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2008年11月16日

2008年11月16日 面従腹背

The Man With The Horn朝っぱらから久々にマイルス・デイヴィスなどを聞いていますと、そのトランペットの音律に誘われて妙な哀愁感を身に纏ってしまうのですから、まったくもって不思議なものだと思います。
──マイルスの遺作となった「Doo-Bop」に、復帰後第一作「The Man With The Horn」
前者はヒッポホップという当時の先端ミュージックとの融合を大胆にも企てた一作。後者はマイルスが最も刺激的だった「Bitches Brew」以降、一段落した時期に発表された一作。前者は何度聴いても曖昧な印象だけしか抱けないのに対し、後者に関してはとても音が分かりやすい分、すんなりと入ってゆけるような感を覚えるのです。受容しやすい。それはマイルスのトランペットがとても明快で音色に富んでいて、また一種「大衆向け」といった趣きさえあると表現しても良い気がします。ただし、一曲目「Fat Time」のヒリヒリとするような緊張感あるマイルスのトランペットとギター/ベースの混合や、最終曲「Ursula」の妙にタイトな旋律などは「On the Corner」からの異物的な派生状態の如き面白みがあるように思われて、これらの曲に関しては「哀愁感」というよりは「(秘めたる)勇壮感」とでも形容した方が相応しい様な、──まぁ何とも言い辛いのですけど、確かに聴くものを高揚させるナニモノかがあります。コレは確かです。他方で表題曲に関しては、ああ、なんだこのヴォーカルは。これぞ中年の哀愁感か!? 「Fat Time」、「Ursula」というスラムダンクの流川楓的な雰囲気の曲にサンドイッチされるカタチで、中にこうした曲が混入している点が、このアルバムの奇妙な点であり、また捉えようもなく神秘的でありつつ同時にどこかしら世俗的な態様を示す要因になっているのでしょう。
傑作とか名盤とかそういう枠組みでのみ一枚のアルバムを聴くというコトの無意味さ、空虚さ、儚さ、ロクでもなさ、視野の狭窄、単一の価値観に基づく姿勢の愚劣さ、弱い犬ほどよく吠える的な威勢の空回り…… そういった気持ちを抱かないではありませんが、所詮私などは素人、具体的な作品云々についての総体的評価なぞはソノ筋の専門家が発言すれば良いコトで、素人は素人なりに良いと思うモノを、それだけを選択して、また更に吟味して、自らのなかで己が特有の感慨を発酵させれば良いはずです。


一編の連続した物語よりも、単一の事象の方が何かを変えるコトだってあると思います。単体の、ある一点の極めて突出した素晴らしさが、全体としてのトータル性において平均レベル以上には優れているが、しかし決定的なインパクトに欠けるモノをアッサリと追い落とすコトだって珍しくはありません。私はそう思っています。モチロン、総合力として革新的な魅力を備えているモノが最上なのは申すまでもありませんが、かようなモノはそうそう現れはしない。そうであれば、日常的なハナシ、単一の秀逸的なる存在が、凡百の一貫した完結性ある平均物を打ち破るといった事態は何も珍しくはないのです。イヤ、むしろ、世の中の変化とは、往々にして単体の異常な飛躍が漸進的に拡大してゆくトコロから生じるとすらいえるかもしれません。
私にとって「Fat Time」、「Ursula」は、そのような優れた飛翔する単一の実在として数えられるモノなのです。


※意味ありげなタイトルほど実は意味がない。そして・・・意味ありげな文章ほど実は意味がない。

2008年11月09日

2008年11月09日 我が悲劇の世紀末

小学校の校歌は一番だけ歌えるのです。伊達に六年間来る日も来る日も通いに通ったワケではありません。でも、不甲斐ないコトに、中学と高校の校歌に関しては惨憺たる有り様なのです。コレが全く思い出せない。歌詞もメロディーもその片鱗を表しません。著作権以前の問題です。困りましたねぇ。こうなっては校歌の存在自体を疑わしく思っても仕方無いでしょう。(そうは言っても存在していたのは間違いのないコトなのだから、本当に疑わしいのは私の記憶力の方だ。)
中学の校歌は、音楽の授業で散々練習させられました。特に入学直後、一年生の一学期は何度も何度もうんざりするくらい歌わされた記憶があります。ですが、今となっては全く何も、その面影すら浮んできません。高校においては、音楽の授業が選択制で、私は音楽ではなく美術を選んだため、練習する機会すらありませんでした。…イヤ、正確に言うと、終業式や卒業式の前日とかに、「明日は校歌を歌わなければいけないので練習するぞ! エイエイエオー!」ってなコトで、朝会か集会の時に幾度か練習した様な気がするのですが、どうもハッキリとは覚えていません。──そんな記憶は大して必要ないのですから、覚えていないのはある意味で理に適ったコトなのかもしれません。が、私は校歌そのものをまったく記憶していないのだから、その意味では理に適っていない。先日逮捕された小室哲哉の作った曲は幾つか覚えているし、実際には口ずさんだコトがないような安室奈美恵の曲だって何となくアタマのなかで再生できます。どんなもんだい! イヤ、小室だけじゃありません。私が中学に入学した年、すなわち1997年にヒットした曲、つまり KinKi Kidsの「硝子の少年」とか猿岩石の「白い雲のように」とかだってちゃんと覚えているんです(ちなみに97年は、正に小室旋風真っ直中でした)。また、高校に入学した年、2000年のヒット曲、 サザンオールスターズの「TSUNAMI」であるとか福山雅治の「桜坂」、プッチモニの「ちょこっとLOVE」、大泉逸郎の「孫」、蓮井朱夏の「ZOO 〜‎愛をください〜‎」だって忘却してはいません。ソレだのに…オレぁ、実際に何度か歌ったはずの中学・高校の校歌を覚えていないなんて。そんなバカなっ!
「孫ぉという名ぁの〜ぅ宝ぁもぉのぉ〜」を覚えていて、校歌を思い出せない!?
「愛を くださぁ〜い うぉううぉう 愛をくぅださぁ〜い」が出てきて、校歌が出てこない!?
「人は誰も愛求めて 闇に彷徨う運命/そして風まかせ Oh,My destiny/涙枯れるまで」 我が人生にほとんど必要のないこの一節はすぐに出てくるのに、校歌は一節たりとも出てこない!? 恐ろしいコトだ… コレ、私の世紀末の出来事です。
──ちなみに我が母校の校歌は(私の中で)ポケットビスケッツにも広末涼子の「MajiでKoiする5秒前」にも「慎吾ママのおはロック」にも負けちゃってるんです。そんなバカなっ!

2008年09月26日

2008年09月26日 「白髪」の力

小田和正というヒトは凄い。誰の曲を歌っても、忽ちにしてソレを<小田和正の曲>に変換してしまう力を備えておる。先日発売されたくるりのシングルにカップリングとして収められています「ばらの花」を聴きましてもソレはそうで、まるで己の曲であるかの如く軽妙に響かせる。余裕に、楽勝に。
しかし、コレ、コラボするもう一方の側からしますと、どう頑張っても勝てない相手だ。最高でも引き分け、失敗致せば完敗・・・・ うへぇ〜 リスクが大き過ぎるよー にも関わらず、何だ、最近のこのヒトの仕事は。若い連中と沢山一緒にお仕事をされていらっしゃる。松山千春に「オレがハゲでアイツは白髪だろ」と、「白髪」呼ばわりされた男とは思えない貪欲ぶりではないか。
多分、小田和正はSlipknotとコラボしても引き分けるし、Napalm Deathを相手にしても引き分ける!

2008年08月16日

2008年08月16日 夏の受容

The Man Who夏の最も暑い盛りになると、このTravisの「The Man Who」というアルバムを聴くようにしている。本作を購入致しましたのが高二の八月十四日若しくは十五日であったろうか。おそらくそうに違いないのです。その時の記憶がダイレクトに継続されたままであって、このアルバムは依然としてかつての<夏の記憶>と親近感を保ち続けております。“アンチ夏”である当方としては、一見不可解なコトであるのだけれども、コレに触れぬまでは夏を実感できないのである。夏への反目に対して夏の受容──その両者の架け橋的存在でありますのが、この「The Man Who」
回想致しますに、私は地元四国の夏は嫌いではなかった。その時、夏への反目は鳴りを潜め、提携のムードすら存してあったのです。而して今日の留まるトコロを知らぬ徹底的な夏へのアンチテーゼ、ソレへの特効薬としてどうやら私はこのアルバムに包含される「夏の受容」的な機能を欲しているとしか捉えようがない。バランサーとしての音。均衡維持の為の音。斯かる観念を抱くのです。


実は、単刀直入に発言させて頂きますと、私はこのアルバム以外のTravisにはさほど興味がない。知識が無い。表面的には初期のRADIOHEADの如き雰囲気を漂わせておりますヴォーカルも演奏も、メランコリックでアンニュイな歌詞の雰囲気も、畢竟するにどうしようもない夏への対抗心と結びついてこそ活き活きと魅力的なモノに感じられるようになるんです。
繊細さと剛健さの両面を織り交ぜながら描き出される歌と音の世界は、意外と涼しい。やたら派手な風鈴の音色の如し。ソレを象徴するかのようなこのアルバムに収められたる名曲(と称されるであろう)3つ、すなわち「Writing to Reach You」「Turn」「Why Does It Always Rain on Me?」、何れも水辺の白鳥を思わせるかのような静謐さの中に程よき熱が籠り、かつモノクロの原風景に接した時のような儚くも淡い郷愁の念に近き感慨がございます。ソレらが看取される時、また倦怠と熱情の双方が入り乱れる時、ソレは反目と受容の見事な表象に思えて仕方ないのですから、私は自ずとこのアルバムに夏への意志を託したくなるってなモンだ。


「Turn」の歌詞で見事に、簡明に、優麗に歌われている意識を忘れないようにありたいのです。


If we turn, turn, turn, turn, turn
And if we turn, turn, turn, turn
Then we might learn
Turn, turn, turn, turn
Turn, turn, turn
And if we turn, turn, turn, turn
Then we might learn
Learn to turn


変わって、変わって、変わり行くうちに、移ろいゆく季節の中で、我々は学ぶ。
変転を遂げる中で、何かを悟り、受容と反目すらいずれは統一されると思えば、少しは心持ちも楽になりましょう。斯かる意識を保持するコトで、感情の均衡へと向うのかもしれなければ、ソレはソレは世界に優しい思想でありますまいか。ポジティブ! 世界を救うはポジティブシンキング! …んっ!? う〜ん…

2008年07月27日

2008年07月27日 東京の恋人たちの歌

暑いからブログも熱を上げておるのかもしれぬ。
トップページの方に綴り上げましょうかと企図するも、敢えてココに記しておきたきコト。


サニーデイ・サービスが8年ぶりに再結成。〈RISING SUN ROCK FESTIVAL 2008 in EZO〉に出演


サニーデイ再結成するんだぁ。18,19の時に何も考えずによく拝聴致した思い出。
でも、もう今は聴けないや。悲しくなります。サニーデイの曲は全部。特に「東京」なんて凄まじいのである。見覚えの無い郷愁。曽我部サンは如何にも東京的な音を奏でるヒトではないかと思うのでした。田舎モンのオイラには、やはりどこか合致できぬトコロがある。・・・って、彼も私と同じく四国の出身なのであったが。然るにもう色々と抜けるモノは抜けまして、キッパリと洗練されて新たな味わいが添えられている。
東京の恋人たちの歌、で良いじゃないか。
花電車を聴いた時に、何となく「ああ、コレは80年代の大阪だからこそ…」と思わせるモノがありますように、サニーデイだって90年代の東京の音だ…多分。そんな気がしておる。東京を知らない私には所詮不似合いなモノであったと思いますので、もう聴かない。聴けない。合わない。花電車を聴けるのは、私が大阪の空気なら察知できる故。だけども、だけれども、全部が全部何処かの地の空気感を漂わせていますワケではないのだから、普段は斯様なコトは考えない。が、稀に(サニーデイの如く)強烈なバックグランドが垣間見えたりすると、私は卑屈にも後退するのです。


そうして、こうして、アルバム「24時」は唯一例外的に比較的カラっとした音が多くて、結構聴くコトができたりするのです。でも、どう足掻いても「東京」はムリなんだなぁ。シュンとなるのでございまして、ございます。

2008年06月21日

2008年06月21日 絶好の梅雨対策

Kind Of Blue何時かの梅雨、湿度に制圧された環境を恨み、蒸し暑さに耐えつつ、ふとジャズなるモノを聴いてみたくなったのでした。昼過ぎに。ソコでインターネットという文明の利器を駆使し、「ジャズ 入門」であるとか「ジャズ 最初の一枚」とか、斯かるキーワードで検索しておったトコロ、アチラコチラでお見受け致しましたのが、この「Kind Of Blue」であった。
当然、マイルス・デイヴィスなるオジサンの存在も知っておらないで、何となく“聴き易さ”だけを求めてタワーレコードのジャズコーナーへと猪突猛進したのでございました。小雨の夕方。帰宅ラッシュを恨めしく思いながら。そうした具合であって、ジャズコーナーには客もまばら、私は迷わずコノ定番アイテムをレジへと差し出した。初めてのおつかい気取りで。


〜帰宅途中のコトは省略〜


帰宅し、とりあえず一回通して聴いてみた。
あまり明瞭に感じ取れたモノはなかった。ソレは初めてゴーヤチャンプルを食しまして、何となく嫌いではないが、好きでもあらぬってな感覚。ああ、コレが大人の味か、と思ったほどで、別段感動はなかった。ただ、マイルスが奏でますトランペットの音が、この時季のジメジメした陰湿な空気に対し不思議と合致していまして、それも夜、太陽が姿を消した時間のソレと適合して、おお! コレは絶好の梅雨対策だ!と思ったコトは今でもハッキリと記憶の中に留まっております。だから、私のマイルス第一印象は「絶好の梅雨対策」ってな現在では誠に不可解なモノです。現内閣の存在意義と同様に。


それから、しばしばこのアルバムを拝聴するのであったが、例えば夏場や初春にはどうしても適合せぬ。況んや晩秋においてをや。──個人的な固定観念の形成をソコに垣間見る。以来、私は「絶好の梅雨対策」として、いつもコノ時季になると、そっと「Kind Of Blue」を取り出してくるのでした。カツオがサザエの目を盗んで戸棚からおやつを取り出す如く。
絶好の梅雨対策、絶好の梅雨対策、絶好の梅雨対策、絶好の梅雨対策・・・ 私がマイルス・デイヴィスに真に惹かれ、この「Kind Of Blue」にあっても梅雨から切断して聴いてみようと思うには、それから二年くらい経過しまして「On The Corner」と「Jack Johnson」に触れてからなのである。所謂「電化マイルス」なる呼称で知られる時期の、あのアグレッシヴさよ!


而して今では本作について、「絶好の梅雨対策」である一方、何かしら奇妙な捉え所なき郷愁感と結びついたモノであるように思われてならない。この郷愁感は何であろうか。梅雨への倦怠感に対する反抗心の変態… ソレは何でしょう? でも、マイベスト6月アルバム「Kind Of Blue」── コレだけは確実かしらん。

2008年05月08日

2008年05月08日 裸の大将アルバム

The Slip暑さが漫ろに自己主張を開始した初夏。その虚をついてNine Inch Nailsが、と申し上げるよりもトレント・レズナーが、オフィシャルサイト上でニューアルバム(「The Slip」)をタダで解放致した。
参考リンク:nin.com
→アルバムダウンロード:nine inch nails: the slip


最近は斯様な試みの増加しておるコト、タダほど高いモノは無きとやら何とやらではありますが、しかし、こうして一流の人々が野心的にも己の渾身の一撃を普くに平等に問いかけんとする挑戦は、果たして如何なる影響を及ぼしてあるのだろうか。そもそも何たる手段で以てその制作費を回収する予定でございましょう。ライヴだけで達することが出来ようか、いや、よく分からぬ。


と、いうワケで、私もタダの恩恵に与って、ダウンロードさせて頂きましたのでしたが、嗚呼、フツウに立派なアルバムだ。(しかもどうやら曲毎にイメージピクチャー[ジャケット]が異なっておる手の施し具合!)
タダでっせ。
コレで良いんか。
正統なNINの音、シッカリした従来のトレント・レズナーの表現。
真新しさこそ無いモノの、だがタダで世に提供されたる一品にコレ以上の度合いを希求したるなどというのは横暴に過ぎるってモンだ。もしや!彼は何ともマゾヒスティックな… イヤ、ソレは早合点であるか。
だが、何であれ、おそらくタダで配布されてある音源の中では最高峰に位置する作品ではなかろうかと思うのでして、コレを眼前に、コレを以て、さもドラマ「裸の大将放浪記」にて、画伯が旅先に御礼と致して自らの秀逸なる作品を残して颯爽と去り行く様を想起しましたモノも、決して私だけではあらぬと思慮したのです。


…という結論で、コレは「裸の大将アルバム」でした。
だが、果たして本作は全然“Slip”するようなシロモノではなく、むしろ“Jump”しても摩訶不思議と言うには及ばぬ完成度。──強引に過大解釈するならば、コレをタダで受け取った方が驚いて“Slip”するゼ的な、イヤ“Slip”させちゃうゼ的な、斯かるイタズラ心までもが見え隠れのする嬉しい一品、お得な一品。オススメの一枚、裸の大将万歳!

2008年04月15日

2008年04月15日 出入の一刻

Metal Machine MusicLou Leedの「Metal Machine Music」
以前にも一度、このアルバムには触れておるのでしたが(参考リンク:晴れ時々ノイズ! )、些か曖昧に記したるトコロがありますので、再度書き述べておこうかと感じ入った次第。


再述するに及び、まず以て明らかにしておきたきコトは、コレは百面相の如きアルバムである哉ってな感慨でありました。
ところで以前に私は斯く記し上げた。


これは比較的堅いタイプの音だと思う。勿論ノイズの嵐なんだけど、ノイズの中でもかなり頑丈なタイプのもので、金属音に近いような、無機質な音の連鎖。


この「Metal Machine Music」、所謂ノイズミュージックの走りと解されるコトの多き一品でしたが、実は(唐突ながら)ココにおいて既にノイズは極まっておるのではないか、とも思ったのです。確かに「堅い」「無機質」な音であるのだけれども、しかしソレでは上辺だけの捉え方というもんだ。而して加えて言うに、この中には時に柔和さを、または動の中に存します特有の静なるモノが持ち合わせる閑寂さが包含されてもいる。畢竟、聴き手の心情や取り巻きの環境等に相当程度依存する音が発せられておるのでありまして、おそらく百度拝聴致せば百通りの聴こえ方をするのではないかと思念致します。それは確かに単なるノイズのみの受信時もあろうが、翻って奇怪な程にメリハリの効いた、要は抑揚のある破壊音、残響、そして一種の静寂の受容をも期待できるのだった。
ただのノイズはどう捻くり回してもやはりノイズ、すなわち雑音に相違ないが、ココにあるのは紛う方なき「音楽」―ノイズミュージックでありまして、ソレが持つ諸種の魅力が既に充満しているのであった。押すか引くか、動くか抑えるか、保つか転がすか、開くか閉じるか…感情の出し入れを見事なまでにノイズという一つの手法により凝縮した作品、ソレが他ならぬ「Metal Machine Music」である。


斯様に野心的なアルバムを制作したルー・リードは、きっと怒りに満ちていたのではないかと思うのでございます。何への憤懣であったか。ソレは今となっては聴き手の想像に委ねられるべきモノのように思われる。しかしながら、何によるとせよ「Metal Machine Music」ほど多元的に聴き手の在り方と密接に連関し、その時々の隙間に猛然と強烈に乱雑として浸入してくる音楽も限られているのであって、ソレを未だ知らぬモノに対して如何様に表現すべきであるか…コレが実は真実に最も厄介かつ困難な仕業であるコトは覆しようがない。
試しに…どんなアルバムか。つまり―
箪笥の引き出しを無闇矢鱈に開け閉めしておきながら、結局何らめぼしきモノを発見できなかったにも関わらず、再度引き出しを掻き乱さんとする盲目的なる泥棒がいて、ソレをヒッソリと傍観しておった半狂乱の男がその醜態を狂喜乱舞しながら歪なステップで描写して見せる悪魔的光景がある。斯かる破廉恥を健常者が大胆かつ冷静、冷酷に転覆せしめた時の調子、コレをギターのフィードバックノイズという一点で捉えたのが「Metal Machine Music」である。

2008年03月31日

2008年03月31日 見せかけの花束はいらない

古明地洋哉物心ついた時分から暗いモノが好きであった。


暗い詩
暗い物語
暗い文章
暗い絵
暗いオチのコント
そして、暗い音楽


そういったものを好んで受容してきた。それは今でも変わらない。
「孤独」という言葉に、特に強く惹かれた。―惹かれている。
其処に何が存するのか、何が見えるのか、何を想えるのか、何を感ずるのか…それは結局いつまでも知る由のないことなのかもしれない。それでも、己の中の何かがそれへの共鳴を続けるのであった。


古明地洋哉は「孤独」を表現する音楽家と言って良いと思う。いや、むしろ、彼の場合はそうするより他に自らを具象化する術を知らなかったのではないかとさえ感じさせる切実さを伴う。彼は、真摯に、日々と、世界と、そして自分自身と対峙することで、そこに根を据え付けているはずの「孤独」を隠匿する行いを絶対的に拒むに至ったのだ。それを抜きにして己の感情を表現することに、どうしようもない欺瞞を感じ取ったのであろう。故に、それを歌にした。
古明地の綴る詩は、他人が敢えて振り払おうとするものを、換言すれば、見て見ぬ振りをしようとするところのものを抉り取って、人々の眼前へと曝け出すような、そうした<攻撃的>な面すらを包含する。だが、而して、そこにこそ偽りなき表現者【アーティスト】としての天分の才を垣間見れるのだ。


古明地洋哉は、十年後、二十年後にも確実に裏切られぬことのないであろう心象を果敢に具現化する音楽家なのである。(どうしても文章にして残しておきたい感慨があった。彼の魅力が少しでも伝わることを祈りつつ…)

2008年03月22日

2008年03月22日 それでも吉村潤を待つ

吉村潤吉村潤についてもう一度書こうと思うのです。
以前に彼のコトは触れたのであったが(参照リンク:<心>の拡充)、今度はソロとしての、単独者としての彼について書こうと思うのです。勝手気ままに。雑書きという在り方に甘んじますけれども。


そもそも吉村潤とは…ってトコロから入るべきなのであろうが、私はサービス精神旺盛な方ではあらぬから、斯様に面倒なコトはせぬ。とりあえず以下を参照のコト。


JUNオフィシャルウェブサイト
MySpace.com - JUN YOSHIMURA


単独活動期に入りてからというもの、彼は怪奇なエレクトロニックダンスィングポップエレジー路線へ身軽に転身、そして放擲(?)、真夏のビートは遮二無二、しかし放棄(?)、御役御免、現在はハワイでサーフィンに浸りイルカと戯れる日々でした…ってアホか。
上記に掲げたる彼のMySpaceでは、先日まで、無駄なモノを省いた原点回帰的な名曲「ressurection」と「雨に歌う」が視聴できましが、現在は存せぬ。およそ彼が再出発を期してソコに込めたであろう想いが凝縮されたそれらの曲を、コンパクトディスクに納入致して、(ごく少数の)彼の奏でる優美なメロディーと哀愁さえ漂うかもしれぬ野太く粘着質な声を待ち惚けるモノの前に、一つの形式として届けてくれるのは、果たして何時になるのでありましょうか。


エイティーズエレクトロニカルテクノミュージックから脱出した吉村潤は、還ってきた。アコギを手に、素朴な情念を綴り、男の繊細な心情をキリッと歌い上げるかつての彼が戻ってきたのであった。元来、異常なほど豊富な美メロとリフの博士号を抱え込んだその自信は、更に強さを増し・・・たのかどうかはまだ判然としませんが、「ressurection」で披瀝したその温情に私はかつての名曲「The Action」の影を見た。ソコで次のように歌い上げた彼の想いは、依然として生存しておった、と私は歓喜にむせびこんだ。


「The Action」
すべりこんで未来に 突き放され嘆いても
僕らはまだ間に合うさ 僕らはまだ間に合うさ


信じ抜いて未来を 突き放され落ちても
僕らの手で変えるのさ 僕らの手で変えるのさ


それに応えるように「resurrection」ではこう来る。


「resurrection」
Let's take one more action
今明ける空
曖昧な日々 駆け抜ける
It's time your resurrection
すべてが消える前に
橋を渡って 駆け出そう


もう良かろう。十分だ。私は彼の「one more action」を待ち焦がれてあるし、「すべてが消える前に」彼が再びあのぬらりひょんの如き妖気を放ちながら、颯爽としかし朴訥とではあるが、あの魔性のメロディーを響き渡らせる日々を信じているのであります。仮に私が骨折をしても虫歯になっても、ずっと信じて待つのみなのです。大丈夫、「きっと辿り着く」! その暁には「おかえりなさい」とのタイトルでもう一度一筆啓上仕り候。


ところで、彼のMySpace上のリンクを辿って行けば、斯様なミュージシャンに到達した。…到達しただけで、もう知らぬ。
MySpace.com - らいおんくん

2008年02月13日

2008年02月13日 逃げ場

「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」逃げ場を持つというコトは弱さの証なるか。


気持ちの閉塞感を解放する術なく、それを抱き込んだまま佇まんとする。そこには自ずと逃避願望が生じてくる。/或る音楽に逃げ場としての機能を預けてしまうコトは、自らの感情を曖昧にするだけ、誤摩化すだけではないか。/笑いとは無縁で、むしろ無表情や俯きや影に親近感を覚えてしまう瞬間を認め、暫くそうした感情に浸っておきたいと、半ばせいせいした諦めを伴った実感を味わう。/嫉妬、憧憬、自己認識、開き直り、楽観、意識的に悲観と戯れる時間の不愉快な快楽。/飛翔する夢、空を見上げ地団駄を踏む己。/神秘の妄想。/花に揺さぶられる心、枯葉への同情、しかし己が枯葉になるコトは決して望まぬエゴイズム。
あまり死にたくはならないけど、四六時中イヤにはなっている。


逃げ場を持つというコトは弱さの証なるか。
早川義夫「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」
慰めの言葉、自己と同体化する表情、あまりにも主観的な現状肯定、正当化、不器用な振舞。/浮遊しては沈殿する味気のない鼓動。幻想の先に重ね合わせるいつもの顔や気持ち、そして孤独、嫉妬…
逃げ場を持つというコトは弱さの証なるか。


早川義夫「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」
我が現状を鑑みるに、望むべくも無い言葉への期待。それでも雑然と自分にだけは向けてみたかった言葉があった。
Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen. ―Ludwig Wittgenstein

2007年12月21日

2007年12月21日 “texas pandaa”というらしい存在

Days“texas pandaa”というらしいバンドの「Days」というらしいアルバムがイイらしい。「pandaa」となっておるのは、私の入力ミスではなくて、彼らがワザとこういう風に命名したらしい。このアルバム中にて最も素晴らしき哉ってのは、他でもないがジャケットらしい気も致すのでしたが(現に私はジャケットに惹かれて聴いてみた次第であった)、中身も負けず劣らず上質らしい。彼らについては何も存じ上げないらしい私、ヴォーカル(+ギター)とベースが女で、ギターとドラムのモノが男らしい。「男らしい」と申しても、筋骨隆々、肉体美を誇り、いかなる危機にも率先して立ち向かうような類の「男らしい」ではなく、この場合の「男らしい」とは“どうやら性別は男のようだ”という意味での「男らしい」であるのです。
アルバムのこと。二曲目の表題曲「Days」でいきなり引っかかりを覚ゆ。どこかで味わいたる響き、残音、声・・・思慮を巡らすにSonic Youthの「Sympathy for the Strawberry」の一節を彷彿とさせる構造であるか。斯くしてキム・ゴードンと姿がごく矮小なる一点にて交わらんとするも、やや趣を異にする故に、どうもシックリと来ないのでありまして、ソコがこの“texas pandaa”というらしいバンドらしいバンドの面白みの一つであるらしい。Sonic YouthやらMogwaiやらThe Jesus and Mary Chainやらの有名所を無理矢理引っ張り出してきて、彼らを器の中にて混ぜ合わせ、卵とお醤油をかけてもう一度混ぜ返し、ソレを神棚に供えて二日くらい放置したる後に、火を通して食せば、おそらくこの“texas pandaa”というらしいバンドと瓜二つの味になる。一言付け加える必要があるかもしれぬが、コレは大いなる讃辞でございます。


深い「嬉しさ」が必然的に「喜び」へ推移するに反して、深い「悲しみ」は「歎き」へ開かずにみずからの中に閉じ籠ろうとするのである。(「情緒の系図」)

と斯く申し上げたのは、日本の哲学者九鬼周造であったが、まさに至言である。この“texas pandaa”というらしいバンドに開放性はあまり感ずるトコロがないらしいけれども、その分、光を放つような疑惑的なる殻の中より「悲しみ」にじっと対峙しておるかのような情景を想像させる辺りなどは、まさに一つの表現体としてのバンドというモノの機能が、ある種健全に、ある種中毒的蒙昧さを兼ね備えながらも、自らの欲する軌道に従って回転しておることの左証と見ることができます。


音楽のフィールドにおいて、「憂い」を自家発酵させるコトで体得できる情念は何たるかと云えば、私は真っ先にこの“texas pandaa”というらしいバンドを持ち出して来たいらしい。このアルバムの内部から伝わり来るイメージには、軽薄で浮かれ切って楽観的な享楽精神があまりにも感じられないコトを以て、私は彼らに短命であって欲しくはないと願い、その将来のより偉大なる発展へと思いを馳せるのであった。斯様な響きの集合体を、今の時代は欲せざるか否か。

2007年11月24日

2007年11月24日 君の体温をありがとう

Tobira Album丸山眞男や吉本隆明に騙されるのはイヤですが、エドマンド・バークやRie fuになら騙されてもイイ。屈託がなく「ありのままの強さを教えてくれ」るからである。
待望のサードアルバムがもたらされた。Rie fu:「Tobira Album」


ここ最近のシングルの出来具合が突き抜けて素晴らしい有様だったので、来るべきアルバムも大いに結構なモノになるだろうという信頼を抱いておりましたが、やはりその通り、紛うことなき傑作アルバムのご光臨である。
「ツキアカリ」を聴いた時に愈々確信致したのでしたが、彼女には曇りがない。穢れもない。<異常なほどに>真っ直ぐなのであって、それでいて開放的な自由さ、気ままさを内包するのは、すなわち「Tobira」が開かれているからであろう。その好奇心、向上心、自立心が全てを受容し、しかし、その中に混じり入る有害物質は彼女独特の手法でもって排除されるのです。故に、ソコには迷いの侵入できる余地はなく、「自分なりのペースで あせらなくてもいい」という想いが前面に出ておりますコトで、今、自分が伝えるべきコト、表現すべきコトを決して逃さない感性が生まれるのであった。22歳―あろうコトか私と同い年!―の等身大の「今」が、このアルバムには保存されてある。
ロンドンの大学に留学し、そこで過ごした四年間を彼女はこの一枚のアルバムに昇華させ得た。そう申しても良いのではありませんか。それを象徴するかの如き秀逸なるナンバーは、今作の白眉となる「London」。“The air was dry in London”とRie fuが歌う時、その瞬間において、ソコにある情景は<彼女の想いによって>潤いを得る。極限するコトになるでありましょうが、この一曲を作りあげただけでも、彼女のロンドン体験は無駄では無かったと思うのです。


前作が比較的アグレッシヴな内容、自らに“強さ”や“明確さ”を吹き込むようなモノであったとすれば、今作は自らに宿る“穏やかさ”や“優しさ”を確認するようなモノに相当するのではあらぬか。前作で強き意志を確定致したのであったならば、Rie fuは今作でロンドンに於ける経験を相対化し、ソレを前作で得た強靭なボディに混在させ得るコトで、紛うことなき「自分の歩むべき道」を見出したのです。


なんたってこのアルバムの第一声が「君の体温をちょうだい」である。あらゆるモノを真正面から受け入れ、その全部を決して無駄にしようとはしない明瞭なる“成長するコト”、“先へ向かうコト”への喜びが顔を覗かせる。ああ、私も言いたい。これからも「君の体温をちょうだい」


ハイ、今回もRie fuの「体温」をシッカリと頂きやした。

2007年11月01日

2007年11月01日 決して放棄できぬ10の音

近頃の私は音楽に対する偏食が甚だしく、より明確に其れを申せば、極僅かの人々の曲を拝聴するのみなのである。されば贔屓なるかといえば、果たしてそうでもありませんで、要するに徐々に音楽という土壌から遠ざかりつつあるのだった。
斯かる私の眼前に、例えば或る日の午前三時二十四分に“音楽の神”なるモノを名乗る白ヒゲの爺さんが陰鬱な表情でもって、二日酔いかと見紛うような調子で次のような命令を下しましたと致しまして、それに対する私の返答を考えてみんとするのが今回の目的なのです。つまり“音楽の神”なる村山富市元首相の如き眉毛を蓄えた喜寿の爺さんは私に述べたのであった。

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2007年10月08日

2007年10月08日 <心>の拡充

DIRGE No.9WINO[ワイノ]。いつか彼らについては此の場に記録しておきたいと願いながら、無精にも一年と10ヶ月の歳月を見過ごしてきたのであった。


WINOは1998年のデビュー後、4枚のアルバムを残して2002年に解散したバンドに過ぎぬ(他にベストアルバムとカップリングベストが出ておる)。過ぎぬというのは、彼らが見事に過ぎ去ってしまっただけの存在だから斯く言うのである。時系列的に俯瞰して見た場合において、このバンドはヒッソリと、しかしながら疾風怒濤の如く、観察者の視界の隙を突いて逃避してゆく。連中が、記録する者によって特記されるべき事項を保持しておるかと申されましても、只困惑するのみであることよ。敢えて言うなれば、アニメ「HUNTER×HUNTER」のOP曲に「太陽は夜も輝く」が使用されたコトくらいでありましょうか。社会的に見れば恐ろしく裏通りを歩み続けた者たちへ、それでも私はにこう述べておきたいのです。宜しい、しかし宜しい。


WINOはこのように“偉大な影”を背負いながら歩むことを決定付けられていたのでしたが、(何も自ら望んで影を備えたのでは無いのだから、)それは苦悩と盟友関係にあるかの如き4年間だった―こうした結論を明示してみても、あながち間違いではないと私は思っておる。WINOは悩む個体でありました。その悩みの放物線は、サードアルバム「DIRGE No.9」において天辺を極めるに至る。此処に来りて彼らは懊悩を相対化し、むしろ開き直る次元にまで達す。フロントマンであった吉村潤の声を聞いてみようと思います。


もういいたくはない
平和じゃないさ ふり返るのは


ああ 悲しくはない 寂しくもない
死にたいほどさ


気が休む場所はない
救いさえもてるのか


もう傷はつかない
フリをするのは やめてもいいさ


ああ 聞きたくもない
言葉のなかで 溺れているよ


気が休む場所はない
でも今を でもきみを
【My Life 作詞:吉村潤、久永直行】


目に見えるカタチとなって返球されない自らの活動成果に対する外のリアクションに対し、彼らが此処で選択する道は、現状の己を嗤ってみせるコトにあった。
自分たちを自虐的に認識した後に、吉村は快活にもこう歌う。


it's my life,yeah yeah yeah
it's my way,yeah yeah yeah
C'mon make me fine,yeah yeah yeah
何も見えない it's my life
胸をはれ I'm the one


誠に単調な英語でありますが、このフレーズが彼らの再生を意味するモノであるコトは疑うべくもない。
「DIRGE No.9」それ自体をシンボライズするかのようなこの曲(「My Life」)において彼らは「死にたいほど」の運命と向き合い、或る解答を拾い上げたのであったが、それは、すなわちコレも「it's my life」であると現状に妥協しながらも、一方で肯定する道だったのです。WINOはこの時点に到達するコトで、幾つかの足枷を嵌めながらも大きく飛翔することを可能にしたのだと私は信じておる。それを最もよく象徴するのが「DIRGE No.9」の冒頭曲「New Dawn F」では無いかってコトは特筆に値しよう。この曲の最後に至って、吉村は覚醒したかの如くこう告げる。


「信じていい 孤独を」


WINOは確かに悩む個体でありました。けれども「DIRGE No.9」を通過したことにより、この後の彼らからは「悩」の文字が散逸するのであります。続いて世に放たれた「Go Straight Song!」において見られるのは、文字通り迷いのない直線的な動機であった。


絶望の後に 空を見たのさ 忘れていた 輝きを
本当の僕を 呼び起こす
混乱の 始めから 歩き出した


そう 始まらない物語は 捨ててゆこう
自由への朝 飛び込むのさ
ありったけの この声で 歌うのさ
歩いてゆこう
【作詞:久永直行、吉村潤】


果たして無念なる哉。2002年秋、彼らは契約打ち切りを宣告されると同時に解散を表明したのである。


結果としてWINOが提示してみせてくれたのは、とりもなおさず<一歩引き下がる>コトであるといえましょう。ヒトは往々にして肩に力を張り、無闇矢鱈に歩みを進めようと致す性分を固持しがちにあるが、WINOはそれとは逆の姿勢を持つことの新鮮な価値を高らかに打ち鳴らしたのであります。つまり無理に突き進むのではなく、敢えて<一歩引き下がる>コトで、己の現状を嗤って見せる楽観性やほとんど自虐的とも捉えられる開き直りが生まれる。そうしてそこから今度は迷いの生じる余地が無いほど満タンの向上的前進的心情―それを「<心>の拡充」と称したい―の出てくることを、彼らは伝えてくれるのであります。


WINO解散後、フロントマンの吉村潤は妙にエレクトロニクスなアルバムを一枚だけリリースした後、全く音沙汰がない。まるで引き蘢りになってある。今でもあの瞬間に生まれ得た<心>の拡充を忘れないでいる私は、再び吉村に心のスペースを拡げてもらえるコトを欲しておるのであるが、いったいコレはどうなる未来であるというのか。

2007年08月26日

2007年08月26日 クリムゾンのCM

TOYOTAの「ist」とかいう車のCMにKing Crimsonの「Easy Money」が使用されているのは愉快だ。これは良い曲だもんね。TOYOTAは以前にもクリムゾンの曲を使っていたなぁ。お偉いさんの中の誰かが好きなのかしらん。
ちなみに、どーでもいーけど、私が好きなKing Crimsonのアルバムを3枚挙げると次のようになる。
『Earthbound』
『Larks' Tongues In Aspic(「太陽と戦慄」)』
『USA』


上記の「Easy Money」が収録されているのは2番目の『太陽と戦慄』ね。(『USA』にもライヴ版が収録されている) 他の二枚はライヴアルバム。私は普段あまりライヴアルバムを聞かないけど、クリムゾンだけは別だなぁ。
『USA』『Earthbound』は共に凄く乱暴なライヴアルバムだと思う(←讃辞!)。特に『Earthbound』なんてノイズだらけだもんね。『USA』はそれほど評判が芳しくないようだけど、私は好きだなぁ。このバンドのユニークさが非常に感じられる一枚だと思う。


TOYOTAもどうせなら「Easy Money」よりも、『Earthbound』の一曲目に収められている「Twenty First Century Schizoid Man(21世紀のスキッツォイド・マン)」を使用すれば良かった。これはあり得ない程録音状態が最悪で、ノイズだらけの非常に乱暴・凶悪な、おそらく現存する中ではトップクラスに荒々しくハイテンション、そしてダイナミックな「Twenty First Century Schizoid Man」。このトラックがテレビから流れてきたトコロを想像するだけでワクワクする! PTAから苦情が来たりしてね。そしてCMにこのトラックを使用した商品はまず売れないだろう。でも良いじゃないか、歴史を作ってみるというのも。どこかのメーカーがこのトラックを使用して大胆なCMを作ってみないかしらん。お願いしますよ。

2007年06月22日

2007年06月22日 ほぶらきん『ほぶらきん』

ほぶらきんああ、意味が分からない。というか、そもそも意味などあるのだろうかと考えてしまう、が、そうすることすら無意味であると教えられるような気がする。となると、始めからここは常人が介入不可能な領域であり、我々にとっての明確な意味などは用意されていないということになろう。


髪の毛にマヨネーズを付けてセット、助さん格さんに欲情する水戸黄門とそれに嫉妬するお銀、犬に派手な服を着せて自らは全裸の婦人、チンチン痒い痒いー、コムスンの折口社長の髪型、初キッスはセロハンテープの味、歌うぜ歌うぜ俺のイヌイットへの想い、増々上機嫌、チンピラ同士の紛争解決はあみだくじ、間違って普通の眼鏡をかけて来たタモリさん、俺の乳首からも母乳噴射
こんな感じ?


ピーピーパピパピー!
ピーピーパピパピー!
ピーピーパピパピー!
ピーピーパピパピー!


頭が欲しい、頭が欲しい、頭が欲しい、頭が欲しい


ゴースンゴー!ゴースンゴー!ゴースンゴー!ゴースンゴー!


フレーズが素晴らし過ぎるのである。

2007年06月03日

2007年06月03日 キレイ

ツキアカリrie fuの「ツキアカリ」という曲。
私はこのヒトの曲が好きなんだけど、なんだ、やたらとアニメのタイアップが多いぞ。まー、商業的な面で必要なのだろう。
決してアニソン歌手ではありませんので。多分。


この曲もそうなんだけど、彼女の曲は綺麗なんだよなぁ。澄み渡っているような、晴れ渡っているような。決して澱んではいない。人間性というヤツが出ているのかもしれん。rie fuは清浄なイメージ。作っているのかもしれんが。
そんでこのヒトの魅力のヒトツが声。ボクもこんな声欲しいよ。いや、男としては遠慮するけど、自分が女だと思えば欲しくなる声。


「ツキアカリ」は思いっきりのラブソング。あまりラブソングは好きじゃないけど、こういう曲なら良いかと思う。綺麗だから。
あと、これは変な主観で申し訳ないけど、「いつまでも未来をさがしてた」の「いつまでも」の部分と、「たしかに逢いにゆくよ」の「たしかに」の「に」の部分と、「君との未来を」の「君と」の部分などは憎たらしいくらいに味のあるrie fu特有の節回しだと思った。これを聴いて嬉しくなった。
カップリングの「dreams be」は全英語詞の曲。なんだろうなぁ、これは。歌詞をそのまま読めば失恋の曲。「dreams be」というのを無理して捉えれば、挫折しても明日に向かって生きていくぞ! dreams beってことに・・・ならねーか…
コッチも良い曲です。ファーストアルバムの雰囲気に幾分近い曲、といえば、誰かは分かってくれる、と思う。


キーワードは「綺麗」
ジャケットがちょっと怖いのがアレだけど、中はスッとしています。スッーーと。
アルバムが楽しみ。いつ出るか知らんけど。

2007年04月12日

2007年04月12日 薄味〜健康の為に〜

Good God's Urgeペリー・ファレルというヒトは不可解だ。おそらく本人はそれなりにマジメにやっているつもりなんだろうけど、私にはこのヒトの“音楽観”のようなモノがまるで見えない。
特に今回取り上げたいPorno for Pyrosなどは、「何コレ?」と思わず呟いてしまっても不思議ではない。


さて、Porno for Pyrosであるが、私は断然この「Good God's Urge」が好きだ。
このアルバムは何から何まで非常に薄い。
まずジャケット。色合いが全体的に薄い。次にヴォーカル。これも薄い、それまでのペリー・ファレルのモノと比べると相当薄められている。そしてサウンドである。これはもう薄いを通り越して、凝視しないと見えてこない程だ。気を張って見ないといけないので、その分疲れる。
こんなので良いのかと思うけど、これが全体的にはかなりしっかりしたバランスで成り立っているから愉快この上無い。


何故こんなに薄いのかというと、それはおそらく料理と同じ事だろう。
濃い味付けのものばかりを食べていると、そのうち体調に異変を来す。
ならば、出来るだけ薄口料理を食べよう。健康の為には薄口が重要だ。
こんな理由で薄くなったのだろう。おそらく。
ずっと濃いままではやっていけない。そして知る薄さの重要性、である。


本作は明らかに、ペリー・ファレルというミュージシャンの作品群中においては異色作のモノだ。だからこそ面白いと思う。本人が意図してかどうかに関わらず、別の顔を見せた瞬間というのは、常に記憶に残るものである。
これがペリー・ファレルの別の顔。こんなに薄めてもやっていけるのか!と思うと、不図ニヤついてしまった。

2007年03月27日

2007年03月27日 “総体としての音楽”/フランク・ザッパという存在

フランク・ザッパフランク・ザッパの公式アルバム全部、っていったいどれくらいあるか知らんけれども、とにかく全ての公式アルバムをボックスセットにして出してくれ。勿論一組。小出しはダメよ。値段は十五万でも二十万でも良い、購入するから。借金してでも購入する。そして、それがおそらく私の一生分の音楽になる。


というのも、私は今まで色んな音楽に手を出して、「何かオレの知らないワクワクするような世界があるんじゃないか」と思い続けてきたんだけど、最近になって音楽(民族音楽や伝統芸能に組み込まれるモノ以外の音楽)では感じられるワクワクに限界があるような気がしてきたからだ。確かにプレスリーもビートルズもディランも良いし、プログレやパンクやハードロックやメタルも面白い。マイルスもキース・ジャレットも素晴らしいし、ノイズやサイケや即興モノも楽しい。
でもコレは欠かせないというモノは無い。つまり単体としては面白いけど、“総体としての音楽”という広大な視点を持って見た場合に、私の中で、実はどんな音楽と接するコトにも意義なんて無いんじゃなかろうか、という疑念が生じ始めたのである。この疑念を解消しない限り、ワクワクもハラハラもあったもんじゃない。
しかし思うに、“総体としての音楽”とは、そもそも何ぞや。まずはそれをハッキリさせなければならない。それを確認せずして、面白いも詰まらないも重要も不必要もあったものではない。
だが、それを知るのは実に困難なことだ。五十年間ずーっと音楽を聴き続けても容易に理解できるものではないだろう。事実、私も“総体としての音楽”という観念をまず思い描いてみたものの、その実態をどうやって摑むべきかを苦慮している。けれど、それを朧げながらでも知らない限り、私が抱いた音楽への疑念も払拭できないままでしかない。


そうして、ココに俄然と出てくるのが、必然的にフランク・ザッパという存在である。
化け物のように音楽の大海原を一生航海し続けた狂人・巨匠・天才・気狂い・鬼才、ええーい冠は何でも良い。とりあえず常人では到達不可能な領域を何度かは見たであろう、この偉人(異人)の膨大な作品を一纏めにすれば、私の思う“総体としての音楽”なるものが、かなり明瞭になるのではないかと思うのだ。


フランク・ザッパは一人で音楽の持ち得る可能性のほとんどを暴き出した、と私は思っている。
彼の多額の遺産を無駄にせず、公(これが私のいうボックスセットのこと)にしてくれれば、それだけで“総体としての音楽”というものに接することが出来、私のモヤモヤも吹き飛んで、それがワクワクに変わるかもしれないというコトだ。
そうやって考えれば、結局のトコロ、ザッパの多量の音楽ひとつで全てが賄えてしまうのではないかということにもなる。
彼の音楽はそれだけ懐が広い。言うなればモンゴルの草原のようなものである。広い草原を駆け巡って世界は未知の可能性に溢れていると感動するのか、どこまで行っても同じ光景ばかりじゃないかと呆れ果てるのかは、分からない。しかし、駆け巡るだけの価値は十二分にあるだろう。


その全てに、正解と過ちを、可能性の有無を、希望と絶望を、正解と過ちを、託すことが出来れば、自ずと答えは明確になる。
だからコレは、まずボックスセットを発売して欲しい、というお願いなのであります。衷心からです。

2007年03月09日

2007年03月09日 覚醒術

Freedom Bondage普段「ロック」というものが何であるのかなどとは考えもしないが、もしそういう問いかけがなされるのであれば、それはZeni Gevaのこのアルバム、すなわち「Freedom Bondage」において顕著に表現されているようなものであるといえよう。


これぞまさに正真正銘最高のロック、ロックンロール、ヘヴィ・ロック、パンク・ロック等々、兎に角ロックと名の付くもののお手本になるような一枚である。
しかもタイトルがやたらと素晴らしい。何しろ「Freedom Bondage」である。直訳すれば「自由束縛」
思えば世の中などほとんどが「Freedom Bondage」ではないだろうか。表面はどれだけ自由を標榜していようとも、内なる面では種々の束縛を受けている。それが社会秩序というものであれ、道徳というものであれ、信条というものであれ、全ては結局のところ「Freedom Bondage」であることを、我々はふと気付かされることがある。
Zeni Gevaは何も社会的なメッセージを発するバンドというわけではないが、その重厚で凶暴で粗野でいきり立っているかのような暴力的サウンドは、聴き手の感度を究極的に高揚させると同時に、それが醒めた瞬間に思わず“マイナス地点”へと目を向けてしまう程の冷酷さを与える。そしてその白昼夢のような覚醒感こそロックンロールがなせる最高の魔術であり、また世の中が「Freedom Bondage」でしかないことを知らしめる技に他ならないのだ。


Zeni Gevaが不世出のロックンロールを怒鳴り散らせ続けられる所以は、そのような術を駆使できるからである。

2007年03月05日

2007年03月05日 まだ土壌はあるか?

SIX最近「UKロック」という言葉が何となく陳腐に思えてならないのであるが、それならば「ブリットポップ」などという言葉はもう腐った魚みたいに悪臭を放つ迷惑千万な存在であっても不思議ではなく、現に腐った魚のような認識がやっとなのである。
Radiohead、oasis、blur、Travis、The Charlatans、Supergrass、Ashといったブリットポップの代表格バンドは今でも確固たる地位を築いて健在だが、その一方でブームが去るとともに姿を消したバンドも多い。例えばThe Verveであったり、Suedeであったり、Gay Dadであったり、Elasticaというバンドは既に解散していたり活動停止状態にある。そして今回取り上げるMansunも4年前に解散したブリットポップバンドだ。


Mansunはズバリこの「Six」以外に取り立てて言うべきことのないバンドである。ブームに乗って登場し、そのブームが去った後にこの一大傑作アルバムを世に出したというだけである。
Radioheadが「OK Computer」を、blurが「blur」を出し、ブリットポップなどというつまらないモノから完全に訣別したように、Mansunも意識的に、かどうかは分からないが、そこから離れた音楽を奏でた。それはあまり知られていないし、これからも知られないだろうし、多分あまり知る必要も無い。ただこの「Six」というアルバムが傑作だというコトを知れば良いのである。


本作はおそらくPink Floydの「The Dark Side Of The Moon(狂気)」やMagmaの「Mekanïk Destruktïw Kommandöh」やCANの「Tago Mago」といったプログレの諸作品と同系列のモノであると見た方が良い。
ぶっ飛んだ曲展開と多様な音楽的要素の集合、アルバム一枚を通して一つの世界が完結するその壮大さ、終始続く変態的なバンドのテンション、そして実に巧みな音の繋げ方、一曲の中でも複数の音を見事に繋ぎ合わせるその手腕には驚かざるを得ない。
とてもあのブリットポップの流れに乗って出てきたとは思えない異端のバンドである。彼らは異端であるが故に今日まであまり認識されていないのかどうかは知らないが、兎に角このアルバムに関する限りでは70年代のプログレバンドが90年代に衣替えをして登場してきたかのようである。何と言っても全編に渡るその奇妙さ不可解さが数々のプログレバンドを彷彿とさせている。


しかし残念なのは、このテンションがこれっきりで終わってしまったこと。
Mausunはこのアルバムによって完全に骨抜きにされてしまったかのようである。彼らにとってこの「Six」という一大傑作の代償はあまりに大きなものであったのだろうか。それとも、もしかすると、もう現在では70年代のようにこうしたアルバムを立て続けに世に出せる土壌が失われているのかもしれない。
これがプログレという音楽の最後の足掻きなのか、Mansunという異端バンドの臨界点を突破した究極の状態なのかは判然としないか、いずれにしても聴く者を惹き付け悩まし掻き立て打ちのめすアルバムであることに疑いは無い。
90年代ロックミュージックの遺産の一つであると思う。

2007年02月16日

2007年02月16日 ミックスジュース

Neo Yankee's Holiday春の訪れも差し迫った如月半ば、私は既に春と対面したかのように穏やかな気分で、定期的に迎えるFishmansブームの真っ只中にあります。
何故にFishmansの曲は古くならないのでしょうか。
「Pet Sounds」がいつ聴いても至福のアルバムであるように、Fishmansもそれ自体がいつ聴いても寂寥感漂いながらも、温かみを包容した新鮮な存在であり、而して彼らの中からは溢れんばかりの至福が垣間見えるのです。
此処で私が彼らのサードアルバム「Neo Yankee's Holiday」を邦楽版「Pet Sounds」と申しても宜しいでしょうか。


記憶は時とともに薄れゆくものですが、究極大切なものだけが遺れば良いんです。Fishmansを聴きながら思うこと、思い出す風景はいつも同じです。おそらく自分で気付かない裡、忘却してしまった裡では、他にも無数の事柄が流れ飛んでいるのでしょうが、余分なものは時間がどこかに運んで行ってくれるということです。斯くして思い浮かべるイメージは、自ずと一定のものに帰着するのです。それは過去の繊細な記憶、換言すれば他人には取るに足らない出来事。斯様なものでも何処かでFishmansの音楽と結びついて、今に至るのであります。
想像力がもたらしたものというより、直感的に繋がり得たものなのです。
何かを認識して、それが全く別のものとリンクする瞬間ほど愉快なものはありません。


例えば此の度例に挙げました「Neo Yankee's Holiday」、これほど関係のないものと繋がり合おうとするアルバムは、滅多に御座いません。
つまらない記憶でも、素晴らしいアイテムと重なり合うことによって、至福の瞬間へと変貌することはあるのです。
而して「Pet Sounds」而して「Neo Yankee's Holiday」而して・・・
置き去りにされた日々の再利用。石と真珠に与する歯車。


一つの出会いが出鱈目で退屈な過去に輝きを呉れることもあるでしょう。

2007年01月22日

2007年01月22日 過去との交叉点

宙の淵fra-foaの1st「宙の淵」


非常に思い出深い一枚である。fra-foaは高校時代、かなり思い入れのあったバンドだ。


所謂「青春」時代などというものは、いかにも青臭くて、感傷的で、陰鬱で不安定なのに、そのくせ妙な期待や淡い幻想を抱いているものである。
私にもそのような時期はあったのかと顧みても、どうも思い当たるフシがない。というのも、私の高校生時代はダシを取り忘れたみそ汁のようなモノで、実に味気ないものだったからだ。何かに夢中になる純粋さや青臭さも無ければ、感傷的にさせられるような出来事もなかった。言ってみれば、欠伸ばかりの平凡であった。
しかし、確かに自らの置かれている状況については自覚的だった。それ故に、自分自身のありきたりな日常を怨嗟することもあった。だが、それも「自業自得」という簡素な一言で我が身へと跳ね返ってきたに過ぎない。当然の帰結である。


そしてfra-foa。
彼らは、というより三上ちさ子(ちさこ)は、生と死を逃げることなく捉え、今の自分の位置を確認する強さと、生きる意味を只管に自身に納得させようとする強烈な意志に満ちていた。聴き手を飲み込まんばかりのその圧倒的なエネルギーに、私は自分に全く欠けているものを見た。外見などかなぐり捨てて、一直線に苦痛を吐露するそのスタイルに、ただならぬものを感じ取った。
それはある意味で、私が思い描いたような「青春」の一断面に違いなかった。
だからと言って、典型的な幼さみたいなものを感じられない所が、fra-foaの最大の魅力であった。


fra-foaは結局、アルバム2枚を出しただけで解散してしまったが、私はこのアルバムがあるだけでも良いと思っている。
音楽的には次の「13 leaves」の方が安定感があるのだろうけど、そこからは伝わってくる印象が限られているような気がしてならない。
対して、この「宙の淵」は、三上ちさ子の思いが全てぶつけられたようで、いつ聴いても胸が動く。そして、ダシのないみそ汁に浸っていた頃の感触も蘇ってくるようで、どことなく変な気持ちになる。それは決して心地良いものではない。だからこそ、私はその“変な気持ち”と完全に訣別できる日まで、このアルバムを大切にし続けていかなければならないのだろう。ずっとそういう気がしてならないのである。

2006年12月29日

2006年12月29日 オ・ナ・ジ

The Air ForceXiu Xiuは意味の分からんバンドだ。
まず名前からしてよく分からん。これで一応「シュー・シュー」と読む、という。うん、そうだろう。


最初にXiu Xiuを聴いた時、えー!と思った。
二回目にXiu Xiuを聴いた時、うわぁ〜と思った。
三回目にXiu Xiuを聴いた時、キモいと思った。
四回目にXiu Xiuを聴いた時、うほぉーいと思った。
それ以降Xiu Xiuに飲み込まれた。


Xiu Xiuは騒音と静寂は紙一重だということを明らかにしてみせたバンドだ。


実に奇妙な存在。実に不可解なサウンド。
あまりにもメランコリックであまりにもノイジーであまりにもドリーミーであまりにもマゾヒスティックな旋律。
空気を入れすぎた風船に見る破裂寸前の緊張感。精神の昂りを力づくで抑えられた後に訪れるであろう虚無感。Xiu Xiuにはそんなものが絶えず付き纏っている。


このバンドにハズレは無いが、アタリも無い。(最高の讃辞!、のつもり)
ということで、今回は最新作の「The Air Force」を挙げておく。
騒と静、動と止、表と裏、高と低、長と短、そしてアタリとハズレ。全て同じだというだけ。

2006年12月12日

2006年12月12日 エベレスト

SPOILSYouTubeで偶然見つけたSLAM DUNKの映像。そこに流れていたWANDSの「世界が終るまでは…」
久々に聴いたけど、こんなに良い曲だったのか!と思い、先日BOOK OFFでWANDSのオリジナルアルバムとベストアルバムを買って来た。
今更言うまでもないけど、上杉昇のヴォーカルが凄まじい。おまけに「世界が終るまでは…」の時点で、まだ22歳だったと知ってブッ飛んだ。
現在、これくらい歌える20代前半の歌手がいるだろうか。少なくともメジャーにはいない。


上杉昇については、WANDS脱退後にal.ni.coというユニットを組み、後にソロとして活動を始めた所までは知っていた。しかし、彼のソロは聴いたことが無かった。al.ni.coはちょっとだけ聴いたことがあるけど、WANDSとは一線を画す音楽で、Jane's Addictionっぽいサウンドだったような覚えがある。


WANDSのアルバムを入手したことで、彼にちょっと興味を持ち、現状を調べてみたら、つい先日カバーアルバムを発売していた。オフィシャルサイトで視聴ができるから聴いてみたんだけど、これがなかなか良さそうだったので、思い切って買ってきました。


「SPOILS」
WANDSとal.ni.coのセルフカバーに加えて、Guns N' RosesやNirvana、Niel Young、Jeff Buckley、Meat Puppets、中島みゆきなど錚々たるミュージシャンたちをカバーした一枚。


何回か聴いた感想として、まず、これはカバーアルバム史上屈指の傑作だと思う。
上杉昇のヴォーカルは、より一層凄さを増している。驚くほど豊かな声色。そしてビブラート!この人のビブラートは何なんだ!所謂ロックミュージシャンでここまで巧みに複数のビブラートを使い分けられる人は少なく、彼は非常に稀有な存在だ、などと思ったり致しました。
またアレンジの幅も広くて、聴いていて楽しい。例えば一曲目、ガンズの「It's So Easy」 いきなり原曲とは懸け離れた“デジタルサウンド”的なアレンジ。ガンズの曲をこういう風に解釈してカバーするのか、というくらい大胆なアレンジで面白い。かと思えば3曲目Jeff Buckleyの「Yards Of Blonde Girls」の原曲に忠実なカバー。これが素晴らし過ぎる。この一曲のためだけに本作を買っても良いくらい、見事なカバー。
そして、これはアルバム全体に渡って言えることだけど、バックのサウンドが相当しっかりしている。ドラム向山テツとかギター堀越信泰というメンバーで作っているんだから、当然といえば当然かもしれんが。
前に上杉のヴォーカル、後ろに一流のプレイヤー。ほぼ最強の布陣。


あと、WANDSのセルフカバーも面白い。
「Same Side」の“陰”と“陽”の使い分けともいうべき歌唱には恐ろしさすら感じる。しかもこれがまた良い曲だ。
一方、デビュー曲「寂しさや秋の色」での感傷的かつ綺麗なヴォーカル。6曲目に収められているNIRVANAの「Rape Me」と対比させてみても、とても同じ人が歌ったものだとは思い難い。


圧倒的な歌とその幅広さ、上杉昇というヴォーカリストの凄さを見せつけたアルバムだ。
野暮な言い方になるけど、これ程の才能はもっと知られて良い。
本当に、久々に、凄い歌を聴いた。リアルタイムでこういうアルバムと出逢えるのは嬉しいねぇ〜。


多分彼は、これからもっと凄い歌を聴かせてくれるだろう。その日が来るのを焦らず待とう。おそらくそう遠いコトではない。彼にはもう何かが見えている。このアルバムを聴きながら、私はそのような気がした。

2006年10月29日

2006年10月29日 ハードに責めて

NARKISSOS17年ぶりの再結成らしいサディスティック・ミカ・バンド(Sadistic Mikaela Band)。
どうやらカエラちゃんの参加ばかり注目されているようだけど、ぶっちゃけ彼女がいなくても良い!と思わせるくらいの傑作アルバムを出して来られた。
正直なところ、驚くべき駄作だろうと思って聴いたんだけど、全然そんなことはない。今年聴いた中で一番良いアルバムだ。まさかここまでヤるとは!


なんというか、とにかく全員が好きなことをやっているのが良いね。
この人たちはそれぞれ素晴らしい実績を残されておるから、今更名誉とか賞賛の声とかはいらないんでしょう。各自心の赴くままに曲を作ってきて、それを楽しんで奏でているのが分かる。そして抜群の演奏力。一切の誤摩化しなし。真正面からロックンロールですか。随所に見られる60年代におけるイギリスのモッズ系バンドのようなサウンドが、偽りなく「楽しい」。


一方で幸宏作曲の4曲目「Last Season」、7曲目「Tumbleweed」なんか思いっきりSketch Showと同心円上にある曲なんだけど、なるほど、今、彼の曲をミカ・バンドでやればこうなるのか!と思う程の秀逸さ。


多分、メンバーが好き勝手に曲を書いたんでしょう。それ故、統一感には欠けるけれども、逆にいえばそれだけ個々の懐の深さを感じられるわけです。
バンドを離れるとそれぞれ全く異なる音楽をやっているけど、それを今一度持って帰ってきて、改めてやってみたらこんな風になりましたよ、って作品。そしてこれが驚くほどパワフルな傑作になってしまったという嘘みたいな話。いやはや本当に“サディスティック”な連中だ。どれだけ責めりゃ気が済むんだ。本当に「タイムマシンにおねがい」して昔に戻り、感覚を取り戻してきたんじゃないだろうか、とさえ思った。

2006年10月13日

2006年10月13日 音楽界の寅さん

The Information.pngBeckは、それほど聴き込んでいるというわけではないが、とりあえずこのヒトほど「自由人」という言葉が適合するミュージシャンも滅多にいるものではないであろう。まったく不思議なモノである。


音楽にルールなんてない、と思うけど、Beckの場合ジャンルもスタイルも関係ない。好きな時に好きな場所を好き勝手に動き回る男である。まるで音楽界の「寅さん」だ。要は楽しけりゃ良い。それで結構じゃないか。楽しめない、楽しませられないミュージシャンが良い音楽を奏でられるわけがない。


今作(「The Information」)の内容については、まぁ言うまでもない。今までのBeckとさして変わりがなく、多種多様な曲が並ぶ。モチロン完成度の高い素晴らしい作品である。これだけ色んな音楽をつまみ食いしといて、それを見事に違和感なく聴けるレベルにまで昇華させていることには、改めて驚嘆せざるを得ない。


このヒトは好き勝手やってれば良い。それで独り善がりにならず、リスナーを惹き付けることのできる天賦の才を持っているんだから。Beckが楽しければ、皆楽しい。この不思議な"方程式"は、まだ当分崩れそうにない。

2006年10月09日

2006年10月09日 ロード・ムービー

alfred and cavitythe band apartは、前作あたりからCDを通して、楽しんで音楽をやっているのがハッキリと分かるようになってきた。それはこのサードアルバム「alfred and cavity」でも明瞭に伝わってくる。


今作は、これまでのアルバムと比べても、曲構成がワンランク上のレベルにある。多くのライブで鍛えられた演奏力を存分に発揮して、想像力を掻き立てるような情緒豊かなサウンドを鳴り響かせている。
彼らの奏でる音から浮かび上がってくる表情が、随分と増えているのを実感できる。
一本筋の通った、独特の、しっかりとしたグルーヴ感のブレない所が、このバンドの魅力であり、面白いところですな。
前作で不動のものにした感のあるバンアパのスタイルを、今作では更に一歩先に進めたんじゃないかなぁ。"the band apart"という音楽ジャンルを、もう鉄壁の状態にまで築き上げましたね。


ファーストやセカンドと比べると、ぐっと静かになった分、そこから見えてくる風景も落ち着いた、すっきりした印象を抱く。


ただ今作は、確かに彼らの音が豊かになっていることを実感できる傑作ではあるのだけど、あと一押しあれば・・・と思わずにはいられないのも事実。その一押しがあれば、ファーストやセカンドのような「大傑作」になってただろうと思うのだけれども…
いや、でも、コレ、相当良いアルバムですよ。
本当に沢山の色んな景色を思い浮かばせてくれる一枚なんです。

2006年08月25日

2006年08月25日 叫びの意味とは?

Y「狂気」といえば、やはりピンク・フロイドを思い浮かべるヒトが多いのだろうか。私は、ピンク・フロイドの「狂気」はいささか抽象的な意味での「狂気」じゃないか、と思う。もっと分かり易い、直の「狂気」というのであれば、例えば、Suicideや初期のボアダムスなんかが相応しいだろう。


今回取り上げるポップ・グループも、ある意味では「狂気」を表現したようなバンドだが、多少ほかの連中とは異なる。
その決定的な違いは、やはり音楽的な広がりだ。
彼らの曲は、パンクやファンクやダブ・ミュージックなどを基底とした上に成り立っている。音楽的にはかなり豊穣なバックグラウンドを持っているようである。
ただ、曲の中ではそれらがゴチャゴチャになってしまい、一つの塊と化しているがために、非常に様々な要素が顔を覗かせているのが面白い。


そしてマーク・スチュワートの「死んでしまえ!」と言わんばかりの鋭利な叫びは、暴力的であると同時に、心の奥まで染み渡り聴き手を解放させる即効性を持っている。


仮にピンク・フロイドの「狂気」を閉じられた感情ゆえのものとするならば、ポップ・グループの「狂気」は開け放たれたものであるといえる。
どちらが優れているとか言うのではない。
重要なことは、自分の感情とどう折り合うかだ。
そう思う時に、マーク・スチュワートのあの叫びの意味も、少しは理解できるような気がするのだ。


ところで、ポップ・グループは、この「Y」以外のアルバムはほとんど売られていない。なぜかいつも廃盤状態だ。たまに再発されるみたいだけど、やっぱりすぐに消えてしまい、いつの間にか廃盤扱いになっている。それだけポップ・グループの音源を求めているヒトが多く、すぐに売り切れるということなのかどうかは分からないが、とりあえず「Y」以外のアルバムを店頭で見かけることは滅多に無いと言って良いだろう。なぜ「Y」だけが常時購入することができる状態なのかも分からないが、どうせなら他の2枚も「Y」と同じくらい出せば良いのにねぇ。

2006年08月23日

2006年08月23日 マジカル・パワー

Magical Powerマジカル・パワー・マコは日本におけるCaptain Beefheartである、とは言えないだろうか。
音楽性自体に違いはあるものの、そのぶっ飛んだ才能や演っている音楽はCaptain Beefheartにも引けをとらない。


この人ほど純粋に"音を楽しむ"音楽をやっている人もいないだろう。
いわば音楽の原点のようなことをやる人である。
そしてこのファーストアルバム「マジカル・パワー」は、原点も原点であって、音楽そのものの面白さを詰め込んでいる。
例えば「チャチャ」という曲なんかは、ひたすら「チャチャチャチャチャチャ」と叫び続けるだけだし、「秋がない(アギネ) 」では、おっさんが純度100%の津軽弁で歌いまくるし、「アメリカン・ヴィレッジ1973」ではこれ以上無いほどの繊細な音を作り上げている。
そして2曲に参加している灰野敬二の活躍があまりにも素晴らしい。


こういう風な手段で音楽をやる人がいるんだから、凡百のミュージシャンはたまったものではないだろう。
だって「音楽」のありのままの姿を、こうも明確に描かれては、やりきれないだろうから。
私が音楽をやっている立場なら、もう嫌になってやめてしまうかもしれん。
それほどこのアルバムはショッキングな内容だ。
マジカル・パワー、というのも頷ける。


マジカル・パワー、ね。うん、ピッタリの名前だ。

2006年08月22日

2006年08月22日 最後の音楽

Trout Mask ReplicaCaptain Beefheartというヒトは天才過ぎたのだと思う。
天才過ぎて天才過ぎてどうしようもなかったから、「Trout Mask Replica」などという化け物アルバムを作ってしまった。彼がやりたい音楽を、小細工なしに、真っ直ぐに表現したら、こんなアルバムができてしまったのだろう。


ブルースとかフリージャズとか、この際そんなものはどーでも良い。重要なのは、このアルバムの果てしなくデカい全体像だ。


このアルバムに詰め込まれた莫大な音楽的要素。それもおそらくはCaptain Beefheartの一部に過ぎない。
音楽などというのは、彼にとっては、単なる表現手段の一つに過ぎなかったのだろう。しかし、彼のような天才が音楽を好き勝手にやってしまうと、こんなコトになってしまう。
これは歴史の驚異的な一面を記録した音源だ。


そして彼をとりまくメンバーもまた半端ではない。このアルバムに収められている28曲、全てにおいてまるで即興的な感を受けるが、よく聴いてみると実は緻密な演奏がなされている。


ワンフレーズ、どこを取ってみてもスキがない。
この手の音楽というのは、大抵無駄で埋め尽くされているのがフツウなのだが、このアルバムだけはほとんど無駄がない。その為このアルバムを真剣に聴こうとすると、相当の疲労を伴うことを覚悟しなければならない。


Captain Beefheartが音楽から離れてもう何年も経過するが、こんなアルバムを残した以上、彼が音楽を続ける意味もないだろう。
そして、音楽自体も、この辺りでひとつの終わりを迎えているのかもしれない。
少なくとも、これは、何かが行き着く果てにある終わりの音楽である、というような雰囲気がプンプンと漂って来ている。

2006年08月21日

2006年08月21日 「新」

Faust IVどういうわけか、70年代の「ジャーマンロック」などという部類に分けられるミュージシャンには、ヘンテコな連中が多い。
CANやNEU!やTangerine Dreamなどは、その中でも代表的な存在だが、このFaustも同様に「ジャーマンロック」を象徴するヘンテコなバンドであろう。


Faustといえば「Faust」や「So Far」というアルバムが有名だが、音楽的にはこの「Faust IV」が一番面白い(ヘンテコな)ことをやっているように思う。


Faustの音楽は、実態を捉え辛い。
だが、降り注ぐような不気味な音は、いつ聴いても新鮮で垢抜けている。
一方で、彼らの音の底に眠るものは、あまりに鋭く、そして混迷している。
相対するものが結びついているようだ。


このアルバムでは、その両者の対立が恐いくらいに表れている。
背筋を凍らせるほど不気味に、鋭く、迫ってくるものがある。
自分の内側にある何かを一新させるほどの力を伴っているのだ。


一概に「新鮮」や「一新」と言ってもピンとこないだろうが、直接このアルバムを聴いてみると「ナルホドな」と思ったりするであろう。

2006年08月20日

2006年08月20日 その真意は!?

Barrett先日亡くなったシド・バレットの2nd「Barrett」。
この人のソロは「The Madcap Laughs」の方が好かれているような気もするが、私はこちらの方が好きである。というよりこちらに興味を惹かれる。
まぁ、どちらも甲乙付け難い傑作であることに間違いはないが。


私はこのアルバムを聴くと、変な気持ちになる。
彼のソロ作品はピンク・フロイドの時みたいなサイケっぽさが薄れて、どちらかといえば「歌モノ」としての要素が強くなっている。特にこのアルバムではそれが顕著だ。「The Madcap Laughs」の頃はサイケフォークとも言うことができたが、このアルバムはほとんどフォークともいえる。しかし、私はこれをフォークだとは思わない。曲自体は極めてシンプルな音作りで、いずれも聴き易いものだが。
何かよく分からないが、変な気がするのだ。若干歯車が狂ったような感じ。どうしても、これを単にフォークとして解してしまって良いのだろうかという思いが駆け巡る。
何か前衛音楽を聴いているような気持ち。


シド・バレットがどのような心境でこのアルバムを作ったのかは分からないが、このアルバムはサイケやフォークなどを飛び越えた斬新さがあるように思えてならない。
そうして改めてひとつひとつの音を意識して聴くと、その間合いに捕われそうになる。音と音との感覚が、何か絶妙なのである。
いやはや、まったく恐ろしいアルバムだ。
これはシド・バレットが残したとてつもなく難解なメッセージなのかもしれない。そんなことを考えてしまう程の違和感に包まれた怪作である。

2006年08月20日 変態タンゴ

南蛮渡来江戸アケミはどう見ても変態だと思う。
変態でなければこんな曲を書けるわけがない。
私はその変態性が大好きで、JAGATARAみたいな変態バンドをずっと探している。
やっぱり正常者が奏でる音楽というのは、一定の範囲内から出ることはない。本当に面白い音楽とは、その先にあるのだと思う。


画期的な音楽や、独創的な音楽をやる人は、どこかしら変態的な一面を持っている。そしてその真価は同じような変態性を持っている人たちにしか伝わらないのではないか。もの凄く狭い範囲内でしか共有されないということだ。
だから、私なんかがJAGATARAの真価を問うことはできない。
でも、ありきたりの言い方になるが、何か無性にワクワクするのだ。 JAGATARAの音楽は不思議な高揚感を与えてくれる。
特にこの「南蛮渡来」の自由自在ぶりは最高だ。ロックとかファンクとかパンクとか、そんなものは関係ない。単純に、音楽として面白いし、ワクワクする。


往々にして変態的なミュージシャンは短命である。
アケミもその例に漏れることはなかった。
だが、これだけ"ちゃんとした"作品が幾つか残されたことには感謝すべきだろう。
アケミの本性を解明することなど全くもって不可能だろうが、彼の思いの一端を垣間見ることくらいはできるはずである。その手がかりとなる作品が何枚も出ている。この「南蛮渡来」もその一つに過ぎない。
私は彼の曲を聴く度に、今後、江戸アケミを、JAGATARAをどれだけ知ることができるだろうかと考える。
一生かけて追い求めても良いくらい、彼や彼の音楽というものは謎が多く、深いものであるように思えるからである。

2006年08月19日

2006年08月19日 切なさの永遠

Pet Sounds多くの者が"切なさ"という感情を求めているのかもしれない、と思うときがある。
例えば、切ない恋の映画や小説が大ヒットしたり、切ないバラードが売れたり、夏の終わりを切なさと重ねて語られることが頻繁にあったり…etc


で、切ないアルバムといえば、私は真っ先に「Pet Sounds」を思い浮かべる。
メロディー、歌詞、そして歌、全てがどことなく切なくて物悲しいのだ。
これほど極上のポップ・アルバムで、曲の作りも複雑なのに、なぜか切なさばかりが先行する。
1曲1曲の持っている力強さが半端ではない気がする一方で、非常に幻想的な儚さを兼ね備えているようにも感じる。


「Pet Sounds」についてはもう語り尽くされた感があるから、私なんかはもう何も言わない方が賢明だろうが、では果たしてこのアルバムの持つ不思議な魅力を適確に語り得た者がどれほどいるであろうか。
その独特の不思議さが、今なお多くの人々に愛される所以なのかもしれない。
そして私もまたその不思議さに導かれて、「Pet Sounds」をいつまでも聴き続けることだろう。

2006年08月19日 ノンフィクションの音楽

Cop/Young God/Greed/Holy MoneySWANSの初期のアルバム2枚を収めた2枚組の「Cop/Young God/Greed/Holy Money」。
おそらく呪術師の部屋ではこのCDが鳴り響いている。私にはそんなイメージが思い浮かぶ。
どうしようもなく退廃的な部屋の中で、黒いマントを纏った薬物中毒みたいな長髪の男が鬼のような形相で佇んでいる。
その光景こそがSWANSの音楽だ。


シンプルながらも恐ろしいほどに重く鈍く響き渡る音。
ひたすら繰り返される単調であり、無機質なサウンドの連鎖。


日本語の「音楽」とは本当に巧く言ったもので、SWANSほど「音楽」できるバンドは、そういるものではない。


何をどう表現するかということは、限りなく重要な問題で、人類に一生問われていくであろう。
SWANSは、退廃や暗黒や呪術という言葉を、これ以上無いというほど見事に音で表現している。
だから、SWANSの曲を聴くと、それがどんなに鈍くても重くても単調であっても無機質であっても、「音楽」できるのだ。
彼らの曲をどう受け止めるかはヒトそれぞれだろうが、私はこんなに真に迫るほどの迫力で、混沌とした部分を表現した音楽をほかに知らない。
美しくなくて良い。整然としてなくて良い。綺麗でなくて良い。大切なのは、何かの一部分を克明に描き出すことなのだ、と改めて感じさせてくれる音楽がここにある。

2006年08月19日 「なんじゃこりゃ」で良い

Flowers of Romanceこのアルバムの1曲目にある"Four Enclosed Walls"を聴いた時、私はニヤニヤしながら「なんじゃこりゃ」と思った。
それは期待に胸を膨らませてのことである。
1曲目の"Four Enclosed Walls"を聴いた時に、私は、これは明らかに別格なアルバムだと悟った。


PILの最高傑作はやはりこの「Flowers of Romance」であり、もう二度とこんなアルバムは出てこないのではないかという思いがする。


そしてジョン・ライドンはこのアルバムで何がしたかったのかということを、未だにはっきりと理解できないでいる。
私が初めて"Four Enclosed Walls"を聴いた時に思った「なんじゃこりゃ」という心境、結局これが総てであった。


このアルバムについてあえて何かを言うなら「空間を無視した音楽」ということになる。
ここではギターもベースもヴォーカルも一切が関係ない。
ドラムの音がかなり全面に出てきているが、それも実は関係ない。
このアルバムで重要なことは、その無限のリズムである。
怒濤の如く拡大していくリズム。果てはない。
手段も方法も感情も真実もない。ただ、リズムが延びていくだけ、まさに狂気である。正気でこんなことはできない。
それゆえにこのアルバムは「なんじゃこりゃ」というコトになるのだ。
そしてこれはいつまでも「なんじゃこりゃ」という範疇に属するもので良い。だってそういうものが幾らかは存在しないとつまらないでしょう。

2006年08月19日 桃月に思ふ

Pink Moon素朴なもの程その奥に潜んでいる潜在的なモノは凄まじい。
例えば、茶の湯や龍安寺石庭のような日本庭園などはその最たる例ある。
現在では、それらのものの奥に秘められた意義を、日本人でさえ理解し難くなっていやしないだろうか。
そうした有り様ゆえに、外国人に素朴な日本文化を理解させることは、相当困難なことに違いない。


音楽においても同様のことが言えるはずで、例えばこのニック・ドレイク。
彼の音楽はあまりにシンプルだが、その奥は限りなく深い。
ギターと歌だけで、ここまで感情をざわつかせることができるだろうか。
あまりに純朴で、あまりに繊細で、あまりに陰鬱で、あまりに静かで、あまりに寂しい。
彼が歌に込めた思いの程を正確に推し量ることは、本人以外には不可能なのではあるまいか。


彼の遺作となったこの「Pink Moon」は、特に悲壮的な雰囲気に満ちていて、どうしようもない閉塞感に支配されている。
しかし、ここにある彼の歌は、嘘ではない。そのことが肌にしみ入ってくるから、私はニック・ドレイクを信じられるような気がするのだ。


冒頭に記した素朴なものに宿る潜在的なモノは、視覚や聴覚で意識的に捉えようとしても無理なのかもしれない。
もしそこに本物の何かが存在しているなら、こちら側が求めずとも、意識の中に侵入してくるのではなかろうか。
ニック・ドレイクの歌は、無意識のうちに聞き手の感情を支配する。それに身を任せるだけで良いではないか。ニック・ドレイクの歌と向き合う方法はそうする以外にないのだろうから。

2006年08月19日 彷徨

Rock Bottomテレビでよく見る映像に、重病患者の生への強い意志を捉えたものがある。
難病と闘う患者、移植手術を受けた患者、または受けなければならない患者の生き様を追い、彼らに密着している。
そのような人々は、想像もつかない程に強い意志を持ち、生きようとしている。
強い生命の希求。彼らを動かす源は何であるのか。私はいつも考えさせられる。


このロバート・ワイアットの「Rock Bottom」も、限りなく強い生を求めた末に辿り着いた一つの境地であろう。
彼は事故により下半身不随となった。その絶望の後に立ち上がり、作り上げたのがこのアルバムである。
元ソフトマシーンのドラマーとして語られることもあるが、ただのドラマーがこれ程までの歌を作れるだろうか。
彼はドラマーである以上に、天性の才を持ったヴォーカリストであろう。


この声の力強さの根源は何か。
間違いなく生への希求によるものだろう。
生きるということを諦めない限り、その未来に可能性は、ある。
このアルバム以上にそれを教えてくれるものが、果たしてどれくらいあるだろうか。

2006年08月18日

2006年08月18日 全部目の前にある

98.12.28 男達の別れFISHMANSのラスト・ライヴを収録したアルバム、「98.12.28 男達の別れ」。
このアルバムは、やはり悲しい。
これ以外のアルバムでは普通に聴ける曲も、ここでは格段に悲しく聴こえてくる。


何が悲しいって、このライヴには、"最後"を感じさせる空気が全く漂っていない。
まだまだ続きがあって、このライヴはただの節目にしか過ぎない。
おそらく、誰もが、そう思っていただろう。


この後に訪れる突然の「別れ」とは無縁の音楽だ。


悲しい雰囲気がほとんど伝わってこないから、逆に悲しくなる。


あまりに突然の別れ。
それは日常的なものだと実感させられる。


このアルバムは、ある意味では、残酷な現実世界を克明に封印した作品と言えるのではないか。
ここまで現実的な、突き抜けた切なさ・悲しさ・寂しさを感じさせるアルバムは、滅多にあるものではない。


男達の「別れ」 そう 別れとは唐突に訪れるものなのだ、ろう。

2006年08月17日

2006年08月17日 曖昧であってこそ…

Terminall Loveピーター・アイヴァースの「Terminal Love」。
この人の歌は、おそらく気持ち良いものではない。
彼の歌声は、聴き手を感傷的にさせ、何かモヤモヤした想いを想起させるからだ。


そもそもピーター・アイヴァース自身が、あまりにも現代の主流とはかけ離れているように思える。
だからこそ、というべきか……彼の歌声には、特別なモノが含まれているのだ。


ピーター・アイヴァースの歌に救いはない。彼は誰かの代弁者ではないだろう。
しかし、彼の声には不思議な優しさがある。
この優しさが、私の感じる「特別なモノ」の一つで、それは世俗的な色を帯びているようにも思えるのだ。
しかし、ピーター・アイヴァースそのものは世俗的ではないヒトだ。
何か矛盾している?曖昧?


そこがピーター・アイヴァースの魅力なのだと思う。だから私もわざと曖昧なことを書いてみた。
彼の歌から受ける印象は、常に形を変え続けて曖昧である。
それ故、感傷的にさせ、モヤモヤさせるのではないだろうか。
意味が分からん?それこそが彼の本質かもしれない。


ピーター・アイヴァースの歌には、優しさと悲しみが同居している。
聴く時の気持ちによって、そのどちらかが強く全面に現れてくる。
時と場合によって、様態を変えるという意味でも、彼の歌は曖昧であるといえる。
まるで雲のようなモヤモヤ具合なのである。

2006年07月25日

2006年07月25日 波を待つ瞬間

ROSE ALBUMRie fuの2ndアルバム「ROSE ALBUM」(先日発売された新曲も良いぞー)。発売されてもう5ヶ月くらいが経過してます。
この人は、一時期アメリカでの生活を経験し、現在はロンドンの大学に在籍中、ということで英語は(多分)堪能で、比較的滑らかな発音をしていて、日本人のミュージシャンによくある"違和感"を感じさせないのが良い。
しかも、どうやら私と同い年だぜ。すげーな!
俺がバッタなら、Rie fuはコーカサスオオカブト。もう圧倒的な差がある。俺なんか今日もカマキリに食われ、車に轢かれて潰れるのだ。一方のRie fuは、今日も数千円の値段で取り引きされてるぞ。
俺なんて所詮30円未満だよ。むしろ値段が付くだけでもありがたいって感じがしてきた。


ところで、彼女は、ジャケ写と通常の写真で外見が異なるのはなんでだろう?