
自らの「生」の基礎を何処に置くべきか、世界、国家、社会、故郷、家族…その選択により“結果”も当然異なってくる。
佐藤氏は今後、この“挑戦”を、いかなる形をもって描こうとするのか。弥が上にも注目しないわけにはいかない。

2007年05月04日

2007年05月04日 「私」の生き方

わにとかげぎす3巻「わにとかげぎす」の3巻。


何だろうか、コレは。あり得ない程に引き込まれてしまった。
富岡と羽田さんの関係、新たに登場した斉藤の存在。このバランス、不均衡ながら辛うじて成立しているような雰囲気、堪らんなぁ。


これらの登場人物の中では、私はダンゼン斉藤君の立ち位置に近いかもしれない。それが正直なトコロ、怖い。だって、あと10年くらいすれば「(友達なんて)いらない・・・わずらわしいだけだ・・・・」と言ってしまう自分の可能性を否定し切れないじゃないか。
ただ、この漫画の根っこは、そういった感情の否定にあるのではないだろうか。
富岡も斉藤も、その背景は完璧に孤独であるけれど、まず富岡がそこからの訣別を決意し、羽田さんとの関係を結ぶ。次は斉藤の番なのか。


大雑把に言えば、この3巻は
生き方を変えてみる、という挑戦(それはこの漫画全体を覆うテーマでもある。ここでは特にそれが強く出て来た)。
古谷実という漫画家が終始一貫して問いかけているのは、実はこういった点なのかもしれない。
さしあたりここでの問題は次の一点。すなわち、ヒトは孤独で良いのか。
生存するだけなら、友人も恋人も確かに存在しなくて良い。
しかし、生活していく上での孤独は、そのヒト自身をある一定の枠に閉じ込めることになる。つまり、著しく偏った厭世観や異性への変態的・観念的な視点、人間の本能的な営みに対する嫌悪感及び否定、少し世間ズレした自意識の形成等々がそれである。


現在所有する自らの意識や価値観、それを己の過去と重ね合わせてみた時、そこには逃れることの出来ない明瞭な「私」個人の姿が浮かび上がる。そしてヒトはそれと対峙した時に、或は己を肯定し、或は否定する。成長という過程はその経験を通じてのみ形作られるものであり、常に現在の「私」と抗うことが求められる。
現状を無思想に受け入れることの無意味性、「私」を無効化する追求心の放擲への警告。とりあえず今の「私」を問うてみよう、という一つの課題提示。これは簡単なようで実は相当“ヘビーな”難題であろう。


最後に。(男からすれば)羽田さんのような女は、希望に溢れた魅力的な存在だ。だが、こんなヒトは存在し得ないこともまた、何となく直感で理解している。そこにある甘〜い罠の存在については、多くの者が既に勘付いている。もしも現実世界で、甘さを求め続けている者がいるならば、彼は、ふと気付いた時には泥沼に落ち込んで抜けられなくなっていることだろう。

2007年05月01日

2007年05月01日 サザエさんのSEX事情考察試論

このサイトを立ち上げるより3年前に、私はexciteブログを利用していたことがある。そこで「サザエさんのSEX事情考察」なるものを記して、何人かのヒトから好評を得た。
あれから3年という月日の経過の早さに驚きつつ、改めてそれを掲載してみようと思う。なお、今回の再掲載にあたってタイトルを「サザエさんのSEX事情考察試論」とした。これは、まだ改訂の余地が大いに残るものであり、あくまでもプロトタイプでしないという意味を含んでのことである。また本文自体も、前回の「サザエさんのSEX事情考察」の大筋を辿りながらも、全面的に書き改めた。


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2007年03月06日

2007年03月06日 血出過ぎ

「ギャグマンガ日和」8巻三月初頭にして早くも春の陽気ポカポカ、つい笑みも溢れる今は実にギャグ漫画を読むのが相応しい絶好のギャグ漫画日和。そして「ギャグマンガ日和(8)」
これこそ年に一度のお楽しみである。


この8巻は夢野カケラの活躍ぶりが際立って凄い。だって1ページの最終回ですよ〜。
また芭蕉と曾良が過去最高に面白い。
あと、やっぱり細かい所に仕掛けが多いのが良いわ。何度か見直して気付くものが結構ある。こういう随所に隠された遊び心は魅力的だなぁ。
んで出血量が多過ぎ。最低でも2ページに1回は誰かが血を出したり血を吐いたりしているじゃないか。


それで8巻から個人的なお気に入りを一つ挙げるならば、第142幕の「マンガ専門学校伝説 ハリケーン準」
いったい何をやっとるんじゃ、というムチャクチャな内容が最高。


今回のは今まで以上に何度か読み返すことで面白くなってくるものが多い、気がした。所謂“スルメ”。


相変わらずの台詞やキャラの動きの妙は他の追随を許さない独特で圧倒的な雰囲気であり、間違いなく現時点で最高ランクのギャグ漫画だと思うのだが、いやはや月ジャン休刊とともにこの漫画を打ち切りにしようなどという編集部の方針は、やはり正気の沙汰ではない。


願わくば来年の春にも「ギャグマンガ日和」の続刊が出ますように。

2007年01月10日

2007年01月10日 ハシワタリ

わにとかげぎす2巻古谷実の「わにとかげぎす」2巻。


う〜ん、面白いといえば面白いけど、話の展開が過去の作品とカブっていて、若干マンネリ気味じゃないだろうか。


各登場人物の奇怪な言動や、整然としたコマ割りなどは、前作「シガテラ」よりも更に磨きがかかり、惹き付けられる部分が多い。
そのため、後半部分には良い緊張感が漂っている。


ただ、変化の無い日常生活からの脱却というのが、この作品の大きなテーマだろうが、それがどういうカタチであれ、殺人、やくざ絡みの事件に関わることになってしまった時点で、もう否応無く“日常”とは大きく脱却してしまった(脱却させられた)ことになる。いきなりこのような展開に持って行ってしまって、後々大丈夫なのだろうかと思う。
人生観や価値観、良心の維持に決定的な影響を及ぼすような出来事に遭遇してしまったことで、主人公である富岡にどのような変化が起きるのか、それが楽しみだといえば楽しみだけど、一歩間違うと目指すべき“日常”を見失った、現実世界と乖離し過ぎた人物を描く安ぅ〜いSFのようなモノになってしまう可能性も無きにしもあらずや。


とはいえ、随所に見られるおかしなセリフや各キャラの妄想は、古谷実独特の世界で楽しい。


しかし「ヒミズ」、「シガテラ」という一連の流れを鑑みると、この「わにとかげぎす」のような作品に結びつくのは、ある意味で必然のことなのかな、とも受け取れる。もしかすると、この辺りが古谷実における一つの到達点なのかもしれん。ま、その辺りの個人的見解は、また機会(暇)があれば書こうかなと思ったり思わなかったり。いずれにせよ本作が完結するまで、ハッキリとしたことは言えませんね。うん、早合点は良くない。

2006年09月08日

2006年09月08日 禅問答

真説 ザ・ワールド・イズ・マイン「ザ・ワールド・イズ・マイン」が復刊された。しかも「真説 ザ・ワールド・イズ・マイン」となって。


微妙に台詞が変更されてたり、加筆ページがあったりして嬉しい。
違いを見極めるのも楽しい。
しかも結構売れてるみたいだ。


読み直しながら改めて思ったこと。
まず、登場人物の言動が、スゴく"ありそう"。
かなり現実的な台詞を吐いたり、傍観者的な視点で物事を捉える人物の立ち居振る舞いが、今眼前で展開されても納得できそう。そういう場面が多い。
で、トシの母親のシーンと、トシが変化する場面は思ってた以上に大きな役割があるということ。
物語全体からいえば、ユリカンが回答するシーンも大きい。それと同じくらいにトシの家族に関連する一連の場面も、完全にその後の展開の礎となっている。
非人間的なモンちゃんとあくまでも凡人的なトシの対比。それを決定的にしたのが、ココだと思う。
そして、人を殺す場面での、あっさりとした描写。
人の生き死になんて、実際は凄く簡単なもの。だからこそ、それを知る度に残酷に思えたり、悲壮的な気分になったり、尊さを覚えたりする。
その軽薄な感じをもって核心をついてくる新井英樹の表現力・表現方法には背筋が凍りそうだ。


あとは、モンちゃんとヒグマドンの対峙(対決?)の場面とか、飯島猛にも改めて思うことはあるけど、とりあえず、物語全体を支配する"末期感"みたいなものは、いつ見てもゾクゾクする。この独特の雰囲気が、この作品の特別なところ。


それにしても、この漫画は最初の頃から決着がついていたんだな!
基礎的な世界そのものは、不動のものとして完全固定されている。
もしかしたら現在の世の中も、もう既に本筋は決まっていて、固定されているのかもしれん。それを知っているフリをして渡るのがトシで、何も知らないで"純粋"に渡るのがモンちゃん。
世界を動かすのはどちらか。「ザ・ワールド・イズ・マイン」と思いながら、世界を揺さぶれるのはどういうヤツか。
そういう問題を改めて人類史に問いかけるような漫画、といえば大袈裟すぎるか。

2006年06月18日

2006年06月18日 左遷っぽいね

別冊ヤングマガジン NO.16「RIN」が別冊ヤンマガで連載再開だというので、初めて別冊ヤンマガを買ってみた。


しかし、新井さんは連載再開早々にこんなエグい内容のモノも持ってくるとは、相変わらずというか、さすがというか、いやはやスゴいなぁ。


最近は本誌のヤンマガも古谷さんのを立ち読みするくらいで、他のものはほとんど見てなかったから、当然、というべきかどうかは分からんが、別冊の方で連載されてる漫画は知らないものばかり。
ということで、一通りザっと見てみたけど、変なエロネタで中途半端に面白おかしいのが多いね。
でも、本誌では不定期連載の「しあわせ団地」は秀逸だった。この漫画、初めてじっくりと読んでみたけど、かなりイイ感じ。
でも、その他は、ホントに中途半端だなぁ。


まぁ、隔月で価格も350円だし、「RIN」と「しあわせ団地」のために毎回買っても良いかなとは思いましたが。

2006年06月07日

2006年06月07日 「RIN」1巻出たあああああ!!

「RIN」1巻「RIN」1巻やっと出たああああああああああああああ!!!!


買ったああああああああああああああ!!!!!


表紙とカバーが新井っぽくねえええええええええ!!!!


でも、リンすげええええええええええええええ!!!!


各キャラの立て方巧えええええええええええ!!!!


しかし、展開遅えええええええええええええ!!!


2007年、2巻発売予定ってなんじゃああああああああああ!!!


季節すら明記されてねえええええええええ!!!!


「別冊ヤングマガジンにて連載中」ってなんだそりゃあああああああああ!!!


隔月ってやべええええええええええええええ!!!!


「RIN」完結までに何年かける気だよおおおおおおおおおおおお!!!!!!


でも、やっぱり、おもしれえええええええええええええ!!!!

2006年05月30日

2006年05月30日 「キーチ!!」9巻

「キーチ!!」9巻キーチ9巻。一応本日発売です。私も近所の本屋で見つけました。本棚の隅にこっそりと一冊だけ置いてた。なんちゅう扱いの悪さだ。


ところで「子供編」ってなんじゃ。今までずーーっと子供編だったのか。次は大人編になるのか。しかしよく分からん。とりあえず自然にフェードアウトってのだけは勘弁願いたいものです。


内容については、コレを読んでるヒトの中にまだ9巻を持ってないヒトもいるだろうから善意のある割愛。


まー、一言にいえば相変わらずスゴい。
何が、どこが、どのように、どうなっているから、スゴいのか。具体的な感想を書き出したら3時間くらいかかりそうだから止める。


この9巻は新井英樹の皮肉たっぷりな現実描写漫画と捉えて良いかもしれん。決して責任追求をしようとかいうのではなく、単に、民主主義をはじめとして、自由競争経済または最近良く言われる「格差社会」、及び政府やマスコミ各機関、さらにはマジョリティーに群がる連中、状況によって都合良く変わる現代社会の民意・世論などへの批判などを含みつつ、でも、結局それら全てをシュールにアイロニカルに、第三者的視点から描いているような感じ。言い換えれば、甲斐が言う世の中を動かす「金」「法律」「情報」「暴力」の四つに取り付かれた軽薄な観念への疑問とも言えるのではないか。
時代とその対象こそ違えど、作者である新井英樹自身の中には、宮沢賢治が童話の中で描き出したようなタイプの厭世的思想や純粋な人間性と共鳴し合う部分があるのかもしれない。などと感じました。


それにしても甲斐の台詞回しと、キーチの眼は恐いくらいだ。作中のセリフを引用すれば「あの眼光、ただ者じゃねえぞ…」という意外に、無い。
もし、現実社会に、キーチみたいな少年が降臨すれば、世の中はどんな風に受け止めるんだろうか? ねぇ。

2006年04月25日

2006年04月25日 懐かしのコロコロコミック

コロコロコミック


偶然見つけたコロコロコミックのHP。
懐かしい。小学生の頃毎月購入してた。当時はコロコロ派とボンボン派に分かれていたっけな。
折しも丁度ミニ四ブームのご時世であったから、周りにはコロコロ派が多かったような気がする。
ミニ四ブームの火付け役的な存在の「爆走兄弟レッツ&ゴー!! 」が大人気で、あとは「おれは男だ!くにおくん」とか「スーパービックリマン」とか「ゴーゴー!ゴジラッ!!マツイくん」とか「学級王ヤマザキ」とか「スーパーボンバーマン」とかがあった。
ヤバイ。予想外に覚えてるよ。


個人的には「貝造戦士ヤドカリくん」ってのがなぜか一番記憶にある。
内容は断片的にしか覚えてないんだけど、今でも印象の強い漫画。
コロコロコミックといえばまず「貝造戦士ヤドカリくん」を思い出す。


今はどんなのやってるんだろう?
例によってまだドラえもんはやってるみたいだけど、他のは多分調べても分からんから良いや。
漫画家でいえば、こしたてつひろ、玉井たけし、樫本学ヴ、穴久保幸作といった人たちの名が思い浮かぶけど、健在かな?


こういう小学生向けの漫画雑誌に作品を掲載している人たちって、やっぱりあまり評価されないのかねぇ。有名になったのって小林よしのりくらいかな?
対象が小学生だから仕方ない面もあるかもしれないけど、例えば「炎の闘球児 ドッジ弾平」なんかはちょっと内容を変えれば少年誌でも十分やっていけたと思う。少なくともミスフルなんかよりはよっぽど良い漫画だった。


と、まあ そういうことを考えながら、なんとなく昔を思い出したのであります。

2006年04月09日

2006年04月09日 繋がりを求めて

先々週から連載が始まった古谷実の新作「わにとかげぎす」
今まで古谷実は中高生を主役に据えた作品を描き続けてきたが、今回はちと違う。
32歳の警備員が主役の漫画だ。
とは言っても、やはりそこは古谷サン。この男が屈指の社会不適合者。
主人公の人格自体は、彼が一貫して描き続けてきた人物と何ら変わるものではないだろう。


今のところ知ることができる、おおまかなアウトラインはこうだ。
32年間ずっと無気力でいつの時もグーグー眠り続けてきた男、富岡ゆうじ。時間さえあれば家で眠り続けていた富岡は、近頃思い始める。今までの自分の人生は何だったのかと。振り返っても振り返っても蘇ってくる記憶は眠り続ける自分の姿ばかり。
自分の過去を嘆きつつも、とりあえず一つ願う。友達が欲しいと。
しかし、これといって社会との接点がない彼に、何かしらの出会いなど期待できるわけがない。
社会と繋がりたいと思いながらも、どうしても現状から抜け出せずに葛藤していたその時に二通の手紙が届く。一通目は職場に、二通目は自宅に。
差出し人不明のそれには共に"お前はもうすぐ死ぬ"的な内容が記されており、富岡は非常にビビる。つまらんイタズラだ、と思いながらも内心は凄くビビっている。


と、ここまでが現在明かされているストーリーだ。
富岡が今後どのような形で社会と結びついていくのか、謎の手紙の差出し人とどう関わっていくのかが当座の注目点になるだろう。


元来古谷実という漫画家は、闇を描くことに長けたていると同時に、所謂ダメ人間を描くことにも長けている。
その古谷実が、今作「わにとかげぎす」でどのような闇を描き、この一人のダメ人間をどう仕立てていくのか、実に興味深い。


私自身、決してこの男と共通点を持たないと感じているわけではない。
それゆえに、この物語がどう展開していくのかを客観的に見つめることは、やはりできないだろう。
漫画という域を超え、自分の内側を抉られるような作品になっていきそうな気配がしている。

2006年03月25日

2006年03月25日 表紙はフィッシュ竹中さんです

ギャグマンガ日和今月発売された「ギャグマンガ日和」の7巻。
コレが猛烈にオモシロイ。もう世界最強のギャグ漫画かもしれん。


この漫画の魅力は、意味不明の展開とセリフ・ぶっ飛んだキャラ・不条理さ・ヘタレ・嫌味・同じことの繰り返し・地味な嫌がらせなどギャグ漫画の王道的なスタンスにありながらも、微妙にそこからズレていることにある、と私は思っている。
と言っても、こんな説明じゃあ誰も理解してくれないように思う。この漫画を文章で説明するのは実に困難だ。


別の言い方をするなら、小さな笑いを続けまくって、思わぬところで思わぬ落とし方をするタイプの漫画―例えるなら小刻みにジャブを繰り出して相手を牽制しているかと思えば、いきなり目にからしを入れ相手を悶絶させるようモノ (この例えで良いのかどうかは分からんが)―だと言えば、まだ多少は分かって頂けるかな。
いやぁ、分からないかなぁ。私もなんかよく分からなくなってきてるし。


1コマ1コマのセリフや行動が奇妙で、1ページの中に5つも6つも笑いが転がっている。
おまけに気付き難い小ネタも満載。何度か繰り返し見ているうちに新たな発見をすることも多い。
単純な絵だと思っていたら、実は細部に色んなモノが仕込まれているから恐ろしい。


とりあえず"百聞は一見にしかず"だから、実際に読んで頂ければ良いのだけど、それではこうして書いている意味も無いなと思った。
だから他にもいろいろと書いてみようと思ったけど、何かあんまり意味が無いような気がしたので、やっぱりもう書かない。
いずれにしろこの漫画は最高に面白い。そしてこの7巻は今までにも増して特に素晴らしい。
7巻で私が好きなのは、「マッチ売りの少女」と「西郷隆盛でごわす」と「マンガを描こう」、そして特別編として収録されている週刊少年ジャンプに掲載された「どこへ行くの聖徳太子」。


お花見なんか嫌いで、家でテレビ見たり漫画読んでいる方が好きっていうなら是非。
小春日和よりギャグマンガ日和。お花見日和よりギャグマンガ日和。
なんか選挙演説みたいだけど、何がともあれギャグマンガ日和です。

2006年03月11日

2006年03月11日 超個人的古谷実解釈

古谷作品スケールの大きな漫画というのは、往々にしてウケやすい。
そんなのは当たり前のことだ。そういう漫画は読んでいてワクワクするし、予想もつかない話の展開に読者が釘付けになるからだ。
古谷実の描く漫画は、そういった大きなスケールというものからはかけ離れている。にも関わらず古谷作品が面白いのは、描くテーマが一貫しているからではなかろうか。


古谷実という漫画家の描く世界は、そのほとんどが将来に希望を見い出せないでいる少年たちが主人公だ。彼等は常に小さな世界で生きることを望み、決して大きな一歩を踏み出そうとはしない。極めて現実的でシュールな考えを持ち、周りに悪影響を及ぼすこともしばしばある。
いわゆる"青春時代"の少年にありがちなコンプレックスやジレンマを持っていながらも、その本質は他の少年たちと比較すれば、極端に偏っていたり、変態的であったりする。


古谷作品では、現実世界ではほとんど考えられないことだが、そんな少年たちに好意を寄せる非常にカワイイ女性が現れる。
それは「行け!稲中卓球部」における神谷であり、「僕といっしょ」における小川ユキであり、「グリーンヒル」における横田であり、「ヒミズ」における"茶沢さん"であり、「シガテラ」における"南雲さん"である。
どう考えても不似合いなカップルを、古谷実は描く。しかし、いずれの場合も彼等の恋愛は、最終的に成就することはなく、不発のまま物語は幕を閉じる。
古谷作品は決してハッピーエンドにはならない物語ばかりだ。そして「シガテラ」を除き、いずれの作品においても、少年たちは成長することなく終わっていく。


冒頭に記したように、古谷実という漫画家は今までこのような不変のテーマで漫画を描いてきた。
平凡を望みつつも、周囲の状況によってちょっと変わった日々を送らざるを得なくなった少年たちの苦い日々と甘い瞬間を巧みに描き分けることができる、希少な漫画家である。


私が古谷作品に惹かれる理由は、作中に出てくる少年たち程ではないが、私自身も同じように現実と理想のジレンマを抱いていた(いる)記憶があるからだ。
様々な苦悩から脱却できることなく、惰性で毎日を送っている中、そこにちょっとしたスパイスが注入されるといいな、という淡い期待。
例えそれが不発のまま終わろうとも、夢のような瞬間を経験したいと思ったことがあるならば、その何とも言えない感情は理解できるはずだ。


古谷実の漫画には、自分の苦々しい記憶を思い起こさせる要素がたくさん含まれている。それは良いものも悪いものもあり得ないものも、全部含めて笑い飛ばせるように演出されている。
過去の記憶をチクリと刺激する、その描写の数々に私は惹かれ、様々な感情を思い起こし、ある種の親近感を持つ。と、同時に少し心が痛んだりもする。


作中に出てくる少年たちの多くは、特異な人物が多いが、そんな彼等の中に多少なりとも、懐かしさに似た感覚やともすれば憧れとも取れるような微妙な思いを覚えるのだ。


結局のところ、古谷実の漫画というのは自分の中のネチョっとした過去の記憶とリンクする一方で、「そんなことねーよ!」と笑えるものである。
現実と理想の挟間で悩んでいた昔を思い出し、懐かしさに浸る一方で、登場人物の行動に時として引くこともある。それでも、こういう"青春"ってのも、もしかして面白いんじゃ? と心のどこかで感じさせてくれる所に古谷実の最大の魅力が秘められている、と私は勝手に解釈している。

2006年03月04日

2006年03月04日 キーチ!!8巻

キーチ!! 8巻キーチ8巻が凄まじい。
いやマジでこれは凄いことになっている。スペリオールでの連載は立ち読みで、しかも不定期にしか読んでいなかったから、改めてコミックという形で通して読んでみると、その凄さが一層際立っているように感じる。
ここまで物語を展開させるかという程、話は急速に加速していくし、緊張感が最初から最後まで続いている。
「ザ・ワールド・イズ・マイン」の頃の雰囲気に似てきたな、という思いがした。
ストーリーについての詳細は省くけど、甲斐のマスコミの操作っぷりは神業的なものだわ。


おそらくこの8巻は、今までのどの巻よりも衝撃的で、突っ走っている。
いや、マジで凄まじい。


そして私は今ちょっと頭痛がして気分が良くないので、あまり難しいことは考えられないが、とにかく「キーチ!!」の8巻があまりに凄かったので、気の向くままに殴り書いてみた。
見苦しいと思った方には陳謝。


とにかく久々に漫画を読んで鳥肌が立ってしまった。チ○ポこそ勃たんけど、鳥肌が立つこと受け合いだ。何かもうやけくそだー。オラー

2006年02月11日

2006年02月11日 カリスマ小学生たち

キーチ!!新井英樹が浦沢直樹や井上雄彦なんかと比べて足りないものはおそらくポピュラリティーでしょう。
ストーリー展開や構成、画力、セリフといった点では浦沢や井上なんかをも凌駕するほどのものを持っているとも言えるのですが・・・・
でも逆にそこがこの方の魅力であったりもするわけです。


ということで、再びポピュラリティーのない新井英樹作品を紹介。
この「キーチ!!」を超簡単に説明すると、染谷輝一(通称:キーチ)が悪を裁く話。
というと三流のヒーロー漫画みたいに思われるかもしれないな。でも、あくまでもこれは「新井英樹の漫画」ということをお忘れなく。


今のところ7巻まで出てますが、話は二つに分けることができます。
まずはキーチが幼年期の頃の話(1巻〜5巻の半ばくらいまで)。キーチは幼い頃に両親を通り魔に殺されます。しかも目の前で。
そこから話が発展していき、キーチがホームレスの女性と暮らし始めたり、目の前で「ピーナッツバター(SEXのこと)」をしているのを見たり、挙げ句には捨てられたりと、なんやかんやで波瀾万丈。


もう一つはキーチが小学生になってからの話(5巻の半ばくらい〜)。やたらと自我が強く、独立心のあるキーチは今まで2人の教師を潰し、転校やむを得ない状態となり、祖父のいる長野は松本に越してきます。
ここからが小学生編の始まり。
転校初日の挨拶でいきなり「誰も俺にかまうな」などといういかにもな発言をするキーチですが、同じクラスのみさとが父親に売春させられていることを知り、唯一キーチが心を許した"参謀"甲斐とともに悪い大人たち相手に、マスコミ関係者を味方に付けて奮闘します。


ヒジョーに適当なあらすじは以上のような感じ。なわけですが、いやぁ この作品に出てくるキャラがどれも素晴らしいのですヨ。
特に甲斐なんて本当に小学五年生かよ、と思うくらいの秀才。カツオやのび太と同い年なのが信じられません。


そして相変わらずの「新井節」。めちゃくちゃセリフ回しが巧いんだよな。
甲斐と父親のやりとりのシーンなんか最高です。
詳しくは読んで下さい。


カテゴリー分けし難い漫画な上に、この人の描く漫画はいつ落とし穴があるか分かりませんから、これからの展開がまったく読めません。
でもムチャクチャ面白い作品です。
今連載されている漫画で一番好きな作品です。


キーチの振り上げる拳が見たければ是非。

2006年02月06日

2006年02月06日 アロエロエロエロ

週刊少年ジャンプ最近の週刊少年ジャンプのクオリティはアレだ。もうヤバい。
現在週刊少年ジャンプで連載されているので、私が好きであったり面白いと思うのは「べしゃり暮らし」と「魔人探偵脳噛ネウロ」と「太蔵もて王サーガ」の3つ。それなりに好きなのは「ムヒョとロージーの魔法律相談事務所」と「DEATH NOTE」。
って、これだけの数があれば文句言えないかも・・・


まぁイイや。以下、名前を挙げた作品の紹介文とも感想文とも取れぬ雑文。


「べしゃり暮らし」はかなり良い作品。さすが森田先生だ。展開や構成が抜群。絵も週刊誌レベルではかなり書き込んでいる方だろう。画力では小畑健と森田まさのりが飛び抜けているね。現在のジャンプでは。
ただ、今のジャンプで森田先生の作品がどこまで続けられるのかという不安はあるけど・・・
梅澤春人先生みたいにヤンジャンに移った方が良い気もするけど・・・(ただ、そのヤンジャンもクオリティの高い漫画は少ないんだけど)


"ネウロ"は「探偵」なんて言ってるけど、これは"コナン"みたいな漫画ではなく、犯人の狂いっぷりを楽しむ漫画ですな。
正直、"少年"ジャンプでやるには勿体ないくらいの作品だ。
犯人のトリックとか謎解きは"コナン"なんかよりは大分劣るけど、この漫画の本質はそんなところではない。
すごくぶっ飛んだ良い漫画だと思う。かなり好きです。


そして大亜門先生の"太臓"。これはパロディネタを使いまくるギャグ漫画なんだけど、これがメチャクチャ面白い。
もうなんかやりたい放題という感じで素晴らしい。
いつ打ち切られるか分からんけど、できるだけのことはやって欲しい。
大亜門先生、毎週楽しみにしています。


"ムヒョ"は読み切りの時から好きで、連載が始まった時はちょっと喜んだんだけど、人気が出るにつれてどんどんスケールアップ。
まぁ、これはジャンプのお約束だから仕方ない。けど、あの初期の頃の純粋間漂う展開が好きだっただけに、最近のはちょっとしっくりきてません。それでも十分面白い漫画だと思うけど。


"ムヒョ"といえば先週号(09号)で、「アロエロエロエロ(な なめるよ 小娘が)」と"太臓"のエロネタに使われてて、これ妙にマってしまった。


「DEATH NOTE」は連載開始当初は「スゲーおもしれー漫画が始まった」と思ったけど、すぐにダメになってしまった。
どこでダメになったと感じたかといえば、Lが月の部屋にカメラと盗聴器を取り付けまくった後くらいから。コミックでいえば、3巻の半ばくらい。
その後はなんかズルズルここまで来てしまったという感じ。
でも私、コミックは未だに買い続けている。途中で止められなくなったから、私の部屋には現在「DEATH NOTE」のコミックが10冊揃っている。


映画化されるらしいけど、大丈夫かいな。いや大丈夫じゃないな。
映画も「DEATH NOTE」自体も。
そして週刊少年ジャンプ自体も。
もう全盛期のあのクオリティには戻れないだろうね。
鳥山明先生も漫画描かなくなった(描けなくなった?)し、井上雄彦先生も出てっちゃったし。
もう大亜門先生の最強のパロディネタに全てを賭けるしかないな。マジで。

2006年01月16日

2006年01月16日 世界を手に入れろ!

ザ・ワールド・イズ・マイン私が一番好きな漫画家は新井英樹。ちなみに二番目は古谷実だったりする。
その新井英樹といえばやはりこの「ザ・ワールド・イズ・マイン」だろう。


ストーリーについての詳細は省くとして、この漫画の凄いところはヒグマドンという怪物を登場させた所だと思う。
ぶっちゃけモンちゃん一人だけでも十分凄みのあるキャラだから、ヒグマドンがなくても物語は余裕で成立しただろう。しかしそこにヒグマドンみたいな怪物を登場させる辺りがさすが新井英樹とでも言おうか。


本当にこの人の描く漫画は動きがある。直下型の地震のような作品を描き続けている稀有な作家だと思う。


ところで、私がこの作品中で最も好きなのは141話の「勝者なし」。


「人権を差別せよ。自ら社会を逸脱する者にその生における平等はない。(中略)『ヒューマニズ』を差別せよ。その言葉の響きに酔いしれ 思考を停止した者のみが殺すことをすべて悪とする。人間とはあまりに不完全な度し難い生き物であるにもかかわらず 神をも恐れず懸命に守るべき命と葬るべき命を常に選択してきたのだ。ならば 差別することも殺すこともヒューマニズムである。」と須賀原が弁を振るう場面。


このセリフの是非については、かなり意見が分かれる所だろう。
でも、そんなことはどーでもいー。こういうことを堂々と喋れることができるキャラを登場させ、そのキャラの見せ場をああいう形に持っていった、というその展開に惹かれるのだ。


改めて思うが「新井節」が炸裂した「ザ・ワールド・イズ・マイン」は、本当にスゴい漫画だ。


・・・ちなみにこのサイトの名前である"Whose Is The World?"というのは、"ザ・ワールド・イズ・マイン"という所から派生してきたものです。どーでもいーことかもしれませんが・・・

※現在「ザ・ワールド・イズ・マイン」はどうやら絶版のようです。おまけに古本屋でも見つけることが相当難しくなっています。
全巻揃えようとするならば、ヤフオクなんかを利用するのが最も手っ取り早いと思います。
こんなスゴい漫画が入手困難だというのが残念でなりません。

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