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2009年09月13日

2009年09月13日 新型インフルエンザではないはず

喉が痛い時には日本酒でうがいをすると良い。ふとそんなコトを思いました。緑茶や塩水などより何倍も強力な殺菌作用があります。こんな素晴らしい方法をどうしてテレビや雑誌では紹介しないのでしょうか。日本酒くらいのアルコール度数なら喉を痛めるコトも少ないと思いますが。さすがにウイスキーならマズいけど。
こうした発想が生まれたのも、幾分体調が優れないからです。新型インフルエンザであれば、もうとっくに急激な熱が出ている頃ですが、そうではなく微妙に不調な日々が続いているというのは、やはり季節の変わり目によくある風邪なのではないかと思うのです。


大相撲が始まったというのに、俺はまったくもってどうしてこんな事態に!
相撲、相撲、相撲!! 体調不良とかは死ね!!!!

2009年09月06日

2009年09月06日 やってた

現実と空想と喜びと哀しみと愛と憎悪と真面目とエロと熟女好みとロリと働き盛りとニートと家庭科と体育と夏と冬とSとMと男と女とジジイとババアと手料理とお惣菜と肉料理と魚料理とフルコースと精進料理と金髪と白髪とWindowsとMacとウォークマンとiPodとクーラーとヒーターとソロ歌手とグループ歌手とブスと美人と五月人形と雛人形と高級ホテルとラブホテルとみのもんたと光和夫と月とスッポンが入り混じったようなtwitterをやってた。興味がございますれば、お見知り置きを。


ココから行けるよ♡

2009年08月22日

2009年08月22日 今年のマイ・トップニュース

マイケル・ジャクソンが亡くなったり、押尾学や酒井法子が逮捕されたり、大原麗子が亡くなったり、何かと騒々しい2009年ですが、思えば草なぎ剛の逮捕から全ては始まっていたんじゃないですか。本人は自分の後に色んな事件が相次いで起こったため、やったー!! コレで俺の事件はすっかり忘れられるぞー! などと思って嬉々としていそうですが、わたしは忘れませんよ。むしろ今年発生した如何なる事件より、アナタのコトを鮮明に覚え続けています。選挙の結果がどうなろうとも、わたしはアナタ一筋です。今年のマイ・トップニュースにしてやる。
ほとぼりは冷めません。まだまだ冷めません。まだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだ冷めません。


前科一犯!!

2009年08月21日

2009年08月21日 ちょっと…

あなた汗臭いですよ。

2009年08月20日

2009年08月20日 にっき

なつもおわりにちかづいてきました。なつはあんなにあんなにきらいなのに、おわってゆくとなるといちまつのさびしさもあります。どうしてでしょう。おかあさんにきいてもわからないといいました。おとうさんはいません。ぼくのいえにおとうさんはいません。おとうさんはどこにいったのかなぁ。おかあさんは、「おとうさんはアフリカにしゅっちょうにいっている」といっていました。はやくかえってきてほしいなぁ おとうさん。
そしてきょうはそとであそびました。ひとりであそびました。だれもいっしょにあそぶあいてがいないのでひとりであそびました。ひとりでかいじゅうごっこをしました。ぼくがかいじゅうのやくで、ぼくがかいじゅうをたおすヒーローのやくです。ひとりでりょうほうのやくをやってもあんまりたのしくありませんでした。いっしょにあそんでくれるひとはいないかなぁ。
よるはラーメンをたべました。カップめんでした。さいきんはカップめんばかりたべています。ほかのものもたべたいなぁ。
おかあさんはしらないおじさんとどこかにいきました。ぼくはひとりでおふろにもはいって、ちゃんとはみがきもしました。おかあさんはよるおそくかえってきたみたいだけど、なんじごろにかえってきたかはわかりません。
おかあさんはあのしらないおじさんを、あたらしいおとうさんだといっていました。ふるいおとうさんはどうなったのかなぁ。あたらしいおとうさんはとてもやさしくて、ぼくにカップめんをかってくれました。たまにはちがうものがたべたいなぁ。

2009年08月09日

2009年08月09日 アレの想い出

アレアレは所謂美味しかった。ホクホクという形容もアリだと思いますが、アップルパイのように生地がポロポロこぼれ落ちる感覚にも似て、干し柿のような甘さもありました。夜の味もしたし、朝に食べれば朝の味もした。あまり食べるモノではありませんが、ソレは海藻みたいなモノです。バッハなどを聴きながら食べると良かった。朝まででも食べれました。饒舌になれました。苦みよりもほんのりビターなトコロがありました。君は知ってる? わたしは知ってる。どんなもんだーい。どこに行ってもアレを食べる人を何と呼ぶのでしょう? ヒーロー? 首位打者? ネズミ小僧? シェリル・クロウのファン?
100円くれたら教えてあげよう。夢の瀬戸際にジャンプする少年の話。そんなコトが想起される食べ物は所謂アレを置いて他にはございません。沢庵のような歯ごたえもあれば、シュークリームのような柔らかさもあり、イカのような臭いもしたし、オレンジみたいな梅みたいな想い出も喪失されてゆくのか。おぉ。17歳の記憶が完全に吹っ飛んでゆく食べ物です、所謂。探検家は必携。即日公表されても良いのではないでしょうか。アレは食べ物だ。衣類だというヒトもいるが、確かにそのように利用できなくもない。だが、わたしはアレを食べます。LADY GAGAみたいな痛々しいヤツは食べない。佐藤浩市みたいなクールさと泥臭さの両方を包含するようなヤツだけが食べます。モグモグ食べます。アコギで弾き語りをしながら。アレを食べると、何の為に生きているかが分からなくなる。どすこーい。Hey!Hey!Hey! I am a full body Tattoos.

2009年08月08日

2009年08月08日 出れない迷路に立ちすくむ

もっと他にあるやろ? コレしか無かったんかい? なぁ?

2009年08月07日

2009年08月07日 二面性の魅力

世の中は二面性で支配されていまして、清純の裏には暗黒があるのが常です。今、お騒がせ中のあの女もそうでした。純情は醜悪とイコールで結ばれます。こりゃ、どうやら相当な悪のようです。夫婦揃っているから、双頭の悪魔です。笑えないね。同時期に話題を集めたアッチの男がすっかり地味になっちゃったや。向こうは二面性などない一面的な単純さでしたから、相手にされなくなるのも早いのです。なぜなら、世の常から外れているからです。世の常に従うものこそ、長い間注目されます。すなわち二面性があればあるほど注目されるというワケなんですよ。一面性は奇形です。
彼女には是非とも逃げまくって欲しいですね。どうにも割り切れない連中が絡んでいるのでしょうか。だとすれば、もうアジトの中に逃げ込んでいて、捜査は難航するでしょう。安易に知人の家を転々とするといったようなコトはつまらないのでやらないで頂きたい。今、わたしは不道徳なコトを書いています。自覚はあります。自覚がありながら書く。そこに二面性があるのです!


二面性は楽しい。正義でありながら悪。悪でありながら正義。悪を倒すためならお花畑だって荒らすし、「正義」の看板を掲げたヤツと格闘しながら迷子の子の手を引いて親元まで連れてゆく。そこに面白さがある。悪を倒すだけのヒーローは糞です。悪いコトばかりやっているヤツも糞です。良いコトをやりながら同時に悪いコトもやる。悪いコトをやりつつ良いコトもする。コンビニで万引きしておいて、店を出る時にレジの前で財布の小銭を募金箱に入れて立ち去る。代金は払わないまま。ソレはとても魅力的な生き方です。
「いかにも」というヤツはダメです。裁判員をPRしておきながら、裁判員と対峙しそうなコトをしている!──「いかにも」が入る余地の無いと思わせながら、実はそうではなかった! 天晴! 人間の本分を体現しているではありませんか!

2009年08月03日

2009年08月03日 ヤツはやはりやっていた

俳優・押尾学さん逮捕へ、合成麻薬使用容疑


俳優の押尾学さん(31)が合成麻薬MDMAを使用したとして、警視庁麻布署は3日夜、麻薬取締法違反容疑で逮捕状を請求した。(中略)今月2日夜、東京都港区内のマンションの1室で、女性が死亡しているのが見つかり、この部屋が押尾さんの関係先だったことから、同署は押尾さんから任意で事情を聞くとともに検査を行った。


同庁幹部は、女性は病死で事件性はないとしている。


愈々やりました。やると思ってたんです。やる!という雰囲気がありました。女とどういう関係であったかなどはどーでもいーのですが、やはりやりましたか。やると思っていましたよ。やりそうなオーラというか、空気がありました。なぜ女が彼の関係するマンションにいたかなどはどーでもいーのですが、遂にやりましたね。やらなければおかしいとすら思っていました。やるの例的な顔をしていました。というか、やってまーす的な顔をしてたんじゃないですか? 女が病死であるとか、そういうのは一旦置いといて、漸くやりましたか。ずっと前から、「クニミツの政」の頃から何か感じるものはあったんです。やってますが何か?と言いたそうな顔だとは思っていましたが、やはりやっていたのですね。
見れば分かるんです。

2009年07月31日

2009年07月31日 イメージ「ショーシャンクの空に」

「ショーシャンクの空に」という有名な映画がありますが、わたしは一度も見たコトがないので、どういうお話かは分かりません。ですが、タイトルから察するに、おそらくショーシャンクというヒトが亡くなってお星様になるような、どこかしらメランコリックなモノではないかと思います。


「ショーシャンクの空に」あらすじ(ネタバレ注意!)
shawshank.pngショーシャンクはごく普通の農業を営む働き盛りの中年男性。彼は愛する家族に囲まれて充実した日々を過ごしていた。ある日、旧友のワトスンが数十年ぶりにショーシャンクの前に姿を現す。ショーシャンクはワトスンとの久々の再会に感激し、その日の夜は二人で遅くまで飲み明かしたのだった。だが、明くる朝、目が覚めてみるとワトスンの姿が見えなくなっている。自分の家の周りや畑の中を探し回るが、どこにもワトスンの姿は見えない。ショーシャンクは「神隠し」ではないかとひどく動揺してしまい、仕事が手に付かなくなってしまう。そんな彼を心配した妻の純子は、彼の大好物である麻婆春雨を作ってもてなそうとするが、ショーシャンクはそれすら食べられないでいた。仕事を放り投げ、自暴自棄になるショーシャンク。挙げ句にはスーパーでお惣菜を万引きしてしまい、刑務所送りになってしまう。裁判にかけられたショーシャンクは、裁判官から「わたくしの大好物である若鶏の唐揚げ弁当を盗むとは言語道断である! あの日、貴様が万引きしたせいで、わたしは最後の一つを手に入れられなかったのだ! よって貴様を処刑に処する!」と断罪され、間もなく絞首刑に処されるのであった。ショーシャンクが万引きで死刑になった日の夜、ワトスンと密かな愛を育んでいた純子は、とてもにこやかな顔で「やっと邪魔者が消えたわ。これでもうコソコソしないでアナタと二人きりで過ごせるのね」と言い、ワトスンと二人で新生活を祝杯を上げるのだった。その夜の純子の嬌声は、闇夜を突き抜け、お星様となり天へと駆け上がったショーシャンクのいる空まで高らかと響き渡っているのであった。
【右上画像:ショーシャンク(右)と旧友のワトスン(左)。その下は邪魔者のショーシャンクが死んで、嵐の中で歓呼の雄叫びを上げるワトスン。】

2009年07月27日

2009年07月27日 ホイットニー・ヒューストンと僕

一応言っておきますが、ホイットニー・ヒューストンと僕は無関係です。一度も対面したコトがありまえんだああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

2009年07月24日

2009年07月24日 そうめんチュルチュル

最近そうめんをチュルチュル食べてる。そうめんをチュルチュルチュルチュル。夏の風物詩。JITTERIN'JINNかWhiteberryの「夏祭り」と同じくらい風物詩。TUBEとか糞喰らえな風物詩。そうめんに薬味を入れてチュルチュルチュルチュル食べる。小粋に行こうぜチュルチュルチュルチュル。ネギにおろし生姜。そうめんを茹でてチュルチュル。すすり泣く子供を差し置いてそうめんを啜る。モンペアと疑われようがお構い無し。あたしゃ今そうめんを丸呑みしてんだい! チュルチュルチュルチュル。我は日本人なり。あい変わらず季節に敏感にいたい。色付きのそうめんは御免よ。純白の麺だけが僕の癒し。純白の麺 今日ぞ食う 若人よいざ まなじりは歓呼に応え。ビー・バップ・ハイスクールとかは死ね。名前がダサイんじゃ。そうめん食え。メシ喰うな。そうめん喰え。おっさんとおばはん、夢の中でつるつるの壺抱いてそうめんつるつる食え。そうめんとかけまして児童ポルノの最も映してはいけない部分と解きます。(その心は?)ツルツルしてます。そうめんをチュルチュル。つるつるも良いけど、やっぱりそうめんはチュルチュルね。あなただけ見つめてる。そうめんと一緒にあなただけ見つめてる。そうめんをチュルチュルするあなただけを。最近そうめんをチュルチュル食べてない。そうめんをチュルチュルチュルチュル。夏の風物詩。ウソ。JITTERIN'JINNかWhiteberryの「夏祭り」と同じくらい風物詩。ウソ。そうめん嫌。TUBEとか糞喰らえな風物詩。ウソ。だって夏じゃない。そうめんに薬味を入れずチュルチュルチュルチュル食べない。胃に入れない。小粋に行かないさチュルチュルチュルチュル。ネギにおろし生姜。そうめんを茹でずチュルチュルせず。すすり泣く子供を差し置いてそうめんを啜る。んな馬鹿な! モンペアと疑われりゃ終わりよ。子供は大切に。あたしゃ今そうめんより子供だい! チュルチュルチュルチュル。我は日本人なり。あい変わらず季節に敏感にいたい。色付きのそうめんは御免よ。そうめんすら御免よ。純白の麺だけが僕の癒し。パンツと同じ要領。純白の麺 今日ぞ食う 若人よいざ まなじりは歓呼に応えない。ビー・バップ・ハイスクールとかは死ね。名前がダサイんじゃ。コレは本気。そうめん食うな。メシ喰え。そうめん喰うな。おっさんとおばはん、夢の中でつるつるの壺抱いてそうめんつるつる食うな。そうめんとかけまして児童ポルノの最も映してはいけない部分と解きます。(その心は?)ツルツルしてます。そうめんをチュルチュル。つるつるも良いけど、やっぱりそうめんはチュルチュルね。ウソ。あなただけ見つめてる そうめんと一緒にあなただけ見つめてない。そうめんをチュルチュルしないあなただけを。

2009年07月21日

2009年07月21日 HITOE'S 57 MOVEはカレーか?

カレー今日は結構真面目に一日中 HITOE'S 57 MOVE のコトばかりを考えていました。HITOE'S 57 MOVEとは何だったのでしょう。わたしたちに何と希望を与えてくれたのでしょう。歓びでしょうか、悲しみでしょうか、カレーの臭いでしょうか、変な得体の知れない染みでしょうか。答えは全部ノーだと思います。カレーの臭いはギリギリ正解に近いトコロまで達していると思うのですが、完全な正解ではありません。ドライカレーにしてもそうです。そうでした。そうだったそうでした。
HITOE'S 57 MOVEとは何か。──戦後64年目を迎える今、改めてこの問題について熟考してみるコトは大いなる意味を持つものであり、我々の子孫に向けた重大なメッセージを残す作業でもあると思います。
HITOE'S 57 MOVE。名前の由来も忘れたHITOE'S 57 MOVE。何かが動いたようで、本人とごく少数のファン以外は微動だにしなかったHITOE'S 57 MOVE。我々はこの大いなる謎を前に、まずはどこから手をつけてゆけば良いのでしょうか。その謎を解く足がかりは、カレーにあるのでしょうか。いえいえ、カレーではありません。HITOE'S 57 MOVEはカレーではありません。もっと薄味の何かです。HITOE'S 57 MOVEはカレーのようにいつでも想起できるほどの強烈な香りと味を伴ってはいません。微妙にスパイシーではありますが、カレーの前では太刀打ちできません。学校から帰って来て家の前に達したとき、仄かに香ってくるカレーのお伽噺の世界のような香りに覚えたワクワク感のようなモノは、HITOE'S 57 MOVEには微塵もありません。
HITOE'S 57 MOVE。仮にソレを「X」として、その解を見つけ出す方程式とは如何なるモノでしょうか。X=○○ わたしたちはソレを解かなくてはいけないのです。HITOE'S 57 MOVE。ダンス。HITOE'S 57 MOVE。歌唱。HITOE'S 57 MOVE。ソレに対する現在での冷ややかな視線。HITOE'S 57 MOVE。ソレを取り巻く世知辛さ。・・・辛さ? 辛さ!? そうです!辛いのです!! 何か無性に辛いものがその背後にはあるのです! HITOE'S 57 MOVEの背後は辛いのです。辛いモノといえばカレーしか思いつきません。誰だってそうでしょう。この世にカレー以外に辛いモノがありましょうか。…となると、HITOE'S 57 MOVEはやはりカレーというコトになるかもしれません…


・・・ココまできて、もーどーでも良くなって参りました。もうカレーで良いや。最初はカレーなんかじゃ無いと申しましたが、イヤイヤ、やっぱりカレーでした。HITOE'S 57 MOVEはカレーです。X=カレー、カレー=HITOE'S 57 MOVE。HITOE'S 57 MOVEはカレーです。

2009年07月14日

2009年07月14日 頭文字でイこう

「TGGPKT」WMT KSEMN WA KZTKN NO KG WO UKT、「TYTDKHRHRSRCRM」 WO DSMST。KZTKN WA SR WO MT IZMK NO NIYN NO IE NI MKIMST。TTY IN NI 3KIKRIHERRMST。NIYN NO IE WA OMS(ブルセラショップ) WO ITNNDIMS。KZTKN WA NIYN WO YBMST。NIYN WA OKNMT NO YUZN HZOKN KR GUDTST DZKM DE、KZTKN GA OMI WO YSR ONNNKO URSTYN TN 性交渉 NO KK WO STEI STIMST。SR WO MT KZTKN WA「EE〜、NIYN、SR WA NIYN〜」TO IIMSTG、SKZ NI AIT GA 全裸 DE ARKT NI KDK、KSEMN KR KRT「TYTDKHRHRSRCRM」WO NIYN NI NRMST。SKS、SN CRM GA HDYI BTTKI DE ATTM、NIYN WA ローションの差し入れ DT KNTGI ST、更に激しい腰振り ET HTN SMST。URSTYN WA イキました。KZTKN WA 股間を弄りながら MUITD IIMST。「EE〜、NIYN、SR WA NIYN〜」


訳文:「低次元ポケット」を持ったカスえもんはクズ太くんの懇願を受けて、「ちょっとだけヒリヒリするクリーム」を出しました。クズ太くんはソレを持っていじめっ子のナイヤンの家に向かいました。途中犬に3回くらい吠えられました。ナイヤンの家はお店(ブルセラショップ)を営んでいます。クズ太くんはナイヤンを呼びました。ナイヤンはお金持ちの友人ヒジ夫から強奪したデジカメで、クズ太くんが想いを寄せる女の子ウルサちゃんとの性交渉の光景を撮影していました。ソレを見たクズ太くんは「ええ〜、ナイヤン、ソレは無いやん〜」と言いましたが、即座に相手が全裸であるコトに気付き、カスえもんから借りた「ちょっとだけヒリヒリするクリーム」をナイヤンに塗りました。しかし、そのクリームが程よいベタつきであったため、ナイヤンはローションの差し入れだと勘違いして、更に激しい腰振りへと発展しました。ウルサちゃんはイキました。クズ太くんは股間を弄りながらもう一度言いました。「ええ〜、ナイヤン、ソレは無いやん〜」

2009年07月10日

2009年07月10日 豆腐の角に頭をぶつけたら…

前回の予告に素直に従うコトにして、今回は次のテーマで書いていこうと思います。すなわち、わたしは豆腐の角に頭をぶつけて死ぬか。


結論から言いますと、死にません。角だろうが底だろうが平面だろうが背面だろうが、どこに頭をぶつけようとも相手が豆腐である限り、死ぬコトはありません。木綿でも絹ごしでも高野でも、です。
ですが、通常の豆腐の10個分くらいある巨大サイズの豆腐を冷凍庫でカッチカッチに凍らせ、ソレが地上8階くらいの所から落下してきて運悪くその角がわたしの頭部に直撃すれば、死ぬかもしれません。というか、死にます。そんな死に方はイヤですが、そうなれば否応無く死にます。
あるいは、熱っい熱っい巨大な湯豆腐が分速150キロくらいの速度で正面から飛来してきて、その角が頭部に激突して破裂すれば、全身火傷で死に至る場合もあるかもしれません。または頭が割れて脳ミソが飛び出ている瀕死状態の時に、ちょっと大きめの豆腐が角を向いて落下してきて、丁度頭部の割れ目にぶち当たって破裂し、豆腐が脳内に混入すれば、なんやかんやで死ぬかもしれません。


…と、まぁ幾つか可能性を考えて参りましたが、結論と致しましては、その辺のスーパーなどで販売されているパックに入った手の平サイズの豆腐の角に運悪く頭をぶつけたとしても、わたしは死なないというコトです。


Q:わたしは豆腐の角に頭をぶつけて死ぬか
A:フツウは死なない

2009年07月09日

2009年07月09日 何を書くべきか

本当に何も書くことがありません。書くべきテーマに関するアイデアを幾つか出してみたのですが、どれもクズみたいなモノばかりでもうイヤになってしまいます。世界一無意味なブログへの街道まっしぐらです。


【ブログネタ アイデアの一部】
1.わたしの小学時代のHな思い出
2.わたしが中学時代に聞いた都市伝説
3.わたしのファーストキスの回顧話
4.自作の不愉快なお伽噺
5.カップ焼きそば擁護論
6.「ギャグマンガ日和」10巻の感想
7.若妻を口説き落とす秘訣
8.インフレ・デフレ、バブル、円高・円安 経済丸分かり
9.ミニ四駆の思い出
10.わたしは無職か否か?
11.わたしは白痴か否か?
12.わたしは豆腐の角に頭をぶつけて死ぬか否か
13.わたしには友達がいるか否か
14.アンゴルモアの大王とは何であったか?
15.検証!! 邪馬台国はそもそも実在したか?
16.エジプト旅行記(想像)
17.わたしの入院体験談(妄想)
18.スケベなハナシ
19.どスケベなハナシ
20.小中学生必見! ㊙読書感想文攻略法
21.追悼マイケル・ジャクソン
22.今年のLEE30倍感想
23.独占 穴場情報!
24.大相撲名古屋場所について
25.小さいハナシと大きいハナシ
26.ムシの良いハナシとムシのそんなに良くないハナシ
27.部屋の中で独りビールかけをやってみた
28.小指の無いオジサンの娘さんのハナシ
29.陰毛!陰毛!陰毛! こんなモノいらねーや!!!
30.早朝5時半から吉野家で特盛と生ビールを注文してみたでござる


今後は上記のアイデアの中から適当に「コレだ!」と思ったものを断片的に綴り上げていこうと思います。(いつになるかは分かりませんが)次回を期待していて下さい。・・・期待できれば、のハナシですが。

2009年07月06日

2009年07月06日 お前らは粗大ゴミだ!

最近湿度高くて、ジメジメしてアチーとか思ってたら、もう七月になってやんの。チョーウケる。で、明日なんて七夕! 棚ぼたじゃなくて七夕! 短冊に願いとか書いて、お星様に手合わせて「日本国籍取得できますよーに」とか言うの。キャハハ そんなんで国籍取得できたらもう国家終わってんじゃん。国家手玉に取ってます!って感じ? 何ソレ。超甘ったるい。マジでゆとり。ゆとりレベルハンパない。そりゃ朝青龍だって離婚発表するってーの。アレ何だっけ。嫁の名前。タミフル? タミフルだっけ? …イヤ、タミルじゃん! タミフルって何だよ。タミフルってアレだよね。え〜と、奥田民生フルパワーの略。っなワケないじゃん。薬だよ薬。インフレエンザの。 え? インフレじゃなくてインフルだっけ? インフレっつたら価格上がることじゃねーかよ。まぁ、風邪で薬減って値段上がるんだからある意味インフレ的ではあるよね。って誰が上手いコト言えっつたんだ! アハハ バカらしー チョー醍醐味。意味のないコトべしゃってるの、オレたちのマジ醍醐味だかんね。って、誰が粗大ゴミだよっ! 粗大ゴミってヒドくね? 粗大ゴミって言うヒトが粗大ゴミですー なんつって アハハハハハハ…

2009年07月04日

2009年07月04日 上X下BLYRA

オメェの出番だ! 御飯!


(上X下BLYRA) カカロット… (上X下BLYRA) カカロット… (上X下BLYRA) カカロ (上X下BLYRA) カカロ (上X下BLYRA) カカ (上X下BLYRA) カカ (上X下BLYRA) カカロッ (上X下BLYRA) カカ (上X下BLYRA) カカ カカ、カカ、カカ、カカ、カカ、カ、カカ、カカロッ カカロット…


cf.「ドラゴンボールZ 超武闘伝2」

2009年06月24日

2009年06月24日 草食系の歌

或るヒトは熱唱していました。

ギンギラギンにさりげなく

そいつが 俺のやり方

ギンギラギンにさりげなく

さりげなく 生きるだけさ


「ギンギラギン」という一見してある程度の目映さを感じさせる語感に「さりげなく」という言葉を無理矢理にこじつける辺りが決定的ではありませんか。コレが「チンチロチンにさりげなく」ならば、本当に惨めな男の末路を思わせ、「さりげなく」がリアルさを増し過ぎて、クールな一面など雲散霧消してしまいます。また「ピロピロリンにさりげなく」であってもいけません。ソレでは己のアホさ加減に自覚的ではない馬鹿者の姿を描いているようで、ただの愚人ソングになってしまいます。コレはあくまでも「ギンギラギン」という程よいイメージを伴う響きがあってこそ、さりげないクールさが浮き立つのです。ギンギラギンにさりげなく笑う男を想像してみて下さい。まるで天使のような悪魔の笑顔じゃありませんか! 最近ではそんな男がこの街にあふれているよ。曰く草食系などと称される連中は、見事にさりげないギンギラギンでしょう。「キンキラキン」はチャラ男ですが、金ではなく銀である辺りが見事に草食系を表しているのです。だから、この歌は時代を先取りした立派な草食系ソングだったのです。
しかし、コレを歌っている本人はレーシングドライバーとしてハデにぶっ飛ばしているのですから、彼のいったいどこが「さりげなく 生きるだけ」なのかはサッパリ分かりません。本人は見事にキンキラキンに生きております。世の中そういうもんです、ハイ。

2009年06月22日

2009年06月22日 扇風機、出す。

夏の野郎・・・・
夏至になった途端に梅雨の野郎と手を組みやがって湿度攻撃を仕掛けてきやがった。そのせいでコッチは七月まで引っ張るはずの扇風機を出してしまったじゃねーか!
チクショウ。卑怯なマネをしやがる。ヤツには恥というモノがないのか。

2009年06月19日

2009年06月19日 諭吉サンに嫌われている

最近、夜な夜な福沢諭吉サンが夢の中に出てきては「オメー、ハッキリ言うけどよ、私とオマエは無縁なんだよ!」と叱責されるような口調で告げられます。そういえば、久しく諭吉さんのお顔を拝んでいないような気がして参りました。財布の中で一葉サンが微笑んでいれば立派な方で、時には野口サンに目線を反らされる時だってあります。十円玉も必要以上に黒光りをしなくなり、自己の存在を消しているのか、と疑いたくなる有様です。そういえば、2000円札からは完全に逃げられました。もう跡すら見出せません。アーメン。


ちなみに、上記の文章をexcite翻訳にかけると以下のようになります。アーメン。


【日本語→英語】Recently, when the Yukichi Fukuzawa San comes out in the dream every night, it is reported by the tone scolded, "[Omae] and I are [ome-] and [hakkiri]ing without relation though it says". Incidently, it was thought that Yukichi's face was not worshiped for a long time and came. It is time when is curved the line of vision by the San Noguchi in splendid one at times in case of smile by one leaf San in the purse. It is a state that wants not to have a black luster more than the necessity ten yen gem, either to doubt that the existence of the self is erased, and to become it. Incidently, it was possible to run away from the 2000 yen bill completely. Even the mark cannot be found any longer. [A-men].


【英語→再度日本語へ】Yukichi Fukuzawaサンが毎晩最近夢で出て来るとき、それは「大前と私は、ingに関係がなければomeと言いますが、hakkiriです」と叱られたトーンによって報告されます。 そういえば、Yukichiの表面が長い間崇められないで、来たと思われました。 もういつが曲がるべきであるか時間です。財布の1枚の葉のサンによる微笑の場合の時のすばらしいもののサン野口による視線。 それは、黒い光沢を持たないで自己の存在が消されるというどちらか疑問への10円が宝石をちりばめさせる必要より、それになりたがっている州です。 そういえば、2000円札から完全に逃げるのは、可能でした。 もう標的さえ見つけることができません。 -男性。

2009年06月18日

2009年06月18日 わたしはやればできる

前回、前々回とまるで内容のないコトを書いてしまいましたが(特に前回のアレなんて単なるイヤがらせに近似しています)、今回はマジメに書こうと思います。・・・と思ったら、mixiのログインに思いもかけず時間を盗られてしまったので、今回は控えめにいこうと思います。


死ぬほど緊張するってコトを経験してみたいと思います。わたしもたまに緊張しますが、発狂しそうなほど緊張したというコトはありません。緊張し無さ過ぎて、逆に本番中に空回りしてしまい、ソコで動揺してしまうといった事態ならばよく経験するのですが、事前の緊張にうちひしがれた思い出は無いので困ってしまいます。
明日は愈々○○だ〜という日は、起きていても仕方ないので早く寝よう!と思い通常より早く床に着きます。すると気が付いた時にはすっかり朝で、「あぁ〜〜 今日は大変だー」と思うのですが、先ほども申しましたように、本番まで切羽詰まらないのですから厄介です。青ざめるのは準備不足を実感する本番中で、本番が終わればまた何事も無かったかのように飄々としてしまったりして、反省が生かされた記憶がありません。
ところで、ナゼこのようなコトを書いたのかと申しますと、ソレは自分でもよく分かりませんが、とりあえず「緊張と緩和」というモノはさぞかし重要なことであろうと思いましたので、これからは自分も素晴らしい緊張と印象的な緩和を使いこなせるようにならねば!と思ったから、今、こうやって書き殴っているのであります。
それにしても惜しむらくはmixiのログインめ!!!!! アレさえなければ、今日は壮大な論考を書き上げていたのに。残念です。だから、ココではわたしもやればできるんだということだけは報告させて下さい。ただ、今日はやる時間がなかったからこんな惨状になっていますが、改めて申しますに、mixiさえスマートにログインできていれば、今日はスゴいことになっていたんです!

2009年06月16日

2009年06月16日 ネタナシ

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2009年06月14日

2009年06月14日 夏への勝利宣言

夏が近づいてきたな! 大胆不敵なオマエの宣戦布告はもう受け取り済みだ。今日の微妙な暑さがオマエの陽動作戦であるコトは分かりきっている。コレはまだギリギリ「暖かい」で済ませられる気温で、人々を油断させておいてから一気に攻め立ててくるつもりだろ。「暖かい」から「暑い」への急転換で人々を奈落の底へ叩き落とし、夏バテ患者を量産させる魂胆は分かりきっている。オマエは毎年毎年ワンパターンなんだよ。だが、今年の俺はそんな手には乗らんぞ。ウナギを食うからな。スタミナ弁当も食うからな。エアコンをガンガンにかけるからな。アースノーマットでオマエの子分の蚊どもを一網打尽にしてやるからな。遮光カーテンで日差しを大幅にシャットダウンするからな。水分を過剰に摂取するからな。
夏、今年の夏、今回ばかりは残念だったな! オマエは三日天下だ。俺はまだ扇風機を出してないんだぞ。どうだ!?恐れ入っただろ? いつもはゴールデンウィークの頃に出していたが、生憎日当りの悪い部屋に越してきたもんでな。以前ほど暑さが強烈ではなくなったんだ。まだ羽毛布団を被って寝られるんだぞ。どうだ? オマエの攻撃など俺には達していないってコトが分かったか。いつもは五月中旬から受けていたオマエの攻撃も、今年は七月からになりそうだな。今年の俺の闘いは七月と八月と九月半ばまでの約二ヶ月半に絞られそうだってことさ。コッチは余力十分だ。オマエは例の如く今月から動き出したから、俺より一ヶ月余分な活動を余儀なくされている。その時点でオマエの不利は確定しているではないか。すなわち、今年に限っては俺の勝ちが見え見えだってワケさ。
夏よ、どうだ? コレでもまだ俺に闘いを挑んでくる気か!? 早いトコロ降参して秋へバトンを渡した方が賢明だと思うぞ。何なら七月の半ばくらいに戦線放棄して秋になっちゃっても一向に構いやしないんだぜ。──もう一度言う。夏、今年の夏、今回ばかりは残念だったな! オマエは三日天下だ。一刻も早く負けを受け入れて、尻尾を巻いて、涙目になって、鼻水を垂らしながら退散するんだな。分かったか? 男は引き際が大事なんだぞ!

2009年06月07日

2009年06月07日 ブログの寿命は3年半!?

給付金が振り込まれるまで当ブログの更新はお休みしようと思ったのですが、役所の愚人ども、一向に振り込む気配がないので、仕方なく出て参りました。が、果たして何を書けば良いのやら困惑しています。このブログを始めて3年半が経過しましたが、どうやら愈々本格的にネタ切れと相成ってしまったようです。


3年半かぁ〜
一つの個人的なしょーもないブログが燃焼仕切るまでには、それくらいの期間を要するというコトなのでしょうか。思えばこの3年半の間には色んなコトがございました。ワニに手首を喰い千切られたり、もう少しでスピッツの新メンバーに選ばれそうになったり、地検の特捜部に強制捜査に入られたり、裁判所の前で「不当判決」と書いた紙を持って報道陣の前に立ってみたり、気球で世界一周を目指したものの、開始からわずか5日でリタイアしてしまったり、テレビのリモコンの「電源」ボタンが潰れてしまったり、タイ人とボスニア・ヘルツェゴビナ人と同居生活に入ってみたり、創価学会員から連日嫌がらせを受けたり、「幸福の科学」の本が一日に3冊もポストに投函されていたり、すいきんちかもくどってんかいめい

2009年05月22日

2009年05月22日 LOVE紅茶

美味しい紅茶が飲みたい。美味しい紅茶で満たされたお風呂に入りたい。美味しい紅茶を水鉄砲に詰め込んで撃ち合いしたい。美味しい紅茶を氷にして、インフルエンザで苦しんでいるヒトたちに氷枕としてプレゼントしたい。
美味しい紅茶に美味しいミルクを入れた美味しいミルクティーを飲みたい。美味しい紅茶に美味しいミルクを入れた美味しいミルクティーで乾杯の音頭をとりたい。美味しい紅茶に美味しいミルクを入れた美味しいミルクティーを誘い水にしたい。美味しい紅茶に美味しいミルクを入れた美味しいミルクティーを全国の水道から出したい。美味しい紅茶に美味しいミルクを入れた美味しいミルクティーをダム一杯に貯水してソコを「キングダム」と呼びたい。
紅茶に無闇に砂糖を入れて甘くするヤツの庭に野犬を放してやりたい。紅茶に無闇に砂糖を入れて甘くするヤツの家の網戸に蚊が丁度通り抜けられるくらいの小穴を開けてやりたい。紅茶に無闇に砂糖を入れて甘くするヤツの車のフロントガラスの二つのワイパーとワイパーの間の(ワイパーが届かない)死角部分に頑固な汚れを付着させてやりたい。

2009年05月19日

2009年05月19日 マスク讃歌の下で

マスクを付けて外出しました。もうマスクが一世を風靡しております。マスクを付けていないといけないのかというくらいアッチでもコッチでもマスク三昧です。ズボン、シャツ、マスクの三つがないと「あ、あのヒト裸だ」と思われそうなくらいマスクが流行っています(コレはあくまでもわたしの住んでいる地域のコトで、北海道や東北など北の事情は分からない)。マスク工場は例年にないくらい大忙しかもしれません。わたしは幸いマスクを持っていましたので、マスク不足の影響は受けずに済みました。しかし、アレだけ多くのヒトがマスクを付けているのを見ると、マスクって実は相当多数の人々がフツウに所持しているモノなんだなぁとしみじみ実感致します。
今日などは些細な用事で、体調は万全でありながら、検診以外の目的で病院へと赴いたのですが、マスクを付けていないと入れないのかというくらい誰も彼もがマスクを付けていたので、思わず驚いたフリをしました。そしてソレはかなり珍しい光景でもあります。こんなに皆マスク着用だなんて!
昨日などはマスク無しで外出したものですから、街中のあまりの高マスク率に圧倒され、さも自分が罪人であるかのような気分になり、しかも何かとてつもなく環境の悪い場所に踏み入ったような感覚を覚え、帰宅した時には少しだけ頭痛がしていました。もしやインフルエンザに感染したのでは!?と思ったのですが、よく考えればそんなに短時間で発症するモノでもないので、コレは気分の問題だと思われます。病は気から。
若者の中には「マスク? ダッセー」と言わんばかりにマスクをせずに闊歩している輩がおりますが、アノように斜に構えたモノはまさにインフルエンザの餌食になるが宜しい。そんな彼らのためにこそ用意された言葉があります。自業自得。
しかし、この時期にマスクをしていると蒸れて困ります。蒸れるので少しの間マスクを外しますと、その瞬間にもウイルスが襲ってくるかもしれない! というか、そもそもマスクにウイルスが付着しているかもしれません。ソレをそのまま家へと持ち帰り、わたしのようにその辺に置いていますと、なんということか! ウイルスが部屋中に! これではマスクの意味がありません。ウイルス付着可能性のあるマスクの下にもう一つ別のマスクを付けなくてはなりません。そして家へ入る時にはウイルス付着可能性のあるマスクを捨ててから入らないと、結局ウイルスを持ち帰ってしまうことにもなりかねません。とても厄介です。これは決して神経質などではありません。昔からこういう表現があるでしょう。石橋を叩いて渡る。
テレビでお相撲を見ていると、国技館に来ているお客はあまりマスクを着けていないようです。関東の人々は阿呆なのでしょうか。外国から平気で運ばれてくるようなウイルスが、西日本から東日本には運ばれないとでも仰いますか? そもそもお相撲さんもマスクを着けて土俵に上がった方が良いように思います。備えあれば憂い無し。
マスクにどこまでの効果があるのかと問われれば、ソレは知りません。でも、多分それなりに効果があるのでしょう。だからあれだけ着けられている(コレはあくまでもわたしの住んでいる地域のコトで、北海道や東北など北の事情は分からない)。というワケで、マスクをバカにするヤツはマスクに泣け! ※くれぐれもマスクの万引き、窃盗、強盗は止めましょう。

2009年05月14日

2009年05月14日 アホな質問者

女性の健康Q&A 「喫煙・禁煙」<1>


30代女性です。20代からずっと煙草を吸っています。結婚してそろそろ子供がほしいと思い、煙草をやめたほうがいいのかなとも思いますが、長年の習慣はなかなかやめられず、「子供ができたらやめよう。」とついつい自分を甘やかしてしまいます。煙草を吸っていると、妊娠しにくいとか、子どもに影響が出るとかあるのでしょうか? もちろん漠然とは、煙草は妊娠・出産に悪いと思っていますが、具体的な影響などを教えていただけますか?


ネタが無いとタバコの方に向かってしまうのがもはやお約束のようになっています。申し訳ない。ですが、あまりにもバカバカしいモノを見つけてしまいましたので、軽く記していこうと思います。
ココでの問題は上記の本当に寄せられたかどうか疑わしい質問文です。回答を先に用意して、上の質問を書き手が拵えた可能性が大いにあると思うのですが、ココではあえて実際に投稿されたモノであるとしておきましょう。なぜなら、そうしないと今回は何も書けませんので。


まず、この自称「30代女性」、コイツは実際のトコロ、そんなにタバコを止める気がない。現に「『子供ができたらやめよう。』とついつい自分を甘やかしてしまいます。」などと書いていますので。禁煙を前にして甘えが出ているのです。「長年の習慣」がどうとかほざきますその背景には、「だって今まで続けてきたんだから仕方ないじゃん!」という、「自業自得」であるコトをまったくもって忘却した卑屈なエゴイズムが滲み出ています。そして、付け加えるに「煙草を吸っていると、妊娠しにくいとか、子どもに影響が出るとかあるのでしょうか? もちろん漠然とは、煙草は妊娠・出産に悪いと思っていますが、具体的な影響などを教えていただけますか?」とくる。要は、踏ん切りを付けられないだけの情けない女だというワケです。仮にこの質問者、「タバコを吸っていても、妊娠・出産にはそれほど大きな問題はありませんよ。」との回答を受ければ、間違いなく安心してタバコを吸い続けるでしょう。
彼女は何らかのきっかけが欲しいワケですが、ソレを今まで見つけられず、というか見つけようともせずに今日に至り、結婚したし、そろそろ子供でも〜となった時点で喫煙者である己に不安を抱き、それでも依然として止めることもできず、今更止める意味などを求めようとしている一種の怠け者に違いありません。こんなトコロに質問文を送付してこなければ禁煙の契機を見つけ出せないなどというのは、一種の白痴でして、ある意味で自意識が喪失するか腐敗しています。タバコは理屈さえあれば止められるモノなのでしょうか。「漠然と」何かを思っているのであれば、ソレだけで止められるヒトは止められます。止められない意志薄弱者に限って、その先の「具体」を欲したがる。あぁ、情けねぃ! こんなどうしようもないモノを記事として扱うなんて!


そして回答は毎度お馴染みの内容です。返ってくる返答も決まりきっています。ソレが分かれば、早く止める努力をするコトです。無理ならば諦めて、犠牲を伴いながら吸い続けるべきです。こーゆーコトに深い意味を求め続けるモノは、自己の決意がペラッペラなのを何らかの理屈で揉み消したいとする動機を抱く倦怠者と言わざるを得ないでしょう。

2009年05月06日

2009年05月06日 第二の「Abbey Road」?

ゴールデンウィークだからとて気分はずっとシルバーで、コレでは老人です。高揚感など微塵もありません。フラットと言えばフラットで、ロウと言えばロウなのですから、逆にどうすればハイになるのかをお聞きしたいくらいです。──ココまで意味がよく分かりませんが、お気になさらずに。


先日、何気なくテレビをつけてみましたら桑田佳祐サンが面白いコトをやっていて、その具合が、と申しますか、完成度がかなり高かったので嬉しかった・楽しかった・微笑ましかったというハナシを今回はしたいのです。だから、します。
まず、わたしは彼の番組「音楽寅さん」が復活していたコトすら知りませんでした。まぁ、熱心な桑田ファンというワケでもありませんから、復活したしないは良いでしょう。先日は多くのヒトが見られたかもしれませんが、桑田サン、ビートルズの「Abbey Road」の歌詞を空耳風に日本語に置き換えて熱唱しておりました。今の日本を風刺するような詞が次々にメロディーに乗って(一部無理があったなどとは言いませんよ!)、第二の「Abbey Road」が完成したようです(「空耳アベーロード」というらしい…)。当夜、見ながら「ああ、コレは凄いわ」と思ったので、放送の翌々日くらいにYouTubeで探してみました。わたしなぞが凄いと思うモノは大抵先回りされてアップされているのが常でして、従って今回も案の定上がっていました。その動画を以下に貼付けておきます。(三つのうち一つだけ。あとは各自で検索! なお、この動画がいつまで生きているかは分かりません。その点については何も保障できません。)





わたしはこの動画を保存しました。記念品として残しておこうと思います。
先日逝去された忌野清志郎サンは「ビートルズがもしも日本語で歌ってたら、あそこまで偉大にはならなかったんじゃ?」的な発言をされていましたが、上の桑田さんの映像を見る限り、こういう具合に日本語で歌えば「ビートルズ、何かよぅ分からんけどメッチャオモロいやんけ!」となって、偉大な存在に祀り上げられていたかもしれません。ナゼ関西弁なのかは分かりませんけれど。
桑田サンはいつも色んな曲をカバーをしておられますが、出来ればこういった趣向のコトをバンバン展開して欲しいと願います。わたしが桑田サンに熱狂するとすれば、間違いなくそういった点をおいて他に無いような気もしているのです。が、実際のトコロ果たしてソレが真実なのか否かは断言できません。だってサザン、あんまり聴いてないもん。だから迂闊なコトは言えないんです。今日は(今日も?)ほとんど適当に書いています。気分しだいで責めないで。

2009年05月04日

2009年05月04日 なぜすぐに実写化したがるのか?

『デスノート』実写化、ファンの期待と不安


最近、漫画作品を映画にしてしまおう!という「実写化」の勢いがとても喧しいようです。どうせ暇ですので(思いつく限りで)近年に実写化された漫画作品を以下に列挙してみたいと思います(映画・ドラマの区別を問わず)。


わたしの場合、真っ先に知ったのが「釣りバカ日誌」です。とは言っても、映画の存在を先に知ってから後に原作が漫画であったコトを知ったのですが。コレと同様の例はまだあります。「白鳥麗子でございます!」「金田一少年の事件簿」「サラリーマン金太郎」「きらきらひかる」「カバチタレ! 」「ガラスの仮面」「ザ・シェフ」「ピンポン」「ハチミツとクローバー」 … 金田一少年も金太郎もあまり漫画を読んでいなかった時分にドラマ化されましたので、後になって原作が漫画であった事実を知りました。その時は別段驚きませんでした。驚くようなことでもありません。というより、驚いても仕方ありません。あと、上記の中では堂本剛主演の「金田一少年の事件簿」と「きらきらひかる」が好きでした。でも、一番好きだったのは「ガラスの仮面」です。が、コレはまったくの余談に他なりません。どうもスイマセン。
続いては、原作の存在を先行して知っていた場合。「ろくでなしBLUES」「カメレオン」「ピューと吹く!ジャガー」「キューティーハニー」「海猿」「20世紀少年」「花より男子」「ブラック・ジャック」「ゲゲゲの鬼太郎」「忍者ハットリくん」「デビルマン」「DEATH NOTE」「NANA」「ROOKIES」「ドラゴンボール」…
挙げていけばキリがありませんのでこの辺で終わりにしてやろうか!!??
しかし、ココまでチンタラと作品を列挙してきたのには、次のような素朴な疑問があるからなのです。すなわち、「なぜすぐに実写化したがるのか?」
今回はこの疑問について少しだけ考えてみたいのです。


その理由として、まずはオーソドックスにこーゆーコトをすれば当たり易いというのがあるかもしれません。原作の人気によってその物語を支持するヒトたちの存在は既に目に見えているワケですから、あとはソレを映像にしちゃえば必然的に結果はついてくるだろう、と。ですが、コレは暴挙です。無茶苦茶で瀕死の頭脳が生み出す恐るべき混同があります。紙面の上だけで、絵によってのみ完成され得る世界と、実際に人々が動き回ってソレを再現した世界とではどう考えても大きな乖離が生じているのでして、その辺の埋め合わせというか、言い訳というか、齟齬というか、とどのつまり原作を台無しにしちゃったコトをどう始末するお積もりかと申しますと、どうやら何も出来ないみたいです。ねぇ「DRAGONBALL EVOLUTION」の関係者サン。お噂は予々聞いております。漫画の世界と映画の世界を同一視しちゃうバカはどうしようもございません。漫画で映画を表現するには限界がありますし、逆に映画で漫画を表現するにも限界があると思います。総じて実写化を好む連中は漫画における表現というものを軽く見ているのではないでしょうか。ねぇ「DRAGONBALL EVOLUTION」の関係者サン。
もう一つくらい実写化をめぐる動きの、ソノ背景に関して邪推を致しますと、おそらく彼らはモノ好きなんです。「ウヒョヒョーイ、コレを実写化すれば快挙だぞ!」とか「この(漫画に描かれている)世界を実写でやれば、新しいモノが生まれそうだぞ!」とか考えちゃってる。コレは疑いなく一〇九個目の煩悩です。ソレが場合によっては「800枚の下着を盗んだ下着泥棒がいたらしいけど、じゃあオレが801枚盗めば新記録達成で世界王者だぞ」的な発想へと入り込んでしまっているコトを理解し得ていないのです。その野心は立派なモノかもしれませんが、状況をよく考えないで猪突猛進してしまった先にあるのは、歓喜の快挙ではなく、冷笑のみを浴びる、ヒトも寄り付かない終末の極北地点であるコトがシミュレートできていなかったりするのでしょう。多分。要はコレをこうするとどうなるかを見誤ってしまうワケです。何十億という大金を重ねるコトになるにも関わらず・・・
モチロン実写化して大当たりしたモノもありますが、そういた作品は総じて原作が現実世界と非常に近い距離にあったモノでして、本当に“漫画的な”、ソコだけで成立してしまうモノを紙の外へ、スクリーンにまで持ってきてしまうと大抵ロクなコトにはなりません。ねぇ「DRAGONBALL EVOLUTION」の関係者サン。


なぜすぐに実写化したがるのか?──コレは常に一つの大きな謎であり続けるでしょう。そして、とても“漫画的な”作品を勇んで実写化しようとする意志、どうせ空回りするだろうその意志だけは頂けません。少し自分たちのいる地点を見渡すコトができれば、スクリーンの中で何がどうなるかは大方想像できそうなものですがねぇ。

2009年04月29日

2009年04月29日 書くコトなし

今日は特にコレと言って書くべきコトがないので、「書くコトがない」という、その報告だけして終わろうと思います。ナゼ書くコトがないかと申しますと、わたしの生活は流れ作業の如く、終始決められたルートの上を、アレよアレよという具合に進だけのモノに違いないのですから、そりゃ書くべきコトなぞございません。例えば、いきなり家にショベルカーが突っ込んできたとか、冷蔵庫が爆発しただとか、幽体離脱をしただとか、催眠術をかけられて気が付いたら小樽に来ていただとか、豚インフルエンザに感染しただとか、そうした珍しい事件が我が身に降り掛かりますと、コレはもう、いの一番にココに記させてもらいます。ですが、今のトコロそうした事態とは無縁な感じですので、結局中身のない文章になってしまうのです。
とは言いましても、ウソを書くコトなら幾らでもできます。ソッチは得意です。ありもしないコトをさも存在したかの如くに綴り上げる。ソレが許されるのなら、わたしは書きましょう。今朝、電車内にて枝切りばさみを使って吊り革をバッサバッサと切断しているヒトも見ましたし、駅員がそのヒトに対して「切るのは10個以内でお願いします。それ以上は別途にサービス料金が発生します」と発言しているのも聞きましたし、消防署の前に「誤報・イタズラ通報大歓迎」と書かれた横断幕が垂れ下がっているのも見ましたし、ユニクロに入りますと店員が全員全裸だったので事情を聞きますと、その店員曰く「アラッ!? お知りにならないの? 事件当夜草なぎ君はユニクロの服を着ていたのですよ。彼は『こんな安物の服着てられるかー バーカバーカ』と仰って全裸になりましたの。だから、私どももそれを聞いてハッとしましたわ。『そうだ!こんな安い服着てられるか!』と。だから私たち皆全裸ですの」とも言われました。


今日は書くべきコトがコレといってありません。

2009年04月26日

2009年04月26日 給付金の使い道

定額給付金を受け取るとして、その一万二千円をいったい何に遣うかが問題です。幾つか候補を考えてみました。わたしと同じように使い道を悩んでいる方は是非とも参考にして下さい。


使い道1:「母の日」「父の日」を一緒くたにして、両親に何かプレゼント。
使い道2:フツウに生活費に充てる。もしくは地道に貯金。
使い道3:大好きな紅茶、新しいティーポットと茶葉を買う
使い道4:「定額給付金で購入可能」と宣伝されているデジタル家電を買う。
使い道5:本を買う。
使い道6:思いきって募金する。
使い道7:自分では出来そうにないコトを一万二千円で知人にやってもらう。
使い道8:自己開拓の一環として全く興味のない歌舞伎を観に行ってみる。
使い道9:格安ソープにでも行ってみる。
使い道10:銀行へ行き、全額一円玉に両替。その模様をネット上で公開。
使い道11:自分だけが貰ったと思い込んで、これ見よがしに見せびらかす。
使い道12:どーでもいー90年代の中古シングルCD(8cm)を買い占める。
使い道13:一万二千円だけを手にヒッチハイクでどこまで行けるかを検証。
使い道14:超大穴三連単一点買い。
使い道15:どこか目立つ所にできるだけ派手なタトゥーを入れる。
使い道16:燃やす。
使い道17:油で揚げてみる。
使い道18:一万二千円で呼べる有名人を自宅に招き、二人きりで映画鑑賞。
使い道19:“一万三千円”で買い手を探す。
使い道20:友達の一万二千円と自分の一万二千円を交換し合う。

2009年04月25日

2009年04月25日 個人情報の扱い

定額給付金の案内が届きました。本人確認書類であるとか口座確認書類であるとか、そういったモノをコピーして貼付けやがれ!とは、これまた随分と高圧的に出てきましたね、近年稀に見る愚劣政府の野郎ども!
それにしましても、ココにもお決まりのように以下の一文がありました。


「本申請書に記載された個人情報を、定額給付金、子育て応援特別手当の給付に係る事務以外に利用することはありません。」


所謂個人を取り扱う書類には必ずと言って良いほど記されているコノ文句ですけれど、まったく説得力がありません。「利用することはありません。」というその根拠が分からない。書くだけなら詐欺師や窃盗団にだって出来ます。コレを見て、「ああ〜良かった。これで私の個人情報が悪用される心配をしなくて済むわぁ〜」などと思うヒトが果たして存在するでしょうか。むしろこんなコトを書かれてしまうと「むむむむ!? もしかすると何かに利用されたり、データを売買されたりするんじゃないか?」と疑ってみる方がよほど健全というモノです。──定額給付金、その裏の目的は日本人の個人情報を一括して収集し、政府機関が悪意を持って管理するコトかもしれませんよ。
…まぁ、各人に一万二千円を払ってそのようなコトをする必要性があるのかどうかは皆目分かりませんが。というか、そんな面倒な手段を取らなくても、このご時世です。個人情報など意外な場所から意外な手口で流出しまくっているのではないでしょうか。(あと、一方では「個人情報」と言っておけば良いみたいな雰囲気があるのも気持ち悪いもんだと思います。個人情報、個人情報・・・・ハイハイ、とても結構なモノですね。)

2009年04月20日

2009年04月20日 「天恵」を信ず

自分が運やタイミングに恵まれている方かどうかは分かりませんけれども、ささやかながら「天恵」のようななものは信じていたいと思っている方なのです。例えば、ある瞬間にはついていないと痛烈に思うコトがあったとして、しかしながらソレは次に訪れる喜びの前の静けさかもしれないし、自分が良かれと思っていたコトが裏切られても、もしかするとソレは天が「実はソッチに行っちゃうとダメなんだよ」とこっそり手を加えてくれた結果かもしれない、とそう思うようにしていたいのです。
短期的には満たされそうなモノであっても、長期的に見れば苦痛を伴うモノだってあります。誰だって苦痛は極力避けたいでしょう。長期的に物事を見ることはとても難しい。だから、そういう場合に「天恵」といったものを心の隅にでも置いて、イヤな現状はそれほど疎まず、未来のステップアップのために天が与えてくれた猶予期間だとでも思って過ごしておく方がきっと良いに決っている、わたしはそう考えたいのです。(モチロン、突き詰めて考えますと、こうした思考には矛盾が含まれるかもしれません。でも、そもそも何事かを行っている最中にどうしようもないほど思い詰める時点で危険な兆候ではないでしょうか。“あっけらかん”が素敵に思えるように暮らしたいものです。)
わたしは「冬来たりなば春遠からじ」という言葉が大好きでずっと胸の中に据え置いているのですが、これはそういう猶予期間にこそ力を発揮する良い言葉であるように思えてなりません。

2009年04月15日

2009年04月15日 朝に子供が泣けば…

引越してからそろそろ一ヶ月が経とうとしているのですが、ココに移ってきてから気付いたコトがあります。ソレは毎日近所の子供が午前中に号泣しているというコトです。「泣く子は育つ」などと申しますが、彼/彼女は些か極端に泣き続けています。アノ子は何に対して涙を流しているのでしょう? もしかしたら午前中にBSで放送しているメジャーリーグの中継でも見て、好きなチームが勝てないから泣いているのかもしれません。
ところで「風が吹けば桶屋が儲かる」と言いますが、「朝に子供が泣けばが清水ミチコが儲かる」とは言えないでしょうか。すなわち、こういう具合です。
朝、子供が泣く→近所の夜勤明けのヒトは皆寝られなくなる→安眠のためにホットミルクを飲むようになる→牛乳の売り上げアップ→牧場経営者=田中義剛の収入が増え、生活に余裕が出てくる→新事業開拓で話題になる→時のヒトである田中義剛が出演している「世界まる見え!テレビ特捜部」の視聴率が急上昇→司会の楠田枝里子の注目度も一気に上昇→楠田枝里子のモノマネをする清水ミチコが引っ張りだこになる
朝に子供がいっぱい泣くとこんな風になってしまうのです。
ああ、ちなみに「風が吹けば桶屋が儲かる」の流れを改めて記しておきますと、およそ次のような展開になっています。風が吹くと砂ぼこりが目に入る→砂ぼこりで失明するヒトが続出→盲目のヒトは三味線を弾いて生活するので三味線の売れ行きがアップ→三味線には猫の皮が必要だから次々に猫が捕獲される→猫が減少すると自ずとネズミが増える→ネズミはすぐに桶を齧って使い物にならなくしてしまう→桶屋の仕事が劇的に増えて桶屋ウハウハ!
どうでしょう、コレを見る限りわたしが申した「朝に子供が泣けばが清水ミチコが儲かる」も「風が吹けば桶屋が儲かる」に負けず劣らず説得力のある理屈だと思うのですがねぇ。

2009年04月07日

2009年04月07日 100円の凄さ

ローソンストア100は最高だな!!
やれば出来んじゃん!
世の中には100円で売ってもモトが取れるモノばっかりだな。
結構多くのモノが、本来はもっともっと安価で購入できるんだよな!!!
何百円もするボールペンなんて詐欺! 大々詐欺!!!
250円、300円、あるいはそれ以上のカップ麺もぼったくり!
100円の時代到来!!!

2009年04月04日

2009年04月04日 サバイバル人

政府が
「ミサイルへの対応は各自で行ってください。」
と言えばどうなるのでしょう。とりあえずミリタリーグッズがバカ売れでしょうか。あとヘルメットも。防空壕を掘るためのシャベルや鍬も売れてゆきますか。ホームセンターにヒト殺到。かつて話題を呼んだ「無人島で生き抜く」系のサバイバル本も一緒に売れてしまう。ソレは地震の時に取っておいても良さそうですけど。
地域によっては団扇も売れてしまうかもしれません。ミサイルが落ちてきそうになれば、町民・村民が一団となって団扇で風を巻き起こす。ミサイルを空に跳ね返しましょう、とな。


さぁ、明日は何をしよう。何を考えよう。

2009年03月21日

2009年03月21日 仰げば尊し この部屋の恩…?

今日、わたしは旅立ちます。


というワケで、引越すコトになりましたので、今は待機中です。何を待っているのかと申しますと、引越し業者の方々です。午前十時くらいに、すなわち今コレを書いている時間からすると後1時間ほどで業者サンがお迎えに来るらしく、ソコから引越しスタートです。荷造りはほぼ完了致しました。たかが一人暮らしの分際で段ボール20箱を消費してしまいました。別段コレといって収集しているアイテムなどございませんのに、アレやコレやという間に段ボールの山になりました。次に越してゆく先は遺憾ながらも現在のトコロよりも若干狭くなるはずなのですが、本当にコレらの荷物を収納できるのでしょうか。
荷物の運搬、搬入といった作業は、おそらく業者のヒトたちがおやりになるのでしょうから何の問題も無いと思います。が、向こうに行ってからの荷解きが面倒で仕方ない。急ぎましても落ち着くのは来週の水曜くらいになりそうです。──別の業者のヒトが何やらを設置に参ったりする予定ですから。


しかし、向こうはインターネットの環境が整っていないため、次にコノB級ブログを更新できるのはいつになるやら皆目検討が付きません。そう思うと、死んでしまえば良いのにとの感慨を抱かざるを得ないでしょう。ネットなど有料にしなくとも、ラジオ電波みたいにどこでも無線LAN的に、PCさえあれば使えるようになれば良いのです。電話回線周辺の工事など最早不要、トンネルや地下以外の場所では解放! 次の世紀にはそういう具合になっているかもしれません。


嗚呼、コレからが大変です。なんたってお相撲だって集中して見れやしないのですから!!!!!! 「!」の多さが現在のわたしの苦境を表しているでしょう。
チクショウ! 家具や電化製品もデータ化して転送できないかしらん。こーゆーの、ドラえもんの世界なら可能なのかもしれません。淡い夢、いや途方もない夢想か。俺一人総白痴化!

2009年03月19日

2009年03月19日 暑ぅ〜い

暑ぅ〜い。気持ちは何も熱くないのに、気温だけは暑ぅ〜いのです。イヤ、気温が暑ぅ〜い、というのもオカシなハナシで、気温は「高ぁ〜い」と申すのが妥当でしょうか。まぁ、そんなコトは構いません。とりあえず暑ぅ〜いのです。三月にも関わらず最高気温が二〇℃越えとは狂気の沙汰以外にないじゃないですか。今日はホンキで汗をかきました。最早コレは五月上旬のテンションです。というコトは、扇風機が必要です。今日は真剣に扇風機を欲しました。もうコタツは片付けた方が良いのでしょうか。ソレならば最短記録です。三月の中旬にコタツを撤去するなどというのは、わたしの記憶にございません。とりあえずこの暑さは死ねば良いのです。──ココで重要なのは「暖かさ」ではない点です。このように一気に気温が上昇すれば、「暖かぁ〜い」などと言っている余裕はありません。「暖かぁ〜い」をひとっ飛びして「暑ぅ〜い」になります。汗をじんわりとかけば「暑ぅ〜い」で、ほのかに体が火照ってくるようであれば「暖かぁ〜い」なのです。今日はじんわりと汗をかきましたので「暑ぅ〜い」です。
まったくこんな不愉快なハナシを春分の日以前にしなければならないというのが不憫でなりません。この調子でいけば今夏はどれだけの猛暑になるのか、考えただけでも汗をかきそうです。冷や汗ではありません。暑ぅ〜い時のマジ汗です。


オレは晩秋と冬を好む。オレは晩春と夏を徹底的に嫌悪する。その板挟みにある今頃の時期は眼中に無かったのですが、こんな高気温の仕打ちを受けた以上はもう嫌わずにはいられません。ファッキン三月中旬〜下旬! オマエが今のようであるならば、オレは認めるコトができないぜ!

2009年03月15日

2009年03月15日 サイケデリックスーパー

かなりローカルなおハナシをしようと思います。
四国及び岡山・広島方面に在住経験のあるモノでしたら、ソレなりに知っているかもしれないのが、「フジ」もしくは「フジグラン」という大型スーパーの存在です。このお店に入って買い物をしていると、何となく耳に入ってくる音楽があります。甲高い声の女が「青空 ウキウキ〜 南風〜 地球の上で 思い切り ジャンプしよ〜ぅ 生きようToday 夢見よぉ〜ぅ Tomorrow〜 フージッ フージッ」と歌っているモノで、一筋縄ではいきそうもない曲です。
先日、一週間ばかり四国の方へと里帰りしましたわたしは、数年ぶりにフジへと行きました。そして、ソコで案の定聴こえてきたコノ歌。思えば子供の時分から何度も聴いてきたコノ歌声、今になって気付いたのですが、相当にサイケデリックなモノです。特にアノ声、なんだアリャ。耳から離れなくなってしまいました。ネット上でコノ特異な歌声を拝聴できないものかと色々検索してみましたが、どうやら音源は上がっていない模様です。メロディーをギターで耳コピしているヒトはいましたが、やはりアノ歌声を聴かない限りソノ奇怪さは看取できないでしょう。(参考までに以下に「フジの曲 (ショッピングセンター) 耳コピ」を貼っておきます。)



スーパーの店内という、穏やかな空気が保たれていなければならない場所で、あのようにサイケな歌声が十年以上も流れ続けているなんて! とてもじゃないけど信じられません。ナゼ今までこんな特殊な曲の存在に思い至らなかったのか、非常に不思議でなりません。また、地元のヒトたちも、このユニークな曲に違和感を抱いているのかどうか、なかなか興味ある問題です。わたしも今の今まで気付かなかったのですから、もしかすると意外に気付かれていないのではないでしょうか。意識して聴いてみると宜しい、アブノーマルなアノ歌声、目眩のするアノ歌声、脳内を浸食するアノ歌声、購買意欲に敵対しそうなアノ歌声、「思い切りジャンプ」するどころか、もう本人が真っ先にぶっ飛んでしまっているアノ歌声…ああ、コレはとてつもない。
コノ歌はわたしが幼い頃から店内にて流れ続けていますので、きっと歌っているヒトはもうかなりの高齢ではないかと思われます。当然名前も顔も存じませんが、でもわたしは言いたい。アナタの歌声は偉大だ、と。
クラクラするような気取った爽やかさ──わたしはそう思います。そのクラクラする部分こそ、まさに極上のサイケデリックなのです。こんな歌がスーパーの店内で!!!(他地域の方は、四国方面へお越しの際には是非ともコノ曲を聴きましょう!)

2009年03月12日

2009年03月12日 言葉が出ない

定額給付金、WBC、小沢代表(の秘書)。コレらの言葉をこの一週間弱の間にどれほど聞いたコトでしょうか。もうイイよ。ああ、もうイイ。もう結構だ。テレビや新聞は毎度毎度同じ内容ばかり取り上げやがって。不愉快を絵に描いたような、とはまさに斯くの如しです。
そして、ソレ以上に言うコトもありません。呆れて言葉が出ない、とはまさに斯くの如しです。

2009年03月09日

2009年03月09日 方向音痴の世界

わたしは方向音痴ですから、ほとんど東西南北を判別できません。方向に音もクソも無ぇんだから“音”痴は違うでしょう、なんて思うコトもありますが、その点はまぁ置いときましょう。
さて、方向音痴のわたしからすれば、オッサンなどが会話のなかで「北はアッチだから〜」などとサラリと言ってのける様を稀に目撃するに当り、少なからず当惑致します。磁石も地図もないのに、ナゼ当たり前の如くに方角を指示できるのでしょうか。──イヤ、しかし、今回に限ってはその点も百歩譲って別の場所に投げ捨てて置きましょう。一番厄介な問題はこうなのです。すなわち、方向音痴からすれば、方角が分かったところで目的地には辿り着けねーぜ、ベイベー!というコト。
「この道を真っ直ぐ行って、突き当たりの交差点を西側に行けば○○ビルがあるから、その横の路地を左に曲がって二百メートルもすれば着きますよ。」などと飄々とした顔で説明されましても、まったく意味をなさないのです。まず、最初の西側云々でどちらへ行くべきか知らないし、仮に西側が分かったところで、「その横の路地」がどの道を差しているのか、確実に判別できるとは限らない。コレが我々の属する“方向音痴の世界”なのです。
所謂フツウのヒトたちは、自分の感覚を「通常」のモノとして捉えていますので、目的地への行き方も“ソッチの世界”に共通のコトバで伝えてきます。コレに対処できないのが方向音痴の世界の住人なのです。つまり、言語感覚が根本的に異なる。フツウのヒトたちであれば、多少の土地勘がある場所で迷ったとしても、「駅はアッチだよ」と言われて、適当に「アッチ」へと歩みを進めれば何とかなるのかもしれません。が、方向音痴の世界の住人は断然そうではない。当人は言われた通りに「アッチ」へと向かっているつもりなのに、いつの間にか「アッチ」への道から逸れて「コッチ」へと舞い戻って来ているなんてコトもしばしば。


──ココに三角形ABCがあります。わたしのように極端な方向音痴になりますと、底辺BCの中点Mから辺ABの中点Oへと向かいたい時であっても、どういうわけか終局的には辺ACの中点P付近へと行き着いてしまうのです。真逆! 確かに最初はOへと向かって移動し始めるのですが、どこでどう間違えたか、ACの方へと方向転換してしまうというコトになりまして、甚だ間抜けで面倒な事態に陥ってしまいます。コレが方向音痴の世界の住人。
従いまして、わたしはこのような具合ですので、他人に道を訪ねられようものなら非常に丁寧に説明し申し上げます。というのも、わたしは己が属する極端な世界の基準で物事を考えてしまいますので、「ココを真っ直ぐ行って、左折してちょっと行けば着きますよ」なんて簡便な説明は怖くてとてもじゃないけど出来ないのです。もしかするとこのヒトもわたしと同じく方向音痴の世界の住人かもしれないじゃないですか! ですから、丁寧に説明しておかないと目的地へとスムーズには行き着けないのではないかと、アノ恐怖感にわたし自身も苛まれてしまうのです。いい加減なコトは決して言えない。道に迷う情けなさ、歯痒さを心得ていますから。少しでも自信の無いときは、率直に「この辺りには不慣れですから……スイマセン」というより他に方法はありません。というか、方向音痴の俺に道を聞くな。
──ところで、“自分自身の進むべき方向が覚束ないヤツが、他人に何を教えられるというんだ?” 教師風情の輩が吐きそうなこのセリフ、実は人生の教訓めいたものなどではなく、広く道案内一般に対しても適用できるモノのように思われますが、如何でしょう。

2009年03月04日

2009年03月04日 船頭多くして船山に登る

「こんなのEXILEじゃない」 大所帯化にファン戸惑う


コノ記事に書かれているコトの詳細は省きます。というか、読んでいません。タイトルだけでもう何か十分な気がしているからです。モーニング娘。のメンバーを巡る件でよく分からなくなった経験をもつ人々ならば、こういった事態が如何なる展開を見せるか、朧げながら分かってしまうのかもしれません。しかし14人体制とは…… このコトをちょっと視点を変えて考えてみましょうか。
仮にB'zを例として、彼らが14人組になってしまえばどうでしょう。そりゃもう半端じゃないウルトラソウルだよ。
また、明日から「めざましテレビ」の司会が大塚サンみたいな感じのオッサンの14人体制になればどうでしょう。確かにモノ凄い「めざまし」にはなるかもしれませんが、最悪の朝に違いありません。
あるいは探偵ドラマで犯人が14人いればどうなるでしょう。「犯人はアナタとアナタとアナタとアナタとアナタとアナタとアナタとアナタとアナタとアナタとアナタとアナタとアナタとアナタです!!!」とこうなっちゃいます。──でも、現実はそう上手くいかないでしょうから、きっと次のようになるはずです。「犯人はアナタとアナタとアナタとアナタ…あっ!イヤ、アナタは違う。アナタを除いて他の犯人は、アナタとアナタとアナタとアナタとアナタと…ああ、イヤイヤ、アナタも違うなぁ、ええと、アナタとアナタとアナタとアナタと、…アナタと、アナタと、アナタ?ですね…多分」 その上、更に犯行状況を説明しようものなら、誰がどうした、その間に誰はこうして、誰はどうしていただとか、もう何が何だかサッパリ分からなくなってしまいます。だから、そうなんです、14人というのはとても面倒なのです。EXILEはその点をあまり理解していないのかもしれません。東京スカパラダイスオーケストラでさえ14人にまでは達していない事実を彼らは知っていたのでしょうか。スカパラの連中は「船頭多くして船山に登る」という諺の意味をよく考えていると思われます。ですから、わたしとしては是非ともEXILEに「船頭多くして船山に登る」、コノ言葉を送りたいと思う次第なのです、ハイ。

2009年03月01日

2009年03月01日 バラにはトゲがあって欲しいよね

先のシーズンくらいからそうなのですが、「相棒」の右京サン、このトコロ随分と丸くなっているように思えるのです。特に今シーズンはソレが著しい。『密愛』におけるあの柔らかな表情は何でしょうか。シーズン1、シーズン2では想像も出来なかったような柔和な一面を見せ続けています。亀山クンがいなくなってからではなく、時間の経過が影響しているのではないでしょうか。当初の右京サンは見ている側が「ウッ」となるようなキツ〜イ言動を示すコトがおありでしたのに、今では単なる温厚な男性に過ぎなくなっているように見えます。かつての冷静でありながらも、奥には皮肉的な表情を忍ばせていたあの右京サンは何処へ・・・
そうした所以からか、大河内サンこと“ラムネ”の如く屈指のヘンテコキャラも、最近ではより一層浮いてしまい、ますます特異になっていきます。そうなれば、小野田サンも益々手がつけられなくなってしまうかもしれません。
思えば『バベルの塔』の「船です!」発言くらいからおかしくなったのかもしれない。どこかのバネが外れましたか。もうちょっと事件以外の面でも切れ込んで行って良いと思うのですけど。
と、まぁ、今回“も”下世話な雑記ですよ。さぁ、今日はもう寝ようと思うのです。右京サンよろしくクラシックを聴きつつ眠りにつきます。


今夜のお休みメロディー
モーツァルト『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の第四楽章

2009年02月24日

2009年02月24日 楽なら良い

昨日、提出用の健康診断書を入手するため、健康診断へと赴いたのですが、尿検査・内科検診・胸部レントゲン・血液検査・血圧等において何ら異常は見当たらなかったとのコトです。まだ当分の間病死する機会は無さそうです(尤も脳卒中や急性くも膜下出血の可能性は残りますが)。しかし、わたし、決して健康に細心の注意を払っているワケでもなければ、超人的な肉体を持ち合わせているワケでもないだろうと思っていますので、コレはいずれ何かが起こるのではないかしらん、と強迫観念的に考え続けているのでした。というのも、わたしはこれまでに大きな病に罹患した経験がありません。入院経験もなければ、モチロン、手術の経験だってありゃしない。縫合も当然なし。骨折の経験もどうやらないようです。「どうやら」と申しましたのは、実は幼稚園に通っていたくらいの時分、遊んでいる最中に腕がグキッとなって激痛が走った記憶がありまして、わたしは母親に連れられて病院へと行ったのです。診察室へと入ったわたしは、医者に対して執拗に「折れた折れた」と言って言って言いまくりましたので、ソコで医者も飽きれ果てて「じゃあ、念のため吊っておこうね」と言い、三角巾でわたしの腕を吊ってくれたのです。当たり前のコトながらギブスはしておりません。ただ意味なく吊っていただけです。ナゼわたしがそのような主張をしたのかというと、当時幼なじみが丁度ガチで腕を骨折しておりまして、ギブスを付けて幼稚園へと通っていたのです。その光景を見たわたしは、子供独特の好奇心と奇異なるモノへの羨望の眼差しから、自分も同じようなコトを経験してみたいと思ったのでしょう。それ故、タイミングよく腕を軽く痛めた機会を利用して骨折を装ったというワケです。先ほども記しましたように、ギブスはしておりませんので実質何も固定されていない状態に等しい。でも、幼稚園児にギブス云々といった事情は知る由もないコトでして、ただ腕を吊っているだけで骨折気分を満喫していたのだというアホみたいなハナシです、コレは。母親がかつて言っていましたが、痛めてから数日後には吊っている方の腕をグワングワン動かしまくっていたそうです。ソレは万が一にも折れてはいないという事実の明証。医者からすればとんだやくざ患者に違いありません。──コレがわたしが今までに経験した一番大きな(大袈裟な)怪我です。


こうやって現在までに無難な時を過ごしてきた事実が、否応無く未来に待ち受けているであろう不吉な気配を暗示せずにはいないではありませんか! いっそ一思いに、なら怖くはないし、イヤでもないのだけど、じわりじわりと激痛あるいは悶絶を繰り返しながら……というのでは、とてもとてもイヤで困ります。止めてください。
そうなれば、わたしなどは考えてしまいます。「死ぬのが怖いとは思わない」とアッサリと述べられるヒトは、案外自分が苦しまないで楽に死ねると信じているようなタイプなのかもしれないな、と。そういう自信を是非とも持ちたいものです。(または、わたしもそうなのですが、ある程度若くて妙な自覚症状がない間も、徒な恐怖心などとは無縁なのかもしれません。でも、ソレは、言うまでもなく危険と隣り合わせの状態に違いないのです。ああ、恐ろしや恐ろしや)

2009年02月22日

2009年02月22日 わたしの悪弊

オセロはたまにやりますが、あまり強くありません。将棋とチェスは駒の動かし方を理解している程度で、ソレっぽい思考をしながらゲームを進めていくなどというコトはやった憶えがありません。麻雀、囲碁に関してはまったく分かりません。麻雀は覚えようとしたコトがあるのですが、すぐに止めました。囲碁は打とうと思ったコトすらありません。だから「ヒカルの碁」にもそれほど熱中できなかったのだと思います。
チェスと将棋でいえば、将棋を最初にやってみて、それから相当後になってからチェスの仕方を覚えましたので(Macにプリインストールされているゲームで覚えました)、かなり戸惑った憶えがあります。一度取られた駒を再利用できるかできないか、ポーンは斜め前の駒しか取れない、クイーンが最強過ぎる、などと、まぁいろいろ困惑したモノです。が、一通り駒の動かし方を覚えてしまえば、ソレっきりで満足してしまうのが、わたしの悪弊。
なんでこんなハナシをしているのかは分かりません。思いつきで書いてしまうのも、わたしの悪弊。
……とココまで書いて、「悪弊」ではなく「悪癖」の間違いじゃないか? と思うようになりました。そうだ! この場合、「悪弊」よりも「悪癖」が妥当だろうに。──そういうワケですので、“わたしの悪弊”が露呈したコノ文章を記念としてココへ残置しておきましょう。

2009年02月21日

2009年02月21日 黒澤明の凄さ 映画の面白さ

今、BSで「没後10年 黒澤明特集」と題しまして、黒澤作品全30作が順次放送されています(参考リンク:没後10年 黒澤明特集)。二週間くらい前には、人気投票で最も支持を集めた上位5作が毎晩放送されていました。その5作とは以下の通りです(参考リンク:没後十年 黒澤明特集 あなたが選んだ黒澤アンコール 結果発表!、ちなみに括弧内は下記5作品中の個人的な順番)。


5位 「天国と地獄」(3)
4位 「生きる」(4)
3位 「用心棒」(2)
2位 「赤ひげ」(5)
1位 「七人の侍」(1)


わたしは映画をほとんど知りません。人並み以下の見聞録です。一番好きな映画はジャック・ニコルソン主演の「カッコーの巣の上で」なのですが、これとて2回くらいしか見ていません。況や黒澤明においてをや……なんです。事実、今回の特集で「天国と地獄」以外の作品を初めてしっかりと見た次第なのですから。従いまして、わたしが映画について何かを述べるなどというのは、本来まったくおかしな話なのだと思います。おこがましいと思います。でも、今日はこうやって言おうとしている。声を出し始めている。


面白い。ただそれだけなのに、何かを言いたくなってしまいます。それが黒澤明の魅力なのでしょうか。上に掲げた5作品はどれも大層面白いものでした。現代劇の「天国と地獄」にしても「生きる」にしても、はたまた時代劇の「用心棒」、「赤ひげ」、「七人の侍」にしても、どれも一刻たりとも飽きさせない魔力が観るモノを包み込んでしまう、そのような印象を抱きます。三船敏郎の大胆にして豪快な演技と志村喬の百面相の如き変幻自在の変貌ぶり、この二者を中心にして作り出される世界は、まさに<迫真>そのものなのでしょう。特に志村喬の演技には唸り声をあげそうになります。この数週間で、わたしはすっかり彼のファンになってしまいました。
超有名作である「七人の侍」も、実は初めて見ました。およそ3時間に渡る大作なのですが、どこにも隙がないではありませんか! 終盤の戦シーンは言わずもがな、お侍集めの場面や村での下見の場面、どこを切っても生きているのです。各々の「絵」が呼吸し続けています。そして最後の「今度もまた負け戦だったな…」との一言に、侍という身分に付き纏う冷酷さ、百姓という身分に備わる冷淡さが見事に収斂されていく仕上がり具合。恐れ入った。これはとんでもない映画です。


今になって黒澤明監督の魅力に取り憑かれてしまいそうなのです。DVDが欲しくなってきました。黒澤作品からは無頓着なわたしにも映画の面白さを伝えてくれるような、そんな力を感じるのです。賛嘆、それ以上。
さて、次は土曜の夜(時間的には日曜の午前)に「野良犬」があります。これも楽しみです。

2009年02月18日

2009年02月18日 見出しに注意

大滝詠一もビックリ「はっぴいえんど」鈴木茂が大麻所持


おかしなタイトルになっています。大滝サンも驚いてはいるだろうけど、この場合どうも勝手に「ビックリ」したコトにされているような気がしなくもないのです。というのも、この短い記事のなかに大滝サンの発言は一切紹介されていないのだから。コレではまるで安物の雑誌に掲載されている「ハリウッドスターのS・Vも愛用!」などと書かれた胡散臭い商品広告と同等ではありませんか。まったく、この見出しにビックリですよ。「ねえ もうやめようよ こんな淋しい話」


知らない空が ぐるりとまわり
冬の絵の具が 淋しく流れる
どの通りにも さよならなんて
淋しい言葉が 滲んでいるだけ
こうしてぼくは待っていよう
きみが微笑みを想い出すまでは


【さよなら通り3番地】

2009年02月17日

2009年02月17日 紅茶はジュースではありません。

わたしは紅茶が好きなのです。オーソドックスにダージリンやアッサム、アールグレイ。茶葉は大抵ブロークン・オレンジペコ。ダストはどうもいけない。
風味豊かな紅茶は心身を癒してくれます。3年ほど前に体質的な問題としてコーヒーを飲むと不愉快な気分になってしまうコトに感付いてからは、専ら紅茶(時々緑茶、烏龍茶)に限ります。トワイニングのリーフを愛用しているモノです、わたしは。
普段はほとんどストレートで飲むのですが、ごく稀にミルクを投入してみたいなどという浮ついた思いに駆られ、あれよあれよという間にミルクティーなぞを拵えたりもするのですけれど、基本は常にストレートです。


ところで、自動販売機やペットボトルで販売されている紅茶はどうしても頂けません。なんだアレらは! まず香りが死んでいます。次に無闇矢鱈に甘く仕立て上げられているではありませんか。コレは何かの嫌がらせか?と思うほどに、ジュースのような紅茶が次から次へと市場に投入されています。果たして需要があるのかしらん、と思いはするものの、相も変わらず売られ続けている様子をみるに、どうやら一定の人気は保っておられるようです。──どうも分かりません。ナゼあのような具合になるのでしょう。わたしが紅茶をホンキで好きになるより以前、すなわち中高生の時分から「午後の紅茶」ミルクティーと「紅茶花伝」はジュースとして嗜んできました。思えばあの頃から違和感を覚えていたのかもしれない…… 缶コーヒーともなれば、甘〜いのからブラックの苦〜いのまで多様な形態が存するのに、どうして紅茶に関しては皆一様に同質の甘さ、(無)風味なのでしょう。コレは異常に不思議な事態と言わざるを得ません。「探偵!ナイトスクープ」の出番かもしれません。
なかでも特に衝撃的だったのは、紅茶を愛飲するようになってから「午後の紅茶」ストレートティーを飲んでみた時に感じた奇妙な甘さでした。イギリス人はよく紅茶を飲むと教えられて参りましたが、もしもあのように甘〜い甘〜いお茶を連日連夜飲んでいるとするならば、国民総糖尿病化は間違いありません。例外はありましょうが、緑茶にしろ烏龍茶にしろ基本的に「茶」の文字を冠したモノに甘みは似合いません。加藤茶も風貌は決して甘くないように。


脈絡無く勝手な不満を書き付けてきましたが、結論としてわたしはこのように思っているのです。つまり、日本の飲料メーカーで商品開発に携わっているヒトの過半は紅茶をジュースのカテゴリーとして捉えているか、もしくは非常な甘党であってオーソドックスなストレートティーには満足しないのだろう、と。だから奇怪な味のモノが世に蔓延っているのではないかと思うのです。如何なる事情があろうとも「茶」には風情というものが無ければいけないと思うのですが、いかんせんあのように甘みを前面に押し出されますと、ただただ困惑してしまうだけなのです。

2009年02月14日

2009年02月14日 バカは風邪ひかない

暖かいので元気です。
暖かくなくても元気ですが。
もう少し潜んでみます。

2009年02月06日

2009年02月06日 「相棒 -劇場版-」は不思議な映画

相棒 -劇場版- 絶体絶命!42.195km 東京ビッグシティマラソン「相棒」の劇場版です。まったくもって不思議な作品だと思います。ある意味では何度も見たくなる映画なのです。というのは、どうも腑に落ちない点が幾つかあるため、改めて見返したくなってしまうという難点を抱えているからです。
──キーワードはチェス。平幹二朗サンが小泉元首相風のチェス好き元首相役を演じておりまして、全てはこのチェス好きのオッサン(とそのお友達)の作為から始まっているようです。そういう意味では一応全編に渡ってソレらしきモノが散りばめられているコトに意味はある、と言って良いのでしょうか。どうも困ってしまいます。何か中途半端な感じがするのです。この違和感を一言で言ってしまうと、「アンタ、そこまで頑張って壮大なゲームをするコトに意味はあるのかい?」と。コレは犯人に対して。そもそも「ゲーム」、「対戦相手」と言っているのですが、肝心のゲームの行われるコトが容易には気付き難いのではないでしょうか。まずあの幼稚なサイトの管理者用ページの存在とパスワードが分からなければ始まらないのですから。右京サンが分かったから良かったものの… コレではまるで東京に住んでいるヒトが予め茨城の方にまで逃げておいてから、知人に「じゃあ鬼ごっこ開始〜」と言っているようなモンです。卑怯、臆病、準備不足極まりない。いったいどうしたというのでしょう、チェスでマラソンコースを描くよう誘導するコトのできるほど天才的な計画性を持つ犯人にしては、どうも妙な点が見受けられるのです。そして、アソコまで壮大な計画を立てておきながら、その最終目的を果たすための舞台というのが、実はあのようなゲームを用意しなくても良かったのではないかと思われる点もまたオカシイ。マラソン大会は壮大な前フリ、前座のようなものなのですから。


この映画、何も考えずに目で追って行くのなら、間違いなくとても楽しい一作だと思います。動きがあって展開もスムーズに進んで、メリハリだってある。ただし、音楽がムダだ!うるさい!と思われるシーンがあるのが困りモノです。映画故にでしょうか、どうもOPから壮大な感じを出そう出そうと先走ってしまっているような雰囲気を受けてしまうのです。音楽だけでなく映像にしても。「相棒」の良さ、面白さというのは、誤解を恐れずに言ってしまえば、独特の地味な間合いだと思うのですがねぇ〜 コレは映画だぞ!との意気込みが溢れ出てしまって、何か別の作品のようなムードになってしまっているのが、ボクとしては頂けないトコロでしょうか。(かと言って、スクリーンでいつも通りのコトをやられても、観ているヒトは戸惑うのでしょうけど)
おかげで右京サンの推理力はさほど発揮されることもなく、また真の犯人もあっさりと分かってしまうような見せ方になっていて、後半は悪い意味でスムーズに進んでしまった感じがあります(中盤の爆発シーンの辺りなどは、右京サンよりも「刑事貴族」の本城サンが出てきた方が面白くなりそうだ…)。
また、この作品、当然のことながらあくまでもテレビドラマありきのモノでして、序盤は通常版の方でご活躍されている面々を揃わせようと場面の転換が忙しく、ちょっと落ち着きがありません。そして、テレビドラマに大きく依存しているため、おそらく本作単体ではその魅力が伝えきれないものと思われます。つまり、今現在、もしくは二十年後、三十年後に、テレビドラマの方を知らないヒトたちがいきなりこの映画を観たと仮定してみれば良いのですが、彼らには各人物の個性やら相関関係などを理解するコトがとても困難で、それ故に「相棒」における大きな魅力の一つともなっている特命係とそれを取り巻く人々の間に存在する独特の空気感を掴むコトができないように思われるのです。そこにこそこの物語の面白さが詰まっているのに! この映画単体では勝負し切れないように思われます。


以上に挙げた感想をまとめると以下の四点になります。


1.気付き難いゲームの存在、犯人の目的とマラソン大会の間にある微妙なズレ
2.音楽が芳しくない。映像と合わせて懸命に盛り上げようとし過ぎている。
3.流れはスムーズで良い。でも、後半もスムーズなため意外性に欠ける。
4.映画として独り立ちできていないのでは?


そして、コレに五点目を付け加えさせて頂きたく思います。


5.出演者の演技は皆素晴らしい。特に終盤の右京サンと犯人が二人きりで話すシーン、そこでの右京サン、イヤ、水谷さんの表情が秀逸。


物語を通じての印象では、確かに「相棒」というモノの存在、意味合いが明確にされていたと思うのですが、その分、この作品本来の持ち味である意表を突く展開や余韻を残す結末、奇抜な推理といったものが失われていたのは残念です。映画という枠組みを与えられて物語のスケールを拡大するコトで、(あまり良い意味ではなく)これまでのものとは異なった雰囲気になってしまいました。個人的な思いですが、どうして当初から脚本を書いてきた輿水泰弘氏を起用しなかったのかが疑問です。このヒトは「相棒」の節目節目に素晴らしいストーリーを書いてきた実績を残しているのですから、劇場版ともなるとまず真っ先に彼が筆を握るのが“筋”だと思うのですが… はて、「大人の事情」というヤツでしょうか。

2009年01月14日

2009年01月14日 怪文章

最近わぁ寒くてムカツク(´ω`。) 雪だってフライングで降るか降らないかレベルでもう降っちゃえよハァ━(-д-;)━ァ... 雪はアホだった冬空はアホだったアーへ(´д`へ)(ノ´д`)ノコリャコリャ
外に出たら!Σ( ̄ロ ̄lll) 曇天 朝起きても( ̄△ ̄) !! 曇天
絵文字だって全然スムーズに入らないしヽ('ー`)ノ
もう辛口カレーでも甘口のつもりで喰ってやる 炎炎炎> (~Q~;;) ってこんな辛いモノ喰えるか(ノToT)ノ ┫:・'.::・┻┻:・'.::・おらっ〜
夜な夜な四股踏んで((((((BOMB)))))) ⌒⌒⌒⌒⌒/(x~x)\
あの娘のハートに((((((BOMB)))))) ⌒⌒⌒⌒⌒/(x~x)\
だから、神様 どうか明日も幸せでありますように( ̄人 ̄)オ・ネ・ガ・イ♪


(´。`) ツカレタ・・ナレナイコトハスルモンジャナイナ

2009年01月08日

2009年01月08日 いつかのいつか

ちょっと書いてみたいコトは幾つかあるのですが、今はムリです。でもいつか書くつもりです。
例えば、夕方にやっている再放送ドラマの合間に流れる怪しげな健康食品の通販CMにあるおかしな点についてや、数ある時代劇の主人公のなかでは「暴れん坊将軍」の“新さん”こそがチャンバラ最強であるコトとか、オーウェルの『一九八四年』についてや、ドイツ人とオランダ人を遠目から見分ける方法とか、そういう点について、いつかのいつかは書きたいと思うのです。
でも、今はムリです。まだ鏡開きもしてないし。
クソッ

2009年01月04日

2009年01月04日 今年の目標

LARK実家に帰ってみると、こんなコップがありました(右図参照、クリックすれば大きくなっちゃうよ)。画像の質が悪くて申し訳ないのですが、LARKモデルのコップです。珍しいのでわたしが使うコトにしました。歯磨きをする時に使っています。右の画像の左側部分にもありますように、側面には「健康のため吸いすぎに注意しましょう」などというお気遣いの言葉まで御丁寧に記されています(画像の文字が読み辛い… ゴメンナサイ)。どうやら相当に古いモノのようでして、今まで「押入れの奥で眠っていた」品だと思われます。
実家が変更になりまして、引っ越しの際に押入れの中をガサガサしていたら偶然に発見されたらしいのです。ソコを狙って即座に我がモノにしてしまうという抜かりのなさ。コレこそ、今年のわたしが是非とも掲げたい目標なのです。


今年の目標:抜かりなく過ごす


ちなみに上記のコップにはニコチンとタールが若干含まれています。
タール:4mg
ニコチン:0.6mg


メンソール! 嗚呼、メンソールレベル!

2008年12月31日

2008年12月31日 アンチ大晦日〜リターンズ〜

本日は大晦日。わたしが一年のうちで最も嫌う日です。
どうして大晦日を嫌うのかというと、ソレが消滅の日だからです。すなわち、当然のコトですが、一年は1月1日から始まります(カレンダーの上では)。そして、その対極にある本日12月31日大晦日こそは終わりの日、今年が消滅する日なのです。


今日が終わりで明日はまた始まり。今日が始まりで昨日が終わり。始まりと終わりが背中合わせになっています。


「日々の積み重ね」などといいますが、一年間の流れというのはまさにそのようなモノでしょう。1月1日から12月31日まで、1秒1分1時間1日1ヶ月と積み重ねてやっていくワケです。しかし、豈図らんや、12月31日の23時59分59秒をもって、その積み重ねが全てリセットされてしまい、我々はまた最初から山を築くことを余儀なくされます。何たる無情!
このように「大晦日」というのは実に悪いヤツでして、一年間の積み重ねを全て消去してしまい、強制的に「ハイッ、また明日。最初からね」という命令に従事させようとするなんとも卑劣な野郎だと言わずにはおけません。
せっかく10月11月12月と順調に月日を積み重ねてきて、月の数も二桁になったんです。それなのに、それなのに明日からまた1月1日。まるでゴールに到達するや否や振り出しに戻されるかのようなこの絶望感。


──残るものは記憶と記録。
それで十分だとは思いますが、一方でどこかにやるせなさをも感じてしまう。


わたしにとって12月31日大晦日というのは、徒労感を前に屈服せざるを得ない日だというワケです。ですから、1月1日元日なんてのも何も御目出度くはありません。「ま〜たやり直しかよ」という気持ちが心の片隅にありますので、骨を抜かれたかのようにただガックリとしているだけ。年賀状もしめ飾りも全部投げ捨てたいくらいだ。か弱い力で。何が「謹賀新年」「迎春」だ。白々しいったらアリャしないぜェ。
──この虚無感を理解して頂こうとは思いません。が、それでもわたしは敢えて言いたかった。「12月31日大晦日。ソレはわたしの一番嫌いな日」だと。
紅白歌合戦の日でも、格闘技の日でもありません。不可抗力によって強制的に振り出しに戻らされる前日、刑執行の前、“安堵できない最後の安楽日” …コレこそが大晦日の実体である。


さようなら2008年、平成二〇年。
また最初からのやり直し。明日から12ヶ月間一緒にお供しましょう2009年、平成二一年、宜しく。

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2008年12月25日

2008年12月25日 タイトルの不必要な文章

愈々年の瀬です。一週間後にはもう元日になっています。「光陰矢の如し」と言います、街行くヒトたちは皆。今日だけでもこのフレーズを36回は聞きました。定年間近と思われるサラリーマン、ピザを配達している兄ちゃん、スーパーで長ネギをカゴに入れて買い物中の主婦、かくれんぼをする幼稚園児たち、初めて日本に来たアフリカ人観光客、結婚式のスピーチをする中年男性、ビブラートが自慢のフォーク歌手、ゲイバーから出てきた若手会社員、誰も彼も「光陰矢の如し」と口をついて出ています。さきほどもニュース速報が出て「光陰矢の如し」という文字が流れました。──まったくその通りです。


今日は多くの日本人にとって無関係のキリスト誕生の日、つまりクリスマスです。クリスマスといえばクリスマスソング。わたしのナンバーワンクリスマスソングはXTCの「Thanks For Christmas」かもしれません。(以下参照。音だけですが。)



ゲイ!のワム!の「Last Christmas」もキライではありません。大滝詠一サンの「クリスマス音頭」も捨て難い。「戦後変わったクリスマス 天下晴れてのクリスマス 日本すみずみクリスマス 何処にいるのかクリスマス」と大滝サンは歌います。本当にそうです。一週間後にはお寺に行って鐘を鳴らすくせに。どうせなら一人で五回くらい鳴らしちゃいましょう。この御時世ですから煩悩の数を百ちょっとに限定してしまうのは遠慮勝ち過ぎるというモノです。二百や三百くらいはあっても良い。昔よりも煩悩は増えたのです。本来は全く関係がないのにクリスマスを祝っちゃうようなのも新たな煩悩の一つなのです。大半の日本人にとってクリスマスは煩悩だ。同様にしてハロウィンも煩悩。そして、イ・・・ああ、コレは煩悩じゃないや。
ええっと、ちょっと毒が効いてきたような気配がしますので、ココらで切り上げざるを得なくなりました。指先が痺れてきました。さっきは血を吐きました。クソ! ゲイ! ワム!

2008年12月21日

2008年12月21日 スロベニアに怨みはないけど

年末から年始にかけての間には、どうして駅伝が急増するのでしょうか? 全くもって理由が分かりません。──その理由については、このご時世ですからインターネットを駆使して、もっと限定してしまえばGoogleを駆使して調べると分かるのでしょうけど、分からないままにしておこうと思っています。私的七不思議の一つに留めておく所存なのです。何でも知ってしまえば良いってモンじゃないでしょう。知らない方が良いコトだって山ほどあるし、知らなければその分色々な妄想が脳内を走り回って暇潰しにはなるのです。「互いの全てを知り尽くすまでが 愛ならばいっそ永久に眠ろうか」とはWANDSの歌の一節です。高校生の時にちょっとだけ聴いていたWANDS、何が良いのかというと、スラムダンクのアニメのエンディング曲に採用されていたから良いのです。あの番組のエンディング曲は決して外さなかった。WANDSにZARDにMANISH、どれも映像と見事なまでに重なり合う曲でした。
おっと、駅伝からいつのまにかビーイングの話へと引っ越ししてしまいました。本当はVan der Graaf Generatorの「Still Life」は素晴らしいアルバムだ! というコトをスイス人風に書こうと思っていたのですが、今日の体調ではスロベニア人が精一杯ですから、また日を改めて書こうと思います。(書かないかもしれません。)
ところで、Youtubeには外人のオッサンの弾き語り動画が多数アップされているのですが、なかには異常に上手なヒトがいるのでビックリします。多分皆アマチュアのはずなのに。──上手いのは全部スイス人でしょう。音を外すようなのはスロベニア人に決まっている!・・・今日のオレは、所詮スロベニア人か・・・・


どーでもいーコトですが、いや、どーでもいーコトではないのかもしれませんが、昨年のMー1におけるサンドウィッチマンは本当に凄かった。ソレを改めて実感した日です。

2008年12月19日

2008年12月19日 悪癖

ブッシュ大統領にもモノが飛ぶ時代です。そのうち麻生サンにも・・・・などと考えて、イヤイヤその前に金正日か? と思っていた矢先に...


金正日総書記暗殺を阻止


誠に残念なニュースではありませんか。この事件が実際に起きていたのなら、そして本当に失敗したのなら、のハナシですが。──世界が揺れています。日本も色々と揺れていますが、地面の底が揺れないというのは不気味だと思います。関東大震災、東海地震、南海地震。いつ発生してもおかしくありません。首都直下型なら、日本はどうなるのでしょうか。政局は混迷し、経済は長期不況の真っ直中、その上(下?)地面まで崩れちゃったらもうオシマイだよ。
いずれ来る、それ来る、ほら来る、とマスコミは煽ります。統計上のデータから推測するに、もう明日発生してもおかしくないとのコトですが、所詮は統計です。統計で世の中を理解できるというのであれば、統計学のセンセイは神様になります。人知の過大評価! 今の政府こそそうじゃないかと思うのですが、安易には言えたモノじゃない。浅学のロマンチスト!
ロン・ポール氏なら言うでしょう。言っているでしょう。経済問題に関しては。わたしはほぼ門外漢ですが、理論的には彼の信奉しているトコロのモノをそっくりそのまま支持したいくらいです。あくまでも理論的には、ですけど。リバタリアニズム。ノージックの考えているコトも本の上ではピッカリ光る。でも、ソレをどうやって現実に持ち込むのか、ソレが皆目分からないのです。無駄な税金も無駄な規制も無駄な保護も無駄な戦争も廃止するぅ〜! そりゃそうだ。しかしながら、ソレができない。派遣社員のクビが切られ、それでも足りなければ次は正社員にまで魔の手が・・・ 無駄な規制と無駄な保護がもたらす大惨事。やっぱり無能な年寄りが強くて、威勢の良い若者は瀬戸際へ。時給五百円でも仕事が無いよりはマシだと思うんですけどねぇ。この御時世だからこそ、でしょうか、最低賃金法を罵倒するヒトの意思も分からなくはありません。名医の仮面を被ったヤブ医者の親切な治療が却って傷口を拡げているというのなら、やはり彼は殺されるべきです。


今夜は月の色が綺麗ですから(今、正面に赤々とした月が見えています。形こそ中途半端ですが)、つい独り言を言ってしまいました。「僕の悪い癖です。」

2008年12月18日

2008年12月18日 寺脇サンと亀山巡査部長への謝辞

ついに亀山クンが旅立ってしまった。「相棒」のコトです。元旦SPはどうなるのでしょう。──田畑智子サンは久しく見ていませんでした。いかんせんテレビドラマを滅多に見ないモノですから。ハッキリと彼女の演技を見たのは高校生の時、つまり7〜8年前です。NHKのドラマでした。ソコまで遡ります。その時には非常な好印象を抱いて、「おお! このヒトは随分有名な女優サンになるかもしれんなぁ」などと偉そうに考えもしましたが、思えばその頃から徐々にドラマを見なくなった。大変な放ったらかしです!
しかし、寺脇サンに代わって“相棒”を演ずるヒトは誰になるのでしょうか。真木蔵人氏などであれば、私は転げ落ちてしまうでしょう。かといって、不破万作というのもなぁ。もうほとんど爺さんだしなぁ。平田満、というのも年齢的にムリがあるだろうし・・・竹脇無我サンや田中要次サンもちょっと似合わないだろうなぁ・・・ どうしても適役が見当たりません。もしかすると女性でしょうか?
それにしても、この絶好調の時期に交代するのですから、よほどの技量が無ければ務まらないのは確かだろうと思います。…となると、舘ひろしクラスじゃないとダメなのでしょうか? でも、ソレだと右京サンのキャラが喰われてしまいそうでいけない。伊武雅刀氏があと20歳若ければ良かったのに。(ところで、伊武雅刀氏の独創的なオフィシャルサイトを見よ! 参考リンク:伊武雅刀
いずれにせよ、寺脇サン及び亀山薫巡査部長、お疲れさまでした。これからは「ミューズの晩餐」も見るし、「モンカフェ」も買うのです。気が向けば。──私は専ら紅茶体質でして(右京サンでは非ず!)、コーヒーを飲むと逆に眠くなってしまう場合がしばしばありますから、もうここ半年くらいは飲んでおりません。


「正義」は伝わるのです。時に闘い、時に想い、時に笑い、そして、常に強くあってこそ!!

2008年12月14日

2008年12月14日 5兆円のゴミ

久しぶりに喫煙者もしくはタバコをバカにしたモノを書いてもイイ頃合だと思います。
天下り組織である気狂い企業JTの見かけだけ爽やかなHP(JT delight world)においては、知能と精神の粗野な喫煙者及び天下る連中を擁護するために「タバコ税増税断固反対!!」などという、どこぞの市民団体顔負けのパフォーマンスを行いまして、増税を回避し得たコトをカルト宗教の説法の如く、また昏睡状態に陥り教祖様の尿を一気飲みするが如き信者のイカれたテンションと化して喜んでいる最中です。(参考リンク:タバコ税増税断固反対!!) 
このカルト教団は次のように書いております。


平成10年のたばこ特別税創設、平成15年および平成18年のたばこ税増税と、たばこは過去10年間で3度も増税されており、税負担率がいまや6割を超えるわが国でもっとも税負担の重い商品です。


喫煙者はよく言います。「タバコは税金がかかっていて、廃止なんてとんでもない! そうすると税収が大変なコトになっちゃうんだよ!」
──ハイハイ、誠に結構ですね。さて、それでは以下のサイトを御覧なさい。


タバコ税収と喫煙によるコスト


コレ、約10年ほど前の少し古いデータなのですが、一年当たりのタバコによる税収が2兆2797億円だとされています。2279700000000円です。他方、タバコによる損失額というモノがあるのです。すなわち、幼児性の著しい分裂症的な喫煙者がタバコによって病気になる、仕事ができなくなる等の原因から病院へ隔離されたり、家で引き蘢り状態になったり、現世を放棄したりするなどした場合の経済的損失や保険金の無茶な適用といった措置の結果を勘案してみたら、終局的に他者の上にのしかかってくる負担が7兆1540億円、7114000000000円に上るというワケです。タバコ税からタバコが全体にもたらす損害を計算してみたら、4兆8343億のマイナスです。タバコ税の倍でございます。
タバコ税が収入になる? 無くなれば困る? とんでもない! こんなコトを言っているので、発狂してクリスマスに鬼の面を被って豆まきをする病人を手厚く処遇するかの様に、喫煙者は日増しに所謂「公共の施設」から締め出され、シマウマかキリンか分からない世界三大珍獣の一つであるオカピを見る人々の奇異な眼差しに似た視線を受けるコトを余儀なくされる「喫煙スペース」などという廃人収容所に押しやられるのです。──約5兆円です。タバコがあるコトによる損失額が年間5兆円なのです。ビル・ゲイツの資産に匹敵する額が、喫煙者によって毎年雲散霧消してゆくのです。ビル・ゲイツは多大な貢献をした結果の5兆円ですから文句なしにアッパレなのですが、喫煙者は貢献どころかゴミ以外の何者でもありません。5兆円をもたらすどころか、逆に闇の中へと葬り去るのです。コレでは国家の財政を蝕むシロアリです。お、お国の敵!? 社会のゴミ!?


「たばこは過去10年間で3度も増税されており」などというJTの見解も、前科三犯の悪人が強盗放火殺人で逮捕されて、「過去に3度も逮捕してんだからもう良いだろ!」というようなモノです。3度増税しても依然として元が取れないのだから、漸進的にあと5回くらいは増税しなければならない。タバコに関してはさすがに「death by hanging」を宣告して、この世から抹消してしまうようなコトはできません。つまり、独裁国家でもない限り、それを突如として消し去るコトは許されない。だから増税するしかないのだけど、この度の増税にしても、他国のタバコの値段と我が国の値段を比した場合に、何の行き過ぎもないコトが判然とするでしょう。故にソレを批難するのも、やはり奈良の騒音オバサンに匹敵する他を顧みない喫煙者特有の横暴さというべきです。さすがに一箱1500〜2000円であるとか、過剰に至るトコロで喫煙禁止といった事態の予兆が生じてくるようですと、愈々「禁煙ファシズム」なるモノの危険な香りが漂ってきますので、私も(喫煙者とは関係無く)反対の方へと回りたいと思いますが、現状ではより値上げをし、5兆円の損失を何とかしなければいけません。


タバコは百害あって一利なし、といいますが、確かにソレはそうなのかもしれません。彼らの頼みの綱の一つである「タバコ税による税収」云々も、虚妄、虚言、錯覚、誤解、無知、まやかし…なのです。「税負担率がいまや6割を超えるわが国でもっとも税負担の重い商品です。」などとほざき立てる天下り専用組織のJTは、なぜ己が商品に斯様に高額の負担がのしかかるかを考察しなさい。そして誇らしげに「297万1206件」の署名が集まったなどとデカデカと掲載していますが、なんだコレは、全盛期のミスチルのアルバム出荷枚数より少ないじゃないか。宇多田ヒカルの「First Love」に関しては、この倍以上の数のヒトが買いました。署名はタダ、一方のアルバムは3000円の出費(しかも街頭での署名活動ではなく、ネット上で簡単にできるようにした結果がコノ数)。ああ、やはりタバコに関わる連中は脳が思いもかけずニコチンで損傷してしまって、物事を正確に認識できなくなっているのではないか。

2008年12月13日

2008年12月13日 軽い一語で虚無の世界へ

世の中簡明なモノが勝ちます。他者を思考停止に陥れたモノが勝つのです。ヒトラーは決して難しいコトを言わなかった。猫も杓子も理解できる演説をこなして支持を得ました。近年でソレをやったのが小泉元総理で、アホの一つ覚えの如く「構造改革」、「郵政民営化」を唱えて、政治をよく分からない人々からも何となくの支持を受けちゃったのです。その後の安倍さんは「美しい国」と言って波に乗ろうとしたのかもしれませんが、具体的には何のコトやら分からないなどと言われて、かなり頑張ったのですが、体調を崩してしまいました。その後の二人は…ダメだ。何もない。
ちょっと見るトコロを変えてみれば、「流行語大賞」などというバカみたいなイベントが、そういった風潮を象徴しているといえるのではないでしょうか。「だっちゅーの」、「なんでだろ〜」、「グ〜」・・・猫も杓子も、です。
何も考えなくて良いから、ちょっと爽やかで明るい感じなら、すぐに伝播するのです。尤も、イイ大人が「グ〜」などと街中で言っているのを見聞したコトこそありませんが。考えなくて良い分、根は浅い。表面的にしか入り込んでいないから、時間が経つとすぐに抜けてしまうのです。どーでもいーコトをすぐに忘却してしまうのと同じように、軽薄な事象ほど消え去るのも早いんです。──娯楽の場合、そうであっても何の問題もありませんが、政治家が軽薄に流行を作り出してしまうのはいけません。現在はそのような気配がないから良いと思います。バカでも分かっちゃう一語ほど、悪徳政治家にとって便利なモノはない。政治家の言うことが全く分からないのも困りモノですが、安易に理解できてしまうのも困りモノだというコトになります。政治家のセンセーたちに、もっと分かるように喋れというのは半分妥当な意見で半分はクズかもしれません。
ところで、分からないというのは、相手の言葉遣いが適切ではないからか、それとも聞き手の勉強不足に基づく無知故にか。

2008年12月10日

2008年12月10日 外界へは行けない

昨日読んでいた本のなかでこのようなやりとりが紹介されていました。


「一体全体あなたがいつも話してらっしゃるような神さんなど、どこにあるというのです。」
「あゝ、このお方は。神樣方はこの世にはいやしませんよ。神様のなかにこの世があるのですもの。」


「思想とは真理に対する王手である」と言ったのはオルテガですが、この場合、既に王手がかかっています。こう反撃されたのでは、もうどうしようもない。われわれは神様の外に出る能力をもっていないのだから、神を顕在化させるコトなんてできやしないんだぜ、ベイベー!
──「じゃあ、聞くけどさ、いったいどうして私たちが神のなかにいるというコトが分かるんだい?」
この問いに如何に返答するかによって、そのヒトの思想が窺われる。わたしなら如何様に答えましょうか?


Youtubeでスゴい動画を見つけました。



細野さん、TIN PAN ALLEY、年齢不詳、奇妙な雰囲気のライヴ映像、「トロピカルダンディー」の頃でしょう。
初めて聴いたときはあまりピンと来なかったけど、最近はスゴく良いアルバムだと思っています。この奇妙な陽気さが、今の季節には特に効く。
まったく貴重な映像で、非常に有り難いコトです。この映像を発見したときは「南無阿弥陀仏」と言った。仏様に感謝するという意味です。
仏様は私たちの内側か外側か、どちらでありましょう? 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・

2008年12月08日

2008年12月08日 “武雅”の境地

時期も時期ですから卒業へ向けて論文を書いているのですが、本日書き上げた一節に関しては本文と註釈の割合が4:3になってしまいました。こんなに鬱陶しい論文で良いのでしょうか。以前にセンセイから「説明不足かなぁ。註釈が足りのないかなぁ。もっと書いてもイイんだけどなー」みたいなコトをソレとなく言われましたので、思い切って書いてみれば、まったくどうしようもない状態になりました。他人が書いた論文を読んでいて註釈が多いと「ああああ もーっ!」となるのはわたしだけではないはずです。なんか色々と手間をおかけ致してゴメンナサイ。


今朝、数ヶ月ぶりに母親からメールが届きまして見てみるに、毎度のコトとして「元気?」的な文面があったのまでは良いのですが、その後に「家を買った」と書いていたのには笑ってしまいました。ウチにそんな金はないはずなのですが。思い出す過去。──実家は結構古い家で、場所的にも入り組んだトコロでしたので、以前に母が「歳をとった時のコトを考えて、今の家では」云々と言って安価な分譲住宅でも…と放言していたのは知っている。冗談だと思っていた。メールの続きには「二階建て」云々と。・・・二階? アレ? オレに帰って来いと言ってる? 二階にオマエの部屋もあるぞ、ってコトを仄めかしているのでしょうか。老後生活に二階建ての家は却って不便ですから。う〜ん、何がどうなっているのかサッパリ分からない。でも、あまり気にしないようにしている。むしろ「ドランクドラゴン塚地さん骨折」のニュースの方へと意識が行ってしまう。(参考リンク:ドランク塚地さん左脚骨折 番組収録中、全治2−3カ月

2008年12月06日

2008年12月06日 明日のコトも分からない

早起きはキラいです。冬場になると尚更イヤになります。朝が昼で、昼が夜で、夜が朝ならどれだけ良いコトでしょうか。
子供の頃は裕福な生活を送りましたが、自分が裕福であればある程、何か申し訳のない様な気がして・・・ 兄がいました。父親は兄に多大な期待を寄せ、末っ子の自分の様なモノなど眼中にないといった感じで。上京してからのコトですか? フランス文学を学ぼうと思ったのですが…
今は・・・住所不定無職定収入です。いいえ、細野サンの曲ではありません。女神にも出会わないしランデブーとも無縁です。
火をつけました。お寺に。ソレをおかずにしたコトもあります。妄想観念です。どんどん肥大化していきました。思えば父親の影響かもしれません。子供の頃は絵画を見て性的興奮を覚えました。
気が付けば閉じ込められていました。先生のコトは信頼していたのですが・・・ 胎児のコトは…よく分からないのです。
あんたが あたいの 寝た男達と 夜が 明けるまで お酒のめるまで あたい 男やめないわ ムーーーーーー

2008年12月05日

2008年12月05日 「わたし」

街中にクリスマスソングが轟き渡るイヤな季節になりました。ワム! 、ジョン・レノン、マライア・キャリー、山下達郎、B'z・・・ まったくどうしようもありません。私がお店の経営者なら今こそTUBEを鳴らしに鳴らします。冬を追い払っちゃいます。広瀬香美は入店お断りだ!


ところで、以前にも一度だけココに書いているはずなのですが、ブログといった空間にて一人称として「私」を遣うのに違和感を覚えるのです。日常生活において「私」とは言いません、私は。尤も言文一致を志しているワケではありませんから、日常で用いないからといって弊害があるとは申しません。日本語にあっては幸か不幸か多種多様な一人称が存在していますので、各自の選好によって遣い分ければイイというのでしょうけど、コレを確定するのが容易ではない。果たして「私」が最適な一人称であるか否かを他の一人称と比較検討してみることで考察してみましょう。

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2008年12月03日

2008年12月03日 田舎の頃

暖冬です。今日、暖かいモノに接してみれば、汗をかいてしまいました。ジンワリとではありません。額から流れる汗です。12月にココまで汗をかいたコトはありません。流れ方が全盛期のラモス瑠偉みたいだったのですが、髪型は違いました。今はショートヘアーがちょっと伸びたレベルで、到底ラモスにはなれない… ああ、現実は残酷だ。
ラモス瑠偉といえば「Jリーグカレー」であるコトは十中八九疑い得ません。私が知っている限りで最も不味いインスタントカレーでした。二回食べて二回とも半分以上残して捨てました。小学生の頃のおハナシ。Jリーグチップスにはカードが、Jリーグアイスにはキラキラのステッカーが付いていました。チップスもアイスもよく買いました。サッカーになんて何の興味もなかったのに、シールやカードはナゼか欲しかった。柱谷や長谷川健太や高木琢也のカードが良かったらしい。「良かったらしい」というのは、私はサッカー選手に詳しくないのだけど、当時(小学4〜5年生くらいの頃だったはず)のクラスメートがそういう選手のカードがイイらしいというコトを吹聴していたので、ついつい真に受けてしまっただけなんです。
「ドーハの悲劇」は見ていません。寝ていた。夜も遅くなり果てていましたから。翌日、試合を見ていた母親からその模様を聞かされたのだけど、事情が全く分かりませんでした。まずワールドカップが何なのか分からない、知らないという状態でした。
あの頃は良かったのでしょうか。分かりません。オウム真理教が取り沙汰される直前くらいの時期です。ルーズソックスやPHSや「チョベリバ」はその二年後くらいだったと思います。私は四国の田舎町の生まれで、小六の時に修学旅行で広島へ行ったのですが、ソコで始めてルーズソックスなるモノに邂逅しました。カルチャーショックを受けました。文明開化です。「ダルダルの靴下をたたいてみれば、文明開化の音がする」 思わず私はそう言ってしまいました。
果たして依然としてルーズソックスなんてモノは存在しているのかしらん? 私が高校生の時分は頑としてありました。私のような田舎の公立高校生にとってはルーズソックスなどというモノは無縁でしたから、非常に他人事として、「ああいうのは落ちぶれた私立の高校に行く奴しかやってないんじゃないか?」などと内輪で話し合ったモノですが、真実はもう分かりません。しかしみっともないないのは、そういったモノとは無縁の田舎の女子高生が普通のソックスをちょっとユルくしてソレっぽく見せている姿です。ああいうのを見て私などはよく嗤ったモノです。ソレは文明開化ではなく野蛮化現象の一種です。単にゴムが伸びて古くなった靴下に過ぎません。
だから都会の高校生は自分と同い年でも皆怖いと思っていた。誰も彼もが「東京生まれ ヒップホップ育ち」みたいなコトを言っていると思っていた。漱石の『坊ちゃん』を読んで田舎をバカにしてみたり、藤村操になりきって「ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ」などと呟いてみたり、街中でブレイクダンスをしてみたり、手当たり次第ナンパをしてみたり。私たち田舎の高校生は宮沢賢治のユートピアに共感し、多少ムリしてワケも分からず村上春樹に手を出してみたり、運動会でやるフォークダンス以外に踊る機会はなくて、ナンパというよりは相槌で・・・都会のヒトなら「オーエル」と聞けばOLとジョージ・オーウェルを同時に連想するのに、田舎のヒトたちは大洋ホエールズしか連想できなくて・・・
都会モンはシニカルじゃ。

2008年11月30日

2008年11月30日 座右の銘

止まることは停滞であり死への道である。ただ動くことのうちに、それがどんなに傷ましくても、生命がある。[ヤーコプ・ブルクハルト]


霜月も過ぎ去ります。喧噪を抱える師走がもう間もなく入室して参ります。
上に掲げた一文は私の「座右の銘」です。ブルクハルトはスイスの歴史家。一時期ニーチェなんかとも親しくしたようです。(ニーチェはブルクハルトの講義を受けて大変な感銘を受けますが、「ただし、私も年齢を重ねれば出来そうなことではある。」なんて言っちゃうのです。彼が晩年には狂気へと陥り、全く何も出来る状態ではなかったコト、ソレは偶然ではないのです。しっぺ返しです。敬いを知らない不遜な輩は狂気へと向かう以外にありません。──コレはチェスタトンの受け売りですが。)


「アナタの好きな言葉は?」
もしも誰かにこんなお決まりのつまらぬ質問をされたりしたならば、それでも私は大真面目にこのブルクハルトの言葉を挙げるでしょう。一番好きな言葉です。そして、私が年齢を重ねても到底出てきそうにはない言葉である。

2008年11月28日

2008年11月28日 落書きと「逃げる」コトについて

『増補 ケインズとハイエク』という本を学校の図書館から借りてきました。ウチへ帰って中を見てみると、なんとアチラコチラに線が引かれまくっている上に、雑な文字で何やら書き込まれているではありませんか。改めて確認しておきますが、古本ではありません。図書館の本です。確かに図書館の本でも線が引かれているモノが稀にあります。しかし文字を書き入れているのはどうしたコトでしょう? 私が不思議に思うのは、次のような理由に因ります。すなわち、図書館の本は(当然のコトながら)期限以内に返却せねばならないのです。そして借りていられる期間なぞせいぜい数週間が限度です。そうなのです、私より以前にコノ本を借りて、熟読して、挙げ句に書き込みを入れるほど熱心なヒト、でもアナタがコノ本を借りていられた期間なんて高が知れているのです。というコトは、この書き込みはすぐ無駄になってしまうのではないでしょうか? そして残るモノといえば、次に読むヒトの不快感だけなのです。要は、たった数週間手元に置いておくだけの本に、御丁寧にもアチラコチラへ線を引き、文字を書き入れたアンタ、それで結局どうなるんだい? その書き込みは何に反映されるんだい? コノ点に私は深い深い不快深い疑念を寄せざるを得ないのです。
上にも記したように、図書館の本であるにも関わらず、線引きがしてある本には稀に出会います。そして、その度に私は消しているのです。学校のコトや図書館のコトや他人のコトを思ってではありません。私自身が、図書館の本に線が引かれているという事実に非常な不快感を覚えるからです。──だってソレはオレのモノでもないし、アンタのモノでもないだろ? 皆の共有物だ。ソコを汚すとは何たる大胆な挑戦であるコトよ! 私は常々そう思いながら、消しゴムをかけるのです。そうであれば、今回の件などはヒステリー沙汰です。発狂しそうになります。ちょっと落書きの一部を晒してやりましょう。173ページの「様々の矛盾や逆説やディレンマに満ちた経済、それが現代の貨幣経済であった。」という一文の下に神をも怖れぬこの冒瀆者は「経済学の脱構築」という書き込みを入れております。私はまだこの本を通読していませんから、踏み込んだ発言は控えたいのですが、それにしてもなかなかユニークな言葉を書き入れてくれます。この本を読み進めれば「経済学の脱構築」の意味も解せるのでしょうか? ちなみにその次のページの下部には「カヘイの二重性」なる文字も見受けられます。はぁ…アッチコッチに落書き、落書き、落書き。まったくコレでは「ストリートアート」などとほざいて、至る所にスプレーで落書きをする連中と同次元ではないか! 呆れます。
重要なコトが記述されている箇所に出会えば、そのページ数をメモ帳などに書き込んでおいて、後でその箇所をコピーしなさい。私はそうしています。だから夜中であってもコンビニへコピーしに行くという涙ぐましい辛酸を・・・


オハナシは変わりますが、ヒトはナゼ「逃げる」というコトに興味を示すのでしょうか。鬼ごっこ、映画「逃亡者」、「夜逃げ屋本舗」、福田和子の逃亡劇・・・ 非常な関心を持ちます。
逃げるというコトには興奮が伴いますが、でも、場合によっては恥辱も伴うと思うのです。逃げると色々なコトを囁かれてしまいます。「意気地なし」、「ヘタレ」、「人間のクズ」、「時価5円にも満たない」、「女心と秋の空」、「ピースな愛のバイブスでポジティブな感じでお願いしますよ」、「それはサイババの勝手なんですよ」・・・
ソレでも逃げちゃうんだなぁ。「逃げるが勝ち」だなどとも言いますし。いけない、情けない、しょうがない、そう思っていても逃げてしまう。でも、逃げる当人からすれば、ソコには地獄に匹敵する苦しみがあるように思われます。となると、こういうコトです。逃げているヒトを見るのが楽しいんだ。他人事だから面白く見えちゃう。捕まるか、もう捕まるか、まだ捕まらんか、いつ捕まる? そう思いながら眺めている時のワクワク感が最高なのでしょう。ソレは逃げているヒトのプレッシャーを裏返しにした面白さかもしれません。逆に逃げるモノを応援する心情──逃げ切れ、ソレ!逃げ切れ、ホラ、敵は近くにいるぞ! 志村、後ろ後ろ!──ならば、彼のプレッシャーを或る程度共有できるという感覚があるのかもしれません。疑似体験。でも、ソレは多分まやかしです。そのドキドキ感は怪しい。結局この場合でも、逃げているヒトの姿とソレを必死で追うヒト、逃げ切って喜んでいるヒトと逃げ切られて地団駄を踏んでいるヒト、そういった連中の対照的な様子を見ているのが楽しいんだ。イイ年した大人が汗かき息切らし必死で追いつ追われつしている光景は何かしら滑稽で、それ故にヒトはついつい興味を示してしまうのではないかと思われます。そうだとすれば、コレはまったく適当なモンです。やっぱり他人の不幸だから面白いというだけ。「逃げる」コトの鑑賞は空前絶後の第三者的視点での娯楽だといえるかもしれません。畢竟、彼が捕まろうが逃げ切ろうが、その結果なんてすぐに日常生活のなかで相対化されてしまう。面白いのはその姿だけ!

2008年11月27日

2008年11月27日 So farewell, Mr. Monk

「名探偵モンク」シーズン8で終了


同番組の視聴率は安定しており、人気も評価も変わらず高いが、関係者全てが「よい時期に番組を終わらせたい」という意見で一致したという。USAとユニバーサル・ケーブル・プロダクションは「ファンの期待を裏切らない、満足度の高い最終シーズンにする」との声明を発表し、最後までサポートして欲しいとファンに呼びかけている。


本国では現在シーズン7真っ最中の「Monk」(邦題「名探偵モンク」)ですが、シリーズの終了が決定しました。発表から少し時間が経過していますが…モンクさんとお別れしなくてはいけないのですね。
打ち切りにならなかっただけ良かったと思うようにしています。最後はトゥルーディの事件でしょうかね? モンクが唯一解決できていないこの事件を解かずに物語の幕を下ろすコトは考えられません。現にもう既にかなりのピースは揃ってきていますから。


The Monk is Dead


コチラは向こうの記事ですが、なかなか過激なタイトルを付けるものです。
「ええ! モンクさん殉職するの!?」 ドキッとしましたので、頑張って記事を読んでみたら、何のコトはない。これまでの概要とか素晴らしい功績とかを讃えているだけ。でもねぇ、最後に以下のような素朴な一文を寄せているのは、何と言いましょうか、英語だから違和感なく書けるのでしょうか。
「So farewell, Mr. Monk, we’ll miss you.」
自然な感じで訳せば、お別れだね、モンクさん、アナタのコトは忘れないよ。とでもなるでしょうか。・・・なんだ、コレは。死んだみたいじゃないか。まさに記事のタイトルだ。

It truly is a jungle out there in TV-land, but you survived it, and made us laugh while doing it.
Thank you for giving us eight wonderful years.

一行目の「you」について、私は思い切ってソレをモンクだけではなく警部やディッシャーやナタリーやクローガー先生や、そしてシャローナを指すモノと解釈したい。文中の「jungle out there」というのは、ランディー・ニューマンが歌うこの番組の主題歌「It's a Jungle Out There」と掛け合わせています。この曲は1分にも満たない短いものなのですが、モンクさんと重なり合う歌詞が良いのです。歌は次のような一節から始まります。


It's a jungle out there
Disorder and confusion everywhere
No one seems to care
Well I do


[都合のイイ訳:アッチはもうグチャグチャだ/どこに行っても無秩序と混乱/誰も気を払わないけど/私は気にする]
エイドリアン・モンクにピッタリな歌詞ではないかしらん。(ちなみにコチラで曲が聴けて、mp3も入手できます。)


「the final season promises to be a memorable one for all Monk fans.」──公式サイトに記されたこの誓いを私は絶対に忘れないからな! 勝手に期待しています。しかし、待て。日本ではまず来春の第7シリーズだ。「memorable one」への配慮はそれからでも遅くない。

2008年11月22日

2008年11月22日 悪い悪いカップルについての話

先日の産經新聞に「大麻はタバコと同様に有害」という変なタイトルの記事が登場していました。一見すると、大麻が有害なのは当たり前じゃないか、と思われるかもしれませんが、真実はこうです。すなわち、タバコも大麻もソレが持つ有毒さ加減は「同様」であって、どちらがより悪いモノであるとは一概に言えない。タバコは大麻と同じくらいの有毒物で、大麻はタバコと同じくらいの有毒物である、と、こういうワケです。すると、なーんだ、大麻ってタバコと同程度の害しかないんだーと思うモノもいれば、ええ! タバコって大麻と同じくらい有毒物なの!?と思うモノもいるでしょう。上掲の記事にはこのようなコトが書かれています。ちょっと長目に引用してみましょう。


ともあれ、大麻を巡る、特に若者たちの関心の背景として指摘できるのは、近年欧米でどんどん大麻解禁への動きが加速していることである。(中略)アメリカではアラスカ、オレゴン、カリフォルニア、ネバダ、ニューヨークなど12の州で、医療用の大麻が解禁されていて、しかも大麻の個人使用が犯罪にはほぼならないという状況にある(データは『大麻大百科』、大麻研究会著、株式会社データハウスによる)。


こうした続々の解禁。それは1995年にイギリスの医学雑誌『ランセット』に発表された、30年にわたる調査で、大麻を長期使用しても健康に問題はないとの見解が示されたことが一番大きいだろう。『ランセット』は、『ネイチャー』に匹敵するくらい格式の高い医学雑誌である。(中略)その後、大麻には依存性があることがわかってきた。使用経験者の9%が依存症に陥っていて、アルコールの場合の15%、タバコの場合の32%ほどではないものの弊害がある。
そしてもっと悪いことに、大麻のタールにはタバコと同じ発がん物質、ベンツピレンやベンズアントラセンが含まれている。(リンク:【正論】動物行動学研究家・竹内久美子 大麻はタバコと同様に有害


まとめます。
近年、外国では大麻が解禁され出した。ソレはさほど大きな有害性のないコトが判明したからであるが、しかしながら、その後に大麻の依存性が報告される様になった(「使用経験者の9%が依存症に陥っていて、アルコールの場合の15%、タバコの場合の32%ほどではないものの弊害がある」)。おまけに「大麻のタールにはタバコと同じ発がん物質、ベンツピレンやベンズアントラセンが含まれている」のであった。


私は薬物の専門家ではありませんので、この記事に記されている内容に如何ほどの信憑性、妥当性があるかについての断定は下せません。仮に、この記事が真っ当なモノであったとして、という前提の上でハナシを進めますが、大胆に言ってしまえば、タバコも大麻も同じくらい良くない、もしくは同じくらいしか害がないのです。大麻で逮捕されるならタバコでも逮捕されるべきだし、タバコが逮捕されないなら大麻でも逮捕されるべきではない、とこういうコトすら言えちゃうワケなのです。ソレは大麻をムチャクチャに濫用して気狂いになったヤツは、ソコらのヘビースモーカーよりも危険な存在かもしれませんが、斯様なコトは例外として一旦置いといて、ココでは一般論とでもいうべきモノを扱いたいのです。
現実的なハナシ、タバコと大麻の有害性が同一程度のモノであったとして、それではナゼ大麻だけが違法で、タバコは合法なのか。コレが最も厄介な問題かもしれません。純粋にその有毒さだけで合法/違法の規準を定めるのであれば、両方を合法化するか違法化するかしなければならない。じゃないとワケが分からなくなる。というか、現にちょっと分からなくなりかけています。──今更、タバコを違法化するなどというのは狂気の沙汰で、レーニンやスターリンの如き独裁者でもない限り実現不可能です。となると、最も穏健かつ妥当な判断として、大麻も合法化しちゃえ! ソレがイイ。だってタバコと同じくらいしか悪くないのですから。さすがにこの程度のモノで逮捕していたらキリがなくなる。お金もムダになります。
単に従来の大麻に対するイメージが偏向的であったために(またはタバコに対するイメージについて鈍感であったために)、こんなコトを申しますと変な風に見られるのかも分かりませんが、純粋に有害/無害の観点に立つ限り、大麻もタバコも同程度に有害なんだから、扱い方は同様にしなければいけません。


喫煙者は大麻常習者と同様に有害で、大麻常習者は喫煙者と同様に有害である。──一面的に見れば、という註釈付きであれば、たったコレだけのコトなのです。
有害なモノに対する処分方法は同じにしておかないと、一方の有害物を放し飼いにしておいて、他方を鉄鎖に繋ぐというのではあまりにもオカシイ。尤も、仕事中や運転中に一服するのと大麻を軽くヤっちゃうのでは、意識に及ぼす影響が多少なりとも違うでしょうから、その辺については何らかの考慮をしないといけないのかもしれません。…となると、コレは飲酒と同じような見地からの検討をも求められる必要がありそうです。そして言うまでもなく、お酒も一定の条件さえ満たせば合法です。


でも、改めて申すまでもありませんが、タバコにも大麻にも興味がないヒトであれば、こんなコトはどーでもいーのだ。私はただ上に載せた或る一文のためだけに今回の文書を綴りました。すなわち、私は以下のコトだけを言いたかった。
「喫煙者は大麻常習者と同様に有害で、大麻常習者は喫煙者と同様に有害である。」

2008年11月17日

2008年11月17日 出産はSMである

分娩室の写真を見るだけで怖くなるのです。
ただし、ソレは現在の私にとってまったく関係のないコトですが。いえ、正確に申しますと、我が身としては生涯直接の関係を持たない出産という行為が、間接的にではあれ、ソレはソレはとても怖いのです。以下のサイトを御覧になると良い。


分娩室をのぞいてみよう


「病院の一般的分娩室」という欄の「3」と「6」に注目されたい。こんな説明があります。


3.足ひも(足がバタつかないように縛る皮ひも)
6.無影灯(手術室で使うような、照らしたときに影が出ないように工夫された、めちゃめちゃ明るくてまぶしい照明)


コレは完全にSMの世界ではありませんか!? こんなモノ、多少なりともSっ気であるとかMっ気であるとか、そうした趣向のあるモノにとっては間違いなく「プレイ」の次元です。しかも、ソコには陣痛で苦しんでいるヤツがいる。ヒーヒー言っとるんです。ロウも垂らされてないのに、です。彼女はご主人様とその助手(医者と看護士)から「ラマーズ法」などというイヤらしい呼吸法を命令されてスースーハー、スースーハー...... 縛られて、無影灯なる強烈に卑猥なライトで陰部を照らされて、スースーハー、スースーハー...... オラオラ、もっと頑張れよ、と命令するご主人様とその助手。スースーハー、スースーハー......
聞くトコロによると、赤ん坊と一緒に妙なモノが出てはいけないからなどと理由付けして、事前に浣腸もするらしいではありませんか・・・ おまけに剃毛といった処置すら施されるという驚愕すべき実態!──コレをSMといわずして何というのでしょう!


嗚呼、ソコは尋常ならぬほどに怖い場所。
最近は立ち会うダンナが多いそうです。いうまでもなく、男は彼女の苦痛を直に我が身へと引き受けるコトができません。となると、彼女を心配しているにしても、ココロのなかには多少の余裕がある場合だって否定するワケにはいきますまい。すなわち、私が言いたいのはこういうコトなのです。眼前にて契りを交わした女性が浣腸をされてみたり毛を剃られてみたり、はたまた縛られてみたり陰部を強烈なライトで曝されてみたり、あるいは呼吸法を命令されてみたり…… そうした光景を目にしたとき、もしもMっ気のある夫ならば、何らかの興奮の感情が心中を去来し、またはSっ気のある夫ならば、何かイタズラをしてみたいと思うサディストの本能が顔を覗かせてみたり……
コレは恐ろしいコトなのです。おそらく当ブログ始まって以来、最も恐ろしいコトを記しています。私はもはやどうして良いのか分かりません。考えたくもない。この記憶、キレイサッパリ消されておくれ。神様……


そこで男を二分すれば、私はどうなるか? どちらに属すか?──分かり辛いので単刀直入に言いましょう。SかMかという問題。私は間違いなく後者だ。こんなコト、明日世界が終わるとしても考えたくないのですが、もしも出産に立ち会わねばならなくなったとすれば、私は、背中に「M」の十字架を背負って生まれてきた私は、果たしていかなる風体でソコにいれば良いというのでしょうか? 興奮するのか、俺は? それとも自分もこんな風にされてみたいと・・・
ココまで想像して、私はふと背筋が凍る思いに支配された。も、もしかして、私の母親もそんなコトを・・・・


ぐわぁあああああああぁぁぁあああああああ!!!!
世界の終わりですぅぅぅううぅ!!! thee michelle gun elephantはこのコトを歌っていたのかもしれない。World's End Girlfriendというのは、多分出産する女のコトだ。
くそぅ!松嶋菜々子くらいで想像を止めておくべきだった。無駄な想像はヒトを死の淵へと追いやる。

2008年11月13日

2008年11月13日 ラブレター講座

理想的なラブレターの書き方を教えます。以下に示すのは例文です。コレを参考にすれば、きっとアノヒトのハートを射止められます。ただし例外はありますので、個人的な苦情には応じかねます。「自己責任」という言葉は便利なものです。


例文
「※これはラブレターです。悪フザケではありません。
僕(私)は○○さんのことが一番好きです。クラスメートを消去法で選んでいった結果、○○さんが一番素敵な人だと思う様になりました。僕(私)は○○さんの恋人です。僕(私)はそう思っています。だから○○さんもそう思った方が無難だと思います。
毎日○○さんの机を雑巾で拭いているのは僕(私)です。いつもキレイでしょ?
先日○○さんが風邪で学校を休んだとき、○○さんの家のポストにその日の給食で出た麻婆豆腐がナイロン袋に入れて置かれてあったと思います。美味しく食べましたか?
○○さんが先生に怒られて泣いた後、先生の車のサイドミラーを壊しておいたのは僕(私)です。
○○さんのお父さんが勤める会社が倒産したとき、クラスメートに「○○の父さんの会社倒産って言うなよ! 絶対言うなよ!」と注意して回ったのも僕です。
僕(私)は○○さんのためなら闘います。○○さんを傷付けるヤツは絶対に許しません。先月、○○さんの家にいるペットの猫が、○○さんを指に噛み付いたのも僕(私)は知っています。その猫は僕(私)が始末しておきました。
改めて○○さんを見ると、毛の無いワニのような顔をしていますが、その点は我慢します。


ということで、なんだかんだありまして、○○さんが好きです。
返事待ってます。返事は以下の口座に3万円を振り込むだけで十分です。


△△銀行
・□□支店
・ 店番号: 988
・普通預金: 0009911
・口座名: ×××× ××××

2008年11月10日

2008年11月10日 秋の一日

寒い寒い、と思う様になったので不思議に感じていました。寒さとは相性が良いタチですが。原因はどうやら部屋の中で依然としてTシャツ姿の我が不逞の身なりにある様です。今日になって漸く扇風機を片付けました。本日の最高気温は15℃です。風は吹きません。風邪はひくかもしれません。今こそ日本男児たる我ら青少年一同は、乾坤一擲、人心を帰一し、以て寒冷前線を追い払おうではありませんか!
秋晴れのなか、浪曲を口ずさみながらの部屋掃除とは、なかなかに哀愁ある午後ではありませんか。誰がそんなコトをするのかは知りません。外からは相変わらずの音が響いて参ります。子供たちの遊ぶ声、トラックのエンジン音、重機の騒音、鳥の鳴き声、馬の蹄の音、戦闘機の爆撃音、審判のホイッスル、百姓一揆に向かう農民たちの世間話、大声でFIELD OF VIEWを歌う中学生たち、チマチョゴリを着てサンマを焼く怪しげな女とその娘の囁き声・・・
誠に日本の秋は情緒豊かで、官能に満ちています。ティッシュが何枚あっても足りそうにないとはこのようなコトを言うのでしょう。さて、友人の五兵衛が鍬を持って我が家を訪れたので、私もちょこっと鋤でも担いで代官所へ突入して来よう思います。

2008年11月08日

2008年11月08日 好きな声(後悔先立たず)

さて、前回の終わりに「私の好きな声」について書くなどと予告してしまったばっかりに、私は何かを書かなければいけなくなりました。元々はただの思いつきだったのです。正に寝耳に水です。言うなれば、或る映画監督が「次回作はラブ・ロマンスを撮るよ。それもとびきり濃厚なベッドシーンがあるヤツをね。」と予告、翌年キャストもスタッフも決定し、さぁコレからクランクインだというタイミングで、監督が「やぁスマンスマン。実は脚本がまだ出来ていないんだ。っていうか、一字一句として書けてないんだ。そもそも書く気なんてないんだ。だから仕方無いんで、キミら、今からベッドの上でソレっぽいコトをやってくれ。じゃないと、ギャラは出さんよ。」と言う様なモノです。
……監督怖いんで何かやります。何か書きます。ソレっぽいコトを。


「好きな声」とはそも何モノか。私にとってソレは中学時の同級生であるヒノ君の声であって、彼の様な声が理想だ、と宣言しても、残念ながら誰も分からないので困ります。すると、ココで飛び出し気味に「声といえば声優じゃないか」という天の声。おお、ナルホド! さもありなん。…が、私は声優に詳しくない。じゃあ、声を語る資格なんてないや。ハイ、終わり。


と、この時点で終わるコトができればどれだけ幸せなコトか。だが、ソレは先の映画の件でいうと、主演の女優が「私、処女なんです。だからムリです。そんな卑猥なコト…」と拒否するに等しい。そんなコトは許されません。暴挙です。処女膜破れてしまえ! どういう映画かは分かっていたはずでしょう。大まかな予告だけはされていたのですから。──不幸にも、私とて大まかな予告をしてしまった以上、具体的な何かを書かなければなりません。困ります。朝、自宅を出る直前にお腹が痛くなってきたときと同じくらい困ります。


それではハッキリと──どういう声が好きか。二つあります。一つ目は「スクールウォーズ」に出てきた“イソップ”君の様な捉えどころのない、ちょっとだけ高い音でフワフワとした中性的な声。上述のヒノ君はこの部類に属します。二つ目は抑揚の効いた程よい低音が響き渡る誠に紳士的な声。コッチは専ら男性に限定されます。具体的な例でいうと、アメリカの野球選手、ニューヨーク・ヤンキースのキャプテン、デレク・ジーター(が坦々と喋っているときの声)に象徴される様な、渋みのあるムーディーな声です。私の知っている限りのスポーツ選手のなかでは、彼が最もダンディな声の持ち主であるといえます。こういったタイプの声を探そうと思えば、ソウルミュージックの界隈を探索すれば良いんです。わんさかと見つかるでしょう。にも関わらず、ココであえてジーターを持ち出したのは、彼が声で勝負する仕事をしていないという事実、それでいてズバ抜けて渋い声を持っているが故です。(その分、髪型に関しては、遠くから杉苔を眺めたときのようなスタイルですけれど…)


ああ! あと、全然関係無いけど、歌手のYUKIサンの声も好きです。元JUDY AND MARYの。(友達で彼女みたいなのがいると、コッチが神経衰弱になりそうですけれど、)歌手としては素晴らしい声に恵まれた結構なお方だと思います。ソロになってからの歌い方の方が、私好みの声に響いているような気がするのですが。(声だけで選んだ場合、)オススメは「ハミングバード」って曲で、シングルでも出てたと思います。ああ、そういえば「ティンカーベル」って曲のサビ部分の声も良かった様な覚えがあります。加えて「JOY」とかいう曲も多分良かった。イヤイヤ、曲単発ではなく「JOY」ってアルバム全体で良い声だった。ビューティフルじゃなくてキュート。プリティじゃなくてキュート。そんな声。


というワケで、次は「dl-マレイン酸クロルフェニラミン」と「d-マレイン酸クロルフェニラミン」の関係について書きます。「狼少年」ってタイトルで。

2008年11月06日

2008年11月06日 続かない物語

昨日は実に曖昧な内容の文章を記したものだと思います。自分のコトながらほとほと困惑致します。力はヒトを解放し、挙げ句彼を傲慢にする。ソレを抑止するための美──様式美、美徳、美意識…ソコに何かしらの期待を寄せてみたいと思ったまでです。エドマンド・バークの言葉が遠方から響いてくる思いです。


それにしても、知恵も美徳も欠いた自由とはそも何ものでしょう。それはおよそあり得るすべての害悪中でも最大のものです。


自由と抑制というこの対立する要素を調合して一つの首尾一貫した作品にするためには、多くの思考と、深い省察と、賢明で力に溢れ総合力ある精神とを必要とします。


『蟹工船』今日は午前中に小林多喜二の『蟹工船』を読んでいました。130〜40ページの小説なので意外とすんなり読めます。最近、この本がよく売れて、共産党シンパも増大しているようです。……が、私からは何も申し上げるコトがございません。
『蟹工船』を読んで、思わず笑ってしまいました。純粋なんですねぇ。非常に純粋。換言しますと、彼らは甘っちょろい。所謂「ブルジョワジー」に対してあと一歩、あと一手がない。ソレは彼らの置かれる立場上やむを得ないモノなのかもしれませんが、はからずもソコに戦前の共産主義運動が全くもって大した成果を上げられなかった要因が顔を覗かせているようにも思えます。(ソレを象徴しているのが新潮文庫などでは一緒に所収されている「党生活者」です。コッチはもっと傑作のお笑い話。)然るに作者の小林多喜二は、ご都合主義的にこの物語を一応の成功でもって終わらせているのですから、コレがなおさら厄介なのです。俺たちは狡猾なブルジョワの搾取に対して、一致団結して闘争するぞ! その心意気は誠に結構です。でも、こうした“立派な”彼らの意志も所詮創作物語の次元に止まっていて、現実との乖離を露呈しています。この小説に描かれているような人々の言動(及びソレを裏で支える背景をも加味して)が、強力なブルジョワ勢力を前にして果たしてどこまでの結果を与えてくれるか。楽観論ではなく現実主義的に考察してみた方が良い。(しかもコレを思い切って現状と重ね合わせてみるならばなおのこと…) あくまでも小説ですので、こういうコトをいうのはオカシイのかもしれませんが、コレ(『蟹工船』)はもはやただの砂上楼閣に過ぎないといえる。外見はソコソコ取り繕った風な体裁ですが、中に入ろうと扉に手をかけてみると忽ちにして瓦解してしまう。ソ連を楽園のように描いているシーンがあるのも、今となっては砂上楼閣の一端を形成するものであるといえましょうか。
共産主義運動の先には何があるか。──小林多喜二はこの点に関して何かしらの明確なイメージを持てていたのでしょうか。彼の想像力に対しては些か疑問符が付きます。もしかすると彼がこの物語の最終的結末を「附記」としてしか記さなかったのは、その「先」についてのイメージを形成するコトができなかったからではないのか? コレは私の素朴な疑いです。確かにココでは彼らの「サボ」が成功し、監督に対する抵抗は一応の成果を上げます。しかしながら、ソレをもって「プロレタリアート」の勝利だなどというには、あまりにも楽観的過ぎというものです。極小的な事象を極大的なモノへと拡大していく、そうした共産主義運動(殊に日本におけるソレ)がもたらす具体的かつ善良なる未来というモノを、小林は実体化できなかった。それ故、彼はご都合主義的に「附記」という形式でポジティブな未来を示唆するコトでしか幕を閉じられなかったのではないか。尤も小林が如何なる具象を提示しようとも、今となっては共産主義という制度がもたらした事実によって、ソレらは全て反証される可能性がありますが…
『蟹工船』は、──いや、作者の小林多喜二からして、ソレは八方塞がりの賜物であるといえるかもしれません。ココには如何なる光も射し込みません。共産主義運動の限界を披瀝したという点では、この物語、殊にその結末の書き方ほど微笑ましいモノはないでしょう。ただしソレ以上でもソレ以下でもない貧相な小説。
この本が売れるのは、或いは現在の人々の間に立ち籠める八方塞がりの状況を暗示しているのかもしれません。そしてソコに何らかの意義、論点があるとしても、ココで一つだけ明確にしておきたいコト、ソレはコノ物語が何ら具体的かつ光栄ある未来に対する一助とはならない、という点に尽きると思います。

2008年11月01日

2008年11月01日 (無題)

結納したいよぉ

2008年10月27日

2008年10月27日 イメージを

前回アホなコトを記し上げてしまったばかりに風邪気味に陥る。
日経平均とともに体調も下降気味なのでした。
日々精進します。精進、精進、消尽・・・

2008年10月23日

2008年10月23日 「人権イデオロギスト」への勘繰り

愈々「相棒」が始まった。昨日の二時間は、二時間では物足りぬくらいの内容であった。──「特命が引っ張ってきたから確度は高いかと」ってセリフにはやられた──
このドラマが開始されると、最早秋であったり冬であったり春であったり、斯かる多様な季節感の包含。それにしても、改めていうまでもなく、何時の間にか、登場人物の多様なコト豊富なコト。映画のヒットもありまして、「大人気ドラマ」の感も否応無く発揮しているのですが、何年か前までは結構地味な雰囲気で放送されていたはず… それが今や一大刑事ドラマ!
ま、そーゆーコトもあろー


ところで、
本日の産經新聞「断」のコーナーに呉智英氏が立派なコラムを執筆されておられる。


職業に「貴賤」あり


職業には好まれる職業と嫌悪される職業がある。とすれば究極的には「職業に貴賤あり」を認めなければならない。この厳然たる事実から目をそむけて良識というイデオロギーが成立している(左右ともに同じ)。「紙の爆弾」(という雑誌があるんです)十一月号で、ルポライターの深笛義也がエロを蔑むエロ業界人を批判している。エロを蔑むエロ業界人のどこがいかんのか、私には理解できない。深笛やその御眷属は、職業に貴賤はなく、むしろ最下層の職業ほど本当は高貴だとする最悪の人権イデオロギストである。


慰安婦が、強制によるにしろ自由意思によるにしろ、救済・支援の対象になるのは、それが最下層の職業だからだ。軍医が、強制による(ないだろうが)にしろ自由意思によるにしろ、救済・支援の対象にならないのは、医者という憧れの最上層の職業だからだ。


後段の一文に対しては、或いは反発があるかもしれぬが、前段については全く以て同意せざるを得ないのでして、むしろこのような当たり前のコトが書かれねばならぬってその事情が奇怪ではないか。ねじ曲がっているのか、“自称”善意のヒューマニストが。果たして呉氏の述べる「人権イデオロギスト」なるモノの跳梁跋扈が如何ほどであるかは存じ上げませんが、仮に(“窮極的”なトコロの)「職業の貴賤」を否定するような連中が存しておるのでしたら、ソレはソレは誠に偽善者という他なく、斯かる見識を保持する輩こそ正に「賤」の立場にある。


コレをバークのいう「(理性折り込み済みの)偏見」と合わせて考えるコトも無理ではない。極端なハナシ、全ての職業が同一地平に置かれるべきだ、平等に扱われるべきだというのならば、待遇の芳しくない肉体労働者は絶対的に改善されねばならぬでしょう。いや、他方で、例えば能書きを垂れて下らぬ論文しか執筆できぬ其処等の大学教授こそ、殊に給料泥棒というべきでして、彼らなぞは月収が二〇万前後に抑えられて当然である。ソレがなされぬのはなぜか。明らかに愚劣な教授でも(イメージの世界で)「貴」の身分に祀り上げられるのはどうしてか。ココに「偏見」が備わる。「偏見」があるからこそ愚劣な教授がのさばる一方で、有能な若い人々が常にその座を追撃す。畢竟こうした事情が職業選択の自由へと結びつき、ソコに競争が発生し、私や彼や貴方や「人権イデオロギスト」の中から何モノかが淘汰される事態へと向かい、而してソレが自由主義経済を根底で維持しておるコトの明証。今日の社会にあっては「偏見」に由来する(“窮極的”もしくは“根源的”な部分における)「職業の貴賤」の意識が存在しているがために、各自に自由な活動が保障される、そしてソレがどこかで発展へと至り、または一定の秩序・性質を保つ。「偏見」なき平等社会(斯様なモノは元来存在し得ないが)では、すべて停滞致しますのです。仮令「職業の貴賤」などはあり得なく、全てが対等なのだと放言致せば、ソレは(極言すると)社会主義への急接近を明らかにしていらっしゃる。「人権イデオロギスト」なるモノがおられるのでしたなら、彼はもしかすると実体不明の「格差」に対する怨嗟の故に、全てを均一にし、各職業が有する機能を相対化し、挙げ句無に帰し、各人の生活が計画的に誘導されるが如き<強制の下におけるユートピア(=社会主義)>を理想として奉戴されているのではないか、などと勘繰らざるを得ないんでした。ソコではもうモラルもマナーも関係ねぇ。全員高貴なんです。ってコトは全員粗野だってコトでもある。皆が金持ちだってのは、その世界では皆がビンボーなんですから。そういう社会は、嗚呼、実に素晴らしいんだと思いたいのでした。

2008年10月21日

2008年10月21日 御伽の背景を楽しむ

「雪男の足跡発見」 ネパールで日本捜索隊


 21日付のインド紙タイムズ・オブ・インディアは、日本人登山家らで構成する捜索隊が、ヒマラヤにいるとされる雪男(イエティ)の足跡をネパール・ダウラギリ山群で発見、写真撮影に成功したと報じた。(中略)足跡はクマやサル、シカなどの動物の形状と異なる上、標高4000メートルまで登ってくることはないことなどを根拠に、「足跡はイエティのものと確信を持っている」(高橋氏)という。


な、なんだってぇぇぇえええええ!!!!


と、まぁ、驚いたフリを致したワケなのでございました。然るに当方は斯様な話題を大いに好む傾向にあり。而して通常はこうしたモノを「バカげていらぁ」と一蹴するコトは誠に容易でありますが、しかしながら、コレを受容するコトは甚だしく困難を極める。「未確認生物」と申すモノは、よくよく思慮してみるに、あくまでも「確認」されておらぬだけですから、万が一として、確かに存在しておりますかもしれぬ。が、他方で全くのデマ、ウソ、狂気の沙汰のでっちあげの可能性も濃厚。──ソレなら後者に賭けちまえってなのが現代の風潮であるのなら、私は・・・韮澤サンの方を見ても良い気がする。言ってみれば、斯かるモノの当否を巡りて闘わされる議論なんてのも、コレは一種の「遊び」でありまして、昔はそのような習わしが無数に存したのです。この点に関してはヨハン・ホイジンガが周知の如く、かの名著『ホモ・ルーデンス』において展開しているコトでもある。一九世紀以降、科学、工業、経済的因子の重要視、合理主義等への偏重によって、我々の生活から「遊び」が駆逐されてしまっておる、まったく以てくだらねー世界だな、チクショー!とホイジンガは内心思っていた(はず)のでして、私からすれば、実際にこうした「イエティ」なる存在は明確に確認されなくても宜しい、と思うのでした。重要なのは、人々が未知の存在に如何にロマンや希望、夢、大志を感じられるかではございますまいか。自己を超越したモノ、人知の及ばぬモノへの敬意……科学が嘲笑するそのようなモノへの眼差しがあれば、多少は心持ちも異なってくるであろうに… なんて思わずにはおれん。


例えば、桃太郎にしても「ガキが桃から生まれるなんてバカバカしいにも程があるぜぇ」なんて斥けてはいけない、と私は思っているのだけれども…
むしろそのような物語が世に蔓延った背景にこそ興味深い点が存するのです。現に、手っ取り早くamazonにおいて和書の「人文・思想」ジャンルで「桃太郎」を検索してみれば、その存在をテーマとした研究書が数多散見されるではないか! 私も軽く触れてみたことがあるのですが、どうやら「桃太郎」というお伽噺を創作した連中からすれば、彼を桃から生まれる設定にしたのも、鬼退治へ向かわしめたのも、全て必然的な理由がある。一見「バカバカしい」と想定されるコトにも、何らかの意図が仮託されております。ソコを探るのが楽しいちゃあ楽しいワケであろう。
一例をあげれば、「桃太郎」とは権力者の象徴であって、鬼とは無垢な民衆の象徴だったんだ!とする研究が幾つか披瀝されている(こうしたテーマに関する小論が屢々學燈社の雑誌『國文學』に掲載されております)。要するにコレは、正義面した桃太郎たる権力者が、(鬼とされた)哀れな民衆を制圧するために侵入してきたってコトを、(権力者側が正当化する為に)鬼退治になぞらえて語りあげたのが桃太郎の母体でありまっせ、という一見解なのでした。ココには民衆の側に立った権力者敵視の思想が展開されていますが、戦時中に桃太郎と権力者及びメディアの間に密接な関係が取り結ばれたコトなども考察致せば、この解釈も一概にはバカにできない。桃太郎はそのヒーロー像が結構都合良く利用されていらっしゃる。
私としては桃太郎に奇妙さを感ずるのは、村人を虐める鬼をやっつけるために鬼退治へと出たは良いものの、なぜ「金銀財宝」を持参して帰還するのかって点。鬼どもが村人から「金銀財宝」を奪取するハズがない。というより、村人は斯様なお宝を所持しておらん。となれば、桃太郎が持ち帰った「金銀財宝」は誰のモノであるか!? 鬼共から取り返したなんて説明は成立不可能である。 いやはや、まったく解せませぬ。 たった一つだけハッキリしておりますコト、ソレすなわち、桃太郎は火事場泥棒的性格の持ち主であって、必ずしも正義の味方などではないという事実。むしろ敗者に対する情け容赦のない、日本男児の理想を全面的に裏切る残念なヤツだ。あと、ソコに加えるならば、鬼と格闘する際にあっても、実際、犬・猿・雉に負う所大なる故に、この男、実は愚人である、ヘタレである。決してヒーローではございません。むしろお笑い的要素の方がふんだんに盛られているのですから、今日に伝わっておるが如きストーリー展開の桃太郎は色々と破綻している、と指摘するコトができます。おそらく初期の桃太郎はもう少しマトモなハナシだったのであろうが、時間を経る毎に、噂話によくありますのと同様、尾ひれがつき、翼が生え、牙が出てきて、異様な姿形──原型とは異なったモノへと化したのでしょう。その変遷過程にロマンや希望、夢、大志を感じられれば、(今日の)桃太郎みたいなダメ人間を相手にするハナシも大いに愉快になり得る。
また、現代の権力者もしくはメディアにあっては、もう今更桃太郎の威を借るコト能わず、そのストーリーを再構築せねばならぬ。今度は赤ちゃんポストから生まれた男が、スイーツを持参して、ミニチュアダックスフンド・コモンマーモセット・サンショクキムネオオハシを率いて六本木ヒルズに攻め込むって設定にでもしますか?

2008年10月11日

2008年10月11日 間断期

内外に多忙を極める時期になって参りましたので、引きこもりの努力で以て力戦奮闘致さねばならぬ由、何人たりともに期待されぬ当ブログも十一月上旬くらいまでは滞りがちになるであろう…というよりも、滞らせるくらいの気概で放置。


福田恆存「傳統にたいする心構」は非常に良い評論だと思う。
ソレは是非とも書いて置きたかった。

2008年10月08日

2008年10月08日 仁王立ちする悪魔

中高生に1箱千円が効果的=禁煙分岐点、「大人より高い」−9万人調査・厚労省


たばこを吸う中学生、高校生を禁煙させるには、1箱1000円以上にすることが効果的との研究結果を、厚生労働省研究班(主任研究者・大井田隆日大医学部教授)が8日公表した。同教授は「分岐点の価格が大人より高い可能性がある。未成年者の喫煙率をゼロにするため、思い切った値上げが必要」としている。


タバコに関わるモノは、一切が悉く気狂いと化してしまうようであります。彼らは値段の問題として、愚かなる経済的視点から効用を明らかにするといった精神的荒廃を見せるに至った。世の中資本次第で如何様にでもなるといわんばかりの、ある種の極限にまで達した合理主義的思考!
私はタバコを心底嫌悪するモノですが、極端に急激な値上げには反対をしておるのでした。ソレは低劣な喫煙者を庇ってのものでは毛頭無く、そうした人為的な価格統制が及ぼす諸種の悪影響を思ってのコトであり、タバコに関わらず如何なる商品であっても、原材料の不足とかといった事態とは無関係の事実に由来して、突発的に価格を操作するのは芳しくないって心理的背景。上げるなら漸進的に。


それで…… 空虚な糞餓鬼の喫煙問題について、お金の次元で解決を図ろうとするが如き事態に至っては、もはや一つの末期的症状を呈しているとしか言いようがなく、おそらく彼らは裕福な中高校生の喫煙に対しては、経済学的な視点から容認するかもしれん。──何でも価格及び市場の操作によって解決ですか! そもそも「未成年者の喫煙率をゼロにするため」、「1箱1000円以上にすることが効果的」との見解は意味不明でございましょう。一箱千円にするコトで中高生の喫煙率が「ゼロ」になると想定する御目出度い発想には脱帽せざるを得ないんだが、コレは我が国が憲法9条を護持してきたが故に、戦後六〇年の間、実に見事な平和が維持されて来ったと本気で捉える論者と表裏一体をなす脳天気な見識であります。9条が存しなければ、平和ももたらされぬのか。千円にしなければ、喫煙率はゼロにならぬのか。彼らは一様にその背後にある力や意志…斯かるモノへの配慮が欠けている。ソレは徹頭徹尾他人任せな視点でして、言うなれば、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」との中学生の作文レベルの代物と一歩も変わるトコロのない決意表明だ。この場合、主体は己にあらず。
而して話を再度振り戻せば、連中は中高生の喫煙問題にしても、「もはや昨今のガキ共は言っても聞き入れるだけの能力がないから、経済的制裁でコントロールしてやれ!」との無機質な見解を放り投げるのみではないか。(これを逆転させた発想が現行憲法の前文であるコトは、猿でも解せる。「オレたちは強く信じてるから、アイツらも信じてくれるだろう」ってな根拠不在の良心に基づき、他国をまぁコントロール可能なものであろうと本気で思慮する無鉄砲さ!!) 畢竟するに、自らの意志でどうにかしてやろう!という次元に視点は置かれず、間接的なモノに依存しているだけなんだ。ソレが金銭的に独立しておらぬ中高生に対する「1000円」なる価格として現出するにしろ、他国の「公正と信義」として表明されるにしろ、いっさいは楽観的に決断されてゆく。


タバコに関していえば、安いから彼らは吸うのか。アンタら、立場的に「未成年であっても購入できるだけの金銭的余裕があれば、別に吸っても良いよ」とは言えないでしょ? にも関わらず価格の問題として処理しようという馬鹿げた見解を披瀝する厚労省の研究班。──民間の研究グループではないのだ! 平和が9条のおかげではなく、事実上米軍という一種の「強制機構」の存在に負うトコロが大きいのを覆い隠します9条神格化論者と、喫煙の問題を経済的な「強制措置」で解決可能なモノと看做す哀れなる研究者。恐るべきほどに崩れ去った一面生しか見ようとはせぬ人々よ、前者にあっては現実感が、後者にあっては公徳心もしくは遵法精神がまったく欠落しておる。まるでどこぞの論者が好き好んで主張致すように、「戦後民主主義的特徴」を兼ね備えたが如き雰囲気、彼らは二つで一つ。この両者を逆立ちさせて握手させれば、きっと素晴らしい景観が拝めるのだろうけど・・・

2008年10月07日

2008年10月07日 “元”日本人

ノーベル賞授賞理由 日本人3氏


南部陽一郎、小林誠、益川敏英3氏の授賞理由の要旨は次の通り。


南部氏は1960年という早い時期に「自発的対称性の破れ」という極めて有用な理論を提唱、素粒子物理学の基盤を形成した。この理論に基づき、これまでに、自然界に存在する4つの基本的な力のうち3つが1つの理論に統一された。


やはり気になるコトですので、わざわざココに記すのですが、南部氏はアメリカに帰化してまっせ。ってコトは「元日本人」で「現アメリカ人」と認識しなければならぬ。ラモスや曙や旭天鵬や三都主や闘莉王といったヒトたちを思い返せば宜しい。彼らは皆日本人だ! 国家間におけるルール上はそうでありましょう。


いやはや、南部氏を貶めようなどという大それて無礼な野心はございません。ただ、現在の国籍によって何人であるかを区別しないのであれば、コチャゴチャになってしまうではないか!と述べたき心境。日本に帰化しておらぬ凶悪な在日韓国人や在日中国人は、国籍が他国にある以上<日本人>ではない。その点については易々と受容するヒトが存したとして、然るに他国に帰化したモノまでをも「(現)日本人」であるかの如く扱うのでありましたならば、ソレは何たる捻れか。「日本人」なる響きのなかには、暗黙裡に「日本国籍所有者」との意味合いが伴っておる。斯様なコトは自明であるが故に、普段は誰も言いません。従って日本国籍を所持せぬモノを「日本人」と称するのは一種の誤解でありますから、これはいけない。どうしてもいけない。私は斯様な点については、結構厳格でありたい。だから、初め日本人であって他国へ帰化したヒトに対しては、言うなれば「日本出身者」とでもお呼びすべきで、「日本人」と呼ぶのには違和感がある。──「〜人」ってのは、あくまでも現時点の国籍の所在によって決まるモノだと思うんです。故に次のようなコトだって言える。すなわち、仮に祖父母が共に「元日本人」でありながら、双方イギリスに帰化しておったとする。そうすると彼らのお子様は必然的にイギリス籍を持つ「イギリス人」として扱われる。けれども外見は日本人っぽい。そしてそのお子様が後に結婚する運びとなり、お相手も自らと同様の境遇にある日系イギリス人。さすれば彼らのお子様も必然的に外見は日本人の如き様相を呈す。さて、そうしたとき、祖父母が「元日本人」のイギリス人であり、両親が「日系イギリス人」でありましたなら、三代目の彼に対して誰が「日本人」だといえるか。人種としては日本人のソレであるが、ルール上はイギリス人。…コレは凄まじい例なんですが、とにもかくにも「〜人」ってのは徹底して国籍に基づくってコト。レゲエをやってそうなヤバイ雰囲気のドレッドヘアの黒人がございまして、彼の国籍が日本であれば、そのモノを「ジャマイカ人」であるとは絶対的に言えないのでして、やはり「日本人」とせねばならない。ロシア生まれの世界的に有名な殺人鬼がおり、そのモノが日本国籍を所有していたのでしたら、コレを「日本人」の殺人鬼と看做さなければならない。この例を逆に申し上げれば、親子三代に渡って天才的な頭脳を持つ家系に生まれた在日の日系ドイツ人「シュミット・三郎」氏、彼は見事にノーベル賞を獲得した。が、氏には何と日本国籍が付与されていない!…となると、なかなかどうしてそのモノを「日本人」受賞者だと認定するワケにゃあいかねーぜ。そりゃドイツ人受賞者だ。参考記録だ。残念ながら。もしくは両親の外見が典型的なアングロ・サクソンでありながら国籍は日本、彼らの子が優秀な研究者となりアメリカの大学で活躍、ノーベル賞を受賞。彼がアメリカに帰国しておらねば、当然容姿など関係なく、日本人受賞者としてすんなり受け入れるべき。


・・・というハナシで、南部陽一郎、小林誠、益川敏英の三氏は誠に御目出度う御座居ます。二人の日本人と、日本出身のアメリカ人の方が「ノーベル物理学賞」を受賞されたという立派なニュースについて書かせて頂きました。


参考リンク1:2 Japanese, 1 American share Nobel physics prize
参考リンク2:US, Japanese researchers win Nobel Prize for Physics
参考リンク3:2 Japanese, American Share Nobel Physics Prize
参考リンク4:1 American, 2 Japanese Share Nobel Physics Prize

2008年10月06日

2008年10月06日 「社会的」の謎

ひるドラ「キッパリ!!」が打ち切られるらしい


10月5日まで放送してまいりました「キッパリ!!」の
出演者の一人が覚せい剤と大麻所持で逮捕されたことが判りました。
このため、社会的影響を考慮し「キッパリ!!」は、10月3日(金)放送分第25話で打ち切りいたします。


ココで気になるのは「社会的影響」とは何を指していらっしゃるのかが甚だ曖昧である点。この場合の「社会的」なる言葉の裏には果たして如何なる心理的、思想的、情緒的イメージが想定されておるのか。たった一人の出演者が逮捕されたコトと、このドラマの熱心なファンの意に反して突然打ち切りを決定致すことに、どのような「社会的」結びつきがあるのか…
すなわち、「社会的影響」などという意味不明な言葉を用いるからいけないのであって、「キッパリ!!」と「主要人物が逮捕されました。この人物を映さずに放送することはストーリー上無理がありますので、ココにやむを得なく放送中止とさせて頂きます。」とでも正直に書けば宜しい。冗長であっても、斯かる書き方の方がよほど素直です。「社会的影響」などという一語で以て誤魔化そうとするのは、酷い隠蔽体質の現れではあらぬか。「社会的影響」──ハイエクが『法と立法と自由』の第二巻において「社会的正義」なる言葉の曖昧さと卑猥さについて怒りを込めて言及していたのを思い出す。


しかしながら、考えようによってはこの五文字は使える!! 何かが生じれば「社会的影響」の名の下に幾らでも批難できるし、逆に弁護するコトも可能であろう。実体不明の抽象的な「社会」を盾にとるコトによって、<正義>はコチラ側に味方する。こんなに利便性のある言葉も珍しいってモンだ。

2008年10月05日

2008年10月05日 一分間勝負

今から一分で書けるトコロまで書く。1minutesでブログを更新し申し上げる。
ヨーイ、スタート!
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先日から肩や腕が痛かったので薬局へ行き「タイガーバーム」を購入致したのですが、コレはやはり凄まじく効力がある。臭いけど、臭過ぎるけど、もうほぼ完治。二日くらいで。


先日の木曜洋画劇場で放映された「セルラー」は何度見てもおか


────────────────
終わり。
コレだけしか綴れなかった。何という無内容な・・・

2008年09月27日

2008年09月27日 「ニコチン脳」

顔認証たばこ自販機:少年、顔しかめ購入−−喜多方


喜多方市内で今月中旬、たばこを持っていたとして喜多方署に補導された同市の無職の少年(17)が、顔認識機能付き自販機でたばこを購入したと話していることが26日、分かった。
県警少年課などによると、少年は顔をしかめるようにして機械に顔を認識させ、購入したとみられる。(中略)雑誌の顔写真などで購入できる場合もあり、同連合会も今月、問題点を指摘する意見書を財務省に提出したという。一重靖夫会長は「60歳の男性が丸刈りのため、子供と判断されて買えなかったという話を聞いた。顔認証機能の精度に疑問がある」と話した。


些かお粗末過ぎるではないか。「60歳の男性が丸刈りのため、子供と判断されて買えなかった」とは、何たる時代錯誤! 磯野カツオじゃあるまいし。タバコに関わるモノはロクなコトがない。もしや、この機械を開発致したモノもニコチン脳ではあらぬか!? (ニコチンに侵された輩の<愚>を表明したいと思い、適当に記した「ニコチン脳」ってなワード。ふと思い立ち検索してみれば──「 "ニコチン脳" の検索結果 約 21,600 件中 1 - 10 件目 (0.19 秒)」 同じような発想が溢れ返るインターネットに戦慄…)
然し乍ら、私は見てみたいのであった。ニコチン脳の餓鬼がタバコを購入するために気狂いの如くしかめっ面をしておる様態(醜態)を。いっそのコト、中に小柄なオッサン入りて、人為的に判別すれば芳しき哉。これで「ニコチン脳」の糞餓鬼・糞娘一発撃退だぜ!



「日教組は解体すべき」中山国交相、自らの進退「推移見守りたい」


怖いなー。不必要なモノを不必要だと発言致すと、クビが飛びかねない世の中なのである。ファシズムじゃないかしらん。言論統制ではないかしらん。
日教組は不必要。ついでに公明党も創価学会も不必要だし、当然社民党も共産党も不必要、「改革」しか言えぬ自民党の議員も不必要で、民主党の議員は大半が不必要、憲法九条も有名無実化した非核三原則も不必要であって、今となってはマルクスもルソーも丸山眞男も不必要、西部邁や中西輝政の如き中途半端な似非「保守系知識人」も不必要で、フェミニズムも、戦争か平和かの二元論も権力者と被治者の二元論も不必要、そうして「ニコチン脳」も不必要、愈々以てこのブログも俺も不必要。──世界はゴミ箱か!

2008年09月25日

2008年09月25日 警告

サンスクリット語しか分からないヒトには不親切なブログでどうも申し訳ございません。当ブログは日本語のみに対応致しております。その意味では排他的である。差別的である。恣意的である。それがどうした。日本だからな! 日本語を理解しろよ。それが最低条件だろ! 理解して下さい。

2008年09月22日

2008年09月22日 ごぉ〜るぅー

月〜金までBS2にて朝の八時から放送されておる「街道てくてく旅」が面白い。毎日見ている。今は四国方面に行っておられるのです。
画面を見ても何の懐かしさも沸き起こって来ぬが、四元サンの天然が見られる故、目覚めには宜しい。


「ごぉ〜るぅー」


四元サン、卓球のトレーニングの方は良いのだろうか。
…ま、いーや。DVDも出てるけど、正直ソコまでして見たい番組ではない。
朝の十五分ってのが抜群でございます。昼でも夜でも見ぬ。朝だからこそ見るのです。


オレの ごぉ〜るぅー は何処であろうか?


参考リンク:街道てくてく旅〜四国八十八か所を行く〜

2008年09月18日

2008年09月18日 階段、それは雨奇晴好

私は古き階段が好きなんです。殊に山頂に存するお寺、其所に向かうために設けられた古き階段を好ましく感ずる。其れを下から見上げる瞬間の何と趣きあることよ。けれども、階段なら何でも来いってなワケではない。良き階段には条件が備わる。ソレは以下の如し…


《良き階段の条件》
其の壱──横幅が確保されておるコト
其の弐──石で固められておるコト
其の参──段差が低くないコト
其の四──両脇に風情ある木々が茂っておるコト
其の五──最低でも五〇段以上あるコト
(其の六──石階段の場合、凹凸を極力抑えておるコト)


上記の五(または六)条件を全て満たさぬモノは概して悪しき階段と思って大過ない。ただし、京都の三年坂の如く景観で圧倒する緩やかな階段もございます。
理想の階段の具体例を一つ提示しますと、「円教寺 石階段」ってワードでGoogleイメージ検索を試みました場合、真っ先に出てくる画像(平成二〇年九月十八日現在)に見られるモノは、言わずもがなの<秀才階段>に他ならぬ。やや段差が低いのが残念であるけれども、これはこれで実に立派なものだ。
東大寺二月堂の階段も段差さえあれば見事なのだが、 あの階段はまずもって低過ぎる。従って地味。私が段差に拘るのは、段差の低き階段の存在意義を疑うからなのです。老人に配慮して低くしてあるのかもしれぬが、段差が無ければ階段的ではあらぬ。写真に収めました場合でも、「なんじゃこりゃ、これなら坂道にした方が良いのでは?」と思う。絶対的に思う。コレはもはや不可避なり。
私の知見の範囲にあって最も秀逸な階段は、室生寺のそれである。通称「鎧坂」の石階段。(「鎧坂 階段」で検索すれば感動できます、私の場合は。)
思い出ある良き階段は、香川は金比羅宮(通称「こんぴらさん」)のなかにある石階段で、此処は元来階段で有名な寺院ではございますが、老人向けに籠屋もいまして、全部で1368段あることが知られている。さて、ここは階段の良し悪しに著しい差異があって、つまらぬ階段も多いのだけれども、奥の院へと通ずる石階段のなかに、確か一箇所だけ風情ある見事な部分があったはずです。四国で育った縁もあり、三度か四度登っているのでしたが、最後に行ったのは中一くらいの頃であったろうか。十年ちょっとの月日が経過しておるから、記憶が薄れかけて来ている。しかしながら、確実に上記の条件全てを満たす場所があった。私の“階段メモリー”を遡っていった場合、最後には其所へと戻るんです。裏を返せば、其所から全てが始まっている。


階段の魅力は何かと問われれば、行人の意志を煽り立てる点にある。ムムム、この上に、この上に〜 といった或る気概を摘出する。幅が広ければ広いだけ志は大きくなり、長ければ長いほど根気を必要とす。ソコに何とも言えぬ面白味を覚えます。周りにある木々は、時に和やかさを、時に冷徹さを感じさせ、行人に行雲流水、栄枯転変を教授す。
階段は良い。シンデレラも階段が無ければどうなっていたことか。『東京の階段―都市の「異空間」階段の楽しみ方』なる本も出版されていらっしゃいますが、題名から察せられる通り、それは都市のなかの階段に「違和」を見て楽しむが如きモノであって、私の好みとは残念ながら逸れている。『お寺の石階段―いにしえよりの「虚静恬淡」の楽しみ方』ってな本が出版されるコトを切に願っているのです。

2008年09月17日

2008年09月17日 やっちまったなぁ!!

およそ一年ぶりくらいに『文藝春秋』を購入したのであった。
今月の分は実に芳しい、また微笑ましい。
中心は毎度お馴染みのメンバーで、結論ありきの「東京裁判」検証。…が、斯様なモノはどーでもいー。ありきたりにどこぞの宰相を攻撃したモノも掲載されてある。斯かるモノもどーでもいー。石油と食料危機に関する威勢の良い論者の見識も披瀝されておる。まぁ…… 白洲次郎を扱いました文章は少しだけ興味深かった。タモさんが赤塚不二夫との思い出を綴り上げたモノも載せられてあって、コレは読み易くて好印象。文章にも「タモリ」が出ておった。それで、最も惹き付けられましたのは、会田弘継というヒトの記した「漱石・ハイエク・江藤淳「こころ」の絆」って文章。内容は以下の如し。
日本文学研究者のエドウィン・マクレランは、ハイエクの下で博士論文を執筆したのですが、彼はその題材として夏目漱石を選択致したというのです(『漱石、ある日本の小説家──序説』ってなテーマであるとのコト)。しかしながら、当時(一九五七年)の欧米圏における漱石の認知度はほぼゼロに等しく、また、まともに英訳されたモノも存せぬという状態でありましたので、マクレランは感銘を受けた『こゝろ』を自ら単独で英訳し、其れをハイエクに見せたのである、との由。──そうして英訳された『こゝろ』に目を通したハイエクは、「激しく感動した」と述べたのだった。
筆者の会田氏は、ハイエクが『こゝろ』の如何なる点に感動を覚えたかを、彼の私生活の検討を通じて解説してゆく…
あと、マクレランと江藤淳の関係についても記されてある。が、私はハイエクの部分に多大な関心を寄せてしまった。なるほど、ふむふむ。かなりハードな私生活を送られていらっしゃったのですね。


他には、アノ「品格」の藤原正彦氏の“新連載”と銘打たれた「名著講義」なるモノまであって、コレは氏が普段授業でやっておることを文字に起こしたモノらしい。学生との対話形式になっていて、指定された名著を読んで来た学生と藤原氏との間にて、種々の意見交換がなされてある。些か実際の講義をそのまま文字にしたとは思えぬのであるが、多分斯様なコトをお話されているのであろう、ってのは解せる。初回は新渡戸稲造の『武士道』 正直なトコロ、何箇所か笑ってしまった。以下にその一例を。
──最近の親は子供に甘い、時には子供を叩くようなコトも必要だというコトを知らぬ、また叩こうにも、近頃の親は叩き方を知らぬ、それは教師とて同様、そのような連中が闇雲に子供を叩くと、ケガをさせてしまうおそれがある …実は子供を安全に張り倒すコツがあるんです、ソレは指の第二関節より先の部分でバシッと云々……
こういうコトを真剣に喋っている。コレは色んな意味で楽しい。いずれコノ連載をまとめて本にしてくれないかしらん。


今月の『文藝春秋』は総合的に宜しい。総合力では相当なレベルにある。微笑ましい。
あと、世界の美女特集もあるよぅ!

2008年09月14日

2008年09月14日 本当は単に「うん」と答えたかった

峠はもう超えた。


今年は比較的冷夏であった。少なくとも過去二年と比べれば……
まだ残暑があるのが邪魔なり。


親父から以下の如きメールが送信されて来った。
「両横綱白星発進だな」


…如何様に返答すれば宜しい?
無視したのは悪かったと思っておる。


時間がございません(って言い訳です)から箇条書きで。

2008年09月12日

2008年09月12日 十分の八

今、くだらん(と思いたくはないのでしたが、思われそうだから敢えて自分でもそう発言する)論文を書いておる。一応“勝手に”期限を来週金曜の朝までと設定しているのだけども、かなり厳しい状態でして、もうイヤになるのだ。 8/10は綴れた。──4/5ではイメージが上手く合致せぬので、わざと十分の八と申した。が、残りの二が凄まじい。マラソンで喩えれば、三十五キロ地点までは余裕綽々であったのに、ラスト七キロ地点に達すや、突然雹が降り注ぎ、道中は見たコトもない急斜面であって、辺りには獰猛な野犬が放し飼いにされていらっしゃいます…斯かるイメージ。
ぐへぇ〜 もうダメかもしらん。弱音ではなく実感。「北島選手じゃないけど、『何も言えねぇ』」
偽善者や詐欺師であれば、飄々として乗り切るだろうに。

2008年08月31日

2008年08月31日 未受洗者の独言…

実在物としての神様、というか姿かたちが鮮明なものとして現れる神様を思い描こうと致すから、安易に「神様なんていない」と申し上げられちゃうのではございませんか。元来宗教思想とは斯様にして簡便に抽出できるが如きものではないはず。それに、私は神というとき、まず以てキリスト教のそれを連想するのであるから、余計に斯かることを思うのかもしれん。いえ、イスラムのアッラーにしても日本の八百万の神にしても、夫々その背景に連なる思想は異なっておりますけれど、神をいずれも実体的に(換言すれば、絶対的に確定された一つのものとして)捉えんとする試みは峻拒されていたのではありますまいか。なぜといって、それは人間崇拝、唯物論へと緩やかに至る。
聖書を精読すればそうした意見は通じないぜよ、と仰られるかもしれないのであることは承知の上です。しかしながら、神を具体的に思い描くことは、その時点で神を限定し、その全能性を否定することへと帰着す、と申し上げれば宜しいのかもしれません。その点に関するキリスト教徒の方たちの意見を見聞致した経験はある。神がこの世で実際に天の上に座しておられるはずはない、従って神の存在なんてインチキだ、すなわち宗教そのものが只の夢想に過ぎないやい!と放言するのは実に簡単でありましょう。けれども、それは非常に想像力に乏しく、精神的にも小学生レベルの戯言と思われる。また神の存在を科学的に証明してみろ、というのも同じようなようなもので、科学が絶対であることの証明が可能でなければ、その弁は崩壊せざるを得んのです。神の絶対性は科学の絶対性と同じくらいに明証不可能であれば、最も極限的なハナシを致しますと、畢竟神というの名の精神的享受物を獲得するか、または科学という名の物質的享受物を獲得するか、の二者択一でありまして、すなわち、宗教を精神的な面から重要視したエドマンド・バークに接近するか、宗教を嫌悪し「宗教は阿片である」と断言したマルクスに接近するか、の二つに一つ。然れば、私はバークに寄り添いたい。

2008年08月30日

2008年08月30日 おかしい!おかしい!

東海、関東豪雨 2人死傷3人不明 ゲリラ雨 連日夜襲


日本各地に豪雨が襲来しておる。被害多数。台風シーズン目前において…
然るにコチラは例年の如し。


厚労省が渇水対策本部設置=四国の水不足深刻化


四国で育った私ですが、よく解せぬ。私の実家周辺にあっては、かつて深刻な水不足に陥ったのは一度しかあらぬ。しかもその年は全国的に不足が懸念されたのでありますから、コレは致し方ない。だが、果たして早明浦ダムは毎年の如く枯れ果てておる。阿呆か。毎年「ああ、水が無くなるぅーーー」と嘆いているだけで、一向にまともな解決策の提示されないコトされないコト、甚だしい。ソレでいて節水、断水。嗚呼嗚呼嗚呼。笑止。実におかしな地域であります。──さりげなく新しきダムが建造されておるようですが… 香川は地政的に芳しくないのであろうか。他の地域は水ありまっせ。う〜ん、おかしい!


まげ結わない朝青写真集に“物言い”
朝青龍、写真集でポニーテール姿…再発防止検討委員会で問題視


発売前に朝青龍の写真集を入手したやく委員が問題にしたのは、朝青龍がモンゴルで民族衣装に身を包み、ポニーテールのような髪形で撮影された一枚だ。写真家の野村誠一氏が撮影した。「髪の毛をおろしてまさに、蒼き狼という姿で写っていますがいかがなものか」と物言いをつけた。…(中略)…「そのドアタマに来るのが服装。それなのに写真集で横綱が力士たる姿で写っていない」とやく委員。 【スポーツ報知より】


やくは己に髪の毛が不足しておる故に、長髪たる力士への嫉妬心が凄まじい。ソレが歪み果てて、「服装」などと誤魔化す。ハッキリと「こんな風に男が長髪をなびかせるのは不愉快だ」と申せば宜しいものを… 斯様な“いちゃもん”を付けるので精一杯なのであります。コレ、すなわち只の「ルサンチマン」である。そもそもやくみつるは、自身が齢五〇を目前にしながら、金髪であるコトを如何に説明する。そのような身なりであって他人の「服装」を云々するとは! こうした点からも洞察され得る如く、やくみつるなる生物は精神的に粗野で野蛮なトコロが存す。その存在自体が曖昧でしかないんです。そうでなければ「やく(約)みつる」などというハッキリせぬ名前を名乗るはずがなかろう。
朝青龍とて横暴なトコロがあるが、ソレを批難する内館の婆さんに致しましても、自称漫画家で代表作不明のやくにしても、果たして彼らに批判をする“資格”が備わっておるのか否かと疑いたくなるってモンだ。類は友を呼ぶ……か。う〜ん、おかしい!

2008年08月28日

2008年08月28日 地球に優しき夏の涼しさ

地球に優しき夏の涼しさ。


とまで記せば、もう嬉しくなってきたので、ここで擱筆す。

2008年08月25日

2008年08月25日 不可解なり!野球

北京五輪も幕を閉じたワケでして、さぁ、これから再び<残酷と非道の中国>へと世界の目は復帰致し、愈々危機を迎えるのであろうか──日中関係、中台関係、日台関係。そこに交わり来るインド及びASEAN諸国…


結局オリンピックの種目はソフトの決勝とバスケの決勝、そして愉快な星野JAPANの試合を見るとはなしに見た。これ程複数の種目をハッキリとテレビ観戦したのは最初の出来事なのですから、アレだ、暇潰し以上のモノではあり得た。特にバスケの決勝戦、アメリカ対スペインは誠に白熱した模様でございまして、「SLAM DUNK」以上の世界だったに違いない。やはり最後は“王国”アメリカが力で押し切るのだけども、スペインの食らい付きも相当なモノで、「おやおや、コレは最後には勝つんじゃないか!?」と思わせる場面が幾度も存したのです。特に後半の両チームによる3Pの応酬は愉快千万な内容。しかし、それでもスペインに逆転を許さなかったアメリカは見事なモノで、聞くトコロによると、何年も前から本気で金メダルを狙ったチーム編成を致しておったとのコト。そうでなけりゃあねぇ。星野JAPANにもこの辺の事情を聞かせてやった方が宜しいのではありますまいか。
ソレに星野氏は往生際が悪い。「責任はオレに有り」とか何とか宣告しておきながら、

−−力の差は感じたか
 星野「差はないと思っている」

などと強がりを申し上げる。【参照リンク:それでも「日本は弱くない」…星野ジャパン会見、一問一答
ケンカをしでかした後の子供の如き弁であって、真摯に実感したトコロのチーム力の差について言及するのが、指揮官として、また長年野球に携わってきたモノの役目だと思うのですが…(仮に技術に差がなくとも、野球はチームプレイでしょうに。此の度のチームは、集団としての力が不足しておったと認めてみれば良い。)
そもそも野球とは何であるのか。私にはよく解せぬ点がある。いったい何処の国と何処の国では人気があり、何故にヨーロッパでは顧みられないのか(ロンドンには野球場が存在せぬから、五輪種目から外されたのではないかしらん、とすら思えてきます。五輪のためにスタジアムを建造しましても、ありゃ、その後の汎用性が低い、ゼロと申し上げても良い)、如何なる理由で国際試合における使用球と国内におけるソレが異なるのか、またストライクゾーンの違いとやらも不可解の極みでございまして、規準が統一されぬ段階にありながら、ソレへの対応も未熟なまま悠々と北京へと赴き、よくもまぁのうのうと「金メダル獲得」を放言できたモノであるよと思わずにはおられません。
元来、米国から運び込まれて来ったモノであったれば、規準はやはり日本にはないのであって、勝手に変な範疇を設けて、井の中の蛙状態にありながら、国際試合へと参上してみたコトの無理が五輪において露呈したと考えるのが筋というモノではないでしょうか。WBCなるモノも結局は国際試合での規準で開催されるのでしたら、日本もそちらに合流すれば良い。魂を売るワケではないのだから。そうであってこそ、プレイする側も見る側も共に違和感を解消できるのでして、外国を相手にする以上、最低限の共通事項が整っておらなくてはいけない。ボールや審判の規準などはその最低限の部類に属するモノで、ソレを了解した上で日本独自の戦術を駆使しまして、世界と戦えば良いのであります。
柔道の如く勝手に他国にルールを改変(改悪)させられるといった事態ではない故に、その辺の規準に関しては日本がもう少し柔軟な対応を心掛けた方が良い、斯様に思慮するのです。
最後に。星野氏に一言申し上げてみたいのは、確かに勝負の世界は強いものが必ず勝つのではありませぬ。強者であっても敗退する時がある。しかしながら、たった一つ明確であろうコト、すなわち弱者は絶対的に敗北を喫す。弱者が最後まで生きながらえるが如き現象はあり得ぬ。──4勝5敗の負け越し。この成績を前に尚も強者であると見栄を張るか。「孤立した傲慢な思考は白痴に終わる。」(G.K.チェスタトン『正統とは何か』より)

2008年08月22日

2008年08月22日 夏のこと

今夏は昨夏と比すれば、暑さの強烈具合においては劣る。即ち涼しいとすら思えるのであった。季節の悪戯、ココに極まれり…云々。駄弁。
フレーミング・リップスを今まで勝手なイメージで以て避けておったのですけれども、思い切って聴いてみるに、存分に聴き易く、想像の外の展開に成り果てている。もっとサイケデリックで陰鬱なヒトたちかとイメージを逞しゅうしていたにも関わらず、かなり捻くれてはいますが、愉快・爽快なミュージックでございます…云々。駄弁。
五輪を見る機会を持たぬと申しました私でも、昨日のソフトボールは幸い見るコトができたのですから宜しい。初めてしっかりとソフトボールの試合を見たのでしたが、相当に面白いではありませんか! 「ジャンクスポーツ」でのみお目にかかっていた前監督宇津木さんの解説も熱情の籠ったモノで、解説者としてあの様な雰囲気であったというのは、監督としてグラウンドに出ておった時は、さぞかし評判通りの“熱血漢”であったろうと想像致します。御目出度う御座居ます。
そして其の翌日に完敗した星野JAPANとやらは…云々。駄弁。

2008年08月15日

2008年08月15日 −3でも生存可能

率直に申し上げると私はあまり泳げぬ。北島康介の水泳力を100であると致せば、私は−3に相当する。そもそも私は小学生の頃からプールなるモノに多大なる嫌悪感を示しておりました。アレは汚らわしい。実に実に実に汚らわしい。不浄! 誰が小便・大便を排泄していますかも分からぬままに、何人が唾液を吐きまくっていますかも分からぬままに、飛び込む。強制的に飛び込みを要求される。腹打ち!! 体育教師の低能!今に始まらず。学校の厄介者。日教組的悪魔の群れ…
ビート板、嗚呼、雑菌の隠れ家よ。プール底の滑り、嗚呼、雑菌の溜り場よ。プール周辺のトイレ、嗚呼、何たる臭い。
市民プールともなれば、ソレはもはや地雷地帯であると断言しても宜しくて、如何なる病原菌が水中に徘徊していますかは最早顕微鏡の世界でのみ判明可能であった。
海はより嫌いでございました。海水浴、ソレは終末処理場に飛び込むも同然。而して砂の付着、落しても落しても払いのけても払いのけても尚付着してくる砂の無限連鎖。加うるに海の家の衛生状態は基本的に信用ならぬのでした。そうしてソコに存するシャワールームの実に醜きコト、言語を絶し、常軌を逸しているであろう。壮絶な、壮絶な自暴自棄にでも陥らぬ限り、または生か死かの選択を迫られる機会が訪れない限り、海水に接するなどというのは、狂気の沙汰としか受け取れぬではございませんか。


水泳力が−3である私でも、生きながらえるコトはできる。ソコには簡明な事実が横たわるのみ。すなわち用もありませんのに川、池、海に近付かぬコトです。貨幣を消費してまでプールに赴かぬのは言わずもがな。畢竟、水泳などは大して要らん。水泳やむなしとなり果てるが如き危急の秋は、もはや覚悟して死を選ぶってのも、一つの生き方ではありますまいか。斯様な時は大抵のモノが溺死する。毎日報道される水の事故の例を引出して来るまでもないコトよ。危険地帯には近寄らぬが賢明でした。触らぬ神に祟りなし、の最も身近な例。

2008年08月11日

2008年08月11日 いつの間にか五輪

オリンピックだと云う。ワールド・ワイドな盛り上がりでありましょうか。
思うに、私は未だかつてオリンピックをまともに見たコトがないのであった。同様にしてプロ野球の試合もJリーグの試合もまともに見たコトがないんです。サッカーのワールド・カップの試合は幾つか始まりから終わりまでまともに見ておりますけれども、ソレも二、三に留まる。而してオリンピックともなると、柔道にしろ水泳にしろ陸上にしろ諸々の球技にしろ、果ては開会式から閉会式に至るまで、どれも結果をニュースで見るくらいに他ならず、生中継でハッキリと見た記憶がございませぬ。今回のオリンピックとて、ニュースで何とかという男女の柔道選手が夫々金メダルと銅メダルを獲得致しましたコトと、水泳の北島選手が連覇したってな情報、またはサッカーの敗退についてのコトなどを知った程度ですから、やはり生でまともに目撃はしていない。
わざと見ていないのではない。気付けば各選手がメダルを獲っているのであって、私の感知せぬうちに世の中が流れていっているかの如き有り様。
一方、しかし、冬季五輪は結構見ている。ソレは普段あまり目にすることなき、“奇妙な”競技が数多御覧になれるからなのです。この時ばかりは自分で放送時間を調べて見るくらいであるのだけれども、他方の夏期五輪は馴染み深い競技の多いため、あまり意識するコトはない。どうやら私はよく知っている競技にはあまり喰い付かぬようであった。そうして、いつの間にか閉会式になっておるのです。


斯かる具合であるから、およそ此の度の北京五輪にしても、何時何所で如何なる種目が開催されておるのか皆目検討が付かぬ。こうした事態にあって小倉サンならばウィッグもぶっ飛ぶ大惨事であるのかもしれませんけれども、私はウィッグを付けていないので、とりあえずぶっ飛びそうにはないのです。

2008年08月10日

2008年08月10日 セミからの教訓

セミの共鳴。喧噪。
今更申し上げるまでもないが、セミは凄まじい。約七年ほどの期間、地下に潜伏致しておきながら、突如としてタイミングを窺って地上へと這い上がり、脱皮した後は木から木へと飛び回っては鳴き、鳴き回っては飛びの生活を送った後、数週間で死すのです。よくよく思考してみたならば、この昆虫は阿呆だ。地上にさえ出てこなければ良いものを、わざわざ這い上がり、木によじ登り、ソコに抜け殻を遺棄して旅立つ。──死への飛行。12泊13日程度の自殺旅行でしかございません。彼は大層な野心家なるか。俺がセミならずっと地中で安息の生活を送るぜ。セミの地上への登場はハイリスク・ノーリタンでしかあるまい。己の寿命を削ってまで何故現れるのです。出たがりか? 通常一ヶ月ほどで命を失う昆虫の中におかれまして、彼奴は数年もの寿命を付与されるにもかかわらず、土の奥深くにおればより長期間生きながらえるコトができたものを、突如としてその安逸を放擲しまして、変身致したかと思えば、すぐ死ぬ。もう死ぬ。喧噪だけを残して。阿呆だ。これほど己の命をムダに使う阿呆も滅多におらぬ。ロクでもない親不孝モノでございました。親の英才教育を受けまして東大を主席で卒業するという運命を手にしたにも関わらず、大学卒業後はジンバブエの奥地で自給自足の生活を営むと言い出すくらいの戯けです。
結論と致しまして、セミから学べるコトと言いますと、人生、ムリしてもロクなコトはないぜってな教訓。要するに我々はセミを引き蘢りの味方として見るべきであって、野心的な起業家へのアンチテーゼを彼の無謀な生涯の終わりを通じて感受せねばいけない。往々にして冒険は裏目に出るのです。 そうだ!そうだ! 家にいるのが一番! お盆休み? 海外旅行? オリンピック? ノーノー 家で寝ていなさい。──セミは我々に斯かる教訓をご教授するために、今夏も只管喧噪だけを残し、死に行くのでした。

2008年08月08日

2008年08月08日 妙技見参!

あまりに暑い故に、思い切ってどーでもいーTシャツをびしょ濡れの刑に処して、それを身に纏う。而して扇風機の前に座せば、いと涼しき哉。コレは宜しい。誠に芳しい。一気に体温が低下して行きますような感覚であって、なかなかどうして手放せない夏への対抗策でありました。斯かる技を以てすれば、一日中風呂上がり直後に当たる扇風機の風を受けるが如し。ウヒョー!と言っちゃっても知らねーぜ!! もっと早くに気付いておくべきであった。1999年の七月にこの裏技を発見しておれば、私は間もなく「オイオイ!アンゴルモアの大王見つけたぞ!」と絶叫したかもしれぬ。実家の隣のHサン宅に押し入り、「オジサン、アンゴルモアの大王が来たゼー」と歓喜にむせぶ中三の男がいたかもしれぬ。…が、当時は何も到来しなかった。
それにしてもホントーにコレは素晴らしい策でありまして、五輪サッカー代表の反町監督の思いつく如何なる戦法にも匹敵する、而して五輪野球代表のダルビッシュ有が見せる秀麗なる変化球にも劣らぬ妙技ではございませんか! あまりにも嬉々としたので、もう一度冒頭の歓呼を引っ張ってきてやる。


あまりに暑い故に、思い切ってどーでもいーTシャツをびしょ濡れの刑に処して、それを身に纏う。而して扇風機の前に座せば、いと涼しき哉。コレは宜しい。誠に芳しい。一気に体温が低下して行きますような感覚であって、なかなかどうして手放せない夏への対抗策でありました。斯かる技を以てすれば、一日中風呂上がり直後に当たる扇風機の風を受けるが如し。ウヒョー!と言っちゃっても知らねーぜ!!


我ながら・・・

2008年08月07日

2008年08月07日 思考停止に酔いしれて

「愛している」なるセリフほど気持ちわるいモノもございませんで、そもそも「愛している」とは何であるのか──コレがまず以て疑念の種でありますから、とりあえず考えるのであったが、「愛している」すなわち「愛」を「する」のだと考察してみれば、ますます意味が解らなくなって参りますので、日に日に困惑が募り、「愛をする」のイメージ=SEXくらいなモンであって、ソレも十分イカサマなのでございますけれども、しかしながら単純なる連想が斯かるモノでしかないのは、いやはや三文恋愛ドラマの影響大なるか否か存じ上げぬが、ディープキスからのベッドインが「愛をする」であったれば、もはやAVですら「愛している」の表象か! イヤイヤ「愛をする」のは命がけの覚悟であると思慮致しましたら、これまたイメージが変転を遂げまして、成る程勇敢な連想が生ずるのですが、そうなってくると最早性別の問題を超越したトコロにまで持って行かされてしまうのあるから、もーどーでもいー。畢竟「101回目のプロポーズ」に於ける武田鉄矢の路上にての迷惑行為を「愛している」の限りなく過剰な表現であるなどとは当然考えたくないのでして、然ればハナから斯様なセリフに意味を求めてはならぬのではないか、ソレはあくまでも感覚的に、己のロマンティシズムに負うトコロ大であって、具体性を伴わせてはいけません、とでも考えてしまえば楽になりて良いのでした。思考停止に酔いしれて。夏の暑さに身を任せれば、出てくる一節も斯かる低俗なモンでっせ。ハイ、おしまい。

2008年08月06日

2008年08月06日 夏が悪い

夏は悪い。マジで悪いヤツだ。夏場になりますと、夜な夜な街中をヘンなヤツらがウロチョロ致す。闊歩。アイツらはウロチョロしたいからウロチョロするのではなく、暑い故にいてもたってもおられませんで仕方なくウロチョロします。全部夏が悪い。考えれば考えるほど夏は悪い。名前に「夏」が付く夏川純も年齢詐称をしておりましたので実に悪い。しかしソレも彼女が悪いのではなく、「夏」の付く名字が悪い。悪うござんした。「冬川純」なら良かった。秋川雅史は多分良いヒトだ。でないとあんな美声であるワケがない。「夏川雅史」でありましたならば、きっと長渕剛みたいなしゃがれ声で「私のお腹の上で 出さないでください」レベルの品のない卑猥な歌詞を絶叫しておったことだろう。夏川りみは「夏」のくせに美声だが、別のトコロに問題が生じている。とことん「夏」が悪い。三波春夫は「春」だから国民的な歌手として活躍できたのです。「三波夏夫」なら覚醒剤に窃盗、強姦、放火殺人を犯しておった可能性すら存する。夏は呪う。夏に怪談話が溢れ返るのが何よりもの詐称ではありますまいか。夏目漱石も「冬目漱石」であったれば『明暗』を書き上げることが出来たであろうし、胃の病にも冒されずに済んだ。夏は蝕む。夏目漱石は「夏目」でありましたばかりに精神の病にも冒された。同様の例は夏目雅子の白血病に見て取るコトができるのでした。「秋目雅子」ならば…と思えば思うほど、夏が呪わしくなってきて、いてもたってもおられませんから、コレからちょっとばかり街中をウロチョロして参りましょう。なんせ 夏 でございましてねぇ…

2008年08月02日

2008年08月02日 フーフフ フーフ♪

今週の月〜木曜日までBSで放送されておりました「とことん!ルパン三世」なる番組は誠に素晴らしい出来映えでありました。毎日でも放送して頂きたく存じ上げる。毎日でも鑑賞するつもりである。ルパンは最高だ。広辞苑も「最高」の欄に「(例) ルパン三世」と記し上げちゃいなよ。ウンウン、ルパン三世専門チャンネルとか作っちゃいなよ。
私に時間と金銭の余裕があったれば、2年くらいは引き蘢ってルパン三世のアニメ・劇場版・テレビSPの映像を眺めておれる自信がございます。「ルパぁ〜ン、三世ぇ」ってな山田サンの声が離れなくなっている。本を読んでおりますと、いつの間やらアタマの中でルパンの声が響き渡り、ルパン風に読み上げるのであった。声こそ出さぬが。脳内音読。


高校野球が開幕したんだなぁ。
テーマ曲が好き。フーフフ フーフ フッフッフッフッフッフ フーフッフッフーフ フッフッフッフ フウフフーフ♪ 多分斯様な具合であった。歌詞は知らん。──高校野球に良い思い出はない。


暑いなぁ。そろそろ終戦記念日でございまして、この季節になると比較的読み易いノンフィクション系の戦争を扱った本を読みたくなるのでした。保阪さん辺りの書き方が一番芳しき哉。専門書、研究書とまではいかない程度のモノを黙読す。夏の暑さに難解な本は堪えまして、而してノンフィクションの面白いコト面白いコト。フーフフ フーフ フッフッフッフッフッフ フーフッフッフーフ フッフッフッフ フウフフーフ♪ 多分、斯様な感じだ♪

2008年07月31日

2008年07月31日 社会のオモテ面を知らねば!

溢れ返る空論。
俺は知らぬ。そうだ、知らぬのだ!
「社会のオモテ面」を。
社会に入りてこそ知れるモノがありましょう。
「働くおっさん劇場」に出演しておった野見サンの言葉が重く響く。
「社会のオモテ面」を知らぬモノは、所詮何を申し上げても、ソレ即ち虚妄なり。


ぬぬぬぬ〜
社会のオモテ面、社会のオモテ面、社会のオモテ面、社会のオモテ面・・・
…そもそも「社会」って何やねん。定義付けが超難解やがな。

2008年07月22日

2008年07月22日 周囲、微熱

暑い。暑い。暑い。何遍言い立てても平穏にはならず。不快度が、不快指数が、上昇致すだけなのです。おっ、今年の7月は涼しいな、と思っておりました。上旬には。ソレが何じゃ、中旬から例年の如き活気を呈して参りまして、気温33℃、34℃、35℃挙げ句には36℃、37℃、あああああー、チクショー 微熱かよ!


どうも近頃は惰性でこのブログを継続しておるような具合であって、ゲスな文字列ばかりを入力致していますコトには、やや罪悪感を抱かぬでもない。バンドだとコレはもう末期だよ。あと一枚アルバム出して解散、そのアルバムも統一感を欠くってな有様。嗚呼、面目ねぇ。曰く音楽性の違い、新たな一歩、それぞれの道・・・なんじゃそりゃ。
このブログも末期かしらん。そろそろ環境を変えた方が賢明でございましょうか。自問自答ならぬ独り言。…思えば、ブログなんてのは孤独なネット上での癒しを欲するモノの壮大な独り言だ。Twitterの如きモノが普及して来ました今、わざわざブログなどで長々と文章を綴り上げておるよりは、一文、一言、一行ずつ思い立つや否や吐き出して行くようなやり方の方が好都合なのかもしれぬ。
ちょっと、このサイトの処遇も含めて、再考せねばならないのかもしれない。
糞だ


中村一義の「ショートホープ」、素晴らしい歌詞だ。
「weezerごっこ」をしていたら出来た曲だと説明していたのを覚えている。


中村一義 「ショートホープ」


「つまらねぇ」。そんな気分に呑まれちゃって、
つまんねぇヤローになんないで。


「変わらねぇ」。そればっか、まだ言うだけで、
君も変わらないんだねぇ。まぁ、こっち向いて、


あれがダメだ、これがダメだ、ばっかだったら、もうホント、
オレの全て、今の全て、カラッポさ。

2008年07月18日

2008年07月18日 良き涙悪しき涙

涙は美しいのか。
そういえば確かにそうかもしれぬ。ナベツネに涙は不適合でしかありません。その時、涙の尊さを見る。ソレは純粋の実体化。端的なる感情の標識。
例えば、高校野球や高校バレーや高校サッカーにあっては、負ければ終わりの強迫観念的なモノが背後に取り憑いていますので、彼らは死に物狂いと化す。そうして敗退の暁には涙が落ちる。一種の美学としての敗北。斯かるモノをプロに求めんとするのは不可能でございましょう。ソレもソノはず。そもそもプロは一年を通してやり抜かねばならないワケでありまして、一試合毎に泣いてはおられん。そのようなプロはイヤなんです。
プロ野球選手・プロサッカー選手、彼らが毎試合、敗北を喫した方のモノが落涙しているのを想像するのは無気味に過ぎる。最初の方は試合が終わる度に泣く大人を見るのは愉快かもしれません。が、すぐに飽きる、コレは必定。「また泣いてんのか」と否応無く思う。その時、涙は邪魔者です。涙は時と場合を弁えろ! テレビ中継の解説者もイヤになりましょう。最初の方は「おっ! ○○選手、今日はイイ泣きっぷりです!」とでも述べられますけど、ソレが連日連夜続けば、申し上げる言葉も失い、萎える。
普段泣かぬモノが泣くから、その涙に価値が出てくるのです。泣いてばかりでは嫌気がさす。当たり前のコトを言った。世の中、美しいモノでも連日眺めていましたら飽きが到来致す。「美人は三日で飽きる」 納得。しかし相も変わらず私は付け加えたいのです。「美人は三日で飽きる? そうか。でもな、ブサイクは見た瞬間にイヤになるんだぜ!」 別の意味での涙、頬を伝う。

2008年07月17日

2008年07月17日 夏、お前、負けたな!

朝青龍いけないなー、と思うのです。なんだ もうピーク過ぎたのかってのは早合点であって頂きたい。相撲がダサイ。二年くらい前にあっては、より猛々しくもあり、渋みもあり、溌溂とし、健康優良児。


精神的に寛容でない時期であるというのは了承済みなのでしたが、やはり文句を差しのべようと大胆な振る舞いに出る対象は“夏”の名を冠する小悪魔へと向けられます。来週はお馴染みルパン3世テレビSPの新作だぜぃ。最初で最後のテレビ放映。一年に一度の機会に賭ける製作集団。夏の到来を意味しておる。TBS「愛の劇場」に於いては、コチラも恒例の「大好き!五つ子」が始まっているようだ。結構見ているけどさ、全然「大好き!」ではないんだぜぃ。はっけよ〜い のこった! の「はっけよ」くらいで立ち上がろうとするくらい憎たらしいドラマであると存じ上げます。しかしながら、だが、とりあえず“のんちゃん”だけは頂戴な。


髪の毛が伸びてくる、伸びてきた。伸びてこなくても良いのに。嫌がらせだぜぃ。髪を切りに行くのが、ボロボロと崩れ落ちるアップルパイの皮と同じくらいにイヤ、髪を切りに行くのが、パラパラと滴り落ちるドーナツに付着されておる粉砂糖みたいなヤツと同じくらいにイヤ、髪を切りに行くのが、夏の高気温と同じくらいにイヤ!! グッバイ、梅雨!
何年ぶりかに床屋に行ってみようかしらん。気分的に床屋の方がバッサリ切って頂けるのではないか、との期待。美容師サンは、ちょっと全体のバランスを考え過ぎて守りに入りがちのような感触がございます。対する床屋のオッサンは、「短く頼む!」と申せば、「ハイよ!」ってなノリでガッツリ切り刻んでくれるのではないか。…とはいえ、近所には如何なる謂か、美容室ばかりが立ち並ぶ。理容室も存するにはありますが、古ぼけた小屋の如き建物で、爺さんが単独行動で営んでいらっしゃいます雰囲気、やや危険、「いちげんさん、おことわり」の相を呈している。気のせいだろうか…
“1000円床屋”的なモノ、目と鼻の先にでもあれば良い、が、あらぬ。嗚呼、10分1000円でそれなりにサックリと対処してくれるサービス精神旺盛(考えようによっては、最大級の客冒涜!?)なトコロに、今、執筆者は逃げ込みたいのです。
いずれ切ってやる。7月の終わりから8月にかけて。ざまぁみやがれぃ、髪、伸びてきた髪。

2008年07月13日

2008年07月13日 アンチテーゼ猛暑

小学生の時だったかなぁ。世界地図などと睨めっこをしていましたら自ずと外国の地名も覚えてくるようになるので、そうした知識の微々たる蓄積によって、私は「万国共通」を「バンコク共通」のコトだと勘違いしておりまして、「ん〜? なんでタイ基準でモノを語るんだ?」と思っておった。「バンコク」知りて「万国」知らず。あの時分の自分の方がよほどボーダレスであった、よほどコスモポリタニズムを信奉致してあった、或いは潜在的にアナルコ・キャピタリズム的性質であった、のかもしれん。ウフフフ、フランクフルト学派が悪くてオーストリア学派は良かった。そんな戯言を言いながら、・・・アラッ、お相撲が始まった。だからワーイワーイ。

2008年07月08日

2008年07月08日 ショッキングイメージ

秋葉原の事件以来、ダガーナイフが規制の方向へと進んでおりますってな報道を受けて、「ナイフを完全に規制するなんてコトはムリだっぺ。今はネットで色んな種類のナイフが購入致せるのですぅ〜」と思って、ちょっくら探索してみておりましたところ、このような画像を発見して、なんじゃコリャと思うのであった。何を意図しとるんでごわしょう。こんな格好でナイフを持っているヤツを初めて鑑賞したのですが、またナイフの規模が途方も無くワールドワイドなのも不気味。こんな風でございまいして、果たしてナイフの絶妙なる宣伝になると誰が考えるでございましょう。微熱があったにしては冒険し過ぎな魅せ方でありますし、他方で平熱にしては地平が逆転致しておるではないか。斯様なモノを“シュール”と定義するのでしたら、野菜サラダの天ぷらや短いハイソックスをもシュールで。
如何様に熟慮してみても、まずは自明の事柄として、こうした巨大なナイフを持参して街中を闊歩する度胸、ソレは決して認可され得ない。条例に触れる。警官の気も狂れる。しかしながら、よりマズイのは上掲の写真にあるが如き女の衣裳だけでも十分に警官の気に狂れそうだってコトです。
何はともあれ快・不快を壮大に齎すほど踏み込んだ第一印象の提供は避けるに越したコトがない。忖度、コレ重要あるね。


※何故にか当ブログの過去ログが一部消えておりまして、閲覧できなかったようでございますが、一応復旧させました。しばらくの間消えていましたようですから、Googleのような検索エンジンからも当ブログの情報が抹殺されたみたい。ソレはソレで或る意味良かったのかもしれないのだが。だが…

2008年07月05日

2008年07月05日 夏の風物詩’08

LEE 30倍さあ、今年もやってきました! この季節です。
LEE30倍(+15倍=45倍)です。今年は例年よりも5倍増しの<45倍>! 私の中では、コレこそが「夏の風物詩」といえるものです。


たまに冬になっても売れ残ってる時がありますが、基本的には、夏季限定商品。


普通のインスタントカレーは「辛口」でも「中辛」くらいの辛さしかないからイヤだ。
そんな中、このLEE30倍こそ真の辛口カレー。オンリーワン。


昨年までは唐辛子を丸ごと一つ投入してたりしたものですが、豈図らんや、ソレはさほど意味をなしておらず…、どうも曖昧路線だった故にか、今夏は原点回帰?
マッシュルームを排し純粋なるビーフカレーへ。味は昨年よりも良くなった気が致す。ビーフカレーの旨味を生かし切れているのではないかい。


で、辛さの方は増強ソースが15倍になるなどしてアップ・・・と思ってたんだけど、アレ? 昨年と同じレベルじゃ!?・・
気のせいか?
いーや、絶対同じくらいじゃ!
5倍くらいの差じゃ大した差異を実感致しかねます。思い切って“25倍”くらいの増強を試みて55倍にしては如何かしら、グリコさん。


・・・まぁ、それでも、他のインスタントカレーよりは、何倍も辛さを楽しめるから良いです。
今年の夏もこのカレーにお世話になりそう。
夏は大嫌いだけど、辛いものは好き。
だからLEEも大好き。
でもやっぱり夏は大嫌い。ぴゅーんって飛んでいけば良いのに。


【二年前の初夏に記し上げたLEE30倍の感想文章(06LEE30倍の感想)があまりにアホ、稚拙、愚の骨頂、大根足ガールでしたので、今回のモノは敢えてソレの自己パロディーへと踏み切らせて頂いたのです! 参考リンク:夏の風物詩

2008年07月04日

2008年07月04日 93.2度だからねぇ…

スポーツをしているヒトが、ミスをした後に無表情で冷めた具合であって、何事も無かったかの如く振る舞い、気持ちを切り替えようとしている時の表情が好きなのであるから致し方ない。この際いっそのコト映像化して頂きたく存じ上げます。「ミスを何事もなかったかのような表情で取り繕おうとする人々」ってな邦題で。DVD、定価1800円なら一つだけ購入する…そのうち。9.1chで鑑賞しましょうぜ。スピーカーこそ所持しておらぬが。無きモノが設置されてある気になって、四方八方から音が雷鳴するが如く…


それにしても暑いのです。昨日などは最高気温が華氏93.2度までも上昇しまして、本年度に突入して以後初めて本格的にエアコンを稼働させるなどという大胆で破廉恥な始末。嗚呼。而して今日も同等の気温の上り方。なんと下品な! 登山家の片隅にもおけぬヤツめ! 馬鹿の一つ覚えのように。あまりの暑さに初めて「Oh,My God!」と呟いてしまいました。アメリカ英語ではあらず、イギリス英語寄りの発音で「Oh,My God!」──わざと“My”の部分を強調して、自己主張を肯定。なぜなら、民主主義の世の中だから。個性個性と力説される世の中にありつつ、然るに社会は強烈な個性の登場に驚異を覚え、ソレらを暗殺するか徹底的に否認するという嫉妬心を抑制した偽善的正義心に満ち溢れておる。強烈な英雄不在の時代、ソレは社会のせい。個性と裏面で敵対する平等謳歌の時代。平等は魔の思想。Oh,My God! 平等こそ真っ先に差別されんことを。Oh,My God! ユートピアはもう目前だな。


…今日は気狂いじみたイイ文章を綴り上げるコトができました。これ以後もずっと斯様なモノが描ければ良いのであるけれども、ソレは不幸な間が継続するか否かによる。ああ、当分の間は不幸そうだから良いかもしらん。思えば高校生以降今日に至るまでの七、八年は相も変わらず不幸の連鎖でございまして、問題はソレの微妙な波動。そうして畢竟不幸が幸福に転換していますので、幸福は窮極的に不幸でしかない、逆説的に申せば。・・・「逆説的」の意味が解せんが。

2008年07月02日

2008年07月02日 冬来たりなば春遠からじ!?

人生、賭けてみようと思うのです。
ハナからオレは<安定>という天使から相手にされてないみたいだから。

2008年06月20日

2008年06月20日 湿度のせいで…


2008年06月19日

2008年06月19日 決定!

× 「2回目のランニングホームランは誤審」
× 「イカの薫製ダンス」
× 「愛憎と昼間のコロッセウム」
× 「常にチェック柄の男」
× 「姉さん、止めてよ姉さん! それはスズメノカタビラだよ」
○ 「野菜不足の少女は可憐なのに虫歯だらけ」
× 「暁のマスク女、ペットは九官鳥」
△ 「下総の美人妻の大義名分」
× 「Times New Roman」
× 「帰化した気せぇへんなぁ の巻き」
× 「キリシタン大名の合コン密着」
× 「流し髪の回想録〜銚子マドレーヌ編〜」

2008年06月16日

2008年06月16日 食材は食べるコト以外にも使われる

バラエティ番組において、例えば牛乳を頭からぶっかけたりするようなコトをしておるのに対して、「食べ物を粗末にするな!」って絶叫する輩の胸中が解せぬ。彼らは言います。「世の中には食糧難で云々」
パッ! 出た! 恐るべき偏屈な論理、途方もない相対主義の嵐。ソレを言い出せばあらゆるコトに決着がつかなくなるコトを想像できないバカがおる。──食糧難の問題を持ち出してくるのであれば、徹底的にやらねばならない。世界情勢でっせ。コノ追求は果てしない迷宮と混沌、政治・宗教・文化等々に内包される狭間に落ち込むコトになりまして、やってみれば分かるが、ソレは究極的にバラエティ番組と食材の関連性を遥かに超えた問答へと至ってしまうのです。而してアノ国では食べ物が無いから…などというのは、どこかに解消されてしまう。加えるに、そもそもアンタ等、普段は貧しい国に対して何かしているのかい? そういう時だけ万能薬の如く貧国を例に持ち出す偽善的な正義!? そうして、また、彼らの言い分に従えば、この点こそ最も愚劣なのですが、万が一食料さえ不足しておらねば、どれだけムダにしても宜しいという事態になるのでしょうか。まぁ、何とも都合のイイ言いがかりであるコトよ。畜生の思考。
まぁ良い。視野を別のトコロに移し替えてみよう。
例えば、チョー大ヒットした映画「タイタニック」 アレなんて相当な量の食材をムダにしてまっせ。豪勢な料理が一気にグチャグチャのポーン。コレは許せませんねぇ。…いや、食材だけではなく、膨大な量の水も弄ばれております。世の中には水が不足して(以下略)
そもそも規模は異なれどバラエティ番組も映画も同じ娯楽の一つではありませんか。映画では食材が沢山犠牲になるのがOKでバラエティはNO? んなアホな。どういう論理、もしくは道徳、倫理、モラルを掲げれば斯様なコトが主張され得よう。
いま、「道徳、倫理、モラル」と申しましたが、確かにそうしたモノを前面に押し出しての抗議ならば、ある程度の妥当性は持つかもしれませんね。しかしながら、そうであれば、尚更のコト、「タイタニック」の如きモノは攻撃せねばならぬはずです。ソレは世界中の多くのモノが鑑賞しているワケで、ソコにおいてあからさまに道徳、倫理、モラルに反する行為がなされているのですから、コレを黙過してきた世界の人々に警告を発する意味でも、必死に抗議をして下さい。


もっと言いたいコトはあるのだけれども、あまり書き過ぎるのもツマラナイから止めよう。ただ、コレだけは再度申し上げておきたい。バラエティ番組も映画も、その他諸々の食べる以外の用途に食材を用いる娯楽的所作に差異はありません。抗議を出すのなら全てに及ぶべきだ。それともソコには何等かの違いがあり、コレは容認可能でアレは容認不可能とでも言うのなら話は別ですが… 果たして公正に、「道徳、倫理、モラル」を裏切らずに、ソレらの区別を正当化できる論理を打ち立てるコトなどできようか。
できないのであれば、もはやこういうコトです。至極簡単。
「食材は食べるコト以外にも使われる」 
使われる以上ムダではない。それとも今度は用いられる量によって区分でもする気ですかい。誰がその境界を設定できましょう? どうしてもムダだと仰るのならば、食べる以外の所作に使用された場合、全てに渡って抗議を出さなければ自らの信念を裏切ったコトになるんです。原理主義者よ、逞しくあれ!

2008年06月10日

2008年06月10日 一歩目の挫折

夏が過ぎ去り、やがて涼しくなり始めるまで、あと三ヶ月ばかり。


…と書いたら、もう疲れましたので、以後は無しにする。

2008年06月08日

2008年06月08日 悪魔への侮蔑

ナゼ他人を殺す前に己自身を殺すコトを考えぬのであろうか。
──悪魔となる前に。悪魔になり果てるまで固執せねばならぬ「生」とは…


自殺は人非人の手段に他ならぬが、猟奇的な殺人行為は悪魔の仕業でして、すなわち人間の放棄を意味します。人非人にあっては辛うじて人間との接合点を見出せぬコトもないが、悪魔はソレとは異なる世界に身を置くモノであるのだから、常に全的に封殺されねばならない。一度ヒトとしての機能を放擲した存在に対して、コレをヒトとして扱うコト、斯かる愚行は彼の悪魔との契約の否定を意味する<侮蔑>でありまして、また或いはヒトとしての機能を所持致す我々への背進に直結するモノでもあるのだから、畢竟やはりソレ相応の対処をせねばならない。近代・現代のみがあらゆるモノに対して──明白な逸脱者においてすら──、半強制的に人間としての機能を永久的に背負い込ませるコトを旨としたのでございます。曰く「人権」「平等」「ヒューマニズム」「愛」「平和」・・・
斯かる幻想のクローズアップによって、精神は活動を停止し、眼前の私利私欲に眩惑されまして、如何なる形而上的なるモノをも己の内面に受容するコトなく、しかし(その必然的帰結として)自らの「生」だけは重宝して決して手放そうとはせぬ輩の暴走が世間を恐怖のどん底へと叩き込むに至るのでありましょう。こうした点について、ヨハン・ホイジンガの炯眼は、既に半世紀以上も前にあって、近現代の悲劇を的確に捉えておったといえようか。


以前の時代には、一般にみとめられた理想というものがたしかにあった。たとえば、その意味するところはともかく、神の栄光、あるいは正義、徳、知恵。定義の不完全な、古ぼけた形而上的諸概念だと、いまの人たちはいう。だが、これらの諸概念を捨て去ったとともに、文化の統一性もまた、疑惑のまなざしのもとにさらされたのである。なぜというに、けっきょくそれに代ったものはといえば、たがいに抗争する一群の欲望にすぎないのだから。今日、さまざまな文化志向を互いに結ぶことばは、豊かなくらし、権力、安全(平和と秩序ということもこれにふくまれる)といった語彙のうちにみいだされる。すなわち、これすべて自然の本能からまっすぐに出てきただけのものであって、精神によって高められてはいない、ひとつにまとめるよりはたがいに分ける方向にはたらく理想である。こんなものは、すでに穴居人類もこれを知っていた。
『朝の影のなかに』中央公論新社 四八頁


視点変更。
前回の一見確実に意味不明な投稿、実は純度100%の下ネタです。
視点変更。
昨日、ブラックマヨネーズの吉田が、南方熊楠をテーマにフリートークを行い、そこそこの笑いを奪取致していましたのを見るに及んで、相当な感心をしたものです。そんなトコロでもネタになるんだ! なかなかどうしてブラマヨは双方ともに喋りが面白い。誠に芳しいコンビです。
──終わり

2008年06月06日

2008年06月06日 夜の徘徊者

原初の悦びが人々をして欲求へと導く。原初の悦びとは一つの痼りに過ぎない。而して人々は痼りとの邂逅を希求し、我と同じく痼りを知悉するモノと遭遇するや、相共に悦びへの旅に向うのである。その旅路の中にあって、彼は痼りの幻影に触れ、己が欲求との合致を味わう。然るに時の経過が愈々幻影の幻影たる空漠さを明証するに至り、此処に人々は終わりなき出立を余儀なくされるのであった。

2008年06月05日

2008年06月05日 ネギ入りまーす

倉庫の埃っぽいにおいが好きなんです。特に体育倉庫の石灰混じりのにおいが好ましい。体育は大嫌いであったが、体育教師は絶滅して欲しいのですが、体育倉庫のにおいには喜ばしいモノを覚えた。しかし、ソレも過去のコト… 体育倉庫のにおいが好き!だったのに…


ネギは魔力を包含しておると思う。大抵の和食であれば、刻みネギを振りかけていれば、ある程度の結果が保障される。白米に刻みネギだけでも十二分に問題克服力を持つ。しかし刻みネギで思い出すのは、母親の刻みネギは全然刻み切れておらぬってコト。コレは多分どこの家庭にあっても共通するのではないかしらん。オカン、年輪が増えるに反比例してネギの輪は喪失してゆく。繋がりネギはお得意のモノ、たまに切れ目すら確認できぬただ細長いだけのネギが見られる。包丁が切れないんだ。雑にもなる。新婚気分を完全に忘却。そのくせやたらとネギを多様したがるので困惑す。前夜のクリームシチューが余れば、翌朝に温め直して食卓に並べてみては、ソコにみそ汁を添えるってなアンビバレンスな組み合わせ。当然、繋がりネギ。こんなコンビはあり得ねぇ、ってみそ汁を拒めば、キレる。反抗期かという。加えるにカレーにもみそ汁を添える。ソレを眼前にして、親父は無表情でカレーをおかずにみそ汁を飲み干すのだから、日本とインドの友好関係を築き上げるのに必死だ。然るに斯様な関係構築は誰も欲しておらぬ。ネギとみそ汁の大連立が甚だしいのです。…あの分だと入院でも致せば、「点滴にネギ入りみそ汁を入れてくれ!」と言い兼ねない。斯かるコトで病院から呼び出されたりするのは、何人たりとも勘弁願うトコロであろうか。ただ、そのような点滴を打たれるヒトを見てみたい気はなきにしもあらず。


どーでもいーネタで引っ張り切った。今回はこの程度で、もうイイ。

2008年06月04日

2008年06月04日 高いし長い

最近、若干浮かれ気味なのは、涼しさが暑さを圧倒しておるからに他なりません。そういうワケで、


日本に梅雨が・・・・ 来たーーーー!!!


地球に生まれて良かったー!!


・・・・・・ただ時流に乗っかってみただけの仕業。
咄嗟に閑話休題。
其の壱:ヤーコプ・ブルクハルト『世界史的諸考察』を4500円で購入致したのであった。古本にて。岩波文庫、しかし絶版のアレ。
高い! 無駄に高い!!
おそらく4000円ほどの“プレミア”が付随してありましょう。岩波は気狂いである。バークを侮辱しておるとしか思えぬヘタクソな翻訳である『フランス革命についての省察』などを出版している余裕があるならば、ブルクハルトなどを復刻すれば宜しいモノを… 『省察』は既に真っ当な訳版が出てあるではないか。全く何を欲していらっしゃいますのか皆目検討不可能。
ところで、“ヤーコプ”ってカッコイイ。私も己が名前のミドルネームとして“ヤーコプ”を付属させたき心情であるのは吝かではない。
最後の一文、意味不明。


其の弐:サンドウィッチマン伊達サンのブログ、そのトップ画像がほんのちょっとだけオモシロイ。(参照リンク:サンドウィッチマン 伊達みきおオフィシャルブログ「もういいぜ!」by Ameba


こりゃ、どう見てもヤクザだ。
ヤクザが御丁寧に日々の出来事を綴り、綴り、綴り、刺し、撃ち、殺り、殺り、綴り、綴り、鈍器のようなもの、白い粉、綴り、刺し、刺し、彫り、深夜の港湾、深夜の倉庫、綴り、殺り、鋭利な刃物、注射器、閑静な住宅街の一角、綴り、トランクに詰め込まれた人体、樹海、ダブルのスーツ、綴り、綴り、綴り、綴り、綴り、歌舞伎町、歌舞伎町、刺し、四本指、綴り、殺り、東京湾、に、沈め、る、ぞ、綴り、綴り、路上販売取り締まり、刺し、刺し、彫り、時には掘り、アタッシュケース、ドスの効いた、綴り、綴り、岩下志麻を娶り、綴り、綴りしているかの如き風貌。
長い! 無駄に長い!!

2008年05月30日

2008年05月30日 奇跡のエロス

ベレー帽のオジサンがアナタの眼前を横切ったのであれば、彼は幸せの簒奪者なり。身ごもれ! いや、身構えろ!だった…


どーでもいーかもしれぬが、とりあえずは十人十色なる四字熟語を念頭に置かれたい。そして以下のサイトを閲覧されたし。


クローズアップ『鈴木 亜美(スズキアミ)』|エキサイトミュージック(音楽)


このサイトに於かれまして見られます鈴木亜美の写真は凄まじい。とんでもない写真を発見してしまった。コレはほぼ完璧なるエロスの体現であります。斯かるエロスの女神を放置しておくのも無念でありますから、とりあえず私は保存したのであった。(実は私、偶然にもこのページに達した時、「ふーん、鈴木亜美か…」と思っただけですぐに別のリンクへと飛んだのでしたが、瞬く間に「・・・!!? アレ? ちょっと待てよ!?」と思い直し、再度戻ったのです。戻って良かったー!)


顔の角度、頬の質感、髪型、変な花、さりげない手・指、腕の太さ、ふくらはぎ周辺のドレスの透け具合、足の部分、全てに渡りエロス偏差値83を維持してある。コレで彼女が「もう飽きた」と言えば、愈々完璧に成り果てる。なぜ「もう飽きた」であるかと申しますと、ソコには媚態が存せぬからです。
哲学者の九鬼周造は『「いき」の構造』において、広く人口に膾炙している如く「いき」(粋)を構成する要素の一つとして「異姓に対する媚態」をあげたが、私の場合にあってはおよそ軸を異にする。すなわちエロスとは、畢竟マゾヒスティックとサディスティックのせめぎ合いでございますから、この場合、彼女が纏う純白のドレスはマゾヒスティックの象徴であって、変な花は屈折した魔性性を暗示する。この花には葉が付属しておらず、ソレは実直に己の欲求のみを果たしたいとする直線的な願望を表すのです。而して拍車をかける相乗効果として茎は長く若干の湾曲を伴う。ココに至りその希求致すモノのやや世間ズレした感を漂わせますと共に、絶頂への過程の短縮を峻拒する繊細な意思が垣間見れるであった。端的に申せば、マゾヒスティックの中に芽生えるサディスティックへの或るアピール、…言わば自己の内面世界に根付くエロスの欲望を現実の手段で以て達成せんとする豊穣な野心を見出すコトが可能であり、ソレが明らかになるのが、挑発的な開放感を連想させる適度な足の開き具合と、更に敢えて視線を高所に向けたトコロに生ずる「もうソレ興味ないの」と言わんばかりの愛想の打ち消し、次なるモノへの期待であります。後者はマゾヒスティックの貪欲性と能動的に結びつく魅惑を持つ。斯様なワケでして、ココにて漸く拝聴できます媚態なき「もう飽きた」の声。ソレはマゾヒスティックがサディスティックに覆い被さった状態──マゾヒスティックに導かれるサディスティック、という元来ありきたりなエロスに対する逆転現象の確立──なのです。


コレは素晴らしい写真だ! この写真を撮影したモノは天才だ!
エロスの基準も十人十色でありましょうが、私にとってコレほど完璧なエロスの表現はもはやあり得ぬように思念されるのでした。まさしく奇跡の一枚!!

2008年05月27日

2008年05月27日 「人権」は中耳炎になれ!

何かが生ずれば我先にと半裸で荒野を闊歩するが如く「ソレは民主的じゃない」などとほざき立てます思考停止中のコメンテーターは悉く急所を蜂に刺されれば宜しいのです。
嫌いな言葉は「民主主義」なのであったが、しかし現状にてはソレに代わる制度というモノが存せぬのも事実でありますから、或いは好きな言葉も「民主主義」なのかもしれません。ただし、暫定というカッコ付きでのおハナシ。


しかしながら、他方で、中学生の時分から「人権」なるモノには無気味な影を感じておったのですが、最初、新井英樹氏が「ザ・ワールド・イズ・マイン」に於いて以下に見られるセリフを須賀原譲二に発せさせたのを見出して以後は、漸次ソレが胡散臭いモノであるかの如く思われ始めたのである。


人権を差別せよ。
自ら社会を逸脱する者にその生における平等はない。
人命を差別せよ。
社会と個人の命を秤にかけた時、民主主義は迷わず社会を選択せねばならない。
「ヒューマニズム」を差別せよ。
その言葉の響きに酔いしれ 思考を停止した者のみが殺すことをすべて悪とする。
人間とは あまりに不完全な度し難い生き物であるにもかかわらず、
神をも恐れず懸命に守るべき命と葬るべき命を常に選択してきたのだ。
ならば 差別すること 殺すこともヒューマニズムである。
──「141 勝者なし」


その後、“封建主義者”である呉智英氏を始めとする数名の「人権」批判を目にするに及び、矢張りソレは猛毒の魔語ではあらぬかとの疑念を抱く。而してフランス革命に対峙したるエドマンド・バークが「人権」への嫌悪感を表明しましたコトを以て、愈々私の裡にあっても、もっと「人権」は疑われた方が良い、もっと懐疑的眼差しで検討されるべき事柄である、と主張したき今日。
どうも「民主主義」は嫌いであると申し上げるワケにもいきませんが、「人権」だけはキライでしかないんです、と明確に言える。果してソレに依れば「解放」されるらしい、人間が。何からの解放? 知らん。知らないでも宜しいのですヨ、「解放」されるのだから、ってのが「人権」ですかい? なんとまぁ、「人民解放軍」にも負けぬ劣らぬの詐欺的名称ではございませんか。それならば、冒頭に挙げた「民主的」の三文字で以て現状批判した気になっておる愚劣な下等生物にも負けぬノータリン(死語)。「人権」なんて水虫になってしまえ!

2008年05月23日

2008年05月23日 フーフーする小粋

暑過ぎて沸点に到達致しました上に、部屋の温度が遮二無二下がろうとはせぬから、三十分ばかりエアコンを稼働させたのでした。初エアコン、略して“はエコン”、蠅来ん、と覚えれば吉。
しかし、斯かる暑さの中にあって、実家から新茶が届いた。煎茶であろう。ほうじ茶ではない、疑いなく。祖父が半ば未開人の如く、山中で生活をしておりますから、ソコに存するお茶畑で採取したお茶をコチラに送付してきた次第。ジャパニーズ・グリーン・ティーは普段ペットボトルくらいでしか摂取しません。それ故に急須がないから万事休す。ダジャレを言ったつもりはない。如何したモノかと苦慮して思慮した結果、レンジサーバーにお茶っ葉をぶち込んで、お湯を注げば、見事に急須に成り変わったのでございました。天晴!
元来、非常に小さき何とか焼きの湯呑みは保持しておったから、レンジサーバーから湯呑み(小)へとお茶を注げば、果たして和洋折衷の完成哉。こうして湯呑み(小)で暖かい煎茶を飲み下すってのは、何とも小粋なモンであります。
だが、しかし、これからの季節、暑き茶を飲みまくるのは過剰な努力を要す。それともフーフーしながら汗かき汗かき流し込むのが別段小粋なのでありましょうか。それならば小粋すらをも放棄致したく存じ上げる。


付け加え。
さて、まさか二日続けて両横綱が破れ、琴欧洲が優勝するであろう流れとは!
正直なハナシ、もはやムリであると思った。琴欧洲は千代大海の偉大な後継者であるとも思った。先代に捧げる優勝か!
それにしても、朝青龍も白鵬も驚くべき失速具合である。立ち会いから完全に相手に形を作られておるようなのが横綱であろうとは、何たる過激なノンフィクションでありましょう!?

2008年05月21日

2008年05月21日 ↓ダウン↓

共和党のマケインさんを徹底無視したくて致し方のない日本メディア。
オバマよりマケイン!


キムタクがカップヌードルのCMでフォークを用いておるのが気がかり。
カップ麺は割り箸!


Matchbox Twentyの「Black & White People」はイイ曲です。

So one more day down
And everybodys changin
One soft sweet sound
Is just enough to clear my head

2008年05月20日

2008年05月20日 バラバラ

レポートを書くので忙しい。隙を見つけてブログを記し上げる。私は短期集中型。小分けにするのが誠に苦手なのでした。だからレポートにしても、二日以内でパッパと綴りたいのであった。修論の素材になりかねないモノなのであるからして、それなりに本気で書きたいのですが、お相撲をテレビジョンにて観戦しながら書きつけた一品に如何程の有効性存す?
それで白鵬が負けた。千秋楽までは負けそうにない予感でありましたけど、まぁ、今日のは内容的にはやむを得ないトコロもありました。而して琴欧洲がまさかの単独トップ。全勝なんて! その勝ち星を千代大海って大関のヒトにも分けてあげれば良いのに。


バレーの最終予選とかいうのをやっている。バレーって日本でばっかり開催されているように思うけど、気のせいかしらん。知らん。


平川地一丁目が解散するらしい。弟がイケメンなのは記憶済みでございます。
しかし、兄弟でやっておったのを解散するってのは、フツウのバンドやユニットの解散とは異なり、いわば別居状態になるが如し、であるのでは!?

2008年05月16日

2008年05月16日 一行の偉大さ

暑い。
ビートルズを聴いておる。
早起きをしました。
冷奴に冷酒が美味の季節であることの実感。
酔った。
J・S・ミル『自由論』を通読、やはり不愉快な本であった。
ハイエク『自由の条件』が如何に優れていますコトか。
the band apartのニューアルバム、変わった! バンアパが変わった!
オリジナルがオリジナルへと達する目前。
カール・ポパーを精読致したい。
本日は四時間ばかりの睡眠時間なり。
バカリズムはいと面白き。あのキャラもやうやう好みつ好まれつ。
「エドマンド・バークは絶対に必要だ!」
センセイが斯かるコトを申すのを傾聴致して嬉しくなった。
柳田國男をメインに研究してきたようなセンセイなんだけど。
バークと柳田、コレは正しく橋川文三の影響でありましょう。
決める、ほぼ決意しかけておる。
俺ぁ、自分で確定申告をするような仕事に就く。
サラリーマンはどう考えてもムリだ。
もしくは特殊な世界、特殊な会社に紛れ込むか。


暑い。
ずっと「A Day In The Life」が一番好きな曲なのです。あらゆる曲の中で。

2008年05月12日

2008年05月12日 愚者の選択

松本人志が硫化水素自殺で「放言」 「アホが死んだら別に俺はええねん」


何がいけないのであろう。
「アホが死んだら別に俺はええねん」って日本語はオカシイけど。
誰も擁護する積りはなく、単に自殺を峻拒致す。
こうした発言を問題とする生物の背後には、日教組の思想に共感して堪らない輩の、やれ「人権」だのやれ「平等」だのとほざき立てる頽廃した頭脳と相通ずるモノを感じ取らずにはおれないではありませんか。そういう害毒こそ真っ先に消毒せねばならぬ。と思い続けて・・・
ところで、G.K.チェスタトンがこういうコトを申し上げた。ソレを思い出したので、ココに綴っておきたい心境。


自殺は単に一つの罪であるばかりでなはない。自殺はまさに罪の中の罪である。究極の悪、絶対の悪であって、生命の存在そのものに関心を持とうとせぬ態度にほかならぬ。生命にたいして忠誠の誓いを拒否することにほかならぬ。(中略)象徴的に言って、彼の行為は、どんな婦女暴行よりも、どんな爆弾狂の破壊行為よりも性が悪い。なぜならば、それはあらゆる建物を破壊し、すべての婦女を辱める行為だからである。泥棒ならダイヤモンドで満足する。ところが自殺者はそうではない。そこが自殺者の犯罪たる所以なのだ。(中略)物を盗むということは、盗まれた人のことは大切に思わぬとしても、盗んだ物を大切と思えばこそである。ところが自殺者は、地上から何一つ盗もうとしないことによって、地上のあらゆるものを侮辱するのだ。花のために生きることを拒否することで、あらゆる花をけがすのだ。彼の自殺が嘲りとならぬものは、たとえどんなに小さな生き物であろうと、この宇宙の中にただ一つとしてない。木の枝で人が首をつれば、木の葉は怒って散り、小鳥は憤激して飛び去るだろう。みな、自分に直接個人的な侮辱を受けたからである。(中略)自殺者は、自分以外の何物にもあまりに関心を持たぬ結果、もうこれ以上何も見たくないと思う人のことである。
『正統とは何か-新装版-』 春秋社 一二五〜一二六頁


激越です。あまりに激越です。
事前の想定に反して、この文章を引用してしまえば、もう私の記し上げようとするコトなどどーでもいーと観念致した。
自殺するという愚行、それは遺族にまでも恥をもたらすモノであって、あらゆる面において同情する余地なしでもあって、而して同情は偽善であって何でありましょう? 「遺族の感情を逆撫で」云々。ソレでアナタの胸中が満潮になると証言して頂けるのであらば、コレはもう果たして十分誠に結構な仕業だ。
そうして、斯様な時に、或る者は烏合の衆を味方に備えたと決め込みまして、嬉々として安っぽい“ヒューマニズム”を振りかざしながら何やらを絶叫する。──それがマスコミの正体でなくして何であろう。それが日教組の正体でなくして何であろう。それが人権屋の正体でなくして何であろう。斯様な流れで以て、最後にこう言っておきたい─「人権」なる二文字に象徴されるモノは、往々にして“理性”と書かれた衣を纏った酔狂による危険な綱渡りを見るが如し。
世の中には<尊重されなくなる>モノとて確固として実在するというコトを、それとなくココに置いていかんとする行為であった、今日のコレは…

2008年05月10日

2008年05月10日 禁忌

昨日、昭和八年に出版されてある『ジョンソン博士とその群』なる書の一部にエドマンド・バークに関する論考が収められてありますのを知ったので、早速図書館へと赴き、その一部を入手したのであった。そして現在半分程読んでいるのでしたが、何と申しても今から七十五年ばかりも前に世に出されたものであって、およそ現在単発的に出されておるバーク論とは一味も二味も異なるです。そもそも戦前に著された論考、論説、論文等は、現在流通してあるモノと著しく型を異にする場合が間々ある。ソレらの多くが──例えば今日の学者のセンセイが書き上げる論述と比較した場合においては──要点をパッパッと羅列し、それを華麗に連結させるといった具合の業で以て構成されているかの如くに思うです。つまり、今日的なソレは微に入り細に入り適切な例証等を一つ一つ御丁寧に試みんとするのに比し、昔日のソレは、必要なる最小限度の部分だけを適宜準備し、列挙し、そして一気に縫合するといった手合いの構成でありまして、予め読者との間に何らかの意思疎通を前提としておるかのような…そうした“オーソドックス”な、或る意味で潔さとも言える感が存する。而して斯かるモノこそ、元来日本人の<性>に合うのではないでしょうか、などと思うのであって、こうした要素こそ戦後の日本に欠落したモノではあらぬか、左翼の丸山眞男共が勇んで否定しようとしたモノではないか、とは過剰に過ぎる先物取りの暴論ですが…結論─戦後は宙に浮いた空論ばかりであった。故にマルクス、ルソー、ヘーゲルなどが好まれるのに、バークやトクヴィルは数年前までほとんど顧みられるコトが無かったのでありましょう。


と・・・こうした無理早急な見解の後に続くコトは、改めて思うに、論文を記し上げるに際して、幾らルソーやヘーゲルが百害あって一利なしとはいえ、資料として手元に置いておくコトの必要性を日々痛感致していた、ってな事態です。今に至るまで、それらの悪魔の書物を購入するコトは、岩波等の出版社に金を投げ渡すものであるとの罪悪感を抱き、それによる苦悩、葛藤もございました。だが、常にそれらの誤謬を確認してゆくには、わざわざ図書館から借りては返却し、借りては返却しの日々にサヨナラを告げねばならぬ。そうでありまして、とりあえず以下の奇怪なる書物を新品で購入するのです。計おそよ6100円の<壮大なる無駄遣い>。


ルソー:人間不平等起原論・社会契約論
デカルト:方法序説
ホッブズ:リヴァイアサン(2)
ヘーゲル:歴史哲学講義 (上)
ミル:自由論
ロック:統治論


ロックの『統治論』はさほどでもないのでしたが、それ以外の書物はサリンにも匹敵する危険性を備えてある。上のルソーから、読みながら「コイツ、アホやろ!」と突っ込まずにはおれない有毒性を強く包含する順に挙げた。妄想と偏屈の塊。そういうコトであるからして、amazonで購入したのだけど、コレらの本を箱に詰めたヒトは、或いは「とんでもない時代錯誤の哲学(というよりこの場合はただの“虚妄”)愛好者がいるなぁ」と思ったかもしれん。そうです、時代錯誤なんです。愚痴にも遠吠えにもならぬ負け犬。明日からお相撲さんはいつも通り土俵に上がるというのに。

2008年05月07日

2008年05月07日 ストレス掃き溜め場

チッ 届く予定の荷物が届かぬ。大体メール便はいつも遅いんだ。一回国外に出ているのではないかと本気で疑ってしまうのでした。えっ!?何故にこんなに遅延? 何経由? 首都圏発モスクワ経由西日本着とかそーゆーんじゃないよね? 如何なる由縁、如何わしき事態。もしかして飛脚? えっ!?この時代にもしかして飛脚? そんなワケはなかろうに…
メール便なんて役立たずだ。料金をうんと値上げ致して、利用者をして通常宅配便を使用せしめるようにしてしまえ。まさかの「して」三連打である。


夏場、汗をかいてかかぬフリを決め込む夏場。もうすぐだ。本日性急にも蚊を発見致したのであります。死ねば良いんだ、夏なんて。低い部屋にいるのを忘却して、テンションが上がりまくって飛び上がった拍子に頭を強打して死ねば良いんだ。
そして早くメール便よ来れ!!

2008年05月02日

2008年05月02日 ワイルドで行こう!

よし!今日は半袖で行くのだ!と決意したのでして、而して学校へ行ってみれば、見事に半袖野郎は私だけだったのである。何で? 何でじゃ、何でやねん! 何ばしょっと? お外に出る前にいいとも!を見ていたら、さまぁ〜ずもオリエンタルラジオも半袖を着用致しておりましたって事実も存するのですが、斯かる事態は何人たりとも眼中になし? いやはや皆芸人ではないか。いや、しかし、半袖=芸人なる法則は当然毛頭成り立たぬ。むしろ半袖=原始人の方があり得そうなモンではありますまいか。けれども、畢竟ソレも「イイ国作ろう関東大震災」と覚えるくらい甚だしき誤りでございまして、実に片腹痛し。モチロン、決して半袖に着られていたワケではありません。ソコはキッチリと豊穣に万全体制であった。にも関わらず・・・
私は毎年ゴールデンウィークに境界線を、春と夏の峻別を挙行するのであった。ゴールデンウィークを以て扇風機とTシャツがご光臨致す。となれば、私にとっては、「え? 今頃まだ長袖?」となるのでありますから、コレはコレでハチャメチャだろうかしらん? 
―まさかの疑問形でした。誰に尋ねているでもない独り言で疑問形なんて白痴だよ。しかも高々半袖を着た着ないの話題でココまで書き連ねるとは白痴だよ。それに何が「扇風機とTシャツがご光臨致す」だ、白痴だよ。


今週発売された『別冊 ヤングマガジン』に掲載の「RIN」最新話は誠に素晴らしい。試合の描写もさることながら、各登場人物の言動が秀逸。コレは或る種のカタルシスでもあろうか。天才は、偉大な才能は、あらゆる凡人の膨大な努力を笑いながら一瞬で破壊するのです。確かに愉快千万。ヒトは、屢々或る破壊に対しては賞賛に近い感情を伴って歓迎し申し上げる。およそ自己とは無関係の地点において、瞬間的になされた破壊行為は、愈々人々の胸中を掻き混ぜ、カタルシスをもたらすのです。ソレを悲劇の一端であるとも知らずに。いや、悲劇であったればこそ、真に感嘆するのではないか。すなわち、悲しみの裏には歓喜―嘲笑、愚弄、蔑み、諦観に基づく奇怪な歓喜―が存するのではございませんかいな。
分かり易く言おう。かつて曙が(本人にとって)可能な限りの努力をしてリングに上がってはKO負け(見事に無様に)、また(本人にとって)可能な限りのトレーニングをしてリングに上がってはまたKO負け(華麗に無惨に)を繰り返していた日々、あれなぞは或る一面から見れば明らかな悲劇です。しかも、救いようのない、手の施しようがないレベルの悲劇なのであったが、然るにヒトはソレを笑った。コレとて物凄く小さな、異常に小ぃさなカタルシス、重箱の隅を突き回した末に漸く見えて来るか来ぬかといったレベルでの極細のカタルシスであろうことは、およそ見方によっては真実らしく思えるのであります。ただしこの場合、曙自身が己の悲劇性を奪い、喜劇的要素が前面に進出してきたコトにこそ最大の問題がありそうなのだが、ソレはまた別のコト… そうして上記の如きモノは、斯様な性質(=歓喜を大いに伴った悲劇性)をより顕在化したモノであると申し上げるコトにおいて、私は些かも吝かでないのである。


今日のまとめ:ちょっと長く書きすぎた。

2008年04月30日

2008年04月30日 未だ静閑成らず

ガソリンの値上げ。元来有限の物質である以上、いずれ底をつくのは分かり切っておるはず。ソレを承知の上で今日未明まで恩恵に与ってきてあるというコト、然るに値上げに際して文句の垂れ流し、民衆の傲慢さ!? ココに極まれり、である哉。なんてね、ル・ボンの『群集心理』を黙読致しておりましたら、斯かる一節が字にはならず空漠として脳内を徘徊するのでありましたから、敢えて文字に起こしてみた次第。
それでは…オアトガゼンゼンヨロシクナイヨウデ。

2008年04月25日

2008年04月25日 貼付けられろ!

喫煙者全員、イタズラ小僧に灰皿を天井に貼付けられてしまえ。そして喫煙者が普段通りにタバコを吸おうとして火をつけた後に、灰皿が天井に貼付けられているコトに気付いて困れ。困りまくれ。アホだから一度貼付けられている灰皿に灰を落としてみたけど、案の定灰はそのまま下に落ちてきてカーペットが焦げろ。

2008年04月22日

2008年04月22日 No nonsense No life

徹底的にPerfumeの良さが分からんのです。幻影じゃありませぬかい? 15年後に同じテンションで聴けますかい? 短絡的な… ほとばしる倦怠感。遅れてきた斜陽族やがな。色んなモノに「お」を付与しそう。本人たちは「おPerfume」って称してそう。「お歌番組にお出になるために、お六本木のおテレビ朝日にお出かけになって、おタモリさんとお会いしたの。お楽しくお歌わさせてお頂きおました。」 斯様なコトを先日のミュージックステーションを通じて思ったのであります。ソコにはACIDMANも出演中であったが、実は彼らも苦手なのだった。「オレたちバンド結成時からカッコイイんです。やってるコトが自然とカッコイイ感じになってくるんです。」 本人たちは斯かる<下心>の如きモノは保持致しておらぬかもしれんが、私はそうしたモノを感じ取る。受信する。
平均的な男は10代に活発さを志向し、20代にカッコ良さに憧憬の念を抱き、30代に知的なユーモラスさを探索し、40代に安定へと移行し、50代に冷静な大人の魅力を追求したがる、はず。そんな気が致します。ソレはソレで一つの在り方であろうし、悪いとは思わぬ。けれど、果たして私はそうしたライフプランを抱きかねます… 活発さ、皆無。カッコ良さ、沼に沈んだまま。知的ユーモラスさ、豚に真珠。安定、二階から目薬。冷静な大人の魅力、水と油。
10代に孤独というキーワードについて考え、20代の今に切ない面白みなるモノが存するか否かを知りたいと思い、30代以降については全くの白紙でしかありませぬのが私なのです。
タワーレコードがNo music No lifeであったれば、当方は所詮No nonsense No lifeくらいがその生涯を達観したトコロに見受けられる標語として関の山でありましょう。フンッ。

2008年04月19日

2008年04月19日 アレを阻止せよ

学校で、詳細は心得ておらぬが、「近日中に単行本として出版される予定の論文集にキミの卒業論文を掲載してあげよう。ワタシがその本に採用する論文を決められるので」とセンセイから言われて、ヒドく狼狽した私のブログです、ココは。まったくなんちゅう角度から攻めてくるんじゃ。如何なるタイプのサディスティックじゃ。確かに私はMかもしらんが、そういう類の放置プレイだけは勘弁して頂きたい。謙遜して申すのではないが、あの卒業論文は大失敗であるのです。論が錯綜している。確かに私は現実生活においても著しき方向音痴で、故に論が目的地に辿り着けずアッチ行きコッチ行きするのはやむを得ないかもしれんが、しかしそこには悔恨がある。道に迷うと涙腺が緩む。同様に論が彷徨っておるのを痛感すると、肚の据わっておらぬ我が臆病さを嘆きたくなるのでした。加えるに斯様な論文集には、書き手として一流二流、或いは三流の大学教授などの論文が併せて掲載されておるワケでして、例え幾ら三流の論を展開する教授であっても、ソレは一応教授なのであるから、私との差は一目瞭然、斯かる専門の研究者の著したモノと対比されたならば、さすがに白痴の如き学生でしかない私の論文など忽ちにしてその稚拙さが露呈し、嘲笑されるコトは必至である。まさに晒しモノ。従ってこの度のセンセイの突拍子も無い野望だけは何としても阻止せねばなりません。場合によってはセンセイの飯に毒を盛るというコトも…
とりあえず最初の段階と致しまして、センセイの前ではずーっとスティーヴィー・ワンダーのように顔を上げて首を振り続けてみようと計画している。無言であのように首を振っておれば、「あ、コイツは白痴だ」と迫真の気合いで信じて頂けよう。ま、そうなればゼミも変わるコトになるのであろうけど…

2008年04月17日

2008年04月17日 回れ石

現在、我が人生初のローリング・ストーンズ旋風が巻き起こっている最中です。ココに至りて今更ストーンズとは、ミニ四ブームやたまごっちブームよりも時代を遡るコト数十年の昔と同化するのかしないのかは知る由もないが、ちょっと眠いのでもーどーでもいーのである。


ストーンズの好きなアルバム ベスト5を挙げておきます。


1.「Black And Blue」
2.「Goats Head Soup」
3.「Dirty Work」
4.「Get Yer Ya-Ya's Out!」
5.「Let It Bleed」


「Black And Blue」はぶっ飛び傑作アルバムであるにも関わらず、なぜか忘却されているような気配。これほどブラックでファンキーでロケンローでダンスゥィングトゥナイッなアルバムを探索致そうとしたら、夕方中レコードショップの視聴コーナーで諸作品を聴いて回っても時間が足りず、すぐに日が暮れちゃうぜ。
あと、アッキーナ カワイイ。でも多分オレは騙されてる。まぁイイや。How I used to be… ついでに。前回の「Metal Machine Music」のヤツは、半分が悪フザケ。それもまぁイイや。何となくそういう気配を感じ取ってくれておれば…

2008年04月13日

2008年04月13日 パッチリしたい

ブラックマヨネーズはその漫才スタイルと相俟って全国放送の番組でも仲違いをよくしていますが、地元ローカルでは和気藹々としておって良い雰囲気なのであった。きっと本来は関係良好なコンビなのだと看取出来る。外見の故かイマイチ人気が上昇しないのが残念、同世代であるチュートリアルの露出具合と比較した場合、非常な物寂しさを覚ゆ。ブラマヨは若手コンビの中にあってバランスのとれたピカイチのコンビだと勝手に思っているのでして、一方のチュートリアル、というか徳井は、ルックスと裏腹にシュールな面で面白さを発揮する芸人だと勝手に思っているのでして、同じく吉本で“イケメン”などと云われておる次長課長の井上もシュールなネタでこそ生きる芸人だと勝手に思っているのでして…、というコトをまず書いた。ちゃんと書いた。それ以上でもそれ以下でもない。思いこみ。そもそも個人的な考えなどというのは、決めつけや勘違いと紙一重ではないかしらん。大事なのはその<一重>を認識できるか否かでありますが、それならば私の場合は奥二重なんです。日によってはパッチリ二重になるコトもございますが、基本的に奥二重で。家族全員二重なのにオレだけコッソリ一重と二重を往復の毎日。ソレでヤケになって、先週こたつを片付けた。もう寒がりじゃないからな! 真冬でも温度は常に「弱」くらいで。ゴールデンウィークにはいつも扇風機を出しますねん。追い風を求めているのだけど、気付けば扇風機は常に向かい風であります。あっ!コレが原因か!? ずっと扇風機の風に向かっておるから、つまり四六時中向かい風と接しているが故に実生活でも追い風が吹かぬのか。試しに今から扇風機を破壊する。そうすれば運気も開けるような気がしてきたのであります、ありやす…アリアスという野球選手がいたなぁ。扇風機を壊すトコロからが俺流開運法のはじまりのように思う。そもそも個人的な考えなどというのは、決めつけや勘違いと紙一重だ。ちなみに今日のおやつはクッキーです。

2008年04月11日

2008年04月11日 世界は我が手中に

欲せられず欲せず。意味が分かぬ。ガンジー主義の偏屈。下宿をしておるのですが、現在私は或る陋狭なる3号室の部屋に身を潜めている。すなわち1号室、2号室と来て3号室が当方の軟禁箇所。そうして隣から4号室、5号室と当然の如く続いていくのであったが、今春より何と!両隣(2号室、4号室)に存しておった気狂いの住人が去り果てたのでした。而してその隣の部屋、つまるところ1号室と5号室も元来空き部屋であった故に、歓喜すべき哉、1〜5号室までの室で生物が闖入してあるのは、私が身を投げ出す3号室だけなのである。祝!閑散。ただ、それほど古い建物でないにも関わらず、この入居者の無さは逆に不気味なのです。
両隣に気を遣う必要なく、更にその隣―両々隣をも遠慮の対象外とした。しかも一番上の階におります、よって最早同一建物内の住人が発する奇声、嬌声、猥雑なる騒音に悩まされるコトは限りなく無に等しい。加えるに“学生専用”の賃貸部屋であるから、向こう一年は安泰。そして一年後には私もココを出て行く。天晴。これこそが「The World Is Mine」の世界。無敵である。音の消えた世界。無敵である。
今迄どれほど隣人の騒音にストレスを蓄積してきたことか。俺のこの気持ち、リリース&フリーダム。意味が分かぬ。幾度深夜に管理会社へ苦情の電話を申し入れたと思っているのです!? 順を追って書いてやろうか。まず、私がこの空間に侵入してきて二日目、いきなり隣の2号室の奴が宴会騒ぎで夜半にはSEXの嬌声。オイオイ、随分と挑発的な歓迎ではないか。それ以後も幾度かの痴呆的馬鹿騒ぎ及びSEXにより私は管理会社に苦情の電話を入れる連鎖反応。そうすると2号室の野郎(偶然にも早稲田に設けられていた生ける屍サークル=スーパーフリーの主犯格と同じ名字のヤツであった)は逆襲を仕掛けてきやがったのです。すなわち、私が少しでもテレビの音を上げてみれば、壁を非リズミカルに叩きやがる。そこで私は決意致しました。
「そうか、そうくるか。それならコッチは徹底的に沈静してやるから、もしソレで貴様が狂騒すれば、俺は容赦せぬぞ!管理会社のヒトに頼んで注意してもらうからな。俺は怖いから直接注意しないが、管理会社にはそういうのを注意してくれるお方がおるので、そのヒトに目一杯懇願するからな!」
ここからは一進一退の攻防。手に汗握る睨み合い。が、この気狂いは翌年退室したのでした。祝!精神の病んだ奴淘汰。そして新たに潜伏してきたのが、異様に足音のデカい変人。お前、絶対泥棒できないわ、と誰もが思うデリカシー皆無の足音でありまして、イカしたロックバンドのベースも顔負けの低音の響き。ドスドス。コレを以てしても苦情の電話に値するが、私は動けませんでした。なぜなら「隣の騒音の件でお電話したのですが、あのぉ〜、隣のヒトの足音がですね、ちょっとうるさ過ぎて…」などと電話を入れたら、逆にコッチがアホみたいに神経質な輩だと思われて管理会社のモノから相手にされぬのではないか、との危惧が生じたからなのです。しかし床の振動が部屋伝いに感ずられるまでの凄まじさでしたから、考察の仕方によっては下の階の方がよほど迷惑であっただろうと同情致す。彼奴も今春で退室し去った。去れば去る、去らねども去れ。漸く訪れた平穏。祝!小太鼓退散。これが2号室の場合。
3号室。コチラは私がココに投げ入れられた時から今春まで同一の住人でありましたが、彼は単純にアホであった。夜中に決して高くはない歌唱力で大滝詠一サンの「恋するカレン」を歌い出したかと思えば、これまた深夜に洗濯物を干しながらエアロスミスの「I Don't Want to Miss a Thing」を外に向かって熱唱するといった具合で、さも己の歌唱力を町内に響き渡らせんとするかの如き野心を抱いていた、のかどうかは不明なのでございますが、兎に角、周囲を顧みず中途半端な歌唱力を披瀝されるのだから堪ったモノじゃない。コイツは奈良の騒音オバサンのフォロワーだ。だが、私は歌の害によって受話器を持ち上げるコトは避けた。ソコは許容した。しかし、コイツも定期的に夜中に宴会騒ぎのようなコトを主催するので、ソッチの方で5回くらい管理会社のオッサンに頼った。我一切を関知せず。だ、誰がヘタレやねん!


両隣が騒がしく、ソレに神経を尖らせて苦情の電話を申し入れる当方、そのオレが逆に隣人から騒音で苦情の電話を入れられたのでは元も子もない、斯く思慮しました私は、ココにおいて徹底的に沈黙を維持することに努めた。その結果、彼らからの苦情は一つも存せぬという最低限のマナーを厳守し得たのでありまして、実に優等生だ。その甲斐あって、今日、閑散とした空間でテレビの音も以前よりは2くらい上げておる。さすがに5もランクアップするワケにはいかぬので2の上昇に甘んじておる。資金さえ所持していましたら気兼ねせずにデリヘル嬢をお呼びしても良いのかもしれぬが、遺憾ながら貨幣も紙幣もない。平和勝ち得て金運勝ち得ず。こりゃ宿命だろうか。

2008年04月09日

2008年04月09日 今回は題名が思いつかない

年に一度あるかないかでいえば、あるといわれている健康診断で、骨折を一度も経験したコトがない程の健康が唯一のとりえであります私が、まさか検尿で引っ掛かるとは! 潜血の気配有りとやらで、来週再検査をせねばならぬ。そりゃ血液は飽きもせずに全身を走り回っておるのだから、たまには尿に紛れ込むコトだってあろうに。そんなに差別化してやるなよぉ〜 そして未だに一年の間に身長が1.5センチメートルばかり伸びておる事実が判明したのです。俺の成長留まるトコロを知らぬ。貪欲、強欲、強情。残念ながら体重はほとんど変化なしで、平均レベルでしたが。まったくつまらねぇ体型だよ。早く2メートルを超えないかしらん。このままのペースで伸び続ければ“男盛り”までには2メートルくらいにはなる!多分。その自分まで生きていればのハナシ。
そして、視力検査ではメガネを自宅に忘れてきたため、裸眼で計測する無惨な事態になりまして、両眼ともに0.2であった。外出時は決してメガネをかけぬ信条がアダとなった。それにしましても私としては0.5くらいの視界を確保しておるつもりなのだけれども、数字は残酷だ。容赦ない。だが、不便じゃない。景色は見える。また、メガネをかけてヒトの顔を見たら、当然の如く裸眼の状態よりはハッキリ視認できる故に、必ず「うわっ、このヒト、意外と肌荒れてるなぁ」とか「ああ、このヒト、ハッキリ見ると髪の毛汚いなぁ」などと思ってしまうのですから、要は私の場合、あらゆるヒトに対して裸眼で接した方が相当キレイなイメージを相手に抱けるのであった。見え過ぎるコトは常にショックをもたらす。
あとはレントゲンの異常と再度の尿検査で異常が判明せぬコトを祈願するのみ。まぁ、仮に多少の異常は良い。だが、病院で精密検査を受診しろなどという事態になりましては、甚だ面倒この上ないので、そういうのだけはご勘弁を。親より早く死なぬのであれば、短命であっても良い、と誰かが言っておったようなおらぬような。そういうコト。

2008年04月07日

2008年04月07日 とても恐ろしい。

山崎まさよしの「One more time,One more chance」は、彼の代表曲でもあるが、やはり傑作なのである。M−1決勝でチュートリアルが自転車のちりんちりんネタの中で用いたコトも相俟って、私はこの曲を聴くと笑ってしまうのであります。


いつでも捜しているよ どっかに君の姿を
明け方の街 桜木町で
こんなとこに来るはずもないのに


いつでも捜しているよ
どっかに君の破片を
旅先の店 新聞の隅
こんなとこにあるはずもないのに


何故に斯様な歌詞にしたのでございましょう。捜している有り様がややズレておるように思われて仕方ない。微妙に危なっかしい男の香りも漂っています。
「向かいのホーム」や「交差点」までは納得できるのであったが、「明け方の街 桜木町」であるとか「旅先の店 新聞の隅」までとなると、ちょっと必死過ぎてこの一歩先には犯罪の予感を感ずるモノもいるのではないか。未練が半端ではないのでした。通り魔やストーカーの偏狭的思考と斯かる探究心―あえてそう呼ぶが―はおそらくどこかで重なり合うモノと思わずにはおれない。この男の中に存する「こんなとこにいるはずもないのに」という気持ち、このバネが吹っ飛びたる瞬間において、すなわち「ここにいるはずであるのに」へと変質致しました時に、犯罪は生まれるかもしれませぬ。そう思わざるを得ないほどの<怨念への変転を心待ちにしているかの如き情念(=未練)>をココからは感ずるのです。とても恐ろしい。
「One more time,One more chance」を欲する心情、コレが殺意を含む超能動的で猟奇的な探究心へと男を駆り立てぬようなコトが決して無いようにお祈りをしなくてはいけません。とても恐ろしい。
この曲がヒットした由縁は、以上の通り、男の<紙一重>の心情が衆目の関心を喚起せしめたからである…ってコトにしといて下さい。呉々も「死別した相手を想ってのことだろう」などとは言わないように。

2008年04月06日

2008年04月06日 片目物語

山の老人は自然のお喋りが大好きでした。山々の囁き、大地の叫び、風の励まし、雨の眼差し、そんなものたちといつも触れ合っていられることに幸福感を味わっていました。老人に家族はありませんでした。結婚もしませんでした。両親は老人が青年の頃に天国か地獄かに旅立って行ったので、それより今に至るまで一人で、自然と一緒に春の日差しの日も初夏の緑の日も晩秋の落葉の日も冬の白の日も過ごして来たのです。寂しいとは思ったこともありましたが、その度に自然の声援を聞いたので、老人は気力が湧いてきて畑仕事もどんどんこなすことができたのです。
老人に口は必要ありませんでした。彼は自然のお喋りが大好きでしたので、彼らの声を聞き逃さない耳だけがあれば、心は膨らんだのです。


山は言います。「お爺さん、心細くはないかい」
大地も言います。「お爺さん、怖くはないかい」
風も負けじと言います。「お爺さん、寒くはないかい」
雨も加わって言います。「お爺さん、冷たくはないかい」
老人は久しぶりに声を出しました。「ワシは平気じゃよ。いつも君たちが傍にいてくれるからのぉ」


山が言いました。「でも、お爺さんの近くにばかりいるわけではないよ」
大地も言いました。「お爺さんは自分を誤摩化しているだけじゃないのかい」
風も言いました。「お爺さんはあっちの空ばかり見て、こっちの空の色を知らないんじゃないのかい」
雨が最後に言いました。「お爺さんは何のお話もしてくれないや。いつも聞いているだけで、それじゃ僕らは面白くないやい」


老人は何かの言葉を口元まで運んできたのですが、ぐっと抑えて下を見ました。地面が初めて冷たく感じました。地面を温かくしたいと思いましたが、どうすれば良いかは知りませんでした。
山と風が言いました。「お爺さんと僕たちは近いようで遠いのかもね」
大地と雨が言いました。「隣町のお爺さんは物知りだからいつも楽しいんだ。でもこっちのお爺さんは没個性的過ぎていけないよ」
そうして自然は隣町の老人を目がけて走り去って行きました。


老人は独り取り残されたのですが、彼らがまた戻ってくるのを待とうと思いました。彼は喋ることがありませんでしたが、気持ちだけはずっと同じままでいたいと思ったのです。
老人は生き抜くことがヘタクソでした。


皆が隣町の老人から離れて戻ってきたときには、もうこっちの老人は天国か地獄かに移り住んでいたのです。それで山は老人を悼んで花を目一杯咲かし、大地は老人が生きていた場所をしっかりと包み込み、風は沢山の種を運んできて、雨は植物が生き抜けるように思い切り水を分け与えたのです。


これが片目の老人と自然のお話です。

2008年04月03日

2008年04月03日 隴を得て蜀を望む

最近いろんなサイトを閲覧しているのですが、本当に色々なタイプのものがありますねぇ。純粋に感動するようなものもあれば、なんでこんなものがあるんだというようなのもあります。理解できないようなサイトを閲覧しているときに、私は「コイツは何を考えてこんなサイトを作ったのだ」と思うわけですよ。それは良い意味でも悪い意味でも。けれど、世の中はまともなヤツとおかしなヤツがいて成り立っているように、サイトだっておかしなサイトとまともなサイトが存在していないとダメなんじゃないのかと思うわけであります。だって世の中のサイト全てがまともってのはつまらないじゃないですか。(中略)私はとびきりおかしなサイトに出くわした時、それにある種の憧れのようなものを持って、俺もこんな変なサイト作ってみたいな、と思うわけであります。サイトなんてのは、そのほとんどが何かしらの情報を提供するものですが、一方でそういったものを完全に無視したモノが存在しているということに、非常に面白みを感じるわけであります。(中略)私はサイトというものは一種の自己表現の場としても使えると思ってます。現実世界とネット上の世界は明らかに別物ゆえに、現実世界では表現できないようなことをネット上の世界で表現するのも一つの手段だと思ったりします。現実の世界とネットの世界、この両者をはっきりと意識した上で、作り上げるおかしなサイト。ネットの世界でのみ作り上げられることが可能な世界。そういうものにいつか挑戦してみたいと思うわけであります。


コレは二〇〇五年の一月二十二日(土)に今は無き旧サイトに私が記し上げた雑文なのです。タイトルは「いつかやってみたいこと」 齢十九の時の羞恥。
先ほど、偶然そのサイトを保存してあるフォルダが発見されましたので、郷愁の念の如き感慨を抱きながら眺めておったのであるが、率直な意見としては…あまりに稚拙過ぎる文章とくだらなさ過ぎるコトしか綴っておらぬのは当時から今に至るまで一貫しておる。而してソレらの中でもコレはどうにか読むに耐える一文であると判断しましたから、あえてこの場に持ち出してきたという展開。もう苦心惨憺やる方無し、なのだ。


十代最終期の文章も今と同じく年齢不相応に雑魚でしたが、それでも実感致した、一応三年の間に多少は上達しておるコトを。良かった。ソレだけが良かった。改めて申し立てるが、前述のフォルダの中に収められてある文章の95%はココに持ち出すことが適わぬレベルでありまして、漸く上記のモノを引っ張って来れたという無惨な状態なのであります。(余談だが、ココでよく用いる「どーでもいー」なる言い回しは三年前から遣っていたコトが分かった!)
必然の如く、涙が溢れ落ちそうになった。己の不甲斐無さで初めて泣きそうになった。いや、正確には小学三年生くらいの時の運動会に於ける障害物競走で、私はダントツの最下位になりまして、やっとのコトでゴールしたら、すぐ後ろに次のグループの先頭のヤツがいた時以来の己への不甲斐無さなのでございます。


それに致しましても、今日まで斯様な文章を記したコトはすっかり忘却しておったのですが、三年後の今、「そういったものを完全に無視したモノ(=全く何の役にも立たず存在意義がゼロに近いサイト)」を運営できている事実に、自らの精神の幼稚さ、下劣さ、未発達具合を思い、また同時に今後もより一層開き直って「そういったものを完全に無視」していこうと決意し申し上げるのであった。


全く何の役にも立たず存在意義がゼロに近いサイトについては以下参照
アイツの日記

2008年04月01日

2008年04月01日 極寒の踏み絵

本日は四月一日なり、エイプリルフールなり、ってコトで嬉しがってウソをつくのは、寒い。


そもそもエイプリルフールというのは、普段嘘をつかないヒトの為にあるようなものだ。だから私には無関係である。
と丁度一年前にココに記し上げた。・・・そういうコトなのである。普段マジメなモノが意外なコトを申すから味が出るのでありまして、常にチャラチャラしておる私の如き輩がエイプリルフールだからといって、ここぞとばかりに戯言を言い立てても何の説得力も、微塵も感じられぬであろうってコト。


閑話休題。
最近、風が強し。ビュービュー吹き荒れておるのでありますが、斯かる春風の中、それにも関わらず、私は今朝、布団を干した。目一杯干した。然るに、先ほど外を見てみるに、干してあった布団が無かった。風で布団が吹っ飛んだーー!!!それに気付いた時、私は食器を洗っていたのでしたが、あまりの驚きで食器を落して割ってしまった。そう、食器を落した ショッキだぁ。


・・・当サイトを閲覧致すモノに或る種の憤慨と倦怠感と極めつけの退屈を提供したのでありました。まさか今更斯様に低俗な次元でエイプリルフールを利用するとは、よもや小学生すらも峻拒するでありましょう。このご時世に。どうだ呆れ返っただろう。パソコンのキーボードを思いっっっっ切り殴打したくなったのではないか? もうこのブログを二度と見たくもなくなったでしょう。これは一種の踏み絵でございます。細川ふみえとは無関係だけれども。ヌハハハハー


…さて、勉学に勤しも。
人格すらもエイプリルフール。

2008年03月30日

2008年03月30日 浅学非才以下の以下

無念にも喫煙者の前には「taspo」なるモノが立ちはだかるのだという。誠に面倒ではありませぬか。頭が悪い。喫煙者だけではあらず、ソレを取り巻く連中までもが低知能でした。斯様なモノに何の効果があるのかしらん。私が未成年の喫煙者ならば、平気な顔をしてコンビニで購入致しまっせ。何と浅薄な策略!頭隠して尻隠さずへ近似する稚拙ぶり。愚劣、愚の骨頂。
当方、タバコを敬遠している故に「taspo」について深くは自覚しておらぬが、こんなアホみたいなモノにも、ただでさえ乏しい日本国家のお金が用いられておるのではないか。そして斯くなるモノを運営及び管理致す団体のようなモノがあるのか否かは知らんが、兎に角その裏には胡散臭さが漂いまくっております。もしかしたらココまで見事に下衆な代物に関わらねばならぬのは、どーしょーもない喫煙者へのペナルティではなかろうか。邪推御免。嗤っちゃいますね。全く。マナーへの配慮が欠け、近所でも評判の悪い下品な私立高校の生徒どもでも、斯かる具合に存在理由の曖昧なモノを世に流通させようとは思わぬはず。
幾ら頭悪き喫煙者といえでも、さすがにコレには挙って反対の意を示さなければならぬように思うのです。さもなければどんどん<大きな組織>の思う壷になっていってしまう。身の危険が迫り来る前に、気狂いは殺害せねばならぬ―比喩的な意味で。
笑ってる場合じゃないですよ。ま、私は喫煙せぬので、嗤ってますけども…

2008年03月26日

2008年03月26日 孫がしてくれる肩叩き

今朝、お外でオバサン同士の妙な会話を聞いた。
オバサンA「今日、寒いなぁ」
オバサンB「ホント。もっと夏かと思ったんだけどなー」


言わんとするコトは解せる。だが、極論過ぎるのだ。オバサンBの宣う「夏」=「暖かい」コトを指すのであろうが、そうすると畢竟この熟女にとりて気候を表すコトバは「夏」と「冬」しか存せぬのかもしれぬ。とても寒い場合は「今日は冬過ぎるね」になり、逆に暑過ぎる時は「今日は夏過ぎるわ」となるのでありましょう。また、冬なのに予想以上に気温が高かった場合は「冬なのに何でこんなに夏なんでしょう!」と言ってしまうのであろう。
もしもオバサンBにとってこの世で最も美味しい食べ物が<オムライス>だったとすれば、次のような事態が推測可能なのです。すなわち近所に美味しいと評判の寿司屋がオープン致したので赴いてみたのだったが、その店は思っていた程に美味ではなかった。そこでオバサンBは斯く申すだろう。「美味しいって聞いてたのに、ココのお寿司は全然オムライスじゃないね」 こうなるともはや理解不能である。寿司がオムライスであらぬコトなどは百も承知なのでしたが、それでもこのオバサンの“理屈上”そうならざるを得ないのだから仕方ないのであります。
または次のような奇怪な光景にも出会すかもしれぬ。オバサンBが地球上に現存致しますモノで最も尖っていると思慮する対象が<12〜16歳くらいの男子中学生>だったならば…或る日オバサンBが裁縫をしようと針を取り出したのであるが、使い古したモノであった故に先端が欠けており、上手い具合に縫うコトが出来なかった。そこでオバサンBはその針に対して「この針先はもう傷んでしもうて、全然12〜16歳くらいの男子中学生やあらへん」と言う。完全に頭のオカシイ輩ですが、コレもそうなってしまうのだから仕方ないのです。
もう一歩踏み出せば、オバサンBの意識下において最高に気持ちイイと格付けされてあるコトが<孫がしてくれる肩叩き>であったならば…夜の生活の最中にあっても、「ああぁ〜、孫がしてくれる肩叩きィイぃぃ〜、イクぅ〜」 ・・・もうこの辺にしておきましょうではないか。

2008年03月20日

2008年03月20日 二つの家

まったく横綱には驚かされる。
四年数ヶ月ぶりに両横綱が立て続けに黒星。
白鵬も朝青龍もわざと観客を驚かしたんじゃないだろうかって具合。朝青龍に関しては完璧なる敗北であった故、アレは演出ではあらぬかと疑いたくもなるってモンでっせ。
白鵬がまんまと千代大海にしてやられた時は、ああ、これで朝青龍の全勝優勝も見えたか、と思ったのでしたけれど、まさかまさかー、また分からぬようになってしもうた。


さて、現在、金八の最終回を見ておるのですが、このシリーズを見るのは本日が最初で最後というコトになりましょうが、相変わらず安直な“ヒューマニズム”の総まとめが展開されている。いつも同じコトをやっているではないか!しかも今回は一時間の通常タイムでやらねばならぬからキツイ。そりゃ毎度毎度同じようなコトばっかりやっておっては、最終回のSPも無くなるってモンでっせ。
単純なるヒューマニズムなど毛頭重要ではない。一度ヒューマニズムに裏切られたトコロからの再出発にこそ現実味や真実味を帯びた本当に大切なモノが包含されてあると思うのでしたが、果たして斯様な考えは誤謬で、相手にされぬのでありましょうか。―金八には表しか存せぬのです。表がキレイでも骨組みが腐っておる住宅というモノはあろう。他方、表の見栄えは良くなくとも、骨組みが非常に丈夫で、大地震でも崩壊せぬ家というモノがあろう。どちらを選ぶかはお好きになさい。いざとなった折にいずれの側にメリットがあるか、ソレは敢えて申しませぬけれども…

2008年03月17日

2008年03月17日 最低

所々イヤらしいしりとりをしよう!


イヤらしい→医者→社会の窓→弩級→窮屈→突く→繰り返し→下ネタ→多量→浮気→騎乗位→イマラチオ→オーガズム→無理強い→イマラチオ→オーガズム→ムラムラ→ラブラブ→部室内→イマラチオ→オーガズム→無性にヤリたい→イマラチオ→オーガズム→昔から彼女とヤリたい→イマラチオ→オーガズム→ムッチャヤリたい→磯野ワカメ、と

2008年03月16日

2008年03月16日 内外のデタラメ

さりげなくではあるがトップページに何となく注目を集めておるらしいTwitterを導入してみたのであったが、一体何を書き続ければ良いのか迷う。こんなコトを書いているのでした。


数年ほど前から先日まで、自宅のすぐ近く(およそ50メートルほどの距離)に高架線路が建設されておりましたのですが、何と昨日からソコを電車が本格的に走り出した。新しい路線が開通したとのコト。さすがに田舎のソレではあらぬので、昼間は5分に一度くらいの割合でカァガァーーーーガラゴラガーと電車が通過する次第でして、通過する時間は短いが、一瞬だけテレビの音が聞こえなくなったりするので、誠に残念です。まぁ、ある程度離れたトコロに線路が建造されただけでも良いとしよう。アレがもし自宅の裏なら私は既にノイローゼになっているかもしらん。


「アイツの日記」を書き出してからというもの、コッチの方のブログはどーでもいーと少しだけ思い始めておる。なんたって「アイツ」は馬鹿なんだから。毎日がオカシイ。昨日(3月15日)のヤツは大して面白くもないが、今日(3月16日)のはオカシイ。やはり「アイツ」は単なる馬鹿だ。ちなみに私は「ライフ・イズ・ビューティフル」を一度も見たことがありませぬ。
特技はデタラメ。

2008年03月14日

2008年03月14日 書き出しが「恋」って…

恋、と書いたら、あと、書けなくなった。


太宰治はユニークである。
普通、書き出しでまず「恋」とは書かぬ。書くにしてもその後に何かを継ぎ足そうとして書きはせぬ。本来、「恋」は単に「恋」と書き付けるだけで完結してしまいそうなモノです。所謂自己確認。然るに、この乙女は「恋」と書いて、更にその後に何かを綴ろうとしてあったのでした。なんという貪欲さ! まだ言葉を欲するか! そうして斯かる展開で(当然の如く)行き詰まったコトをさも無念そうに受け取っておるのだから、その時点で、それだけで十分「斜陽」なのである。


そもそも「恋」から始まる文面はあまりに単刀直入及び無思慮かつ無分別でありまして、詰まるトコロ芸当が無さ過ぎて宜しくはない、と思うのです。
「恋」の後に何が続く? 何を持って来たい? それ以上に欲するモノとは?
「恋」は、冒頭の文句ではあらぬ。むしろ終盤の文句なのでございます。
一度終盤で遣っておいてから、機が熟するのを待ちて冒頭に用いるというのはアリかもしれぬが、いきなり頭に引っ張り出して来るってのは、ちょっと芳しくないのではありますまいか。
だから、一目惚れってのは冷める時には急激に冷めちゃうんだろう。なぜなら、ソレは序盤が存するのみで中盤から終盤にかけての過程が全く欠落しております、著しき未完状態なのであるから。


ああ、いけない、不似合いなコトを申しまくった。


両横綱の立ち合いが危なっかしい。
コレを今日か明日に発言しようと思っておったのだけど、今日言った次第なのでした。

2008年03月12日

2008年03月12日 日記はじめました2

強さが存するから弱さが露呈するのか。
美しさが存するから醜さが露呈するのか。
優しさが存するから冷酷さが露呈するのか。
面白さが存するからつまらなさが露呈するのか。


弱さが存するから強さが際立つのか。
醜さが存するから美しさが際立つのか。
冷酷さが存するから優しさが際立つのか。
つまらなさが存するから面白さが際立つのか。


どっちが露呈している? どっちが際立っている? どちらとも姿を見せていない?
際立つものがあれば、「愛」について、その核心に近づけそうな気がした。


ってコトを「アイツの日記」に書こうかと思ったけど、曖昧な内容だから止めにした。 ええ、再度報告ですとも。日記はじめました。(フィクション)

2008年03月09日

2008年03月09日 凸凹と相撲

上村愛子サンがモーグルの何かで総合優勝とかそういうのを達成したと云う。私は彼女が好きなのでしたが、そのワケは、あの驚くべき純粋な雰囲気なのであった。彼女と比較的同世代のモノ、すなわち私を含めて昨今の20代のモノなんてのは大抵曖昧な存在―自動車のギアで申せば二速―なのだが、それに対するに、未だかつて私は彼女よりひたむきかつ純粋に前を見つめて日々を生き抜いておるモノを、ほとんど知らぬ。


大相撲が始まる。浪速にて。
朝青龍に頑張って欲しいのですが、白鵬もやりよる。
それ以外の連中は、頑張ったようでも結局は優勝争いに絡まずに、絡まなさそうで絡んで、でも遂には振り落とされるといった毎度のパターンだろうから、やはり相変わらずの二強状態。
いつも横綱ではない他の連中に期待するのだけど、最近はずーーーと裏切られておるような感覚。相手から猛アタックを受けて交際し始めたのに、付き合ってから二ヶ月目くらいで浮気されて「アンタもういい」と捨てられるような感覚。否、むしろこの場合は捨てる方か!?


難波まで行ったてもええねんけど、チケット高いしなー。
四国出身のモノにとって関西弁を吸収するコトなぞは、ムツゴロウさんが牛の小便を一気飲みするくらいに朝飯前ですわ。
まぁ、ワシもぎょうさんやるコトあるさかいに、行きとうてもよう行かれへんわ。 今時こんなベタベタな関西弁を遣う輩は“一部の”年配者を除いては存在せぬであろう。(←コレは政治的に考察してみれば、かなり重要な問題が包含されておるのではないかしらん)

2008年03月08日

2008年03月08日 日記はじめました

新たなブログを制作致した。というより、コレは個人的な日記でしたが。


アイツの日記〜窓際に置かれた水仙花〜


誠に適当かつシンプルであって、更に相当キモチ悪い外観のサイトである。
思いついてから四時間程度で作り上げたのでしたが、今となってはこうするより他に道は無かったであろう、と固く信じておる具合なのです。


現実と虚構を織り交ぜた、意味の分からない文章を綴りたくなったので、斯様に陳腐なモノを立ち上げてみたのだが、果たして「日記」というコトでコメントもトラバも遮り、極力無駄を省いたプライベート空間を演出したのでございまして、果たして「日記」というコトで毎日何かしらのモノは残していきたく考えている次第。


コンセプトは「意味分からんけど、コイツはもう放っとけ」です。そうでありますから、「意味分からん。死ね」とでも思ってくれれば、もうアナタの意図は翻って我が掌中にあるも同然…!?

2008年03月06日

2008年03月06日 シジマールGT

テレビなどで映る度に思っておったのでしたが、都庁のビルはデカイ。あんなにデカイ必要があるのだろうか。幾ら都庁舎とはいえ、もう少しコンパクトにまとめ上げるコトはできなかったのでしょうか。大阪府警の本部も最近新しいのが建設されましたが、コレもやたらとデカイ。同様に大阪の阿倍野には近鉄百貨店が新たなビルを建築するそうであって、コレが完成されれば日本一の高さを誇る強大なモノになるのだと云う。何故斯くも大を求むるか。「大」阪だけに大を好・・・


そうして関西方面には九日から始まる大相撲春場所のため、お相撲さんが大挙して訪れている。先日もソッチ方面に向かうと、或る駅のホームで数人の若手力士グループが女子高生かと見紛うほど無邪気に、能天気に「キャッキャ」騒ぎ立てておりました。ありゃそれほど芳しくはない。おそらく十両以下の者たちだろうが、当分大銀杏が結えそうな気配はない。


このブログ、ちょくちょく漫画のコトなどを記し上げているのでございますが、そのうち井上雄彦サンの「リアル」について書いてみたいと思いつつ、おそらく一年以上が経過している。なんだかんだでもう七巻が出ておる。
今年中には何か綴るコトができればイイなー。

2008年02月29日

2008年02月29日 四年一度なのに…

二十世紀において、おそらく最も影響を及ぼしたであろう哲学者はイマヌエル・カントに違いないが、彼は生涯童貞であった、というコトは彼の散歩のエピソードと同等に有名な事柄でしょう。またD・ヒュームやヴィトゲンシュタインも同様であったらしい(あくまでも「らしい」)。何故にか。彼らが異性との交わりを絶ちたる由縁は、すなわちカントの場合にあっては、彼の申す「定言命法」の故か。彼の内に存する或る種の倫理規範が、執拗にあるべき欲求・衝動・情念等を拒んだのでありましょうか。そうすると自ずと宮沢賢治を想起致したくもなりますが。
カントやヒュームにヴィトゲンシュタインといった超絶無比、浮世離れも甚だしき未曾有の天才(歴代哲学者の中でも群を抜いた天才!)が童貞であったとなると、其処に何かしらの根拠を見出さんと欲する諸種の好奇心及び雑念が滲出してきそうな気配であったのでして、一方でルソーなんぞは狂人で有名だが、あんなのはSEXばかりしておったから頭が腐ったのでありましょう、而してそのようなモノの思想を教科書に掲載してしまう日本の教育の現状なんてまさしくSEX教団の如き…


もう止そう。本日は四年一度の二月二九日なり。
記念に何かを書き留めておきたかった。
さて、次の二月二九日まで、当サイトが存続しておる可能性・・・堂々の4%未満。というワケで、残りの96%をココに留め置いたのでした。…なんかよく意味が解らんけども。

2008年02月26日

2008年02月26日 名言

「行動を怠り後悔するよりも、失敗の後に後悔する方が良い」
という偉大な名言が存する。


挑戦してみてダメならば、最早仕方があるまい。が、何もやらずにいて、時間が経ってから、過去の怠惰を悔いるコトほど惨めな行為は無いのだゼ、って謂。
誠に現代の若者(特にニート諸君!)に贈りたき名言であり、私自身も肝に銘じておかねばなりません。果たして斯様な名文句を世に放ちたる人物とは誰であろうか。…そうである、何を隠そう、私でした。
なんかあっという間に思いついたコトバなのだけど、案外宜しいモノでしたので、ついつい「名言」にまでランク上げして祀り上げちゃった。どうもスイマセン。私のセリフだと思うと、途端にその価値は雲散霧消してしまいそうなのでしたが、どうだろうか、ココは思い切ってマゼランの発言だと思い込んでみては… あら、不思議!? 一瞬にして勇気が湧いてきますような感慨を抱いたのではありませんか? 何ならその勢いで世界一周旅行に出かけちゃってもイイのですよ。

2008年02月25日

2008年02月25日 あまねくうるわし

昨日、朝に起きてみると―やっぱり起きてみたのだけど、そうしたならば雪が降っていたのです。あっ、解らないヒトのために説明致すと、「雪」というのは「気温が摂氏〇度以下の大気の上層で、雲中の水蒸気が凝結し氷の結晶が集まって地上に降るもの」でして、色は白色をしておるのですが、ソレが民家の屋根の上などに、おっと! 専門用語なので理解できないヒトもいるかもしれませんね。「屋根」とは「雨露などを防ぐために建物の上部につけたおおい」を指すモノでして、「笑点」では木久扇サン(前木久蔵)が屋根と「嫌」をかけて「や〜ねぇ〜」なんて駄洒落を発する時がありまして、・・え〜と…少しばかりマイナー過ぎる単語を遣ってしまったのであるが、「笑点」ってのは、1966年(昭和41年)から日本テレビ系列で放送が開始された長寿番組であって、落語家が登場致して大喜利なんかを・・・ ああ、「大喜利」は或る問いが出題されますから、ソレに対してユーモラスな答えを提示致しまして、御覧の皆様を楽しませる日本のお笑い文化を象徴する演芸です。で、元に舞い戻ると、「笑点」では木久扇サンが屋根を用いた非常に非常に洗練された駄洒落を、・・・駄洒落は説明せずともお解りでしょう―駄洒落を言うのですが
・・・ま、そういうコトで雪が降っていたと、そういうハナシでございます。
ところで、ヒトには到底申し上げられないが、「実は私、○○のファンなんですぅ〜」ってコトが誰にでもあろうと推測してみるのだったが、斯くなる上は、私も雑多なモノの変態的隠れファンなのかもしれぬが、敢えて変態的ではないモノを挙げてみようかしらん、私はthe brilliant greenの地底ファン、すなわち潜在的ファンかもしれぬし、或いはそうではあらぬかもしれぬ、CDは一枚も持っておらぬ、わざと、わざと一枚も持っていないのでしたが、好き、ちょっと好き、ほんのりと好き、微細な好意…うーん、ええっと 「好意」は「このましいと思う気持ち」の相当高度な言い回しであって、また、「このましい」ってのは「感じがよくて、心を引かれる」状態を指す形容詞です。あ、形容詞と申しますのは・・・(本日の利用サイト:Infoseek マルチ辞書 ←暇ならココで「形容詞」を調べてみよう! 「品詞の一。用言に属し、活用があり、終止形語尾が、口語では『い』、文語では『し』であるもの。事物の性質・状態または心情・感情などを表す。『早い』『楽しい』『あまねし』『うるわし』の類。活用は、口語では一種類であるが、文語にはク活用・シク活用の二種類がある。」という説明が出て来るよ。)

2008年02月22日

2008年02月22日 「スイーツ」基準

最近やたらと視界に侵入してくる「スイーツ」ってコトバ、コレは何でござんしょ。不愉快。日本語であるか。否。英語であるか。否。和製英語であるか…そもそも和製英語とは何たる矛盾、錯綜。ソレはもはや日本語と解釈すべきではないか…ってコトは、「スイーツ」も日本語になり果ててしまうのか。いやはや愚劣なる哉。何故に日本語を蔑ろにするのでありましょうか。隠す気配ゼロ、西洋コンプレックスの放出。IQ35未満。甚だ愉快なり。我が子に奇怪千万なる名前を付与し、墓石にまで刻まれる恒久の恥を強制致します淫らな気狂い両親の醜態と同等の不名誉、ソレが「スイーツ」という一語の強かな流行具合に象徴されてはおりませんか、ってな素朴かつ素直な疑問提起。


余りにも可笑しき恥辱事態と思念致しましたので、不図「スイーツ(笑)」と検索してみたところ、なんとwikipediaに同名の項目が設置されてあった。(参照リンク:「スイーツ (笑)」


スイーツ(笑)またはスィーツ(笑)とは、女性誌・女性向けファッション雑誌に多く見受けられる浅薄なキャッチコピーやマーケティング戦略に無自覚に踊らされる女性を揶揄するインターネットスラングである。 女性の強欲さやふしだらさ、自己中心的さやメディアリテラシーの無さを嘲笑する際や、一見しゃれている(ように見える)キャッチコピーで流行を煽る女性誌を冷笑する際などにも用いられる。


ネット上では、既に、相当早くから、斯様な低俗用語を揶揄するモノが無数に存してあったようです。
あえて上記の文章を不用意に参考してみよう。要するに「スイーツ」なる底浅きモノの背景、ソレはアタマの機能に著しき不具合を抱えるオンナを引っ掛けるために、大して知恵を絞るコトもなく、イメージのみで考案されたモノに過ぎぬ。コレがコトの真相であろうか。
なるほど。しかしながら、コレは考えようによっては利便であらぬか。すなわち「スイーツ」なんてコトバを馬鹿面を掲げて申しちゃうオンナを眼前に確認できれば、ヒトはそれだけで、そのモノの低劣さを確信しても良いのです。心の表情、ソコから溢れ出さんばかりの嘲笑を伴った卑屈な<偏見>が彼女たちに贈呈されるコトも、もはや不思議ではない。一切ない。


加えるに愉快であったは、上記のページの下部に設置されてあります「揶揄の対象となる用語の例」って部分。ソコに記されておる単語、ソレは確実に「スイーツ」と同等の頻度で、私たちの眼前に到来致しておりますモノたちに他ならん。一部を以下に引用する。


スパゲッティ→パスタ(笑) (パスタだとマカロニまで含む。スパゲッティのみを意図する用法は誤用といえる)
ジーパン→デニム(笑) (デニムとは素材そのものを指す)
和菓子→和スイーツ(笑)
化粧→夏色コスメ(笑)
できちゃった結婚→ダブルハッピー婚(笑)


「デニム」、「夏色コスメ」はよく見聞致します。「ダブルハッピー婚」… コレは何であろうか?? 中学一年生程度の知能しか所持しておらぬ輩が発案したであろう到底この世のコトバとは思えぬ、あまりに拙劣、粗雑なモノ。愈々末期症状たるこの惨状。無念なり。


終わりに、20世紀に生を受けた女性の中でおそらく三本の指に入るであろう賢女・才女である偉大なる哲学者ハンナ・アーレントの示唆に富み現状を鑑みるに看過できようはずもない次のような言葉を、此処に留め置きたいのだ。


道徳性がたんなる習俗の集まりに崩壊してしまい、恣意的に変えることのできる慣例、習慣、約束ごとに堕してしまうのは、犯罪者の責任ではなく、ごく普通の人々の責任なのです。『責任と判断』(筑摩書房) 六十九頁

2008年02月20日

2008年02月20日 元ヤンの子供も九割方ヤンキー

今年に入ってからというもの、このブログはどうも悪ふざけのようなカタチへと変貌致してきておるような気がしなくもないのでした。それでも依然として自重能力は作用してある、つもり。
回顧するに、昨年辺りから、私は、マジメな文章を綴らねばならぬ時にも、書きながらニヤけてしまうようなコトをやっておる。例えば授業で要求されたレポートにしても、さすがに悪ふざけまでには達しないものの、「なんでこんな展開にするんだ?」と己の無謀な論の進め方に、或る時ふと微笑を禁じ得ないのでした。
おそらくあんなモノを提出されたセンセイは、困惑し、嘲笑し、脱力しておるかもしらん。而してそうしたセンセイが単独ではあらずして複数いるであろうってコトは、人口に膾炙して…いない。全くしていない。だが、現に、斯様な目に遭わされているセンセイがいるのであります。アーメン。


ところで、この頃、如何なるワケか、何たる事態か、普段私が用いていますメールアドレスと全く同じアドレスから迷惑メールが送られて来るようになった。コレはタチが悪過ぎます。ブロックもできない。仮に、私のアドレスを心得ておるモノのトコロにあのようなモノが送信されたのならば、絶対確実無限大に私の仕業であると疑われる。…いくら私がヒマでもそんなコトはしないぜよ。ニートになってもソレはしないぜよ。


ムムム、ほんのりと暖かくなってきておるではないか。オレはもう夏の影を見た。参上致すな。お前だけは他のヤツよりも遠回りして、遅刻しなさい。知っている通学路全部で事故が発生していなさい。通学途中に十六人のババアから助けを求められなさい。妹にお前のランドセルを間違えて持って行かれなさい。「七時集合」の遠足を「一時集合」と聞き間違え、真昼に登校してきて、誰もいないコトに気付き、路頭に迷いなさい(コレは私の周囲で実際に発生した実話でしたが…)。
とりあえず今年は著しく遅れて来なさい。来る途中で両足を挫けば良いんだ。見ろやこの筋肉 カッチカチやぞ カッチカチやぞ! ゾックゾクするやろ!! だから10月くらいに到来し、すぐさま帰れ。WANDSを聴きながら帰れ。

2008年02月19日

2008年02月19日 まちがいさがし

ダイエーの王監督

2008年02月18日

2008年02月18日 別の航路もあるだろう

就活にてスーツ姿で以て高層ビルの立ち並ぶオフィス街を闊歩してみるコトが徐々に増えつつあるのですが… 前々から薄々悟り始めておったコトなのでしたが、本日愈々確信に近づいた如く覚ゆ。すなわち、オレァ、サラリーマンに向いてないんじゃなかろうか。
果たして私が毎日ネクタイを締めてオフィス街へと赴き、または取引先の企業を訪問して回り、または接待を兼ねた飲み会へと参加する…斯様な生活に適合出来ようか、いや適合出来まい。なんと、反語も出ちゃう程のミスマッチ!
私がサラリーマンをこなしている姿よりAV男優を勤めている姿の方がよほど現実的。私がサラリーマンをこなしている姿より40歳で転職回数35回の浮浪者的姿の方がよほど現実的。私がサラリーマンをこなしている姿より全く売れないお笑い芸人を細々と勤めている姿の方がよほど現実的。
こうなればAV男優へ向かうかお笑い芸人へ向かうか。現状のテクニック的なコトを考慮するに、無理して申せば芸人の方が身近にあるようにも思えるのでしたが、この場合の「身近」というのは、地球から土星及び水星の距離に対して用いるようなモノに過ぎずして、要は遥遠たる有り様!!
当方、西日本の某所在住故に、繁華街で最もよく赴く地は大阪の梅田や難波であるのだけれども、難波に行きたる折、タワーレコードのすぐ近くに吉本の劇場「なんばグランド花月」が存してあって、そのまた近くに吉本の芸人養成所である「NSC」を抱えるビルがございますれば、ソレを見るに及び、ココは夢と挫折が交錯する空間であろう、と勝手気ままな想像を巡らしたコトがあります。


何故か今日は(今日"も"?)ヘンなコトを記し上げておる。
ついでに。昨今のお笑いブームの中、数多の芸人を目にするが、私としてはチュートリアルのネタが相当にツボであるのでして、昨夜の「レッドカーペット」で彼らが見せたネタは、誠に秀逸であった。
早くもYouTubeにアップされておる。どうせすぐに消されるだろうけど、一応貼っておきますね。


チュートリアル 爆笑レッドカーペット2008/2/17

2008年02月15日

2008年02月15日 vs鼻毛マフィア

小学生か中学生の頃、鼻毛が出ておるヤツを見つけて随分とバカにした思い出を内包する。その時の私は「あり得ない。鼻毛が勢い余って飛び出してくるなんて、常軌を逸してる」と思っていたのでした。


月日は流れ、私は二十歳を超えた。
アレはおそらく三年ほど前のコトであろうか。或る朝、何気なく鏡と対面すると、ソコには並外れて目立ちたがり屋の鼻毛氏がいたのでございます。しかも単独ではなく。ソレはソレは衝撃を通り過ぎた先の呆然といった状態に陥ったのであって、私は誠に遺憾ながら出る杭を打たせて頂いた。
またまた月日は流れ、およそ一年ほど前のコトである。
例の如く鏡と対面すると、今度は見たことも無いような、想像の壁を踏み越えた、正しく常軌を逸した鼻毛氏が私を鋭く睨みつけておった。しかもあらゆる体毛の中で最強と考察されます太くて屈強なボディと高枝切りバサミも驚きの長さを兼ね備えて。彼は何かの目印に指定されても良いほど派手な体であったので、私はそのモノに「鼻毛のドン」というを御尊名を冠して、非常に畏れ多いコトではありますが、丁重に抜かせて頂いた。しかし、それからというもの、定期的に「鼻毛のドン」は我が眼前に降臨するものですから、その度に私は恐縮しながら毛抜きを用いらざるを得ないのでありました。―彼は外見とは裏腹に、足下が弱いので直ぐに倒せる。


目下「鼻毛のドン」は右側の方を我が住処と定めて活躍していらっしゃるご様子で、反対側は至って平穏なのであった。平和と戦争。右側だけがやたらと荒廃しているのであった。そうして最近はなんと「鼻毛のドン」は手下を引き連れてくるようになったのでして、彼を取り巻く連中が“ドン”を隠すような時もあるのでした。ソレ故に、致し方が無いので、私は“ドン”も手下もまとめてギロチンの刑に処さざるを得ないのです。残忍!
それにしても、あのように“ドン”とその手下たちに跋扈されては、右側の方だけにマフィアのアジトを建設されては、私とて気が抜けぬ。更に近頃は“ドン”及び手下という呼称では彼らを巧くカヴァーできぬような気がしてきているのですから、ココはいっそ彼らをお雛様にでも見立てて、「お内裏様」と「お雛様」、「官女」に「五人囃子」といった具合にでもしないと、些か物足りず迫力にも欠ける。
―私は今、一つのマフィアを体内に抱えてあるのでした。


二十歳を超えると鼻毛が我が敵となる、っておハナシ。
「エチケット」なんて美名に騙されて、軽く考えてちゃあいけない。相手は結構組織的に動いてくるコトを肝に銘じておくんだ!

2008年02月14日

2008年02月14日 敬い

教会で結婚式を挙げる非キリスト教徒の日本人は一人残らずタンクローリーに轢き殺されてしまえ。教会で式を挙げておきながら、家にキリスト教の勧誘が来た時に「結構です」と憮然として断り、その後家のモノに「宗教の勧誘よ。全く迷惑ねぇ」的なコトを放言するような輩は一人残らずリニアモーターカーに跳ね飛ばされてしまえ。普段は宗教にある種の嫌悪感を示す不逞なゴミが、結婚の時だけソコに<オシャレ>意識を持ち込むなど、これ以上の神に対する冒涜がありますか。間違いなく地獄行きだよ。クリスマスの日をやたらと神聖視するヤツも同類な。そういう思想の野郎はロクな生き方をしないでしょう。下品なモノの見方、愚昧な興味関心のみを手にして、客観的な視野は決して持とうとせず、ソノ一生を己の檻の中で自己満足と同居ながら哀れな醜態を晒し続けるのみでしょう。

2008年02月13日

2008年02月13日 気狂いを淘汰せよ!

編集者・校閲者は作品の最初の読者である。作家には最も辛辣(しんらつ)な批判者でもある。昔は鬼と呼ばれる編集者・校閲者がいた。国文学者も及ばぬ見識を備え、どんな大家の原稿にも遠慮なく朱筆を入れた。同時に差別表現だのなんだの愚論をゴネてくる連中には作家とともに反撃した。今そんな人の話を聞かない。差別表現は厳重チェック。だが誤記誤用は素通し。いや、それが誤記誤用であることさえ知らない。


上に掲げたるものは、先日の産經新聞に掲載されてあったコラムの一節であって、書き手は封建主義者の呉智英氏です。(参照リンク:【断 呉智英】編集者・校閲者の見識は?
ここで取り上げられているのは、主として文学に携わっておる編集者・校閲者の見識に関する事柄であるのだけれども、少し視野を拡大してみれば、昨今のおよそ「編集者」らしき輩、すなわち文学だけに限らず新聞、雑誌、テレビ等の編集に携わるモノの様態はあまり芳しくないように見受けられるのです。そう云えば例の「羊水腐る」発言でもスタッフの問題が取り沙汰されておった。―だが、あんなのはどーでもいー。くだらなさすぎる事件である故に、問題にされてしまう方が逆に問題なくらいでして、極論ですが、発言云々よりも、あのような女を使ったトコロに間違いがあった。下品、粗野、横暴、不見識…最初はアノ女にかかっていたコレらの単語が、遂にスタッフにまで伝播してしまっただけよ。
引用した呉氏の文章の最後の部分。「同時に差別表現だのなんだの愚論をゴネてくる連中には作家とともに反撃した。今そんな人の話を聞かない。差別表現は厳重チェック。だが誤記誤用は素通し。」 
誠に、さもありなん。
テレビ番組を例にとれば分かり易し。ソコに携わるモノは近年差別発言に甚だしく神経質になっておるようで、またここ数年のうちに規制も随分と積み重ねられている気配。裏に見え隠れするは、気狂いのPTAや低知能の集まりに過ぎない市民団体所属の劣等生物。テレビ局には毎度毎度彼らからの抗議が存すようであるから、結局作り手は一部の圧力に屈服しておるというコトになろう。
NHK、テレビ朝日、TBSの“ほぼ極左報道局”共は懲りずに洗脳ニュース番組を垂れ流しにする一方でありますのに、バラエティ番組だけは年々追いつめられていっておらぬか。フツウのバラエティ番組を視聴した後に、些細な事柄で苦情の電話をかけるようなのは、アタア・精神に病を抱えてある哀れな気狂いでありますのに、何故に斯かるモノに配慮致すのか。何故にそうした一部の廃棄物が淘汰されぬのか。媚び、諂い…まさかねぇ。全く原因の発生源が確認し難いが、おそらく、かなり確実に、編集者の思想、態度といったモノが愚劣なマイノリティーに呑み込まれてしまっています。
人権だの差別だの偏見だのと過剰にほざき立てる投棄物、ソレに対する有効な処分方法を一刻も早く見つけ出さねば、いずれ日本は腐敗物の惨禍で圧殺される。

2008年02月12日

2008年02月12日 焼け石に水

まずは前回の分の補足から。蛇足ではあるが。
果たして倖田來未の「羊水が腐る」発言で傷ついたモノがいるのであろうか。ココで重要なのは<倖田來未の発言>というコトでありまして、仮にコレが六大陸に響き渡るほどの名声を保持致す名医の口から飛び出したモノでしたら、事態はより騒然、而して悲哀、悲痛、嗚咽が咲き乱れても不思議ではあらぬ。だが、今回は倖田來未の言、倖田來未の如き○○○○○女の言、誰が斯様なモノを真に受けるのでしょうか、誰が斯かる発言に落胆し申し上げる被害妄想持ち的なモノの存在を推定できましょうか。ソレはベジータがリア・ディゾンと手を繋いでデートをするくらい考えられない。オープンカフェで西岡徳馬が綾瀬はるかに「ハ〜イ、アーンしてぇ」と言われて、イチゴチョコパフェを一緒に食べているくらい考えられない。森繁久彌が平成生まれの女とラブホテルに入って行くシーンくらい考えられない。マスコミの“自称”正義感、漂う。


さて、では前回の予告を消化せねばならぬ。
予想外に間隔の開きたる展開は何を物語るのか。すなわち…
約五年間愛用してきたiPodが愈々逝去致しましたので、コレはもう寿命であろう、やむを得ぬ、と一度は観念した私でしたが、果たしてそれでも最愛のモノを喪失したる以上、笑いながらもおられぬワケであって、従って過去五年間で最も路頭に迷いまして、失望し、やがては極限の自暴自棄になり、やけ酒とシンナーに浸り、挙げ句盗んだバイクで走り出し、夜の校舎 窓ガラス壊してまわり、その辺の女に声をかけ、きしむベッドの上で 優しさを持ちより きつく躰 抱きしめあい、そうして僕が僕であるために思い切って新しいiPodを購入した次第である。就活用に貯めておいたお金から泣く泣く差し引いた三万円。…オレは何をやってんだ。


iPod classiciPod classic 80GB。映像や写真などは入れぬから、80GBもあれば十分なり。現在、約40GB分の音源をぶち込んである。
先日まで使用しておったのは、随分古いモデルであった故に、ほぼモノクロ状態であったれば、今日のモデルは多彩な色合いでありまして、ジャケットまでキッチリと表示されてある。これじゃあ、CDを買ったのと同じようなもんじゃないか。感覚としては。益々CDの存在価値が疑われる時代である哉。どうなるレコードショップ!? 
あと、薄い、薄いのだ。板チョコかと思っちゃった。こんなにぺっちゃんこで80GB! MacBook Airの登場にも頷き。
それにしても“Cover Flow”なる機能は楽しいねー だから久しぶりにT.Rexを聴いている。マーク・ボランの声は歌以外には不向きな声、つまり歌をやらねば何をする、というコトになる。変態ギター。


しかしながら、難点も大いに存す。
ホイールの操作性が著しく劣等なのでした。そして全般的に動作が鈍い。関取だらけの徒競走か、と思うレベルでトロい。利点、欠点を相互に加味致した結果、コレは如何に見積もっても欠陥商品、欠陥モデルではないかしらん。
ネット上にも動作における問題が幾つか提示されてあるのを閲覧するに及び、やはり同様の感慨を抱きたるモノがいたコトを実感す。
―まぁ、まぁ、ただし使えぬコトはないのですから、ココは我慢であろう。
善し悪しに関しましては今後急展開を見せるかもしれぬから、まだ断言は避けたいトコロでございましたが、何か衝動的に言っちゃった。言っちゃった。先生に言っちゃった。


・・・じゃあ、今回はコレで。

2008年02月07日

2008年02月07日 希望の九割は幻想

どうも、突然ですが「おもちゃのチャチャチャ」の歌詞で、
「鉛の兵隊 トテチテタ」の部分を「生身の兵隊 取って付けた(なまみのへいたい とってつけた)」
と勘違いしていたモノですが。


ウソでした。


最近、このブログは、三流コラムニストの弟(ニート)が暇潰しで書いているヤツみたいになってきて、誠に申し訳ない。そりゃ、アレですよ、私は凄いコトを書こうと思えば、寝起きでも書けるんですが、才能の出し惜しみ、能ある鷹は爪を隠す、であります。
そうして爪の出し方を忘れるのです。


ところで二月は七日の午前、大いなる失意の底辺へと叩き落されてある。
およそX-JAPANのhideが死去した後に後追い自殺をした女の情緒が解せたような心持ち。詳しくは明日にでも。
残念ながら自殺は ま だ しません。小説書いて、ノーベル文学賞でも獲得すれば、自殺致そう。


オレは、川端康成か!


三流コラムニストの弟(ニート)でした。

2008年02月06日

2008年02月06日 あそび

冬、我が破戒的心境。
こゝろは限りなく透明に近いブルーであるのですが、太陽の季節を目指してダンス・ダンス・ダンス。痴人の愛も忘却し、父からの大いなる遺産は風と共に去りぬ。そして誰もいなくなったのであった。
このままでは人間失格、新生を期して、それから、日はまた昇るコトを願おうとしています。
無限の罪と罰を抱きつつも、夜明け前にささめごとを…
或る女のみだれ髪を遠目で見ながら、ふと外をみる。人でなしの恋の影、車輪の下にある一握の砂、薄れゆく月に吠える犬、友情の欠片、黒い雨という幻影、日々の焦燥感。
悲しみよこんにちは。終わりよければ全てよし。真実一路を欲す。
所詮このブログは或阿呆の一生の生態録に過ぎず。冷笑を伴うソレは処女懐胎の如き白痴的現象。斯くなる上はもはや沈黙するのみ。嗚呼
結論が出た。すなわち鬼平犯科帳。


ハイ、…そういうワケで、有名小説のタイトルを組み込んだだけでして・・・ 全部で34作品。暇なら探してみて下さい。

2008年02月03日

2008年02月03日 スルメ

The only thing necessary for the triumph of evil is for good men to do nothing.【Edmund Burke】
―有徳者の怠惰は有害な輩を凱旋へと導く。(私による意訳)


When you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth. 【Sherlock Holmes】
―あり得ないコトを切り捨てていって、終に残ったものが、絶対的真実なのさ。例えソレが如何に奇想天外なモノだとしても、ね。(私による意訳)
シャーロック・ホームズの名言。時代の故だろうか、コナン・ドイルの綴る英文はカッコ良く思われるのです。


そういうワケで、今日の日本は民主党の小沢一郎や自民党の山崎拓、河野洋平、古賀誠、社民党の福島瑞穂の如き売国政治家・売国政党どもの跳梁跋扈により、愈々残すトコロ半世紀以内には国力衰退し、アジア圏内においても中国やインドに凌駕され、三流経済国へと華麗に転落する可能性が濃厚ではあらぬか。加えるに人々の精神も益々堕落し続けてゆく様相を呈しまして、病状は甚だ末期的のように看取せらる。二十一世紀に日本に生を受けし者は、さしずめタイタニック号の乗客の如く皮相的装飾に欺かれて大いなる安逸に浸っておるうちに、その<小さな巨船>とともに身を海中深く没す運命に置かれてあるコトはもはや疑い得ない。
曰く、数十年後に確実に訪れるであろう真実の石油危機、中国による過剰なる地下水汲上げの結果生ずる大規模な著しき水争奪戦、森林伐採・地球温暖化・オゾン層の破壊、中国の軍事的脅威及び環境汚染並びに食物テロ等による生命への夥しき脅迫、留まるトコロを知らぬ人口増加による慢性的食料危機、それに拍車をかける日本の食料自給率の惨状・・・
斯かる現状を眼前に見出したる今、ココで私は以下の憂国的警告を放たざるを得ない。本日は真に政治的憂慮を臆するコトなく吐露するのであった。


〽赤道ギニアはイイ国、赤道直下のギニア湾に面する共和国
年間平均気温は26℃くらいだよ
宗教は、キリスト教。言語は、な、な、なんとスペイン語!
さぁ 皆さん、寄ってらっしゃい!見てらっしゃい! 新婚旅行・家族旅行・社員旅行は赤道ギニアで決まり〜

2008年02月02日

2008年02月02日 全然甘党ではないのに。

我輩はチョコレートが好きである。食べ過ぎて鼻血を出したコトはまだ無い。
今日もコンビニでチョコレートを買おうとして気付いたのであったが、もはやそろそろバレンタインデーと云う名の菓子メーカーによる策略日が迫り来っています。斯様な頃合いに、男が単独ではチョコレートを購入し辛いように思われるのは、果てして私の思い込み、考え過ぎであろうか。
私の想念。レジにて。レジの女の心中。「ああ、コイツは誰からもチョコレートを貰えないから、自分で買い上げることで気を紛らわそうとしているな(失笑+嘲笑)」
やかましい。大きなお世話だ。こちとら一年中買っとるわい。
以上のような夢想的葛藤をしながらですが、何故に私が気まずい思いでチョコレートを買わねばならぬか、またはコノ期間だけ購入を見送らねばならぬか?
私の想念其の弐。レジにて。レジの女の心中。「ああ、コイツは誰からもチョコレートを貰えないから、自分で買い上げることで気を紛らわそうとしているな(失笑+嘲笑)」
ソレに対する私の内心における反論。「違うのよ。ボクは渡す方なの。だから一杯チョコレートを買ってあげるの。ユウくんにケンくんにタッちゃんにジュンくんに…」
コレは悪くありません。ホモであるという重大な一点を除いては。


チョコレートには甘さの魅力がある。従って甘くないチョコレートは偽物である。同様にカレーには辛さの魅力がある。従って辛みの存せぬカレーはその時点で失格である。同様に餃子には有毒物質混入の危惧がある。従って毒が混入されておらぬ餃子は、美味しい。満員電車には痴漢がつきものである。従って痴漢に遭遇したコトのない女は、客観的に見てブサイクであると思え。


最後に一つだけ補助しておきますと、私は全然甘党ではない。全然甘党ではない。


※本日の内容は、チョコレートを買った折に一瞬で思いついたモノです。ソレをホントに文字にしてしまうほどの暇さ具合! 嗤え。

2008年01月29日

2008年01月29日 理想と現実

誕生日らしい。本日で34歳になるらしい。もはや中年男である。如何ともし難い老化現象。髪の毛は白くなるわ抜けるわ、額に皺が浮き出てくるわ、水虫になるわ、肩こり腰痛は離れないわ、視力・精力は減退するわで、もはや我が人生も残すトコロ五年未満なるか。
同日の生まれには、次のようなモノたちがおるらしい。チェーホフ、ロマン・ロラン、吉野作造、毛利衛、テレサ・テン、岡村孝子、望月峯太郎、hyde、濱口優、宝生舞…
チェーホフと同日の生まれだとは知る由も無かったのです。それにしても宇宙飛行士のヒトやらホテルで死亡した歌手のヒトやら「私待ぁ〜つわぁ〜♩」のヒトやら人気バンドのヴォーカルのヒトやらイイ子のヒトやらで…誠に結構ではありませぬか。


誕生日を迎えるに当たり、此処に34歳の私の目標を闡明す。
「生活習慣病の克服」


…ウソです。
「妥協をしない」
コレを今年の目標にしたい。
出来れば生涯の目標として掲げたいのであったが、人生妥協する必要もあろうから、そうはいかん。せめて今年一年くらいは極力妥協を排そうってモンじゃないか。


最近、改めてトクヴィルの『アメリカの民主政治』を熟読しておる。講談社文庫版の井伊玄太郎氏の翻訳は神業である。その仕事ぶりに感嘆すると同時に、よくもまぁ斯様に意味不明な日本語を選択して翻訳したものであるよと思わずにはおれない。出版社は何故にコレで出すコトをOKしたのであろうか。不可解!


再び誕生日に当って。
誠実でありたい。真面目でありたい。真っ当に過ごしたい。
そういうワケで、スイマセン。34歳ではなく23歳になりました。大ウソをこいてました。
…23歳。若さの限界であろうか。これより上の年齢は若さから遠ざかり始めるのでありましょう。現にAV女優は18〜22,23歳くらいまでが一番華やかであり、もてはやされておるではございませんか。

2008年01月26日

2008年01月26日 社会主義の胚芽?

「禁煙ファシズム」なる言葉が存す。
カール・シュミットも真っ青のファシズムです。
ソレはつまり、喫煙を推奨するな、と声高に叫ばれるような風潮に対する皮肉であると受け取っておきましょうか。もはや一国に留まらず、あらゆる場所で喫煙者はゴミの如く扱われ始めておるのです。
確かに「全館禁煙」的な空間が増殖しており、私なぞはタバコを神田うのと同じくらい嫌悪しておるから、この状況は悪いとは思わないのであったが、しなかしながら喫煙者がいう「禁煙ファシズム」なるリアクションについても解せないコトではあらぬ。
現に私のオヤジは結構な喫煙者であるから、そうしたオッサンの具合を見ておれば、昨今の有り様に対して文句を言いたくなる気持ちも多少は理解できるってモンだ。


ココで唐突に申せば、このブログ上で展開しておる私の喫煙者に対する誹謗中傷は、半ばお遊びでございます。斯様なコトを本心で述べておれば、ソレは精神に異常があるか、アプリオリな(丸山眞男や橋川文三がよく遣う言葉)気狂いの何れかに他なりませぬ。
ココで再度唐突に申せば、今日的な浮き世において禁煙場所で喫煙する輩は一部の在日朝鮮人と同じくらい横暴で、故に差別されるべき存在であるといえようが、ソレ以外の場所で喫煙するのは何ら悪いコトではあらぬ。どんどん吸ってどんどん病気になって命を落とせば良い。要するに死ねば良いのでしたが、ソレは己が選択した道である以上、如何なる義務があって他人がその連中に対して禁煙を求める必要があるのだろうか。私は未だかつてオヤジを含めて、一切のモノに禁煙を推奨したコトがないのであった。


「禁煙ファシズム」、まさしくその通りである。
私が申したいのは、せいぜい「分煙」処置くらいまでであって、あらゆる空間で禁煙を施す、喫煙を断固として受け入れてはならぬなどというのは、ソレこそ禁煙云々ってなレベルではあらず、ホンモノの「ファシズム」ご到来ではありませぬか。万が一、世の中が斯様な空気(全ての状況下での喫煙排除)になりたれば、その時は私、真っ先に反対しましょう。喫煙者の味方はせぬが、過剰なまでの禁煙推進者には鉄槌を喰らわしたい。ソレはフェミニストと同じくらい迫害されるべき生物。


喫煙者は有害な気体を放出する時点で決して認められぬ物体であるが(個人的感情)、さりとて全面的に締め出す権利を誰が有する。
ゴミは定められたる場所に出さねばならぬ。ナゼか。幼稚園児でも答えられよう。何処にでも投棄致せば、暮らしが汚染されるから。喫煙者は定められたる場所に隔離せねばならぬ。ナゼか。小学生でも答えられよう。害を発散する細胞の集合体であるから。
ゴミを捨てるには定められたる場所に出せば良いのと同じであって、喫煙も定められたる場所に限定すれば良い。それ以上に何が必要か。ゴミ集積所を世から奪取せば、世の中はきっと混乱し、より醜悪になる。斯様なコトは今の五千円札に描かれておる人物が何という小説を書き上げたかを答えられぬバカでも理解できるコトでして、抑制が存する限りソレは一定の範囲内で十分に許容されるべき存在であるってコト。
吸いたければ吸って、肺ガンにでもなって、めでたしめでたし。コレは全く非情な声ではありません。むしろあらゆる喫煙を認可せぬ「禁煙ファシズム」と称される風潮の方が(ソレがこれからどんどん推進されて行けば)、その何十倍、何百倍も非情で無惨な結果を生み出すのではありませんか?

2008年01月25日

2008年01月25日 我が人生最大の自己満足!

全国で冷え込んでおるようであるが、寒さに滅法強い私からすれば、寒がっているヤツ ざまぁみろってな感慨しか湧き起こらぬ。最低気温が氷点下を記録しない間は、寒いうちに入らぬ。入れてはならぬ。ソレは冬として当然であると観念せよ。やせ我慢せよ。やや我慢せよ。見栄を張れ。ウソをつけ。誤摩化せ。開き直れ。呆れ返ってみせろ。逆手にとれ。そして受け入れろ。受容の精神。「抗うな。受け入れろ。すべては繋がっている。」―コレは新井英樹サンの名作「ザ・ワールド・イズ・マイン」(以下「TWIM」と書く)の名台詞でしたが、私はいつか、この作品に関して、ある程度まとまった文章を綴りたいと欲し、仮にソレが達成できた暁においては、このブログ(サイト)を終了しようと思っている。なぜならば、当サイトのタイトルからしてTWIMが発端であり、其れを一応総括し得たとすれば、もはやその先に当サイトが存続する意味は無いと思慮するからです。そうして、常々TWIMを象徴する語を探索し申し上げておるのでしたが、最近は上記の一語(「抗うな。受け入れろ。すべては繋がっている。」)、ココに重点を置いて考えてみようとしてある。
今、興味があるのは「抗うな。受け入れろ。すべては繋がっている。」ってキーワードを手にしてTWIMの全体像を把握し得るか否かという点であり、今日の社会や人々の思想を“連綿”(すべては繋がっている)ってな一語でもって捉えようとする試みの中に、TWIMが提起した問題も照射し得るのではあらぬかという点である。
例えば、西欧で生誕致した保守主義思想について。其れは我々を過去との連携を断っては存続不可能であると思考するものである。一方のモンちゃんのいう「繋がっている」という意識、その内実は何との関係性の上に、どのように「繋がっている」のか。こうした点の比較、考察の段階を踏むことで、ある程度は“現代”の人々の意識を問うことも可能になり得るでしょうし、またそのような彼らの様態が現実社会では如何なる形態となって反映されてあるのかという事情についても、必ずしも踏査不可能ではあらぬ、と考えているのでした。


あー、依然として抽象的な範囲を出ぬ、全てが推論の段階でありますが、まぁ、ゆっくりと時間をかけて答えを見出さんとしておるのです。
ウン、この調子で歩めば、まだ三年くらいの月日を必要としそうだ。


だけど、とりあえず予告だけはしておきたい。ソレは自分自身に対する確認の意味を含んだ、あまりに身勝手な予告でありたるが―このブログの最後は「ザ・ワールド・イズ・マイン」に関する私なりの結論、になるのではないかしらん。とりあえず今年中に書き上げるだろう予定の修士論文も、このブログの最終回の<前座>として書く。その為に今の研究がある。…ソレくらいの気概を伴って、私はいつか、TWIMに関する意見を原稿用紙80枚分くらいにしてまとめ上げたい。我が人生最大の自己満足!

2008年01月23日

2008年01月23日 どんな父親でも童貞ではない

「因島」「放出」「福生」「烏丸通」「太秦」「等々力」「慶良間」
上記に掲げたるモノは比較的有名な土地であるが、非常に持って回った読み方を要求される意地の悪い地名であります。
「福生(ふっさ)」と「慶良間(けらま)」はまだ何とかなりそうですが、「因島(いんのしま)」や「烏丸(からすま)通」などはイタズラとしか思えない読み方であって、「等々力(とどろき)」に関してはなぞなぞのようなモンで、「放出(はなてん)」と「太秦(うずまさ)」に関しては、予備知識無しで読めれば、そのモノは紫綬褒章を頂戴しても不思議ではないレベルの偉人ではないかしらん。けれども、おそらく上記の中では「太秦」が最も知名度の高い地であろうから、これを即座に「うずまさ」と読めるモノは多いコトと信ずるのでしたが、よくよく思案してみるに到底容易に解読可能なモノではあらぬ。そして問題は「放出」である。「放つ」の「はな」は解るが、「出」を「てん」と読めと、ココで無謀な要求をされる。かつての日本語は「いざ、出んと欲す」なんて申し上げておりましたから、そういう事情もあって「出」を無理矢理「てん」と読ましたのかも分からん。斯かる具合に難読な地が日本には無数にあるのであったから、誠に地名は愉快なり。


鳥居みゆきはネタも驚異的だけれども、素顔も相当に驚異的でありませんか。どこまでが本性でどこからが計算された部分であるのかが実に不明瞭であるのは、およそ女芸人の平均点を遥かに上回るあのキレイな顔の故であろうか。彼女にはどんどん壊れて行って欲しい。
それにしてもサンミュージックの芸人は何じゃいったい。


「愛」なる単語はこの世で最も抽象的なモノであると思う故に、私は好まぬ。従って極力この語だけは用いたくないのでした。…というのも、私は卒業論文を書いた時に幾度か「愛」なる語を用いたのであったが、昨年ソレを改めて読み返してみるに、どうも観念的な印象を受けて、その一語では結局何事も論じ切れぬのではないかと痛感したのでありまして、それ以来私は「愛」なる語を用いて何らかのコトへ言及するのは一切止めてあるし、今後も決してそのような暴挙には出ないであろう。それが暴挙で無くなるとき、ソレは「愛」というものがハッキリと確認できたとき、すなわち別の言葉で明瞭に説明可能になるとき、です。
さて、斯様な日が訪れるであろうか。甚だ懐疑的たらざるを得ん。
(ところで、いま「はなはだ(甚だ)」を「はなはな」と誤入力して気付かずに変換したのであるが、そうすると一発で「花*花」となったので驚いた次第です。彼女たちは今?)

2008年01月22日

2008年01月22日 場違い

白鵬は安馬を苦手としておるのか。愈々朝青龍と白鵬が九勝一敗で並び立った。朝青龍は取り組み後の表情を窺うに、かつての冷めたような、<意識的に>細事への拘泥を拒むかの如き無色の目をしておったから、それを知って、お!戻ってきたな、との感を受ける。もはや「ブランク」など関係無いであろう。これから終盤にかけて優勝争いは俄然面白くなりそうですが、やはり彼がいるのといないのとでは全く雰囲気が異なってくる。


視界を転換せんと欲す。
前回のセンター試験に関するヤツのコトで、実は或る情けない記憶を持つハメになったので、ココに書き加えておきたいと願う。
ソレは控え室でのコト。私が持参してあった論文に用いる予定の書物に目を通しておった時であった。ソコは横に五人が並んで座るコトのできる典型的な大教室の机であり、私は通路側、つまり五つある椅子の一番端に座っておったのでして、私の斜め後ろ、すなわち対角線側にはどうやら女が座しておるようであった。その女は雑誌のようなモノを開いて、何やら書き込んでいたようですが、私はとりたてて気に止めることもなく読書に励んでいたら、ソコに男がやって来たのです。男は反対の通路側、つまり私が座してある場所から椅子三つ空けた向こう側に座って、後ろの女に対して斯く述べました。
男「コレ好きなんですか? ボクもよくやるんですよ。やりだすと止まらなくなりますよねぇ〜」
女「そうですネ、楽しくて、よく、やります」
この会話、何も妙ではあらぬが、ココで私は分かったコトが二つある。まず一つ目。女は外国人であるというコト。私はその女をハッキリと見ておらぬが、それまでチラチラッと視界に入ってきていた時の感覚で、どうやら東洋人であるコトだけは解っておった。おそらく中国か台湾か韓国からの留学生でしょう。二つ目。雑誌+書き込みという事前の情報と上述の会話から、おそらく女はクロスワードや数独などを集めた雑誌を暇潰しにやっていたのではないかと思われたのです。
まぁ、それでも私は集中して本を読み続けておった。ーしかし、隣から声は聞こえてくる。ソレが少しばかりヘンなのでした。明らかにこの二人、初対面だという感じを受ける。なぜならば、男の方が熱心に彼女の名前を聞き出したり、それはどういう字を書くのかとか、この部屋にいる時間帯は? などと気さくに質問を繰り返してばかりいて、両者に何の接点もないらしいコトが、何となく伝わってくるからでありました。そもそもやり交わす言葉が敬語だ。
けれど、果たしてどうか。だんだん敬語から砕けた言葉に転じて行き、最終的にその男は「あとで名刺を渡すよ」とか何とか言い出す始末。女もまんざらではない様子、受け入れ態勢万全って具合。


「・・・あの〜、こんなトコロでナンパしないで貰えますか、そしてそれに気軽に応じないで貰えますか。」


私はその一言を言えなかった。一応オレたち「試験補助員」ってバイトで集まってるんだぜ… 受験者を補助するのであって、己の異性への関心を補助する場ではあらぬのじゃ。
それを、今、言った。ああ、俺もナンパ用に名刺作ろうかしら。

2008年01月20日

2008年01月20日 パーフェクトに近い堕落

昨日、今日と各地でセンター試験が催されてあったから、私にもかつての記憶が去来す。明日は多くの学校で自己採点をするのでありましょう。私の通っておった学校は翌日の午前中に自己採点が決行された次第で、自己採点なぞはすぐに終わりますから、結局その日は半日を遊んで過ごしたのでした。


さて、そういうワケでセンター試験が行われ、試験会場は大学である故に、私は昨日、今日と「試験補助員」というバイトをし、ずっと試験の模様を見ておった。偶然斯様な役割を引き受けたのであったが、お小遣い稼ぎ感覚で引き受けたのであったが、コレが実に愉快なバイトであった。私に与えられた仕事は、試験会場となる教室が存するフロアの一角に待機し、受験生の案内役を務めるってなモノなのでしたが、思い切って暴露すると、ロクな仕事が無いのでありました。
まず、私たち「補助員」は指定された場所に待機する。ソコにはご丁寧にストーブと椅子が置かれてある。そうして基本的にその場に座っているだけ、なのです。仕事があるとすれば、試験中に便意・尿意を催した受験者に付き添ってトイレの前まで赴く(トイレに入る前にポケットの中を点検するようなコトは絶対的にない! ただ付き添うだけ)とか、受験票を忘れた受験者への対応とか、会場内の案内とか…なのですが、トイレに行く者などは滅多におらず、ましてや受験票を忘れたと申し出る者も存在しなかった故に、ほとんど座っておるだけのバイトであった。初日の朝は、受験者が会場内に不案内であった故に、数名の者を誘導し、やたらとトイレの場所を教えましたが、土曜の午後からはずっと暇な時間でございました(何度「暇だ、退屈だ」と言ったことやら)。ところで、初日の午前中に二十名くらいにトイレの場所を教えたのだが、最近の高校生はトイレも独力で探せぬのか。私は常に斯く申し上げるのみであった。「(正面を指差して)あの階段の手前、左側にあります」と。この言葉の裏には「すぐそこにあるだろ!」という声が潜んでいたのは内緒である。まぁ、時給は安いがコレくらいのコトは丁寧にやらないと、お金を頂く側としても引け目を感ずる。


この「試験補助員」なるモノは、大学院生に割り当てられたバイトで、私は同じ学部の台湾人留学生のKクンと共に仕事をするように決定されてあったのであるが、同学部の者はKクンのみで、あとは他学部の者でしたが、思えば他学部の院生と接するのは初めてでありまして、いやはや何と言うのか、私が申し上げると不自然かもしれぬが、クセのありそうな者の多いコト! 特に理系の院生はクセにクセが折り重なってあるようなモノが少なくないのです。


普段はあまり話さぬKクンとも随分話した。二年分くらいは話したかもしれん。話すにしても、試験中であるから囁くように、声にならぬ声で話すのであるが、それでもよく喋った。今になって思い出すに、アレは「試験補助員」ではあらずして「試験中雑談員」である。
あらかじめ担当フロアと相方(基本的に二人一組で待機する)と二日間のスケジュールは決定されてあって、それに基づくにほぼ一時間交代で指定されたフロアに赴き、それ以外の時は控え室で待機するのであるが、控え室も試験会場の「補助員待機場所」も何ら変わらん。無理して違いを言うならば、控え室は何人にも気兼ねせずに喋れて、飲食も可能なのでした。従ってKクンが「コレはただ一時間ごとに座る場所を変えているだけですね」と笑いながら言ったのは、あまりに正論です。それくらいに無意味な役割であった。たとえばこういうコトもある。私は三階に待機して、エスカレーターのすぐ隣に座しており、ソコから下の様子を窺うに、姿は見えぬが、どうやら女性のペアがおったようで、本日の昼過ぎに寝息と思われるモノが下から聞こえてきたのだから呆れる。昼飯を食ってその後すぐに寝られるのはバイトではなくして、ソレをヒトは「堕落」というのですよ。


上述の控え室も奇妙な場所であり、「補助員」は全体でも三十人にも満たぬのに、二百席もある大教室が割り当てられ、ソコは全く自由な空間でして、読書をしても可、新聞を読んでも音楽を聴いてもマンガを読んでも可となりたる場所で、おまけにコーヒー、紅茶、お菓子類まで用意され、防寒用に大量のカイロまで頂けるのだから、まさしく至れり尽くせりでありませんか。それに加えて弁当まで支給されるのでしたが、その弁当もタイやマグロの刺身が入っているような無駄に手の込んだ“それなりの”モノを出して頂けるのだから恐れ入った。初めて学校からの恩恵を受けた気が致しております。
斯くして私は実感した。コレで時給が三倍になれば、天下りをして遊んでいるオッサン連中と同じ待遇になる、と。


難点は朝の七時半から夜も七時前後まで、およそ十二時間も滞在せねばならなかった長時間勤務のコトであり、またスーツでおらねばならなかったコトである。実に一日の半分をスーツで過ごしたのは初めてでありました。而して朝は六時五十分くらいに家を出ねばならぬのだが、私は常々「オレは寒さに強い」と思っておったせいで、コートの類も所持しておらぬのであるが、現にソレがなくても平気であったが、他人からすれば休日の早朝に薄っぺらいスーツ姿の輩がチャリに乗っているのは、甚だバカにしたくなる光景かもしらん。チャリとスーツ…これはウェディングドレスを着用致して原付に乗るのと同じくらい不釣り合いな光景でありましょう。


睡眠時間は短くなるが、斯様な仕事であれば、私は二週間に一度程度の休みであっても、つまり月に26〜28日勤務であっても、喜んでお受けする。コレで月給20万前後頂けるという待遇であれば、私は歓喜する。それはパーフェクトに近い堕落である。

2008年01月17日

2008年01月17日 根無し草

夕刊フジ連載コラム「中川昭一の言わせてもらおう」(11月16日掲載)


哲学者エドモンド・バーグの「真の改革は、保守にしかできない」という言葉もあるが、国や地域の文化や伝統、歴史、誇りを守りながら、国民が本当に幸せになる改革を進めるという保守の理念で、福田康夫首相を全面的に支援していく。


中川サンが執筆致した(らしい)コラム…ってコトであるのでしたが、揚げ足をとるようで甚だ申し訳ないのでしたが、…「エドモンド・バーグ」って誰じゃ。
おそらく、エドマンド・バーク【Edmund Burke】を、「エドモンド・バーグ」と読み間違えておるワケであるが、百歩譲って「Edmund」を「エドモンド」と誤読するのはやむを得ざると解しても、しかしながら、「Burke」を「バーグ」と読み間違えますとは、コレ如何なる事態であるのか。
…そういえば、昨年コノ場にて紹介し申し上げた中川八洋氏の縦横無尽に奇怪千万かつ独創的な書、『皇統断絶』においても、同様のコトが記し上げられておったのを想起致す。すなわち、ソコには次のように書かれてあったのです。(参考リンク:攻撃は最大の防御なり


「われわれ学者は、“近代保守主義の起源”ということで、いつもエドモンド・バーグを取り上げて議論しています」


中西輝政は、実は、バークの著作を一頁も読んだことがない。しかし、平然と「いつも議論しています」と真赤な嘘をつく。学者にあるまじき、その人格には重大な問題がある。Burkeを「バーグ」、Edmundを「エドモンド」と発音する信じ難いミスには眼をつぶってもよいが、バーク保守主義を「どちらかというと大きな潮流に対して塹壕のなかに入って、そういう潮流に飲み込まれまいと必死に踏みとどまっている」などと、逆立ちの嘘解釈をするに至っては、京都大学の“恥さらし”であろう。(二五九頁)


云々、と。
Edmund Burkeの読み方の点に触れて、同じようなコトを書いている。笑止。


エエイ! もー、どーでもいー。
しかし、日本において、曲がりなりにも(?)「保守の理念」を掲げんとする政治家が、あろうことかバークを読み間違えちゃうなんてのは、この国に「保守主義」が如何に根無し草的にしか存在しておらぬかを暗示しているようで、少しばかり物悲しき哉。丸山眞男が『日本の思想』において、日本における諸種の思想が「精神的雑居」性の甚だしきモノであると指摘し、以下のように著したコトに対し、今もって私たちは明確に反駁し得る態勢にあるのか否かとなれば、それは―大袈裟かもしれぬが―誠に恥辱的な惨状を目の当たりにするだけかもしれませんで、どうもスイマセン。


一定の時間的順序で入って来たいろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけでいわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう。…(略)…新たなもの、本来異質的なものまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほどに早い。過去は過去として自覚的に現在と向き合わずに、傍らにおしやられ、あるいは下に沈降して意識から消え「忘却」されるので、それは時あって突如として「思い出」として噴出することになる。(十一〜十二頁)


「保守の理念」を掲げながら政治を司らんとするモノには、せめてバークの思想だけでも己の体内に取り込もうとするくらいの気概を見せて頂きたいと念ずるばかりです。「バーグ」なんて申している場合ではない!

2008年01月16日

2008年01月16日 一度は言ってみたい○○

私が未だかつて一度たりとも申し上げていないコト。
一度で良いから言いたいコト。


「結婚するのか!オメデトウ」
私と祝福の辞は無縁である。…でも、そんなに言いたいコトではないけど。


「お前の彼女、雨上がりの蛍原に似てるよな?」
コレは是非とも申したい。


「おい! アレ、森繁久彌じゃないか? ウホホホ、ラブホテルから出て来たぞ!」
機会があれば…


「2040年まで待たされるんかい!!」
こういう焦らされ具合が最高。


今日のトコロはコレまで。

2008年01月14日

2008年01月14日 何かが恐ろしい

どうも、最近日本酒を人肌燗で飲むのにハマっておるモノです。日向燗ではモノ足りなく、ぬる燗でも良いのであったが、ソレではやや温まり過ぎ、上燗以上になると恥ずかしながら猫舌なのでキツイ、のでした。
まー、斯かる趣向はどーでもいー。


朝青龍に土がついた。
もしも今場所、彼が全勝優勝でも果たそうものなら、疑いなく天才でございましょう、と思ったが、勝負の世界はそう甘くないってコトである。幾つほど勝ち星を並べられるか、今日の一番を拝見して想像がつかなくなった。今日の相撲は芳しくない。甚だ芳しくないのです。横綱とは思えない負け方、魁皇のようなあっけない転び方をしたので、驚愕致した。誠にブランクは恐ろしい。


本日は各地で成人式が挙行されたらしきハナシを聞く。
私は成人式に馳せ参じておらぬ。同級生の顔を見るに及んで、かつての不愉快な記憶の数々が蘇りますような予感がした故に、絶対的に行くコトを拒んだのであった。
それにしても、近年は荒れる成人式の多きコト、いったい如何なる事態であると申すか。飲酒をしておるような気狂いは立ち入り禁止に致せ。もしくは三万円以上の入場料を支払わす等の処置を施すが宜しい。ソレを拒みて入りたる輩には“不法侵入”等の容疑で逮捕してやるのが良い。または国籍剥奪。
特に沖縄で荒れておるような気がするのですが、気のせいであろうか。イヤ、多分、事実ではないかしらん。沖縄のヤツの精神は怪しきモンである。ソレは環境の由縁であろうか。いずれにせよ、沖縄も恐ろしい。ブランクのある沖縄はもっと恐ろしい。

2008年01月10日

2008年01月10日 つまらぬコトを書いております

「水戸黄門 第38部」


この一行は既に38回も旅に出かけているのである。いったいこれ以上何処に赴かんと欲すのか。是非とも“第39部”にはヨーロッパ巡りでも敢行致して、西洋のならず者共を更正させて頂きたい。
ただしその前に重大な問題が立ちはだかる。ソレは「印籠」を英語で何と申せば良いか、です。外人が恐れまくるくらいの迫力と権威を伴って、あの小さな入れ物を説明し得る語が、果たして存すのか否か。この問題を解決せずして、西洋に達するコトは出来まい。


どうも文章を書き連ねておりますと、自ずと長くなってしまいます。しかもソレがつまらぬ文章なのだから、一部には迷惑を及ぼしかねない。サッパリと終わらせたいと思うのに…
サッパリと言えば、実に八ヶ月ぶりに髪の毛を切り落としたのであった(超強引に話題を変えたように思われたのなら、ソレは気のせいです)。妙に<爽やか>な具合になって、鏡を見るに、何だかガキっぽい気もして、情けなく思っております。「就活する」なんて申したから、或いは美容師サンが気を遣ってくれたのかもしれぬ、などと邪推を試みるも、ソレは間違いであろう。単に私の地の表情がいけないのである。締まりのある表情を半永久的に保ち続ける方法があれば、今こそソレを知るべきではないかしらん。
しかし、アレである。どうも髪を切りに行くと、ついついつまらんハナシをしてしまう。「なんでオレ、こんなつまらんハナシをしてるんだろう?」と、今日も二、三回ほど思った。


いや、待てよ。オレァ、いつもつまらないコトしか喋ってないんじゃないか・・・!?

2008年01月07日

2008年01月07日 免許更新、倦怠感、醜悪的己

免許更新のために、「免許センター」へ赴く。
初回更新のために、二時間の講習をせねばならぬ。免許を取得してから今日に至るまで、一度たりともハンドルに触れておらぬ私がしたり顔で講習を受けるといいますのは、やはりどうしても奇妙な様態ではないでしょうか。およそ現在の私の生活パターンを鑑みるに、先ず以て運転をせねばならぬ状況に立たされるコトは、叶姉妹の姉が「アラ、美香サン、私のこのTシャツはユニクロでたったの700円でしたのよ」と暴露するくらいに考えられぬ。
斯かる具合にイヤイヤながらの講習なのでした。


二時間の講習・・・大学の講義より長いではないか!
初回講習死ね、絶対的に死ね!と内心呟きながら受付へと向かう。当然のコトながら「交通安全協会」なるいかがわしいカルト集団に払いますお金はございません。冷徹に拒否させて頂く。NHKの受信料とどちらが不必要であるか。アンケートを実施致せば、愉快千万なる結果が出るかもしれん。
視力検査→写真撮影→講習の順。
視力検査、写真撮影は無難にやり過ごすが、担当熟女の無愛想さに、驚く。この「免許センター」という施設で仕事をする女は、無愛想でなければいけないのですか? 「全日本無愛想大賞・熟女部門」が存すれば、上位にランクインせる輩は悉く「免許センター」におる女で間違いなかろう。


さて、いよいよ講習、であります。
初回講習者専用の狭い部屋に入る。ココがなかなか妙な部屋であって、車のシートの形をしたモノが30席ほど設けられておって、床にも何か細工が施してある。間違いなくシミュレーション体験可能なる部屋であったが、コレが実に窮屈。おまけに平日の午前中にも関わらず受講者は20人ほど存す。席にそれほどゆとりがありません。
胸の内では相も変わらずに「初回講習死ね、絶対的に死ね!」と唱えながら、待ちました。およそ30分。陽気な高校の数学教師的な、齢は還暦前くらいのオッサンがやたらと咳き込みながら入り来りて、開口一番「アノ〜、後から来られる方がおられるかもしれませんから、皆さん右側に詰めて下さい」 このオッサン、ドSである。明らかに窮屈な場所を更に窮屈にして、受講者を虐め抜こうとする魂胆であるのは見え見えでしたので、コレに立腹致した私はやむを得ず立ち上がり、そうして、大人しく右側に詰めました。隣にはキレイなお嬢様。まぁ、宜しい。


左右両隣のスペースがなくなり、息苦しくなった状態で、受講開始。
が、オッサンのやる気がない。「早く終わりましょう」の連続弾で、最終的には「予定より24分、25分くらい早く終わります」と言い放つ。24分って何やねん! もう「25分早く終わります」でエエやん、とココロの中でくだらないツッコミを入れつつ、ボーッとオッサンのハナシやら映像やらを見ておったら、オッサンが途中で恐ろしく咳き込み出しまして「コレはイカン、咳止め飲みますから、ちょっとスイマセン」などと言いながら中断す。まぁ、ロクでもない講習だ。そしてシミュレーションは体験できず。いったいこの部屋を使用したる理由は如何。そんなこんなで予定より30分くらい早く終わりて、免許を受け取って帰る。―2時間キッチリやらなくてもイイのね。


道交法の改正により“種類”のトコロが「普通」から「中型」に変わっておった。・・・ソレは良い。問題は顔写真である。前回撮影致しました時にも相当に醜い表情で写り込んでおった私であったが、今回も負けず劣らず相当に醜い。この醜さは決して白鳥になれぬ醜さであります。
数人のモノが集いて、「せーの」で免許を出し合ったとして、私の顔写真は<すべらない>のではないか。
おまけに髪の毛が伸びておるから、小汚くもある。写真で我が長髪を見るに及んで「さすがに切らねば」と強く思う。よって来週中には切る。


さてさて、依然として私は実家におるのですが、愈々明日戻ります。滞在期間は十日ほどであったが、果たして此の次に舞い戻って来るのは何時になるであろうか。
免許に於ける醜き顔写真を手土産に、明日、高速バスに乗り込み、私は実家を再度離れるのであります。

2008年01月04日

2008年01月04日 必然の輪

世の中には如何様に考察を試みても「偶然」としか言いようの無い事柄が時として生ずるのですが、しかしソレが発生したという限りにおいて―ソレを過去の或る出来事として捉える限りにおいて―私たちはソレを「偶然」ではなく「必然」と考えねばならぬ時がありましょう。
「相棒」はやはり面白いドラマである。右京サンが天才的なのは、なにも「偶然」が付与したモノではなく、「必然」の結果なのであった。第一の輪は第二の輪へと通じ、第二の輪は第三の輪へと続く。旧約聖書によると! ヒトは元来アダムとイヴなる一対の男女から連綿と生じたモノであるという。さすれば、60億は皆同根ではあらぬか。さすれば、ヒトの起こす事柄が「必然」的に、或る根っこを持って通じ合っていたとしても妙ではないであろう、と斯かるこじつけも可能となるのでした。
何を言わんとしておるのかと申せば、「相棒」の元旦SPに見られた<必然の輪>に私は感動致したのでした(そうなのだ。あの一連の<地続き>は「必然」として見た方がイイ)。或る事件の背後には或る事件の影が忍び寄り、またその影に向かいて新たなる足音が響き渡らんとす… 面識を持たぬ一連のモノが巻き起こす見事な一貫性を伴っております憎悪と復讐の協奏曲に、私は改めて讃辞を贈りたいのです。「劇場版」は果たして如何。
「相棒」に「踊る大捜査線」の如き派手さは無用であるが、或いは予告を見る限り「劇場版」は相当派手な具合に仕上げて来そうですから、一種の“不安感”を抱きつつあるモノも、決して少なくはないのでありますまいか。


今年は是非とも右京サンの「はいぃ〜(⤴)?」って具合の、語尾が心地よく上昇致す“疑問・不信形返答”を試してみたい、就活時の面接で。ああ、間違いなく落されるだろうなぁ。
「はいぃ〜? おかしいですねぇ〜 私が今申し上げましたコトをお聞きになられていなかったというコトになりますねぇ〜 恥を知りなさいッ!!!」(参考リンク:恥を知りなさいッ恥を知りなさいッ!
ハイ、そうです。「相棒」の見過ぎでありました。


今年は是非とも「髭男爵」をもっと見たい。数ヶ月前にYouTubeで彼らを拝見致してより、今日に至るまでアノ<チープさと付け焼き刃的な上品っぽさが同居する>雰囲気を好きになっておったが、昨年末に「爆笑レッドカーペット」に登場して以来、何となくジワジワと前線に昇って来そうではないか。「逆に聞こう」、2008年は「上流階級の洗練されたエレガントな笑い」が世を震撼させても宜しいではありませんか。


参考リンク:髭男爵
キモチ悪いくらいにウケている髭男爵(in大阪)

2007年12月31日

2007年12月31日 出逢った一年、であった。

今年も終わるでごわす。


今年の私は、進学(ほとんど進級のようなモンであるが…)をするなどして、ソコで幾つかの出会いを体験し、また(元)バイト先等々で幾つかの気狂いと遭遇するなどし、また幾つかの素晴らしき音楽や本と出逢うコトができたものです。もしかすると「出逢い」という観点では、今年ほど恵まれた一年は無かったかもしれません。出逢うというのは何も実際に会うモノだけに限られたコトではないのであった。例えば、感銘を受けた本があれば、私は其の本を媒介にして、ソコで素晴らしき著者と対面しておるのでした。斯かる具合に、私は本年度中に幾つもの宜しき出逢いを経験できたコトを、非常に深く感謝致しておるのです。
と同時に、来年は是非とも誰かに「コイツと知り合えて良かったー、かな?」と思われるようなヤツになってみたい。無理を承知で、そうなってみたい。なれなければ、まぁ仕方ない故に、別の意味で「コイツを知っていて良かったー、よな?」と思われたい次第であります。


来年の私は、まず第一に就活がある。そうすると最低限の出会いはあるだろう、多分… 良い出逢い、悪い出会い、双方を経験しつつ、何らかの成長を遂げていく。そんなモンじゃないかしらん。


最後に、このサイトについて。
多分、来年も惰性で存続していくでしょう。相変わらずどーでもいーことを書き連ねてゆきたいのでした。当サイトを見たモノが、「うわっ、こんなつまんねーコトを考えているバカがいるんだ! なんか俺の不安や悩みなんかどーでも良くなったなぁ」と思われるほどに、ダメ過ぎて逆にポジティヴなパワーを発散できるようになっていきたいと考えております。
ご声援はいりません。毎日のアクセスもいりません。しかし、それでも時々思い出した時に鼻で笑いながら見られるような奇妙なサイト・ブログを目指して、私一人が“奮闘”していきますので、ソレを目撃致した時は是非とも「ケッ」と笑って頂けませんでしょうか?
あと、来年も継続して懲りずに喫煙者はバカにしていきます。


それでは、良いお年をお迎えください。


年の瀬のおまけ。


私(汚)


カーブミラーを撮影致そうとしたら、偶然にも写り込んでしまった私。

2007年12月26日

2007年12月26日 ないものねだり

甚だしき田舎の町より。否、「町」と述べるより「村」と述べたき程の場所であった。
一年ぶりの実家なのですが、どうも閉塞感、疎外感、孤独感が増長されておるような気になる。つまり、単刀直入、<物寂しい>のだ。もう貴様の居場所は此処には存せぬ、と申し渡されたかの如き一種の差別的待遇を無意識裡に受けてあるような、斯様な精神的重圧を受けるのは、何故でありましょうか。家族から虐げられておるワケでは毛頭ございませぬが、かといって万歳三唱を伴って歓迎を受けるワケでもあらず、ソレはまるで宅配業者が荷物をトラックに投げ入れました瞬間を目撃致した時の、あの我が身とは無関係にも関わらず生じる妙な違和感…或いはコレを、あらゆるモノに対して善意を期待し過ぎるあまり、現実の動態にソレを覆されそうになった時に生まれる何ら正当性を持たぬ抵抗意識のようなモノと、それに対置さる現実肯定意識が相互にせめぎ合いの熱闘を演じておるかの如き、精神が自己の内部における安息の地を求め彷徨う過程に発生します能動性と受動性の結合の不一致に似ておると申しても良いのでした。って、何のコトやら解らん。書いた私が30%くらいしか解っておらぬのだから、第三者はもっと解らぬでありましょう。


兎に角、今、私は<物寂しい>。
かつて暮らしたる此の地は、もはや私の中には在らぬ。ヒドくこの身を離れてしまっておる。再び此処に戻って来られるのでしょうか、そもそも戻ってくるコトなどがあるというのだろうか。意識的に手放さなければならぬモノがあれば、其の時には言いようなき激しき寂しさとの闘いが待ってあるのですが、無意識の裡に手放したもの、また一方的に離れて行ったモノに対しては、ソレが離れたる事実を自覚致しました時に、まず感ずる心情というのは、現在私が晒されておるようなこうした<物寂しさ>なのではありませんか。意識的に手放す瞬間において生ずる寂しさには痛みを伴っていますが、そうではない瞬間における寂しさには悔恨に似たもどかしき寒気があります。


そうすると、私の安息の地はいったい何処にあるのであろうか。

2007年12月25日

2007年12月25日 触らぬ神に祟りなし

部屋の大掃除、いや規模と致しては中掃除くらいのモノを決行す。しかし、中途半端にキッチリとしたる性格が幸いしてか、お掃除道具には不便を来さないのであった。掃除機、雑巾、スポンジといった超基本アイテムから始まり、コロコロやトイレ用洗剤、浴槽用洗剤、フローリング用洗剤、キッチン用洗剤(油汚れに強い!)等を所持しておるのでした。また、油汚れを落すのに特化したスポンジや水を用いないでもホコリを吸着して頂ける紙製の雑巾なども所有してある。およそ男の一人暮らしにしては道具がありすぎる気もするが、無いよりは宜しい。現在、私は、複数の洗剤のニオイが漂う部屋中にてキーボードを叩いておるのであります。お掃除をしたという実感も漂う。全ての汚れを落とし去ったワケではあらぬが、大体七〇%ほどの汚物は洗浄し得た。と自負しているらしい。


今日はクリスマスなので、近所の神社に馳せ参じた。日本語がオカシイか。
閑散としたる神社。おそらく神社を管理しておると思われる家族のような四人組(父母と兄妹)が何やら日曜大工的土木作業をしておるのを傍らに見ながら、神社内をウロつく。彼ら一家からすれば、私は相当怪しきモノと警戒されたかもしらん。
フとするに、「天然記念物」と記されてある石碑が設置されてあるのを発見致したので、よくよく見てみるに、どうやらソコにある巨木が天然記念物に指定されてあるらしい。私の直感からすると全高十二メートル、直径一メートル八十センチほどの巨大な木でごじゃいます。何ていう木かは存じ上げん。
十五分くらい適当に神社の中(主に天然記念物の周辺)を散策してから帰ろうとしたのであったが、このまま帰るのも申し訳ないような気がしましたので、祠(ほこら)の前にあった賽銭箱に「五十円玉」を投入して、手を合わせてみる。だが、手を合わせた瞬間に後ろめたさが生ずる。今まで斯様なコトはせずに来ったモノが、その場凌ぎのような具合で信仰心的なモノを見せつけるのは却って“神様”に対する不信ではあらぬかと感じた故に、すぐさまその場を立ち去らんと決し、実際すぐに立ち去ったのであった。クリスマスだからの口実の元に<にわかクリスチャン>になって祝うのも十分な冒涜行為であると信ずるが、だからといって“逆説的に”神道に歩み寄るのも是また冒涜行為なり。そうして、我が家系は代々真言宗ではないか! チクショー!お寺へ参詣すべきだったか!


・・・あっ! 今気付いた。俺、手叩いてないワ。神社ではパンパンって手を叩いて拝まなければ“神様”がお気付きになられないのよ坊ちゃん、ってガキの頃に何度か両親に言われたはずだ。
…ということは、私の軽薄なアノ行為も“神様”が察知しておらぬというコトで、バチは当たらぬであろうか。…というよりも、バチが当たる当たらないの次元で神社というものと向かい合っておる時点で、十分なバチ当たりではないかと感じますが。まったく気が滅入る。


明日は実家へと帰らんとするのである。
トコロデ、この前記し上げたtexas pandaaなるバンドはやはり素晴らし過ぎるバンドであります。(参照リンク:“texas pandaa”というらしい存在)勢いでファーストアルバムも購入してしまった。あるいは彼らとの出逢いは今年最大の収穫ではありますまいか。コレも“神様”が用意したる巡り逢わせ哉。
(数億人に一人の割合でいるらしい、まだ見ぬ)私と同じような趣味の持ち主に是非とも勧めたいバンド。texas pandaa:「Days」ってアルバムは誠に傑作な一品でございます。宜しければ召し上がれ。

2007年12月24日

2007年12月24日 新たなる日々へと向かおう!

ホントは明日でバイトを終えるはずだったのですが、もう本日で打ち切ることにしてやったのでした。ほぼ十一ヶ月の月日を過ごしたるスーパーのバイト、その日々を回想してみるに、疾風怒濤の如き歳月とは斯様なコトを云うのであろうか。妙な客を沢山目撃出来たのが、最も愉快なる収穫に他ならぬ。結局、最後まで姿を現さなかった「ミキサー」(参照リンク:横暴サディスティック)、ざまぁみろ。お前なんか、お前なんか…
まぁ、バイトは一段落です。ただ、コレで何かが終わったワケではあらぬ。愈々本番を迎える就活戦線。嗚呼、誠に厳しい将来。来年は<最もシビアな>一年になるような気がしなくもない。嗚呼… おっと! 悲観的にはならないでおこう。常に笑みを。・・・だが、一人でニヤニヤしておるのもキモチ悪いものである。私なぞは“頻繁に”一人でオカシナモノを見つけてしまう故に、そうして単独でニヤついておったりするから、ソレを目撃したる他人はおそらく例外無く気持ち悪がっていることでありましょう。もしくは気が狂っていると断定されてあるか。


明日は、一日お部屋の掃除などをして、明後日26日に四国の実家へ帰らんと欲す。およそ一年ぶりの帰省である。帰っても何もありゃしないが、かといって一人で正月を迎えても何もありゃしない。いずれにせよ何もありゃしないのだ。嗚呼… それでも悲観的にはならぬ。笑みを。笑みを。ちょっと大袈裟にニヤついてやろうかしらん。フフフフ……

2007年12月23日

2007年12月23日 未来が怖いのです

本日は楽しい楽しいクリスマス・イヴの前日、イヴイヴなり。
って、ふざけんな死になさい!


本日は天皇誕生日ではないか!
陛下の誕生日をお祝いせずして、いったい何を祝うと申す。


さて、有馬記念の発走直前に、高校時代からの友人某からの連絡を受け、数ヶ月ぶりに会うことに。
有馬の方はマツリダゴッホ、コチラでも陛下の誕生日を祝しておる。


無精なる友人某も、私と同様大学院生であるが、彼の場合は理系であるが故に、私のように就活には苦労しまい。
夕食も兼ねて居酒屋で雑談す。就活の話題や研究室の話題など、互いに「旬」なテーマを持ち寄るに、彼の就活は私より二歩三歩進んでおる模様。彼を前になんとなく気合いが入りたるような気が、しなくもない。


しかし、酒に弱いコト甚だしき私。とは言いつつ、生ビールを中ジョッキ二杯飲み干してしまう賤しさ。とは言いつつ、お酒の席はキライじゃない卑屈さ。色々と考えさせられるような話題や愉快なハナシが出てくるモンである。結婚を前提に同棲生活を送っておるらしい旧友のコトや、トイレでオナニーをしていたという教授のハナシや、なんと40歳子持ちのオバサンと真剣交際しておる同級生の某クンの実態を知らされ、驚愕す。40のオバサンはムリだわね〜


思えば、同級生で仲の良かった連中のうちで、終局、大学院にまで進んだ(進んでしまった?)のは、私とこの友人某のみである。
これからどうなるコトやら。特に俺。
もしかしたら五年後の私は、45歳のオバサンと結婚しておるかもしれぬではないか(相手は再々婚で…)。ああ、恐ろしや恐ろしや。未来ほど無気味で厄介なモノはない。故に人々はソレに対して様々な対策を講じるのでありましょう。貯金然り、色々なる人生計画然り。ヒトにとって最大の敵は未来であろうか。

2007年12月19日

2007年12月19日 「再会」のこと

あと一ヶ月と10日で23歳になる。22年と325日の月日を過ごしてきたワケなのでしたが、たった今、私は己の人生についての決定的な瑕疵を発見致した。私は22年と11ヶ月の日々の中で、一度たりとも「再会」というモノを経験していないのであった。或るヒトと別れたらそれが最後、別れたキリでそれ以来二度と出会っていないのであります。モチロン、中学時代や高校時代の幼馴染みとたまに会う機会はあるのだが、ソレはある程度の連絡を取り合っている状態で、「じゃあ、○月×日に△△で会おう」といった約束をしてから会っているのだから、この場合は私の意図する「再会」ではあらぬ。ココで私がいう「再会」とは、<双方が思いがけぬ時に思いがけぬ場所で>出会うようなモノを指しておるのですから、そうすると私のこれまでの生活の中で斯様な経験は一度も存せぬ。それには生まれ育った四国の田舎町から、現在では遠く隔たった地にて生息しておるという理由もあるのかも知れませぬが、しかし漠然とではあったが、今後も私は「再会」を経験せずに終わるのではないかといった不安のようなモノを抱えておるのは、ある程度の本音なのであります。
元来私は人付き合いの悪いタチであるが故に、従って親しいモノの数も多くない以上、自ずと「再会」の可能性も低くなりましょうが、そうであるなら必然的に(?)「俺は徒党を組まないぜ」ってな開き直り具合でどうしようもない諦念を抱え込むのだけれども、ココで私は唐突にも親父のハナシを持ち出そうと思う。というのも、私の親父は「再会」と隣り合わせのような人生を送っておるのであります。<双方が思いがけぬ時に思いがけぬ場所で>出会うといった経験を、私の親父は非常にしばしば体験する。私の幼い頃からつい最近までの記憶を手繰り寄せてみますに、例えば家族でやや遠方の場所に観光的移動をなした時などに、私の親父はおよそ60〜70%くらいの確率で知人と出会う。ホントに信じられないくらいに何処へ赴いても親父は「再会」を経験し過ぎるので、母などは或る時に相当気味悪がったモンで、多分今でも親父に何らかの「再会」があれば、母は気持ち悪がり、いや、むしろ呆れ返るような具合であろうと思われる。
「再会」も経験しすぎると、もはや何の有り難みもあらぬでありましょうが、数年に一度くらいは<双方が思いがけぬ時に思いがけぬ場所で>出会うといったような「再会」の妙味を味わってみたいモノでありまして、私にとって懐かしい誰かが予告も無しにいきなり眼前に一度くらいは現れてみろってんだよ、畜生!

2007年12月18日

2007年12月18日 利用されただけ?

今日に至る迄、“気持ち”の交換をせずに来ったヒトからの思いがけぬ<配達>には戸惑うモノである。しかしソレは、相手からすれば、単なる“不要物”の私への押しつけかもしれぬ。斯様な思いを巡らしてみると、なるほどなかなか対人関係などというのはイイ加減で都合主義的な面もあるのかもしれません。

2007年12月15日

2007年12月15日 お酒のせい

MUSIC ON! TVにて毎週土曜12:00〜13:53の間に放送されておりますのは「M-ON! Make On The Holiday」ってなプログラムでしたが、パックンマックンと共に番組進行を務めていらっしゃいます岡田茉奈チャンがカワイイから、カワイイから、カワイイからついつい見ちゃう。困ったモンだ。あの朴訥としたような表情が素晴らしい。喋ると全くもって朴訥ではあらぬコトが判明致しますが、黙っておられるとそれだけで何モノかを惹き付ける魅力を有しておる。彼女に笑いながら「キャハハハ、ふざけんなよぉ〜 死んじゃえー」なんて言われたら、私のマゾヒスティックハートは締め付けられて制御不能になるやもしれぬ。真面目に言われるとヘコむが、冗談なら欣喜雀躍してしまうでありましょう。


前回の投稿は、雑な理論展開と落とし穴が幾つか存す内容で、かつ逆説的に反論され得る可能性も大いにあるモノでありましたが、私はなかなか気に入った。Dear 政治家という括弧付きで頼む。Dear 橋本弁護士でも良いかもしれん。ウソ。冗談。そんな大それたコトは私に出来ないのであるが、私なりの誰かへのメッセージ。今年を象徴する漢字が「偽」であるってのも実に良いタイミングでして、どこかしらそういった世相とリンクするトコロがある、と思って頂ければ私は嬉しくて創価学会にでも入会しちゃう。


最近実に気になっておる疑問。誰か、誰でも宜しいから教えて欲しいのだが、おそらく誰も答えられまい。すなわち私が知りたいことは、「キティちゃんとくまのプーさんは、どちらが美味しいか?」
猫と熊という関係で考えましたならば、おそらく熊になりましょうが、しかしキティちゃんはフツウの猫とは異なるように思われます。アレはアレで甘くて美味しそう。モチロン、プーさんも美味しいかもしれんが、意外と平凡な味がしそうでソレはちょっと失望しちゃうゼ。だが、キティちゃんを食すにしてもプーさんを食すにしても、例えば、丸焼きで出て来たならば、どちらでもショックを受けるのではありませんかいな。けれども、丸焼き姿を視認しました場合、より衝撃的だろうと思われるのは、やはりキティちゃんであろう。
ココまできて、なんとなく判明致した気がする。多分…どっちも美味しくない。キティちゃんなんか食おうと思っても食える部がほとんど無いじゃないか! …となると、結局は無難にプーさんか。それはプーさんですから肉付きは上等だが、そもそも黄色い動物が美味たるか?
じゃあもう申し上げますさ。敢えて選ぶなら、私はキティちゃんを召し上がらんと欲す。ムニエルにでもすればちょっとは宜しく頂けるのではありますまいか。プーさんの有り体に柔らかそうな肉よりも、キティちゃんの珍味的に甘そうな肉に私は賭けたいのであった。
原作者には申し訳ないが、私は<食材としての>キティちゃんなら好きになれそうなのでございました。ただし、どうポジティブに思慮しても、その味のレベルは“野菜ふりかけ”程度であろうが・・・


現在、お酒に滅法弱い私は、缶ビール一本(350ml、ヱビスビールの限定発売の赤いヤツ)と日本酒一合(辛口最高!)を飲みて酔いまくっておる。初めて(!)イイ感じに酔った! 素晴らしくボーッとしておる。意識がヤバい! くだらんコトを書いたのは、間違いなくお酒のせい。

2007年12月12日

2007年12月12日 演芸会開催間近!?

如何なるモノであろうとすぐに政治の世界へと向かわんとするのは、コレすなわち有権者が誰でも彼でも当選させてしまうような状況を作りだしておるからではあらぬか。
かつて大阪府民はハゲの漫才師を知事に召還した。そのハゲはハゲに留まるコトなく、後にはエロでもあるコトが明らかになりまりして、無惨にも失脚したことはご存知の通り。今年度、宮崎県民も同様にハゲのお笑い芸人を知事へと迎え入れたのであった。このハゲは、エロでの前科と暴力行為での前科があるものの、もはや今をときめくスターになってあります。ハゲでもエロでもあらぬが、かつて東京都民はタレントを知事へと押し上げたのだった。コノ場合は、やはりハゲでないコトが幸いしたのか、大した実績は残さなかったものの、無難に任期を全う致した。
しかして、此の度の注目は、イケメン風の弁護士である。ハゲではない。子だくさんですが、おそらくエロではない。いや、或いはエロかもしれぬが、少なくとも猥褻ではないでありましょう。何よりも「弁護士」という肩書きが輝いておるではないか。タレント的な要素も大いに含むのでしたけれども、その本分は明らかなる弁護士ですから、人々はコレに騙される。特に日本人の「弁護士」への眼差しは凄まじい故に、大いなる攻撃力を備えておると見て間違い無し。一部には世間からも明瞭に認知される気が狂い切った弁護士(団)もおるが、その連中に対して真正面から立ち向かわんとする彼の姿勢もまた何かにつけて魅惑的に思われるかもしれん。斯くして人柄にも釣られる。そうすると、もはや知事の椅子は目前かもしれん。だが、現知事も前知事に続いて自滅したようなモンであるから、彼も知事になれば自滅する可能性は大いにあり得る。
一部では彼の態度に反発するモノもあるかもしれんが、態度であるとか振る舞いであるとかいう次元よりも本来的に考慮されねばなりませんコトは、その政治家としての資質であるって事実を忘れているから、全国でおかしな現象が生ずる。政治家は誰のために働くか。それは現在生きておるモノだけのためではなく、将来ソコで暮らすモノのコトも想定して働くのである。目先のコトしか考えられませんモノに、政治家としての地位は相応しくない。そして、有権者は(仮にその選択肢が乏しくとも)最もその素質のありそうなモノを選ばねばならぬのであるコトは自明。であるが…その自明が今や危機的状況ではありますまいか。
あの治安の宜しくない都市において「歩行者天国」、「屋台」の活性化を目論むという彼のその威勢は素晴らしきというべきかもしれませんが、その為には解決せねばならぬ、または排除せねばならぬモノが、それこそ<山ほど>あるってのに、それを見ているのか見ておらぬのかは知らぬが、いきなり斯かるモノを増加させたトコロで、治安は益々悪化・混乱するコトは必至。一体全体街を混乱して革命勢力の擡頭でも待とうというのでありましょうかねぇ。


おっと、そうこうしておると、共産党も異なる弁護士の候補を推薦しておるようだから、もはやアソコの知事選は<ふざけた演芸会>の如き様相を呈してきているのではないかしらん。
私には、終局的には関係のない選挙であろうと思うが、いや、しかし成り行きが面白そうなので、対岸の火事。

2007年12月09日

2007年12月09日 “God”基準で。

この世のうちで意味の分からないモノ。
例えばオノ・ヨーコ。
私はこのヒトを大して好ましく思わないのでありましたが、それはキモチ悪いからというよりもむしろ、彼女の世界が私のソレと比するに、あまりに異次元過ぎて如何なる対応を取るべきかを決定できないでおるからなのである。
ジョン・レノンは、私が申し上げるまでも無いほどに、真性の包茎、…いやソレもそうなのだけど(「Unfinished Music No.1: Two Virgins」【邦題:トゥー・ヴァージンズ】のジャケット参照)、彼は真性の天才でありましたが、どのような才能の塊であっても、その生涯の間に二、三のミステークはするものでございます。そうして、そのミステークの一つに、ジョンがヨーコを選択したという事実を数え上げるコトに賛同致してくれる諸兄もおられるのではないか。
周知の通り、オノ・ヨーコと知り合ってから後のジョン・レノンの曲には頻繁に「Yoko」の文字が散見できるのですが、私はそれらの曲を何度聴いても、何故にジョンがヨーコに惹かれたのかが理解できませぬ。ジョンの曲の中に、果たしてリアルなヨーコの姿は秘められているのかどうか。斯かる疑念を持つのでした。と同時に、冒頭にも記しました通り、そもそもオノ・ヨーコについての解釈の仕方に戸惑う。アレは何だと言うのか。奈良の騒音おばさんと同等か或いはそれ以上に不可解なオンナではありますまいか。
やはりジョン・レノンくらいの天才でなければ、オノ・ヨーコのような存在は受容できぬのか。


ジョンは「God」の冒頭でこう歌った。


God is a concept by which we measure our pain


イタいです。イタいです。私の中にある“God”を通じて見るオノ・ヨーコの姿、非常なる痛みを感じずにソレを見ることはできませぬ。


ジョン・レノンの命日から遅れるコト二日、此のような思いを馳せる誠に陳腐なる一人の存在を、“God”を基準として測量致した場合に、ソレはいかなる規模であるか、もはや言う迄もない事柄である。

2007年12月08日

2007年12月08日 本音

前々回の流れが未だ尾を引いているのでしたが、やはりどうして私と関わるモノは変わっておるのかもしらん。私との付き合いを続けたいと思うようなヒトは、なぜか個性の強い人物が数多であって、一方で、すぐに疎遠になるようなヒトは、実にノーマルな人物、言わば真っ当なヒトたちでないでしょうかってコト。私をバロメーターにするなんて烏滸がましいコトをしようというワケではありませぬが、それでも私からすぐに離れて行くようなモノは、本人がどう思っているのかは知りませぬが、スゴく真面目でなかなかの社会適用能力を身につけたモノばかりである。
男女関わらず一年以上私との関係を維持し続けたモノは、それこそ<数える程しか>おらん。その原因は、或いは私の引っ込み思案、出不精、積極性の無さに求められる面もあろうが、しかし斯様な私の性格を前にしても、それでも私との関係に何らかの要素を見出すようなヒトは、どうしても奇妙な連中ではないか。フツウのヒトならば、すぐに切断するであろう関係を、何故アイツやあのヒトが維持し続けるのか。私には解りません。
私が察知できますコトは、彼らが非常に個性の強い人物で、明確なる己の興味関心事項を持っているという事実―つまり自分の世界を見事に構築できておるモノたちでして…そう致せば、彼の世界と私の内面の何処かが接触し合う時に、何らかの刺戟を彼に与えうるというコトも考えられましょうが、果たして私にそこまでの力があるか、否か。解せぬ。どうしても解せぬ。私から離れてゆくモノには、そりゃ、こんなオレだから仕方ないだろう…って諦められる部分もあるのでしたが、片や私にある程度の好意や共感を持続して覚えてくれるヒトには、いつも不可解な戸惑いを覚えるのであった。オレのどこに・・・何時もその思いを回避できぬのは、是すなわち私の自己認識不足であると言ってしまうワケにもいきませんで、どうしてもその由縁は私の内面と彼らの内面世界の連関性にこそあるような気がしてならぬのであって、すなわち彼らの異常な個性対ロクでもない私の内面が生むエネルギーというモノを分析してみたいのだが、未だその方途が解らぬのです。


只、個性の強いヒトが周囲にいてくれるのは、それなりに心強いコトでして、例えそれが最終的に一人であろうと、私と彼・彼女との間に<特異な>、<唯一無二の>エネルギーが生じているのであれば、私は一生ソレを守り続けてゆきたい。そう思うのでありました。


この雑文を、特にTとT氏に捧げる。

2007年12月06日

2007年12月06日 カーライル氏との対話

私「昨日書いた文章を読み直してみたのですが、コレがヒドくつまらない。ここ最近の中じゃ一番くだらないんじゃないかしらん、と思いました」


カーライル氏「尤もだ」


私「上辺だけでしかモノを語れていないからでしょう」


カーライル氏「いや、むしろ問題なのは、大したオチも無いクセにダラダラと焦点の定まらぬ文面を書き連ねて行く、その根性に問題がある」

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2007年12月05日

2007年12月05日 ココロに咲く花

無い。何処をどう探しても、無い。日本のインターネットの世界にM・オークショットの本、『政治における合理主義』は、無い。古本屋のHPを巡り果てても、無い。当然オークションにも出品されて、無い。私は本で欲しかった。「本で」というのは、すなわちコレはもうどうしようもあらぬので、やむを得ん、私は学校の図書館から借りて、読みたい部分も丸々コピーして保管しておくより他に道が無くなりましたので、実際にそうしたという具合なのであった。およそ二百頁ばかりをコピーさせて頂いた。
しかしねぇ、学校の図書館に於いても、大仰な“書庫”なる<貴重本>を多数保管してあるらしいまるで霊安室の如き陰気な場所にあるのだから、そりゃインターネットの世界にも出回りません。そもそもこの本を借りたのは、私で果たして何人目であろうか。重要な本であるというのに、何たる知名度の低さ!
私は、今、此処にて一つだけ申したいコトがある。学校の図書館に申し上げたいコトがあるのだ。「蔵書数百何十万冊」とかいう宣伝は宜しいから、もうちょっと入れる本を考えなされ。このオークショットの『政治における合理主義』にしろ、その傍にあったマンデヴィルの『蜂の寓話』にしろ、ほぼホコリを身に纏うような雰囲気で安置されておるというのは、あまりにふざけてはおらぬか。ホコリをかぶるべきなのはマルクスやレーニンの本であるべきで、絶対にオークショットの本にホコリを付着させてはならぬ。


ああ、いけない。斯様な文句を言い立てるから、私はヘンな奴だと推定されるのでありまして、フツウにしていても妙な輩と誤解されるのだから堪らない。そうして、私がこんなコトを述べる権利はどうしても保持しておりませんが、やはり私の周りにいるような連中だって、多かれ少なかれ妙な連中ばっかりなのです。そりゃねぇ、俺の人生ギャンブルだぜ!的な感覚で、文系のクセに、就職が不利になるコトを承知の上で、大学院に進学してくるようなのは、なかなかの曲者が多し。HクンもKクンも猪突猛進タイプというのだろうか、周囲を自ら隔絶するような状態に置き―奇妙な<独立心>で己の興味を只管追求致しておる誠に“一途”な学生なのであるが、しかし「世間」たるモノからは相当な距離感を思わせるのは、これまた必然であろうか。而して私も然り!?


おそらく、というか、コレは何らかの条件が一致すればヒトは皆そうなるのかもしれぬが、レベルは低くとも、多少なりとも何かに熱中して「研究」するようになると、およそ彼も彼女も<大衆嫌い>になるような気配がある。如何に現実的な「研究」であれ、やはりどこかにおいて現実の社会と乖離したる部分はあって、その実感(虚無感?)に触れてしまいました瞬間において、彼や彼女が現実を拾い上げずして己の「研究」の過程にこそ理想も可能性も夢も希望も改善も保守も飛躍も優越も満足も存すと見定めたる(見誤りたる?)時点で、<大衆嫌い>なる病魔に浸食されるのではありますまいか。まず大学教授からして斯かる病を持ち合わせておるモノの多いこと、実に多いこと! なんでございましょう、あの“厭世讃歌”は。
KクンもHクンも<大衆嫌い>だと申しておった。あのセンセイも申しておったじゃないか、「大衆はバカなんだ!」と。 ハイハイ、ソレは承知致しております。ソレは重々心得ておりますよ。だが、ココで問題なのは斯かる自明のコトではあらずして、この場合、奇妙なコトに、「大衆なんてバカだから、俺はあんなモン大嫌いだね!」と言うその瞬間に限りて、ソレを申したモノも<大衆>の一員に他ならぬのに、如何なる事態か己の存在が<大衆>の中からスッポリ欠落しておるコトの不可解さを、私は疑わずにはおれないのでした。いや、己の未熟さ、稚拙さを悟りたる上で斯様な発言を致すのなら、ソレは「大衆こそが絶対だ」と思念して疑わないモノよりも、何千倍、何万倍、何億倍と賢明なコトは明らかですが、果たしてそこまで高邁な精神を誰彼構わずに持てるものでありましょうか。理解不能の優越感? ココロで感じても、口に出すと急に枯れてしまう花があるなぁ。


しかしながら大衆の愚かさについては、今更言うまでもなかろう。それはエドマンド・バークに始まり、アレクサンダー・ハミルトン、トクヴィル、ハイエク、オルテガといった歴史的に見ても特筆すべき天才的な哲学者、政治思想家等によってイヤになるほど指摘されてきた事実であるのですから。
ところで、オルテガの名前を出してしまったので、最後に“余計なコト”を言わねばならなくなった。オルテガはスペインの哲学者だが、彼のフルネームは「ホセ・オルテガ・イ・ガセト」である。カッコイイ、カッコ良すぎる名前でありましょう。何かよく分からんが、「イ・ガセト」ってのが最高に高級っぽい響きだとはお思いになれないのですか! 此れが「イガセト」ならダメなんだな。「イ、ガセト」って具合に「イ」と「ガセト」の間で一瞬切れるからイイ。「ホセ・オルテガ・ガセト」と「イ」を抜いてしまってもダメになる。「ホセ・オルテガ・イ・ガセト」と四つの部分に別れている、そのバランス感覚と原因不明の響きに心を抉られるのでした。ちなみに、<大衆>嫌いのあのセンセイも、私のこの主張に納得してくれたのは誠に微笑ましい記憶である。

2007年12月01日

2007年12月01日 横暴サディスティック

本日バイトに行きて、今月末に辞めたい旨を連絡する。
既に夏前から年内をもって辞する決意を固めておったが、愈々引き際が近づいて来たのでありました。誠に月日の流れは速し。
実際において予想以上にアッサリと“退職願”は承認されたのだが、それは所詮<使い捨て>のバイトだからか。無断欠席しても何も言われないようなトコロだから、やはりバイトなぞの価値はゼロに等しい。ま、宜しい。私が辞める理由は、来年初頭から就活に専念したいコトが最大のモノでして、其れに続いて修論執筆に向けて時間を欲しているコトがあげられよう。
残すトコロ13〜14回通えば、一先ずバイト生活ともお別れである。名残惜しいとは思わんが、辞めれば心持ちも変化するのではないでしょうか。


さて、今日はバイト先にいる(いた?)奇妙なオッサンのハナシをしようではありませんか。
ココでまず最初にこのオッサンの呼称を決めておいた方が以後スムーズに展開出来るのであるから、私はその対象をMサンとしたいのですけれども、それでは味気が無いので、あっ、今テレビに「ミキサー」が映っておるから、Mサンとかけてそのオッサンを「ミキサー」と呼びたい。
今日は「ミキサー」についてのだらしのない記述である。

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2007年11月29日

2007年11月29日 変わらないというコトへの期待

ほんの数刻前に日付が変わりたるをもって、少しばかり昔のコトを想起せし夜であるから、ちょっとだけ思い出していた記憶を書き留めてイイ?


高校一年生の時に同じクラスになりたるIクンは、非常にマジメな生徒であった。マジメを絵に描いたとは真に彼の如き人物を評して云うのであります。容姿も冷静沈着な風を保ちたる具合で、語彙こそ大したコトは無かったのですが、会話はスゴク改まった調子で明晰にハナシを展開する。文字も端麗で、成績も宜しかった。おそらくクラスで一番良かったのではあらぬか。当時、勉強を「クソみたいなモン」だと“定義”し、己の空想にのみのめり込んでおった私などと比しても、テストでは常に一回り上の得点を叩き出しておったように記憶致す。私は斯様なIクンとはそれほど親しい間柄に成り得ず、従って彼のプライヴェートなコトはモチロン、その実態についても外面的な観察をもって知れる以上の事実は如何程も持ち合わせておらなかった。ただし、「マジメ」であるという事実だけはどうしても覆せぬモノであると愈々確信していたのです。
私が中学時代から現在に至るまで親交を保持し続けておる―数少ない人物の1人―Tは、Iクンを小学校の時から心得ておるようであって、TによるとIクンはなかなかワケありのモノであるという。曰く、Iクンは長男で、彼の下には四〜五人の弟妹がおり、しかも母子家庭であるらしいのでしたが、彼の父親は或る日突然蒸発し、以後行方知らずで今に至りたる。そういう事情であるから、ハッキリ申し上げて<貧しい家庭>の中に身を置き、相当な苦労を背負い込んでいるというのであった。私が通っていた高校は、原則として「アルバイトは厳禁とす。ただし諸事情により認可を受けた者は是を行い得る」といったような校則でありまして、まさにIクンは家計を助ける為にバイトをしながら学校に通っており、今時非常に珍しいタイプの<苦学生>であるコトを私はTから聴取し得た故に知り、そうしてIクンに対して僅かばかり尊敬の念を抱くようになった。隠れてバイトをしておるような輩は幾人かおったけれども、斯様な連中の行動原理は、嗚呼、単純なる哉、ただのお小遣い欲しさという軽薄な動機に過ぎず、それとは対照的にIクンは家計を考慮して“やむを得ず”バイトをしているのでありますから、何やらソコには涙をそそる動きが潮流しておるではありませんか?


高校二年以後、私はIクンと異なるクラスになり、元々親しくはなかった故に、次第に彼のコトは意識から薄れ行き果てた。私が彼のコトで存じ上げておったのは、進学を希望しているコト、そしてこれまたやはり家計を考慮してであろう、志望は国公立大学であるコト、それのみであった。
山々も色付き始めた(二年の)秋、私たちは修学旅行を迎えたのであるが、Iクンは金銭的な問題等を理由に辞退したことをTから聞いた。その時は大した驚きも存せぬような有様でありましたが、しかし所詮は田舎の公立高校、行き先はくだらん「横浜・千葉・東京三泊四日の旅」である。都会のお嬢様私立校の如き「ヨーロッパに丸々一週間の旅」などとは比べモノにならん質素な団体行動でありまして、実に田舎臭い安上がりなモンだ。Iクンは修学旅行へ行かなかったと云うが、思えばその頃から彼の歯車は狂い始めておったのかもしれぬ。


三年になりたる頃、私はふとIクンを思い出した。Tにそれとなく「そういえば最近I見ないな」と聞いてみたのでしたが、Tも素っ気なく「確かに見てないな」と言っただけであった。
遅鈍な私も、三年の夏休みを迎えるにあたり漸く己の進路に対して漠然とした焦燥感を抱き始めたのは、ただ「進学希望」という曖昧な目標をぶら下げておるだけであって、具体的に進学して如何なる勉強をしたいか、といったコトが皆目検討の付かない状態であったからなのでした。それから私は徐々に、今度はマジメに、己の内面に入り込んでゆくようになり、またTも進学に向けて余裕のない日々を送るようになっていった。私の中からも、そしておそらくTの中からも、Iクンの存在は完全に亡失されつつあった。


Tは私より早く、推薦で某名門私立大学に入る僥倖に恵まれ、私と対照的に年末には余裕を回復しておった。そんなTからIクンのハナシがもたらされたのは、卒業を目前に控えた、おそらくセンター試験の前後ではなかっただろうか。私の中ではもはや完全に彼の存在が消去されてあったので、それはまさに寝耳に水の事態でございました。
Tによると、Iクンは、理由は分からぬがいつの間にか退学しており、しかもTの友人がIクンと接触したらしく、その時にIクンは女を妊娠させたと言って非常に狼狽していたという。そして、こうも言っていたと教えられた。「堕ろすにしても金が無いし…」
一瞬私は「あのマジメなIに限ってそんなコトあるか!」と心の中で反言したが、しかし同時に抗い難い時間の流れに想いを致したとき、どうしようもない諦念のようなモノに覆い包まれ、「確かにそういうコトもあるんかなぁ」と、むしろ己に言い聞かせるかの如き具合で念じたのでした。


その時まで私の中にいたIクンはあくまでも高一のIクンでしかあらずして、あの時点でのIクン―すなわち十八歳のIクン―のコトを私は何も存じ上げておらなかった。その一年半の間にIクンに何があったのかは、もはや知る余地もない(モチロン、彼の現状については微塵も知らぬ)。
彼が変わったのならば私だって(一年半の間に)変わっていっただろう。ヒトは時間に抗うことが出来ず、時間に押し流され姿を変えて行く生き物だとしても、それでも私はこう思いたいのである。変わるとしてもそれは表面だけであって、決して骨の髄まで変わるようなコトはない。そんなコトは絶対にあってはならない、と。

2007年11月25日

2007年11月25日 真の“ヒューマニスト”

肺ガンで死のベットにいる自分の姿を想像してみてください


肺ガンで今わの際に至りたるモノの様子だと云う。


低体重児出産や子どものぜんそくを引き起こすタバコ


頭が狂った喫煙者の母親(=メス豚)のせいで死にかけの未熟児だと云う。


33歳、ミイラの状態で人生の終末を迎える悲惨さ


33歳にて肺ガンで死に果てたモノとその家族が幽明境を異にする寸前の様子だと云う。


以下、リンク先のサイトから引用


肺がんという病気は空気が吸えなくなり、死ぬ最後まで、堪え難い苦痛を伴います。
そして、食事も出来なくなり、ミイラのような状態で最後を迎えます。
タバコをやめるのを努力しますか?それとも肺がんで死ぬ時苦しみますか?
日本人の死因のトップはがんです。がんの種類別では肺がんがダントツのトップです。


誠に拙劣な文章でありますが、コレはおそらく低水準な知能の持ち主である喫煙者にも理解できるよう配慮して書かれた為でありましょう。
苦しめば良いのである。迷惑な喫煙者を楽に死なせるなどというのは、殺人犯を「懲役一日」で釈放するようなモノである。「食事も出来なくなり、ミイラのような状態で最後」を迎えれば宜しい。なお、此の場合の文字は「最後」ではなく「最期」が相応しいのだが、知能が小学三年生レベルの大半の喫煙者はソレすらも理解致せぬ故、この誤字はあって無いようなモノになっておる。


喫煙する雑菌の苦しみなどに想いを馳せるようなのは、せいぜい元喫煙者か“ヒューマニスト”を装った偽善者くらいでありましょうコトは、フツウの感覚を持ち合わせる非喫煙者ならば容易に察しの付くコトでございます。むしろ正常なる感覚・思慮を持ち合わせるモノならば、真ん中の画像の「犠牲者」たる未熟児の様態にこそその意識を全力注入すべきであって、斯様な子供を産む(産み捨てる)無責任、無感情の鬼畜的有害物質に相当する喫煙者の親を殺害するくらいの怒りに己の魂を奮わせますのが、真の意味での“ヒューマニスト”の在り方ではなかろうかってコトでした。

2007年11月21日

2007年11月21日 つまらぬ一日のコト

どうせつまらぬ毎日の積み重ねのつまらぬ人生なのだから、ソレを自虐的に扱いますコトで何か面白みが得られるのならば、すなわちコレ幸いである。という具合で、前にも一度だけ記したが、再度試みる「<つまらぬ>今日の流れ」。 憐憫と同情の波押し寄せる!?


6:55 起床
〜8:00 「めざましテレビ」を見ながら朝食、仕度
〜8:30 歯磨きとかお着替え
8:35〜 お出かけ
〜8:55 学校着
9:00〜 或るリベラル教授のつまらぬ授業
10:40〜 少しだけ面白い哲学的な授業
12:00〜 ゼミのセンセイと修論についての意見交換※1
12:30〜 留学生のKクンからまさかの連絡を受け、午後の授業休止決定※2
12:40〜 仕方ないので帰宅
〜13:15 帰宅に無事成功
13:20〜 朝読めなかった朝刊を黙読。万能細胞※3
13:50〜 読書
14:35〜 睡魔に襲われたためお昼寝
〜15:30 目覚める
15:35〜 読書の続き
16:05〜 お相撲を見ながら軽食、身支度
16:45 お相撲観戦を断念して泣く泣くバイトへ
16:55〜 バイトの始まり(沈鬱)
21:05〜 バイト終了、帰途へ(歓喜!)
21:15 帰宅に再度成功
21:20〜 見れなかったお相撲の結果をネットで確認
21:30〜 入浴
21:50〜 NHKの偏向ニュース番組&福田総理の会見を見る
22:20〜 夕食
22:50〜 歯磨き等
23:05〜 ブログ更新を決意
23:10〜 つまらぬ文章を書き始める→現在に至る


補足
※1…もうそろそろ修士論文の全容を確定せねばならぬ。私は、実用的な理系ではあらず細々としたる文系でございまして、しかも「思想史」という歴史学でもかなり“大雑把”な、厳密な史料調査や実地調査を大して要せぬような分野(斯様なコトを申し上げると、或いは誤解を招くかもしれんが、誤解を恐れてはおりません)を専攻しておる以上、どうしても書物との格闘になる。それ故、如何なる書物を読み込んでいきますかを、もう確定しなければいけない。
ところで私が教えを受けているセンセイは、酔狂だ。「戦後(政治)思想をやるんだろう? それなら共産党の無謀な戦争責任追求でも取り上げてやったらイイじゃないか。あんなバカなコトをやっても何の意味もないってことを書けば良い」なんて言う。―ハァ、共産党は確かに愚ですが、でも戦後史の中では無視出来ない存在で、しかしソレは…
そもそもこのセンセイは、共産党を辛辣に罵るかと思えば、妙に同情的な発言をしたりもする。やはり酔狂なのであろうか。いずれにせよ酔いはまだ治まらず。妙に機嫌が良い。「キミは、コレはオダテじゃなくて本当のコトだけど、私は四十年もこの仕事やっとるけど、私が見て来た中でキミは一番優秀だよ」などと素っ頓狂なコトを放言す。「Kサン(私があまり得意としていないセンセイ)も『Yクン(私のコト)は最近貫禄がついてきた』と言ってたぞ」―ハァ、私に「貫禄」ですか。ソレは北島三郎とノイズミュージックくらいの懸隔があるってモンです。Kセンセイも酔狂なる乎!?
さて、修論。「吉田満」という人物に焦点を当て、彼が戦争経験を通じて得た戦後観や国家観、戦後の所謂「平和論・平和主義、民主主義」に対する問題点などを論じたいのでありまして、そう致すとやはり「戦争責任問題」は避けられぬか。吉田を軸としながらも、保守陣営では福田恆存や江藤淳、リベラルの陣営では丸山眞男や清水幾太郎の思想を夫々その時代の影響力等を加味し申し上げて「代表例」として取り上げ、また民主主義の問題であったり国家観の問題に関しては国内の知識人だけではあらず、例えばA・ハミルトンやトクヴィル、E・バーク等の保守主義思想をも参考にしながら吉田の思想との対比、共通点の指摘や、そこから導き出される問題及び可能性等を論じたいのでしたが(バーク等の保守主義思想を持ち出すゆえんは、吉田の中にそうしたものとの共通項が少なからず見えるからであって、またそれにより戦後日本における保守の思想の問題も射程に入りそうだから)、ソレは非常に果てしない。そうして、ソコから現在まで残されておる問題へと架橋するコトなど今の私にできようか。先は依然として見えぬ。センセイなぞは他人事だと思って好き勝手にバークの思想を語るが、肝心の吉田については非常な無関心。「吉田は面白い存在だ」って言ってたクセに。


※2…Kクン、いつも連絡とれないで申し訳ない。ケータイを放置している故、我が不覚なり。伝言メッセージを入れてくれたのが九時七分で、ソレに気付いたのが十二時三十分過ぎという驚くべきタイムロス。もう俺、ケータイいらん、このケータイ死ね。


※3…万能細胞なるモノは大いに注目に値します。もし実用化された暁にはヒトの寿命は如何なるか。多くのヒトは死を欲せざるし、現にそうした意思を表明致すが、しかしながら「生き過ぎる(長生きし過ぎる)」ような事態になると、今度は「死ななければいけない」と言うようになるのであろうか。そうすると、ヒトは本能的に己の死の必要性を捉え、死を(生来的な意に反して?)「義務」と考えているコトになるのでしょうか。葛藤。なかなか興味深い問題であります。

2007年11月18日

2007年11月18日 或る美徳の淵源―オシム氏に宛てて

オシム氏が心配で心配で致し方の無い日々を送っておる。
私はサッカーの門外漢であるから何もエラそうなコトは言えぬが、しかしオシム氏は某前監督よりよほど信頼できそうな様子だとお見受け致したのでした。某氏はプレイヤーとしては「神様」でありましたが、監督としてもまた別の意味で「神様」であったのかもしれぬ。つまり民衆どもに好き勝手な権限を付与し、彼らが自主的に仕事をこなすようになれば、必ずや活気に満ちた素晴らしき世の中が形成できると信じておった。ソレは民衆の美徳と義務意識と理性と各々の属する共同体への忠誠意識等が“例外無く完全に”発達した世界(つまり非人間的世界)においてしか実現し得ないにも関わらず。某氏は神の世界の定理を人間の世界にも適用可能であると思慮したのかもしれぬ。
その分、某前々監督などは分かり易かったであろう。典型的な「将軍様」の態を呈しておったのでしたから。「将軍様」が治めます御時は、或る特定の分野に関してはそれなりの発達を遂げるコトもあるが、しかし一方では目を覆いたくなるような破綻ぶりを露呈するコトがある。
そう致せば自然の摂理か否か、人々は「将軍様」を打ち倒さんと欲し蠢く。或る瞬間に至りてソレが最高潮に達した時、従来の権威は打破さる。斯様な具合で遂に念願叶いて「将軍様」の“独裁”を倒した後、連中は己の権利が増大した“民主的”状態に歓喜絶叫するのであった。しかしながら、ハナシは堂々巡りの観を抱いておるのでありまして、民衆に全てを与える<完全なる民主制>は必ずや混乱を引き起こす。其れはトクヴィルなどの高邁な学者が重々警告を鳴らしたトコロのモノでありまして、しかして<完全なる民主制>は必然的に無数の利害が対立し合い統一を欠くから、自ずと民衆全体をまとめあげようとする力が生じてきて、それを巡ってまた争いが勃発し、終局的には皮肉にも再び<独裁体制>へと向かうのでした。
<完全なる民主制>→<独裁体制>→<完全なる民主制>→<独裁体制>→…
まるで「鶏と卵はどちらが先か」の議論の如しである。


本当に必要なモノは何であるか。言う迄もない。或る権威は権威として保存しておきながら、人々はそこに盲目的に隷従するのではなくして、信頼し敬い、各々が自らに相応しい仕事に忠誠を尽くすコトで生ずる利益を最大限に保持し続けるモノでありませんか。或る権威は美徳の淵源である。其の権威を支柱にし、そこから導き出される任務に忠実であることによって、人々ははじめて最大の自由を享受できるのであった。卑屈になるのではありません、横暴になるのでもありません、全てのモノが予め定められたトコロの仕事を精一杯尽くすより他に喜びは得られぬでした。(言う必要などあらぬかもしれぬが、「将軍様」がいけないのは、本来与えられぬ仕事すらを民に強制し、さらにそれによって生まれ出た利益をも簒奪し、独占しようとする点にある。)


ハナシを最初に振り戻そう。
オシム氏の目指すサッカースタイルが如何なるモノかは存じ上げません。しかしながら、私は氏の中に「神様」のものでも「将軍様」のものでもない美徳を見出せるような気がしてならぬ。「将軍様」→「神様」→…の堂々巡りを幸運にも回避し得たこの至福の境遇において、選手たちが其処から生ずる役割を明瞭に認識し、己の仕事に忠実で、そうして獲得した己の権利をチームのために(すなわち其れはまた自分のためでもあるのだが)役立てんと願った時にのみ、歓喜はもたらされるのではないでしょうか。
大雑把で概観的ではありますが、私が言えるコトはこの程度でしかありません。
オシム氏の一刻も早いご回復をお祈り致しております。

2007年11月17日

2007年11月17日 永遠の写真

日常的な写真撮影の慣習などは持ち合わせておらぬが、しばしば「おっ、コレを画像に残しておきたい」と思わせるモノに出逢うコトはあるのです。斯様な時にデジカメでも所持しておれば、或いは愉快千万なのかもしれぬが、生憎そのような科学技術の集合体は依然として持ち合わせておりませんから、私などは決まって泣き寝入りする他にマトモな手段は無いのであった。
私の親父はロクでもないがカメラは敢えて言うなれば好きな模様で、若かりし頃はソレなりに写真で遊んだらしいのだが、最近ではほとんど何も撮らなくなった。そのくせ安物のデジカメを購入しては嬉々としておったのが、つい一昨年くらい前のコトであったでしょうか。今は如何なる場所に如何なる具合で保管(放置)されておるのか、あのデジカメよ。


そうだ、実家にはデジカメが“一応”あるではないか。そうすると、私は今コノ瞬間に次のような思惑を抱いたのでした。すなわち年末に実家へ帰省せし時に、私の生まれ育ちたる<平原>を撮影致そうではないか。田舎の中でも比較的上の部類に属するであろう田舎の光景を留めておこう。
モチロン、ココでいう<平原>とはやや過剰な表現であって、実際にモンゴルのような平原などがあるワケがないのであって、コレは要するに「殺風景」と同義語だと思って頂きたいのであります。私の地元にはビルなど絶対的にありはせぬ。まるでソコは<現代的外観>が許容されておらぬような空間である。ソレを撮って、このブログに晒そうとするのです。私の原点を。私の“害悪の”原点を。フフフフ…


本当は、東大寺や「正倉院展」に赴きたる時においても、何らかの風景を撮影すべきであったのかもしれぬが、斯様なコトはせずに過ごした。ま、仮に撮影致したとしても、私はデジカメもスキャナも持っていない以上、ソレをPCに取り込んで、このブログに掲載するコト能わずなので、畢竟ソレを見るのは自分だけに限られまして、それならばわざわざ撮影などする必要はございません。心のシャッターを下ろすだけで充分なのである。其れは何時でも見たいと欲する時に見るコトの出来る「永遠の写真」を撮るのですから。

2007年11月15日

2007年11月15日 一年を経てもなお…

今週の日曜(11日)に親類が集いて昨年亡くなった祖母の一周忌法要を取りなしたという。私は地元に戻っておらぬから、従って出席しておらぬのだが、それにしても月日の経過の素早いコト、ジャイアンに追っかけられた時ののび太の如しです。丁度昨年の昨日が告別式であったのを思い出すに、此の一年で私は何か成長致しましたでしょうか。それは確かに急激に成長するコトは不可能であるから、大きな前進は望めませぬが、さりとてせめて<前への一歩の兆し>のようなモノでも胚胎しておれば良いと願うのでしたけれど…


「アサヒる」「初音ミク」「ローゼン麻生」等、「現代用語の基礎知識」に収録。


はてなブックマークは、ユーザーがコンテンツを追加・編集するオンライン辞書「はてなダイアリーキーワード」に掲載されている97のキーワードが、新語辞典「現代用語の基礎知識2008」(自由国民社)に収録されると発表した。…(中略)…ここでいう「アサヒる」とは、『捏造する。でっちあげる。執拗にいじめる。』の意。朝日新聞社が『アベする』なる語句を創出してまで自らの論調に相容れない者を執拗に攻撃することから意味づけがされた。ちなみに『アベする』とは、「仕事も責任も放り投げてしまいたい心情の吐露」を表すらしい。


その掲載されるキーワードは以下にて確認可能であります。


『現代用語の基礎知識2008』にはてなダイアリーキーワードが掲載されます - はてなダイアリー日記


分かるモノもあれば初見のモノもあり…

「ヘタレ保守」「HDDのフォーマットと同人誌の焼却」「性の6時間」等はなかなか興味を惹く。


私の部屋には同人誌こそないもののHDDは若干ヤバイのではないかと感じるのでした。
マスターベーション例えば、ネット上で拾い上げた斯かる画像を嬉々として、また危機として保存してあるコトなぞは、もし私が急死でもして、何も知らぬ第三者がこのPCを起動させたのならば、大いに失望し、嘲笑するであろう事実を確信させましょう(画像をクリックすればよりハッキリとしたカタチで見えます)。
コノ画像はというと、先般国会でも問題となりたる所謂“行き過ぎた表現を伴う性教育用の教科書(―過激な「保健」(?)の教科書)”に掲載されてある(らしい)モノなのだが、ソレを知るモノは少ない。よって他人から見ればただの低次元なワイセツ変態画像に過ぎぬ。 そうである以上、誰も「危機」の方の意識は汲み取ってくれますまい。私はあくまでも日本の教育レベルの幼稚さを示す<資料>だと思って保管しておるのですが、さすがにソレすらも言い訳に聞こえそうな虚しさは何故か。


嗚呼、斯様な具合であるコトは、私の成長の低さを感じさせずにはいられないではないか。祖母も冥界で嘆いておるやもしれませぬ。イヤ、コレは<資料>なんだってば!

2007年11月13日

2007年11月13日 或る精神錯乱者について

記者の前で“本番”実演…秋田SEX教団、衝撃ルポ


気狂いが世に蔓延る昨今、またもや我々の眼前に大いなる狂人が登場し来った。
ZAKZAKがおそらく半ばふざけて掲載したでありましょう斯かる記事を、私は、織田裕二がホモであり異常性欲であるコトを秘匿しておるのを見抜く如く、此の記事に記されておる愚劣極まる生き物の正体を暴く!
記事を追って行こうではありませんか。


秋田県湯沢市に“教団”を名乗る奇妙な集団が出現した。「預言的使命」と称して、セックスをへんてこりんな教義に取り込み、インターネット上で“ほぼ本番”のわいせつ画像を流し続ける。…(中略)…新たなカルトとして話題になっているのは、「リトル・ペブル同宿会」。教義を支える“性”なる儀式について、教団の創設者「ジャン・マリー神父」こと杉浦洋氏(47)は「アダムとエバの楽園が人類に還ってきたことを象徴する行為」と説明する。


古今東西、セックスにて地上の楽園を築かんと欲し、ソレを厚く信奉する輩は、種々差異があれども、根底はアナーキストに決まっておる。そうしてアナーキストというのは例外無く精神に異常を来しておる愚民であるから、必ずと言って良いほど他の存在を利用致しまして、その力を間接的に用いらんと企む。曰く「神」、「キリスト」、「お釈迦」、「それは“サイババ”の勝手なんですよ」、「仏」、「唯一神又吉“イエス”」、斯かる状況にあってココで利用されておりますのが「アダムとエバ」でした(「アダムとイヴ」の方がより一般的であろう)。今日、どれほど「人情味」が喪失した時代と叫ばれようとも、人間は本来、思考回路がルーレットのようになっておるモノには関わりを持たぬのが常でありましょう。「道理に合わないもの、自己にとって有益たり得ないものについて人間は権利を持っていないのです。」―エドマンド・バーク
己の思考と感情と外見が猫ひろしを五分の一に圧縮したかのような醜態になってあるコトへの無自覚、それ故に精神錯乱者は他力を以て自己の正当性を主張せんとす。ソレは脳機能が常人と比するに半分程度しか活性化されておらぬような土井たか子や福島瑞穂をも凌ぐ、劣悪野蛮な獣に他ならぬでしょう。


いくつかの不可思議な思想の中で特に異様なのは、外出時に着用する「ナノテク繊維でできている」(男性信者)という白装束だ。


 杉浦氏は「我々が信仰するリトル・ペブル氏への愛の証です」と説明する。リトル・ペブル氏とはオーストラリアに本拠を持つ聖シャーベル修道会の教祖だが、その評判はすこぶる悪い。カルト問題に詳しい紀藤正樹弁護士は「ペブル氏は幼女への暴行罪で服役するなど、キリスト教系では性的問題が多い団体として有名」と説明する。


 大いなる疑念を抱きながら、問題の性儀について切り出した。すると杉浦氏は一瞬、苦悩の表情を浮かべ、「私は近い将来、婦女暴行罪で逮捕連行され、辱めを受けるでしょう」と預言。だが、次の瞬間、意を決したように「神が望むなら…やるんです」。力強くそう言うと、おもむろに服を脱ぎ始めた。


日本共産党員や創価学会をも凌ぐ正真正銘の異常人格者は、常に現実と虚構(=不敬にも神と己を一体視し、筑紫哲也を「真っ当なニュースキャスター」と述べるが如く高熱病に冒されでもしているかのようなバーチャルな自分認識)の世界を彷徨致します。或る瞬間においては現実世界の法令を知覚し(「婦女暴行罪で逮捕連行」)、そうかと思えばまた次の瞬間には「神が望むなら」などとほざき立て、我々には、いや如何なる天才をもってしても確認できぬはずの神の御姿・御意思を身勝手に創造し、悦に浸るのでした。斯様な害獣にとりて、神とは畢竟<自己を規定する“ひとつのモノ”>に過ぎず、これ以上の冒涜は考えられません。ヒトは精神の支柱が根幹から腐り果てると、その瞬間に“姿カタチだけの人間”へと変貌し、どいつもコイツも白装束を好み(以前にも「白装束の集団」が世間を賑わせたコトを思い出すが良い)、しかして中身は事実と妄想を混同させる「報道ステーション」の加藤千洋的毒キノコ生物へと顛落していくのであった。それを証明するのが「リトル・ペブル氏」なるおそらくは辻元清美と大して変わらぬであろう自己抑制を可能にするブレーキが遥か彼方へブッ飛んだ外人、害人への共鳴である。杉浦はマグマの如く吹き出る性欲とソレを満たすための野蛮劣等な行為に対して、自己の内部で何らかの<整合性>を構築する必要に迫られたのでありまして、そこにおいて着目致しましたのが他ならぬ「リトル・ペブル氏」であった。コレは現実と虚構を往来する特権的フリーパス券を所持しておるモノにしか達成できぬ“奇芸”を意味致しますから、つまり微かな現実認識と過大な偽りの世界という二つの調味料が、道場六三郎も喫驚するほどのバランスで混ぜ合わされた時にのみ生じ得る「奇跡の邂逅」なのでした。


ロウソク替わりのLEDライトが数本立てられた祭壇の前に布団を敷き、台所から瓶とヨーグルトを持ってきた。


 「挿入せずに性器に擦りつけて射精するのが、『正しいセックス』。ヨーグルトは滑りをよくするためで、瓶は精子の採取用です」


 やり方はすべて「神様からのインスピレーションでわかった」という。相手をしたのは「クララ・ヨゼファ・メネンデス」と名乗る、きれいな女性信者(35)。だが、目の前で繰り広げられた光景は性交がないだけで、“本番”そのものだった。


 あっけにとられていると、杉浦氏の口から驚くべき事実が飛び出した。「クララは妊娠しました。現在、7カ月目に入っています」。無受精での妊娠は間違いなく世界初だろう。


 こうした行為は杉浦氏にのみ許される。同じ屋根の下で、“営み”を見せつけられる信者の気持ちはどうなのか。一緒に住む男性信者2人は「全然気になりません。ごく日常的な光景で行為の最中も普段と変わらず過ごしています」と答えた。


ヨーグルトを性器に塗りたくりますコトで快楽を覚えるのか否かは実践してみたいが事後処理が面倒でイヤなのでやはり一向に解せぬコトですが、しかし斯かる行為を「正しいセックス」などと奇怪なほどストレートなコトバでもって主張する正直さには、毎日毎日バレバレのカツラを被りてテレビに堂々と出ておる「とくダネ!」の小倉サンもビックリでありましょう。ココでも当然の如く「神」を持ち出してきて着飾っておるが、何のコトはない、アソコはヨーグルトでグチャグチャなのであって、そうした矛盾を察知できぬ時点でなかなかどうして河野洋平並みのだらしの無い輩である。或いはコヤツ、小学校にすら通っていないのではないか。
ココに至りても杉浦洋と申す精神に甚大な障害を抱く狂人は懲りずに、むしろ飄々として「神様からのインスピレーション」などと喚き立てる。この無様な姿は、大した能力も行動力もないくせに口だけは達者な田中眞紀子を思わせるではありませんか。眞紀子同様に詭弁は振るいまくります。曰く「クララは妊娠しました。現在、7カ月目に入っています」 もはや呆れ果てて発するべき言葉を見失うのでしたけど、それは共に生活をする信者とて同じようなモノであって、「全然気になりません。ごく日常的な光景で(以下略)」というこの発言がまさに正常な感覚の麻痺を示唆する。
私は、杉浦洋なる史上稀に見る精神錯乱者について言及してしまったが故に、自らの精神も正常なバランス感覚を喪失しかけておるのかもしれぬ。いや、コレは危ない。ココらで失礼させて頂きやす。呉々も気狂いには用心を。

2007年11月11日

2007年11月11日 四年越しの付き合い、そして別れ

白鵬が初日に弱いのは分かっていたコト。とはいえ、まさかこうも初日に勝てぬとなると、一度お祓いでもして頂くべきではないか、と要らぬ忖度に身を窶す。ああ、非常に難しい文字でありましょう。「窶す」…「やつす」と読むのでしたが、今、変換してみて自分でもその難解さに驚いた。ところで、私は心配で身体に異変を来すほど「窶れて」はおらぬ。過剰表現こそが私の得意技でございます。
魁皇はもう引退であろうか。千代大海は後半にいつも通りボロを噴出するか。琴光喜は来場所角番か? それにしても九州場所は客入りが悪過ぎる。今日の惨状は如何なる事態か。「初日」において斯かる状況であると申すのなら、いっそのこと九州場所を廃止して、全国各地様々な場所で開催するように致せ。すなわち「11月場所」とし、毎年異なる地域にお相撲さんを派遣するという“妙案”がコレである。三年先くらい迄の目処は立てられましょう。予算や資金源などの問題は無視しちゃうが、札幌や仙台や横浜や広島や神戸など、比較的大きな都市での開催なら集客率も九州―福岡よりは望めるかもしれません。名古屋も状態が怪しいけれども、コレはまだ何とかなりそうではありませんか。やはり最も懸念すべきは実質<魁皇場所>になってある九州に他ならず、魁皇などたとえ今場所を凌ぎ切ったとしても、残す現役生活は三年にも満たぬであろうから、やはり今のうちに何か策を練らねばならないのです。何なら巡業ではないガチンコの<海外場所>という“ナパーム弾級”の奇策もあり得る。いや、コレはウソである。現実には絶対にあらぬコトは百も承知、だが、或いはコレでも九州よりはマシかもしれぬ。
「九州男児」などというが、あんなものはタダの贔屓の引き倒しの詰まらぬ輩どもである。魁皇さえ良ければ後はどうだって良いという、今さえ良ければ後(=子孫)のことは考えない、短絡的な現状改革を夢見る一部の有権者と同じような愚直さに過ぎんのでした。ソレは比較的“保守”のイメージがあるが、現状は怪しいモノでありまして、宮崎哲弥のいかがわしさに匹敵す。


まとめる気などは毛頭ないのであって、とりあえず最優先して申し上げたきコトは、今晩、四年間ほど使用して来った茶碗を落とし、ソレが粉砕してしまったので、肌寒い中、夜の九時過ぎに新しいお茶碗を買いに行く羽目になったのは、全て私の責任に因るモノでありまして、学校におられるフェミニストのA教授のような女を絶滅させたいなどとは言うつもりありません。

2007年11月10日

2007年11月10日 積読の害

貧乏に拍車がかかる。
欲望により、ついつい本を購入致しますので、読むペースが買うペースに比例せずして、どんどん未読の書物が積み重なってゆくのを見過ごすのであった。所謂「積読(つんどく)」ってヤツ。そうして金銭も不足し申し上げます。
このままではいかぬ、と思い、積み重なりし本をどうにか年末までに処理するため、私は規則正しき生活を送らねばなるまい。そこで一週間の予定表を作成し、私はソレに従って生きるコトにす。すなわち、その予定表は曜日ごとに一日の行動予定が記されてあるのでございます。例えば月曜だと、朝の九時〜十時頃に起床し、午後三時頃までおよそ五時間ほど読書をする。その後、三時から食事や何やらを致して五時からバイトへ。九時過ぎに帰宅後、夕食などを経て、再び十一時頃から一時頃まで読書に勤しみ、就寝。とこういう具合である。畢竟、学校へ行くか、バイトへ行くか、それ以外の時間はほとんど読書に充てるコトに決定致しました。学校へは火曜から金曜まで行かねばならぬので、それによって読書の時間も変化して来るのです。そうして無駄を省いた結果、一週間当たり約三十五〜四十時間程の読書タイムを設けますコトになりそうなのでした。
此処に至りて、このブログの更新頻度もガクッっと落ちるコトは必然。週二くらいの更新間隔に陥るかもしれぬが、まぁ、元来大したコトは書かぬので、それほど影響はありますまい。


何の為に読書をするか。其れは知らん。知らないのですが、「いつかはコレが役に立つ」と思い、コツコツとやっていこうと思うのであった。ただし、明日から大相撲が始まるが、予定表の中にはキッチリと「相撲」と書かれた時間が存在する。その時ばかりは読書も一時疎開であります。頑張れ朝青龍!ってアレ?いないぞ!?


本日、バイトの帰りにスーパーにて湯豆腐用の豆腐を購入致し、日本酒で一杯と思ったのだが、面倒なので湯豆腐用の豆腐で冷奴を作り上げてやった。なかなかイケるじゃないか。日本酒と冷奴。オッサンである。いつの間にか冷奴を平気で食せるようになりたる己に月日の経過を感じずにはおれないのでした。私は、邪道かもしれぬが、冷奴は醤油とわさびで頂く。鰹節もネギもイヤであるのです。わさびこそが最適。
さて、そろそろ読書へ戻らん。

2007年11月09日

2007年11月09日 お目出たき人

限りなき羞恥心に満ちたハナシであるが、私は今日に至るまで「祝い箸」なるものの存在を知らないで生活して来った。本日偶然黙読せし本(『亡食の時代』扶桑社)の中において、「祝い箸」の説明が記されておったのでありまして、其れを目にするにあたって当然の如く思い出されたのは、幾度となく経験してきた元旦のコトなのでした。その折、私の祖父母の末っ子、つまり私の母親は、おせち料理を並べてみせる。とは言っても、利便な昨今、ほとんどが予め作られたものなのでしたが、兎に角日本の伝統に従いましてウチでも当然の如くおせち料理が“一応”用意されるのであって、その時ばかりは年間を通じて唯一<ちょっとカッコイイ木の箸>が配置されておったのであった。そして、其れがおせち料理用に特別に用いられる「祝い箸」であるコトを私は今更ながら知悉致し、誠に恐れ入った。無知な私なぞはその箸を見て「ああ、一年の始まりというコトで、気分を新たにする意味で、こんな細工を施した使い捨ての箸を用意してあるんだなー」などと思っていたものですが、斯かる浅薄な目的ではありませずして、現実にはキッチリとした意味が堆積されておる儀礼的な箸であることを察知し、何やら母親に謝罪した方が良いのではあるまいかという気さえしてきたのです。こういうコトはガキの頃に教えてくれといても良かったのではないかしらん。おせち料理+「祝い箸」がセットであるコト、それはマナーとして、一般常識として知っておかねばならぬコトのように推察致しました。
…とは言うものの、母親は本当に自覚しておるのであろうか。母親こそ「ただ何となく高級感漂うから」とか「(スーパーで購入したおせち料理セットに)付いていたから」なんて理由で毎年毎年食卓に並べていたのでしたら、私はもうガッカリしちゃいます。親父に至っては「正月早々食器やら何やらを洗ったりするのは大変だから、割り箸でラクをするのサ」などと言いそうで恐ろしくなり申し上げます。およそ妙な両親ではあろうが、斯様なコトに関しては一つでも多く知っていて欲しいと思うのは、我が身を顧みぬ身勝手な“子心”ってモンです。
(今年の年末はおそらく実家に帰省するであろうから)その時にソレと無く「祝い箸」について聞いてみようと思うのであった。果たして「高級感」や「ラク」なる言葉が返って来ぬコトをお祈り致しながら…
【言うまでもなく、表題は武者小路実篤の『お目出たき人』とは無関係です。】

2007年11月01日

2007年11月01日 漱石も落ち込むだろう

「Kaku」なるブログ更新ツールを導入致しまして、試験的に運用してみておる状態であります。今日に達するまで此のようなソフトを用いたコトが無いものですから、なかなかに新鮮な気分を味わうことができるってモン。


現代文明の恩恵に授かりましておる近況を申せば、amazonのマーケットプレイスで古本を購入しますコト多し。インターネット・クレジットカード、嗚呼、21世紀の象徴なる哉。コレらのツールを、例えば24世紀の人々は如何様な目で評価するのであろうか、などというコトを考えてみたくなります毎日。―毎日かよ! ところで果たして24世紀に人類は、地球は存しておるのか否か。アタシャ知りまへん。
しかしながら、amazonのマーケットプレイスでは相当に状態の良い古本を容易に安価に購入できるのでありまして、コレはソコ等の古本屋の店主にとりてかなりの脅威となっておるのではないかしらん。
90年代中頃に安室やらミスチルやらGLAYやら朋ちゃんやらがミリオンを連発した時代、今日を迎えるにあたり、其の当時のCDが中古で溢れ返っておるのですが、本とて同様でありまして、amazonのマーケットプレイスにかかれば過去にベストセラーとなりたるような本は「1円」から叩き売りされてある。送料が340円必要であるから、最安値でも「341円」にて購入できてしまいます。まったく著者からすれば脱力モンじゃないのかね。「ワシの小説1円かよ!」と漱石も鴎外も草葉の陰で落胆しておるコトと推察申し上げましょう。
斯かる今日の情勢を見る限り、古めかしい文庫本なぞを古書店に持参し、買取りを依頼せんとしても、果たして快く買い上げて頂けますでしょうか。まー、「1円」の文庫本が飽和状態にありたるコトは、それだけ中古本の数多しの証明でありましょうが、では一体売却値は如何程に? 
其れ以前に申し上げ度きことは、ポンポンポンポンと本を売り放つモノの心境、これ如何に、って問題に他ならないのです。私なぞは根が貧乏であるのか否かは判断に窮するが、兎に角本を売るコトには非常な抵抗を覚える。いや、そうではない。まず私の場合、購入せし本は必ずと言って良いくらいに精読しながら線を引いたり書き込みを入れたりしてありますので、おそらく売れぬのではないか、買取り御免になるのではあらぬのか、と推測するのでした。
ソレで思い出したのであるが、以前に吉本隆明の『共同幻想論』を古本にて購入した折、そのかなり多くの部分に線が引かれてあって、多少戸惑った記憶を持つ。「オイオイ、前の持ち主が誰かは知らんけど、こんなにイッパイ線を引いてあるような本を売るなよ」と思わずにはおれなかった。ココには次の二つのイラ立ちがある。
まず一つ目は、後にソレを買うヒトに対して無配慮であり過ぎる点。私のように読みつつどんどん線を引いていくようなモノでも、予め線が引かれてあるのは何となくイヤな感じがするのでありましてねぇ。
そして二つ目は、此れ程に線を引いてあるってコトは、アンタにとっても重要な本じゃないのかという点。ソレを売っちゃってイイのかい?と思わずにはおれん。いったいどうすれば売る気になるのでありましょうか。
全く不可解な輩が存在するモノであると言っておこうではないか。


予想以上にダラダラと書き垂らしてしまった。「Kaku」のテストのつもりであったのに…
さて、明日はブラリと東大寺に赴かんと欲しておる。願わくば晴天、願わくば交通安全。南無南無。

2007年10月31日

2007年10月31日 オッサンの「何か買え」オーラの怪

学び舎からの帰宅道中、以前に一度だけ目撃しておった書店に行ってみようと思い現実に行ったのでした。私はその書店を古書店即ち古本屋だとばかり思っていたのにも関わらず、実際はこじんまりとした至ってフツウの本屋、新品ばかりが並んでおる街の外れに位置する個人経営の本屋だという事実に対面したのであった。


入店してみれば、店内には客である私と店主と思われるオッサンの二人きりではないか。豈図らんや、いきなりラブラブモード全開である。
「ん〜、何かイイ本はあるまいか」と狭い店内をウロウロ。しかし好奇心は間もなく失望に転化す。「うぅロクな本が無いや」


「・・・・・・・・」
微妙な空気が店内を支配し始めて来る。重たき雰囲気がオッサンの鼻から抜けて私の双肩にのしかからんと致しますので、愈々困惑してゆき、妙なプレッシャーを実感せねばならぬ様態に陥るのです。
「…んっ!? コレはアレか、オレぁこのまま店を出てエエんかいな 散々粘っといて何も買わずに店を出るのはチョット気まずくないかい ねぇー」
案の定意味の分からない気の遣い方をしてしまう。さぁ、ココに至りて訪れるのは他でもない、強迫観念です。
「なーに−か買わないと! ええーっと 面白そうな本は、と。高いのはダメだな。安くて暇つぶしに読めそうな本は、と…」ちょっと焦りたる心境。もう何かを買わなければいけなくなってしまっておる。既成事実化である。そうしまして小声で目に入りました本の名前を読み上げていったのです。
「『鈍感力』 この本売れてるなー 『不動心』…松井秀喜 ええーと『風水』何とか どーでもいーわ え〜上の方に何か面白いのがあるような・・・『高松宮日記』・・『高松宮日記』!? 欲しいぃ〜 こんな小さな書店に何でこんなモンが!」
この時、私は一瞬だけ『高松宮日記』を購入せんと決意しそうになったのであったが、しかしそれは最早どうでも良かろう。懊悩は続く。
「ああ、そうだ外国の文学でも。ええーと、スティーブン・キング・・ 『ゲーテ格言集』 ・・・『ヘッセ詩集』持ってるわ う〜ん、イマイチだなー 『職業としての学問』 うー・・んっ!あ、コレだ!マックス・ウェーバー 薄いし安いわぁ〜 文学作品じゃないけど名著だし! でも、以前に読んだかな? まぁイイわ」
すかさずレジに持ってゆくのでございました。このハナシにオチは金輪際一切無い。


百頁にも満たぬウェーバーの 『職業としての学問』
本当に暇つぶしくらいの時間で読了出来たのであったが、いやはやコレは実に示唆に富む内容でありまして、或は私はこの本をやや過大解釈したのかも知れぬが、それもウェーバーが本作を記したる(語りたる)時代と今日の時代状況に些かの乖離が生じておるコトなどを加味して頂きますれば、あながち御許しを得られぬワケでもないのではと念ずる。すなわち私はこの本の内容を以下のように解釈したのである。そこでまず最初に、本書の締めの部分を<ぶった切り的にではあるが>抽出させて下さいまし。


このことからわれわれは、いたずらに待ちこがれているだけではなにごともなされないという教訓を引きだそう、そしてこうした態度を改めて、自分の仕事に就き、そして「日々の要求」に━━人間関係のうえでもまた職業のうえでも━━従おう。このことは、もし各人がそれぞれの人生をあやつっている守護霊をみいだしてそれに従うならば、容易にまた簡単におこなわれうるのである。


当然のコトながら、未読のモノにとっては、この部分だけを提示されても何が何やら分からぬコト、それは万事請け負うが、要は、学問とは―多様な“価値観”や選択肢が溢れ返ります今日において人々は曖昧な態度や優柔不断な行動に終始しておってはいけません、いけません、それはいけませぬから、そこで学問が人々に果たせる役割はと申せば、彼らが「明確さと責任感」を併せ持った“価値観”を夫々選択致すますよう手助けするコトであって、各自がそうした“価値観”を持つや否や(「人生をあやつっている守護霊をみいだしてそれに従う」コトで)誰しもが豊かで円滑な日々を送ることが出来るんじゃないかい、ってなコトをウェーバーは述べたと私は解釈しておるのですが、これはやはり相当色を付けた理解の仕方なのかも知れません。何ならもう此処まで言ってしまおうか。すなわち汝、一喜一憂せず自らの信念を確立しそれに忠実であれ、学問はその際扶けとなるだろう。
まー、これだけじゃ「職業としての学問」の意味が分かりません。ただ、斯様な具体的な点に於かれましては本文に解り易いカタチにて記されておりますから、此処では言及しますまい。私がこの場にて述べたのは相当程度に抽象化された非常な大枠に過ぎぬのです。


最後に。
今週の木曜にあっては、例の「正倉院展」に赴くはずだったのであるが、どうやらその日は関西全域に渡り天候不良なりとのコトであるので、敢えて一日延期しようではないか。十一月は二日の金曜日、東大寺周辺にて、ニット帽を深く被り、ズボンのポケットに手を入れ、ややうつむき加減で、比較的大股かつ比較的早いペースで移動しておる無精ヒゲの無精な輩がおれば、其れはかなりの高確率で私ではないかしらん。が、職質されるほどは怪しくありません。

2007年10月28日

2007年10月28日 孔子センセイの教え

ネットの上に於かれまして斯くなる格言(?)を発見したので引用させて頂こうではないか。


弟子「先生、処女を貴重だと思う男は多いです」
孔子「その通りだ」
弟子「しかし逆に童貞は女に気持ち悪がられます」
孔子「確かに」
弟子「おかしいじゃないですか、何故このような意識の違いが生まれるのですか」
孔子「それは一度も侵入を許していない砦は頼もしく、 一度も侵入に成功しない兵士は頼りないからだ」


全く孔子恐るべきである。目から鱗が落ちるとは此のコトを申すのかと憚りながら申し上げたき心境にございます。私にとりて上記の文句はエドマンド・バークのそれ(ら)に値する。如何なるモノが斯様なコトを孔子に語らせたのかは存じ上げぬが、確かに仰ります通り攻撃不能のモノに幾許の価値をか見出せと述べる側にこそ無理があるではないか。・・・あっ、オレのモノは何だろう。これは只の突起物であるのか、それとも付着致します位置を誤りたる尻尾であろうか。まぁ、畢竟何でも宜し。機能不全、不完全燃焼の余剰器官、新手の装飾物…フフフフ 自虐ネタは大いに楽し。何故ならば私はM(マゾヒスト)であるから。 アラぁ、結局そのオチですかい。実際においては非常な具合のマゾでは決してあらぬのに。強いて言えば、との註釈付きで解釈願い度くお願い申し上げる。
それにしましても私のとは対照的に其処許のは宜しゅうござんすなぁ・・・


何時の日にか此のモノを駆使しまくってやらんとする大望を抱く休日の朝。心無しか肌寒さが妙に堪えます。

2007年10月27日

2007年10月27日 夢無き日々の嘆き

ヱビスビールを傍らに置き、TBSは「ブロードキャスター」なる怪しげなニオイを漂わせております番組を視聴しつつ此のブログを記すのが此処数ヶ月間の“土曜の夜に於ける日課”になっておるのであった。番組のマズさをビールの美味さが中和してくれる。


いきなりハナシは変わって、世間では斯くの如き言い伝えが流布しておる。曰く「美人は三日で飽きる」
如何様に考慮しても外見の芳しくないモノ―要はブサイクが「美人」に嫉妬して言い出したとしか思えません此の物言いに関してまして、私は次の様に返答するのが常なのであった。すなわち「確かに『美人は三日で飽きる』かも知れんが、『ブサイクは一日も保たない』よ」
そう致しますれば、連中は懲りずにこう反論す。「美人は三日で飽きるが、ブスは三日で慣れる」と。
おう、言うじゃないか。しかしながら貴女の言い分に倣って言うなれば、美人も飽きたのではなくて“慣れた”だけじゃありませんかねぇ。まぁ、三ヶ日を美人と共に過ごすコトが叶い、結果飽きた(慣れた)としても其れを幸せと呼ぶコトに異論はありますまい。一方ブスと三日も過ごさねばならぬ状況下で、結局三日後には慣れたとして、それはある種の不幸及び悲劇ではないのか。
何でも慣れれば良いってモノではありません。


再びハナシは変わって、愈々十一月が目前に迫り来った。平成十九年の年も残すトコロ二月であります。時期としては今頃が最高なのだ。十一月、最早十一の月を積み重ねて来たのである。一月や二月などというのは依然として何も積み重ねがあらぬ状態であるからして、どうしても幼さを拭い去ることが出来ないのでありますが、十一月ともなると数多の月日の重みを感じずにはおられんではないか!そうしてその積み重ねは十二月三十一日、すなわちおおつごもり、今日的な言い方をすれば大晦日にてピークを迎える。私が大晦日を嫌いなコトは昨年の大晦日にお書き致しましたが(参考リンク:安堵できない最後の安楽日)、此処で再度其の由を申せば、大晦日を越境するというのはつまり月日のリセットを意味するのであり、およそ三百と六十五の日を重ねて来ったにも関わらず、翌日は何事もあらぬかのような顔で一月一日の振り出しに戻ってしまうからなのでした。全てが無に帰したような感覚、今までの経験が何か意味のないモノであるかのような錯覚、また同じ道を辿れと命令されますかのような恐怖、そうしたものが大晦日と元旦の間には横たわっておる。
斯くして振り出しに戻るより前の数ヶ月―神無月・霜月・師走は実に心地良い。二桁の数字を目撃するだけで月日の経過を実感させて貰えるでありましょう。其れが大晦日を境にまた一月一日、一月二日…とアタマに送り返されるコトの何たる徒労感であるコトか!


今を貴重なるモノと認識致しますのです。そうして…可能であらばこの辺りに留まっておきたき心境。情けなし。実に情けなき二十二歳であった。

2007年10月23日

2007年10月23日 締めが最悪

台湾から来っておる留学生のKサン(女性)が、秋になりたる故にか否かはいざ知りませぬが、前髪を上げて、常日頃とは若干趣を異にするメイク(アイシャドーのカラー、薄紫の様でもあり水色の様でもある色彩)を施してきたのをそれとなく察知したのまでは良かったが、よく見るとその具合が甚だ宜しかったモノですから、思わず一目惚れしそうになったのはそれほど前のコトであらぬ。初対面の折からそれとなく綺麗なヒトだと思ってはおりましたが、この度の転換に際して「オレ、その髪型と目元好き!」と思わず言いそうになった秋の一日である。


どうもいかぬ。いやはや、私は前髪を上げている女性を好みがちにあるってコト。何故であろう。その原因を探り当ててみようではないか。
おそらくは露出された額、そしてその下に連なる眉毛と瞳のラインに対して<無意識の裡に>何らかの関心を集めているのではないかと推測致す。つまり斯くなる具合である。髪の毛を頭の上部から後部にかけて撤去するコトで著しく見晴らしの良くなりました額に、私はある種の屈託の無さに似た類の開放的な気分を見出す、更に其の下に描かれるやや穏やかな角度で上昇しておる眉毛に潔癖的な自立心とでも言おうか、気丈な「自我」といったモノの影を感じとることが出来ますから、またその屈強な精神を宿すかのような眉毛に近接するカタチにて青や赤や紫といった比較的自己主張の強い色がアイシャドーやアイラインやマスカラに用いられることによりて、非常に澄み切った感慨が演出されておるように感ずるのである。すなわち額―眉毛―目元(の色彩)が一体俄然となりて、そのモノの存在をある種“攻撃的”にある種“能動的”に仕立て上げておるのでありまして、其処には言わば<自意識の不可逆性>ともいうべき状態を志向するかの如く己をストイックに高めんと欲してあるような実直で剛健な有り様が含まれている点と相俟って、私を惹き込んでいくのですけれど。
そうして此の問題は私の“受動的”嗜好―ハッキリ申すと「マゾヒスティック」であるコト―と深い関わり合いを持つように思えてならぬ。くだんの如く前髪を上げたスタイルの女性が包含す“能動的”な明瞭さというモノは、私の内面を支配する“受動的”或は“消極的”性質の隙間に間断無く訴え来たるモノにて、威圧さえするのであった。斯様な攻撃は「マゾヒスティック」に占領されております精神において非常な声援を持って歓迎されるべき有り難き存在であって、是を私は抵抗するコトなど無く、むしろ半ば喜びを伴って屈服するより他に選択すべき道はございません。
これだけの条件がソコには備わっているのだ。


以上が前髪を上げている女性に私が惹き込まれる所以である。
Kサン、アナタのそのスタイルは私にとって多分に堪えるのです。あまり“攻撃的”なのは止しておくれ。お願い、次会う時には以前の御姿に戻っていて欲しいのだ…あまり派手にやられると、好きになっちゃうよ。


こんなクサくて乱暴な締め方で宜しくて?(タイトル参照)

2007年10月20日

2007年10月20日 いざ正倉院へ

夢の無い生涯を送って来ました。
自分には、人間の有り様というものが、見当つかないのです。自分は四国の田舎に生れましたので、アフロヘアーをはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。


人間の資格を失したモノが書きそうな文言が口をついて出る。“人間失格”の証しであろうか。
現在の私は、およそ思い浮かぶ限りの<人間らしい>夢を持てないでおりますので、浅薄なる情熱にでも砂上楼閣に過ぎぬような感動の幻影にでも揺り動かされてみたいと願う。
今夏に私は書きました。以下に引用を施してみたい。


今年の夏休みは名所観光に繰り出そうと思います。遺跡、お寺、意味不明な建築物。色々と見て来きます。名所観光をするのに絶好の位置に住んでいたということを忘却していた。非常に情けない。


夢の無い生涯のままではいけないとココロが慟哭し憔悴し、やがて私を動かす、はずだったのであるが・・・
夢を探索す旅に赴かんと欲しておった初夏。しかしながら日々は淡々と無愛想に流れ、最早霜月が目前まで行進してきておるような現状に至りて、此のままにては<嘘つき>の汚名を着せられんことは必至であります。夏、テメェは何をしておったのかと尋問致されますれば、私は斯く返答するしか方途がございませぬ。即ち「引き蘢って読書若しくは御昼寝、要するに堕落」と。
嗚呼、名所観光の「め」の文字すら望めぬ堕落人生。
活力の無い生涯を送って来ました。


此処に達して愈々名誉挽回のチャンス到来す。秋には起動可能かもしれぬ。いや、一度だけ起動するのだ!
私は赴く! 今秋こそ赴くゾ! 此の場にて高らかに宣誓致します以上、動かぬワケにはいかぬ、というトコロまで己を追求し、或る場所に赴くのです。私自身を赴かせよう。
あ〜あ、言ってしもうた。もう言ったが最後、行くしかありませぬではないか。


今秋、奈良は「正倉院展」に向かうのである。
第55回 正倉院展
平成19年10月27日(土)〜11月12日(月)


ご存知の通り「正倉院展」は期間限定である。毎年この時期にしか公開され得ぬのでありますから、この機会を逸せばまた来年まで我慢せねばならぬので、其れはもうそろそろご勘弁願い度しだ。中学のあの頃、歴史で「正倉院」の存在を知り、奇妙奇天烈なお宝の数々が保管されておる場所だと知るや否や、私の潜在的な盗賊意識が刺激されたコトは嘘であるが、とりあえず一度はその怪しげなるお宝の品々を生で観察しておきたいと願いながら、幾年の秋を見過ごして来たったコトでありましょうか。不覚!今年こそ今年の秋こそ、私は正倉院に赴きましょう。
モチロン一人で行く。何故にか? お友達が存在せぬから。否、単独行動が大好きだから一人で東大寺の周辺をブラブラしたいのであります。平日の昼間に東大寺周辺をウロチョロ、こんなコトが可能なのは老人か学生くらいでございましょうか、もしくは変質者か。
計画と致しましては、10月の29日(月)或は11月の1日(木)の何れかにしたいのであるが、其れは天気の具合などと御相談の上で決定し申し上げよう。
然し乍ら唯一確実な真実は、私は、今秋、奈良は「正倉院展」に向かうのである!


それでは赴いた暁には御土産話の一つや二つを此の場に記してみようと企図しておるのですから、どうぞ交通安全を祈願して、無事に到着及び帰宅が可能なようにアナタ様も念じておって欲しいのでした。
「正倉院」は逃げぬ、今秋の私も逃げぬゾ。


正倉院に行かぬ生涯を送って来ました。今秋までは。
と書ける日よ、もうすぐではないか。

2007年10月18日

2007年10月18日 新たなる主従関係

全く困惑するコト親父がリアルな寝言を言うのをハッキリと見聞した瞬間の如しである。
たとえば―先日或る哲学者の書いた文章を読む機会に巡り会わせたので、甘んじて(失礼!)黙読しておったのですが、是が書きやがる。曰く「オプティミスティックな社会」だと。ハイハイ、誠に結構でござんした。貴公は何人であると申すか。ハーフか? 何人と何人のハーフであるか。日本人なら素直に「楽天的な社会」と書けば宜しいではないか。何が「オプティミスティック」だ。いやはや哲学者なるモノは実にカッコつけの捻くれモノであります。
たとえば―最近朝刊が非常に乱暴に投函されております。新聞を取り始めた最初の期間は非常に非常に丁寧に、まるで「安置」さてれおるのかと見紛いますほど神経質に投函されておったのに、今朝なぞはポストから3センチくらい紙面がはみ出してありました上に、本来はキッチリと四つ折りにされているはずのモノが、グシャっと、いやゴニョっとねじ曲がっておるような具合であり、しかも黄色いチラシが著しく飛び出てあって、おまけに開いてみればテレビ欄の右下が折れているではないか。何たるコト! 思わず「フッ」と笑ってしまったのでした。こんなコトで笑う己に喝を入れたき次第。コレを何かに喩えて申すのならば、男と女の関係の様ではありませぬか。若しくは先輩と後輩の関係の様ではありませぬか。共に、出会ってから最初の間は、お互いの意志が那辺に存すのかを探り合いながら付き合うていこうとするのであるが、時間の推移とほぼ比例して横着になり始め、遂にはまるで相手を見切ったかのように傍若無人なる言動を発散するコトがある。男は女に使われ、先輩は後輩に貶される。歌謡曲などで「出会った頃のように」であるとか「あの頃の二人に」などと歌い上げる曲が珍しくございませんが、そうした事情を思慮すれば、果たして今の私とて陳腐な音楽に同情する感慨を持ち合わせるコトくらいは出来そうなモノなのですけれども。女に命令されることも、後輩に貶されることも経験してきた私、その最初期を想起致しませば、やはり両者は互いに純真又は形式的であった。而して時の経過と共に一方の決壊が崩れるに至りて、忽ちにして立場は決定・逆転す。是即ち主従関係の成立である。この場合、私は常に「従」の関係に甘んじるコトで現状に妥協して来ったのでありましたが、なんともはや今日に達するに及んで、未だ顔すら拝見せざる新聞配達員にまで「従」の関係を強要される事態に陥ろうとは! どんだけ俺ぁMなんだ。アー、ハイハイ、「マゾヒストにもホドがあるぞ」なる指摘、非常に有り難く拝聴致します。いやぁ〜 でもねぇ、この支配されているかの如き状態が堪らんのよ。なんたって俺ぁMだからさ。


ええぇと、「コイツァは何を書いてるんだ?」とお思いになられた方に最後に一言申し上げておきたいのは、こんなペースでこれからもずっと記述していかんと欲しておりまするので、何卒ご容赦下さいまし、ってコト。なぁーに、今に始まったコトじゃ無いよってに。

2007年10月17日

2007年10月17日 幸福な抑制

なぜであろうか、これはどうした事態であろうか。最近心持ちが穏やかすぎて、自分でもいささか奇妙に感ずるのでありました。今日などは昼休みに学校内を移動している時、意味も無く可笑しくなってきて、独りでニヤニヤしながら歩いてしまいそうになりましたので、それではただの変態であろうから、ココはキッと引き締まった表情に整えねばならぬ、と思い、湧き出てくる笑みを抑えるのに必死だったのだ。なんという幸福な抑制であろうか。なんという余裕の程度でありましょうか。怒りや悲しみを抑制するので必死、それはあまりに辛過ぎる事態と推測するけれども、現在の私などはむしろ悲劇をも喜劇と勘違いしてしまいそうなほどに、“意味も無く”嬉々としておるのである。他面バカかもしれぬが、しかしながら見方によってはこれほど幸せなコトもあるまい。能天気も盲目的に判定すれば幸福の部類に属すってコトですわ。いやぁ〜、まいったなー。
日常生活においては、必ずしも楽しいコトが連鎖してはいないコト。むしろ悲しみと隣り合っているコト。けれども源泉不明の笑みに支配されているコト。コレをどう解釈するべきか、悩む、困る。頭がおかしくなってしまったのかと結論付けますのは、自分のコトながら自分に対して哀れなので、そんな風には持って行きませぬ。


嗚呼、誰か一緒に笑おうぜ。
苦悩も嫌悪も倦怠も、笑いに飲み込ませてやれ。
自虐的な開き直りのアジテーションでございましょうか? フフフフフ…

2007年10月13日

2007年10月13日 三十四分の二

髪の毛を六ヶ月以上切っていないのである。そうだ、意図的に切っていないのだ。切り忘れているワケではない。ついウッカリ半年も・・・・ ソレではただの馬鹿じゃないか!
髪の毛を切っていない理由はおよそ三十四個くらいあるのだが、今日はその中から厳選した二つを述べてみようじゃありませんか。
まず第一に、私は来年就活をしなければならぬ。就活をするということは、そうです、学生生活も末期なのである。社会人になってからは、大概長髪などはタブーであるし、それは既に就活の時期からも同然で、掟の上ではいけないことになっている。となれば、今、出来得る限りの力を発揮して髪の毛を伸ばしておかねば、次は果たしていつ自分の長髪を御覧になることが可能でありますかは、もはや運命のみぞ知るってコトであろう。
てやんでい!オレァ学生生活の記念に髪の毛を目一杯伸ばすんでい!
来年の正月後くらいに切る計画を保持しておるが、それまで私の髪の毛は神聖不可侵、刃物が触れられません領域にまで高められました、とさ。
そして二つめ。私の親父は何を思ったのか禿げている。私の気まぐれにより危機を感知致しておりませぬ間に、“遺伝”なる悪魔が我が身に降臨していないとは、誰が言い切れるであろうか。大仰なコトを申し述べたが、つまり、俺もハゲになるんじゃないかしらん、というまるで単独にてアマゾンの秘境に侵入せる時に抱くでありましょう不気味さに似た漠然とした<怪奇なる未来>を身勝手に背負い込むコトで、今日における私の使命は定まったのだ!
ソレが、伸ばせるモノは伸ばせるうちに伸ばしましょう、ってコトでございます。晩年になり、伸ばしたい衝動に駆られたとしても、まさか松山千春氏のようなヘッドになっていては、こちとらメランコリーに支配されちゃうだけ。
さて、斯くして無残にも半年間放置された私の頭髪は、現在耳をほぼ覆い隠すくらいまでに到達致したのです。誠に遺憾ながら、このペースでは到底肩には及ばぬ。畜生。
ついでに無精髭も生やしてやろうと企図し、今週いっぱい顎周辺に髭を蓄えてみたのでありますが、あまりに滑稽、斬新なほど不似合いだったので、本日をもって全面的に剃髪ならぬ剃髭を施した。無念。


今日の流れ。
お昼前に起床。
お昼またぎで朝刊黙読+軽食。もはや“朝”刊の意味が喪失しておる。
1:00〜 丸山眞男「超国家主義の論理と心理」精読+考察。大好きな論文。
3:00〜 剃髭。
3:20〜 テレビを見ながらボーーっとする。抑え切れぬ性衝動。
4:00〜 昼食。もはや“昼”食の意味が喪失しておる。
4:50〜 五時からバイトのため外出。
4:55〜 自転車の前輪がパンクしているコトに気付く。迷った挙げ句、自転車屋に急行。
5:00〜 自転車屋で修理。古くなっていた故に前輪交換。おまけにライトも無理矢理交換させられる。計3200円の出費。
5:17〜 バイト。多少遅れても何も言われないルーズな場所。
9:06〜 バイト終了。帰りに買い物。
9:25〜 帰宅。
9:30〜 とりあえず入浴。PC電源ON。
10:00〜 TBS「ブロードキャスター」を見ながら夕食。
11:00〜 「久々にブログ更新すッか」 記入開始。現在に至る。抑え切れぬ性衝動。


まったく哀れな人生。誰かこんな私に献花でもしておくれ。彼岸花でもイイからさ。…ようし、今日はこの程度で勘弁してやろう。

2007年10月07日

2007年10月07日 情熱は絶えてはいけない

現代文明を象徴するインターネットをコッソリと駆使して遊んでいたら、なんと驚くべきコトに、高校時代に教えを受けた国語の日影千草センセイ(仮名)のブログに到達してしまったのである(このセンセイの外見が「月影千草」に似ているコトはあまり公言すべきではありません。ただアソコまで老けてはいないのであるけれど)。いやはや、知っておる方のブログを視認するコトの不意をつかれたような驚きに加えてくすぐったいような喜びと、そして猫に引っ掻かれた時のような困惑は如何なる言葉をもって社会に反映させるのが妥当なのであることだろうか。私の中に保存されておる日影センセイは、もの凄く落ち着いた表情で古典の授業を丁寧に進行していきますイメージが鮮明な故に、どうしても現代の産物たるブログと助動詞「す」の活用「せ・せ・す・する・すれ・せよ」を唱えていたアノ御姿が重なり合わないでいる。
見た目は寡黙そうで不機嫌そうな魔性のベールを纏った日影センセイ、突然テンションが沸騰するコトのある日影センセイ、体が決して丈夫にはなっていなかった日影センセイ、変なタイミングで笑い出すコトのあった日影センセイ。
未だその記憶は薄れるコトなくあり。


演劇部の顧問も務め、自ら脚本も書き、大きな大会で賞も獲得しました日影センセイが(毎日欠かさず!)ブログに綴る文章は、やはり整然としていながらも、スクっと己の感情を控えめに注入することの多い、しかしながら教師という仕事に熱き情熱を抱き続けていることを感じさせます、胸に微細な電流を走らせてくれるものでした。お元気そうで何よりです。いきなり不躾な言辞を弄しまして申し訳御座いません。
日影センセイがお書きになられた脚本も、指揮棒を振るわれた演劇部の御芝居も、私は一度も目撃しておりませぬが、センセイの可憐な精神がもたらす演劇への情熱は多分に人々の中に浸透しておることと想像致しておるのです。


教師たるもの無条件に学生から呼び捨てにされるという誠に不条理な宿命を抱えているのであるコトは疑うべくも無いが、また私も複数のセンセイをコッソリと陰湿に呼び捨てにした経験は幾多ありまして、しかし媚びているワケでは無く真正直に申し上げたいコトは、今までに日影センセイを呼び捨てにした記憶はございません、との何の気勢も伴わない事実の発表に他ならぬ。こうした例は、私の中では二例しか無く、いま一つは現在お世話になっているセンセイであるってコトを意味は無いながらも併記しておこうではないか。もう身も蓋もないハナシ、それ以外のセンセイというセンセイは、悉く呼び捨てにするかアダ名で指名しておるのです。当然陰でのコトなのだが、いやいや・・・ それに対して日影センセイは、何であろうか、我々が呼び捨てにできないような不可思議なオーラを持っておった。


思い出話はこの辺にしておきたいのである。そして、もうセンセイとはお会いできる機会も無いと想定するのである。けれども、こうやって間接的にではあるが、日影センセイの現在を(ほぼ覗き見的にだけれども)窺い知るコトが可能な場があるコトに対しては、殊に現代文明への謝意を表せねばなるまい。
センセイ、情熱を絶やさず、生徒を立派に巣立たせてあげて下さい。呉々も私のようなモノを外に送り出してはなりませんゾ。


「読書百遍意自ずから通ず」
センセイがよく口にした言葉でありますね。今もなお胸に抱きつつ…
未だその記憶は薄れるコトなくあり。

2007年10月06日

2007年10月06日 麻生さんにある余裕

何による影響かはいざ知りませぬが、政治家の印象なるモノは概して芳しくない。曰く汚職、天下り、賄賂、談合、強欲、傲慢、大金、裏工作、裏取引・・・
「国民のため」との言質など所詮は票獲得のための戯れ言に過ぎぬではないか、とのご指摘は或る意味においては尤もなご意見でありましょう。しかし、斯かる陰気な風潮に棹さす如く、独自の路線を突っ走り、一部世間では非常な好評を博しておる“偉大な”方もいらっしゃる。その一人が麻生太郎氏ではありませぬか。


麻生太郎氏「2ちゃん、時々書き込む」


この世の中、何を意識してかなかなかに口外し辛いコトもございましょう。「世間」と呼ばれる得体の知れぬ影に脅えながら、ヒトは己の中に複数の影を宿す。殊に政治家たるモノ、その影は幾重にも重なる綴れ織りなのでありまして、果たしてどこまでがまだセーフティーゾーンでどこからがもうデッドゾーンなのか明瞭ならざるコト、実に「犬が西向きゃ尾は東」状態と言えよう。斯様な人々の心理を逆手に取るかのように、堂々と「(2ちゃんねるに)書いたりなんかすることは、時々やったりすることがありますよ」と申し上げる麻生氏は、実にそのセーフティーゾーンが広大であり、民からすれば、そのオープンさ、すなわち氏の開放的立ち居振る舞いには一種の安堵感すら覚えてしまうほど光沢があると言っても宜しいのではないでしょうか。さすがに扉を開け過ぎるのは不用心であるが、まだこのラインならどうってコトはあるまい。「2ちゃんねらー」総理大臣が誕生し得る世の中で何が悪しきか。
まったく世の中は閉塞しておる。借金を抱え自殺を図るのは安田忠夫に限ったコトでありませぬコトは、今日の小学生ですら自覚するトコロのモノでございます。こうした時世を捉え、人々の意識下に巧みに侵入せるのが、有能な政治家ではないのか。麻生氏のオープンな言動が社会に何を齎すか、いかなる影響を与え得るか。つまるところ、それは「安心感」の寄与に他ならぬではありませぬか。何かを身近に感ずる喜びを現代の人々が必要とし、それにより精神が満たされ、向上すると言うのであれば、麻生氏のような人柄を保持する政治家こそが、“現代社会”なるモノに実に適合せる人物ではありますまいか。[「2ちゃんねる」の隆盛と時代の閉塞感といったものが、どのような連関の中にあるか。コレもまた大いなる問題であり、別個に検討を要す。ここでは差し当たり、一つの媒介を経て人々の連座意識が直接・間接的に私たちに「安心感」を生起させる要因となる、と言うに留めておくことでご容赦願いたい。]
「2ちゃんねる」を敬遠・忌避するモノは数多であり、私もその故は解さぬワケではございませぬが、同時にソレが我が国の文化の一形態を示すモノにまで発達したという現状を鑑みる限りにおいて、ソコを無視してやり過ごす行為もまた不自然かつ傲慢、もしくは詐称的と言われかねません。「民意」というほど過剰ではあらぬが、今日的な社会の一部品としての認識をソコに当てても別段怪しくは無いであろうってモンだ。そうしてココに「あれはなかなかいいとこ突いて…新聞記事なんかよりよっぽどいいとこ突いてますよ」とする意見が一政治家の口から放出されるコトも、自然な時流というモノだろう。


麻生氏が裏に何らかの意図を所持して「2ちゃんねる」に肯定的評価を与えたのか否かは判断しかねておるが、少なくともこの発言は、従来の政治家の壁を一歩乗り越えたトコロの、一部の人々に多少の安心感と親近感を与え、かつ負の要素が前面に出現しがちな政治家の姿を、僅かでも方向転換させ得るマジックを伴うモノではありませんか(一方で、「2ちゃんねる」に肯定的見解を示したコトへの反発も当然予期され得る事態であるが)。ココまでの評価は過大でほぼ装飾品だと受け止められるかもしれませんが、私は少なくとも麻生氏のコノ発言に、近来の政治家の殻を破るような新たな方向性を見たいのである。まさに希望的観測と言って退ければ、確かにそうに違いないのであるが、しかしながら「民意」なるモノを政治家が獲得するための手法として、斯様な一歩が顧みられるコトがあっても良いであろう。もしかすると麻生氏には半ば“悪ノリ”のような、イタズラっぽい心持ちがあるのかもしれぬが、そこから逆説的・肯定的に氏の言動を見ようとしてみた時においては、こうした余裕こそが民に活力を与える契機となるのではないかと思う向上的感情がサワサワと湧き起こってきておる。三度総裁の座を逃したとはいえ、斯かる余裕と見られる心情を吐露する姿勢は、政治家に求められる一つの要素でございましょう。これからも気が向いたら書き込む姿勢を保ち続けてもらった方が良いと思うのであった。

2007年10月04日

2007年10月04日 マナカナ運動会

前々回「運動会など廃止しちゃった方がイイんでないかい?」ってな、多少の嫌みと大いなるコンプレックスとを含蓄する無謀なる提案を披瀝してみたのでありましたコトは、比較的記憶に新しい事柄であろうかと推察致しますが、さぁ、やってきた運動会シーズン。先週・今週にかけて、叩き売りの如く開催されておる。近所の小学校だけに限らず、通学途中の小学校においても、またバイト先に隣接する小学校においても、あたかも義務であるかのように、強迫観念に迫られているのかと疑わざるを得ないほどに、至るトコロで運動会運動会なのでございます。よくもまぁ、飽きずに毎年毎年やっておる。「継続は力なり」転じて「反復は義務なり」としか思えないような、代わり映えのしない行事なのであります。続けているとは言わせません、同じコトを毎年、参加者の顔ぶれを入れ替えて、反復させられているだけに過ぎぬのである。其処の基底には目に見えぬ不可思議な「教典」のようなモノが沈潜しており、それは表向きに「プログラム」と称される形式をもって私たちに提供されているモノに他ならぬのですが、コレがやむを得ぬ反復活動の基点となるコトは最早言うに及ばず、そら、懐疑的、疑心暗鬼になって、昨年配布されたソレと今年配布されるソレを、家族団欒の場で、お茶の間で、夕食後の空き時間で、若しくは一人きりの居間または雪隠で、比較検討されてみるが宜しい。あら、明瞭なる哉、詐術的なる哉、一卵性双生児の様相を呈しているではないか! 昨年の運動会が“マナ”なら今年のモノは“カナ”であろうか。斯くしてここに運動会の“マナカナ”が誕生するのであった。
而して、だが、反復は反復に過ぎぬのかもしれませんが、それが「伝統」となり、末永く伝えられていくのでしたら、どうしてソレを一方的に切り捨てられるであろうか。私たちは或る物事に対して一卵性双生児であると理解しながらも同一なる行動を繰り返し、「反復は義務なり」→「継続は力なり」とその意義を半ば無理矢理にではあってもプラスに転換することで、何ものかを維持して来ったのではありませんか。


ココに至りて(投げやりの)理解と(アンニュイな)現実との乖離が生ずる。
「よーい」の後に朗らかに打ち鳴らされる“パンッ!”という乾いた音が、今になって胸中深くに仕舞い込んだはずのホロ苦き記憶を、イタズラで小悪魔的微笑を伴って、刺激する。戻りたくはない瞬間に引き落とされそうな思いに駆られる、とはやや過剰な表現でありましょうか。
久々に飲用せしコーヒーは、予期していたモノより苦みが強烈であった。コレが「大人の味」であると申すのなら、私はいっそ子供のままでいたいと願わずにはおれない。但し、運動会だけは‘容赦なく’勘弁致し度くお願い申し上げます。黙拝。

2007年10月02日

2007年10月02日 なんちゃ〜がやないぞなもし

「たいようのマキバオー」にて「なんちゃ〜かやない」なる方言が颯爽と登場しているにも関わらず、四国出身の私にもコノ高知の言葉はよく分からないのであった。
大雑把に述べますと、四国四県の中で香川・徳島は比較的関西弁に近い言葉を駆使し、愛媛・高知はかなり独特の言葉を発揮するのであります。そういうワケで、四国にいても、出身地が異なれば、分からない言葉も多々あるのです。
けれども「なんちゃ〜かやない」の「なんちゃ〜」は分かりまして、わたくしの父なども「なんちゃ〜無い」などとするセリフを、野良犬のように吐いておりました。そういうワケで、すなわち「なんちゃ〜」とは「何にも」だとか「何も」だとか「全然」だとか、大概その程度の意味になっちゃうのだ。
って、問題なのは「がやない」の方であって、こんな言葉は今までに一度も聞いた経験が無かった。高知の方言なのかしらんが、いったいどういう意を有しているのでありましょうか。前後の文脈から推測するに及んで、この場合「大丈夫」だとか「平気」といった立ち位置になるようであるが、すると「がやない」の「ない」に注目してみると、むしろ「問題ない」と受け取った方がスムーズであろう。
斯様にして、私は、「なんちゃ〜かやない」を「何も問題ない」と解したのであったが、果たしてコノ解釈が正しいか否かは漠然としておる。


方言ってのは、いったいぜんたいその地に居る者でなければ<生>の意味を、つまり“生きた意味”を奪取することはできません。何も知りはせぬ余所者が、容易に触れられぬ場所には安置されておらぬ。
前述の如く私は四国出身であるが、聞いたコトのない四国の方言は、それこそ文字通り「山ほど」あるってコトです。漱石の『坊ちゃん』は、愛媛は松山を舞台にしながら、その松山を扱き下ろしたコトで、まぁ有名な小説ですが、その中で頻繁に用いられておる「ぞなもし」なる日本語は、未だかつて聞いたことがございません。漱石は「お気をお付けたがええぞなもし」であるとか「山嵐て何ぞなもし」だなどと登場人物に言わせているのであるが、どうもこの世のモノとは思えない日本語で、果たしてなかなか解せない。こんな言葉を吐き出す人々などを私は存ぜぬ。松山のどこに行けば、くだんの如き日本語を喋るモノがいるぞなもし。教えてくれぞなもし。そんなん、なんちゃ〜がやない、松山城の近くにいけば会えるぞなもし。ホラ、道後温泉があって・・。 道後温泉は松山城に近くないぞなもし、2キロくらい離れとるけん、松山城の近くには県庁なんかがあったような気がするぞなもし。
私も松山のことはよく知らぬ存ぜぬ。四国だって狭いようで広いちゅうワケか。日本と同じようなモンかいな。


一年と10ヶ月続けて来たこのブログなのであるが、正直、やり直したい情熱に駆られてしまった。色々経てきたが、もう過去のモノとはオサラバ、バイバイ。そういうワケで今日から再スタートであり、私の中では今日のコレが最初の投稿に認定されております。今までのは助走ってコトで堪忍して戴きたくお願い申し上げたき思い。ああ、だが、行き詰まれば放棄するか放置するかもしれぬぞなもし。

2007年10月01日

2007年10月01日 独裁者の気分

「教育改革」だとか何だとか言われている昨今ですが、私が独裁者にでもなって「教育改革」に着手するのなら、次のようにします。(「独裁者」である以上、その者がやることは全て独善的(気狂い的)になります。←ココ超重要)


現在の「教育改革」では、週当たりの授業数を増やすなどという案がありますが、そんなコトは不必要。次の4点を実施するだけで、脱ゆとり教育が可能です。


1.公立学校での体育の廃止=体育教師の全面廃止
2.運動会・体育祭/クラスマッチの廃止
3.修学旅行/遠足の廃止
4.頻繁に教員の実力判定を実施


それでは1の「公立学校での体育の廃止」から説明します。
大体体育は週に3回くらいありますが、あんなものは百害あって一利なしです。その3回は他の授業に使いましょう。運動など授業でやらなくとも、昼休みなどに校庭や学校内の施設でやらせる等の処置をとれば良いのです。そもそも体育教師などという連中は、中高生時代から大学時代に至るまで“一つ”のスポーツをずーとやり続けて来たようなヤツらばかりです。ある特定の競技以外には何の知識も持ち合わせていないようなヤツ。威勢だけが取り柄。つまり「教師」というには相応しくなく、公務員としてはただの税金泥棒のようなモノ。そんなのを雇う必要は無い。将来のことも視野に入れてスポーツを専門的にしたい者は、公立学校以外でやりましょう。体育教師を全面廃止すれば、相当なお金が浮いてきます。スポーツをしたいけれど公立学校以外では金銭的に苦しい者に対しては、体育教師を廃止して出てくるお金を充てて支援してあげれば良いのです。「公立学校での体育の廃止」は「公務員改革」にもなります。
あるいは、最低限度の運動が必要だというのならば、月に1度か2度の体育は構いません。しかしその場合は、手の空いている数学や国語や社会科の教師が監督をすれば良いのです(その場合、特別手当が付くようにする)。特に水泳の授業をするのであれば、ある程度泳ぎが得意な先生を充てる(ちなみに私が通っていた高校に、ほとんど泳げない体育教師がいた。それは明らかに無意味である)。いや、それよりもいっそのことプールなど取り壊して、そこに別の施設を建設すべきであろうか?


2の「運動会・体育祭・クラスマッチの廃止」についてはもう言うまでもありませんね。1に連動してこういう処置になるのです。例年「運動会・体育祭/クラスマッチ」をしていた日はモチロン授業に回す。特に「運動会・体育祭」は練習や準備なんかにも結構な時間がかかるから、コレを廃止するだけで実質3日分=約15〜20時間分くらいの授業時間が確保できます。効率的!


3の「修学旅行/遠足の廃止」。こんなものは現代において、もはや不必要です。いまさら集団で旅行に行く必然性なんてありましょうか? お金もかかります。修学旅行を廃止すれば、またかなりの授業時間が確保できます。それに加えて、学校や行政が修学旅行のために負担していたお金を授業のために用いれば良いのです。つまり教材や学校の施設を充実させるために。
昔は比較的貧しく、家族や知人との旅行も限られていたから、学校で旅行に行くコトが重宝されたのでしょうが、もはやそんなモノは不必要。時代遅れの典型です。
遠足に関しても同様であります。まぁ、一度や二度くらい息抜きとして必要かもしれませんが、毎年行く必要などはありません。


4の「頻繁に教員の実力判定を実施」というのは、どれだけ授業時間が確保出来て、どれだけ施設や教材が充実しても、肝心の教師がダメならば意味がありません。ロクでもない教師を発見するために、かなり念入りな実力判定をして、篩に掛けましょう。実力判定の方法も複数考え出して、様々な基準を参照するのが理想的ですね。
現在、教師希望者の数は多過ぎるくらいいると言われています。教師になりたい者が溢れ返っているのです。ロクでもない教師が教壇を占有し続ける現状は撤廃されるべきです。実力と熱意のある者が子供たちの前に出られる状況を作り出しましょう。


大雑把に述べると、こういうコトをしてみるだけで、脱ゆとり教育が可能となるでしょう。
あとは最近取り上げられている「道徳」の必須化とか、馬鹿親に対する対処方法や、授業で扱う範囲(特に数学-算数-や歴史)なども、教育現場においては重要な問題です。しかしまずは上記の4大改革を実施して、環境整備から!
学校の在り方を考え直す必要があるのです。


以上、「独裁者」の気狂い「教育改革」提言でした。

2007年09月29日

2007年09月29日 「あらうか」で良いであろうか?

「あらうか」と書きたいのだ。「あろうか」ではなく、「あらうか」と書きたいのである。その方がしっくりくるからだ。歴史的仮名遣を愛用したいワケではない。この「あらうか」に限ったハナシである。


なぜそう感じるかは、自分自身でも分からない。ただ、ほぼ直感的に「あろうか」よりも「あらうか」と書いた方が、私の中で締りが良いというだけである。
「ちょうちょう(蝶々)」を「てふてふ」などと書きたいと思ったコトは一度も無い。しかし、「あろうか」に関しては、どうも納得できないトコロがあるのだ。
「彼はホモであろうか」と書かれているよりも「彼はホモであらうか」と書かれている方が、すんなり入ってくるのである。読みはモチロン「あろうか」なのだが、それを文字にした場合、私は断然「あらうか」となっていて欲しいのである。「あろうか」よりも「あらうか」と書かれている方が読み易いというのも大きな理由であるが、なぜそう感じるかはどうしても判然としない。


だから、私は文章を書く際に、「あろうか」となる文面に至った場合、ついつい「あらうか」と書きたくなる衝動を抑え、無理して「あろうか」と書いているのだ。なぜならば、それまで現代仮名遣で記してきた文面の中に突如として「あらうか」などという言葉が登場してくるのは、あまりに不自然だからである。
繰り返すが「あろうか」に関してのみ、私は「あらうか」と書きたくなる。
理由はやはり分からない。しかし、無理してその由を探す必要などあらうか。長年異国の地に住み、そこの生活に慣れた頃に、ふと母国の文化を懐かしく思うことは珍しくなかろう。そのように、私の中に流れる血が、かつての仮名遣に対して何かしらの共鳴を示しているコトの表れと考えることもできるのではなかろうか。それとも、斯様なイメージはあまりにファンタジックであらうか。その判断は各々に委ねたい。

2007年09月28日

2007年09月28日 困惑と危急

通学途中に、やたらと左右の壁に共産党のポスターを貼ってある狭い通りがある。私はそこを「ポイズン・ストリート(Poison Street)」と呼んでいるのだが、…もうそんなコトはどうでもイイ。


「ファンタ 謎のフルーツ」とは考えたね。つい買ってしまった。気になるモン。
2種類のフルーとは何だろう?
香りは桃? 味は微妙にマンゴーっぽいようなイチゴっぽいようなパインっぽいような。
マンゴーとイチゴとパインは全然違うぞ。でもそういう感じがする。オレの味覚がおかしいのだろうか。それとも開発者が無理して“それっぽい味”を捻り出したせいだからか。
それにしてもねぇ、肝心の味が微妙なのにはガッカリだ。味に自信が持てなかったから、あえてああいうカタチで売り出したのかしらん。まったくムチャな要求をしやがる。分かるかよ。分かるようで分からないってのは変に空しい気分になる。「スッと抜けていくような感じ」。コレは、週に何度か顔を合わす日本に来て1年ちょっとの中国人留学生の女が、Aセンセイの第一回目の授業で、「次までに『社会科学の方法』(大塚久雄著)を読むように」と言われて、とりあえず読んでみたけど、よく分かるようでよく分からなくて、変な気分になった、「スッと抜けていくような感じ」と言ったのに基づく表現。
『社会科学の方法』はそれでも比較的読みやすいとの評価があるが、果たして日常会話+α程度の日本語習得率の外国人に理解することができるのだろうか。彼女が言った、分かるようで分からない、「スッと抜けていくような感じ」は、なかなか的を射た感想かもしれん。ま、私は彼女と専攻が違うから、詳しい事情は分からん。外国人でも場合によっては「スッと入ってくるような感じ」で理解できる時もあるだろう。こんなコト言えば元も子もないか。


時津風親方悪質な隠ぺい工作、立件即解雇


大相撲時津風部屋の序ノ口力士、時太山(当時17=本名・斉藤俊さん)が兄弟子らから暴行されて死亡した問題で、事件後、時津風親方(57=元小結双津竜)が隠ぺい工作を図ろうとしていたことが27日、明らかになった。この日、時太山の父正人さん(50)が都内で会見。「(遺体を)火葬すると言われたけど『それは困る』と断った」と赤裸々に明かした。また日本協会は、同親方が逮捕された場合、即刻解雇する方針を固めた。…(中略)…顔面が腫れあがり耳は裂け、肋骨(ろっこつ)が折れていたとされる遺体。その遺体を荼毘(だび)に付して送るという、常識では考えられない不可解な申し出。遺族への搬送前、体中の傷を隠すための「火葬」と思われても致し方ない。正人さんも時津風親方の隠ぺいの意思について「今となっては、そうかもしれない」と顔をしかめた。


こりゃもうどうしようもない。もし本当に隠蔽するつもりだったのならば、ヒトとして最低だ。北朝鮮に強制送還するか死刑しかない。廃業がどうのこうの言う段階じゃないゾ。
最近お騒がせな相撲界だが、ここまで来ると、関係者はちょっと切腹でもしてみた方が良いんじゃないか。
それに、遺体の「太ももにはたばこの火を押しつけた跡が3カ所あった」(参考リンク:17歳力士死亡事件を立件へ…時津風親方も暴行と制裁を指示)なんて事実も明らかになってるし。タバコなんか吸うようなバカがこういう事件を起こす。やはり喫煙者である。相撲もスポーツのひとつ。スポーツマンが喫煙してどうする。タバコを吸っているという理由だけで、もう廃業処分モノだ。


力士急死で相撲協会 過去10年間調査へ 文科省で謝罪


大相撲・時津風部屋の力士=当時(17)、本名・斉藤俊さん=が稽古(けいこ)後に急死した問題で、日本相撲協会の北の湖理事長は28日、「この10年間どういう状況だったのかをきちっと把握し、報告すべきだと思う」と述べ、過去10年間にさかのぼり、同様の事例がないか調査する考えを示した。


これはまだ何か出てきそうじゃないか。「しごき」が「リンチ」と同じ土俵に上がるようになったら終わりだよ。そこの見境を付けられないような人々に「国技」を行なう資格は無し。
「国技」の退廃はその国の伝統の退廃に直結する。ここで改善すべき点を徹底して洗い出すことが出来なければ、長い歴史を持つ相撲もあと半世紀を経ずして滅びゆくだろう。それはつまり日本文化が崩壊していくことをも意味する。相撲に携わる者ひとりひとりの自浄能力が問われても不思議ではない重大な時期が到来していることを、いま一度関係者は強く認識すべきである。

2007年09月26日

2007年09月26日 (害を)産む機械

これは私の個人的な見解に過ぎぬが、どうも喫煙者と非喫煙者を比較した場合、非喫煙者の方が大人しい性格のように思える。つまり、喫煙者には図々しいヤツが多い。非喫煙者は喫煙者に比べて自らの意志を押し通そうとしない。自己主張がウザいタイプのヤツは結構な確率で喫煙者だ。私の周囲でもそう。大学のセンセイたちでも、うるさい性格のヒトは多くが喫煙者。大人しい性格のセンセイはタバコも吸っていない。
そりゃあそうだろう。現代の暮らしにおいて、明らかに周囲に迷惑を及ぼす喫煙という行為を繰り返しているようなヤツは、「無意識のうち」に図々しくなるさ。この「無意識のうち」ってのが重要で、喫煙者の多くは自分が図々しいコトを理解していない。今、こうやって私が喫煙者の自己認識力の欠如に関する見解を述べても、喫煙者の多くが「そんなことはない」で終わらせてしまう。これが喫煙者が持つもう一方の害毒である。ニコチンでアタマまでやられてしまっているのか?


電車の中などでマナーの悪いヤツ(特に若者)は大抵が喫煙者。
女子中高生を見てみるが良い。派手なメイクをしているようなのは、大抵がタバコを吸ってるよ。アレも自己主張がウザいタイプ。勘違いした低級で下衆の自己主張。ああいうのは日本の有害物質だから駆除した方が良い。アレこそ「(害を)産む機械」さ。
タバコを吸うヤツには、神経質だが短気なヤツも多い。
掃除や整理整頓などはキッチリするくせに、カップ麺なんかは3分待たずに2分40秒くらいで食い出すような性格。「食ってるうちに柔らかくなるよ」と実に不可解な合理的(?)主張。
私なんか念のために3分15秒くらい待つもんねー これは自慢じゃない。常に余裕を持っておきたいってコト。
皆さんも見てみるがよろしい。「あっ、アイツは3分待てないぞ。2分40秒のヤツだ」って思うようなのは、意外と喫煙者だ。それか単にせっかちなだけのヤツか。
世の中なんてそんなもん。大抵、白黒ハッキリするんだなコレが。

2007年09月25日

2007年09月25日 笑って済ませよう

今日、学校から帰る途中に、狭い路地から突然自転車を押したオッサンが出て来て、あやうく衝突しそうになった。
「危ないなー」と思ってチラっとそのオッサンを見たら、こんなモノを肩からぶら下げて







と白地に赤い文字(日の丸と同じ色彩!)で書かれた長さ1メートル20〜30センチ・幅30センチくらいの旗を自転車に括り付けていた。
思わず笑ってしまったコトは言うまでもない。笑うというより微笑む感じ。
あー、ハイハイ、共産主義者ね、って。


さすが「平等」を言いまくる共産主義者だ。交通も皆平等に。お互い止まりましょう、止まらないのならお互い進みましょう、ってコトね。差異があってはいけないんだ。同じ条件じゃなきゃいけない。だから「私だけが止まるのは『不公平だ』」ってコトで出てきたのね。
こりゃどうも失礼しました。宣伝活動頑張って下さい。

2007年09月19日

2007年09月19日 「気狂い」と書いて○○と読む。

たまに見かける「結婚したい有名人ランキング」。まったくあの結果には納得いかない。回答したヤツらはほとんど外見しか見ていない気狂いどもだ。そういう輩が多いから、近年は離婚率が上昇しているのか。あのランキングに出てくるヤツの9割が性格の悪そうなロクでなしじゃないか。「こんなのと結婚しても半年で別れるよ」と思うようなのばっかり。気狂いばっかり。「気狂い」と書いて「なかみがからっぽ」と読む。
なら、問われるな。「お前は何と答えるのか」と。そりゃすべての有名人の性格を知っているワケじゃないから、あくまでも主観になってしまうが・・・私なら「つじあやの」の名を挙げる。派手じゃないし、絶世の美人でもないし、ちょっと「クワバタオハラ」のヤツと被ってるけど、結婚するならああいうヒトがベストなんじゃない? こんなコトを結婚願望のない私が言うのもオカシイけど。
あの歌声、あの表情を持つ彼女の性格が仮に悪ければ、私は人間不信に陥る。だって彼女は女の子なのに大学で史学部を選んだんだよ。歴史を専攻するような女に悪いヤツがいるワケなかろう(美人もいないかもしれないが…)。
ああいうヒトと歴史談義なんて楽しそうだ。歴史談義デート。『図解 江戸の文化』みたいな手軽で見やすい歴史本を持って行って、自宅で歴史の話をアレヤコレと・・・私はキライじゃないね。まぁ、アレか、そういうコトやっていると、歴史観の違いで喧嘩別れするかもしれんね。


話は変わって、コンビニの前で座り込んでいる若者は国家が駆除しろよ。アイツらの生命を国が奪ってしまえばイイ。他人に迷惑をかけている、生きていても仕様がないような気狂いばっかりなんだから。夜のコンビニには行きたくないね。行かなくとも、バイト帰りなどに毎回のように見かけるから不愉快だ。見たくもない。だから駆除すべし。それか万景峰号に積み込んで北朝鮮に持って行ってしまえ。日本には不必要なウイルスだからさ。


そういえば、今日、土俵に浸入しようとしたババアも駆除しろよ。アレは何だったんだ。変なビラみたいなのを大量に持っていたし。私はてっきり極左の気狂いか、頭が死んでいるフェミニストだと思っていたのだけど、どうやら違うみたいだ。


参考: 何に抗議?土俵に女性乱入、高見盛らが取り押さえる


「ビラの内容は意味不明なもの。」って言うし・・・


しかし、写真をよく見れば、このババアは神聖な土俵に上がっているじゃないか! 「女人禁制」という伝統を知らんのか。(参考リンク:女人禁制
「女人禁制」には宗教的な理由もあるというけど、そもそも土俵は褌一枚で勝ち負けを競い合う場だ。上半身裸で動きまわるのは、昔から男だけだよなー。女の上半身裸はタブーだ。そういうコトも「女人禁制」と関わっているのかもしれん。
「女人禁制」を「男女差別だ」という女がいるのなら、アナタも男と同じように上半身裸で褌一枚になってから訴えて下さいよ、ね。その覚悟が無い女に「女人禁制」をとやかく言う資格は0.0001%も無い。一方、男で「女人禁制」を「男女差別だ」というヤツは、もう少し伝統のお勉強をしましょう。
現在の世の中には「女性専用車両」などという気狂いのようなモノまで作られているのに、それだけでは飽き足らず、さらに「土俵に上がらせろ」なんて意味の分からないコトを言う女も駆除された方が良いと思う。それに女が土俵に上がる必要なんて無いし、上がったところで何も出来ないんだから。余計なコトは言うな。そして、今日、土俵に上がったババアは、猛省しろ。まったく気狂いはどうしようもない。「気狂い」と書いて「じぶんかって」と読む。
ちなみに決まり手は高見盛の「送り出し」で。

2007年09月18日

2007年09月18日 私を掬い上げてくれませんか?

今日から学校再開。クソッ!死ね。夏休みが・・・夏は大嫌いだけど、夏休みが過ぎ去るのは寂しい。当たり前か? 学生なんてそんなモンさ。
そしていきなり出た、就職活動の話。勘弁してくれ。そりゃもうそろそろ本腰を入れなきゃいけない時期だけどさ、分かっているけどさ、言われると萎えちゃうのさ。―ヘタレか!
面接、自己分析、企業研究、SPI、履歴書作成、エントリーシート・・・ ああああああーー、もうイヤになっちゃうワ。
日本の就活は短期集中型といえるが、そういうタイプのものは世界的に見れば珍しいとも。そうかもしれませんね。それが良いのか悪いのかは判断しかねますが。
しかし面接なんてどうすれば良いのか悩む。私のように人見知りするヤツには拷問の如きショータイム。“ああいうのはとりあえず喋っとけばイイんだよ。無口なのが一番良くない”なんて言うけどね、結構考えていかないとそんなに喋れるモンじゃないよ。


面接官「我が社を希望した理由は?」
私「ハイ・・・えー、まぁ、御社の社風に惹かれましたのが・・・希望理由です」
面接官「どのような社風ですか?」
私「それは・・ハイ、え〜〜、開放的でノビノビとしているような・・・自分の力をですね、十二分に発揮できるような・・そういう雰囲気を感じました。えー、それが一番大きな印象です」


ぐはっ! ダメだ、こんなんじゃ。
面接官に昭和天皇の如く「あっ、そう」と言われて受け流されるのがオチだ。「もうイイよ」と言われて門前払いされちゃう。もっと良いネタを考えなきゃな。そもそも「えー」とか「まぁ」とか「・・・」がいけない。テキパキと喋れるようにならねば。
自分で面接を想定した台本でも書いて、舞台役者のように自宅で一人稽古をしなければいけないのではないか。面接官相手に“マシンガントーク”をかませるようにならなきゃいけない。
『面接の時に明石家さんまになる方法』なんて面接特訓本が出れば売れそうだけどねぇ。


っていうか!無口で、人見知りする面接官(たち)がいて欲しい。


面接官A「自分の長所と、短所を・・お答えください」
私「ハイ、私の長所は妥協しない強い気持ちを持っているところです。物事は常にキッチリとこなしたいと思い、学生時代においても分からない点は納得のゆくまで調べることを欠かしませんでした。一方の短所は(以下略)」
面接官B「そうですか・・分かりました・・・えー、では・・Cさん何かありますか?」
面接官C「・・いや、私の方からは特に。Aさん、他にありますか?」
面接官A「いえ、もう私の方からも・・・何もありません」
面接官C「そうですか。じゃあこのくらいにしときますか」
面接官B「そうですね」
―退室―
面接官A「いやー、困りましたね。何を聞いて良いのか分からないし、誰が優れているのかも分からない。と言うより、もうこんなことしたくない」
面接官B&面接官C「同感です」


今日、センセイが言っていた言葉。「就活に成功するか否かは、どれだけ本気になれるか」
当たり前のコトだけど、それがなかなか難しい。切羽詰まる前に「本気」にならなきゃ。
「絶対にこのタイミングで就職するんだという気概が必要」とも。
そうだよなー。
仮に「オレは別に今就職しなくてもイイんだ。こんな企業に入らなくともきっと成功してやる」という気概が勝っていたとしても、じゃあ何で成功するんだ、本当に今就職しなくてもやっていける「確証」があるのか、となれば、それはとんでもない質問ですね、私は沈黙しなければいけないでしょう(←翻訳ソフトのような変な日本語)。


私のように“精神的なニート”であり、幻と空想と理想と観念と己の世界にのみ棲息しているヤツからすれば、就活などというモノは、水棲動物が突然「お前は明日から陸上で生きろ。それも標高3000m以上の高地で、な!」と命令されるようなもの。つまり死を意味する。これはオーバー過ぎるか。ならこう言おう。「死ぬ気にならなければ出来ない」と。・・・それこそつまり「本気」になるということじゃないか。
おお!まとまった。そうさね、自分の人生に対して「本気」にならなきゃいけないんだ。もうそんな秋(とき)か。俺はまだ寝ているのかもしれん。


誰か私を救ってくれ。いや、この場合、「掬って」くれ、と言った方が良いか。掬い上げて欲しいんだ。
そうすれば漏れなく私お得意の非現実的なコトをグダグダ言う声が聞こえます、アナタのお隣で。幻と空想と理想と観念と己の世界の発露……

2007年09月15日

2007年09月15日 告白の瞬間、真実の曝露。

TVドラマの「Xファイル」がフィクションであるコトは広く人口に膾炙しているが、何を隠そう私はずーっとノンフィクションだと思っていた。アメリカは怖い国でやんす、行きたくない国でごわす、と思っていたむかし。私のようなヤツがメディアに踊らされる。テレビのいうことなんてどこかしらウソが含まれている。新聞も雑誌も同じく。最近ではネットも。ブログなんてもうウソだらけ。今、アナタが見ているコレもウソだらけ。「ウソだらけ」というか、ウソ以外を書かないのがこのブログのスタンス。
試しにちょっとホントのコトを書いてみようか。


・創価学会は世界で一番素晴らしい宗教。是非お入りください。
・朝日・毎日新聞は日本を代表する素晴らしい新聞。是非ご購読ください。
・TBSとテレビ朝日とNHKは驚くほど中立のスタンスを崩さない。是非御覧ください。
・「森三中」の黒沢はよく見るとそんなに悪くない。
・私の初体験の相手は同級生の「昌也君」
・ファーストキスの相手は中学の部活の後輩「中川」
・私と槇原敬之は同じ人種


こんなもんですか。
ホントのコトを発表するのは恥ずかしい(笑)

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2007年09月12日

2007年09月12日 「平成の近衛文麿」

人間の知能がどれほど発達しているのかはしらんが、世の中には人間の知能をもってしても解せないコトが多々ある。一例を挙げろといわれると難しいのだが・・・例えば「安倍晋三という男は何がしたかったのか?」この問題もまた人間の知能を超越したところのモノでしか明確な判断を下せないのではなかろうか。
なんちゅうタイミングで辞めるんじゃ、と思った者は少なくない、ことはいうまでもない。(色んなトコで言われているコトだけど)ごく最近の言葉で表現すれば「KY(空気読めない)」という言葉がこれほど適切な人物はいない。この言葉は安倍さんのために生まれたのではないだろうか。
政治家の頂点に立つ内閣総理大臣ともあろうお方が、ここまで無責任な行為を取って許されるのか。いったいどういう意識の持ち主じゃ。まったく呆れ返るわい。


安倍さんが「保守」の立場にあることが幻影だというのは、かなり前から明らかになっていたコトだが、ここまでくるともはやただの売国奴としか思えなくなる。国内だけじゃなく、外国のお偉いさんまで裏切るようなコトをしやがって。どんだけぇ〜 国際的にも安倍さんに対する信頼感が薄まったコトか。若いけどもう二度と総理大臣にはなれまい。ならしてはなるまい。
まるで近衛文麿のような不可解な総理大臣だった。今後安倍さんの愛称は「平成の近衛文麿」でお願いします。やることなすことが悉く裏目に出た(出した!?)点や、都合が悪くなると内閣を投げ出した点など共通する箇所は複数あるしね。
もしくは「保守の仮面を被ったお子様政治家」とでもお呼びしようかしらん。ガキのような無責任な男だった。或る意味では歴史に残る総理大臣だよ。
拉致被害者の家族も無念だろうなぁ。こんなヤツに期待してしまったのかと思わずにはいられんだろう。


ところで、新総理が決まった夜に靖國参拝してはいかがでしょう。
一応最後にそれらしいポーズを取ってみるというのも悪くないかもしれませんよ、安倍さん。なんたってアナタは(一部で)「真正保守」と思われたコトもある(笑)おヒトなんですから。

2007年09月10日

2007年09月10日 またつまらぬものを書いてしまった

「コーヒー牛乳」なんてガキが飲むモノだ、と思っていたのだけど、今日ナゼか無性にそれを飲みたくなったので、つい買ってしまっただけのおハナシ。
いやぁ〜甘い。こんなに甘いモンかねぇ。こりゃ確かにガキの飲み物だ。世間もコレくらい甘ければ良いのだが。


ああ、結婚しようかなー


突拍子もないコトを言いたくなる夏のおわり、秋のはじまり。


総入れ歯と全面的な禿げでは、どちらがイヤか。どちらかを体験しなければいけないのなら、どちらを選ぶ?
総入れ歯はどうだろう。シッカリと噛めるのか、食べ物の味は分かるのだろうか、不安は複数ある。
一方の禿げはどうだろう。夏場は大変だぞ。直射日光で日焼け多し。日焼けだけで済めばまだマシな方だ。頭に日光がひたすら攻撃をしかけてきたら、最悪死もありうる。頭はすぐに温まるから、毛がなければすぐにヒートアップ! そう思えばスキンヘッドなんてロクでもない。自ら進んで寿命を縮めかねない行為をしているのだから、愚劣ココに極めりだ。また、冬は冬で極寒だしなぁ。
でも、私はどちらかと言えば、全面的な禿げを選ぶ。それでも総入れ歯よりは良さそう。
オレの家系、総入れ歯のお年寄り多し。嗚呼、先が思いやられる。差し歯の2本や3本はイイさ。でも、総入れ歯はなぁ・・・


ああ、大型二輪の免許でも取ろうかなー


突拍子もないコトを言いたくなる夏のおわり、秋のはじまり。

2007年09月09日

2007年09月09日 食券死ね!

休日にも関わらず六時過ぎという破格の時間帯に目覚めてしまったので、どうしようかと思いつつ、とりあえず朝刊を読んで、またどうしようかと思っていたらお腹が減ってきたため、コンビニでなんか買ってくるかと思っていた朝。
ということで久々に松屋へ。四年ぶり二回目の松屋、と言うと高校野球の出場校紹介みたいだが、松屋へ行くのは二回目なんだな。
地元である四国の田舎町には牛丼屋なんて無いから、現在住んでいるコッチに越して来た頃は、多少の憧れを持って牛丼屋へ入ったものだ。松屋もそのうちの一つ。・・・が、どうもあまり良くなかった覚えがある。それ以来敬遠していたのだけど、久しぶりに行ってみるかと思い立ち、八時前後に入店。お客は若い男四人組と爺さんだけ。ボーっと席に座っていると、店員から「アチラで食券をお買いください」と言われる。松屋でそういうコトを言われるのはちょっと恥ずかしい。スマンのう、慣れてないもんで。はて、前回も食券なんて買ったかな?
だけどさぁ、食券なんていらんだろう! その点吉野家はエライと思う。私はどうも食券というのがキライだ。ファミレスなどでも食券を利用するトコロは敬遠しがちになる。時間帯にもよるのだろうけど、お食事時にそういう店に入ると、食券を購入するヒトの行列、行列。アレがイヤなんだ。
と、まぁ、そーゆーことで、食券を買い、朝から牛丼、いや牛めし。 何でも食べれるんだよ。朝だろうが夜だろうが関係ない。寝起きでコッテリしまくった豚骨ラーメンを食べれる自信がある、寝起きで焼き肉もOKという自負がある。


すぐに来た牛めし・・・やはり私のお口には合わないようで。行く店が悪いのかしらん。もう自主的には松屋へ行くことはないだろうと思いながらそそくさと店を出る。コレはローソンの牛丼と同等レベルだぞ、コンビニ弁当と張り合っちゃマズイだろう〜 いや、これは私の感想。好きなヒトはどんどん通って下さいな。


お相撲がはじまる日。毎回書いている「展望」はもう中止。場所中に思ったコトをちょくちょく書いていこうと思う。しかしとりあえず朝青龍の連覇に期待。・・・って、アレっ?

2007年09月08日

2007年09月08日 溜め息、出た!

ふううううううう〜〜〜〜〜
非常に息苦しかった一週間が、ようやく終わった。
何がどう息苦しかったのかは言わない。もうイヤ!


若者は漢字大好き パソコン普及「読めても書けず」


調査結果によると、パソコンなどの利用で、「漢字をどんどん使うことは望ましい」が41.9%(10年度調査39.4%)に対し「必要以上に漢字を使うのは望ましくない」が45.1%(同45.0%)とやや上回った。ただ、「漢字多用支持」は20代以下では5割を超えたが、60代以上では32.7%にとどまるなど世代間の差が目立った。


コレはちょっと考えさせられる調査結果だ。
私は「漢字をどんどん使うことは望ましい」とは思わない。
例えば、こんないい加減な感じのブログを書いているときでも、「ココは漢字にした方が良いかな? いや、ひらがなでいくか・・・う〜ん・・・」と悩むときがある。言葉はおなじでも漢字で書くのとひらがなで書くのでは、随分と印象が変わってくる。また、ひらがなとカタカナでも印象は大きく違う。
だからといって自分の中に使い分けの基準があるワケではない。あるのは感覚だけ。この感覚を他人と共有できれば良いのだが、そうはいかない。だから、時として自己満足のようなカタチで完結してしまうコトもあろう。う〜ん、文章を書くのは難しいねぇ。


松村の安倍総理のモノマネがヤバい、ヤバすぎる。私のなかでこのモノマネは貴乃花のヤツと同じくらいにキている。詳しくは以下のYouTubeの動画を参照されたい。(いつまで残されているか分からないので、閲覧はお早めに。)


松村邦洋 ものまね 小泉純一郎 麻生太郎 安倍晋三
安倍総理 モノマネ


最後にもう一度だけ溜め息つかせて。
ふうううううう〜〜〜〜〜

2007年09月04日

2007年09月04日 「不法投棄禁止」の恐るべき意味

「不法投棄禁止」と書かれている看板をよく見かける。そしてソレを見るたびに私は、「この看板を作ったヤツは日本人だろうか?」と疑ってしまう。


ちょっと考えれば分かると思うけど、「不法」ってのは「禁止」ってこと、つまり「不法」は「禁止」された行為を指すワケで、にも関わらず「不法投棄禁止」などと書くのは「禁止行為禁止」と言っているようなモノ。「不法」という言葉の中には既に「禁止」という意味が含まれている。結局「不法投棄禁止」は意味がカブっているワケね。
だからこの場合、「ゴミの投棄禁止」とか「廃棄物の投棄禁止」と書くべきだ。
本来、「不法投棄禁止」なんて気狂い的な看板を立てる連中の意図は、「ココにはゴミを捨てないでおくれ」的なメッセージを社会の人々に投げかけているのだろうけど、残念ながら見方によっては、こんなオカシナ日本語が記された看板を堂々と掲げているようなヤツは日本人じゃないか、もしくは日本語を理解出来ていないバカかと推測されて嘲笑されるだけでござんす。


だが、逆説的にこうも考えられる。「不法投棄禁止」という言葉があるのならば、「合法投棄禁止」という言葉もあるはずじゃないか、と。そしてそこから少し視点を移動して推察してみると、「不法投棄禁止」、すなわち法に従わないやり方での投棄は禁止されているが、法に従ったカタチでの投棄=「合法投棄」ならば禁止されていないのではないか、とする疑いが生じてくる。もしかすると「不法投棄禁止」と記された看板のある場所は、あるやり方でならば投棄しても良いってコトなのかもしれん。じゃあ、その「あるやり方」、「不法投棄」ではない投棄、つまり「合法投棄」とは何ぞや。今のトコロ、それを説明してくれる丁寧な看板を見たことが無いから、私はこれ以上何も言えない。
だが、ココで私が強調したいのは「不法投棄禁止」は「合法投棄許可」とする土地所有者の意思表明かもしれないじゃないか、というコト。コレは実に重要なコトだと言わねばなるまい。「不法投棄禁止」と記された看板、それは一見すると「ああ、オカシナ日本語だが、とりあえずココには何があってもゴミを投棄してはいけないのだな」と思いがちだが、実はそうじゃない。その退廃的だが挑発的な文句の裏には「勝手に捨てられちゃあ困るけど(「不法投棄禁止」)、ちゃんとした手順で捨てたのなら許すよ(「合法投棄許可」)」という、土地所有者の寛大な心持ちが表現されていると考えられなくはないのである。
そしてココでいう「法」とは日本政府が定めたものばかりとは限らない。その土地を所持している者が定めた「法」があるかもしれぬ。「goo 辞書」で「法」を調べると、一番最初に「物事に秩序を与えているもの。法則。のり。」と出てくる。どこにも「国家」や「政府」などの文言は見当たらない。やはり個人が決定した「物事に秩序を与え」るための「もの」を「法」と称しても、その意味上に誤りは無いのだ。だから「不法投棄禁止」の裏に潜んでいる(と推測される)「合法投棄許可」の「合法」手段、それは土地所有者の意志の中に存在しているのではないか。


「不法投棄禁止」、この日本語は表面的に捉えれば確実にオカシイ。が、もはやそんなコトはどうでも良くなった。「不法投棄禁止」の文句、これが意味する内容は、アナタは絶対に捨てちゃあいけない、ってコトじゃない(多分)、という新たな発見をしたのだから! 何らかの「法」に従えば捨てても良いってコトさ。
さぁ、次なる問題が生まれてきたゾ! それはもう言うまでもない。その「法」を発見することだ。そうすれば新たなゴミ捨て場が誕生することになる。これはゴミ処分に困っている現代人たる私たちにとって大いなるチャンスだと思って良い。

2007年09月02日

2007年09月02日 怪奇!爺ちゃんの世界

爺さんというのはやはり私たちの世代には分からない面が多々ある。私も四国の山中に一人で暮らしている祖父のコトが実はよく分からない。
例えば…

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2007年09月01日

2007年09月01日 像無き像

子供の頃に大好きだった「裸の大将」が復活するというので期待に胸を膨らませていたのだが、いざ始まってみると芦屋雁之助の個性を痛感させられただけだったので、30分で見るのを止めた。誰が二時間もずっと塚地のモノマネを見るんだ。
本物の山下清がどういう言動を取るヒトだったのかは知らないが、おそらく“芦屋雁之助の「裸の大将」”も山下清本人に忠実であったわけではなかろう。だが、芦屋雁之助という俳優の演技力・表現力が「裸の大将」というドラマの魅力をかき立てた。それはとりもなおさず芦屋雁之助の力に他ならない。だが塚地の場合、芦屋雁之助の力をそのまま頼りにしているだけで、彼独自の「裸の大将」像が全く見えて来ないのである。結局、今日のアレは“ドランクドラゴンの塚地が芦屋雁之助の「裸の大将」をマネただけ”のモノだ。
もうなんか脱力して…今日はこの辺で勘弁して下さいませ。

2007年08月31日

2007年08月31日 御礼

大嫌いな八月をどうにか無事に過ごすことができました。
陰ながらご支援・ご声援を賜り誠に有り難う御座いました。
次なる相手は九月中旬までの残暑です。
引き続き変わらぬご声援を宜しくお願い致します。

2007年08月30日

2007年08月30日 馬鹿で結構

「一生一緒にいてくれや みてくれや才能も全部含めて 愛を持って俺を見てくれや 今の俺にとっちゃお前が全て」
私の中では三木道三はお笑い系。
「女編」が出ているとはいえ、今更こんなコトを言うのはオカシイが、オカシイから敢えて言わせてもらうのだけど、「Lifetime Respect」の歌詞には余裕が感じられないのである。焦りが後ろにチラついているような気がしてならない。余裕が無いということは、すなわち相手に対する感情もどこかで一方通行に陥りがちで、そこには誤った優しさしか存在しないことになる。つまり三木道三のアノ曲は本当に相手を想う優しさが無いのである。それなのに「愛を持って俺を見てくれ」とはいったいどういうことか。傲慢甚だしい。いっしょういっしょにいてくれや〜 嘘っぽいからヤだね。まるでチンピラの鼻歌だ。


最近はあらゆることが面倒になっている。
朝、目覚めて、起きるのが面倒。
起きてからも、顔を洗うことやトイレに行くことや着替えることが面倒。
目が覚めてきてからも、ちょっと外出することや本を読むことや部屋の掃除をすることや・・・何もかもが面倒。
夜、入浴することや食事することが面倒。そして寝ることも面倒。
ただし、オナニーだけは面倒ではない。


・・・この最低なオチを書きたいがために、今日は頑張った。そんなに何もかもが面倒ならこうやって日々ブログの更新などしません。本も読みません、テレビも見ません、オナニーだって(多分)しません。…というと、私が熱心なオナニストであるみたいでイヤじゃないか! まったくロクでもない。

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2007年08月29日

2007年08月29日 ただ書くだけのこと

TBSはイヤになるくらい世界陸上を放送してやがる。しかし織田裕二の必要性が分からん。浅草キッドと二宮清純でも良い気がするが。


朝青龍帰国。
ああ、そうですか。という感じ。もう好きにすれば。


「秋生」という発泡酒。香りは悪くないけど、味はやはり普通の発泡酒ね。
アルコール分6.5%とは結構強め。
発泡酒で一番売れているのは「のどごし〈生〉」だろうか。少なくともバイト先のスーパーではコレが一番売れている。次に「淡麗」、それに次いで「本生(ドラフト)」か「淡麗グリーンラベル」、その後に「ジョッキ生」と「ぐびなま。」という感じかな。私はどれもダメ。やはり発泡酒は発泡酒。
しかし「生(なま)」を強調している商品が多いなぁ。イメージは悪くないよな。新鮮な感じがするもん。


最近気になっている人物。
江藤淳と丸山眞男。
一言で言うと、江藤淳は強烈に、しっかりとした文章を書く、逞しさを備え持つ評論家という印象。
丸山眞男は……う〜ん、難しいなぁ。この人の論理は難しいけど、スっと入ってくる部分もある。それは彼の戦後思想の出発点が比較的「大衆の日常」的な場面から発せられたものであるからかもしれない。
まだまだお勉強が足りません。
それにしても丸山眞男の影響力は恐ろしいくらいだ。私がお世話になっているセンセイも、丸山眞男の門下生である橋川文三や藤田省三の下で学んできたヒト。いわば丸山の「孫」に当たることになるのか。現職の大学教授で丸山の影響下にある人物の数は計り知れない。さらにそこから橋川文三、藤田省三、松下圭一といった丸山の系譜を引き継ぐヒトの影響下にある者となれば、それはもう大変な数になるだろう。まったくとんでもない学者だ。


麻生さんが幹事長に。私個人のイメージでは外務大臣の方が似合っているんだけど。その外務大臣には町村さん。高校時代に、「政治・経済」を担当していた新米教師に、「(当時)文部科学大臣を担当しているのは誰か」と尋ねても答えられなかった。その答えが「町村さん」なのだが。
決して派手ではない町村さん。でも予算委員会では結構ユニークな答弁をするんだ。その新米教師はおそらく町村さんを知らないだろうと思って、わざと聞いてやった。案の定知らなくて微笑ましかった。「政治・経済」を教えているんだから、教科書に書かれていること以外にも、現職閣僚の名前くらいは知っておけよなー、と思った。イヤな生徒だったろうなー。


ああああああ〜!!
今、「秋生」を注いでいたグラスを倒して、テーブルがビショビショに。
ちょっと処理と掃除をしなきゃいけなくなったので、じゃあ今日はこの辺で。
うわぁ〜最悪だ…

2007年08月27日

2007年08月27日 騙す奴

バイト先のスーパーに足の悪いお婆さんが常連客として頻繁にやって来る。足を引きずり、腰も相当曲がっているそのお婆さんが、お年寄りのよく使う手押し車を押しながら、ゆっくりと買い物をしている光景を何度か見かけたことがある。今日もそのお婆さんが来店して、飲料などを冷蔵庫に入れていた私の前を「ゴメンね兄ちゃん」と言いながら通ろうとしたので、私も「ハイ、大丈夫ですよ」と返答し、作業用に置いてあった台車などを少し移動させ、通路を確保してあげた。
昨年の秋に亡くなった私の祖母も手押し車を愛用しており、そうした記憶がそのお婆さんに何か親近感のようなものを抱かせるのである。
「ああ、あのお婆さんも色々と苦労されてきたのだろうなぁ」と思って見ていた時、少し離れたトコロからおばさんの店員サンがコチラを見ているのに気付く。「はて、何かあったか? オレ何かやったか?」と思うも、別に心当たりは無いのでそのまま作業を再開。するとその店員サンがそっと近付いて来て、私の背中を叩き、「あのお婆ちゃん、万引きの常習だから注意して見といてね」と。
「えええええ!!」内心で叫ぶ私。あのババア、悪いヤツだったのかー! さっきまでの優しい気持ちはどこへやら。ああいうヤツがコッソリと品物を盗んで行くんだな!外見に騙されちゃイカン。その店員サンは私ではなく、あの婆さんを見ていたのだ。
その後、私も婆さんをチラチラと監視していたが、どうやら今回は何も盗らなかったようだ。そしてさっきの店員サンは、婆さんから一定の距離を保ちつつ常に監視していた。徹底マーク、まるで万引きGメンだな、と思う。


しかし、こうなっては全てを疑いたくなるね。足を悪そうにしているのも、実は万引きを誤摩化すためのフェイクじゃないかしらん、などと思ってしまう。そのおばさんの店員サンによると、「コッソリ前のアレ(手押し車の中)に入れる」らしい。足が悪いから手押し車を押しているのではなくて、万引きするための道具としてそれを持ち歩いているのではないか。疑いは終わることを知らず・・・


あれほど店員から監視されているということは、彼奴相当のモノなのだろう。万引きの常習犯を教えられたのなんて初めてだから、コレは「バイトのキミでもアイツだけは覚えておけよ」というメッセージなのかもしれん。
まったく何が「ゴメンね兄ちゃん」だ。「ゴメンで済んだら警察はいらない」という単純な一言をオマエに送りたい。
多分、あの手のヤツは万引きという行為に罪悪感などを感じないのではなかろうか。クセのようになっているのか? 老婆の万引きやスリの常習犯は多いと言うからねぇ。どこかで開き直ったり、自分の行動を勝手な論理で正当化してしまっているのだろう。いつまで経ってもそういうことをやっている…一番タチの悪い歳の取り方かもね。ああはなりたくないと思う、強く思う、思いまくる。本当に困ったモンですねぇ。いやいや。

2007年08月25日

2007年08月25日 最狂の凶器

ちょっと古いニュースだけど…


米軍、「ホモ爆弾」の開発を検討


米空軍の出費を調査していたバークリーのある監視機関はこのほど、敵をホモセクシュアルにし、戦闘よりもセックスに関心を抱かせる「ホモ爆弾」の製造を空軍が提案していたことを明らかにした。国防総省はCBS5に対し軍首脳部がこのホルモン爆弾を検討した上で却下したことを認めた。
 バークリーズ・サンシャイン・プロジェクトのエドワード・ハモンド氏は情報公開法に基づき、オハイオ州デイトンの空軍ライト研究所から提案書のコピーを入手した。(中略)「ライト研究所は敵の兵士をゲイにする化学物質を含んだ爆弾を提案していました。抵抗できないほど兵士が互いに惹かれあって、部隊の機能を停止してしまおうというわけです。」 ハモンド氏は書類について語った。「少量であれば人体に好ましい化学物質を、呼吸や皮膚の露出により摂取させ、兵士をゲイにしてしまおうというものです。」
 国防総省はCBS5に対し、空軍のこの提案は1994年になされたとしている。軍は現在はこのような兵器の開発はしておらず、過去の計画は放棄したと強調した。

情報元:Pentagon Confirms It Sought To Build A 'Gay Bomb'


米軍の発想力は凄い。まるでギャクマンガの世界だ。
軍事は科学力を向上させるというが(例えば私たちが日常的に使うインターネットなどは軍の通信システムを発展させたものと云われているし)、この「ホモ爆弾」の研究が今もなお続いていたとしたら、そこには何かしらの発見があったかもしれぬ。そしてもし完成していたら・・・・
私もアナタもホモになっていたかもね(一方で、元来ホモだったヤツは無性に女に惹かれるようになったかもね)。


しかしこの爆弾、「抵抗できないほど兵士が互いに惹かれあって、部隊の機能を停止してしまおうというわけ」なんてコトになっているが、これは同性愛以上に性欲を極限まで高める兵器であるともいえる。それなら別にホモにしなくとも、性欲を異常に高めて戦闘に集中させないような「セックス大好き爆弾」の開発を提案しても良かったんじゃないか。・・・いや、そんなことをすれば多数の何ら関係無い女性が強姦に遭い、最悪の状況になるか。もしくはオナニー狂いの大量発生か。
仮に「ホモ爆弾」が開発されたなら、「レズ爆弾」も簡単に開発されるだろうな。そして万が一それらが使用されたならば…至るトコロで同性同士の性行為が乱発……本当に開発計画が放棄されて良かったぁ(って、本当に計画は放棄されたんだろうな!?)。


家庭用のパソコンやケータイ電話なども、おそらくは軍事に関する面において科学の力を総動員しなければ、今ほど発展していなかったモノだろう。軍事レベルの向上はすなわち私たちの生活をより簡便に、よりスムーズにすることに繋がっている。現在、私たちが使っている電化製品も、その機能の発展の裏には軍事が関わっているということ。もっとストレートにいえば、軍事が間接的に私たちの生活を安定させているといっても良いくらい。つまり戦争のために、また国を守るために開発された様々な兵器や機械類やシステムが、カタチを変えて現在の「情報化社会」を構成しているということだ。このことは見逃してはならないことだが、だからといってホモにされちゃあかなわんよ。もしこれが開発されていたら、核爆弾に匹敵するくらいの兵器(あるいはそれ以上?)になっていたのではないか。恐ろしい恐ろしい。この計画が放棄されたことに感謝せねばならん(現実はどうか分からないけど、とりあえず記事に誤りは無く、本当に米軍が計画を放棄していることを望む。極秘で開発が進められているなんてのはナシよ)。そして、もう二度とこんなアイデアに力を注がないでおくれ。

2007年08月24日

2007年08月24日 過去と現在と将来のこと

午後8時前、近所のスーパーに買い物へ。
外に出て少し奇妙な感じを覚えたのは、つまりそこがあまりにも静かだったから。8時前という時刻なのに車の通りも無ければ通行者もいない。なんじゃこりゃ、と思う、思わずにはいられない。なんだか自分だけが取り残されたような感覚を味わう。
私が住んでいる場所は決して繁華街の中ではないが、さすがにこの静けさは無いだろう、というくらいの静けさ。


静けさで思い出すのは、大学に入学して始めての夏休みのこと。
18年間暮らしてきた四国の田舎町を離れ、それなりの街中で一人暮らしを開始。そしてそれから約四ヶ月が過ぎて夏休みになり、一時帰省した時のことである(初めての帰省)。母親が駅まで車で迎えに来ており、そこから家まで帰る道すがら、車内からもう何年も見てきたはずの景色を眺めながら、「オレはこんな殺風景な町で育ったのか」と思い、一種の脱力感のようなモノを感じたのは、今でも薄れない記憶。たった四ヶ月の間別の地域で暮らしただけなのに、子供の頃からずっと住んでいた町があまりに空虚であまりに閑散とし、あまりにも静かに見えた。はじめて「オレは田舎生まれ田舎育ち、純度100%の田舎者だ」と痛感した瞬間。


昔話はこの辺にして。
で、買い物に行ったスーパーのこと。いつも聞こえてくる店内放送で「ミートーコーナー」がどうとか言うのがある。おそらくはお肉の安売りの宣伝なのだろうが、私には「ミートーコーナー」が「ニートーコーナー」と聞こえて仕方ない。ドキッとするから止めて欲しい。ニートが集う場所? 「ミート」とか「ニット帽」とかいう言葉はイヤな響きだ。現在ニートではないけれど、もしかしたら将来ニートになる可能性は捨て切れないのだから、不安を煽るようなことはしないでもらいたい。


今日のMステに元ちとせが出ていた。久しぶりに見た。今、私がここで「Mステに元ちとせ」と書くまで、スッカリ彼女の存在を忘れていたというアナタ、私の仲間です。フフ。

2007年08月19日

2007年08月19日 「行かない」

母親から久しぶりにメールが届いた。何事かと思ったが、なんのことはない。高三の同窓会が年末に行われることになり、その参加意志確認が往復書簡で実家に届いている。返答をしなければならないから、意志を教えてくれ、と。
そういうワケなので、メールを見た瞬間に「行かない」と送り返した。あれほどスムーズにケータイメールを返信した記憶は無い。まったく反射神経とは恐ろしい。
何一つとして(と言っても良いくらい)イイ思い出の無い高校生活。その同窓会なんてもはや罰ゲームである。そうした意識が私に「行かない」という四文字を打たせた。あまりに早く、あまりに手際良く。
ただ、担任のセンセイは良かった。こんな私のようなモノを非常に気にかけて頂いた。思い出せば申し訳ないような気もするが、あるいは、こんな私だからこそ気にかけねばならなかったのかもしれぬ。この場を借りて・・Nセンセイありがとうね。どうしても下の名前が思い出せないけど。そして同窓会には行きませんが。


しかしながら、幹事を務める連中も私が来ないことは自明だろう。というか、行っても私の入る空間がそこにあるだろうか。クラスに全然溶け込んでいなかったからねぇ。お昼休みなど自分の教室で過ごした記憶が無い。陰では「あんなヤツ」扱いされていたかもしれん。クラスメートともそれほど交流が無かったし。だから「行かない」んだ。
卒業前に作ったクラスの文集、そこにひとりひとりへの寄せ書きがあったが、私のトコロには「謎」とか「不思議な人でした」とか「よくわからないキャラだったね」などの書き込みが複数あったのは容赦無い現実。仮に私が犯罪を犯して、ワイドショーに文集が流れれば、間違いなく危険人物として報道される。「○○容疑者を知る同級生」というヤツがモザイク付きで出て来て、「何を考えてるか分からない人でぇ〜」とか「ちょっと変わってる人でしたね」などと受け答えする様子が思い浮かぶなぁ。いけない、いけない。どうしてもいけない。文集の流出だけは避けたい。犯罪は避けられぬかもしれんが。


だけど、教師受けは良かった。おそらく小六の担任以外には「真面目な生徒」という印象を持たれていたはず(小六の事情については割愛)。前述のNセンセイは、上記の文集の寄せ書きに「地道な努力を絶やさない、真面目で尊敬できる人です」といったような、およそ教師が生徒に対するとは思えない一言を私に与えてくれた。その寄せ書きの中で唯一「尊敬」の一語が用いられていたのが、こんな私に対するメッセージだったのだから、非常にくすぐったいような気持ちになる。センセイ、そりゃあ過大評価かもしれやせんゼ。でも、自分で言うのもなんだけど、「地道な努力を絶やさない、真面目」な印象を持たれていたのは確かだろう。なぜならば…表面だけは巧みに取り繕っているから。そうやって年長者に巧く接することのできるのが自分の強み、だと勘違いしている。


まぁ、どーでもいーんだけど、とりあえず年末は「行かない」。今日はたった四文字のコトで結構長く書けたから、ちょっとだけ満足。

2007年08月18日

2007年08月18日 ウソシカナイ

なんだ今年もあの偽善番組―「24時間テレビ『愛は地球を救う』」をやっているじゃないか。まったく懲りない連中だ。私がカミナリ様だったら、毎年この日に武道館へ雷を落とす。場所を変えたら、そこへ再び落とす。
あの番組を見ていて感じる違和感はなんだろう。


障害を持つ人が何かに挑戦している。それを見て涙ぐむ偽善的出演者ども。
大雑把な印象だと、そこには無意識のうちに「健常者」と「障害者」という壁が存在していて、常に「健常者」から見た「障害者」という視点で、あらかじめ何らかの同情ありきの不自然な演出方法で事が進められる。勝手に決めつけた上と下があって、上にいる者が下から前進してくる者を、必要のない「感動」という感情でもって受け入れようとしている構図が描かれる。根拠の無い先入観だけで構築された関係に疑いを持つこと無く、そこに「感動」というモノを巧妙に飾り付け、それをいかにも自然を装って配信する。こうしたものを安易に受信してしまうヤツもヤツだが、相も変わらず決まりきった視点を維持し続けて番組を制作するヤツも、やはりオカシイ。


おまけにタレントが白々しく募金箱を持って来るというあからさまな演出をしてまで募金を募ろうとする偽善的で、世間に対する“媚態的”な、あのイヤらしさ!
有名人の方々にとっての「愛」とは、募金箱を持って、作り笑顔でステージ上に登場することなのでしょうか? そもそもタレント連中が持ってくるあの募金箱も怪しい。どうせ所属事務所のスタッフから大量に小銭を集めたりしたモノを持って来ているのだろう。結構なお金持ちのはずの有名人が皆決まったように小銭の入った箱を持参って、ねぇ。その箱の合計金額幾らだよ。そんなモノよりアンタがカメラの前で、自分の財布から五千円札か一万円札を一枚募金箱に入れた方が遥かに効果的でっせ。「24時間テレビ『愛は地球を救う』」のために何ヶ月もコツコツと、マジメに小銭を貯めていたワケでもなかろうし。詐称をするよりは、パっと一枚お札を投入すべし。いや、本当に募金をしようというのなら、出演者全員ノーギャラで出ろよ。出演者のギャラを全て募金すれば良い。どうせ募金箱を持って来た連中は、募金額の何倍ものギャラを貰うくせに。
ついでに言えば、あの募金だって本当に「地球を救う」ために使用されているのかどうか。日テレの金稼ぎじゃないかしらん。
そして一番問題なのが、全然「地球を救」わない芸能人のマラソン。ハァ〜、もう呆れ返りますね。


「愛は地球を救う」という合言葉の下に、わざとらしいコトを繰り返しているから不愉快だ。タイトルを「24時間テレビ」にして、普通のバラエティをやれば良い。それならスッキリする。
「障害者」の人を都合良く用いたり、わざとらしい募金でアピールしてみたり、有名人の勘違いの涙を伝えても、今の世の中、アナタ方が思っているよりも世間の目は冷静ですよ。っね。

2007年08月17日

2007年08月17日 夏の自慰

Wikipediaの「舎人親王」のページに掲載されている肖像画、これをよく見れば徐々に「桑マン」に見えてくる。私だけかもしれんが。舎人親王は桑マン似だったのだろうか。


タクシー、広がる禁煙 「時代の流れ」滑り出し上々


鉄道や飛行機など他の公共交通機関に比べ対策が遅れていたタクシー業界が、一気に動いた背景には利用者の強い要望が後押ししている。喫煙率全国1位の北海道で1月、北海道管区行政評価局が約330人を対象に行った調査で、タクシーの受動喫煙について約70パーセントが「不快」と回答。約63パーセントが禁煙タクシーを「もっと導入してほしい」と答えた。
 「高齢者や子供連れの母親、通院中の人から『たばこのにおいをなんとかして』という要望があり、禁煙は大歓迎を受けている」と名古屋タクシー協会の永山明光専務理事。全国に先駆けて禁煙化に取り組んだ大分県タクシー協会の漢二美会長も「タクシーは個室だから他の交通機関とは違うという考えもあったが、クリーンな車内は時代の流れ」と断言。事実、たばこのにおいを敬遠して他の交通機関を使っていた乗客が戻ってきたという。


喫煙者は自分が臭いということに気付いてないからな! だから馬鹿なんだ。私がタバコ嫌いなのも、あの臭いがほとんど全てと言っても良いくらい。喫煙者で臭くないヤツはいない。
あと厄介なのは、吸った後に他人へのデリカシーのつもりか何かは知らんが、ストロベリーやグレープの何とかいう口臭対策の何とかを使うヤツな。「何とか」ばっかりでよく分からんが、兎に角変なイチゴの臭いとタバコの臭いで臭さ倍増。そんなモンでタバコの悪臭は消せやせんよ。
満員電車にも喫煙者は乗せないようにしろ。迷惑だから喫煙者専用車両を作れ。モチロンそこも禁煙だけど、喫煙者はタバコを吸っていなくても常に臭うから、隔離すべき。もはやある種の鉱毒だよ。
ついでに最近は女の喫煙者が多いと聞くが、喫煙者に限らず田嶋陽子みたいな女は全面的に隔離した方が良い。ああいうのもタバコと同じで「百害あって一利なし」さ。「女の権利」を訴える馬鹿は、その前に自分が「女としての義務」を果たしているかどうかを思え。これは同様に男にも言えることだが。


「権利」を要求できる者は、自らに課せられている「義務」を全うしている者だけだ。


喫煙に関する公的な「義務」を果たしている者だけが、喫煙に関する「権利」を要求することができる。どこでも構わずに吸っているようなヤツ、好きなところに吸い殻を捨てているようなヤツ、こういう連中に“喫煙する権利”を求める「権利」は無い。
「義務」は「権利」に先立つということを忘れてはならない。


ま、これは個人的な戯言ですよ。独り言が好きで仕方ない。困る。

2007年08月15日

2007年08月15日 8.15日のこと

小粒納豆なんか納豆と認めないぞ!というオトコがここにいる。
カレーの甘口を全面廃止しろ!と思うオトコがここにいる。カレーは香辛料を用いた料理。辛くて当然。甘いカレーなどは似非カレー。辛いカレーはダメ、甘いカレ−大好き。というヤツは勘違いをしている。お前はカレーを食う資格が無いから今後永遠に食うな。そもそもカレーの甘口を考案したヤツは、カレーに対する冒涜行為だと知れ。
同様に苦いコーヒーがダメ、コーヒー牛乳大好き。というヤツも勘違い。
甘いカレー、甘いコーヒーなどというのは、肉を焼かない焼き肉の如きモノで、そのものが本来持つ魅力を奪い去ったまったくもって有害存在という他無いモノである。


終戦記念日。
高校野球、甲子園でも黙祷をするのが常になっている。何を隠そう私が某高校に在学していた時、野球部が甲子園に出場し、丁度8月15日の第二試合に登場、その途中に正午を迎え、皆黙祷をした。…そして、それをテレビで見ていた私。クソ暑い中、誰が甲子園まで応援に行くか!
彼らは奇跡的に結構上まで勝ち進んだが、結局一度も応援に行かなかった私。で、二学期が始まった時、クラスメートから白眼視されたコトは言うまでもない。ただ、御丁寧に毎度応援に行っていた連中の中にも、「なんで勝つんだ!」と不満を言っていたヤツがチラホラといたとか。そんなもんだ。一回や二回は良いかもしれんが、三回も四回も行くのは面倒だよなー。せっかくの夏休みだし。野球部に潰されてたまるか、という気持ちは分かる。だ・け・ど、学年で応援に行かなかったのは、私を含めて5,6人だけだとか。ハハハ・・
甲子園全体で黙祷をしているはずなのに、毎年黙祷を捧げる球児たちの写真が新聞等に掲載されるのはどういうことだ?カメラマンは黙祷していないじゃないか!まったくロクでもない奴らだ。テレビのカメラマンも黙祷していない。まったく・・・


暑い日にはビールが美味い。発泡酒死ね。ビールこそ夏の風物詩。と、アルコールに滅法弱いオレが言うのもおかしなハナシだ。
じゃあ。

2007年08月14日

2007年08月14日 マルクスの寝言

私は布団が好きだ。布団に包まるのが最高に心地いい。
布団と結婚したい。


しかし50や60にもなって「愛」だの「恋」だのと歌っている歌手は何でしょうか。
「愛」とは便利な言葉なんでしょうね。そう言っておけば、とりあえず片付いたみたいな感覚になれるんでしょうから。あのヒトたちは、そんな抽象的なコトを何十年も歌い続けている自分に疑問を抱かないのかしらん。
「愛」という言葉で何かにケリをつけようとするヒトを、私はあまり信じたくは無い。そして「Love & Peace」なんてのはマルクスの寝言のようなモノである。聞いても何の意味も無い。


ちなみに
「愛」とは言わない私の言う事を聞いても意味が無いということは、もはや言うまでも無い。

2007年08月13日

2007年08月13日 全く困ったモンだ

さっき偶然知ったのだけど、高校野球の西東京代表で創価高校が出場しているじゃないか。しかも初戦でイチローの母校に勝ってるし。西東京の熱心な高校野球ファンの方は、この学校を応援するのだろうか?
仮に私が西東京在住かつ高校野球ファンで、もし創価高校が代表で出場したら、その年だけはテレビを見ない。球児たちの創価学会加入率がどの程度なのかは知らんが、世の中には加担してはいけないモノがあるということを、ハッキリと認識せねばならぬ。
新興宗教系の学校で野球部が有名なのに奈良の天理高校や大阪のPL学園などがあるが、アノ宗教の怪しさ、ロクでも無さはズバ抜けている。天理教やPL教団などの比ではない。洗脳集団、カルト集団、気狂いの集団である。日本の金正日は誰かと言えば、池田大作をおいて他にあるまい。


世の中はお盆だという。オレには関係ないぜ。8月がずっとお盆みたいなモンだ。これだから学生はどうしようもない。自分でもそう思う。でももっとどうしようもないのは創価学会。ええーい、しつこい! なぜ今日に限って、と思うヒトもいるだろう。別に今日に限ったコトではない。日本に数多ある有害組織―中でも共産党、社民党、公明党及び創価学会、これらは“特に”日本を害している。全く困ったモンだ。害を無視してはいけんぞや。


お盆のバイト。スーパー。客はいつもより少ない?そんな気がする。みんな帰省したり遊びに行っているのだろうか。知ったこっちゃない。
それにしても、やたらと片言のヤツに話しかけられる。
片言のヤツ「スイマ、セン、あーら、ワ ドコデスカ?」
私「あーら? あーらですか・・」
片言「ハイ、あーら。・・あるら?あるりゃ?」
私「あるら?・・・?・・・ああ!油ですか?」
片言「ハイ、あるら」
私「油はこちらです」


こういうやりとりを頻繁にせねばならん。
ここで問題なのは、この手の怪しい外国人が日本人の客に比べてよく話しかけてくるのか、それとも単に怪しい外国人の割合が多いのか、である。
その答えは、間違いなく後者だろう。
本当に怪しい外国人が多い!日本語よりも外国語をよく聞く、と言えば言い過ぎだが、妙な聞き慣れない言葉を耳にすることが珍しくなくなっている。家族で買い物に来て、(当然かもしれんが)全員がフィリピン語かタイ語のような言葉で会話をしている、という光景などは見慣れたモンよ。店員も日本人の客も慣れている。
現在私が住んでいる街の周辺には、本当に怪しい外国人が多くて困る。奴らは日本へ何をしに来ているのか、正規のルートで入国しているのか、偽札を使って買い物をしているのではないか、とっくに滞在期限は切れているのではないか。・・などと怪しめばキリがない。全く困ったモンだ。


ということで、今日は怪しい宗教と怪しい外国人に関する無意味なコトを書きました。最後まで読んだアナタは、実に損をしています。だってココには何も有意義なコトが無いのですから。

2007年08月12日

2007年08月12日 うぼんび(←コッチから)

あと三日で終戦記念日である。戦後62年が経つ。
62年という我が人生の3倍ほどの歳月を前に、今、言いたいことが一つだけある。


お金がない!!


戦後は関係ない。
いや、私は戦後の復興時代を生きているような感覚とでも言おうか。まったく貧しいコトこの上無い。
バイトで生計を立てる苦学生。来年の就活に向けてコツコツと貯金。それに生活費と本を買うお金、雑費等々を悩みながら工面する毎日。
そして今月は特に危機的状況である。消耗品的なモノが沢山切れる時期に当たっている。それらを買うのにまた予想外の出費で、イタタタタ・・・おまけに自転車がパンク。もうタイヤが末期だから交換した方がよろしいゼ、坊ちゃん。などと言われて3600円の出費なり。アイタタタ・・非常に痛い。今月はどうも就活用に貯めているお金を少しばかり生活費に転用させねばならぬようだ。


来年になると就活でバイトも困難になるだろうから、増々貧乏状態に・・・嗚呼、まったく困ったモンだ。遊ぶ余裕なんて無い。というか、遊ぶ時間とお金があれば、何か一冊の本を購入した方がよっぽど有意義だろうに、と思っているから、私はお金を浪費してまで遊ぼうとは思わない。ああ、退屈な人生かもしれませんね。私はそれでもスゴーク楽しいのですが。自分が楽しけりゃ良いんだよ、人生なんて。―オレの人生だからさ という開き直り。貧乏なら貧乏なりの楽しみ方があろう。


だから、世間の色々な環境よ。オレに金を使わせるな。これが私の戦後62年目を迎えるに当たっての言葉。おそらく戦前の右翼浪人や非合法活動に勤しむ学生共産主義者のような、あまり意味があるようで結局は意味が無かった連中は、私のように乏しい状態だったのではないか。とは言っても、私は飢えに苦しむほど生活に困っているワケではありませんが。
貧しさの中にセンチメンタルな気分を覚え、それに陶酔できるようになれば、少しはマシな気分にでもなるのかしらん。まぁ、現実逃避の勘違いですけれどね。

2007年08月11日

2007年08月11日 破滅目前の健康賛美

こういうコトを言うと、ヒトによっては嫌みっぽく思われるかもしれないが、私は健康過ぎて困る。病気にならない。持病のようなモノもない。
子供の頃になるような病気―おたふく風邪とかはしかとかーで経験しているのは水疱瘡だけ。しかもそれも3日くらいで治った。
虫歯にもならない。骨折の経験もない。当然手術の経験もない。縫合の経験もなし。
中学生の時に蓄膿症に罹ったのが最大の病気。完治するまでに二ヶ月くらいを要した。
高一の時に、突然原因不明の腰痛に襲われたことがある。朝目覚めると立てないほど痛かった。筋肉が硬直している時(?)には激痛が走る。立って少し体を動かせば痛みも治まる。そんな感じで一週間を過ごした。その間、2種類くらいの塗り薬を試したが効果無し。思い切って臭いのキツイ「タイガーバーム」を塗ってみたら、すぐに治った!まったく凄い薬だと感心した覚えあり。いえ、私は決して「タイガーバーム」の関係者ではありません。本当によく効いたのです。
そしてインフルエンザに感染したのも、今までに3,4回くらい。人混みを嫌うから、空気感染するような病気とも無縁。だからといって、病気を求めてウロつくわけにもいかないが。


まだ私は22歳だから、体が悪くなくて当然なのかもしれないが、もう少し病気を経験した方が良いのかもしれん。若い間に病気にならなかったヤツは、高齢になってから重病に罹る予感がする。


もうどうでもイイや。私は30年後くらいに妙な病気に感染して苦しむ。だから、今のうちの健康体を満喫しておくべきなのだ。悲観的なのではない。自然の摂理としてそうなっているのだ。
久々にビールを飲んで、ちょっと酔っているので、意味の分からないことを書いてしまった。でも謝ったりはしない。「無意味」こそ当サイトの本質だからね。

2007年08月08日

2007年08月08日 なんちゃって

日本の受動喫煙対策「先進国で最低レベル」


こんなコト、今更言わんでも分かってるよ。
喫煙者、つまり馬鹿に寛容な社会だということね、ハイハイ。
ところで、どーでも良過ぎるコトだけど、この記事を取り上げたブログの多くが、喫煙者に対して非常に冷たい。私と立場を同じくする者が結構いるようだ。これが「民意」か!
そうだ、次の選挙は喫煙者に対する扱いを一つの焦点にすれば良い。結構票が動くかもしれんぞ。ただ、共産党や社民党が「喫煙者追放!」なんて言い出したら、私はどうして良いか分からなくなって、アゼルバイジャンに移住する。


東京大気汚染訴訟が正式和解、11年の法廷闘争に決着


「自動車の排ガスで健康被害を受けた」ヒトに対して、「医療費助成制度」を創設するなどして、和解が成立したとか。
そしてこの「医療費助成制度」というモノ、その対象者というのが…「都内に1年以上住むぜんそく患者のうち、非喫煙などの要件を満たす者」だって。つまり「喫煙者はぜんそくになっても知らん」ということ? 誠に結構ですね。喫煙者なんて保護されなくて良い。
政府が言えば良い。「喫煙が原因で肺がんになったと思われる人に対しては、全ての医療保険を今後一切適用致しません」と。そうなれば、喫煙者はどれくらい減るだろうか。
仮に、それでもタバコを吸い続ける!というモノがいれば、私はそのヒトを応援する。不利になったから止める、というのはただのヘタレだ。貫き通す姿勢に声援を送りたい。


どうでも良いことにスペースを使い過ぎてしまった。これからが本題。
私は今日、ふとした瞬間にとんでもない発見をしてしまった! が、気付いてしまえば何でも無いようにも思える。なんでこんなコトに気付かなかったのだろうと、不思議でならない。果たしてコレに気付いているヒトは、ほとんど存在しないのではないか。頭の良い体育教師がほとんどいないのと同じように、コレに気付いているものは、おそらく国民の2,3%くらいではないかしらん。


さて、それでは「コレ」について書き記していこうではないか。

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2007年08月07日

2007年08月07日 ‘元’容疑者

布袋寅泰容疑者を書類送検、作家・町田康さん殴った疑い


「布袋寅泰容疑者」
なんだこの違和感の無さは。
彼は“本質的に”容疑者体質なんじゃないだろうか。
・・・全く意味が分からんが。


これからテレビに出る時は「布袋寅泰‘元’容疑者」という呼称で呼べば良い。
タモリ「続いては、布袋寅泰‘元’容疑者でぇーす」
‘元’容疑者「うっす」
タモリ「ヒトを殴っちゃあいけない。オマエはもうメシ喰うな!」

2007年08月05日

2007年08月05日 多過ぎるモノと少な過ぎるモノ

Googleで「北区」を検索すると、東京都、神戸市、大阪市、堺市、札幌市、京都市、さいたま市、名古屋市、新潟市、浜松市などがヒットする。そう、「北区」は全国各地にあるのだ。全国の北区民の皆さんには悪いが、コレがムカつくじゃないか。まったく何の捻りもない名称だ。もう少し考えて名称設定しろよ。ただ北部にあるから、という理由で「北区」としたのなら、いい加減この上無い。
同様に「中央区」で検索しても、東京都、神戸市、大阪市、千葉市、札幌市、さいたま市、福岡市、新潟市などがヒットする。糞みたいな状況だ。そんなに「北区」や「中央区」があってどうするんだ。関東のヒトは「中央区」と言われても、それが東京なのか、さいたまなのか、千葉なのか分かったもんじゃない。同様に関西で「北区」と言っても、大阪なのか、堺なのか、神戸なのか、京都なのか分からない。大阪なんて府の中に二つ「北区」があるからな。「西区」も二つある。本当にロクでもない。


異端児について。
異端児を辞書で調べると「ある世界で、その主流には属さないが、特異な存在として注目を集めている人。(Goo 辞書)」と出る。
「ある世界で」という言葉を「日本人で」に置き換えて、異端児というものを考えてみた。すなわち「日本人で、いかなる主流にも属さない人物」、それを究極の「異端日本人」として考えた場合、それはいかなる人物であるのか。


まずは性別から。日本において男と女では女の方が多い。するとこの国では男が「異端」になる。
血液型は最も数の少ないAB型。
身長は極端に高く2メートルくらいあるか、極端に低く140センチくらいか。同様に体重も身長に連動して180キロくらいか35キロくらい。
両親はどちらかが外国人の、いわゆる「ハーフ」
生まれは勿論首都圏ではなく、九州や東北などで、そして離島生まれ離島育ち。
学歴は小学校にもロクに通っていない程度。
おまけに同性愛者、露出癖があり、ハードSMやスカトロを好むようなタイプ。
好きな食べ物を聞けば「水」などと、常人が答えるはずのないモノをあげる。
童貞で、極度に神経質で、スカトロ好きなのに潔癖性、もしくは呆れ返るくらいのヤリチンで、極度に大雑把で、常に不潔。
未だに黒電話を愛用し、喫煙者(日本人において喫煙者の割合は約30%)つまりアホで、年収は限りなくゼロに近いか、または数十億で、イスラム教徒とかヒンドゥー教徒とかで、政治思想は極右か極左で、「サザエさん」の登場人物で最も好きなのが「裏のおばあちゃん」などというヤツで、資格等は一切所持していなくて、鼻くそは食べる方で、トイレは決して流さずに・・・
と考えていけばキリがないから、もう止める。
総括してみようか。
究極の異端児(日本人編)…男でAB型で身長は2メートルくらいor140センチくらいで体重は180キロくらいor35キロくらいで「ハーフ」で九州や東北などの離島生まれ離島育ちで小学校にもロクに通わずに同性愛者・露出癖・ハードSMやスカトロ好きで好きな食べ物は「水」とかで童貞で極度に神経質でスカトロ好きなのに潔癖性で神経質もしくは呆れ返るくらいのヤリチンで極度に大雑把で常に不潔で黒電話を愛用し喫煙者で年収はほぼゼロか数十億円でイスラム教徒とかヒンドゥー教徒とかで政治思想は極右か極左で「サザエさん」の登場人物で最も好きなのが「裏のおばあちゃん」などというヤツで資格不所持で鼻くそは食べる方でトイレは決して流さないヤツ。


以上の条件を全て満たすという方がおられましたら、絶対ご連絡ください。私はアナタのために生涯を捧げたい。それほどの価値があられるお方です。宜しくお願い致します。

2007年08月03日

2007年08月03日 夏の風物詩三十

先日「あつい」というキーワードをあげて、私は「完全に夏がイヤ」だと言った。キャンプ嫌い、花火嫌い、スイカ嫌い・・・いわゆる「夏の風物詩」的なモノの多くが嫌いだという自覚はあるのだけど、でもちょっと待って欲しい。いくらなんでも「夏の風物詩」全部が嫌いなワケはなかろう?
そこでちょっと検討してみたい。以下適当に思いつく限り「夏の風物詩」をあげて、好きか嫌いか検討してみようじゃないか。


夏の風物詩三十


其の壱 そうめん→コレはナゼか子供の頃から好きじゃなかった。キライでもないけど。
其の弐 蛍→私の実家は相当な田舎で、場所によっては蛍が生息していた。だからといって興味は無かったけど…
其の参 高校野球→野球に興味が無い。
其の四 風鈴→死ぬ程興味無し。
其の五 アイスクリーム→最近は食べてないけど、嫌いではない。
其の六 「24時間テレビ」→発狂しそうになるほどキライ。これほど「偽善」という言葉が相応しい番組も無い。番組の存在自体が「ヤラセ」
其の七 蚊→コレを好きなヒトはいないでしょう。
其の八 夏祭り→お祭り、人混み、苦手。
其の九 アサガオ→どーでもいー
其の十 ひまわり→ひまわりって枯れると気持ち悪くなるからイヤ。
其の十一 海水浴・プール→私は水泳が苦手。そしてほとんどのプールは汚い、海はもっと汚い。砂が付いてキモチ悪い。ゆえにキライ。
其の十二 夏休み→コレを嫌いなヒトはいないでしょう。
其の十三 麦わら帽子→幼稚園に頃に麦わら帽子を支給されたけど、私はソレを生理的に嫌悪した思い出あり。
其の十三 ラジオ体操→小学生の頃にあったなぁ。皆勤だったよ。コレはキライじゃない。好きでもないけど。
其の十四 ビアガーデン→親に連れられて何回か行ったことがある。酔っぱらいと喫煙者ばっかりの糞みたいな場所だ。
其の十五 七夕→ガキの頃に二回程笹飾りをした覚えあり。ちなみに短冊に書いた願いの実現率は100%! ちょっと好きかも。
其の十六 TUBE→興味ありません。
其の十七 冷やし中華→なぜかコレ苦手なんです…
其の十八 肝試し→何回か経験したコトがありますが、基本的に時間のムダですよね。
其の十九 冷房器具→抱きしめたいくらいに大好き!
其の二十 浴衣→着辛いので好きじゃない。
其の二十一 団扇→扇ぎ疲れるから好きじゃない。
其の二十二 セミ→うるさいからねぇ。好きになれないなぁ。
其の二十三 台風→好きなヒトいる?
其の二十四 かき氷→コレも子供の頃から好きじゃなかった。夏祭りで何回か買ったコトがあるけど、全部食べ切った記憶が無い。
其の二十五 すだれ→風情があって良いじゃないか。
其の二十六 ホラー・怪談・稲川淳二→こういうのを見たり聞いたりすると、自ずと笑ってしまうんだよなぁ。あと稲川淳二は何を言っているのか分からない。
其の二十七 バーベキュー→ああ、コレは比較的好きかもしれません。
其の二十八 カブトムシ・クワガタ→大好き!小学生の頃、毎年飼ってたよぉ。
其の二十九 旅行→コレは・・・まぁ、嫌いじゃない。
其の三十 麦茶→ウソみたいだけど、コレも好きじゃないんです。麦酒(ビール)は問題ないんですが…


やっぱり、夏のアイテムはどちらかというと好きじゃないようですな。
…早く失せろ夏!見えないけど目障りだ!

2007年07月31日

2007年07月31日  「あつい」

飲酒運転だけではなく、「喫煙」運転をするバカからも罰金を取れ、と思う夏。私は突き詰めて言えば「あつい」モノが嫌いなのであろう。


暑い季節が嫌い。
熱い人物が嫌い。


だらしのない猫舌。熱い食べ物は苦手。
キャンプが嫌い。キャンプといえばキャンプファイアー。炎は熱い。よって嫌い。
炎。花火大会。超苦手。ドーン、パッ。で終わる儚いモノを楽しくは見れないゼ。
炎、というか火、といえばタバコ。大っ嫌い!
暖房も嫌い。すぐに火照る。嫌。
熱血、情熱。「熱」い。苦手。


私が嫌いなモノの公約数的な存在として「あつい」というキーワードがあげられる。
そして、花火もキャンプも夏の風物詩。・・・完全に夏がイヤなんだ。
そういえば子供の頃大好きだったスイカも、中学生くらいから苦手になった。アレは汁がボトボト垂れて汚いんだ。


ところで、GooTaの「煮玉叉焼麺」というカップ麺がやたらと美味い。なんだこれ。グッジョブ!

2007年07月28日

2007年07月28日 傷と治癒

Part.1
先日から少しずつ読んでいる『共同研究 転向(上)』
この前、藤田省三さんのがよく分からないと書いたが、もっと分からない論文があった。「一国社会主義者ー佐野学・鍋山貞親」高畠通敏
中盤からサッパリ分からなくなる。何をいっているのか皆目捉えられない。内容を把握する以前に、ここで使われている日本語を読み解けない。「状況追随論理」って何じゃ。試しに一文を抜き出してみようか。

そして、絶対的な実体の規定が、個人的な「意味づけ」に連関されているここにおいて、状況への追随は状況へのオポチュニズムと同時に状況の規定への論理的オポチュニズムをまた内包するようになる。それはすなわち、この「理論的」状況規定が、あらゆる個人的動機を包含することができるということに他ならない。「誠実さ」はつねにまた、この倫理の下にそのまま温存される私的な動機によって裏打ちされているのである。たてまえにおける「道徳主義」と行動における卑俗な「政治主義」、認識と良心の絶対性の主張と対置される動機曝露のイデオロギー批判の悪循環は、すべてここに根をもっている。

真ん中くらいからずっとこんな調子だから、途中で読むのを止めた。止めてしまった。情けない。今まで幾つか論文を読んできたけど、途中で投げ出したのは始めて。実に不甲斐ない。糞ぉー!
藤田さんのは噛み砕いていけば、なんとなく掴めるのだが、これは完全に無理。噛み砕きようが無い。まったくとんでもない論文だ。
まったくとんでもない本だ。上下二段組みでギッシリ文字が書かれてるし。読むのに時間かかるし。難しいし。困ったもんだ。


Part.2
Rie fu「ツキアカリ」(Live)
なんでRie fuは売れないんだろうか。地味だからか。そりゃ倖田來未みたいな派手さはないし、そんなモノいらんけど、良い曲は多いんだよ。まず何よりもこのヒトの出すオーラのようなものが素敵じゃないか。
私とは正反対の雰囲気を醸し出している。彼女は育ちが良いんだろうな。上品さが窺える。それが下品な私のココロをくすぐる。
上記の論文に打ちのめされた私を癒してくれるんじゃないだろうか、と傍若無人な期待をこめつつ・・・本人にとっては迷惑だろうけど、そういう気持ちで聴いているのです。ハイ、今日の分はこれで終わりです。

2007年07月27日

2007年07月27日 出てくるもの

最近変なタイミングでくしゃみが出て困る。誰かが私の噂をしているのだろうか。親類か友人か学校の関係者か、はたまた謎の人物か分からんが、ちょっとイヤだ。戸惑う。「おぎやはぎのカッコイイ方」と言われて、判断しなければいけない時くらい、戸惑う。


今日のMステにMONKEY MAJIKが出ていた。外国人と日本人混合バンドの。
仙台在住なんだってね。良いじゃないか。
日本はメジャーでやっている連中の多くが東京在住みたいだが、それは良く無い。
アメリカやイギリスのミュージシャンを見てみろ。それぞれいろんな街に住んでいるじゃないか。アメリカでは西海岸やロサンゼルスといった地域によって、独特の音楽が生まれている。地域(環境)が音楽を育む。日本にはそういうコトがあまりない。インディースに幾つか例が見られるだけ。ミュージシャンの8割9割が東京の街を見て、東京の空気に包まれて音楽を創っても、面白味が無いだろう。
日本はアメリカみたいに面積が大きな国じゃないから・・・ということもあろうが、しかし東京以外にも大きな都市はある。札幌、仙台、横浜、名古屋、大阪.神戸、広島、福岡・・・それぞれの地域に特有の“シーン”が出てくるようになれば、日本の音楽もより面白くなるはずである。
メジャーデビューすることになっても、自分が生まれ育った環境で音楽を創造していけるような状態であれば、無理して上京しなくても良いと思うのだけども。スタジオの問題とかがあるのかな。それとも東京以外の都市で活動することは、(主に経済的な可能性の面で)限界があるのかな。そういう点では、もっと環境が整備されるべきなのかも。現実がどうかは知らんが。


まー、それはそうとして、噂は止めてね。くしゃみが出て困るから。
まさかウチの親父がしてるんじゃないだろうな!?

2007年07月26日

2007年07月26日 ∞

『共同研究 転向(上)』、藤田省三「昭和八年を中心とする転向の状況」
私は今までにこれほど難解な論文を、哲学関連のものを除いて、読んだことが無い。鶴見俊輔さんの論文が中学生の読書感想文に思える。
私がこの論文を読んで辛うじて理解出来たこと、それは「この論文は日本語を用いて書かれている」ということだけである、極端に言ってしまえば。
うへぇ〜、ダメだぁー。私はまだまだ力不足だ。どうやって読み解けば良いんだ。ばいきんまんがおそらく永遠にアンパンマンを殺せないように、私は永遠に藤田さんの思考過程を理解できないかもしれん、と思うと果てしなく慚愧に堪えない。ピロウズがどうやっても売り上げではミスチルに敵わないように、私はどうやっても藤田さんの境地には達せないんじゃないかしらん。中川八洋先生みたいになんでもかんでも共産主義(者)のせいにしているような分かり易い論調じゃないから、これは厄介。


さて、さしあたり問題がひとつだけある。
明日と明後日の天気予報、最高気温が34℃になっている。
最高気温が34℃になっている。
この予報に対して私からの言葉は、実に単純ながら次の一言に尽きる。
死ねええ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
「!」の数が私の怒りとやるせなさを物語っている。
夏の無い国に行きたい。


・・・南極!?

2007年07月25日

2007年07月25日 強敵の再来

暑いなんてもんじゃねー


早く7月去れ。
8月来い。
そして至急夏よ終われ。


日中の室温が華氏90度って・・・
オレの夏休み、どこかに避難しなきゃならん。
そう思えば小学生の時の避難訓練って全然役に立たないじゃん!
暑さから逃げる方法も教えてくれ。


ここからあと一ヶ月が真剣勝負。命を懸けた勝負。
私の記憶が正確ならば、毎年高校野球が終わる頃から少しずつ涼しくなってゆく。
・・・・・
今、調べた。高校野球は22日に終わる予定らしい。
じゃあ早く22日来い。早く球児の夏が終われ。


暑さを紛らわすために小熊英二さんの「〈民主〉と〈愛国〉」でも読んでみようかなと思っている。
今まで読んでなかったんだよなぁ。だってあの本7000円くらいするし、1000ページくらいあるんだもん。
1000ページってねぇ。上下二巻で出した方が良かったんじゃないの。
ちょっと考えてみよう。
ホントは暑いから何も考えたくないんだけどなぁ。

2007年07月20日

2007年07月20日 何を書いているのか解らない

ヒトには抽象的観念に無上の安心感を抱き、その中に安住してしまおうとする、現実逃避的な願望があるのかもしれぬ、と思う時がある。
例えば「愛」という言葉。日常にコレほど溢れ返っているにも関わらず、依然としてその実態が明瞭でないものも珍しい。未だかつて万人に受け入れられる「愛」についての普遍的定義を唱えた哲学者が、社会学者が、歴史学者が、心理学者が、いたであろうか。結局、誰も分からないのである。分かったような気がしているだけで、誰一人として「愛」というものを明確に発表できないのである。あるヒトはSEXをもって「愛」の発露だという、あるヒトは人間同士の結びつきを見て、そこに生じる信頼関係・相互扶助の間柄に「愛」が存在しているという・・・
しかし、SEXの中にあるとされる「愛」を、人間同士の結びつきの中に生じるとされる「愛」を、他の言葉に変換して表明することはほぼ不可能な仕業であるといえるのではなかろうか。


斯様な実態不明瞭の抽象的存在によってヒトは支えられているとするならば、ヒトそのものもまた抽象的存在であるということになる。
ヒトの内から外に向かって発生するエネルギーが文明創造の礎となり、それは日々「進歩」しているとされるが(実際には文明は何も「進歩」しておらず、ただ科学技術が向上しているだけであるが)、その内面の一角を占める観念を説き明かすことができていない以上、それが創出するものもまた、不完全で不明瞭な実態を伴わずにはいられないのではないか。その事実を覆い隠し、誤摩化し、そこに絶対的価値を見出し、ヒトの歴史は常に「進歩」と隣り合わせだとする認識の愚昧さ!


言語による共通の認識を構築することが困難だと思われる「愛」という観念、にも関わらず何故日常にこの言葉が散乱しているのか。それは何らかの方法でこの不可解な言葉の持つ内情が共有されているからであろう。具象化されることのない「愛」というものに、人類共通の価値を見出し得るとして、その方法とは如何なるものであるのか。究極的には「感覚」によるものなのか。
それならば、その「感覚」はどの程度統一されているのか。そもそも、人類に完全なカタチでの統一は存在し得ないのではないか。妥協が伴ったカタチでの共通、妥協による統一がどこかでなされていると考えることは、誤りか。


「愛」を伝える「感覚」、そこにもしも妥協というものが入りこんでいるのならば、現在我々が受け止める「愛」も、妥協されたものと考えることは、これまでの思考過程から自ずと導き出されてくることに他ならない。
「愛」に限らず、普段我々が受領する「感覚」はどこかで妥協を伴う。妥協せねば共有できないトコロに人間の認識能力の限界がある。だが、しかし、個人が本来的に備え持つ「感覚」ー妥協が生ずる以前の「感覚」ーを究極至上のものとして認めて良いものか否か。


そうなると、現世に「本物の」「純粋の」などというものはあり得なくなるのではないか。我々は「本物の」「愛」を、「純粋の」「愛」を、理解できていないことに気付くことなく、錯覚したままで、妥協された「愛」を「本物の」ものと看做して、「感覚」的に共有しているつもり、なのではないか。
自らの中に「愛」という抽象的感情が伴うとして、それを一切の錯誤無く他者に伝えることは不可能なのではないか、自らの、または他者の妥協によってしか共有できない感情なのではないか。妥協に次ぐ妥協で続いてきた記録!?

2007年07月17日

2007年07月17日 夏本番前の声

今年の夏はスロースターターのようだ。まだ本格的に暑くはならない。
暑くならないのを良い事に、前言撤回させてもらう。しばらくタバコに関する個人的苦言は書かないと言ったが、夏本番を迎える前に、もう一度だけ書かせてもらう。そして、これは偽らざる私の本音であり、あるいはこういうコトを記すと人間性を疑われる可能性を多分に含むが、それもまぁ、良しとする。ありのままを出す。これさえ言ってしまえば、もう私の言う事は無くなるんじゃないか、と思うくらい、私の心境を全て吐き出す。


最近の若いヒトは喫煙率が下がってきている、と言われるが果たして本当か。今の言葉で言えば「マジ」か?
高校生でも吸いまくっているぞ。男女関わらずに。ロクでもないヤツばかりだ。(←自己を忘却した発言!?)


一昔前のヒトたち、つまり私の父親くらいの年齢のヒトたち(団塊の世代前後のヒトたち)の話を聞いていると、「お前も大人になったんだから」と、タバコを吸うように勧められることが多かったようだ。“男の嗜み”としてタバコを吸うのは、ひとつのステータスであり、車の免許を取るのと同じような感覚でタバコを覚えたということである。確かにその年代のヒトで喫煙者は多い(その世代の喫煙者は主に男だが)。時代と環境によるものか。


しかし時は流れ、世界的にタバコがタブーとなりつつある現在、本当に若い世代で喫煙率が下がってきているか。【重要ポイント:以下、昨今の時流である“タバコはタブー”という認識に盲目的かつ過激に依拠して話を進める】


もはや“男の嗜み”でも無くなり、タバコを吸う事が一人前の証でも無くなった現在においても、かなりの喫煙者がいるように思えてならない。
彼らを見ていると、タバコを吸う=カッコ良い、というまるで共産主義を信奉するのと同レベルの浅はか過ぎる認識で喫煙者になった者が多いような気がする。それこそ不良中学生がカッコをつけて吸うというレベル、非常な低レベル。阿呆である。馬鹿である。勘違いである。勘違いに気付いていないから、尚更勘違いの馬鹿である。
好きで吸うなら良い。何も違法行為じゃないんだから、好きにすれば良い。しかし、喫煙行為そのものをいかにもクールな人間の代名詞であるというような、時代遅れの感覚で喫煙しているヤツは、消えてしまえば良い。そんなものは精神錯乱者と変わりはしない。気狂いである。気狂いであることに気付いていないから、尚更気狂いの馬鹿である。吉本隆明は転向について「日本の近代社会の構造を、総体のビジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思考変換をさしている(『マチウ書試論・転向論』)」という有名な定義付けをなしたが、それをモトにして勘違い喫煙者についていえば、「己の感覚が時代と乖離したものであるということを捉えそこなったために、自我の中だけに没入し完結する、偏狭的思考をさしている」という具合になる。
1970年代半ば以降に生まれた者で、未だにタバコを吸う=カッコ良いなどと捉えているヤツは、副流煙以上に有毒な存在である。隔離した方が良いかもしれん。社会的に区別されて当然である(区別であり、差別ではないことに注意して欲しい)。というか、社会的に区別すべきである。区別しなければならぬ。有毒汚染存在!近寄ルベカラズ!


・・・もう良い。久々に腹の底から声を出した。これで本当にタバコに関するコトはお休み。
ハイ、失礼致しました。夏よ、ウェルカム。

2007年07月16日

2007年07月16日 おバカさん

プリングルスのチーズ&チーズ味が超絶にウマい。でもカロリーが高いから食べ過ぎには要注意だぜ。


今日から「愛の劇場 大好き!五つ子Go!!3」が始まった。もはや夏の風物詩である。シリーズ9作目になるのか。私は2作目か3作目から見ている。ハッキリとは覚えていないが、高校生の夏休みに見たのが始まり。もう6年か7年見ていることになるのかぁ。
安っぽい家族愛が良いじゃないか。子沢山なのに貧しさを感じさせない爽やかさ。
子供たちはもう高三だ。今回が最終シリーズかな、とも思う。それで良いんだ。これ以上やるとキリがなくなる。お昼の息抜き程度に見られるトコロが良いんだよ。


名案を思い付いた!
性犯罪を犯したヤツに対しては、永久に選挙権を剥奪しろ!
「“性犯罪者”のお前は、国の事に関して口を差し挟む余地が無い。どんな政策が決まっても、“性犯罪者”であるお前には何の権限も付与しない。国家はお前達のような人間を眼中に入れない」という国家からのメッセージがそこにはある。
なあーんだ、選挙権くらい と思ったヤツは、多分痛い目に遭う。選挙権を剥奪されるということは、国民として認められていないということ。日本にいなくても良いですよ、つーか外国に行って下さい、と宣言されているようなモノである。そうすると、性犯罪者は「ココではもう生きてらんない」となり、アナーキストになる。そうすればアナーキストの選挙権も・・・ という風になって国はメチャクチャになる。
結論。選挙権剥奪は自分で自分の首を絞める行為になる。
おバカさんの考えだね。

2007年07月14日

2007年07月14日 オリジナルTシャツ

オリジナルTシャツを作りたいと思っている今日この頃。
世界で一つだけの漢字Tシャツ(文字Tシャツ)が欲しい。
そこで問題となるのが、どういう文字を入れるかである。他人が見て「コイツアホだな」と思うようなTシャツが良いじゃないですか。幾つかTシャツに入れる文字の候補を考えてみた。


1.「荻生徂徠」
2.「一概には言えない。」
3.「大阪県知事」
4.「東京府知事」
5.「イヌイット」
6.「まさかの一軍昇格」
7.「夏目葬式」
8.「見るな」
9.「善意の蹂躙」
10.「前方包茎墳」
11.「俺の口臭に注意」
12.「日本浪漫派のやうな物」
13.「Do You Remember 三木道三?」
14.「瀬戸内寂聴」
15.「放送大学」


オリジナルTシャツを作るなら、以上の候補の中からどれかを選ぶ。
今のトコロ選ぶとすれば、1か3か13か14か15の中からどれか。
思い切って5つ作ってやろうかしらん、と思うけど、費用が1万円くらいかかるので、やはり作るならどれか一つだ。う〜ん・・・「瀬戸内寂聴」にしようかなぁ。
・・って、本気で作る予定は無いんだけどね。

2007年07月10日

2007年07月10日 暇つぶし

オトコなんてバカよ、とオンナは言う。
オンナなんて単純さ、とオトコは言う。
そういうモノである。
もし、オトコなんてバカよ、とオトコが言えば、ソイツはホモだと思って良い。逆に、オンナなんて単純よ、とオンナが言えば、ソイツはレズだと思って良い。
そこで私は敢えてこう言う。オトコなんて単純さ、オンナなんてバカよ。どっち付かずである。オトコでもオンナでもイけるということである。


さて、ロンリーなミーのナイトはセンチメンタルなフィーリングで、シェド・ティアーズ(shed tears)なベッドイン。
・・・と、なんとなくルーブログのマネ。こんなに愉快なブログは無い。


ハッキリ言う。
今日は何も書く事がない。暇つぶし。暇つぶし。
朝青龍は大丈夫だろうか。今場所も白鵬がいっちゃいそうな予感がもう既にしているのは気のせいで済む事では無いだろうと思わずにはいられないのだけど。


趣味でどじょうすくいを始めました。

2007年07月05日

2007年07月05日 小さくとも大きな一歩

何でも熱中してしまうといけないのだが、私のタバコ嫌いはある意味で熱中状態にあるのかもしれない。
喫煙者への個人的苦言が、高校生の頃からクセになっているようである。


指導員に警察OB、市啓発スタート 御堂筋、10月から“罰金”


大阪市は4日、路上喫煙防止条例に伴い、御堂筋と市役所周辺を喫煙禁止地区に指定、啓発活動を始めた。10月からは違反金1000円を徴収する厳しい条例で、当初はトラブルも想定されるため、市は指導員に警察OBを投入する。


罰金が1000円とは安過ぎる。せめて3000円にしろ。
路上喫煙などは禁止されて当然の暴挙である。どれだけ吸い殻が散乱しているコトやら。シンガポールみたいに、タバコをポイ捨てしても罰金を徴収するようにしろ。勿論ゴミのポイ捨ても同様に。


この条例で文句をいう喫煙者は糞阿呆である。いわゆる「先進国」といわれる国の中で、日本がどれほど喫煙者に対して親切な国であるかを知らないロクでなしである。今更路上喫煙禁止かよ、というくらいの遅さ。なんなら大阪市内のほぼ全域を喫煙禁止地区にしてしまえ。


歩きタバコほど悪質なものはない。以前にスーパーの中で喫煙(当然喫煙禁止)をしていた若いバカ女を見て、私は発狂しそうになったことがある。そこに一緒にいた友人が、「でもあのヒト綺麗じゃないか」と言ったのを聞いて、私は増々発狂しそうになった。
綺麗な女ならどこでも喫煙して良いのか、そうじゃないだろう。あの女には、以後このスーパーに立ち入り禁止処分を下さなければいけない、ついでに罰金も取ってしまえ、と私は言った。
その友人は私の怒り具合を見て、「お前はタバコを吸う女と絶対に結婚できないな」と、これまた意味不明のことを言った。何を言っている、結婚だと?馬鹿な。私が喫煙者と恋愛に関する限りでは、そこに真剣交際などというものはあり得ないじゃないか。交際あっての結婚だろうが。喫煙者と俺の間には、そもそも結婚の前提となる下地が生ずる余地が無い。私がそう言った時の、彼のあの引き具合。ドン引き一歩手前の状態だったなー。我を出してしまった私がいけなかったのか。


大変に不愉快な昔話、失礼致しました。
何がともあれ、大阪市の小さくとも大きな一歩に拍手を送りたいと思います。これからこうした動きがより拡大されていくことを願うばかりです。


※このブログにタバコに関することをどれくらい書いたかなぁ。トータルで5回以上は書いたなー、多分。ココらで暫くこの件については小休止したいと思います。熱中は良く無い。再開があるとすれば、夏が終わって涼しくなってからでしょう。

2007年07月04日

2007年07月04日 イギリスからのメッセージ待ち

シャラポワが好きだ。シャラポアに結婚を申し込まれたら、後先考えずに承諾する。


私が傘を持って外出すると雨が降らない、というジンクスがある。
今日は天気予報で、12時くらいから「強雨」となっていたので、傘を持って出掛けた。
学校は午前中だけだったので、帰る頃には降ってるかなー、でもオレが傘を持ってるしなー、などと思っていたら、12時頃は小雨だった。傘なんて無くても良い状態だった。さすが私である。雨を阻止することができるのである。そして夕方、余裕綽々で傘を持たずにバイトに出掛けたら、帰る直前に大雨になった。夕立のような雨。チクショー!
しかし、折り畳み傘を常に携帯している私。どうにかソレで凌げたものの、やはり小さいから少し濡れた。
折り畳み傘をどれだけ持ち歩いていても、雨は阻止出来ないのである。ちゃんとした傘を持って出ないといけないようである。
しかし、今夏は水不足が懸念されるといわれているのに、私が傘を持ち歩いて雨を降らさないのは、随分良く無い行為だと思う(自惚れ)。


今日ほどどーでもいーことを書いた日は無いのではないか。
書く事に意味がある?書けば何かが変わる?
でも、シャラポワは今ウインブルドンにいるんだぜ。イギリスから私に求婚してくるとは思えないんだけども…(ウザい、馬鹿、死ぬべき発言)

2007年07月03日

2007年07月03日 チョコレートうどん

「はぐれ刑事純情派」といえば、藤田まこと演じる安浦刑事を中心に描かれていた刑事ドラマであるが、私は特に思い入れがあるワケではない。しかし、このドラマについて今でも一つだけ後悔しているコトがある。
それは2002年の8月に放送された「嫁VS姑、大バトル!チョコレートうどんを食べる女」という回を見逃してしまったことである。
(参考リンク:はぐれ刑事純情派 PART15 第21話
私はこの回の予告CMを見て、その内容とタイトルに衝撃(笑撃)を受けたのであるが、とうとう見逃してしまった。今でもつくづく残念に思う。


チョコレートうどんを食べるという、ある種の罰ゲームのような役をやらされていたのは山田まりや。可哀相に。
そもそもコレはどう考えても刑事ドラマのタイトルではない。私は安浦刑事が心理カウンセラーにでもなって、奇妙な食事をする女のケアにでも当たるのだろうかと思った。
脚本家は何を考えて、こんな無茶な内容にしたのだろうか。山田まりやに恨みでもあったのかもしれん。


ちなみに「チョコレートうどん」で検索したら、一番最初に「手塚治虫は松本零士にチョコレートうどんを食べさせたことがある」という「トリビアの泉」で紹介された(という)モノの紹介が出てきた。手塚治虫が元ネタか!?


今度、機会を見つけてチョコレートうどんを作ってみようかしらん。意外と美味しかったら、ちょっとショックかも。
不味くてこそ「チョコレートうどんを食べる女」という奇怪な内容が成立するってもんだ。
山田まりやが撮影の時に美味しく食べていたなんてイヤじゃないか。藤田まことも「そんなに美味いんか?俺にも一口」なんて言って、チョコレートうどんを楽しんでいたら・・・・もう衝撃が台無しだ。チョコレートうどんが不味くありますように。星にお願い。

2007年07月02日

2007年07月02日 non title

モノ凄く機嫌の悪い時に見るAVほど馬鹿らしく見えるモノはない。
コッチはハラワタが煮えくり返りそうな程ムシャクシャしてるのに、何が「あああぁ〜イクぅー」だ。もうお前の頭がイっちゃっている事に気付けよブスが。
これほど発信する側と受信する側に意識の乖離が生ずる事はない。共産党のアホ共がやれ「護憲」だのやれ「消費税撤廃」だのというのを聞くよりも、よっぽど冷めた態度で傍観出来る。田嶋陽子も福島瑞穂も機嫌の悪い時に見るAV女優に比べたら、随分マトモな健常者に見えてくるから、これはもう世界の七不思議に加えても良い。
しかも、中途半端にカメラを意識しているようなのには殺意を覚える。コッチ見るな!なんだその顔は。ギャグのつもりか。お前もう30超えてんじゃねーか。いい加減に落ち着けよ。羞恥心というモノを持て。腹の肉が弛んでるんだよ。貴様は序二段の若手力士か。
お前等など又吉イエス氏から言わせれば一介の“パンパン”に過ぎないロクでなしだよ。しかも男の方もチューチュー音を立て過ぎだ。汚いコトこの上ない。スープは音を立てて吸うなと教えられただろう!ラーメン屋感覚で吸い上げてんじゃねーぞ。


なんだそのテンションの高さは。「ああぁぁー、キモチイイぃ〜」って、お前しか気持ち良くねぇんだよ。もうその勢いで今度の参院選に出ちゃえよ。街頭演説で「私は国民のために ああぁー 税金の無駄遣いを ああぁ〜ダメェーんんんふぅー 年金問題 ああぁイクぅー」とでもほざいてろ。
そして選挙戦の模様を「性奴快楽 マゾフィストー美しいクンニー」(「制度改革 マニフェストー美しい国ー」)という作品にでもして発売しろ。コッチはまた機嫌の悪い時に見てやる。


それにしても誰がムシャクシャした時にAVなんて見るのだろうか。

2007年07月01日

2007年07月01日 誤報を恨む

午前中、優雅な一時。紅茶を飲みながら読書に勤しむ。私の日曜日。It's my sunday
突然、けたたましいサイレン音。


ああ、もう うるさーーーい!!!


何事かと思い、外を見てみると、表の道にパトカーと消防車が来ている。
おやおや火事かしらん、と思い、読んでいた本を片手に様子を窺っていたものの、どこにも煙や炎を確認できず。なんだ?火事じゃないのか? あの消防車はレスキュー隊か何かか?と思っていたら、今度は救急車が到着。救急隊員がすかさず担架を運んでいく。野次馬も10人くらい集まってくる。アラアラ、何か事故でもあったのかしらん、と思うも、その後は何の動きも無し。はてな、いかがしたものだろうかしらと勘ぐっていると、
「え〜、住民の皆さん。○○警察署です」
パトカーのマイクから何やら放送が聞こえてくる。
「煙を探知しましたが××(よく聞き取れず)なので、消防車は退去します」と。
要は誤報か何かで出動しただけの模様。
消防車や救急車、パトカーが退去し始めた頃に、遅れて別の消防車がサイレンを鳴らしながら登場。残念!!お前は遅過ぎた。・・・そしてうるさい、と思っていたら、また別の消防車が。お前も遅過ぎる。そしてうるさい。一体何台来るんだよ。実に騒がしい。


隊員や警察の方々、日曜の朝から大変ですねぇ。
誤報というのはどうなんだろう。結構頻繁にあるとも思えるが、急いで駆けつけてきた隊員のヒトたちからすれば、ちょっとした脱力感に見舞われるかもしれん。何だよ、せっかく道を我が物顔で暴走してきたのに。いったいどうしてくれるんだ。これじゃあ、まるでスネ夫のオモチャを取り上げるジャイアンじゃないか!と思うかもしれん。こんな為に俺たちは押し分け掻き分けやってきたんじゃないんだ!と。
ああ、良かった。何事も無くて。平和が第一だ。という気持ちを持つ反面、やはり仕事をしたいという欲求。その辺りが、第三者の私からすれば微妙だ。
レスキュー隊員のヒトたちからすれば、住民が平和でいてくれることが何より大事だろうが、平和過ぎるとオレたちの仕事が無くなる、という不安。だからといって事件・事故を望むワケにはいかないという葛藤。


何も考えないのが一番なのかな。
変な心配はしなくとも、今の日本なら当たり前のように事件・事故が起きるから、オレたちの出番は幾らでもあるんだ、という、ある種の楽観、開き直りのような感覚で事態に備えていたりするのだろうか。


どうかは分からんが、とりあえず俺の優雅な日曜の朝を返せ。
それだけは言っておきたい。
隊員や警察の方々はご苦労様でした。街の平和を守り続けて頂いていることに感謝致します。
誤報は死ね。

2007年06月30日

2007年06月30日 終わりの六月

暇だ。
というが、私の人生で暇じゃない時の方が少ない。


今日で漸く六月が終わる。
そして、これから夏本番を迎える。でも、それで良いんだ。七月だと心置きなく「暑い〜!!」と言える。六月だと「暑い・・まだ六月なのに・・・」と、ちょっと弱気になる。六月は中途半端だから嫌いだ。順番では真ん中の月だけど、気候的にはイヤラシイ。


そういえば、以前にのび太がドラえもんに泣きながらこういうコトを言っていた。
のび太「ウエ〜ン、六月だよ〜ドラえもーん(泣)」
ドラえもん「それがどうかしたのかい?」
のび太「六月は一年間で唯一祝日の無い月なんだよ。ずっと学校に行かなきゃいけないじゃないか!(怒)」
ドラえもん「それなら七月だって無いじゃないか(当時はまだ「海の日」が無かった)」
のび太「七月は夏休みがあるじゃないか!(激怒)」
ドラえもん「・・・そういえば、そうだね」


そうして、ドラえもんは仕方なく、自分の好きな日に祝日を設定出来る道具を出してあげるのだった。この回を見たとき、私もこの道具が欲しいと思った。22世紀にはあるらしい。
じゃあ、22世紀は毎日が祝日だな。ヒトがこの道具を手に入れてしまえば、絶対に毎日が祝日になってしまう。ただ、この道具のリスクとして、休んだ日の分だけその後に働かなければいけないという設定があった。案の定、のび太は休みを作りまくったから、ラストに大変なコトになっていたような気がする。うろ覚え。22世紀もきっと大変な世の中だ。


のび太は、ドラえもんの道具を応用するコトに関しては“天才的”などと称されるが、私はそうは思わない。のび太と同じ小学五年生でも、カツオの方が遥かにスマートだ。カツオならのび太以上の応用力を見せつけるだろう。現時点では、残念ながらのび太とカツオの頭の回転力には雲泥の差がある。
もし、ドラえもんとカツオがペアを組めば、とんでも無いことになるだろう。カツオは勉強こそ出来ないが、学問的な部分以外での頭の良さでは、他に類を見ない程のモノを持っているように思う。磯野家における唯一の才人だろう。


…と、こんなコトを言いながら、六月の終わりを迎えるのです。今月は更新回数24回を数えました。過去最多です。冬支度ならぬ夏支度なのです。
ああ、それにしても暇だ。

2007年06月29日

2007年06月29日 勝負の月

真正包茎。
・・・なんでもありません。ちょっと言ってみただけ。私?違うよ!そんなんじゃない!


しかし暑い。今日は曇りって言ってたじゃないか。気象庁はいい加減にしとけよ。風説の流布で全国民から訴えられろ!
日に日に最高気温を更新していくなぁ。今日は今年最も暑かった。


午前中、学校に行って、クーラーに馴染んだら帰る気がしなくなった。
午前、中学校に行って、クーラーに馴染んだら帰る気がしなくなった。
さて、どちらが正しいでしょう?


で、仕方ないから学校内の図書館で読書。
本多秋五『増補・転向文学論』の「小林秀雄論」などを読む。
さっぱり分からん。なんじゃこれ、と思いながら80ページほど読んで夕方に帰宅。
帰り道に、なぜ分からなかったのかを考えていた。
世の中には意味の分からない文章が沢山あるけれど、大別すると次の二つに分けられる。


1)著者自身もカッコをつけて書いただけで、誰も意味を解せない文章
2)読み手の知識が欠ける為に、理解できない文章


本多さんのは、間違いなく後者だ。私の知識が無さ過ぎる。そもそも小林秀雄を読んでいない。
私は「転向」というテーマに興味を持って、この本を手にしたのだけど、全体の中で転向に触れている部分は一部で、半分以上が文学者評論だ。まー、良い。これから転向の部分を読んでいく。


この夏休みは『共同研究 転向』を読破する予定。あの上・中・下三冊によって構成される膨大な論文集。暑さと闘いながら死ぬ気で読む。
鶴見俊輔さんや藤田省三さんなんかが面白そうな論文を寄せていたのを、チラリと見た。


転向というのは極めて注目に値する現象だと思うが、その研究はリベラルな立場のヒトたちによってしかなされていない。こういう思想的な現象は、右・左問わず十分な研究対象になると思うのだけども。
右側の場合、共産主義思想など放擲して当然、という暗黙裡の了解事項のようなものがあるから、未だ介入されないままなのかもしれない。
その辺の事情がどうかはさておき、戦前、戦時中、戦後と様々なところで見られた転向という現象。そこにメスを入れた『共同研究 転向』において扱われている有名人物、それは林房雄、佐野学・鍋山貞親、近衛文麿、有馬頼寧、石原莞爾、今村均・吉田満、柳田国男、吉本隆明など。これらの人物についての論文が集められたというだけで、私などは非常な興味を抱かずにはおれない。


ま、何がともあれ死ぬ気で読む。日本思想史上に残る一大研究書から、何かを吸収したいと願う。個人的に8月は勝負の月だと位置付けている。だから、このブログも放置するかもしれん。スマン!

2007年06月26日

2007年06月26日 かようび

午前中のバイト。午前のスーパーは主婦らしき女性ばっかり。
バイト先のスーパーは、毎日目玉商品として、1000円以上お買い上げの場合につき、特定の商品が激安(1円〜100円くらい、品による)になるという特典がある。
本日の目玉商品の中に5パック入りかつおぶし(かつおパック)があった。1000円以上買えば、そのかつおパックが“1円”で買えてしまう(通常は60円くらいで売っている)というちょっとアホなことをやっていたのだけど、まー、当然のように売れる。かつおぶしなんて需要ありまくりだからねー。1円でモトが取れるのかどうかは分からんが、とにかく売れることだけは自明である。

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2007年06月25日

2007年06月25日 ディケイ

ここのトコロ、月日の流れが早く感じるようになってしまっている。理由は分かんねぇ。なぜ?
今年で22歳。2年前の二十歳の誕生日からまだ2年しか経っていない。この2年間は長かった。本当に長かった。二十歳を過ぎれば年を取るのが早く感じる、というが、私は例外であると思い続けていた。しかし、ここにきて私も早く年を取りだしているのかも分からん。恐ろしい。恐ろしい。
分かんねぇ理由を、無理矢理に絞り出してみる。
最近は、毎日何かに対して自覚的に生きていれば時間の流れも早く感じないのではないか(=充実した時間を形成することにより、それぞれの瞬間を記録し続けていけるのではないか)、と思っていたのだけれども、どうやら逆のようである。ずっと無自覚に、要はバカみたいに何も考えずに生きている方が、月日の流れはゆったりとしているらしい。それはただボーっとして、月日の経過さえも気にしないような生活。「ああ、まだ6月か」といったような能天気な生活。そういう方が意外と月日の経過の早さを悟り難いものなのかもしれん。ただ、20年後30年後に大きな反動に教われるだろうけど。
主体が己にあるのではなくて己を取り巻く空間にある。時間に支配されている、時間に誤摩化されているんだ。自分は自分として生きていくというアホでも分かることに気付けば、主体は己に還る。そうすると月日の流れに抗しようする。しかし、究極のトコロ時間に対しては妥協せねばならぬ。すると抗していた時間は虚無化してしまう。主体が己にあると、徒に闘争の日々になり、流れた血はすぐに固まってしまうということか!?己を取り巻く空間とケンカする。アホはケンカなどせずに、飲み込まれるからゆったりとできる(ような気になっている)。それではこの2年間、私はアホだったということだろうか。


なんだかんだで、あと二週間。何がって?
大相撲名古屋場所。
三年半ぶりに東西に横綱が揃うんだぜぇ。楽しみだな。
豊響が新入幕。期待しても良いかい?
琴光喜がまた例の大関取りだって。誰か期待しているかい?
朝青龍・白鵬ともに14勝で臨む千秋楽が見てみたいじゃないか。毎年客入りが悪い名古屋だけど、そうなればちょっとは客が入るかもね。モンゴル人の争いじゃないか、なんて言わずに見に行けよ。琴光喜の相撲よりは盛り上がれるからさ。って、名古屋は琴光喜の地元じゃないか。それなら尚更見に行け。最後の大関への挑戦かもしれないんだから。これを逃せば、きっともう・・・・ねー

2007年06月24日

2007年06月24日 可哀相な子供たち

DQNネーム(子供の名前@あー勘違い・子供がカワイソ)

サイト名を見れば2ちゃんねる系のモノだということが分かるが、その内容はある意味で非常にショッキング。
何かというと、最近多い変な名前をいっぱい掲載しているというもの。
以下に私が気になったモノを列挙する。一言感想を付けてみました。
親の顔が見たい!
※こうした名前を持つヒトたちが、全員実在するかは判断しかねるトコロでございます。


亜菜瑠(あなる) 女 ー大声で呼べない名前…
メロディ愛 女 ー意味が分からん
愛子エンジェル 女 ー同上
主人公(ひーろー) 男 ーヒーロー君ですか。はぁ…
たかしくん 男 ー馬鹿か!たかしくん君
初夜(はつよ) 女 ーエロい!
究極美子(くみこ) 女 ー名前でハードル上げ過ぎ
爆走蛇亜(ばくそうじゃあ) 男 ー可哀相に
賢一郎 女 ーええっ!女の子で賢一郎!!
小次郎 女 ーコレも女の子なのに
恥子(さとこ) 女 ー字を間違えたのかね?
桃も(もも) 女 ー「も」はいらないだろう!
動画(てれび) 男 ーテレビ君
たまてば子 女 ー何が出てくるんだろう?
枕鈴(ぴろりん) 女 ーピロリンちゃん ちょっとカワイイ
吹奏楽(すいそうがく) 女 ーこの親は何を伝えたいんだろう
翁(おきな) 女 ー女なのに爺さん
嘉齊漣(かさいれん) 男 ー意味分からんし読めん
いちご姫 女 ーかわいいお名前で
聖麗武(せれぶ) 男 ー名前負けしそう
礼(ぺこ) 女 ーぺこりとお辞儀をしましょうね
叫(しゃうと) 男 ー静かにして欲しい名前ですね
楽々(るんるん) 女 ー楽しそうで結構ですね
温温(ぬくぬく) 女 ー温かそうで結構ですね
右大臣・左大臣 男 ー双子の兄弟だそうです 可哀相に
女神(びーなす)・天使 女/男 ーコチラはビーナスちゃんとてんし君の兄妹
舞(ふわり) 女 ーどこかに飛んで行きそうな名前
粋(ぴゅあ) 女 ー粋なのにピュアという錯覚
嵐(ひいろ) 男 ー嵐を呼ぶひいろ(ヒーロー)ってことかな?
卑弥呼(ひみこ) 女 ーなんでまた卑弥呼?
不動神(ふとし) 男 ー凄い当て字だな 神様なんだ
賢哉二世(けんやにせい) 男 ーハイハイ、お父さんの名前は賢哉なのね
凛愛夢(りあむ) 女 ーoasisファンの親?
月姫(かぐや) 女 ー上記のに比べると、この名前が普通に思えてくる奇怪さ


変な名前を集めているHPだから当然なんだけど、まだまだ山ほどおかしな名前が掲載されている。キリがないのでもう止めますね。興味があれば、上記のサイトを見て下さい。全部おかしな名前です。その膨大な量に感服します。


しかし、よくもまぁこんな名前を付けるよなぁと思わざるを得ない。世の中には変な親がいるもんだ。こうはなりたくないですね。

2007年06月23日

2007年06月23日 有名人になったK

昨日、珍しく母親から連絡があった。


ワタシ(以下「ワ」)「もしもし」
母「あー、もしもし、重大ニュースがあるけど!」


なんか分からんがテンション高めである。

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2007年06月20日

2007年06月20日 いつもとは違う水曜日

よし!今回は何か真面目なコトを書いてやろう!と思ったのですが、そろそろお昼ご飯を食べて外出しなければならない時間になったので、今日はやめにします。

2007年06月19日

2007年06月19日 全日本嫌煙家協会代表挨拶

まったく恐ろしいページを見つけてしまった。


タバコの有害物質:禁煙サポートサイト
という、何の捻りもないタイトルのサイトだが、ココに記されているデータは驚愕すべきモノである。
なんとタバコに含まれる発がん物質・有害物質の量は、ことごとく主流煙より副流煙の方が多いというではないか!しかも、圧倒的に。
これじゃあ、仮に、今、非喫煙者であったとして、しかし周囲には喫煙者ばかりであって、頻繁に副流煙を吸い込んでいるというのであれば、果たして喫煙した方がまだ良いということにもなりかねない。副流煙は猛毒である。
私などは喫煙しているヤツを見かければ、息を止めてソイツから10メートルは離れるようにして、副流煙を極力吸い込まないようにしているが、やはりそれは素晴らしい行為であったということが確認されたのである。

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2007年06月17日

2007年06月17日 さらばビデオ!

先日ヤフオクで福Tを落札した。笑点のテーマ曲の楽譜が描かれているオレンジのヤツ。
今日ソレを着てコンビニに行くと、頭の悪そうな中学生5人くらいのグループが、私を見て「笑点のテーマだ」「チャンチャカチャカチャカ、チャッチャ」などと冷やかす。私も自分がおかしなTシャツを着ていることは自覚済みであったから、冷やかし大いに結構、それでこそこんな変なTシャツを落札した意味がある、知人から見て見ぬフリをされるよりは他人からのリアクションがあった方が良い、具体的には私のそのTシャツを見て笑ってくれたら良い、と思っていたので、私自身も半笑いで中学生たちが騒ぐのを聞いていた。しかし、連中一向に大人しくならない。挙げ句の果てには、「さぁ、笑点何を取る」などと言い、私の買い物を実況し出す始末。
これはイカンと思い、「ちょっとうるさいですよ」と、大人の対応。ガキ共は「うるさいですよ、って意外と普通のヤツだ」などと適当なコトをぬかして、やがて静かになった。「意外と普通のヤツ」ってどういうコトだ!Tシャツが変だからって、中身まで変なヤツだと勝手に決めつけるなと思っていたら、今度はレジの中年男性が私のTシャツを見て、少し変なご様子。おいおいオッサン、お前まで俺を変人扱いか、と思いながら私は大人を気取って店を後にした。バカ中学生共もその頃には静かになっていた。
という、どうでも良い休日の出来事。オチの無い話。


さて二、三週間前に、ビデオデッキが壊れた。今更ビデオかよ、と思われるかもしれないが、そう今までビデオを使っていた古風な私なのである。
元来ビデオに番組を録画して見るとか、保存しておくというコトをしないのが私の正体だけれども、壊れたままに放置しておくのもなんだかイヤな気がしたので、先週某ネットショップで安いDVDレコーダーを発見し、注文した。鈍感にDVDの録画・再生にしか使えない安物のレコーダー。デジタル放送なんかというものとは無縁のしょうもないレコーダー。
ビデオデッキを壊れたまま放置しておくのがイヤだとかいいながら、もうビデオは見れない環境になってしまった。単純にビデオからDVDに乗り換えた格好になってしまった。幾つか持っているビデオテープはもうゴミ同然になってしまった。フフフ、時代の流れを感じるではないか。フフフフ、さらばビデオよ!


ということで、今日はそのDVDレコーダーが届いたのです。なんと20分で設置できました。今時の電化製品はまことに要領が良い。ビデオデッキの後ろに差し込まれている入力とか出力とか赤白黄のプラグを、DVDレコダーの同等の場所に差し替えるだけでセットができるとは。
その後、テスト録画などもしてみたけど、ま、どうってことない。普通のDVDだ。当たり前か。
この先、何も録画する予定は無いけど、今までPCで見ていたDVDをテレビで見られるようになったのは、ちょっとだけ良いことだ。さっき試しにFISHMANSの「男達の別れ 98.12.28@赤坂BLITZ」を見た。ま、どうってことない。従来見てきたのと同じライヴDVDだ。当たり前か。


ビデオデッキが壊れた時、さすがに修理に出そうとは思わなかった。何か照れのようなものがあって・・。修理に出すために電気屋へ持って行くと、店員に「まだビデオデッキに執着するのか!?」と思われたりするとイヤだから、今更こんなもの修理に出せねーよ、というビデオデッキなんか糞喰らえだ、って結論にしたいと思う。相済みません。

2007年06月16日

2007年06月16日 スイートチープ

その男は「Modern Speaks」という名のタブロイド紙を脇に抱え、朝焼け眩しい荒野を歩き続けている。
声をかけてくる浮浪者や老人の数は知れない。男はただ、約束の場所を目指して歩き続けるのであった。


一台のトラックが背後から男に近付いて来た。
ブラウンの口髭を生やした中年の運転手が、窓を開けて男に言う。
「荒野の朝は冷め切っているじゃないか。ハハーン、兄さん旅人だな。了解した。歩み続けるが良い。道が果てるまでな。」
運転手は二度パッパッとクラクションを鳴らしながら、遥か先の道へと消えた。
男は「朝は来るが、俺はまだ・・・」と呟いた。


丘が目前に迫って来たとき、木立の間から一人の浮浪者らしき初老の男が現れた。
その男は右手をヒドく色落ちしたジーンズのポケットに突っ込み、左手には鎌を携えていた。
「兄さん、そこにトカゲがいるぜ。ヘッヘ、毒を持っているトカゲだ。噛まれると死ぬぜ。ホラ、この鎌をやる。これでぶっち切れば良いさ」
男は浮浪者らしき男から鎌を受け取った。初老の男はそうしてニヤリと笑った後、男が今来た道へ向かってトボトボと歩みを進めた。
やがて男はその鎌を道端に投げ捨てた。


朝日が男の額に眩しく覆い被さってくるようになった。男は「スイートチープ」と呟いた。その時、ふとある夢を思い出した。
可愛らしい小さな赤いワンピースを身に纏った少女が男に抱きつく。身長5フィートにも満たないその少女は、男の左ポケットに湖とカモメが描かれた切手をそっと忍ばせて、姿を消した。それが男が唯一見た夢であった。
男は左ポケットに手を入れた。そこには古びた切手があった。男はそれをまた道端に投げ捨てた。


やがて前方に小さなバーが見えたとき、男は偏頭痛に襲われた。
バーからは野太い声が聞こえて来る。男はどこかで経験した痛みとどこかで聞いた声に対して、多少の親近感を覚えたが、それ以上は何も思わなかった。一瞬、子供の頃の初恋の記憶が蘇ったが、男はそれすらも道端に投げ捨てた。
男は再び「スイートチープ」と呟き、約束の場所へと向かい始めた。


太陽は雲に隠れ、男を照らすものは僅かばかりの希望のみであった。男は何も考えずに、自分の目的以外を道端に投げ捨てて、歩み続けていきたいと願った。

2007年06月14日

2007年06月14日 今年の「LEE30倍」について

LEE30倍昨日の予告通り「LEE30倍」の感想を。


※以下は私個人の感想です。普遍性はありませんので注意が必要です。


まず、肝心の辛さ。
昨年のものよりは辛くなっている。昨年のは「30倍」というほど辛くなかったけれども、今年のは一口目からピリリとした辛さが感じられる。これなら「30倍」でも良い。


次に味。
とは言っても、こればかりはどうしようもない。辛さを重視するあまり、味のレベルが落ちるのは仕方の無い事だと思っている。そういうことで、コッチは例年通り。肉もやはり美味くは無い。無難なトコロだ。
まー、でも辛さを考慮すれば、これだけの味を出せることの方が凄いのかもしれん。
ちなみに、私がLEEシリーズの中で一番美味しいと思うのは10倍。これは普通に美味しいビーフカレーになっている。大して辛くないのが残念だけど。


青い唐辛子。
コレが今年の目玉らしい。昨年は赤い唐辛子だった。
あのねー、「今年は青だ!!」なんて自信ありげに書いているけど、こうやって唐辛子を一個丸々入れるのは止めようよ。唐辛子なのに毎度全然辛くないし、大してインパクトも無いし、何よりも不味い。
もしかして昨年と唐辛子を入れ替えただけで、他の部分は何も変わっていないのだろうか?いや、しかし、今年の方が辛く感じたぞ・・・本当のところは!?


最近の「LEE30倍」では05年の「赤いLEE」が一番だなぁ。アレは見た目もインパクトがあったし。次いで今年のヤツ。昨年のはダメだ。
つーことで、何だかんだ言いながら今年もこの「LEE30倍」のお世話になるでしょう。このカレーは辛ければ良いんです。その点でいえば、今年のは十分「LEE30倍」を表現している。これで良し!ということにしようか。

2007年06月13日

2007年06月13日 甘いのと辛いのと

今日、バイト先のスーパーにロシアのプーチン大統領ソックリのオッサンが来たので驚いた!
まさかの白いポロシャツ姿でプーチンさんご登場。1分半〜2分くらい水ようかんを手に取って凝視していた。甘党ですかプーチンさん。支配体制は増々辛くなっていくのに、甘いものがお好きなんですね。
って、結局あのオッサンは水ようかんを買わなかったからな!安売りしてたヤツなんだから買えよ。ずーと見てたんだからさ。
糖尿病で甘いものを控えるように医者から注意されているオッサン、つい目に入ったようかんを無視できなかった。買っちゃいけない、買っちゃいけない、見るだけ見るだけ、という葛藤をしていたのだろう、とかそういうくだらんコトを考えながら時間を潰している毎日。妄想癖!嗚呼、我が妄想癖!既に長澤まさみとの間に二児を設けた妄想の世界!


帰りにコンビニでLEEの30倍(+10倍=40倍)カレーを買って来ました。コレが出ているということはもう夏ですね。大好きな商品です。まぁ、スーパーの棚には前々から山積みされていて、とっくに発売されていることは知っていたんですけどね。全然売れてませんが。私も今まで買わなかったくらいだから、ちょっと発売する時期が早かったのかもしれません。
明日感想をココに書いてみます。30倍カレーだけに辛口の評価をしてみたいと思います。ダジャレ癖!嗚呼、我がダジャレ癖!

2007年06月12日

2007年06月12日 自分への怒り

火曜日はいつも朝からお昼までバイト。
それにしても暑い。この暑さは必然か?
バイトの途中、急にムシャクシャしてきてどうしようもなくなった。暑いからじゃない。ふと思ったのだ。NHKの受信料どうにかならないか、と。自分への怒り。あんな偏向報道しかしないようなテレビ局になんでお金を払わなきゃならん。そもそもテレビ局なんかにお金を払う事自体がおかしい。それに私のように下宿している学生で、御丁寧にキッチリと払っているようなヤツなんてどれくらいいるのだろうか、と思うとちょっと情けないような気分にもなってきた。さっさとスポンサーつけろ!政治家の手下野郎どもが!と思うと、いてもたってもいられなくなった。
で、今、解約方法をネットで調べてみたのだけど・・・いくつか方法はありますね。このうちのどれかを選択すれば良いのですか。ハイハイちょっと検討してみますね。穏やかに計画を立てながら検討していきます。私は穏やかなんです。凄く優しい。高校生時代のあだ名が「仏様」でしたから。イヤ、本当に。
ということでね、くたばれ!NHK


私は四国出身で、地元を離れてもう5年目になる。
5年間別の地で暮らして、ようやく最近になって、今住んでいる街の良い所と悪い所が分かってきた、ような気がする。2年や3年じゃ、見えたようでも見えていないものが多くあるんだということを知れた。
最近は老後に田舎暮らしをしたい、という都会住まいのヒトが多いと聞く。中には週末だけ田舎に行って生活をしているヒトもいるんだとか。それで田舎の生活を体験したつもりであるというのなら、ソイツ等は救いようの無い馬鹿であると言っておきますね。そんなのは田舎への冷やかしのようなモノでしかない。月に7日や8日だけ田舎に住んで、後は今まで通りの都市生活。そんな生活をしていて、田舎暮らしの何が分かる。
或る土地での生活を理解するためには、数年間そこで暮らして、近所にはどういうヒトがいて、どういう環境で、どういう施設や問題点があるのかということを知らねばならぬ。月に7日や8日で、どれだけのことが知れますか。そんなものは知った気になっているだけで、肝心な部分は何一つとして見れていない事に気付いていないだけの阿呆である。“田舎生活もどき”を満喫した気になっているだけの盲目的自己満足者に過ぎない。
やはり一つの土地に3〜4年以上は住み続けないと、その地のことは理解できないだろう。1年や2年の間に理解できるのは、まず表面的なことだけ。


・・・ハナシが大幅に脱線したが、そう、私は地元を離れてもう5年目になるのだ。にも関わらず、近辺にある名所や観光地的な場所にほとんど行っていない事に気付いた。
幸いなことに、私がいる街から電車で1時間も行けば、遺跡や重要建築物が多く存在している歴史を感じさせてくれる土地がある。中には世界遺産もある。
そんな恵まれた地にいるのに、俺はなぜ引きこもりのようなコトをしてきたんだ!俺は馬鹿か!?自分への怒り。


そのようなコトを思ったので、今年の夏休みは名所観光に繰り出そうと思います。遺跡、お寺、意味不明な建築物。色々と見て来きます。名所観光をするのに絶好の位置に住んでいたということを忘却していた。非常に情けない。
出来れば写真なんかを撮って、このブログに掲載したいと思っています。まだ「思っている」だけで、実際に掲載するかどうかは分かりませんが、今のトコロはそういう予定です。ハイ、今日はこの辺でサヨウナラ。

2007年06月10日

2007年06月10日 女は画れり(孔子)

最近はどうも気が立っていかん。もっと穏やかに生きねばならぬ。常に感謝の心を忘れずに。
宅配業者のおじさん、今日も荷物を運んでくれてありがとう。NHKの集金のおじさん、今日も僕からお金を盗り上げてくれてありがとう。偶然か必然か知らねども、今このサイトを訪れたアナタ、ありがとう。お母さん、僕を産んでくれてありがとう。お父さん、僕を産む為にお母さんなんかと我慢してSEXしてくれたんだよね、ありがとう。僕よ、僕であってくれてありがとう。おやや、変な宗教みたいになってきたぞ。もうダメだ。明日死にます。
今、「早く死ねよ」と思ってくれたアナタ、ありがとう。万が一にも「死なないで」と思ってくれたアナタ、ありがとう。自分の気持ちに正直であって下さい。自分を信じられないヒトは、他人も信じることができないでしょう。軽卒に「死ぬ」なんて言ってゴメンナサイ。これでも私は今までに一度も「死にたい」と思ったことがありません。また、「絶対に生きなければ」と思ったこともありません。あるがまま、なすがままに、自然に任せて生きていくのです。そうありたいのです。明日死のうとも、それが自然の力というものです。明日超絶にブサイクな女と結婚せねばならなくとも、自然の力を受け入れるしかないんです。


閑話休題。
私は京都が好きだ。今までに4回くらいしか行っていないけど、大好きな街である。アジアで最も素晴らしい街だと思っている。
今までに東京や横浜や大阪や神戸や広島の街などを断片的に生で見て来たけど、どこも京都の足下にも及ばん。そりゃ東京や横浜や大阪は、世界的に見ても立派な街だが、如何せん風情がない。京都のように歴史と同居している感じがまったくない。ただ、欧米の都市を真似るように、それに合わせて開発されたような空間で、日本っぽさがほとんどない。
その点、京都はー京都駅周辺はそうでもないがー金閣寺の周辺や清水寺の周辺、嵐山の辺りに行くと、古いお寺やら舞妓さんやらがいて、まさに日本の伝統が息づいていると思わせる。日本で唯一、胸を張って外国に示すことのできる都市ではないだろうか。
来年、私は就職活動をせねばならぬような状況に否応無く置かれるが、できれば京都の会社に行きたいという微細な希望を抱いている。


たまに「首都機能移転」なんて言われるが、それならば京都に移転させなさいと思う。まぁー、でも京都は地形的な問題から、首都には向いていないような気がするなぁ。それに首都になっちゃえば、大量に人口が流入することになる。そうなれば、あの素敵な外観を壊されるような気がするので、やっぱり首都にしてはダメだ。日本で一番首都にしてはいけない街、京都。
東京をご覧なさい。人口増加に歯止めがかからない。それが首都の宿命か!? この先、首都直下型地震が起きれば、どれだけの犠牲者が出ることやら。まー、犠牲者数は良い。私などは東京に住んでいないから、ヒドく他人事のように考えてしまうが、もし大地震で首都機能が麻痺すればどうなるのだろうか?という不安はある。日本という国の機能そのものがパワーダウンすることになるのではないか?と思わずにはいられない。何でも彼でも東京に集め過ぎた害が出て来るようなことにならければ良いが。
こういうコトを考えると、アメリカという国の凄さを思わずにはいられない。首都はワシントンD.C.だが、実質的な中心都市はいうまでもなくニューヨークである。ニューヨークというのは地震の心配もないような街だから、テロの危機を除けば安泰な都市であるといえよう。仮に東京を中二の少年とするなら、ニューヨークは高三くらいなモノであろう。そしてアメリカには、ロサンゼルスやサンフランシスコやシカゴといった中二クラスの、東京級(もしくはそれに限りなく近いレベル)の街が二つ三つある。
ニューヨークが壊滅すれば、世界的な混乱を巻き起こすことは必然だろうが、それでもアメリカは死なない。他にいる中二たちが力を合わせれば危機を乗り切れる。じゃあ日本はどうだろう。札幌、仙台、横浜、名古屋、大阪、神戸、広島、福岡・・・おやおや中には小学生も混じっているぞ。これではちょっと心細いなぁ。
東京様々じゃあいかんよ。現時点では、私自身も他人事のようにしていられるが、もし東京が壊滅的な状況になれば、日本人全般の生活に被害を及ぼす。そうなれば、もはや他人事ではない。先輩(東京)を手助け出来る後輩(他の都市)を作らねばならん。そして日本の場合、先輩だけが奮闘しても上級生(ニューヨーク)には勝てんだろうし。


そうやって見れば、日本というのは実にあっさりしている国だ。敵国からすれば、東京さえ潰せば良いのだから。中国やロシアのミサイル及び核は徹底して東京に照準を合わせていることだろう。しかも、その東京の一極集中が更に進みつつあるというのだから、周辺敵国からすれば、こんなに狙いやすい国は無い。


東京に出て行く人々よ、注意せよ。
「東京に行けば何かある」と思って出て行ったヤツの99%には何も起こらない。起こるとすれば犯罪に巻き込まれるか悲劇との遭遇くらいのもんだ。
「東京で何かしてやろう!」という気概を持って行かねばならぬ。東京に行けば夢が手に入るのではない。自分の夢を叶える手段を東京で手に入れるのだ。夢の無い奴が東京に言っても、結局何も得られんよ。得られるとすれば、地震による被害かテロによる犠牲くらいなもんさ。


私は悲観論者である。

2007年06月08日

2007年06月08日 嗤う気狂い

このサイトを定期的に見ているヒトがどの位いるのかは分からんが、たまにアクセス解析を見ると、毎日同程度のアクセス数があるから、おそらくはリピーター的なヒトが何人かはいるのであろう。ブラウザやOSもそれぞれ異なっているようだから、複数のヒトがいると思われる。


しかし自分で言うのも何だけど、このサイトから、このブログから、得られるものなんてあるのかしらん?
「コイツ、本当に馬鹿だなー」と思う何人かのヒトが、シニカルな態度で定期的に見ているのかもね。
それならそれでも良いけど。
じゃあ、今日は思い切って、誰もが「コイツ馬鹿だな 気が狂ったのか 死ねよ」と思うようなコトを書いてみよう!

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2007年06月07日

2007年06月07日 アーケードとネットショップの時代

しかし、まぁ、毎度毎度この時期から暑くならなきゃいけないもんかねぇ。季節というのは何のヒネリもない。
「おいおい!7月なのに最高気温が15度かよ!」みたいな意外性を持ってこい。毎年決まり切ったように「今日の最高気温は32度です。紫外線がかなり強くなります。熱中症対策を万全にして外出しましょう」だとか「今日は各地で34度を上回ります。暑さ対策を心掛けて下さい」だとか、実にくだらん。私ならこう言う。「今日もまた33度まで上がります。毎日毎日、本当にもう呆れますね」これで十分である。紫外線予防や熱中症対策はヒトに言われる前にやるのが当然で、それを怠って倒れたなどというのは、ただのアホである。そして暑さ対策はできん。気温には逆らえん。ずっと冷房が効いた部屋に引き籠るくらいか?

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2007年06月05日

2007年06月05日 ズボラへの道

「流行色(流行カラー)」の意味が分からん。誰が決めるんだ。誰が気にするんだ。
「今年の流行色は緑ですよ」と言われて、あっ、じゃあ緑のシャツを一枚、とはならんだろう。
そんな感じなら街中緑だらけになるぞ。全国緑化運動か。環境保護か。


私はオシャレという言葉の対義語である(と思っている)“ズボラ”を地で行くような、ホントにどうしようもないヤツだと自己認識する時もあるのだけど、意外と私のようなタイプが、いや私のようにズボラなヤツこそが、流行色という誘い文句に騙されるのかもしれん。
なぜオシャレをするのか、というと、自分をよく見せたいから、自分を輝かせたいから、などそんな感じの意識が少なからずあることだろう。他人があっての自分。他ありきの自。自分だけならオシャレをする必要などは無い。その時点で自分が唯一の“オシャレさん”だ。比較対象があってこそ、オシャレか否かの判別が可能になる。
結局、他人を意識するから、色んなコトに気を遣う。それがオシャレへの道。
それゆえ、それなら流行色なんて気にしてたら意味が無いじゃないか!となる。
流行色に身を包んでいる時点で、自分と他人の区別が曖昧になる。あのヒトも黄色、このヒトも黄色、俺も黄色、じゃダメだろう。あのヒトも黄色、このヒトも黄色、俺は青。これがオシャレってもんだろ。


「オシャレ」という言葉を「個性」という言葉に置き換え可能かは一概に判断し辛いが、自分を巧みに表現するという意味では、それへの置き換えも可能であると思う。
そして私のようにズボラなヤツは、ファッション的な面での自己表現がヘタクソだから、ついつい流行色という甘言に釣られる。「そうか!今年はオレンジを着ていれば良いのか!」などと考えて、オレンジのTシャツを着るだけで、ちょっとオシャレの仲間入りをしたような気になる。
もう落とし穴にハマってまっせー。そうなればもうファッション的なトコロでの個性などは何も無い。


流行色を巧く着こなす、なんてコトを言うのは、半オシャレ(半分オシャレ=中途半端にオシャレの意 自称オシャレの大半が、実は依然として自身が半オシャレに過ぎないというコトに無自覚である)の戯言。“本物のオシャレ”ではない。そもそも本物のオシャレは流行色など眼中に無し、さ。
街に出てみろ。気が狂ったように妙な服装をしているヤツがここぞとばかりに闊歩しているだろう!彼らは、アイツになってはいけない、アイツと同じじゃいけない、アイツの真似ではいけない、アイツを理想にしてはいけない、俺のスタイル、俺の着こなし、俺の雰囲気、を意識しまくっている。盲目的な程に。あれぞ本物のオシャレよ。(って、何も奇抜なファッションを奨励しているワケではない。大事なのは、アレになってはいけない、アレと同じじゃいけない、アレの真似ではいけない、アレを理想にしてはいけない、という意志の所持)


・・・じゃあ、私はやっぱり“ファッションに関しては”(←ココ重要)ズボラで良いや。そっちに向かいたい。本物のオシャレには行けそうもない。
ズボラも貫き通せば立派な個性になると思い続けて。

2007年06月04日

2007年06月04日 愛と勇気だけじゃダメなのさ

「愛と勇気だけがともだちさ ああ アンパンマン やさしい 君はー」
この歌を聞き或るヒトは言う。アンパンマンって孤独だねぇ。友達が愛と勇気だけって(笑)


とんでもない!
私は22年間生きてきたが、未だに愛と勇気と仲良くなる術を知らない。偶然、同級生には愛さんと勇気くんがいて、勇気くんとは小学校の頃から親しかったが、愛さんとは何の面識も無いという状態だった。
というように、実在した愛と勇気でも、その片一方としか仲良くなれなかった私からすれば、非実在的な、観念的な、不可視的な、理性的存在の、愛と勇気の両方と、ホントに仲良くなってしまうアンパンマンは超人としか思えないってもんよ。


しかし、忘れてはならないことは、愛と勇気と超親しいアンパンマンがどんなに奮闘しても、悪者のばいきんまんが一向に悪さを止めないという現実である。これは愛と勇気だけじゃ世界はいつまで経っても平和にならないってことを暗示している。つまりアンチ"Love & Peace"みたいなモンだ。
まー、こういう具合で、実はアンパンマンってモノ凄く悲観的な視点を我々に提供しているんだってことを、是非とも記憶の隅に留めておいて欲しいなー。


じゃあ、おやすみなさい。

2007年06月01日

2007年06月01日 心は腐ったタケノコ色

最近肌荒れがヒドくて困る。敏感肌。冬場は乾燥肌。
なんだコレ、思春期の中学生みたいに吹き出物ができてイヤになる。ニキビじゃない分、良いと思うべきか。そういえば現在50代くらいのヒトは、中学〜高校生時代にはニキビがモノ凄くできたとかできなかったとか。ヒトにもよるのだろうけど。最近はニキビ面の中学生なんてほとんど見ないなぁ。私もほとんどできなかった。なぜだろうか。栄養不足かねぇ?
それにしても肌よ、ヒゲを剃ってもカミソリ負けが多い。肌よ、お前は負けっ放しで良いのか。肌よ、いったい何になら勝てるんだ。「肌死ね!」とよく言ってしまう。髪の毛が伸びて来ると「髪の毛死ね!」とも言う。「○○死ねよ」という最低な口癖がある。「暑い!気温死ね!」とか「ホコリ死ね!」とか意味の分からないコトを言う。ただ、やはり髪の毛だけは死んで欲しく無い。咄嗟に「髪の毛死ね!」というのは軽率だ。髪の毛が死ねば、今度は「禿げ死ね!」と自己否定に走る。


世の中には「正義の味方」を扱った作品に比して、なぜか「悪の味方」を扱った作品が少ない。映画、小説、ドラマ、マンガ・・・やっぱり「正義の味方」なのか。
もし、仮に、万が一、百歩譲って、奇跡的に、私が映画を作製できるのならば、徹底的に「悪の味方」を描いた作品を作ってやる。どうしようもなく行動力抜群の父親と頭脳明晰の次男、引きこもりの長男、キッチンドランカーの母親、寝たきりの祖父。世間の「正義」をこれでもかという程に懲らしめる家族の物語。しかし、同時に起こる家族内紛争。次第に亀裂が生じて来る家族間における「悪の味方」観。真の「悪の味方」を目指して、夫々の人物が己に忠実に“反社会的行為”(=正義=「悪の味方」)を目指す。
警察も自衛隊も軍隊もブッシュも金正日もプーチンも胡錦濤も安倍も政治家もボランティア団体も市民団体も人権派弁護士も殺人犯も誘拐犯も神父もアイドルもスターもみんな死ぬ。「悪」とは。「正義」とは。何に味方するのか。「悪」と「正義」を問い直し、そのどっちも拒絶させるような映画。根底は「悪の味方」なのだが。


嗚呼、今日もアホな事を書いてしまった。ゴメンよ、お母さん。

2007年05月29日

2007年05月29日 告白

ボクの秘密壱。
常に除菌用のウェットティッシュを持ち歩いている。
持っているとこの上なく安心する。ばい菌には負けんぞ!って思うとドキドキしたワクワクしたりする。血が騒ぐというヤツじゃ。
ウェットティッシュでも「ノンアルコール」などと書いてあるようなのはどうしようもない。ソレは本当に濡れただけのティッシュ、「ウェットティッシュ」に過ぎない。私のは「アルコール 除菌」と書いてある「ウェットティッシュ」。
こういうトコロで大人買いしている。


ワシの秘密弐。
うどんを見ると、目一杯七味唐辛子をぶっかけたくなる。表面が真っ赤になるくらいかけたくなる。っていうか、かける。うどんの味などどーでもいー。元々うどんはあまり好きじゃない。七味唐辛子漬けになったうどんが大好きなだけ。例外的にきつねうどんだけは、何も無くても好き。
ワシの秘密弐の補足。
七味唐辛子だけじゃない。一味唐辛子でもタバスコでも、とりあえず香辛料的なモノがあって、ソレをかけるものがあれば、大量にかけたくなる。ピザへのタバスコ、ラーメンへのコショウ、ホットドッグへのマスタード、そばつゆへのわさび、おでんへのからし。あれば大量に用いる。無ければ無いで良い。“大量の”香辛料大好き。体に悪い。後先考えずにぶっかけるんだから、頭も悪い。ただし唐辛子の丸かじりだけは出来ない。


拙者の秘密参。
中三の時、図書室のガラスを割ったのはボクです。廊下にいた不良の二年生たちにこっそり罪をなすりつけました。彼らとは面識が無かったから「イイや」と思って・・・ソコにいたのが不良生徒だから、集まってきた先生たちみんなもソイツらが割ったと決めつけていた。思い返せば悪い先生たちだ。(自分のことは棚に上げて)
ボクが中から割りました。外の廊下には思いっきり破片が落ちてたよ。ちょっと考えれば分かるんだけどね、中からガラスを割れば破片は外に落ちるんだよ。逆に外から割れば中に落ちる。手前から割れば破片は向こう側に落ちる、と言った方が分かり易いかな?そんなことに誰も気付かなかったのを良い事に、ボクは知らんぷり。ボクは廊下に(外に)落ちている破片を見て、もう逃げ道がないと思ったけど、なんとなんと誤摩化せたんですね。
図書室の中には、非常に良い加減なことで評判な英語のI先生がいまして、ボクがガラスを割った時、I先生はテラスへ出る扉を必死で修理していました。ボクはI先生に「先生、ガラスが割れました」と言ったんですが、先生は「そんなこと良いから、あそこにあるドライバー持ってこい」と言いました。I先生が無頓着なのを好機と思い、全責任を不良たちになすりつけたんです。ゴメンナサイ。
私が図書室から逃げようとした時、外は野次馬だらけで大変騒がしくなっておりました。I先生はそれでも必死にテラスに通ずる扉を修理していたのですが、ボソっと一言。「(図書室の)中にいたヤツは無関係だと言っておくから」。これは私を弁護するためのモノではありません。I先生はガラスが割れた状況すら気にしていなかったので、心の底から私は無関係だと思っていたのです。そうです、私は不良生徒の他にI先生も騙したのです。改めてゴメンナサイ。

2007年05月28日

2007年05月28日 別の世界への気配り

松岡大臣が自殺したり、ZARDのヒトが転落死したり、驚くようなニュースが続けて入ってきた日だった。
驚くといえば、昨日の全日空システム障害も、ちょっとした驚き。
あのニュースを見て思ったこと。
いかにコンピューターに依存しているかということ。それがトラブルを起こせば、本当にどうしようもなくなるということ。私はちょっと情けないような気分になった。これは停電の時と同じ。電気が途絶えて気付く電気の便利さとそれへの依存度。停電になって全ての電化製品が使えなくなると、本当にいかにそれに頼って生活しているかということに気付く。
そうであるから、停電になったことに対して文句を言うと、後々になって情けないような気分になる。電気に生かされていることを自覚させられるから。電気が無ければお前は死ぬだろう、というような脅迫を眼前に突きつけられたような感じを覚えるから。だから文句を言うのは筋違いのような気がしている。普段から停電になっても、余裕で過ごせるような態勢を構築しておかねばならぬ。電気が無ければ何もできぬ、というのでは、ややみっともないではないか。
電気に頼り切って、それが途絶えると文句を言うのは、電気のある世界に浸り切って、その外の世界が見えなくなっているといった感じだろうか。
別の世界への気配りを忘れないようにありたいと願う次第である。

2007年05月24日

2007年05月24日 十年越しの膝蹴り!?

祝・白鵬横綱昇進!
と言っても良い気がするなぁ。千代大海凄いじゃないか。いや、朝青龍が不甲斐ないだけか?どうしたんだろうなぁ。もうピークが過ぎちゃったのだろうか。それとも、もう一人横綱を作って盛り上げる為の八百(以下自粛)


牛乳が旨い。最近はコンビニやスーパーで飲み物を買うときも牛乳ばかり買っている。今までは何気なくビールなんか買っちゃってたけど、もう牛乳だもんねー。ビールより安くてカルシウム多いもんねー。赤ちゃんみたいにガブガブ飲むもんねー。おっぱいが恋しくなってきたもんねー。


サラダが旨い。この頃コンビニでよくサラダを買う。サラダを食べながら、思い切ってヴェジタリアンになってやろうかと思うけど、そうすれば牛乳も飲めなくなるし、卵とかもアウトだから、ちょっと無理かなと思い、即座にヴェジタリアンへの意志は忘れる。灰野敬二さんはヴェジタリアンらしいけど、風貌はあんなに怖いのに、食べるものは野菜だけだと思うと、更に怖くなる。wikipediaによると嫌煙家でタバコも吸わないらしい。思いっきり吸ってそうだけど。灰野さんは、煙に巻かれるイメージ。煙に包まれたような感じがあるのに。
ヒトは見かけによらない。
私が小学生のとき、同じクラスにモノ凄いガリガリな体格のクセに肉が大好きなヤツがいた。ソイツは給食の時、肉が一番多く盛られている皿を意識的に取っていた。あまりに肉好き過ぎて腹が立ったから、肉がもの凄く盛られていない皿をわざとソイツの机の上に置いてやったら、無表情で私が置いた肉の少ない皿を隣のヤツの机に置いて、自分の机の上には肉が沢山盛られた皿を嬉しそうに置いた。私を始めとして何人かのヤツがそのムカツク光景を見ていたようで、肉好きの彼はその後、暴力的なSから容赦のない膝蹴りを喰らっていた。Sが膝蹴りをした理由はよく分かるし、あれはせねばならなかった膝蹴りである。私もしてやりたかったが、実はSの膝蹴りは相当強烈で、それを喰らった肉好きのヤツが悶絶しそうなくらい痛がっていたから、それを見て、なんかもうイイやと思った。
その肉好きのヤツは、腕も足も細くて、胸板も薄っぺらいクセに、腹の周りだけは異様に肉がついていて怖かった。モチロン、肉ばかり食っているせいで、脂肪のバランスが崩れたのだ。そういうことにしている。じゃないと説明がつかん。だって、見た目は相当ガリガリなのに腹回りだけジャイアンみたいなのって、ちょっと普通のヒトじゃないだろう。
彼のことを思い出したら、改めて膝蹴りをしたくなった。

2007年05月23日

2007年05月23日 貫き通す哲学?

暑くて嫌になる。もう何か色々死ねよ、と思わず言いそうになる。っていうか、多分無意識のうちに何度か言ってる。


しかし、学校に行くと、当たり前だけど、そこには色々な学問を専攻している先生がいる。
先生たちを見ていると、学問はヒトを作るというのは、ある意味で正解だと思う。ハッキリとは言えないけど、自らが専攻する分野によって人格がかなり決定されてくるような感じ。
とりわけ妙な先生が多いのは、何といっても哲学をやっているヒトだ。
哲学を教えているような教授の特徴を大雑把にいうと、こうだ。
彼らはほとんどが軟弱な体格。筋骨隆々でスポーツ刈り、見た目が強そうな哲学専攻者などはいない。実に頼りなさそうな体格で、目つきも虚ろ。睨まれても何も怖く無い。というか、ヒトを睨むような顔つきではない。
髪型もスッキリとはしておらず、無造作に中途半端に伸びていたり、無理にセットしていたりで、お洒落という感じではない。喋り方もハキハキとはしておらず、何を言っているのか聞き取れないこともあるような感じで、突然どーでも良い話をし始めたりする。だが、喋るときは常に冷静で、感情を前面に出したりはしない。口論をする時でも、相手の言うことを最後までよく聞いてから、ゆっくりと反論していくような感じのヒトたちだ。
所謂体育会系の連中とは正反対にいるヒトたちであり、捉え所のないオジさんたちが多い。
おそらく、哲学を専攻して、教授にまでなってしまったようなヒトは、他人を気にしたりはしないのだろう。だって哲学なんて難解な言語を駆使して論文を書くような分野で、毎日やれ実存主義だのやれ構造主義だのやれポスト・モダンだのやれルサンチマンだのというものと格闘しているワケで、そうした難解で特殊な分野であるが故に、どこかに優越意識のようなモノが生まれているのかもしれない。俺はニーチェが分かる、俺にはハイデッガーの欠点が分かる、俺はフーコーのココから影響を受け、評価をしている、などという思いが、他者との差別化に繋がる。凡人と才人のような感覚。すると凡人にどう見られようが、そんなモノは意に介さない、となる。凡人のオレを見る目など、何の価値もないというコトになり、彼らは非常に特殊な存在になっていく。それが外見にも出てくるのではないか。ニーチェだって他人を見下していたなんていうしね。


哲学をやっている教授たちは、憎らしいほどマイペースな感じを受ける。
彼らと他者との間には異なる時間が流れているような雰囲気でさえある。
ただ、そういう雰囲気は悪く無いかな、とも思う。
例えば、他人をカッコ良いと思うのは良い。誰にでもあることだろう。でも、ソレを真似してしまったら、その時点で自分はカッコ悪くなる。そういうことに自覚的な感じが嫌いにはなれない。
これはあくまでも私の主観だけど。
哲学をやっているだけあって、その生き方にも独特の哲学がありそうな感じを、時に受ける。それがやたらと愉快であったりする。でも、だからといって、哲学をやっている教授のようになりたいとは思わないけれども。


暑いから、またどーでもいーことを書いてしまった。
追伸 今日の白鵬の相撲は悪く無かったよ。もう横綱になっても良いね。優勝しそうだし。昨日、朝青龍が負けた段階で、かなり現実的になったと思う。もしかすると全勝優勝とか・・・まさか!?

2007年05月22日

2007年05月22日 大いなる倒錯と矛盾に満ちた百回目

このブログの「ほんのささいなこと」のカテゴリーが、今回で100個目となる。つまりコレが100回目の「ほんのささいなこと」である。100回を記念して、超どーでもいー「ほんのささいなこと」を書く。


私は、何を隠そう「人間味溢れる」とか「人間臭い」とかいう言葉をヘドが出る程心の奥底から嫌悪している。
情熱とか泥臭いとか熱いとかいうのも大嫌いである。
好きなのは淡白だとか平坦だとか無機質だとか無意味だとか・・・

そうであるから、出来るだけ淡白な性格を志し、心は平坦に感情は無機質に、人生の本分は無意味であろうと心掛けている。決して情熱的であってはならない。何はともあれ泥臭くてはいけない。
そうした志向を持てば、あまり詳しくは知らないのだが、例えばサルトルの「実存主義」のような思想とはどこかで食い違う気もしている。
自らの存在に偏重してはならぬのである。己の<生>に無関心でありたいとも願う。それは私にとって究極の理想である。坐禅などでいう「無」とはまた違うのだけど、どこかでそれに似た矜持的なものを欲しているようにも感ずる。


さて、だが、ここで問題が生じる。
冒頭にも記したように、私は「人間味溢れる」とか「人間臭い」というものを魂の深淵から嫌悪しており、そこから意識的に離脱したいと思っている。が、そもそも如何なる状態を「人間味溢れる」とか「人間臭い」というのか。
普遍的な定義などはない。
感情を出す事も「人間味溢れる」行為であるし、無理して感情を押し殺そうとする様子もまた「人間臭い」姿であるといえよう。


そして、ここで妙な矛盾点に行き当たる。所謂「人間的」なものから意識的に離れようとする行為、それこそが最も「人間的」行為ではないかということだ。要するに、犬が意識的に「もう犬なんて嫌だ。これから俺は猫として生きる」などと思うようなことはないわけで、意識的にあるものからの脱却を計ろうとするのは、古今東西、人間だけである。というワケだから、私の意志する「人間的」なものからの解放という理想自体が、どう考えても「人間的」な行為に他ならないということになり、すなわち人間が「人間的」であることから逃避しようということなど、そもそも不可能なのだ。


そこで思い当たる一つの結論。
「人間味溢れる」とか「人間臭い」とか淡白だとか平坦だとか無機質だとか無意味だとか、そうした一切のものを超越する方法が、それでも一つだけあるように思う。
それは、ありのままに生きる、ということ。
つまり、余計なことは考えないような暮らしを志すこと。
本能に忠実であれ。
人間は、他の動物的な本能が崩壊していくから、成長段階で理性というものを身につけるとも考えられる。
もう一度、己の本能へ深化せよ。
そこには一切の「人間的」なものもなければ、淡白だとか平坦だとか無機質だとか無意味というものもない。
ただ<生>があるだけではなかろうか。


じゃあ、<生>とは何ぞや。
・・・おっと、これ以上考えてはいけない。考え過ぎることは、つまり「人間的」であることを意味する。究極の理想は考えずに生活することである。
山ごもりでもしないと無理か?
少なくとも今の人間関係を維持しようと思えば、無理だろう。
人間は最終的には一人である、という前提がなければいけない。
現代社会でこうしたことを追求しようとすることは、よっぽど不可能なことであろうか。


・・・これ以上考えてはいけない。考えるなとも考えるな。今日はあまり好きではない「人間」という言葉を多用してしまった。気狂いみたいになってきた。

2007年05月19日

2007年05月19日 22年分の情けなさ

2007年5月19日土曜日。私は今日という日を忘れはしないだろう。いや、日付は忘れるかもしれないが、今日の出来事は永久に忘れることがないと誓える。


いきなり仰々しい書き出しで申し訳ないが、これからはもっと申し訳ないこと、というか下品なことをいう。
なんでこんなことをいう必要があるのか、と思われるかもしれないが、それはブログという匿名性ゆえにである。匿名じゃなければ、こんなこといわない。


今日、お昼寝をしていたんだけど、私、初めて夢精しちゃった。今年の1月で22歳になりました。22年間生きてきて、初めての経験。
夢精をする時には変な夢を見るというけど、それは本当だな。ん?そういう夢を見るから「夢精」というのか?まー、その辺りのことは正直どーでもいー。


私が見た夢。
私は駐輪場のような所にいた。すると隣にバイクに乗った若くて綺麗な子連れの女性が現れた。若妻ということか。その女性はヘルメットを脱いだ後、ハンドルの所にそれを掛けて、子供と一緒に立ち去って行った。
この後、突然時間が飛ぶ。
気付けば私はなぜかそのヘルメットに顔を埋めていた。臭いを嗅いでいるというわけではない。ただ顔を入れているだけである。そうするうちに突然眠くなってきた。「ヤバイ、眠い。こんな格好で寝るわけにはいかない」と思っていたら、徐々に意識が遠くなってきて、チョロっと。


最初、私は寝小便をしたと思った。まさかアッチのモノが出るとは、夢ながらにして夢にも思わなかった。
夢の中でも、眠っていきかけた時に下から何かが出るのに気付いて、「うわー!小便出ちゃった!」と相当焦りながら、一気にヘルメットから顔を上げた。
それが夢の最後で、気付けば夢じゃない真の私も飛び起きていた。目覚めてからすぐ、「おいおい、22歳でおねしょしちゃったよ!情けねえええええ!!」と思った。本当に、すぐにそう思った。でも、思った程布団が濡れていない。あれれ〜と思い、パンツを触ったら・・・ヌルッと・・・すぐに事態把握。初体験なのに、すぐに自分がしてしまったことを理解出来た。
ここで問題なのは、おねしょと夢精のどちらが情けないかだ。それをパンツを履き替えながら考えていたら、自分がこれ以上無い程に惨めに思えてきた。
今年一番のショックである。


夢精の存在を知ったのは、小学五年生の時。担任の先生が、自らの経験を語ってくれた。始めての性教育。笑いながら聞いていた。
その後、友人が実際に経験したことや、友人の父親が、情けない事にいい年して夢精し、こっそりとパンツを洗っていたのを見た、という話をこれまた笑いながら聞いていた。
まさか自分が経験することになるとは思わないからねぇ。明日は我が身とはこのことだ。
今まで経験していなかったことだけに、余計に情けない。22歳という年齢が、必要以上にそう思わせる。


それにしてもなんちゅう夢じゃ。
フロイトからいわせれば、夢とはその者の願望の充足であるとか何とかいうけど、じゃあ私の場合、ストレートにいけば、内心では女性のヘルメットの臭いや髪の毛の匂いや汗の臭いを欲しているということか!?変態じゃないか!?誰にでもそういう隠された変態性みたいなものがあるのだろうか。嗚呼、恐ろしや恐ろしや。


いや、本当にね、こんなことは匿名性という利点のあるブログだから堂々と書けるし、ちょっとしたネタになって良いけど、誰かに面と向かっては話し辛いことですよぉ〜。中学生とかならまだ良いが、なんたってもう22歳、二十歳超えての夢精はキツい。
怖いのは、一度経験してしまったことで癖にならないかということ。身体が変な癖を覚えてしまわないように願うばかり。
別に“溜まっていた”ワケじゃないんだよなー。それだけに非常に今後が怖い。昼寝大好きだったのに、迂闊に出来なくなってしまったじゃないか。
ストレスなどが原因ですることもあるというから、無意識のうちにストレスが溜まっていたのかもしれん。今までは情けない夢精防止の為に、アッチの方は溜めないようにしていたんだけど、ストレスが溜まっていたのかなぁ。でも、夢精したら更にストレスが溜まるぞ。それは今回の件で明らかだ。精子出してストレス出さずだよ、コレじゃあ。
今まで一度も夢精したことのないのが、唯一の取り柄だったのに・・・
22年分の情けなさが一気に出たような気がする。私は今、精神的洞穴に己を閉じ込めたい。嗚呼。

2007年05月15日

2007年05月15日 夏前に

今日、コンビニで。
飲み物を持ってレジに行ったら、色白で神経質で軟弱そうな、二流ホストみたいな髪型、スーツ姿の男が、財布を覗き込んで長い間小銭をいじくり回していた。私は後ろでイライラして待っていたけど、ソイツが数枚の小銭を店員に渡した後、思わずヘッと笑ってしまった。店員が「200円丁度お預かりします」と言ったから。
いい年した男が、カッコつけた髪型の男が、ホストみたいな容貌でナルシストっぽい男が、200円程度の金額を、小銭を集めに集めて出す必要があるか?店員も小銭の合計を確認するのにちょっと手間取っていたじゃないか。
いくら外見でカッコつけていても、ああいう行為一つで器が知れる。そりゃ財布に小銭がいっぱいあれば、使おうと思う気持ちも分かるが、ちょっと時間がかかりすぎだ。財布の中にテレビでもあって、それを見ているのかと思うくらい必死に財布を覗き込んでいたものだから、何か見ているコッチが情けない気持ちになってきたわ。その男のせいでニヤニヤしてしまったもんだから、お金を払う時、今度は逆に私が店員から変な目で見られてしまったじゃないか。あの店員は「変な客が続くなぁ」と思ったかもしれん。スマン。全ての原因はオレの前の器の小さい偽ホストだ。
私なんか会計がピッタリ300円だったから、すぐに財布から百円玉を三枚取り出してやったもんねぇー。ヘヘーン、私の方がよっぽどスマートだぜー。


今、「松坂が完投勝利!」というニュースを見た。
松坂で思い出したけど、数週間前の朝、出掛ける前にテレビをつけたらメジャー中継をやっていた。松坂が先発する試合。その時の松坂はまだ1勝1敗くらいの成績だったけど、解説者は「相手投手からすれば、今日の相手が松坂ですから、負けて当然という気持ちで来るでしょう」などとほざいていたのを聞いて、テレビを殴り捨てようかと思った。最悪な朝。
確かに松坂は破格の金額が話題になったけど、あくまでも向こうでは実績の無い新人。しかも開幕したばっかりでまだ凄い結果を出しているワケでは無い。それなのに対戦相手の投手が「負けて当然」などと思うワケがないだろうがこの馬鹿。しかもメジャーでの実績では、その対戦相手の投手の方が上だ。そういう場合、「話題のマツ-ザカが相手か。ここで俺が良いピッチングをすれば・・・」と思うのが、プロフェッショナルじゃないのか。
メジャーでの実績に乏しい新人相手に、話合前から「負けて当然」などと思うヤツがいるとすれば、そんなヤツはやがて消えていく。競争に残れない。
その解説者だけのハナシではないが、何故日本のメディアは、ああまでして松坂有利に考えたがるのだろう(勝てば「さすが松坂!」、負ければ「次に向けての収穫あり!」で超ポジティブ。世相を嘲笑うかのように白々しい陽気)。そういえばW杯を目前にした一年前の今頃も、一次リーグ突破を前提にしたような報道が幾らかあったなぁ。
日本のメディア(特にスポーツ関連)は何でも楽観的、希望的観測で物事を語ろうとする。で、往々にして結果が出ないんだ。そうすると今度は「残念。でもよく頑張りました。お疲れさまでしたー」となる。これじゃあ国民の側からプロフェッショナル精神を高めようとする機運も起こらないわけだ。ということを、以前にも書いたけど、やっぱりその体質は今でも変わってないなー。
選手を労るのは大切だが、時として厳しい視点も必要。アメとムチ。欧米のメディアは、そういう点では優れていると思わされる。
マスメディアに浸食するリアリズムの欠如。本来無効であるべき憲法が、今に至るまで改正されずに残されて来た原因の一つには、こうした問題もあるのではないか。と、どこぞの人々が好きそうな締め方で終わり。

2007年05月14日

2007年05月14日 生まれてはじめての「おめでとう」

「お誕生日おめでとう」と言われても困る。誕生日の何が「おめでとう」なんだ。「今日は僕の誕生日です。今日で22歳になりました」と言って、「おめでとう!」と返されても・・・。それは今までの22年間無事に生きて来られて「おめでとう」というコトなのだろうか。それなら、まだ少しは分かる。でも、それ以外に何が「おめでとう」なのかは分からない。22歳そのものがおめでたいワケでもないから、「おめでとう」を言うのならば節目になる年が良い。10歳、20歳、30歳・・・50歳、100歳と。それは十分「おめでとう」だ。でも、22歳とか28歳とか42歳のどこに「おめでとう」の意味があるのかが分からない。中途半端は良く無い。しかも42歳なんて厄年だからな。「今日は私の誕生日です。今日で42歳になりました」と言えば、「ああ、そうですか。厄年じゃないですか。可哀想に。まぁ、頑張って一年過ごして下さい」くらいなもんだ。
一般的には、誕生日、自分が生まれて来た日、我が人生が始まった日、それをおめでたいというのだろう。でも、自分が生まれたことを、自分で「おめでたい」と思うヒトはまずいないだろうから、他人から「おめでとう」と言われることは、「ああ、そうか。俺の人生の始まりの日を、つまり俺の存在の根本を、こうやって決まり文句的にではあるが、おめでたいと声をかけてくれるヒトがいるのか」と思うくらいなわけで、畢竟、「お誕生日おめでとう」は自分自身にとっての慰めの言葉くらいにしか思えないのだ。それならばいっそのこと「誕生日ですか。今日で22歳ですか。まだそんなモンですか」とでも言われた方が、逆にスッキリして、活力が湧きそうなもんである。
最後に。例えば45歳になる男盛りのオッサンに「今日は課長の誕生日ですか!今日で45歳ですか!!それはおめでとうございまぁーす!!!」などと言うのは少し変で気持ち悪いから、やっぱり「45歳になられたんですね。45年の積み重ねが顔に出ていますよ。ご立派な人生ですね」くらいにしておくべきだと思う。45歳、課長の誕生日に「おめでとう!」は、無いよなぁ。


「生まれてはじめて」と言う意味が分からない。それはつまり「はじめて」ということだろう?じゃあ何でわざわざ「生まれて」などという余計な言葉を付け加える必要があるのだろうか。「生まれてはじめて」と「はじめて」に違いがあるのかな。
「私は今日、生まれてはじめて痴漢をした」
「私は今日、はじめて痴漢をした」
「彼は、生まれてはじめて亡命をした」
「彼は、はじめて亡命をした」
「彼女は、生まれてはじめて大統領になった」
「彼女は、はじめて大統領になった」
同じじゃないか!
「生まれてはじめて」なんていうワケの分からないコトを言ってると、コイツは生まれる前の記憶、すなわち胎内での記憶でもあるのだろうかと不審に思うし、そもそも蛇足だ。
「お腹の腹痛がヒドイ」とか「歯が虫歯になった」などと似たようなもので、本来必要のない言葉を重ねるのは、それ自体で意味が通じなくは無いが、ハッキリ言って二度手間だ。


今日、私は生まれてはじめて「誕生日おめでとう」が困惑して困ると言った。

2007年05月11日

2007年05月11日 小学一年生の扇風機購入日記

先生あのね、今日は新しい扇風機を買ったよ。
今まで使っていた扇風機はかなり古い扇風機だったけど、今買った扇風機は新しくて、機能もイッパイあってド肝を抜かれました。まず、今まではリモコンが無かったけど、新しいのにはブサイクなカオリちゃんよりもよっぽどかわいいリモート・コントローラー、すなわちリモコンがあって、まるでテレビのようだと思うと、扇風機も偉くなったもんだと、なんだか腹が立ってきたので、思わず扇風機のリモコンをテレビに使ってみたら、何も起きなかったので増々ムカつきました。でも、テレビのリモコンを扇風機に向けたら、テレビが消えた。さすがテレビのリモコン!テレビのリモコンの方がやっぱり強くて偉いんだなぁと思いました。
そして、新しい扇風機には羽が5枚あります。今までのは4枚でした。羽が1枚増えるだけで、来る風が強くなります。さしずめ強風注意報から暴風警報への進展です。扇風機を付けっ放しで、しかも卑猥なことに裸で寝たオジサンが寝たままポックリと死んでしまったというお馬鹿なニュースを見て、どうしようもないおじさんだなーと思っていたけど、5枚の羽がある扇風機を付けっ放しで、しかもおチンチン丸出しで、要するに全裸で寝たら、もしかすると本当に死んでしまう気がした。この風は気をつけないと致死的レベルにまで体を冷やしてしまいそうです。最近の扇風機はちょっとした殺人兵器だと言いながら笑うと、お母さんがコラッ!と言いました。
そして、マイナスイオンという機能が付いています。でも、情けないことに、僕にはコレが何かはサッパリ分かりません。マイナスイオンというボタンを押しても、ランプが点くだけで何も変わらないからです。マイナスイオンが羽から吹き出ると思っていたけど、そうではないみたいだから、僕は残念でした。説明書を見ても、マイナスイオンについては一切全然触れられていないので、面白かったです。ソコが売りなんじゃないのかよ!と呟きましたが、説明書は何も答えてくれなかったので、ふと孤独を感じた。人間が最後に辿り着く駅は、孤独駅です。しかも自己否定駅を通過しての孤独駅着です。
いったい白い服を着てヒゲを生やした小太りで白髪頭の博士、というか開発者は、何の為にこんな機能を付属させたのかなぁ。
って、そんなことを先生に聞いても分かるワケないよねぇ。アハハハ、ゴメンねぇ〜

2007年05月10日

2007年05月10日 付与

私はニックネームを付けるのが好きだ。或る人物に対して、コッソリとニックネームを付ける。それが楽しい。
中学生の時、全ての教師にニックネームを付けたことがある。それは私を始めとして、ごく少数の者たちの間でしか認識されていないモノだったが、いつの間にか私が付けた一部のニックネームが浸透してしまい、驚いたことがある。誰かも分からないようなヤツが、或る先生のことを私が付けたニックネームで呼んでいるのを見た時は、ソレがどういうルートで広まったのか、もの凄く不思議に思ったものだ。


今、私はスーパーでバイトをしている。そこはもうニックネーム付け放題の場所である。
しばらくの期間勤務をしていると、自ずと常連客の顔を覚えてしまう。そうするともうニックネームを付ける、付けざるを得ないのだ。
今思い出せるだけでも「レゲエで挫折」、「弁当屋のオバチャン」、「海軍生活三年」、「怖い貴ノ浪」、「香港映画のエキストラさん(略して“ホンエキ”)」、「酔いどれ夫婦」、「サッパリ堅(サッパリした平井堅)」、「可哀想なスボン」、「ガチャピンの母親」等。ニックネームで客を判別してしまうようになる。そして、ニックネームを付けている客から「○○はどこにありますか?」などと聞かれると、ちょっと緊張してしまう。まるでスターにでも話しかけられたかのような錯覚に陥ってしまうからだ。


私はヒトの顔を覚えるのが苦手だ。だから自ずとニックネームを付けて、相手を覚えようとする。そういう習慣を持つと、ついつい見ず知らずのヒトにまでニックネームを付けてしまうようになる。付けっ放しで忘れてしまうこともあるから、たまに一人に複数のニックネームを付けてしまう時もある。だからといって、別に困るワケではないのだが。だから何なんだ、と言われれば、別に何でもないのだが。そう、何でもないのである。

2007年05月08日

2007年05月08日 驚き

しかし、まぁ驚きというものは突然、一気にやってくる。


今朝、テレビをつけたら「辻ちゃん結婚!」なんて言ってるじゃないか。しかも妊娠二ヶ月だと。ほぇ〜 あの辻ちゃんが結婚ねぇ。私の中では依然として小学生くらいのイメージしか無かったのに。思わず「えー!」と言ってしまった。一人で言ってしまった。辻ちゃんでも結婚してしまうくらいだから、絶対誰かはつんくと関係を持ってるはず。持ったことがあるはず。


それで、今日は暑過ぎるじゃないか。驚きを通り越して呆れ返るわ。


好天列島、今年1番の暑さ−7、8月並みの気温も


最近よく「電車の中で化粧をする非常識な女が増えた」とか何とか言って、主に若者の常識の無さを指摘する声があるけれど、そもそも地球環境が非常識じゃないか。五月上旬にして七、八月並の気温を記録するような非常識な環境で生活していれば、そこにいる生物も非常識になるわなぁ。


3つ目の驚き。これが最も驚いた。目ん玉が耳から出そうになった。
なんと「週刊プレイボーイ」で「マキバオー」の続編が始まっているではないか!!!その名も「たいようのマキバオー」
「みどりのマキバオー」、週刊少年ジャンプで連載されていた、つの丸の漫画。
この漫画が終わったのは、私が中一の時だった。競馬に興味を持ち始めた頃に連載されていたので、勉強する目的も含めて愛読していた実に思い出深い漫画だ。今でも実家には単行本が全巻ある。もう相当ボロボロになっていたと思うが。
この「マキバオー」、最終回がとんでもないんだよ。終わりというのは、いかなるものであれ重視される宿命にあるが、この最終回ほど見事な最終回がどれほどあるだろうか。つの丸という漫画家が底力を見せつけた、歴史に残るクライマックスだと、私は思い続けている。
その後のつの丸は、面白い漫画を描いているんだけど、どうもイマイチで、結局打ち切られてしまう。まったく不遇である。しかし、ここにきて、ついにやることにしたのか。最終兵器のマキバオーをいよいよ行使するか!ちょっと複雑ではあるが、これは是非とも見てみたい!と思い、コンビニで「週刊プレイボーイ」を探したけど見つからなかった。売り切れたのだろうか?ムカついたので「週刊朝日」を万引きしてやろうと思ったけれど、良い子だから止めた。


最後に。ほんのちょっとだけ風邪気味。
こんな時期に風邪をひいた自分に驚いた。思い返せば、三年くらい前の今頃にも風邪をひいたんだ。冬場は絶対にひかないのに。
「暑い、暑い」と言いながら、鼻水を出しているバカがいる。喉の調子も芳しくない。あっ、今「ざまーみろ」って声が聞こえて来た。アナタの方から聞こえて来た。


それにしても、非常識(暑い)だ。今日は実に非常識だ。

2007年05月06日

2007年05月06日 春の最後

雨が降っている。外には出ない。今日は涼しい。これが夏前の最後の涼しさだろう。明日からはまた気温が上がる。25度を平気で超えてくる夏日の毎日。
「のど自慢」は面白い。変なヒトが次から次に出てくる。笑う。笑っても笑っても、意味なんてないと思った。
春の後ろ姿。半袖と長袖のシャツが交錯する街中。
季節の移ろいに敏感で、音に過敏で、感情には怠惰。
雨が降っている。外には出ない。今日は涼しい。これが夏前の最後の涼しさだろう。

2007年04月28日

2007年04月28日 雪中梅

昨日(金曜日)、学校に行ったらお世話になっているセンセイが「雪中梅」という日本酒をくれた。新潟の有名なお酒だ、って。そのセンセイは、私は日本酒をあんまり飲まないからねーとか言ってたけど、私だって飲まないよ!
そもそも私が大して飲めないことを知っていて、わざと手渡したとしか思えない。
明らかに誰かからのお土産を私に渡したんだ。お土産用の紙袋に入ったままくれたからね。自分はいらないから、押し付けたんだ。私は押し付けられちゃったのさ。


仕方ないから、冷酒にしてさっき飲んでみた。


旨いじゃねーか。クソー、こりゃ得したなぁ。日本酒なんてワンカップ大関くらいしか知らない、貧乏な私の舌でも旨いと思えたぞぉー。
ネットで「雪中梅」を検索してみたら、なかなか有名なお酒みたいだということは分かった。しかもそれなりの値段で・・・
これは飲みやすくて良いわ。安物のワンカップとは明らかに違う。ワンカップなんて温めれば変な臭いがして、冷やせばただの水みたいになるからな。
勢いにのって、干し椎茸を使って肴まで作ってしまった。


センセイ、有り難う。
また何かください。

2007年04月26日

2007年04月26日 太いけど短いんです

今日、夕方頃から急に背中がチクチクしてきて困った。髪を切った後、シャツに髪の毛が入ったみたいな感じで、痒いやら痛いやらホロ苦いやらで嫌になった。虫にでも刺されたのかと思い、鏡で背中を見てみたら、なんと私の背中に蜂の巣が作られていた。

・・・・って、この話、本当みたいだけど、実は嘘なんです。
信じてしまったヒト、ご免なさい。騙してしまいました。


以前、発泡酒では「極旨」が好きだと書いたけど、アレは間違っていた。アルコールの臭いしかしねーじゃねーか。発泡酒では「円熟」が最高。
今も「円熟」を飲みながらこれを書いている。

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2007年04月22日

2007年04月22日 疲れているだけ

理想としては何も考えないのが一番良い。
日々のことも生活のことも、当然政治のことも社会のことも考えずに生活していければ良い。しかし、そんなことは無理である。どれだけお金があっても、やはり何かを考えてしまう。生きている限り考えることは必然であり、それは言葉を持ってしまっている時点で、より確かなものとなる。
何も考えないことを志向していても、常に考える。「何も考えるな、何も考えるな」とか「私は今何も考えていないのか」などと。常に自らの意識と対話している。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と実に上手いことを言ったものだ。デカルトのいう「我」は、何も考えなくなった時に消えるものなのかどうかはまた少し先の問題だが、そもそも何も考えなくなったとしても、それを認識することは出来ない。だって何も考えなくなっているのだから。
だが、もしも何も考えないで生活できるなら、所謂「本能」的な面だけで生活できるなら、世界はおそらく平和で、それなりに秩序も保たれていたはず。そして、人間はどこかで絶滅していたのではないか。
今、こうやってアホみたいに「理想としては何も考えないのが一番良い」などとほざいている輩がいるのも、それを見て嘲笑っているアナタがいるのも、結局「我思う、ゆえに我あり」に象徴される人間の営みがあったからに他ならない。


要は「何も考えたくない」という考え、これが出て来た時点で、そこには大きな矛盾が形成されているということだ。
しかし一度で良いから、何も考えない人間の世界を見てみたいではないか。だが、その場合でも、客観的に見る側は、何かを考える立場にいないと意味が無い。何も考えない立場に立ってそれを見ていても、何も思わないし、そもそもそんなものを見ていようという考えさえ出ない。結局、何も考えないことが良いなどという理想を持っていても、ちょっと考えれば、それが体をなしていないモノだということに気付かされる。私が「理想としては何も考えないのが一番良い」などということ自体が、そもそも意味が無いことで・・・ということは、今日のは出発点からして成り立っていないということになるのである。
おわり

2007年04月20日

2007年04月20日 話半分

私が通っていた小学校に「プレイルーム」なる部屋が設置されていた。
当時は何も思わず「プレイルーム、プレイルーム」と言っていたが、今になって思えば何とは無しに卑猥な響きがするではないか。しかも、この「プレイルーム」が使われることは滅多に無く、結局何を「プレイ」する目的で作られた部屋なのか解らず終いで卒業してしまった。
噂では、その部屋は現在「本番ルーム」と名称変更されて、不気味に存立しているとかいないとか言われているようだ。全く困ったモノである。


困るといえば、一人称である。私は、とココでは「私」という一人称を用いている私であるが、何も年がら年中「私」と言い続けている私ではない。「私」ばかりで文章が荒々しくなってしまったが、普段親しいヤツと話をする時に私が用いる一人称は、主に「オレ」である。おそらく私と同じ二十代前半の者ならば「オレ」という一人称を使うことは珍しくなかろう。そして学校のセンセイや年輩と者と話すような時には「ボク」もしくは「私」と言う。「私」でも、「わたし」が普通であり「わたくし」と言う事はほとんどない。このブログでの私の一人称も「わたし」であって「わたくし」ではない。ココで私が「私」と書いているのを見れば、それは「わたくし」ではなく「わたし」と読んで欲しい。
普段は「オレ」と言う事が多い私だが、こういう不特定多数の者が閲覧できる環境下で、もしも、「オレは、どう考えてもロリコンじゃないかしらんと思う時がよくあるんだ」などと書けば、おそらく読者は「おっ!なんだコイツ。『オレ』なんて言っているぞ。偉そうな勘違い野郎だな!」と思い、もう「オレ」という一人称に釘付けにされてしまい、他の事が目に入らなくなるはずである。だから私はココで「オレ」とは(余程の例外が無い限り)申し上げない。
何故こんなことを書いたかというと、普段使っている一人称が複数あり、それが煩わしい為、どうにか一元化したいと思っているからだ。
もし一元化するならば、「私」意外にはないだろう。「オレ」にしてしまうわけにはいくまい。面接で「オレが御社に採用されました暁には・・・」などと言えば、甚だマズい状態になってしまうことは容易に推測できよう。しかし、そうかといって今からいきなり「私」ばかりで通すのも、これまた違和感がある。今までは「オレ」で通していた友人等に或る日突然「私さぁ、昨日幼い女の子を見て興奮してしまってねぇ〜」等と言えば、突然の一人称の変化に失笑を買うことは必至であり、また親に対しても「私は小さい女の子と手を繋いで一日を過ごしたいんだけど…」などと言えば、これまた急に「私」などと言ってどうしたの!?と言われる事は疑いようが無いのである。
じゃあ、どうすべきか。それは徐々に変えていくという非常に高等な手段を講じるしかないであろう。つまり「オレ」と「私」、そして「ボク」という一人称を意識的に使い分ける。そして「アイツは色んな一人称を駆使するようになって、実に賢くなった」と周囲の連中に思わせることが出来れば、完全にコッチの勝ちである。そこ迄行ければ、その後は徐々に「私」一本に絞っていく。そうして、いずれは「私」だけでも他人から違和感を覚えられなくなる完全体への進化を目指す。
完全体とは、「私の守備範囲は3〜12歳までだよ」などと言っても、誰にも驚かれる事がなくなった日のことだ。

2007年04月18日

2007年04月18日 私の主観ですけど…

私は気付いてしまった。
禿げには、良いヤツと憎たらしいヤツのどちらかしかいないことを。
中間に位置するヤツはいない。
必ず良いか憎たらしいかのどちらかである。
バイト先のおじさんは良い方、学校にいる教授は憎たらしい。
もし私が禿げたら、絶対に良い方に入ってやる。
芸能人とかを思い浮かべても、必ず良さそうなヤツか憎たらしそうなヤツに二分される、はず、
曖昧な立ち位置のヤツはいないだろう。
思い浮かべて下さいよ。


ホラ、ね。

2007年04月17日

2007年04月17日 タイトルなんていらない

関西人に「馬鹿」と「阿呆」ではどちらがより賢くないと思うか、というアンケートをすれば、「馬鹿」を選ぶヒトが多いらしい。というのも、関西人にとって「阿呆」、「アホ」は褒め言葉らしいからだ。
「お前、アホやろ」というのは、すなわち「お前、ホンマオモロイなぁ」というのと同類の意味を持つと考えられるとか。翻って「お前、馬鹿やろ」と言えば、それは「お前は頭が狂っとる、生きんでもエエ(=死ね)」くらいな意味になってしまうのだとか。
こういうコトを言っている者がいた記憶がございます。本当かいな?と思った方、実際に関西人に向かって「お前、馬鹿か?」とでも言ってみて下さい。それで結果が明らかになるはずです。


ところで、トルシエさんは今なにをやっているのだろうか。昨年はW杯期間中にテレ東の専属解説員みたいな契約で来日して、大橋未歩アナと面白い絡みをやっていた覚えがある。そして仕事をくれとか言っていたような気もする。今は何をなさっているのだろう。
「白い魔術師」でも自分の仕事をどうこうすることは出来ないのかと思うと、日本にニートやフリーターの数が増大するのもやむを得ない気がします。
内定獲得へのフラットスリー、無職から抜け出すためのオフサイドトラップ。
どれも機能しそうでしないから、将来不安定な人々が増える。
私の将来のオフサイドトラップは是非とも機能して欲しいものです。そのために、先を見据えたフラットスリーを今から完全構築していこうと思います。
それでは準備に入ります。
では、まずサッカーボールを買いに行って来ますね。

2007年04月13日

2007年04月13日 蠢動せず

ここ数日は暖かいからTシャツ一枚でウロウロしている。しかし、どうやらまだ私以外にTシャツ一枚の者はいない。学校でもTシャツ一枚のヤツは私だけで、妙な違和感を覚えた。
まぁ、いい。私だけだろうが何だろうが、Tシャツで通してやる。冬でもミニスカートで良い女がいるように、私は3月末くらいからでもTシャツで良い。
Tシャツ協会。
そんなものは無い。


毎年恒例の学校に於ける健康診断を受けて来た。数ヶ月ぶりに体重を計ったら、なんと3キロ減っていた。何もしてないのに。そして身長は三年前くらいと比べて2センチ程伸びていた。計測ミスじゃないかしらん。
でも、最近ヒトを馬鹿にして見下すコトが多くなったので、本当に伸びているのかも。
日本ブラックジョーク愛好会。
そんなものも無い。


「うごめく」を漢字で書くと「蠢く」。春に虫が二匹、まさに蠢いている。この漢字は好きだ。

2007年04月07日

2007年04月07日 春来たりなば夏遠からじ、嗚呼。

ずっと気になっているコトだけど、性転換手術をしたり、ニューハーフになる為に手術をした時、切り落としたアレはどういう風に処分されるのだろうか。まさかゴミ袋に入れて捨てるワケではないだろう。脳死判定された人がドナーカードを持っていた場合みたいに、すぐさま移植されるコトもないだろうし…非常に謎であります。


相変わらず松坂のニュースが多いけど、思えば野球って無茶苦茶複雑なスポーツですね。野球を知らないヒトにルールを説明する時、果たしてどうすれば良いものか。
攻撃と守備に分かれて、守備側には球を投げる人がいる。攻撃側は投げられる球を打つ。球を投げる人は「ストライク」といわれるコースに投げなければいけない。打つ側は「ストライク」と呼ばれるコースにきた球を打つようにしなければいけない。打たなければ1ポイント球を投げる人に有利になる。これを「1ストライク」という。投げる人は打つ人から3ストライク奪えば1アウトとなる。3アウトで攻撃と守備が入れ替わる、ただしファールというものがあって、2ストライク取られた状態から打つ人がファールを打っても、それはストライクに加算されない。ファールとは・・・
と、こういう具合に果てしなく説明しなければならないし、おそらく言葉で説明しても、そう簡単には理解されないだろう。仮にルールを理解できた所で、最低限ボールとバットとグローブとベースが無ければどうしようもない。貧しい国では容易にプレー出来ないだろう。非常に厄介なスポーツである。そりゃヨーロッパやアフリカでは普及しないわけだ。しかし、そういう複雑なルールを理解できるコトは、ある意味で誇っても良いんじゃないかしらん。こんな面倒な内容のスポーツを理解して楽しめる国民なんて本当に少ない。
そしてまた、ソレに何十億何百億と使うことのできる球団が複数あるアメリカという国は、本当に化け物のような国だと思う。


最後に、私は今コンビニで売られている100円のお菓子にハマっている。クッキーやらチョコレートやらカステラやらドーナツやらが全部100円で売られている。なかなかボリュームもあるし、お得である。ただしカロリーもそれなりにあるので注意を要する。品質も・・・!?

2007年04月04日

2007年04月04日 やりたい放題

そうなのだ。タイトル通り「やりたい放題」なのである。誰がって美容師さんである。
先日、髪を切りに行って来たのだけど、その日は最初から何かがおかしかった。


まず店内。まんまディープ・パープルな日本のハードロックバンド(バンド名も曲名も分からん)の曲が延々と流れている。およそ美容室とは思えない雰囲気の中、その偽ディープ・パープルを鳴り散らすスピーカー付近のテレビにはワイドーショーが映っている。ハードロックと同一進行で「捨て猫の里親探し」とかいう声がテレビから聞こえてくる。そうした状況下で洗髪開始。
髪を洗いながらやたらと話しかけられる。顔にはタオルが乗せられていて、ハッキリ言って話し辛い。そういうことは切る時になってから聞いてくれと思いながらも、一言二言返事をする。

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2007年04月01日

2007年04月01日 事実を厭わず

今日はエイプリルフールということで、何やら力を入れて嘘の記事を掲載しているHPもあるようだけど、私はハンサムで紳士だから嘘を書くつもりは無い。
そもそもエイプリルフールというのは、普段嘘をつかないヒトの為にあるようなものだ。だから私には無関係である。そしてTBSや朝日新聞にもエイプリルフールは無い。というか、アイツらは毎日がエイプリルフールなんだから、逆に今日くらいは本当のコトを報道すべきだ。それにしても私は頭が良い。エイプリルフールだからだろうか。
今日の朝、鏡を見て驚いた。その時の私は今まで以上にハンサムだったからだ。コレは本当のことである。普段嘘をつきまくっている私は、エイプリルフールの今日にこそ真実を述べる。昨日母親がメールで、父親と別居したと伝えてきた。


何が嘘で何がフィクションで何が狂言であるかは知らない。今日のコレは全部が本当で、全部が嘘? 一字一句、名詞から助詞、助動詞に至るまでが嘘で本当なのだ。
初恋の女の子をオカズにした。

2007年03月30日

2007年03月30日 春の訪れをのらう

統一地方選挙のため、選挙カーが騒がしくてたまらん。
しかし共産党の候補が「税金の無駄遣いを無くすため〜」と言っていたのにはズッコケそうになった。本当に税金の無駄遣いをどうにかしたければ、まずはお前達の所属する党を解体しろ。
それにしてもセブン-イレブンのメロンパンがアホみたいに美味い。もはや行列のできる名店レベルのパンを、さも当然の如く置いているから感服する。
もう暖かくなってきて、桜も三分〜五分咲きくらいかな。場所によって違いはあるでしょうが。花見なんて糞喰らえだ。騒ぎゃ良いってもんじゃない。アレだ、公共の場所で花見をするには免許を必要にしてやれ。無免許で花見をすれば100万円以下の罰金。そうすれば毎年報道されている花見の席でのトラブルやゴミ放置も激減して、治安のためにも良い。私有地は当然無免許でも良いけどね。
雑文乱打にて、ひとまずここらでサヨナラ。

2007年03月24日

2007年03月24日 一発で「顰蹙」って書けたら凄い

ビールで一番好きなのはヱビスビール。二番目がKIRINのクラシックラガー。
お酒なんて全然飲めないに等しく、味もロクに分からないけど、上記のビールは好き。
そもそもビールを好きになったキッカケがクラシックラガー。これを飲んで「ビールって旨いジャン」と思った。それ以後定期的にクラシックラガーを飲んでいたけど、ある日ヱビスビールと出逢って、クラシックラガーは転落した。
ちなみに最近は「極旨」というインチキビールも好き。発泡酒だか第三のビールだかよく分からんけど、ああいうのは苦みと、味に深みのようなモノがなくて不味いと思っていたが、「極旨」はそうでもない。インチキビールでも飲めちゃう。しかも安いからよく買っちゃう。
と言っても缶ビールは500ml一本が限界。すぐに顔が赤くなるからどうしようもない。ほぼ下戸。限りなく下戸。日本酒より強い酒は絶対に飲めない。二年くらい前に日本酒を二合飲んだら、全身に蕁麻疹が出て、震えが止まらなくなって、急性アルコール中毒一歩手前のような雰囲気になったことがある。それもこれも私の親父が下戸だから、多分遺伝だろう。でも、親父はヘビースモーカーで、私はタバコを神田うの並に嫌悪している。世界で一番嫌いなタレントが神田うの、それと同じくらいタバコが嫌い。親戚にもタバコを吸っているヒトが多いし、バイト先の男のヒトもほとんどが喫煙者、おまけにお世話になっている教授も喫煙者。で、困る私。最近は女子中学生でも堂々とタバコを吸ってやがる。どうして煙を吸い込んで嬉しがるのかしらん。そういう光景を見ると、タバコを嫌っていて良かったと誇らしくなる。自分のコトを最も誇らしく感じる瞬間が、喫煙者を見て安堵感を得る時。嗚呼、なんという哀れな誇りよ。


カップ麺で一番好きな種類はカップ焼きそば。一番が俺の塩で、二番目が一平ちゃん 夜店の焼そば。ペヤングも嫌いではない。しかし、とりあえず俺の塩だけは別格。定番のUFOは肝心のソースが激マズで嫌い。アレは後味悪すぎだ。
そして俺の塩は一分で出来るから良い。っていうか、私は焼きそばそのものは好きではない。ただ、カップ焼きそばが好きというだけ。カップ「焼き」そばと称しながら、全然焼いてないあのフニャフニャ感が最高。実際に焼いた麺は好きではない。焼きそば然り焼うどん然り。でもカップ焼きそばはカロリー高いなー。


高校野球なんてほとんど興味が無いけど、何かと注目されている大阪桐蔭の中田君は良い。あの悪そうな顔、その反面、どこか優しさを内包していそうな笑顔。彼みたいな者が仲間にいれば、最高に心強いだろうと思う。「RIN」の石川凛も、多分ああいう雰囲気で、もっと嫌らしい感じなんだろう。中田君には是非とも無邪気に相手の自信を粉砕するような活躍をしてもらいたい。

2007年03月22日

2007年03月22日 アンパンマンの謎

アンパンマンは大体週二回の頻度でばいきんまんと対決して、その度に顔をやられているから良いんだと思う。もしアンパンマンが強過ぎるか、ばいきんまんが弱過ぎるかしたら、アンパンマンは顔を変える必要が無くなる。ということは、しばらくすると顔が腐ってきて、カビが生えてきたり悪臭を放つようになって大変だ。週に二回、つまり三日か四日に一度ばいきんまんによって顔を変える機会を与えられているんだから、ばいきんまんに感謝しなければならない。そうじゃなければ、バタコさんがジャムおじさんにそっと「アンパンマンの顔が大分臭くなってきました」とか「ジャムおじさん、アンパンマンに(カビが)生えてきました」などと耳打ちしている場面が放送されることになる。だって、そんなこと直接本人、ならぬ本パンには言えないからねぇ。犬のチーズは特に嗅覚が優れているから、自ずと腐りかけたアンパンマンには近付かなくなる。
待てよ、今までほとんど顔を変えていないしょくぱんまんやメロンパンナちゃんはどうなっているんだろう。特にしょくぱんまんは、近くで見るとカビだらけかもしれん。メロンパンナちゃんも可愛い顔してカビだらけなのだろうか。
メロンパンナちゃんは、寝ている時にアリの大群に襲われたりしないのだろうか。夜、突然悲鳴が聞こえて、駆けつけてみると、顔中アリだらけで真っ黒になったメロンパンナちゃんが!


しかしアンパンマンが顔を変える時、古い顔はどこかに飛んで行くけど、いったいどうなっているのだろう。野原の真ん中に腐った顔が落ちていたりするのだろうか。その光景は中途半端なホラー映画よりもよっぽど怖いと思う。


っていうか、以前にアンパンマンはコップ片手に歯磨きしてたからな。お前濡れたらダメだんだろう。歯磨きした後、そのコップに入っている水で口を濯ぐんだろ?じゃあビショビショになるじゃないか。それで顔を変えることになったりするわけか。
コップ片手に歯磨き→ついうっかり水を口に→顔がビショビショ→ジャムおじさんに新しい顔を焼いてもらう
完全にアホの流れだー。ジャムおじさんに迷惑かけんなよ!いや、その前にアンパンマンに歯は無いだろ。アレに歯があれば相当不気味だ。


それに「大変だ、バタ子、急いで新しい顔を焼くよ!」ってのも、よく考えれば凄いセリフだ。


アンパンマンって、もしかするとホラーの類じゃないだろうか?

2007年03月18日

2007年03月18日 春に於いて

先週でドラマ「相棒 Season 5」が終わって少し寂しく感じております。
あのドラマは脚本と役者がトップレベルで、毎回非常に安定した出来栄だと思っておりました。
杉下さんみたいな独特のカッコ良さを持ちたいものです。


先日スポーツニュースを見ていたら、アメリカメディアは松坂に対してかなりシビアな見解を呈していました。日本メディアの盲目的な大注目ぶりとは対照的な面がありますね。アメリカのマスコミ(というか欧米全般のマスコミ)が立派だと思うのは、一時的なブームや話題には冷静に対処して、長期的な視野を持って物事を判断しようとする点。日本のマスコミももう少しそういう姿勢を持つようにしてもらいたいものです。熱し易く冷め易いマスコミがどうやって正確な情報を伝達できるというんだ。おまけに意識的偏向報道、嗚呼。


早いものでもう三月も半分が過ぎてしまいました。時の流れに身を任せると、どこまでも流されてしまうような気がします。それならば無理をして抵抗するしかないのだろうか。時に逆らい、逆らい、逆らい続けた者が勝者となるのか? とりあえず、時間に流されるままに過ごす者と、時間を意識して動く者では、その結果は明らかに異なるでしょう。時間は敵なのだ。出来るだけ逆らわなければならない。じゃあ「ゆとり教育」なんてモノは最もいけないコトじゃないか。


春風に吹かれて、というより最近は春風が強すぎて困っております。吹かれ過ぎるのも良くないなー。

2007年03月14日

2007年03月14日 似非スポーツマン

最近「蒼井優」という名前をよく見ますが、私は先日までてっきり人気急上昇中のAV女優だと思っていました。
だってソレっぽい名前じゃないですか?


さて、三月は怠惰な私にも出費の嵐が到来して、非情に懐具合がよろしくございません。とか言いながら、金曜にお相撲を観戦しに行きます。難波には確か吉本の劇場があったなー。でも、私は府立体育会館に行く。フフフ、なんかスポーツマンみたいでカッコ良いじゃないか。目的地はお笑いの劇場じゃなくて体育会館だ。
金曜に、オレは府立体育会館に行く。まさに汗を流す男という感じだ。そうだ、俺は府立体育会館に行くんだ!フフフ。


表で入り待ちをして、千代大海の写真を撮る予定。シュンとしている千代大海の表情 in Photograph。i wanna see it しかも使い捨てカメラだ。そんな安物のカメラでパシャパシャやられたら堪らんだろうなぁ。しかも場所は府立体育会館だ。私は府立体育会館にいる。
あと魁皇や栃東の写真も出来れば撮りたい。現役時代の写真を撮れるのは今回が最後になるかもしれないからねぇ。場所は府立体育会館。私は褌をして行く。
朝早くから行く。ボーっと序二段の取り組みを見ているかもしれん。どうなるかは分からん。っていうか何時に府立体育会館に到着するかも分からん。まさに毎度お馴染み流浪の番組云々。


さて、それでは色々と準備することもあるので、この辺りでお暇致します。あるスポーツマンが府立体育会館に赴かんと欲す。
いつか機会があれば撮れた写真を掲載したいと思います。今はスキャナを持ってませんから、写真を取り込みようがありません。デジカメも持ってないから使い捨てカメラなの。それは精神的ニートの如し。

2007年03月08日

2007年03月08日 朦朧たる精神の中で

どーでもいーけど、松坂は実際に投げられなくても「ジャイロボールを投げることはできます」と言うべきだ。
アメリカ人も判断できない、できるのは松坂本人だけということになっているんだから、ココは嘘でも投げれるコトにした方が良い。それで相手がビビるなら最高じゃないか。
勝負事には時としてハッタリも必要さ。


だからといって、元従軍慰安婦を名乗る女の強制されたというハッタリは良くない。
そしてアメリカの下院は気狂いか。
ここは安倍さんを筆頭に、日本側は断固とした態度を取るべきだ。ここでアッサリと謝罪してしまうようなのは売国奴同然である。
というか連中はいつまで謝罪と賠償を要求するつもりだ、気狂いども。そもそも1965年の日韓基本条約で両国は戦後補償について あああああーーー もう書くのも面倒だ。書く必要も無いか。気になればGoogleでどうぞ。
謝罪謝罪謝罪謝罪、謝罪治太宰治謝罪治 ん?どっちが正しかったかな? 混乱して分からなくなった。まるでアノ元慰安婦を名乗る女のように混乱してしまった。こりゃもう死ぬまで治らんかもしれんな。

2007年03月03日

2007年03月03日 道鏡の仕業?

「宇佐八幡宮神託事件」


今日、何故かこの言葉が突然頭の中を駆け巡り、以来ずっと離れないので困っている。
不思議なものである。道鏡が乗り移ったのかしらん。それとも和気清麻呂か?
歴史が好きな私だが、正直なところ古代史には何の興味も無い。
興味があるのは江戸時代から昭和前史であり、とりわけ大正〜昭和前期にかけての歴史が大好きなのである。江戸時代は、町人文化・庶民の生活に関して若干の興味を有するだけで、幕府の機構や政治については、これまたほとんど関心が無い。


そこにどういうわけか「宇佐八幡宮神託事件」だ。
ぶっちゃけこの事件の概要なんて教科書レベルのことしか知らないのに。
変な名前の事件だから思い浮かんだのかしら、それとも称徳天皇から何らかのメッセージでも託されつつあるのかしら。なんと畏れ多い。
しかも今日は雛祭りだ。俺に雛人形を飾れってか?

2007年02月25日

2007年02月25日 ごわし・ごわせ・ごわす・ごわさせ

そろそろ花粉症の時期でごわす。
なんて言っても、おいどんは花粉症でないので、何の関係もないでごわすごわす。そもそもおいどんの親戚連中で花粉症を患っている者なんていないでごわすってるので、もしかすると家系的に花粉症とは無縁なごわすかもしれないでごわす。
花粉症っていったいどんな感じになるのか知りたいもんでごわすたい。くしゃみとか鼻水とか涙が人間水道の如く出るのでごわすか?ごわすんか?
然らば自慰を覚えた中学生よりティッシュを消費するにあらずや。


ミツバチはいつも花粉まみれなのに、何故に花粉症に罹らないのでごわしょう?スギ花粉ではないからでごわすか?
おいどんも花粉症というものを一日、いや半日くらいで良いから体験してみたいものでごわす。しかし、アレは一回罹るとその後もずっとなりっ放しだというので、それは困るでごわす。
春が怖くなるのは嫌でごわす。今年の春も愛犬ツンと元気にお外を走り回りたいでごわす。


今、ちょっとホロ酔い気分でごわそう。今晩ほどいい加減な気持ちで文章を書く日は、年間にわずか30回くらいしか無いでごわすんば、ごわす。
西郷どんは不便な話し方をしていたもんだと、つくづく思うのでごわした。

2007年02月22日

2007年02月22日 不運な日

今から何か書こうと思ったのですが、突然鼻血が出てきたので止めることにしました。


2年ぶりくらいに出た。突然だら〜と出てきたらビックリしますね。鼻水かと思ったら赤いし。

2007年02月21日

2007年02月21日 日本男児!

ブリトニー、泣きながらスキンヘッドに


私はスキンヘッドの経験はありませんが、高校生の時に坊主にしたことがあります。
というのは、私の通っていた学校が気狂いみたいに頭髪検査に力を入れており、例えばもみあげが少しでも伸びていたり、後ろが長かったりすると「明日迄に切ってこい」と言いまくられて、短気な私はノイローゼになるくらい気を遣ったり憤慨したりすることが少なくなかったからです。
「この程度でも駄目なのかよ!それじゃあ坊主にすれば誰にも文句を言われることはないだろうな!」と思って、バリカンでやりました。
あと、髪の毛がある程度長ければ寝癖がついたり、変なカタチになったりすることがあって、そういうことを気にする自分が嫌だったという理由もあります。要は、ハゲてもないのに髪の毛を気にしたくはなかったから、坊主にしたのです。


坊主は本当に素晴らしい。

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2007年02月13日

2007年02月13日 夢物語を夢見る

世界平和なんてモノは夢物語なんですよ。
現に今の日本をご覧なさい。
ロシア・中国は日本に対していつでも核を発射できる態勢をとっているワケです。おまけに北朝鮮にまで核武装されてしまったようです。
そして、例の「持たず、作らず、持ち込ませず」の三原則は、もはや破綻しております。残念ながら。


そのようなワケですから、要は、核なんてのは持ったモノ勝ちなわけです。
いつまでも無効化された原則に束縛されてる場合ではない。
そもそも膨大な核を所有しているアメリカが、北朝鮮の核保有は認めないなどということ自体、オカシナ話なんです。自国の安全を守る為に、また外交手段として、核を持つという発想が出てきても不思議ではありません。核保有イコール戦争、憲法9条改正イコール軍国主義などというのは笑止千万。


世界平和を望むのなら、全ての国が核を持てば良い。
それは言い過ぎですか。
しかしそれくらいの“気”が無いと平和なんてモノは訪れない、つまり結局のトコロ夢物語というわけです。


中国・ロシアという核よりも危険で大きな敵を前にして、丸腰も同然で世界平和を希求するとは、のび太がドラえもんの道具なしでジャイアンと戦うといったようなコトでして、やはり全ては持ったモノ勝ち、持つべきは持つという結果に落ち着くワケですよ。いわんや日本のような小さな国においてをや、です。日本がナニナニを持ってはいけない理由など、周辺の状況を概観してみても、どこにも御座いません。
なんかそういう夢物語についてのオハナシ。

2007年02月10日

2007年02月10日 題のある無題

最近眠くて困る。
早くも「春眠暁を覚えず」状態。
でも早起きを心掛けている修行僧みたいな毎日。

2007年01月29日

2007年01月29日 無機質な7665

今日はどうやら私の誕生日であるらしい。
となると…私は・・早生まれだ。
今日で22歳か!?
22年といえば・・・長い。
歴史の上では短いが、日常生活の上では長い。
昨日で21年を終えたことになる。
今日から22年目がスタート。
その割りには軽い人生だ。
365×21=7655
7655日とはスゴい。
どれだけスゴいかといえば、プリンの賞味期限が10日だとして、7655日はその765.5倍だ。
プリンの賞味期限の765倍(四捨五入すれば766倍)の期間を過ごしてきたことになる。
そのくせプリン一個分の感動すら与えられない私はクズだ。
プリン一個でどれだけ感動すると思う?プリンは激ウマですぜぇ〜


自分から自分への誕生日プレゼントとして、トップページに、映画「南京の真実(仮題)」への支持を表明させて貰った。
さすがに近年の日本では、30万人などという気狂(きぐる)いのような数字を出す者は雲散霧消した観があるが、困ったチャンの近隣の方々は、未だに途方も無い数を持ち出してきて、熱心なプロパガンダを展開しておられる。この「南京の真実(仮題)」がどんな風になるかは分からないが、日本からの明確な回答として、困った彼らに向けられて欲しいものである。
決して自慰的・自虐的でなく、また過大な表現でもなく、ありのままに南京事件を伝えたもの、それが現在までどのくらいあっただろうか。
確実な歴史資料に基づいて、真実の南京事件を構築するとともに、困ったチャンを黙らすような立派な映画を制作してもらいたいものです。


それにしても、今年の誕生日も、寒い。

2007年01月27日

2007年01月27日 ホモか!

今年の目標は「いかなる日であっても午前9時までには起床する」ですが、今のトコロ遵守できております。
しかし「9時」というのがミソだね。それ以上に早い時間帯だと、もうどこかで挫折している。特に日曜とかで。


そう考えれば、めざましテレビの大塚さんは凄いなぁ。
でも、彼の場合、もう何年も朝の仕事をやってるから、遅く起きれなくなってるんじゃなかろうか。休日も6時半くらいには起きて、「ああ〜今日は遅いなぁ」などと思ってたりして。


…いや、私は、大塚さんのプライベートが気になっているわけではありませんよ。け、決して気にはなりませんよ。ウヘヘヘ。

2007年01月16日

2007年01月16日 ミルクティーが好き。

最近ウッチャンナンチャンの番組が無くなったような気がして、調べてみたら、本当に無くなっていた。どちらかが、所謂ピンで出ている番組ばっかりで、コンビとしてのレギュラー番組は、現在0ということらしい。
いったいどうしたことだろう。もう15年から20年くらい、ずっとコンビでレギュラーを持ち続けていたのに。
ココにきて需要がなくなったというわけでもなかろうに。飽きられるならもっと早い段階でそうなってただろう。
…まぁ、個人的にはそれほど大きな問題ではないけど。


琴奨菊が地味だ。
最近急成長を遂げてきて、最注目といっても良いくらいの実力者なんだけど、いかんせんキャラが地味である。でも笑顔が爽やかだから、人気はどんどん上昇していくだろう。
しかし、琴奨菊の相撲は好きだ。若手の中では、白鵬や稀勢の里より魅力的な相撲を取ると感じている。あとは上位と対戦しても安定した成績を残せるようになれば文句なし。大丈夫、そのうち横綱にも勝てるようになる、と思うよ。
彼はがぶりが注目されているけど、それ意外でも良い相撲をする時があるので、頑張ってもらいたい。


なんか眠いからもう良い。惰性、惰性、惰性。それで良いのか、ダセーな。

2007年01月06日

2007年01月06日 阿呆の愚痴

私は阿呆である。阿呆であるから言う。


加藤ローサは天使だ。何処からどう見ても天使にしか見えないのだ。あの豊穣な笑顔、アレを━━━アレなどと言ってしまっては天使に対して失敬千万であるゆえ、彼女の笑顔は「夕焼け輝く波間に映ずる麗朗たる一等星の清輝」と形容しよう。その「夕焼け輝く波間に映ずる麗朗たる一等星の清輝」を見るだけで、私の心は悶々と、いや轟々と鳴り渡るのである。


夕焼け輝く波間に映ずる麗朗たる一等星の清輝を奉戴する女性がウンコなどをするわけはなく、彼女の体内からは事あるごとに真珠が現出されるそうだ。ただし屁はこくというから、さすがの天使であっても体内で何らかのガスが醸成される模様である。そのガスはたまに超クセーらしいが、彼女の端粛かつ繊麗な容姿と気品溢れる艶麗な性格は、その超クセーのを帳消しにしてしまうと云われている。まさに自然の循環、二酸化炭素を吸い込み酸素に変相させてしまう光合成のようなものではないか。

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2007年01月04日

2007年01月04日 嘘から始まる一年

お正月も三が日が過ぎればただの日。一発だけヒットした有名人も三年過ぎればただの人、という具合です。


今年最初に買った本は半藤一利著「ノモンハンの夏」でした。これから読み始めます。
今年最初に見たブログはナゼか「しょこたんぶろぐ」でした。見て、この人はアホじゃないかしらんと思いました。でも良い生活しているのは分かりました。まだ21歳なのに。ねぇ。・・・今の所同じ年齢だよ・・・学年は私の方が一つ上だけども。


さて、今年の目標は「いかなる日であっても午前9時までには起床する」です。
今決めました。寝ません。今年は寝ません。今夜僕は寝ないよ〜という歌詞があるB'zの曲を思い出しました。
そうは言っても冬場はやはり眠いものです。だから冬が好きなのですが、その冬も寝ないとなると、私はどの季節を楽しめば良いのでしょうか。
春は憂鬱を誘う、夏は暑いので論外、秋は寂寥感漂う。です。
それじゃあ秋がモアベターよ。


年末からお正月にかけて一番見た局はテレビ東京です。
あの地味な感じの特番が最高でした。なんかやたら温泉巡りティックな番組が多かったのは気のせいですが。


ということで、あけましておめでとうございます。今年も画面越しに一年間宜しくお願い申し上げます。
私にとっては嫌な年でも、アナタにとっては良い年であることを希望致します。
アナタにとっては嫌な年でも、私にとっては良い年であることを 特 に 希望致します。
それでは、左様なら。

2006年12月31日

2006年12月31日 安堵できない最後の安楽日

大晦日です。


私の一番嫌いな日です。


なぜ大晦日が嫌いかというと、消滅の日だからです。
どういうことかというと、当然ですが、一年は1月1日から始まるわけです。つまり明日からまた新たな一年の始まりです。しかしてその対極にあるのが本日12月31日大晦日。


背中合わせの始まりと終わり。


日々の積み重ねなどといいますが、一年間の流れというのはまさにそのようなものです。
1月1日から12月31日まで、1秒1分1時間1日1ヶ月と積み重ねてやっていくのです。しかし、豈図らんや、12月31日の23時59分59秒をもって、その積み重ねが全てリセットされてしまい、我々はまた最初から山を築くことを余儀なくされるのです。何たる無情!


すなわち大晦日というと、一年間の積み重ねが全て消されてしまい、強制的に「ハイッ、また明日、最初からね」という命令に従事させられてしまう、なんとも無惨な日だと言わずにはおけないのです。


せっかく10月11月12月と順調に月日を積み重ねてきて、月の数も二桁になったんです。それなのに、それなのに明日からまた1月1日。まるでゴールに到達するや否や振り出しに戻されたかのようなこの絶望感。


残るものは記憶と記録。
それで十分だとは思いますが、一方でどこかにやるせなさをも感じるのです。


私にとって12月31日大晦日というのは、徒労感を前に屈服せざるを得ない日なのです。
そして1月1日元日なんて、御目出度くはないのです。「まーたやり直しかよ」という気持ちが心の片隅にあって、まるで骨が抜かれたかのようにガックリとなる日なのです。


この虚無感を理解して頂こうとは思いませんが、それでも私は敢えて言いたかった。
12月31日大晦日。私の一番嫌いな日です。
紅白歌合戦の日でも、格闘技の日でもないのです。
それは不可抗力によって強制的に振り出しに戻らされる前日、刑執行の前、安堵できない最後の安楽日。


さようなら2006年。
また最初からのやり直し。明日から12ヶ月間一緒にお供しましょう2007年、宜しく。

2006年12月25日

2006年12月25日 ほなな

竹山涙の弔辞「天国で漫才やろう」


これはちょっとウルッときたなぁ。


「つめ跡どころじゃなくなっとるぞ」
「ありがとう。じゃあな。いつもと同じように別れるわ。ほなな」


このくだりが印象的。
こういうことを違和感なく言えるのが、竹山の良い所なのかも。


改めてご冥福をお祈り致します。

2006年12月24日

2006年12月24日 今日はクリスマス"・イヴ"

有馬記念。あんなものを見せられたら、さすがに何かにつけて文句を言いたい私も、何も言うことができません。最後まで凄かったディープ。天晴。でも、それよりも、ポップロックを堅実に二着に持って来たペリエよ。やっぱり素晴らしい。
来年はダイワメジャーとドリームパスポート辺りが中心だろうなぁ。しかし春の天皇賞はデルタブルースが最有力かしらん。
それにしてもダイワメジャーは相当良い馬だなぁ。まだこれほど走るとは・・・ 一年前には誰か予想しただろうか。


で、それは良いとして、今日はクリスマス"・イヴ"なんですね。
私は、クリスマスというのが大嫌いなんですよ。なぜなら、キリスト教の教えをどうしても受け入れられないから。
そしてクリスマスといえば、クリスチャンの間では最大のお祭り。
私は、宗教関連のことははっきりさせたいと思っているフシがありましてー大した理由はありませんがー、ま、そういう思想がある故に、どうしてもクリスマスは受け付けられない。


そもそも日本は、天皇を中心とする神の国・・・ではなく、明確な仏教国なわけです。お葬式を例にとれば一目瞭然。お通夜があり、葬儀があり、住職が来てお念仏を唱えるわけです。そういう国の中にクリスマスというものが、恰も国民的行事として予定されているというのが、おかしいと思うこと実に14回。
しかも許せないのは、クリスマスがクリスマス"・イヴ"だけで終わってしまうような雰囲気のあること。なんでやねん。24日のクリスマス"・イヴ"よりも25日のクリスマスが本番でしょう。25日になればクリスマスツリーを片付けたりしている店や、クリスマスケーキをほとんど売っていないケーキ屋があるというのだから噴飯ものですわ。斯様な事態を前に、本物のクリスチャンはいかなる心境であるや。


もう一度言いますが、今日はクリスマス"・イヴ"なんですね。
本番は明日なんですよ。
今日を本番とするのは、アホみたいに何ヶ月も前からホテルを予約しているカップルだけで宜しい。この場合、何の本番なのかというくだらない詮索もできるかもしれませんが、そういう下司なことはあまり考えない方が良い。


今日、クリスマスを“満喫”した連中が、一週間もすれば神社に初詣。
また、お葬式になれば、お寺の住職さんの後ろで、真剣な顔で、お経に触れるわけですね。
なんじゃそれ。これこそ秩序の崩壊ではないか。


それでも、クリスマスソングに良い曲が多いことは複雑だ。
ジョン・レノンの「Happy Christmas (War is Over)」は無思想な反戦歌で、理念より感情が先走っているけど、やっぱり良い曲。
日本では、山下達郎の「クリスマス・イブ」が定番だけど、私は大滝詠一の「クリスマス音頭」が好き。
あとはXTCの「Thanks For Christmas」も素晴らしい曲。

2006年12月20日

2006年12月20日 今は一本道

亀田のスタイルは嫌いではない。


今日の試合、内容だけなら亀田の完勝。これは間違いない。
しかし、王者の内容かと問われれば・・・
そもそも前試合から明らかだったけど、まずランダエタが強くない。


それでも、亀田のスタイルは嫌いではない。


まぁ、周囲の声なんか無視して、我が道を突き進む、みたいな考え方はどんな競技であれ、王者にとっては必須のモノだろう。バッシングとか否定的意見とか、そういうのにひとつひとつ取り合っている余裕もないだろうし、そんなコトする必要もない。
ただ、あの親父はやっぱりいかん。父親として、トーレーナーとして、息子(選手)と一緒になって相手を煽ってどうするんじゃ。


どこまで勝ち続けるか分からんが、勝っても負けても、我流で、ね。


最後に一つ。どうしても解せないのは、亀田のアノ挑発的な態度が、子供に悪影響だなどとぬかしている親ども。
子供がああいうのに影響されてしまうのを防ぐことや、そういう影響が感じられたら即座に是正するのが親の役割というモノだろう。
それとも子供が受ける影響の前では、親の力も無力だというのか。


普段からキッチリと親としてやることをやっていれば、あんなもの、子供にとって大した影響を及ぼすモノではないはず。
散々甘やかしといた常識知らずの我が子が、亀田のような挑発的態度も覚えてしまった。
果たしてそれは亀田のせいなのか、親のせいなのか。考えるまでもなく分かることでしょう。
自分が親としての役割を果たせているという自負が多少なりともあるならば、亀田の態度から受ける影響云々は杞憂ではないだろうかしらん。
・・・と思うのであった。

2006年12月14日

2006年12月14日 さて・サテ・SATE

誰とは言わないけど、実は「ベスト」な曲が1つか2つしかないのに、ベストアルバムを出している連中が多いような気がする2006年ですね。かと思えば、3〜4年に一度ベストアルバムを出して、そのうちスタジオアルバムよりベストアルバムの方が多くなるんじゃないか、と思わせるようなヒトたちもいる2006年の12月ですね。


さて、先ほどwikipediaで偶然「中村中」の項目を見たら、「本名同じ」と記載されていて驚きました。両親はもの凄く斬新な名前を付けたなぁ〜と感心致しました。しかし、私がなぜ「中村中」の項目を見たのかは依然はっきり致しません。


さてさて、先ほど久しぶりにJOJO広重の日記を見たら、11月いっぱいで終わっていました。そこで思ったのは、結局あの日記は何だったのだろうということです。まぁ、日記なんてあんなもんだと思う一方で、わざわざネット上に公開する必要性はあったのだろうかと思いました、かくいう私のこのブログも公開する価値なし!生きている価値なし。


さてさてさて、Sondre Lercheの3rdアルバム「Duper Sessions」はやはり謎多きアルバムです。なぜああいう風にシフトチェンジしたアルバムを出したのか、そしてそれが妙にハマっているのが憎いじゃありませんか。2ndがイマイチだった分、3rdで取り戻したという感じでしょうかね。いやはや恐れいったとでも言いましょうか。


さてさてさてさて・・・

2006年12月11日

2006年12月11日 こういう番組を見たい

テレビ東京年越しSP
「紅白に出よう!!」
12月31日 23:00〜1月1日 1:00


出演 江頭2:50、亀田興毅・大毅、大橋未歩(スタジオからの出演)

2006年12月08日

2006年12月08日 12/8(“おわり”は“はじまり”)

十二月八日。

それは三つの重大な出来事があった日だ。


まず1941年(昭和16年)の真珠湾攻撃。
すなわち大東亜戦争のはじまり。


次に1980年のジョン・レノン暗殺。


そして1991年のソビエト連邦解体宣言。


いずれもある象徴の終わりを暗示している。もっとも真珠湾攻撃は終わりへのスタートであるが。
これほど印象的な日はない。
しかし私の場合、それらを歴史的事実として認識しているだけで、いずれもリアルタイムで知ったわけではない。
1991年のソビエト連邦解体宣言の時に、私はまだ6歳、アホな小学1年生だったから、そういうものが出されたということなどは知る由もなかった。そもそもこの宣言自体は今でもあまり有名ではないようだ。だが、ソ連という一つの体制の終焉を伝えるものとして、非常に意義あるものだと思う。


上記の3つの出来事とは何だろう。それらの歴史的事象を、自らの運命の中において相対化し、普遍的で有意義なものとして捉えることは不可能だろうか。つまり真珠湾攻撃という事件によって「大日本帝国」が崩壊へのプロセスを歩み始めたことや、ジョン・レノンという今も尚愛され続けるミュージシャンが死んだことや、ソ連というある意味で“特殊な”国家体制が終わりを宣言したことを、事実として真正面から受け入れた上で、何を知るべきなのかということである。


今はまだ具体的なことはいえない。
しかし今後もずっと考え続けていきたいことではある。
「盛者必衰」などという言葉では片付けたくない。というか、そんな言葉は不適切かついい加減過ぎる。


「運命」とか「宿命」という抽象的な表現に騙されること無く、はっきりと物事を認識できる視野を持ちたいと再確認した十二月八日。今頃になってSonic Youthの新作「Rather Ripped」を聴いた日でもあります。遅ーよ。

2006年12月05日

2006年12月05日 流せ流せ

インパクト有馬記念当日に引退式


コレを見てまず思い出したのがタイキシャトルの例。
同じ事が起きるかもしれませんね。
まぁ、シンボリクリスエスになれれば良いんですけど。


で、それは良いとして、


NHKで痴漢騒動!女子トイレに男…中村まり、危機一髪!


これは何です!?
女子トイレにいるのを見つかって逮捕なんて恥ずかしいなぁ。
ちなみに、私は一度間違えて堂々と女子トイレに入りかけたことがあります。
入り口から真っすぐ進んで曲がると手洗い場があったのですが、そこで化粧を直している女と鏡越しに思いっきり目が合ったので、即座に引き返した嫌な思い出です。


・・・と、嫌なことは極力忘れて、


赤ちゃん:生後5カ月で人の顔認識 愛知・生理研が初実証


へ〜、そうなんだ。
ふーん。


実は、これにはあまり興味がないんですが、問題は次ですよ。


ミスチル、1週間で月間ランキングも制覇!


ぅうわぁ〜。
こんなで良いのか。もう知らん。


いや、これも正直どうでも良いな。
もうなんか惰性で書いてしまった。
どうか水に流して。

2006年12月03日

2006年12月03日 一文字検索

びっくりするくらい暇だから、googleで遊んでみた。
アルファベット一文字だけで検索した場合、一番最初に出てくるHPとはいったいどんなものだろうか、と。
以下A〜Zまで一つずつ検証した結果です。(2006年12月3日時点の記録です。)
暇なら見てください。

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2006年11月24日

2006年11月24日 except 6

JC、ディープは入着止まり。
そんな気がする。どうせ当たらないだろうけど。
馬券は買わないけど、買うならディープ以外を本命に。
っていうかディープ以外の、つまり6番を外した全ての単勝を買うのも面白いかもしれない。


私は馬券を買うとなると穴を狙い過ぎるから、ちょっと自重気味。
ホントは2歳戦線などが面白いのだけど、当たらないから手を出さない。
私の予感は世間一般の恋の予感と同じくらい期待できない。


う〜ん、でも、やっぱりこの際、配当なんか考えずにディープ以外の単勝を全部勝ってみようかしらん。
あまりにマスコミがディープディープ騒ぐので、私はディープ以外の馬に期待する。競馬の波乱ほど愉快なことはないからね。

2006年11月20日

2006年11月20日 ・・あっ。

日曜でも月曜でもどうだって良いじゃん。


黒海がさりげなく八連敗で負け越していた。


田嶋陽子みたいな女が日本を駄目にする。

2006年11月19日

2006年11月19日 ドアマット

アンカツの絶好調ぶりに驚いている最近、そろそろ寒さも増してきて当方にとっては非常に好ましい季節になって参りました。


さて、以下のようなおかしな記事を見かけました。


ボストン2紙が松坂のニックネーム募集


グローブ紙はすでにホームページ上で、600以上の応募から13の候補に絞って投票を実施。1万2000票以上が集まった中での1番人気は、代理人のボラス氏が付けた「D−MAT」となった。DaisukeのDとMatsuzakaのMATを組み合わせたもので、同氏の契約選手であるA−ROD(アレックス・ロドリゲス)からヒントを得ている。


ヘラルド紙は「D−MATはドアマット(お荷物球団の意味も)みたいだ」と酷評した。グローブ紙同様「Dice−K」が注目されていると報じた。意外な人気はDaisukeに似たつづりの「Daisy(デイジー)」で、読者から「評判通りの投手だったら、あまり男らしくない名前も格好良く感じるはず」との意見があったという。


松坂のニックネームは正直な所どーでもいーですけど、もう「D-MAT」ではなくて「ドアマット」にしてしまえば良いじゃないか。
一番覚え易かろうに。アメリカ人だけじゃなく、日本人にとっても馴染み易いと思うけどねぇ 「ドアマット」。


日本の「ドアマット」から世界の「ドアマット」へ!!
凄いのかどうか分からない出世だ。
日本の居酒屋のドアマットがホワイトハウスのドアマットになったのさ。


「ドアマット」完封! A-泥(ROD)を門前払い
とかいう一面記事を期待します。
オネガイシマス。

2006年11月07日

2006年11月07日 雲散霧消

いきなりこんなコトを言うのはオカシイけど、私はラブソングというものが大嫌いだ。
まず陳腐だ。そして臭い。さらにラブソングを歌っとけば良い、みたいな風潮が世間のどこかにあるのが嫌だ。最後に、やっぱり陳腐だ。
ラブソングなんて大ッキッライだ。


と思い続けているけど、先日偶然聴いた矢井田瞳の「初恋」という曲は良いと思った。
不覚!
なんで矢井田やねん、となるかも知れんが、それは私が一番突っ込みたい。


この曲は歌詞も臭いし、メロディーも平坦だ。
でも、なんか良い。
ドラゴンボールでいえば、ベジータみたいな良さがある。
ヘタレだけどプライドだけは無駄に高くて髪型も変で一人だけ悟空を「カカロット」と呼び続けてるけど、時々見せるあのコミカルな一面やあの犠牲的精神。
別のキャラでいえば、映画の時だけ優しいジャイアン。「コインロッカー・ベイビーズ」のアネモネが飼ってたワニ、「我輩は猫である」の寒月クン。もうなんかよく分からなくなってきた。


あんまり興味ないものに惹かれた時の、あの戸惑い・モヤモヤ感。
髪を切った後、初めて頭を洗うときの違和感。
昔好きだったミュージシャンを聴いて「なんでこんなの好きだったんだろう」と思う過去への罪悪感。
今日は休みだから遅くまで寝るぞーって思いながら、9時半とか10時とかいう中途半端な時間に起きてしまった時の妙に醒めた意識。
総理大臣が変わった後一ヶ月くらいの無駄な新鮮味。
朝日新聞の読者投稿欄。


さてさて、ラブソングなんてものは一時の虚像に過ぎないんですよ、あんなのはね。 永遠と思っちゃあダメですよ。ラブソング、満腹感、オナニーの快感ってね。全部直ぐに消えてしまうもんですよ。

2006年10月26日

2006年10月26日 何も無し

高裁がプロレスの八百長を認定


今頃騒ぐことではないのでしょうけど・・・やっとかよ!という感じであります。
そもそもk-1もPRIDEもボクシングもお相撲もどこかで八百長と思われるフシがある。格闘技の迫力とかを盲信してたら、そのうちショックを受けることになる。だから、おいっ!何だよ、今のは。ココは台本あるな、とか思いながら見るのが楽しいじゃないですか。


もしかするとヒョードルも朝青龍も、予め企図された最強王者かもしれんし…
裏では何があるのか分からないのが、格闘技の世界。


そんなものを断罪しようなどいうのは全く意味のないところで、八百長の存在を受け入れて、好意的な想いで声援を送るのもファンの在り方の一つではないでしょうか。


全てを真剣勝負だと思うか否かは、そのヒトの勝手でしょうが、私は格闘技をあくまでも一つの余興として見たいと思います。真実なんてのは、存外あっさりとしているモノです。血と汗、涙と情熱と努力。希望・勇気。さて、見つけられるかしら。

2006年10月24日

2006年10月24日 見たくないモノ

悲しい夢を見ました。
以下その話をします。


私はどうやらお偉い先生と面談することになったらしく…
その時のやり取り。


先生「ところで君、最近流行の歌というのは何だね」
私「流行の歌ですか・・・さ、さぁ、倖田來未とかじゃないですか」

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2006年10月18日

2006年10月18日 バッド・インスピレーション

阿部内閣の官房長官は・・・・


と言われてパッと名前と顔が浮かぶヒトはよくニュースを見ている。
「塩崎」という名前は出ても、ハッキリと顔まではなかなか出てくるものではない。ましてや下の名前など…


塩崎さんはスゴく地味だ。よく言えば「市民的」。なんじゃそりゃ。親近感は無い。
塩崎さんの選挙区まで即答できるヒトはどれ位いるだろう?おそらく関係者か、政治の専門家もしくは相当熱心に政治の動きを見ているヒトだろう。


地味だから悪いとか言うのではない。ただ気になるのは、これから塩崎さんにスポットライトが当たる日は来るのだろうか、ということ。いや、別に注目されなくても良いけど。私は塩崎さんの熱心な支援者でもないし。
なんかちょっと思い付いたから書いてみただけ。全てに意味はない。

2006年10月15日

2006年10月15日 連鎖反応

先日、近所の雑貨屋的な店で買い物をして、レジに並んでたら、前にいたおっさんが鳥肌実にソックリで驚いた。まず髪型が似てた。で、鼻筋も似てた。まさか本人だったんじゃなかろうか、と思うけど、それ以外のパーツが違ったので、多分別人だ。
しかし、今までソックリさんのような感じのヒトは何人か見かけたけど、鳥肌実のソックリさんというのは初めて。
あのヒトはいったい何だったんだろうか。わざと鳥肌実を意識してたのかもしれん。もしくは弟とか。いや! あんな兄弟がいて堪るか。弟は生粋の日本共産党員だったらどうする?おまけに創価学会員で。公明党は無視して。生活保護こそ受けてはいないけど、朝起きたら枕元に夏蜜柑が4つ置かれているんだ。ああ、巨大なジャムパンが攻めてくる。


さて、日本ハムが優勝して、森本稀哲をよく見るけど、驚いたのは、「ひちょり」と入力して「稀哲」と一発変換できたこと。まさかできるとは思わなかった。なんでもやってみるもんだなー。
残念ながら、今まで彼のことは知らなかったよ。多分まだ、私の知らない変わった名前の有名人とかスポーツ選手でも、その名前が一発変換できる人はいる。これからは折に触れて、珍しい名前のヒトを見れば、変換してみようと思います。

2006年10月04日

2006年10月04日 夢は夜ひらく

前々回と前々々回の続き。


結局3着に終わったディープインパクトだけど、よく頑張ったよ。
ただ、関係者はムチャクチャ悔しいだろうけども。


一同お疲れ様でした。


もうコレは散々言われてることだけど、明らかに"強い時の"ディープの走りではなかったからぁ。
せめてもの救いはハリケーンランより先着したことか。ああ、シロッコよりも先着してるな。まー、シロッコは(以下都合により省略いたします)


あれからよくレースを思い出すんだけど、う〜ん、今までに経験したことのない展開だったとはいえ、武の乗り方はそれほど大きな失敗ではないと思う。岡部さんが大川さんみたいに「まだっ!まだっ!」と叫んでたけど、追い出すポイントも悪くなかったよなぁ。いつものディープなら、あそこからグンッと伸びるんだけど、そうはいかないのが世界の大レースか。「ウイニイングポスト」ならキングジョージとか凱旋門とかBCとかを2連覇3連覇することも可能なんだけど、やっぱり現実は厳しいな。ああ、またバカなコトを書いてしまった。


やっぱり芝の違いかねー。


今後、陣営がどういう判断をするかは分からないけど、もし現役続行するならば、来年はエルコンドルみたいに早めから向こうに行って2,3戦使うべきだろう。
もう国内のレースは良いよ。


しかし、今回は久々にレース前の良い緊張感を味わえた。ここ久しく、私はどんなレースの前でも緊張感に包まれたことはなかったから(昨年の菊花賞前も緊張感はなかった。だってディープが負ける予感がしなかったからねぇ。今回は本当に結果が予想できない分、ドキドキした)、スゴく楽しい発走前だった。おそらく、ずっとディープを見てきて、凱旋門賞を楽しみにしてきたヒトなら、そのほとんどが緊張の一時だったんじゃないだろうか。
ただ、一部の現地に駆け付けた日本人の様子には閉口せざるを得なかったけれど。


というわけで、3回に渡って書いてきたディープインパクトと凱旋門賞に関するハナシ。
今回は勝てなかったけど、日本の競馬関係者は「ディープでも勝てないなら・・・」とか言わないで、出来るだけ挑戦して欲しいものです。
まずは挑戦しないことには何も始まらないんですから! と、どこぞのありふれた熱血教師みたいなコトを言ってオシマイです。

2006年10月01日

2006年10月01日 力を抜き続けてます

この前、"こち亀"が連載30周年とかで一部にて盛り上がりを見せていたけど、どうやれば30年も同じ漫画を書き続けられるんだ。
スゴいというより、もうなんか唖然とするような数字ですね。30年って。
"こち亀"の連載がスタートした時に生まれた人は、もう三十路。連載開始時に50歳だった人は80歳。30年って途方もない月日だなぁ。
こうなれば引くに引けなくなってるんだろう。「もう十分やったな。よし、そろそろ止めろ」とも言えるような状態じゃない。30年も同じことをやれば、相手に文句を言わせられない状態になることが分かりますね。


私も、何を30年続けられそうかって問われれば、無気力に生きることでなら30年くらいは余裕で続けられるかもしれん。
現にもう21年が経過している。あと9年? ハハー、余裕余裕。で、30周年に到達した暁には誰が祝ってくれるんだろう?

2006年09月29日

2006年09月29日 よーい、ドンッ!

前回の続き。
もうすぐ凱旋門賞。
今年はメンバーもかなり良いから、余計に楽しみだ。


まぁ、ディープインパクトの唯一の懸念事項といえば、ぶっつけ本番ということでしょうかね。
やっぱりエルコンドルみたいに早い段階で向こうに行って、一回使った方が良かった気もするけど…


ところでディープが勝ったとして、それは日本の競馬界のレベルをどれほど証明することになるんだろうか。傑出した一頭がいるというだけで、他はスルーされるような感じじゃないだろうか。
毎年コンスタントにヨーロッパやドバイやアメリカで良い結果を残せるようにならないと、世界の競馬人の目はそんなに日本に向かないとも思うけど。


たまに凱旋門賞馬がJCに来るけど、あれは賞金目当てとも思えるしなぁ。
ペリエみたいに毎年来てる人は、大体どんなもんか分かってるんだろうけど、そういうのはむしろ例外で、ほとんどの欧州人は日本の競馬界なんて気にも止めてないかもしれん。


ディープインパクトは世界の競馬人の中に、日本の競馬界を意識させるきっかけになって欲しいな。
仮にディープが勝っても、それは日本の競馬史的、凱旋門賞史的に見れば大きな出来事だけど、世界の競馬人の本質的なイメージを変えることはできない。
ディープをきっかけとして、どんどん向こうのレースで活躍できる馬が輩出できれば良いんですけどねぇ。
それは、当然競馬関係者もファンもずっと願ってきているんだけども・・・


まー、これはディープが勝たないことには始まらないし、今後それに近いレベルの馬が出てこないとダメ。
最近になって日本馬も海外で良い成績を残せるようになってきているから、広い目で見れば、日本の競馬界にとって、これからがある意味では正念場なのかも知れませんね。

2006年09月25日

2006年09月25日 もうすぐロンシャンの日

今、専ら気になっていることはディープインパクトがどんなレースをするかということ。
勝てるかな? 馬の能力は文句なし。ハリケーンランだって一蹴してしまう可能性もゼロではないよ。
っていうかハリケーンランは言われてるほど強くない気がする。
いや、強いけど。
無敵の強さではないな。フォア賞で負けたし。


フォア賞といえば、私が競馬に興味を持ちはじめた頃に、サクラローレルが凱旋門賞の前哨戦として使ったなぁ。
そこで故障発生して引退することになったけど。


バブルガムフェローとかマーベラスサンデーがいた時代だ。マヤノトップガンも。


バブルガムフェロー!バブルガムフェロー!バブルガムフェロー!
これは変な掛け声みたいだ。


とりあえず、六日後の凱旋門賞を心待ちにしております。
今週の目標は、「凱旋門賞まで死なない」です。

2006年09月16日

2006年09月16日 キリがないやりとり

林房雄には『大東亜戦争肯定論』という著作があるけど、あの本に対する世間のリアクションはもっとあるべきなのではないか、という気がずっとしている。と言っても、出版されてから、もう数十年の歳月が経過しているから、これまでに出てきたリアクションの数だけを纏め上げればそれなりの量にはなるかもしれんが…


何が言いたいかというと、もっと直接的な返しがあっても面白いのではないか、ということ。
それこそ『大東亜戦争肯定論』なんて刺激的なタイトルの本に対して、『「大東亜戦争肯定論」否定論』という本が出ても良かったんじゃないか。
そして、それに対して『“「大東亜戦争肯定論」否定論”否定論』とか『“「大東亜戦争肯定論」否定論”肯定論』という本が出ても良いかもしれない。
最終的には『“「大東亜戦争肯定論」否定論 肯定論 否定論 否定論 肯定論 否定論 否定論 肯定論”否定論』という段階にまで到達して、もう論旨がどこにあるのかも分からなくなり、「果たしてこの本は、そもそもの大元である『大東亜戦争肯定論』を肯定しているのか否定しているのか」という議論が繰り広げられるまでになれば良かった。そうすれば林房雄も呆れ果てて、あの世で『「大東亜戦争肯定論」肯定論 否定論 無意味論』という本でも書いたかもしれん。


と、また詰まらぬことをほざいてしまいました。

2006年08月29日

2006年08月29日 他所者は去れ!という声に怯え…

ツクツクボウシの鳴き声がツクヅク「ツクツクボウシ」と聞こえない昨今、夏も終わりに近付き非常に浮かれている小生ですが、今、一番カワイソウなのは、あの斎藤君と田中君で、それは一高校生なのにあれ程に騒がれて記者への対応とかも大変だろうと思ったりするからです。


先日発売されたコーネリアスのシングルは噴飯もので、最高じゃないかという思いがしているけど、もう聴きたくないという思いもしている複雑な気分。音楽はバカで良いと思うけど、意識してバカをやると大抵退屈なことになる。
小山田なんかはマジメにやってるんだろうけど、どうもバカに聴こえてくる時があって、それが良いんですが、この前出たシングルはダメだったと思う。というのはマジメだったから。
小山田で思い出したけど、小沢健二の「Ecology Of Everyday Life 毎日の環境学」というアルバムは良くて、初めて小沢健二が良いと思えた瞬間があった、訪れた。
このアルバムはなぜかどういうわけか漱石の小説とマッチする不思議さである。


もう知らん、糞みたいなブログで相済みません、他言は必要なし、で良いのか? 知らんがな。

2006年08月19日

2006年08月19日 無駄は無駄

今日は珍しくいっぱい更新した。
と言っても今まで書き溜めてたのを放出しただけだが。


元来、この糞みたいなブログは、何の意味も無いものでーというか、個人のブログに意味を持たせる必要なんてあるのか?ー、どうにかこうにか惰性で存続させようとしていたに過ぎない。


そこにお相撲の話題や音楽の感想などのカテゴリーを設けることで、多少なりとも充実したものにしようとしたのだ。
まあ、さっきも言ったけど、個人のブログに意義付けをすること程虚しくて哀れな行為もない気がするので、そんなに必死になって更新する意味もないと感じていた。しかし、あまりにも更新しないようなら、止めた方が良いのではないかとも思った。


「継続は力なり」というように、無駄なことでも続けることに意味があるかもしれん、ということで、今日は音楽のカテゴリーをいっぱい更新した。
これでほんの少しは充実したかな。でも、「音楽のカテゴリー」といっても、単に私が思ったことや感じていることを乱雑に書いているだけの、ほとんど無意味なものなんだけど…


ただ、やっぱり「継続は力なり」というように、続けることが忍耐。
雑文を書き続けることだって修行であると思って、これからも無駄なことを書いていこうと思っている。のでありますよ。

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2006年08月07日

2006年08月07日 残骸

最近、毎日のように亀田のことが報道されているけど、私は不思議に思うことが一つある。


あの〜、国歌斉唱。
T-BOLANのなんとかいう時代遅れチックなアホみたいな男がふざけた歌い方をしたこと。


アレは良いのですか?


あのように国歌をゴミみたいに扱う輩をわざわざ出してきたことが、まず第一の問題で、私はあの歌い方を聞いて苦情を入れようかと思ったほどでごわす。ジャッジと同じくらい、アレはダメ。


しかも"T-BOLAN"ってなんやねん。
マーク・ボランと関係あるのかどうかは知らんが、「不敬だ」と右翼から抗議が来てもおかしくはないと思う。


国歌斉唱から茶番だったんだから、もうどうしようもないやね。

2006年08月03日

2006年08月03日 天国(笑)

世界的に気温が上昇しているらしい。


嗚呼、これは何かの予兆なるか。陽が沈むとも涼しさ訪れんや。
いかにも。朝夕関係なく、陽は我を焼き尽くさんとし、その温もりを置きて立ち去らん。


・・・暑さでアタマがヤられておかしな日本語を口走ってしまった。
ところで天国なんてないよね。
天国があるとしたら、いったいどういう姿でいくのだろうか。
例えば、80歳で死ねば80歳の姿のままでいくのか。20歳で死ねば20歳の姿のままでいくのか。生後2ヶ月で死ねば生後2ヶ月の姿のままでいくのか。それなら、必然的に天国は年寄りだらけということになるなぁ。そんなバカな。
まー、百歩譲って死んだときの姿のままでいくとして、赤子はどうなるんだ?天国にいけば赤子も自立できるようになるのか。
そう考えると、どうも分からなくなる。
もしかしたら、天国なんてトコロは、私たちの想像を絶する環境で、姿なんてモノは無いのかもしれない。
霊魂みたいな存在だけで、感情のみを交換するような場所。年を重ねることもなければ、時間という概念に支配されることもない空間。感情だけが真空保存されたようになり、意識の繋がりのみで存在する。
それなら、まだ、理解できる。
想像し難いことだが。


こういうことを考えると、どうしても天国などというものの存在は曖昧で、最初にソレを提案した奴は見切り発車だったんじゃないかと思う。
人間の中にある死にたくないという無意味な希求。しかし、どれだけ望んでも、死は確実に平等に訪れる。
死後の我が身よ、果たしていかなるものか、という不安。
それを克服するために考え出されたのが、天国というモノの存在だったのではないだろうか。
所謂"この世"で死んでも、また"あの世"で生きられる。次の世界の創造。それがすなわち天国。仏教でいうところの極楽浄土である。厳密には天国と極楽浄土は大きく異なるものだが、死後にいき着く場所という共通点によってこの両者は交わる。
信仰心が篤ければ、死んでもまた生きることができるんだゼ。次はより素晴らしい世界で生きられるんだゾ。だからオレたちは宗教を大事にしなければならない? 生きるのではない、神様に生かされているのだ。それゆえワシらはずっと感謝のお祈りをしなければいけないんじゃ。


生をもって死を意味付ける。日本人は逆なんだろうなぁ。死をもって生を意味付けるんだろう。だから「死際」というものを大事にする。ここら辺に日本人が特定の宗教(特に西欧起源のもの)を強く信仰しない要因の一端があるかも分からん。

2006年07月15日

2006年07月15日 沈黙の中のざわめき

野口です。スイマセン間違いました。愚痴です。
フジテレビはわざと「すぽると!」のキャスターにあのバカそうなアナウンサーを起用したのだろうか、と思う最近は暑くて殺意すら覚えるが、あまり熱くなると増々暑くなるから、もうどうでも良いやと思う。最近の夏は、やっていやがると感じる。どんどん強くなる。この気温はジャイアンリサイタルよりも不快。ドラゴンボールの餃子の声よりも虚しい。


色んな雑誌で注目されてたチャットモンチーを見て、どうせコイツらの音楽はタレントでいえば和希沙也レベルだろ、と思ってアルバムを聴いてみたら加藤ローサレベルだったので驚いた。良いバンドじゃないか!
タレントといえば次々に年下のヤツが出てきて、ちょっと戸惑っている。SPEEDでさえ、私からしてみればお姉さんの年齢になるのに。しょこたんは学年でいえば1つ下なんだぜ。でも、ものスゴくお姉さんのような気がするんだけど・・・ 以前にダウンタウンの松っちゃんが「今でも高校野球を見るとお兄さんがやってる気がする」って言ってたけど、多分これと同じような現象なんだろう。
まぁ、そういうことで、いつの時代も17〜22くらいまでの連中が人気を集めるのね。そう考えれば、20代後半になっても生き残っているヤツはスゴいんだなぁ。


しかしアレですよ。酒気帯び運転をして死亡事故を起こしたヤツは問答無用で国外追放にすれば良い。あと禁煙場所で喫煙するヤツも。
昨日、そういうことを考えてたら、くるりとリップスライムがMステに出てきて驚くほどの糞曲をやっていたのには唖然とした。マイナスとマイナスが合わさってもプラスにはならないじゃねーか!


ところで巨人の連敗がニュースになってるが、これを機にプロ野球中継を地上波から撤退すれば良いんじゃないか?糞みたいなJリーグを見習って、糞みたいなプロ野球も地上波での放送を控えれば良いんだ。月3回くらいにして、深夜に録画放送で。


今、新渡戸稲造の『武士道』を読んでいるが、やはり日本は精神文化の国だと感じる。日本人と唯物論、日本人と形而上学。
長年に渡り「武士道」のような精神形態が日本人の根底に蓄積されたことにより、日本では非常に高度な文化の数々が構築されたのだろう。
今でも、日本人は外国人と比べて自己主張が少ないと言われる。私は、それで良いと思う。
なぜか最近はやたらと自己主張のできる人物が好まれる傾向にあるが、誰も彼もが自己主張の世の中なんて嫌だ。田嶋陽子を見てみろ!あんなのがウヨウヨ出てきたら、日本は滅びるぞ。
耐え忍ぶことだって必要だし、時には黙ることも必要だと思う。だから私は普段、人前ではあまり多くを語らないように心掛けている。しかし、そうすると必ず悪い人を見るような目で見られる。
ちょうど中村一義の歌の一節を思い出した。
「そんなにさ、しゃべんなくたって、 伝わることもあんだろ?」


YouTubeにある三上寛とSondre Lercheの動画は良いと思った。

2006年07月14日

2006年07月14日 暑いのはイヤだから死んでね

なんか糞みたいな生活してる中に、ちょっとした事象が絡んでくると、やたら忙しく感じますね。
「ザ・ワールド・イズ・マイン」が復刊されるみたいで、この夏の楽しみができました。
実は、私、今、ちょっと変な状況により小論文的なものを書く必要に迫られていて、いやはや大変です。まあ、原稿用紙の枚数でいえば50枚くらいのものなんですが、資料集めとかがねぇ。
こういうことやってると必ず思うのだけども、論文なんていい加減なものが多いのかもしれん。よく「論文捏造発覚」なんてニュースが出るけど、まだまだ気付かれていない所に、捏造モノがあるかもね。
そもそも引用なんて、都合の良いものを引っ張てきて提示してるだけかもしれんやね。自論の正当性を証明するために、微妙な一文を上手く見つけてきて、前後の帳尻だけ合わせて、さもまともぶって書いてたり。解釈が大きく別れそうなものを、訳知り顔で持ってきて論述してたり。微妙な言い回しで記述してみたり。っていうか、引用元のが「捏造論文」かもわからん。ちゃんと資料を吟味しなければならんから、大変だ、
全部が全部、素晴らしい論文なわけはないね。ちょっと文才に長けてるのを良いことに、巧く誤魔化して書いてるのも多いのだろうなぁ。
それなりのクオリティのものを書き上げるのは、相当至難の業です。


ということで、大相撲名古屋場所。例年の如くガラガラですけど、それなりに盛り上がっているのかな。
白鵬が初日で負けたのには驚いたし、朝青龍がほぼ万全なのも、ちょっと予想外だったなぁ。
雅山の大関復帰なんて、どれだけの人が期待してるのかしらんけども、白鵬の綱取りもちょっと困難かもしれん。期待はしてるんだけども…
それに栃東が良い感じなのも憎らしい。調子が良くて綱取りの自信があるとか言ってる時に限って途中休場するのに、その後の場所では驚くほど良い感じなんだから。


十両では、皇牙と皇司。
特に皇牙はイイなー。内容も悪くないと思うし。


まあ、そういうことで、またこれから、続きを書かなければいけません。
あと一息で終わりそうだから、鼻糞でも食べながら、できる範囲で誤魔化し誤魔化し書いていきます。
なお、この投稿も全て誤魔化しです。

2006年07月05日

2006年07月05日 あの〜、ね。うん。まぁ、

あの〜、ね。うん。まぁ、一つだけね。これだけなんだけどね。


日本政府ね。


え〜〜〜〜と、何を考えてるのかとね。


小泉の弱腰は何なんでしょうかね。政府はね、実際にミサイルがね、都市にでも着弾しない限り、大したリアクションをね、しないのかとね。朝鮮総連とかはね、滅びて良いからね。
国家は国民を守るようで実は守らないって言ってたヒトがいましたが、なんかそんな気がね、しなくもないというかね。


あの〜、ね。うん。まぁ、これだけなんだけどね。テレビ局もね、もうちょっと国民の怒りの声を隠さずにね、はっきりと報道すべきなんじゃないかとね。在日の連中にインタビューしてる場合じゃないでしょ、とね。


あの〜、ね。うん。まぁ、そんな感じなんですね。奥行きはない意見ですけどね。
ま、そういうことでね、さようなら、とね。

2006年07月03日

2006年07月03日 3SUN 産

最近、ビートルズ来日40周年ということでアチラコチラで特集が組まれているが、ここで突然、私のビートルズ好きな曲ベスト3を書いてみよう。


1位 A Day In The Life
2位 It's All Too Much
3位 The Fool On The Hill


1位と2位は不動。3位は流動的、今の気分では「The Fool On The Hill」だった。基本的に中期が一番好きなんだな。
よし、こうなったら、勢いで好きなものベスト3を列挙していく。大真面目に。

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2006年06月29日

2006年06月29日 夏の風物詩

LEE 30倍さあ、今年もやってきました! この季節です。
LEE30倍(+10倍=40倍)です。私の中では、コレこそが「夏の風物詩」といえるものです。


たまに冬になっても売れ残ってる時がありますが、基本的には、夏季限定商品。


普通のインスタントカレーは「辛口」でも「中辛」くらいの辛さしかないからイヤだ。
そんな中、このLEE30倍こそ真の辛口カレー。オンリーワン。


今年のは唐辛子が一つ丸ごと入ってるのがポイントみたい。
昨年のは「赤いLEE」ということで、本当に赤くて驚いた。見た目が辛いインスタントカレーは初めてだったからなぁ。インパクトでは昨年の方が上。


でも、辛さの方は変わることなく・・・・と思ってたんだけど、アレ? 昨年のより辛くないぞ!?・・
気のせいか?
いーや、絶対昨年の方が辛かった!
辛さ増強ソース(+10倍up)は昨年のと変わりないが、30倍の"本体"の方が若干レベルダウン?


・・・まぁ、それでも、他のインスタントカレーよりは、何倍も辛さを楽しめるから良いです。
今年の夏もこのカレーにお世話になりそう。
夏は大嫌いだけど、辛いものは好き。
だからLEEも大好き。
でもやっぱり夏は大嫌い。ぴゅーんって飛んでいけば良いのに。

2006年06月21日

2006年06月21日 三十路過ぎにて

中島みゆきの「空と君のあいだに」という曲はメチャクチャ素晴らしい。
"メチャクチャ"などという言葉で表現してしまうと、その瞬間に安っぽくなりそうだが、いや、本当に素晴らしい曲だ。


この曲は「家なき子」の主題歌で、当時、かなりヒットしたのを覚えている。
私は小学3〜4年生くらいだったはず。
「家なき子」は新聞やワイドショーなどでやたらと評判になり、私は最終回だけ、見た。
「今夜ついに最終回」みたいな煽りがスゴかったので、(それまで見てなかったけど)お父さんに頼んで最終回だけ見せてもらった。当時はパパがテレビのチャンネル権を独占状態だったという微笑ましい思い出だ。
最後のシーンは、街中でゴミ箱に捨ててあったポテトか何かを拾って、愛犬と分けあって食べているのを見る世間様の冷たい目に対して、「同情するなら金をくれ」というお馴染みの台詞で終わったと記憶している。


で、ドラマに連動して主題歌も人気になって、私の周りでも結構ウケていた。CDを買ってたヤツもいた。
今改めて聴いてみて思ったけど、小学生が聴いてもなかなか分かる曲じゃないよ、コレは。多分雰囲気とか曲調で聴いてたんだろうなぁ。


例えば

君の心がわかる、とたやすく誓える男に
なぜ女はついてゆくのだろう そして泣くのだろう
君がすさんだ瞳で強がるのが とても痛い
憎むことで いつまでもあいつに縛られないで


こんな歌詞が小学生に理解できるものかしらん。
こういう曲を10歳前後の子供が聴いてたなんておかしい。
今の坊やたちの間では、このようなことは無いだろう。
何も私の小学生時代が良かったと言ってるわけではない。
ちょっと変な現象が起きていたというだけ。
中島みゆきの曲などは30歳過ぎてから漸く理解できるものかもしれん。
太宰の小説が、30過ぎてからは読めないと云われるように、中島みゆきは30過ぎるまでは分からないとか。そんな感じなのかも…
となると、現在21歳の私なんかは"蚊帳の外"ということになる。
まぁ、そうだろう。歌詞に関しては表面的なことしか分かってないと思うよ。小学生の頃よりは分かるだろうけど、まだまだとても理解できるもんじゃない。
いや、でも、それでも、「空と君のあいだに」というのは素晴らしい曲だわ。

2006年06月13日

2006年06月13日 無風払暁ブルーズ

サッカー日本代表、私の予想通り敗北を帰し、世の中は粛々となる一方で時は淡々と流れ、現在午前3時55分を少し過ぎたところ。
私は風通しの悪い部屋で沈鬱な気分になっているのだが、この停滞した気持ちはワールドカップとは無関係である。
別にサッカーの日本代表が勝とうが負けようがオレの知ったことではない。オレは今、無性に暑い。
ただそれだけである。
気を紛らわす為に本を読んでいたが、それでも暑いのに変わりはなかった。
思い切って窓を開けてみたが、虫が入って来ただけで室温に大きな変化はないので、ますます嫌な気分になった。
あっ、今四時になりました。
もう寝ます。さようなら。
一晩中扇風機がコォーという羽音を響き渡らせる部屋にて。

2006年06月08日

2006年06月08日 スプーを描いてみた

スプーyahooのトップに出ていた記事とネット上の動画を見て、私もスプーというキャラを描いてみました。
っていうか、下手なスプーを描いたお姉さんのを模写してみました。んで、ついでに色付けもして、どうにか「本物」のスプーらしく見せようとしたんだけど・・・


説明するまでもありませんが、一応、左上のが本物で、大きい方が私の描いたモノです。


タブレットを使うよりマウスを使うべきだと思い、頑張ってマウスで描いたのだけども、う〜ん。
どう見ても別の生き物ですわ。
色まで付けたら南国フルーツの化け物みたいになってしもうた。


まあ、いいか。


…いや、やっぱり、なんじゃこれ!
絵描き歌がありながら、ここまで違ったモノを描けるなんて、ある意味快挙ですよ。
お姉さんスゲェーー!

2006年06月03日

2006年06月03日 イライラニッコリ

過去のことを思い出してイライラすることが頻繁にある。
数年前まで実家では「毎日新聞」をとっていたのだけど、それに連載されている「アサッテ君」という四コマ漫画を思い出してムカツいたのは今日のこと。
「アサッテ君」はあまりにヒドい。なんであの程度の糞漫画が、というよりおっさんの落書きが毎日毎日掲載されているのか分からない。もし「アサッテ君」のコミックがあれば、叩き付けて、破りまくって、小便かけて、どぶ川に捨ててやるのに。


レッチリのなんとかいう曲のPVが気持ち悪いのを思い出して、無性に腹が立ったのは昨日のこと。
そもそも最近レッチリが嫌いだということに気付いた。思い出せば「By The Way」はアホみたいに糞アルバムだったな。新作は聴く気にもならん。レッチリを聴くのなら松山千春でも聴くわ。


ハゲの松山千春で思い出したのは、中山秀征の不自然な髪型。それに対して腹を立てているのは今のこと。なぜこうもムカツクことが多いのか分からんけど、もしかしたらカルシウム不足なのかもしれん。カルシウム不足だとなぜイライラするのか分からんから、またイライラする。もう調べる気にもならん。


一方、どんな時に見てもムカツカないものがある、例えば、坂東英二の喋り方とか松村の物まねはどんな時でも平気だ。特に松村の達川と貴乃花の物まねは良い。
まぁ、そんな感じ。

2006年05月18日

2006年05月18日 発狂テレビ諦観

最近つくづく思うのだが、テレビ番組の制作者というのは気狂いじゃないかしらん。
つまらないプロ野球中継を無意味に延長してみたり、これまたつまらんゴルフを何時間も中継してみたり、総連と民団の和解という濃塩酸と濃硝酸を混合させて王水になるようなモノを嬉しそうに報道してみたり、ヤラセ見え見えのドキュメントやらバラエティを堂々と垂れ流してみたり、真実を伝えなければならぬはずの報道番組の司会者に髪型(禿げ)を偽っている男を出して視聴率争いでほぼ完勝してみたり、更にはその男がオリンピックやらワールドカップがある毎に職務放棄して観戦に行くのを黙認してみたり云々。


特に、最初に書いたプロ野球とゴルフはどうにかしてもらいたい。ゴルフ中継はプロ野球と比べて数が少ないのがせめてもの救いだ。
これらの競技ほどスポーツであってスポーツでないモノも珍しい。
そもそも野球もゴルフも時間が長すぎる、こんなもんはダイジェストで結果だけ放送すれば良い。
審判の匙加減ひとつでストライクゾーンが変化し、不利有利が簡単にコントロールでき、投手だけに負担がかかり、ちょっと動いただけでハアハア言う外野手を抱え、気に入らなければ何分も抗議をして観客を呆れさせ、乱闘が一番盛り上がり、引退後は偉そうにしてテレビに出て(出す方も出す方だが)いるOBがいて、その帽子が今やダサアイテムのひとつとなり、選手はアナウンサーとばっかり結婚し、ひとつの球団が中心であるかのような偏向報道がなされ云々。
方や観客は静かにしていなければならず、少しでも音をたてればプレーヤーはあからさまに不満な顔をし、野球の外野手なみに運動量が少なく、そのくせ賞金だけは高く、いかにも自分は美人であると言わんばかりの本当はブサイクな女子プロがもてはやされ、無意味にあちらこちらの森林を伐採して場所を確保し、上述のインチキ球技のプレーヤーに人気があり(運動量が少ない繋がりか?)、プレーするには金がかかり云々。


何が良いのか私にはまったく分からん。そりゃこの世にあるものはいかなるものでも揶揄の対象になるが、これらのモノほど揶揄してもし切れないものはない。
己の理解が及ばないものを嘲笑するのは人の常である、みたいなことをゲーテか誰かが言ったらしいが、なるほどそんな言葉がしっくりきそうな気分である。そもそもいかなるものにおいても理解できない面というのはある。それを理解しようとはせず嘲笑するとは何と愚かしいことだろうか。人格の破綻!


総連と民団の和解は濃塩酸と濃硝酸を混合させて王水になるようなモノだと言ったが、プロ野球選手がゴルフをするのもそれとまったく同じことだといえるのではないか。


やはり嘲笑してしまうのか。
・・・まぁ、そんなわけで最近見るテレビ番組は「名探偵モンク3」と大相撲中継と競馬とB級映画と格闘技とフジの「ニュースJAPAN」の滝川クリステルがメインになりつつあるのです。
相撲や格闘技も胡散臭く感じられる時があるけど、野球やゴルフのそれに比べたらまだマシだ。それに競馬だってレース"だけ"なら何も問題はない。そこは割り切っている。
結局テレビに映るモノなんて信じたらいかんのかもしれん。
でも、滝川クリステルの笑顔だけは信じたいと思うのだ。

2006年05月10日

2006年05月10日 表裏一体

こういうサイトを見つけたのでやってみました。
適性・適職診断だと。
50の質問にYes or Noで答えていけば、自分の適職を出してくれるらしい。
こういうのを普通にやってもさして面白くもないので、自分の意とは反対を答えてやってみました。つまり私自身が「Yes」と思った問いにはあえて「No」を選択し、「No」と思う質問には「Yes」を選択する。そうすることで、自分とは真逆の立場のモノが知れるのではないかと思ったのです。
が・・・・・


その診断結果がコレ。
仕事 研究ひとすじに打ち込むか、こだわりの仕事で活きるタイプ
性格 引っ込み思案の研究室タイプ


えーと。コレ正反対のはずなんだけど、ド真ん中直球普通の私なんだけど。
私は複数のことを満遍なく上手にできないのです。何か一つのことに徹底的にこだわりたいタイプ。部屋の掃除だって一部屋4時間くらいかけますから。あんま関係ないけど。
だから「研究ひとすじに打ち込むか、こだわりの仕事で活きるタイプ」ってのは、全然正反対ではないと思うのです。
性格の「引っ込み思案の研究室タイプ」ってのも普通の私。思いっきり引っ込み思案で出無精。引き蘢りと条約提携結びかけてますから。用がないのに出歩くようなのは白痴じゃないか!


特に向いている職種は?
理学系の研究者、図書館員、学芸員、文献研究、調査発掘関係、翻訳、税理士、公認会計士、執筆業、著述業、プログラマー、行政書士、メカニック系、歯科技工士など


なんか私がやってみたい仕事ばっかりだ。
理学系の研究者、文献研究、調査発掘関係、翻訳、公認会計士、執筆業、著述業なんて出来るならやってみたいです。これが正反対かよ。


補足。

自分の価値観や夢のなかに閉じこもってしまうタイプです。普段はわりと引っ込み思案ですが、だからといっておとなしいタイプでもありません。周囲に対する気配りややさしさには無頓着で、こうと自分で決めたことを忠実に実行していきます。ただし、行動力にやや欠ける傾向がありますので、積極的に実行していくことは意外と少ないでしょう。


周囲の雑音をそれほど気にしないのもこのタイプ。がんばり過ぎる傾向がありますが、本人にとっては苦になりませんのでいい成果を出すことができます。


これはかなり的確に私を言い当てているような気がする。
実際行動力なんて無いしなぁ。気配りややさしさにも無頓着といえば無頓着かもしれん。
がんばり過ぎる傾向というのも言い当てている。ていうかどうでも良いことに熱中しすぎるんだよな。高校生の頃勉強はせず100時間くらいかけて画像を使いまくった競馬関連のサイトを立ち上げたことがある。当時としてはかなり重い部類に入るサイトだった。
すぐに放置することになったけど、作ってたときは一度も止めようとは思わなかった。できることなら学校を休んで続きを作りたいと毎日考えていた。


…と、今回の診断は私であり私でない結果を提示してくれました。
まー こういうこともあるわ。
でも、ちょっと自分が分からなくなってきたので、仕方ないからどこかでプチ流行しているような"自分探しの旅"にでも出ようかしらん。

2006年05月04日

2006年05月04日 うわっ 俺文才無いな!

うおおおおおおおおおおお!!!!


助けてくれえええええーーーーー


ピストルを持ったおっさんに追いかけられている!!!
俺は、夕日が差し込む窓を右上に見ながら、必死で階段を駆け上がっている。
後ろを振り返った。おっさんは全身黒の衣で身を覆い、涼しい顔で俺を追って来ている。
俺は、逃げるのに、必死である。まるでライオンに追われるシマウマだ。
おっさんの視線は俺には向けられていない。ちょっと俯いたような様子でひたすら階段を駆け上がっている。
俺は、泣いた。恐くて泣いた。
涙で霞む目で、夕日が差し込む窓を見上げた。


・・・・・!!!!


茶色の長いコートを着た軍人らしい顔のおっさんが、必死で階段を駆け上がっている。
その軍人顔も、何者かに追われているかのように必死だ。
俺は、声を荒げた。


「た、助けてくれ!」

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2006年04月28日

2006年04月28日 「田舎」の中の「都会」

昨日、黄金週間により久しぶりに実家へと戻る。帰省。
私の実家は四国の某所なのだけども、瀬戸大橋を渡って四国に入った後電車の車窓から見えたのは畑と山と海に細々とした民家のみ。
高層ビルや繁華街のようなものは全く見当たらなかった。
長閑な田園風景は21世紀の最先端文明とはとても同化できそうも無い雰囲気を持っており、いつの日にか見た貧しい東南アジアの田舎町をも連想させるものであった。
そんなような景色だから、所々にある地上7階建てくらいのマンションでも一層際立って見えるとともに、一人だけ無理して威張っているかのような風さえ漂わせていた。それが心持ち悪く感じられた。
田舎なんだから無理してそんなものを造る必要も無いのにと思ったが、あれでも一応成り立ってるみたいだから、それなりに入る人はいるのだろう。周りが田んぼだらけで、近くに大きな工場もなければ、市街部のようなものも無いのに、地上7階建ては無理し過ぎじゃ無いかという気もしなくはないが・・・


ただ、こういう所に住んでる人たちは「これでも結構都会になりまして」などと言うからおかしい。私の母親なんかもそういう素っ頓狂なことを平然と言うものだから、どうして良いか分からん。
「都会になる」と言うその言葉自体も曖昧だが、ここでいう「都会」とはある程度賑やかになってきたことを言うのだろう。
そりゃ東京や京都・大阪・名古屋なんかから見ると四国なんかは明らかなる「田舎」であるが、現地の人が昔を振り返りつつ現在の光景を思うと、こういう田舎も忽ち今では「都会」になってしまうのかもしれん。
要するに感覚とか視点なんかの違いだね。


まあ、でもこういう所は静かで良い。「都会」の街中で見るアホみたいな女子高生やバカ騒ぎしている男共は見当たらないし、忙しそうなサラリーマンなんかも滅多に見ない。それに歩行者もほとんどいない。バスや電車の利用者は少なく、どいつこいつも車にばかり頼っている。だから見た目は田舎のクセに、道に出ると「都会」と同じ臭いがする。田舎街もカッコつけて香水だけは都会と同じものを愛用してるなんてねぇ。


とりあえず、道の臭いこそ田舎らしくないが、それ以外には何の特徴もない丸禿げのような所(場所によってはコンビニすら探すのが大変なほど)だから、平和なことは間違いない。
「都会」生活が息苦しくて死にそうだと感じているような連中は一度来てみると良い。一瞬で悟りが開いたようになるかもしれんよ。私は残念ながら全然そんな気にはなれんけどさ。

2006年04月21日

2006年04月21日 愚者も積もれば賢者となる

あったら入りたい部活動ランキング!


こういう現実を無視したランキングは良いですね。


仮にこういう部が存在していることを考えてみると…
まず1位のお笑い部なんて、どうせバカ騒ぎするだけのモノに成り果てて、すぐにその存在意義が問われるでしょう。
続いて2位のダイエット部。わざわざ部活でやる必要なんてない! 一人でやれ。どうせ意志の弱いヤツが、部活でやれば、大人数でやれば、自分もその中の流れでダイエットできると思ったんだろう。そういう甘い考えのうちはいつまで経っても痩せられんよ。
3位のカーリング部と5位のフィギアスケート部は私立以外にはなかなか作れそうもないけど、1位2位よりはよっぽどマシです。でも単に流行を意識した回答という感じもしますが。
あと6位のゲーム部と10位のカラオケ部と12位の麻雀部。貴様らが自分で金出してゲーセンなりカラオケボックスなり雀荘なり行ってやりやがれ。なんでも学校でやろうとするな。死ね。
最後にファッション部とホスト部ですが・・・ 浮かれ過ぎるな、糞ガキ共!!


…と言うことでね。


・・・しかしよく見てみると、コレ 半分くらいがアホの回答やがな。
中高生を対象にしてるって、いったいどんな中高生にアンケートしたんじゃろうか。
中高生の皆が皆こんなアホな回答するとも思えんしなぁ。
これだから、オリコンのランキングというのは信用できん。
いい加減テレビでも、ココのランキングをさも正確であるかのように伝えるの止めれば良いのに。
まっ、メディアの発信する情報なんてどれも疑ってかかった方が良いような状態だから、こういう結果が当たり前の様に出てきても不思議では無いといえば不思議では無いんですが・・・

2006年04月19日

2006年04月19日 嘘のすゝめ

この前、ふと寝起きに小学5年生くらいの頃のある記憶が脳裏を掠めた。
それは、私が何か些細なことを仕出かして、当時の担任にあれやこれやと詰問されていた時のことである。


私は元来狡猾な面を持ち、全速力で事なかれ主義の道を歩んできたようなヤロウだから、その時も極力自分に及ぶ害を少なくしようと試みていた。
要は窮地に陥った政治家の如く曖昧な答弁を繰り返していたのである。


そうしていると、その教師はいよいよ私の煮え切らない言葉の数々に、決壊した防波堤の如く怒りの波を抑えきれなくなり、”ドンッ!”と机を叩き上げるや否や、「嘘をつくなー! 自分のやったこと事くらいはっきり言え!」と声を荒げた。いや、荒げたなんてモンじゃない。盛大に打ち上げたと言う方が良いかもしれん。
あまりの大きな声にクラスは静まり返り、視線がこちら側に集中する。
私自身、小学生の時分は実に要領を得ないガキだったので、こうして怒鳴られたことは幾度かあった。
しかし、いつ何時誰に怒鳴られようとも、この曲がるべくして曲がったような根性が真っ直ぐに向き直ることは無かったし、自分自身あえて方向転換しようとも思わなかった。
それゆえ、今でもたまにその性格を咎められることがある。


私が思い出したのは、そうしたほんの一瞬の記憶であり、別に大したオチもなければ、なんの急展開を見るわけでもない。
今となってはどーでもいーよーな、単なる子供時代の苦々しい思い出が蘇ってきただけである。


が、その直後、コノ教師の言動に矛盾を感じて、寝起きのはっきりしない意識の中でちょっと考えていた。
「嘘をつくなー!」と言う発言はつまり、嘘はいけないということだ。
そういえば、あのヒトはよくそういうことを熱弁していた。いかにも小学校の教師が言いそうなことだ。将来を担っていく子供たちに「必要であらば、どんどん嘘をつきましょうね」などと言えるわけがない。
嘘をつくのはいけないことだ。それは間違いじゃないかもしれん。でも、そんなことを言う資格を彼は有していたのだろうか。彼は絶対に嘘をつかないお方だったのだろうか。
そう考えると、そのセンセイの言った「嘘はダメ」的な発言そのものが、もう嘘、偽りのような気がしてきた。
誰だってちょっとしたことに対して嘘をつくことはあるだろう。いわんやそれで自分が少しでも良くなる状況においてをや。である。


ただ世の中の仕組みを根底から揺るがしたり、ある個人の生活を狂わしたり、名誉を著しく毀損するような嘘、これは絶対にいけない。そんなのは当たり前だ。
でも、である。決して大きな問題にならないような事柄に対してまでも、一切の嘘を認めないというのは、そりゃアンタ 遠回しに世の中の在り方そのものを認めないと言うようなもんでっせ。


まー、確かに場合によっては嘘も悪くないと言ってしまっては、教育上良くないかもしれん。しかし、だからと言って絶対に嘘をついてはならないと雄弁に語っているようなのは、それ自体もまた嘘じゃないか、と考えて私はその後二度寝するに至ったわけであります。


今なってはさすがに寝起きだけあって、変なことを考えていたもんだとバカらしく感じるが、こういうことも考えていたという記録をここに残しておく。
ああ、また眠くなってきた。今度の寝起きにはどんなことを考えているのかしらん。

2006年04月13日

2006年04月13日 フィヨルドの成人

最近は暇さえあれば、本を読んでる。
太宰治の「人間失格」がこんなに面白い話だったのかと、今頃になって実感。
あと宮沢賢治なんかも面白い。
宮沢賢治って童謡作家というイメージがあるけど、この人が本気になって小説を書いてれば、おそらく芥川や漱石に並ぶレベルのモノを書いてたんじゃないかと想像。


まっ、そーゆーわけでひたすら本を読んでいるわけだけど、それはさておき、最近あまり暖かくないから嬉しい。
アテにならない天気予報によると、今週はすっと肌寒いようだ。ワーーーイ。
これくらいの気温だと、なんとなく安堵感がある。
暑くなるとイライラして話にならないタチなんで。


多分ハワイとかそういう系の南国では生活できないなぁ。
海外で生活するなら、もう私には北欧しかないとずっと肝に銘じている。
やれ白夜だやれフィヨルドだのいうのを、中学の地理でやったのを思い出した。
フィヨルドはどうかしらんが、白夜は良いかもしれん。

2006年03月29日

2006年03月29日 グッバイ冬

もうすっかり春。夏が好きではないボクは、これから暖かくなるにつれてどんどんテンションが下がっていく。やがて暑くなると死んだようになる身だ。そういえば今冬はインフルエンザが大流行すると言われていたけど、いったいどうなったのだろう。まあ、とにもかくにもこれからの季節はボクにとって決して良いものではない。温かさの中では生き辛いのね。こういう温かさへの苦手意識は、ボクが北国に多少の憧れを抱いていることとリンクしているのかもしれん。ボクは南国よりも北国が好きだ。北国の冬、強いては正月に何とも言えない風情・日本文化特有の重みを感じる。それは幼い頃に見てきた昔話の影響かもしれない、と最近思うことがある。例えば「笠地蔵」。例えば「鶴の恩返し」。例えば「雪女」。そんな物語の舞台である雪国の光景に潜在的な憧れを抱いているのかもしれない。雪国といっても都心部はダメだ。田舎じゃないと。それこそ昔話のような。宮沢賢治の童話に出てきそうな田舎が良い。 ・・・とは言っても実際に雪国の田舎で生活するとなると、それは苦難の連続だろう。でもテレビで白川郷みたいな光景を見ると思わずハッとしてしまう。こういう思いは別に国内に限ったことでは無い。ボクは北欧などにも憧れを持っている。北欧のアルプスの麓にある町なんかは実に奇麗な景色だ。雪はモノを美しくする。スキーをしている人たちがやたら格好良く見えたり、可愛く見えるのもそのせいだろう。雪による錯覚。それでも良い。ボクが雪のある場所に惹かれている理由が、たとえ錯覚によるものであったとしても悪くは思わない。大自然の姿に騙されたとしても嫌ではないのだ。そんなことを思いながら春の訪れを迎えている。冬はもうすっかり去ってしまった。また7〜8ヶ月後に会おう。

2006年03月13日

2006年03月13日 乙女心とWBC審判のジャッジ

A・ロッド曰く「日本人は野球のルールを知らない」アメリカが日本にサヨナラ勝ち


さすがアメリカ、これぞアメリカだという試合を見せて頂きました。いやぁ、スゴい。
まさかまさかの危機脱出。小泉並みの幸運。8回のアレ、抗議してなければその後アメリカはどうなっていたことか。


背後に政治絡みのアメリカン。何絡みかは知らんけど、組み合わせだってアメリカは恵まれているしね。
そんな状態で日本なんかに負けるワケがないのですよ。さすがメジャー軍団を集めただけはある。
やはりアメリカは世界一です。


しかし、日本チームも大健闘じゃないか。正直あそこまで接戦になるとは思ってませんでした。
相手の方に行きそうな試合の流れを最後まで食い止めてましたね。
それだけじゃなく、チャンスだって多く作れてたし。
まあ、若干意味不明な継投もあった気がするけど、それでもよくやった。スゴかった。


ただ、どうやら西岡選手のタッチアップが悪かったようで・・・・
細かな点も見逃さなかったアメリカが一枚上手だったみたいです。
本当に彼等は素晴らしい目をしている。そう、これが日本の敗因。アメリカ人の目の良さを想定してなかったんだよなぁ。
あと審判の心変わりが乙女心並だったことも想定外でしたね。


とにかく次の試合、アメリカ人の目の良さ(悪さ)と審判の乙女心に注意すれば、また好ゲームが期待できるんじゃないでしょうか。
アメリカ人の細かな点も絶対に見逃さない超人的な能力を目の当たりにして、モチベーションが下がってなければの話ですが。

2006年03月09日

2006年03月09日 JRは女尊男卑か!?

しかし、電車の女性専用車両って意味あるんスかね。
女性専用車両はゆったりしてて、普通車両は混雑している風景をよく見るんですけど。
以前「おお! 今日は空いてるな」と思って乗ってたら、どうやらそこは女性専用車両だったらしく、駅員に「ここは女性専用車両だから移動をお願いします」って言われたことがあります。
もちろん移動した先の普通車両は混雑してましたが。
なんかここまでくれば男尊女卑ならぬ女尊男卑という気がします。


電車繋がりで、もう一つ。
以前JOJO広重が日記で、電車に乗っているサラリーマンには目つきの悪いヤツが多い、みたいなことを書いてたけど、本当にその通りだわ。
目つきの悪いサラリーマンは電車内に集まってくるのか?
しかも大抵が30代くらいのヤツだし。
なんかああいう連中を見ると、実に変な気分になって、女性専用車両に逃げ出したくなります。

2006年03月03日

2006年03月03日 ウソつきは英雄の始まり

「ギャグマンガ日和」7巻と「キーチ!!」8巻を購入してきた私ですが、あまりに対照的な漫画を購入したことに自分でも違和感を感じている夜でございます。


さて、ここ二週間くらい腹が立ちまくって視界が悪くなる程天気が悪い日々が続いていて嫌になります。そりゃ雨が降らなければ大変なことになりますが、ここ二週間くらい「梅雨かよ!」と思うような日々(所謂"グズついたお天気"というヤツ)ばかりで、私もうんざりです。


ガラっと話題は変わって、鳥肌実ではないけれど、「部屋を掃除していたら何も無くなり」そうな気がしている今日この頃です。
好きな女優は松坂慶子と松尾嘉代ではございませんが、北朝鮮にはテポドンを!には賛同したい気持ちがあるかもしれません。


それにつけても、日本アカデミー賞なんてつまらないモノを放送するくらいなら、何か適当な映画でも放送しとけよ、と思います。そんなもの明日の新聞の片隅とかYahooのトップニュースにでも出しとけば良いじゃないか。
そもそも映画にそれほど興味のない私にとっては、映画賞なんてどーでもいーのです。


ということで、今日はこの辺でお開きにします。チャンチャン。

2006年02月25日

2006年02月25日 Where Is 踏み台?

春眠暁を覚えず、とはよく言ったもので最近の春のような陽気の日々にあっては私も起きるのが嫌になります。
もうこの際、暑くなるまで布団の中で生活したいくらいです。
ずっと布団の中でいられるような体質になれば良いのに。


ところで、最近"ある"踏み台を探しているのですが、なかなか見つかりません。
誰か俺の踏み台になってくれ、とは言わないけども、探し物が見つからないと非常にイライラしますね。
踏み台探しなんか止めてしまおうかとも思ったりしますが、一つのことをやり出したら止め難い性格ゆえに困ります。


私の踏み台は永田議員ばりに行方知らずです。もしかしたらどこかの病院に潜んでいるのかもしれん。
ちょっと明日からは色んな病院に行って探してみるか。

2006年02月12日

2006年02月12日 メダル取りぃ〜の!

いやぁ、昨日は怒濤の勢いで更新してしまった。
昨日だけでも6回も投稿してるよ。どんだけヒマやねん、と。しかもどれも長文のものばかり。
実は今まで書き溜めてたり、以前に別のトコロで書いていたモノの移植を行ったワケです。


そんなこんなで、今は2月12日(日)午前1時30分のチョイト前です。トリノオリンピックの中継を見ながら今日の分を書いてます。


私は「とくダネ!」の小倉さんじゃありませんから、オリンピックにはさほど興味は無いのですが、ちょっとモーグル女子の中継を見ていたら面白くてつい見入てしまいました。


モーグルってどういう経緯でできたか知らんけど、不思議な競技ですねぇ。
ていうか冬季オリンピックってモーグルとかカーリングとか変な競技ばかりである意味面白いな。


で、モーグルですが・・・
ああ、上村愛子の可愛いさは反則だ。ルックスだけで応援したくなってしまうぜェ。
いつの時代も綺麗だというのは特ですね。
カワイイ上に空中でグルングルンってなるんだから、もうどうしようもない。誰も何も言えない。


さてこの後はいよいよ決勝です。愛子ちゃん、トリノでメダル取りぃ〜の。

2006年02月07日

2006年02月07日 いや うがい薬だろ!

うがい薬イ・ソジン


某テレビ番組で「※うがい薬ではありません」ってテロップとともに紹介されてたけど、日本人なら「イソジン」と言われれば絶対にうがい薬を連想する!
だからコイツは無い。あってはならない!
もうこの際"ウ・ガイ"とかって名前に変えた方が良いんじゃないか?

2006年01月17日

2006年01月17日 小嶋さんちの進君

小嶋進クンヒューザーの小嶋社長の証人喚問。
なんじゃあれは。何が「刑事訴追の恐れがある」じゃ。アホか。それは暗に疑惑を認めているということか。
本当にあのオッサンはおかしい。こんなこと言うとマンションを購入した人たちには申し訳ないけど、小嶋を巡る周辺はかなり面白いことになっている。
安倍や石原慎太郎の名前まで出てきたし、まだ政治家との関わりはあるだろう。
ていうか、ここまでくれば焦点は偽装問題より政治家との関わりを追求して頂きたい。そうなれば当然報道できないことも幾つかあるだろうし、隠蔽されることもあるだろう。
それでも、是非やって頂きたい。今間違いなく小嶋周辺が一番熱い!

2006年01月15日

2006年01月15日 どーでもいーことを・・・

どーでもいーことというのが多すぎる
例えば センバツの行進曲が「青春アミーゴ」という曲に内定したことや、ジェネジャンでのふかわとペトロ三木のやりとりや、JOJO広重が日記で書き綴っている苦悩や、芸能人の結婚・離婚問題など。


そしてそんなことをわざわざ取り上げて書いているこうした作業もどーでもいー。
そもそもブログなどといいうものは、そのほとんどがどーでもいーものだ。
でもどーでもいーことをマジメにやるというのが、ちょっとだけ面白かったりもする。

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