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2009年09月26日

2009年09月26日 夏休みは終わりましたが

辻詩音チャンが「夏休みの君へツアー2009」というフリーライブのツアーをやっていて、フリーという言葉に釣られて近くに来たので見に行って参りました。見学者はそれほど多くはありませんでしたが、その分余裕ある空間で良かった。地道にやっていればそのうち集客数も増えてきそうな気配がありました。そして、言い忘れましたがお久しぶりです。暫く面倒になって何も書きませんでした。


アコギを抱えての弾き語り風なワケですが、約20分くらいという短い時間で「Sky chord〜大人になる君へ〜」「M/elody」、小雪サン主演の映画主題歌とかいう来月発売予定の新曲「ほしいもの」「Candy kicks」の4曲をやってくれました。「ほしいもの」がダントツで良かったなー。この曲だけグンと大人っぽい。それまでは等身大の10代の曲ばかりだったのですが、「ほしいもの」は描かれている景色が違うなぁと感じました。こういう違いは嬉しい。
コチラでその歌詞が見えます。曲も聴こうと思えば一部聴けなくもありません。


シングルも4枚目になりますし、そろそろアルバムが出ても良い頃じゃないかしらん。楽しみにしているんです。ゴーゴー!

2009年08月12日

2009年08月12日 19歳の等身大イェイ!

M/elody辻詩音ちゃん! イェイ! 最高だぜぇ〜 天然っぽいキャラとは裏腹にしっかりした声。良い歌詞を書きます。分かり易いメロディーで、耳馴染みのいいポップソング。19歳の等身大の曲。こういうの結構好きなんです。どんなヘンテコな音楽を聴いていようとも、結果的に帰ってくるのはこういうトコロなんです、わたしは。


彼女の歌には陽気さと力強さが同居しています。歌っている姿がすぐ思い浮かぶ。音を絵に繋げるコトができるヒトです。なかなかこんな感じを受ける機会はありません。
デビュー曲「Candy kicks」でいきなり「大切なのはmusicだって」と歌い上げちゃうその姿勢、とても好感が持てます。そして先日発売された新曲「M/elody」では「melody 誰の中にだってあるもの」と歌ってるんですから! おぅ、エネルギッシュな19歳の身体の中から溢れ出す想いを、力を、熱を、こんな風にストレートに表現できるというのは素晴らしいぞ! 変にカッコ付けなくて良い。もっともっと無邪気に歌えばイイ。
若さの象徴ですな。彼女を見ていると元気が沸いてくる。たまにはこういうヒトの曲に浸るのも悪くはないと思います。
今のところシングルが3枚出ています。もうそろそろ出るであろう1stアルバムに向けて否応なく期待が高まるってものですな。イェイ!
元気な女の子のシンガーソングライターをお探しの方はちょっとくらい気にしておいても良いと思います、この辻詩音というミュージシャンを。

2009年08月11日

2009年08月11日 さわさわさわ…

I Can FlySAWAというエレポップ的なシンガーです。これは「I Can Fly」というメジャーデビューミニアルバム。
良い。なんだろうこの声は。とうめいロボみたいだ。なんて言うと、どうせJOJO広重は鼻で笑うでしょうが、声質が似ているように聴こえてしまう。夏だなぁ。こういう曲が流れてきて、違和感なく受け入れられるのは夏です。キラキラしてんの。ピカピカしてんの。声はフワフワして浮遊感あるのに、全体のイメージはとても光っています。伸びる声、透き通る声、刻むリズム、揺れるボディ。夢!希望!情熱!響く!響く! 希望の歌い手です。
曲自体は結構ありきたりなダンスビートっぽいメロディーなんだけど、このヒトの新奇なヴォーカルによって新たな息吹が吹き込まれているような、そんな新鮮さがあります。「I Can Fly♪」だなんて歌ちゃって全然違和感ないのも、このSAWAというヒトの透明感ある雰囲気のなせる業でしょうか。(※「I Can Fly」と言っても、どこぞの卍LINEとは無関係ですのでお気をつけ下さい。)
アンチ夏!の最良の友。この清涼感に包まれて、飛んで行っちゃうゼ。未知の可能性が広がる〜


で、このヒト、結構力量ありますね。単純にノリノリなわけじゃなく、曲によってちゃんと歌い分けが出来ているように思います。一曲目の表題曲「I Can Fly」と二曲目の「Sing It Back」、そして三曲目の「Night Desert」ではそれぞれ全然違う雰囲気で面白い。こういう技術があるのだから、将来有望です。多分……
周りを固める人たちにも結構恵まれているようですので、コレは愈々アルバムが楽しみになってくるではありませんか。SAWAという女性シンガー。注目しておきたいなー

2009年07月22日

2009年07月22日 アベフトシのこと

元ミッシェルのアベフトシさんが急死、急性硬膜外血腫


喫驚。いったい今年はどうなってるんでしょうか。世の中が入れ替わっているよ。何も台頭していないのに、失われゆくものの多いこと多いこと。
急性硬膜外血腫というのを調べてみましたが、何らかの事故に遭ったのでしょうか。そのような感じがします。まだ詳しいことは分かりませんが、どうぞ安らかに。


gear_blues.png今、「GEAR BLUES」を聴いています。カッコイイ。素敵なギターだ。初めてミッシェルを聴いたのがこのアルバムでした。
凛としていて存在感があり、異質なオーラのようなモノを発散しまくっていたギタリストという印象があります。たまにテレビなどでお見かけしましたが、寡黙でよく分からないコトの多いヒトでした。でも、彼のギターから出てくる音は凄かった。それがどんな言葉よりも雄弁に彼の存在を語っていたような気がします。だから、余計な言葉など無くても良かったのかもしれません。


Thee Michelle Gun Elephanというバンドは、高校生から大学生の最初の頃によく聴いていて、アルバムも9割方持っていたような気がします。リアルタイムで解散に驚き、その後のメンバーの活動も多少は気にかけていたのですが、ミッシェルの頃ほど熱心には追いかけなくなっていました。チバの活動はROSSOやThe Birthdayなど多岐に渡っていて、無視していても入ってくる状態でしたが、アベフトシの活動情報はそれほど多くなく、たまに「今、どうしているんだろう?」とネットで調べてみたりするくらいでした。まさかこのような形での情報が入ってくるなんて… これはいらない情報ですよ。畜生。もっとそのギターを鳴り響かせて欲しかったなぁ。


思い出にはしたくありません。ずっとどこかに存在していて欲しかった。また無言であの雄弁なギターの音をかき鳴らして欲しかった。うぅ…
ありがとう アベフトシ。合掌。

2009年06月13日

2009年06月13日 煌めけ煌めけミュージック!

RORO今はNATSUMENで活動しているAxSxEとアインがやっていたバンドBOat。彼らの最後の作品となったのが本作「RORO」でして、コレがとんでもない名盤なのに、今現在では廃盤となっております。このアルバムを聴く度に、再発しやがれーウォーッ!というテンションになります。ジャケットはあまりカッコ良くありませんが、中身はとてもクールで瑞々しくて、情熱的。ブサイクなのにお料理上手かつ掃除好き、しかも部屋のインテリアを選ぶセンスもバツグンといったお嫁さん的な感じでしょうか。


悲しげな記憶の中に映える未来への希望、恍惚と調和する日常の光景、一体感を増し続けるユニークな模様。あっと、コレは自分にしか理解のできない喩えです。──ノスタルジックな情緒と適合するダンサブルなポストロックとでも言っとけば良いのでしょうか。この音を真っ直ぐに形容するための言葉というのは無いのかもしれないなぁ。あるいはTORTOISEなんかが純粋に突き抜けて歌ったり踊ったりして目を回せばこうなるか。うむむ、よく分かりません。何ならNATSUMENよりは純粋にロック的で、ポップなノリ。ファンクネス。なんて中学生的な表現でもしといた方が無難かもしれません。
自由で陽気で、でもどこかに儚さを備え持つ曲たち。一つ一つの音が跳ね上がってはまたゆっくりと落ちて来る時の美しさが、ココにはあるといえるかもしれません。キラキラと輝き続ける至高の音響。歌え朗らかに、鳴らせ軽快に爽快に。必殺の火曜日のアンセム「Tuesday」を聴けば卒倒だ。だが今日は土曜日じゃねーか! チクショー! そして一曲目のタイトルは見事「All」。まさに全てはこの中に!
廃盤ですがTSUTAYAにはあるみたいです。レンタルでも何でもとりあえず聴いといた方が良いアルバムですよー

2009年05月18日

2009年05月18日 繋がった一本の道

熊木杏里 - 雨が空から離れたら


以前にも書きましたが、熊木杏里サンの「雨が空から離れたら」という曲はスゴい。映像を埋め込めないのでYoutubeへの直リンを貼っておきますが、どう聴いてもこの曲は良いんです。不失者の後に聴いても、DJ光光光の後に聴いても、White NoiseとBrigitte Fontaineの間に聴いても素晴らしい。
そして「モウイチド」という曲も。アルバム「ひとヒナタ」の冒頭を飾る曲でして、コチラの方は動画を埋め込んでおきます。
(今、日本の女性歌手には本当に素敵な歌い手が多いように思います。森田童子から熊木杏里への道筋は繋がっている、そんなコトすら思うのです。もう余計な言葉は要らないんですよねぇ。)


2009年04月17日

2009年04月17日 幻のある場所

幻野 幻の野は現出したか 〜'71日本幻野祭 三里塚で祭れとてもインパクトのあるジャケット、外がコレで中が悪いワケないでしょう。「幻野 幻の野は現出したか 〜'71日本幻野祭 三里塚で祭れ」と題されたこのアルバム、概要はおおよそ以下の如しです。
1971年当時、千葉県成田市三里塚では成田空港の建設を巡って地元民による反対運動が展開されていました。その反対運動の一環として8月14日の夜にあるお祭りが執り行われました。ソレこそが他ならぬココに収録されている「日本幻野祭」です。と、コレだけ書けば、どうしてそのようなモノがCD化されているか、皆目分からないでしょう。摩訶不思議とは斯様なコトを言うのでしょうか、ナゼかそのお祭りには一風変わった音楽を得意としているヒトたちが続々と集められたのです。彼らの名を列挙していきますと、高柳昌行ニューディレクション、布谷文夫がいたグループDEW、阿部薫と高木元輝トリオ、竹田和夫のブルース・クリエイション、頭脳警察、そして灰野敬二のロストアラーフ……
まるで奇跡のようで悪夢のようでもある連中が、正に「幻野」の中に颯爽と登場し、壮絶なライブを展開します。まず、冒頭の高柳昌行ニューディレクションのぶっ飛びさ加減が(中でも高柳のギターが凄まじい)いきなり半端ではありません。阿部薫との共演「解体的交感」や「集団投射」で発生したのと同質の爆発を生みます。で、観客の方も何かよく分かりませんが、コレでヒートアップしてしまったのでしょう、会場は罵詈雑言の嵐へと向かうのです。このディスクの中には演奏と同時に客の言い争う音声が「論争」と題されて沢山詰め込まれていて、その辺、Hanatarashのアノ88年のライブアルバムを思い起こさせる部分があります。
その後、“お祭り”は布谷文夫、竹田和夫の怪演で好調に進んで行きます。が、そのすぐ後にこれまたどういうワケでしょう、「盆踊りをやるゼ」という話になり、地元のオバちゃん達もここぞとばかりに登場、陽気な盆踊りの場へと空気が移り変わるのです。コレではもうなんのこっちゃ分かりません。一方では相変わらず客の暴動が続いているのでして… と、皆の気が変になり出した頃に追い打ちをかけるかのように頭脳警察の登場です。「世界革命戦争宣言」「銃をとれ」 世界はとっくに変わっているんですが。そして最後の最後、トドメの一撃、灰野敬二のロストアラーフが参上。いや、惨状。ピアノを交えた即興演奏でもう降参。言葉が出てきません。


──コレほどエグいライブ音源があるでしょうか。正直、コイツにはもうかける(書ける)言葉もありません。高柳昌行や竹田和夫と頭脳警察、灰野敬二らの間に日常的で陽気な盆踊り!? なんなんだコレは。オレはどこを彷徨っている? 今、眼前にあるモノは何だ? 現実なのか幻なのか? …きっとコレは幻に違いない。幻野は確かにソコに存在していたのだ。最高最狂にして最強最悪のライブ音源、こんな時間と場所があったなんて!(追記:ジム・オルークがこのアルバムの推薦文を書いています。ソレだけでもうこの音源の正体が推察されるようではありませんか。)

2009年04月11日

2009年04月11日 しなやかな花

URBAN ROMANTICRie fu、4枚目のアルバム「URBAN ROMANTIC」。
前作の「Tobira Album」がそれまでの集大成的な一枚だとすれば、今作はその“扉”を開けた後の姿、つまり新たなチャレンジを示してみせた一枚ではないでしょうか。これまでとはうって変わり、全体に渡って打ち込みを基底にし、その上で各楽器が楽しく跳ね回っています。モチロン、それで何かが大きく変色したというのではなく、根本はずっと同じ場所にあります。彼女特有の流れるような自然なメロディーは相変わらずなのですから。加えて、前作から今作の期間にかけての大きな変化はもう一つあるように思えます。つまり歌詞なのですが、ココでは随分と冷静な“大人の女性”が顔を覗かせているような印象を持たせます。20代の半ばで「ビジネス」や「Money Will Love You」のような歌詞を綴れるのは、彼女が持ち併せる強みの一つではないでしょうか。このヒト、お金のコトや生き方のコトへの眼差しにしても、一歩引いてクリアな視線で捉えられるんです。もしかして、そういうコトも“URBAN ROMANTIC”の一つなのかしらん?


大雑把に申しますが、メロディーとそのアレンジの拡がりは、これまでのアルバムのなかでアタマ一つ抜けて豊かなものに仕上がっています。一曲一曲に細かな配慮が見えて、全12曲全12色のアルバム。とは言っても、その12色も最下部にはRie fuという色を明瞭に見せているという一点で共通しているのですが。
ところで、今現在の彼女のなかには、無理して何かを手に入れようとするのではなく、自分の周囲にあるモノを新たな視点で活用するコトで、次のステップに踏み出そうという、そんな素朴な気遣いもあるようです。それを示す「PRESENT」の歌詞は力強い。その力強さ、このアルバムにおいて見事に一つの大輪となり、輝きを放っているんじゃないでしょうか。「URBAN ROMANTIC」というのはとてもしなやかな花で、まるでアスファルトから顔を出す花のように力強く、Rie fuがこれまでに咲かせたモノのなかでも一番立派に咲き誇りました。


いつかより今を見て どこかよりもここにいて
誰かより君に届けたい そんなこと何度も自分に 言い聞かせていたい
〜PRESENT〜

2009年04月05日

2009年04月05日 ある絶頂の記録

Orgasm意味の分からないモノを、ヒトは拒絶してしまいます。己の脳において、ソレを適切に処理するコトができないからです。例えばこのCromagnonという名のバンドの「Orgasm」と題されたアルバムなどもそうした例に入るコトでしょう。誰しもが全身全霊を懸けるコトの不可能な地雷原。このアルバム、およそ全編に渡ってオッサンたちの意味の分からない叫びと意味の分からない呪文と意味の分からな悪魔的讃歌が延々と垂れ流され、ソコにノイズやらコラージュやらが同化してゆくという代物。喜び、怒り、哀しみ、楽しみといったマトモな感情は全的に放擲され、トチ狂った連中の悪意なき絶滅的な魂の浪費による快楽衝動にひたすら支配されている一枚なのです。誤解を恐れずに言いますと、これは最悪にして最上の悪ノリを封印した並外れた音楽的ヤクザです。


冒頭にも申しましたように、ヒトは意味の分からないモノを避けます。が、過ってソレに取り憑かれてしまったが最後、言いようのない絶頂に支配され、心身の制御は取れなくなるでしょう。 そうか!Orgasmはソコにあったんだ!──演っている連中にしか感ずるコトのできない悦びを目一杯詰め込んだ狂人たちの宴にして、真っ当に聴こうとすればあらゆるものが台無しになってしまう音によるテロ。異世界への誘い。現実逃避、狂気に関心のあるモノならば必聴のアルバムかもしれません。

2009年03月05日

2009年03月05日 涙腺アタッカー

熊木杏里ウインズ(競馬の方です)の周辺などに行くと、結構頻繁に聴くコトができる熊木杏里サンの曲、「雨が空から離れたら」が凄まじく素晴らしいので、この曲を聴くと、街中で一人いつも泣きそうな気分になってしまうのでした。元来はJRAのCM用に選ばれた曲のようですが、どういうワケか、熊木杏里というヒトと競馬というモノが完全には合致しないような気もする一方で、小田和正氏の“ウォーゥウォーゥ”って曲よりもマッチしているではありませんか、とも思うのです。


熊木杏里サンに関しては、この曲が入っているアルバム「ひとヒナタ」と「私は私をあとにして」を拝聴させて頂いたくらいで、詳しい事情は決して存じ上げませんけれども、非常に感情を揺さぶる歌声と歌詞で、とてつもない涙腺アタッカーだと思いました。高校生の頃によく聴いていた曲を今になって聴いてみれば、何かしら言いようの無い切なさや儚さをソコに感じたり重ねてしまったりして、クラクラしてしまう場合もあるのですが、彼女の曲は、それに似たものをさせてしまいます。しかし彼女のメロディーとは初対面なのに。
この恐るべき涙腺テロリスト、限りなく信頼のおける歌い手であることに違いないと思うのですが、如何せん聴き手からすればエモーショナル過ぎるきらいがあります(でも、こういう場合、本人は意外に飄々としていたりするからビックリなのです)。わたしの如く能天気に暮らしているモノからすれば、世知辛い世情を渾身の力で内面に叩き付けられるようで、ソレはソレは半端じゃない怯えを伴って熊木サンの声は受け入れなければいけない。婉曲に生きてきたモノにとって、メタファーな性分のモノにとって、彼女のように実直に想いを紡ぎ出すタイプは脅威なんです。変化球主体でやってきた自分の前で、その軟球を嘲笑うのかとでも言うように、ヒョイと155キロの真っ直ぐを見せつけられる気分。大変なコトです、コレは! ──つまり、それだけ彼女が発散する音に力があるのでして、今のわたしに出来るのは、この力が万が一にも鋭利にならないように願うことくらいです。モチロン、それは聴き手のなかでのハナシに限っているワケですけれども。

2009年01月31日

2009年01月31日 苦境を踊る Tilly and the Wall

Bottoms of BarrelsTilly and the Wall──アメリカは中部の方で活動する男2、女3の5人組バンド。そのお嬢様三人のお姿はコチラです。コレを見てもお分かり頂けますようにハデで物騒で怖さも漂う雰囲気のヒトたちなのですが、曲の方はハデだという点以外に共通点はありません。(2人の男はごく普通の青年です。ソレが女性陣の異彩ぶりをいっそう際立たせる結果になっています。)
このバンドはドラムレスで、ドラムの代わりにお姉様たちがタップダンスを踏むコトでビートを刻むというちょっと新しく奇抜な展開を提示してくれています。こういった珍しいアプローチで煌めきを増すその曲は、彼女たちの外見同様にキラキラしていてギラギラしています。(アメリカのインディーバンドによくある屈託の無いど真ん中のポップソング、と言ってしまうと誤解を与えてしまうかもしれませんが、でも、モノ凄くポップなんです。)その中にタップダンスのチャカチャカいう音が混じり、或いは程よい加減でギターのノイズが入ってきたり、吹奏楽器やら打楽器やらも多用して、ああ、この若き娘サンたちはとてもご機嫌なようです。悪く言うワケではないのですが、このバンドがやっているコトは決して上品なポップソングではなく、かといってひねくれた変態的なポップソングでもない。迷いの一切存在しない歌って踊っての陽気なお祭り騒ぎとでも形容すれば相応しいような、そんな明るくて楽しい音色。
楽器ジャカジャカ、足下チャカチャカ、歌声ル〜ラララ。聴衆も一緒にHey! Hey! What up? C'mon! なんかもうそういうバンドです、Tilly and the Wallってのは。聴いているだけで楽しくて、壁を作らない、若くて生き生きしている原色なバンド。


──ココのトコロ、ビックリするくらい景気の悪いニュースばかりが垂れ流されていますから、敢えて彼女たちのようなハイテンション請負人のコトをこの場に書いてみようと思ったのです。気分転換にでもTilly and the Wall、如何でしょう。今までに以下の三枚のアルバムを世に放っています。
「Wild Like Children」
「Bottoms of Barrels」
「O」
右上に掲載しましたのはセカンドアルバム「Bottoms of Barrels」。個人的に最も好きな一枚です。オススメ。


参考リンク:Tilly and the Wall - MySpace

2008年11月25日

2008年11月25日 Xiu XiuとDamien Rice

アメリカのXiu Xiuというバンドについては以前もココに書きました。シロウトの私には到底理解の及ばない奇怪な音楽を奏でるアバンギャルドな集団だと思います。全く、最初から最後までどうも分かりません。その音が良いのか悪いのかすら分からない。何枚かのアルバムが出ていて、私も何枚か聴いているのですが、どれを聴いても分からない。Xiu Xiuの代表作を一枚選べと言われれば、三日三晩悩み続けるでしょう。日常的には馴染みの薄い珍しい楽器を使いこなしてみたり、芯のある声でフニャフニャした歌声を出してみたと思ったら、突然轟音でヒートアップしてみたり、かと思えば怪しげな電子音を鳴らしてみたり、または一転して静寂のなかに微かな音を響かせてみたりと、とにかくやるコトなすコト全てに渡ってシロウトの私には考えのつかない手法を用いてきます。おそらく音楽に精通しているヒトならば、その優れた耳で、その多岐に渡る音、音、音を聞き分け、あれやこれやと評論するコトも可能なのでしょうけれど、私にそのような芸当はムリです。──Xiu Xiuの良さは何か。この問いは(私にとって)「邪馬台国は何処にあったか?」というに等しい難問です。楽しい、といえば楽しい。ナゾだ、といえば確かに大いなるナゾだ。そして陽気でもあるし、陰鬱でもあるし、無邪気でもあるし、冷淡でもあるし、けれども無駄はなく、惰性でもなく、脱力はしているかもしれませんが、一方で熱がある。
何度聴いても何が何だか分からないバンドですが、しかし何度でも聴き続けられる不思議な魅力(魔力?)をもっています。そんなXiu Xiuについては MySpace.com - Xiu Xiu (今年の初頭に出たアルバム「Women As Lovers」も当然の如くハチャメチャな一枚です。)


Xiu Xiuのような変わり種の後に、たとえばダミアン・ライスなどを聴いたりしますと、あまりの階層差に戸惑います。今はダミアン・ライスのセカンドアルバム「9」を聴きながら、このアルバムはアグッレッシヴだなぁ、などとテキトウなコトを考えています。ファーストアルバムの頃とは打って変わって、バンドと共に、歌詞にも勢いがあって、それで…フォークシンガーじゃなくなってるよ。でも、イイ声だと思います。最近は歌などよりも楽器の音だけを聴いている方が楽な気持ちになって良いのですけど、たまにこの手のガッチリ歌い上げるようなタイプのヒトの音源に手を出しますと、嗚呼、気持ちのやり場に困惑します。心の中はあまり大きな面積がないものですから、気分をあっち行きこっち行きさせて、狭い範囲内で誤魔化し誤魔化しやり過ごしている毎日です。
ダミアン・ライスにはまたファーストアルバムみたいな素朴かつ気迫に満ちたアルバムを出して欲しいな。ニック・ドレイクみたいにシンプルななかに陰惨さと緊張感、緩和されざる懊悩を秘めた、そんな曲を期待してはさすがにダメでしょうか。タイプが全然違う? そうかもしれません。そうでしょう。そうだ! そんなダミアン・ライスについては MySpace.com - Damien Rice


ついでに書いときましょう。ガンズの「Chinese Democracy」出ちゃったよ! 中国共産党が崩壊して、シナの地に一応のデモクラシーが形成されるまで出されないのかと思っていたのに。聞こえてくるのは1曲当たり1億円の制作費云々。いったい何をどうすればそんな莫大な費用がかかるのでしょう。
ついでに書いときましょう。いつの間にかSPEEDが再結成していた。「Body & Soul」とか「Go! Go! Heaven」なんかは覚えているのですけど。私が中学生の時、時代は彼女たちに味方していました。誠に時間の流れとは残酷なモノで・・・おそらく7〜8年後にはPerfumeも・・・ いえいえ、何でもありません。
SPEEDのプロデューサーである伊秩弘将氏が本気を出せば、Perfumeの中田ヤスタカ氏を軽く凌駕すると思っている。八反安未果に提供した「SHOOTING STAR」こそ伊秩の本領。そんな気がしていた。うろ覚え。

2008年11月16日

2008年11月16日 面従腹背

The Man With The Horn朝っぱらから久々にマイルス・デイヴィスなどを聞いていますと、そのトランペットの音律に誘われて妙な哀愁感を身に纏ってしまうのですから、まったくもって不思議なものだと思います。
──マイルスの遺作となった「Doo-Bop」に、復帰後第一作「The Man With The Horn」
前者はヒッポホップという当時の先端ミュージックとの融合を大胆にも企てた一作。後者はマイルスが最も刺激的だった「Bitches Brew」以降、一段落した時期に発表された一作。前者は何度聴いても曖昧な印象だけしか抱けないのに対し、後者に関してはとても音が分かりやすい分、すんなりと入ってゆけるような感を覚えるのです。受容しやすい。それはマイルスのトランペットがとても明快で音色に富んでいて、また一種「大衆向け」といった趣きさえあると表現しても良い気がします。ただし、一曲目「Fat Time」のヒリヒリとするような緊張感あるマイルスのトランペットとギター/ベースの混合や、最終曲「Ursula」の妙にタイトな旋律などは「On the Corner」からの異物的な派生状態の如き面白みがあるように思われて、これらの曲に関しては「哀愁感」というよりは「(秘めたる)勇壮感」とでも形容した方が相応しい様な、──まぁ何とも言い辛いのですけど、確かに聴くものを高揚させるナニモノかがあります。コレは確かです。他方で表題曲に関しては、ああ、なんだこのヴォーカルは。これぞ中年の哀愁感か!? 「Fat Time」、「Ursula」というスラムダンクの流川楓的な雰囲気の曲にサンドイッチされるカタチで、中にこうした曲が混入している点が、このアルバムの奇妙な点であり、また捉えようもなく神秘的でありつつ同時にどこかしら世俗的な態様を示す要因になっているのでしょう。
傑作とか名盤とかそういう枠組みでのみ一枚のアルバムを聴くというコトの無意味さ、空虚さ、儚さ、ロクでもなさ、視野の狭窄、単一の価値観に基づく姿勢の愚劣さ、弱い犬ほどよく吠える的な威勢の空回り…… そういった気持ちを抱かないではありませんが、所詮私などは素人、具体的な作品云々についての総体的評価なぞはソノ筋の専門家が発言すれば良いコトで、素人は素人なりに良いと思うモノを、それだけを選択して、また更に吟味して、自らのなかで己が特有の感慨を発酵させれば良いはずです。


一編の連続した物語よりも、単一の事象の方が何かを変えるコトだってあると思います。単体の、ある一点の極めて突出した素晴らしさが、全体としてのトータル性において平均レベル以上には優れているが、しかし決定的なインパクトに欠けるモノをアッサリと追い落とすコトだって珍しくはありません。私はそう思っています。モチロン、総合力として革新的な魅力を備えているモノが最上なのは申すまでもありませんが、かようなモノはそうそう現れはしない。そうであれば、日常的なハナシ、単一の秀逸的なる存在が、凡百の一貫した完結性ある平均物を打ち破るといった事態は何も珍しくはないのです。イヤ、むしろ、世の中の変化とは、往々にして単体の異常な飛躍が漸進的に拡大してゆくトコロから生じるとすらいえるかもしれません。
私にとって「Fat Time」、「Ursula」は、そのような優れた飛翔する単一の実在として数えられるモノなのです。


※意味ありげなタイトルほど実は意味がない。そして・・・意味ありげな文章ほど実は意味がない。

2008年11月09日

2008年11月09日 我が悲劇の世紀末

小学校の校歌は一番だけ歌えるのです。伊達に六年間来る日も来る日も通いに通ったワケではありません。でも、不甲斐ないコトに、中学と高校の校歌に関しては惨憺たる有り様なのです。コレが全く思い出せない。歌詞もメロディーもその片鱗を表しません。著作権以前の問題です。困りましたねぇ。こうなっては校歌の存在自体を疑わしく思っても仕方無いでしょう。(そうは言っても存在していたのは間違いのないコトなのだから、本当に疑わしいのは私の記憶力の方だ。)
中学の校歌は、音楽の授業で散々練習させられました。特に入学直後、一年生の一学期は何度も何度もうんざりするくらい歌わされた記憶があります。ですが、今となっては全く何も、その面影すら浮んできません。高校においては、音楽の授業が選択制で、私は音楽ではなく美術を選んだため、練習する機会すらありませんでした。…イヤ、正確に言うと、終業式や卒業式の前日とかに、「明日は校歌を歌わなければいけないので練習するぞ! エイエイエオー!」ってなコトで、朝会か集会の時に幾度か練習した様な気がするのですが、どうもハッキリとは覚えていません。──そんな記憶は大して必要ないのですから、覚えていないのはある意味で理に適ったコトなのかもしれません。が、私は校歌そのものをまったく記憶していないのだから、その意味では理に適っていない。先日逮捕された小室哲哉の作った曲は幾つか覚えているし、実際には口ずさんだコトがないような安室奈美恵の曲だって何となくアタマのなかで再生できます。どんなもんだい! イヤ、小室だけじゃありません。私が中学に入学した年、すなわち1997年にヒットした曲、つまり KinKi Kidsの「硝子の少年」とか猿岩石の「白い雲のように」とかだってちゃんと覚えているんです(ちなみに97年は、正に小室旋風真っ直中でした)。また、高校に入学した年、2000年のヒット曲、 サザンオールスターズの「TSUNAMI」であるとか福山雅治の「桜坂」、プッチモニの「ちょこっとLOVE」、大泉逸郎の「孫」、蓮井朱夏の「ZOO 〜‎愛をください〜‎」だって忘却してはいません。ソレだのに…オレぁ、実際に何度か歌ったはずの中学・高校の校歌を覚えていないなんて。そんなバカなっ!
「孫ぉという名ぁの〜ぅ宝ぁもぉのぉ〜」を覚えていて、校歌を思い出せない!?
「愛を くださぁ〜い うぉううぉう 愛をくぅださぁ〜い」が出てきて、校歌が出てこない!?
「人は誰も愛求めて 闇に彷徨う運命/そして風まかせ Oh,My destiny/涙枯れるまで」 我が人生にほとんど必要のないこの一節はすぐに出てくるのに、校歌は一節たりとも出てこない!? 恐ろしいコトだ… コレ、私の世紀末の出来事です。
──ちなみに我が母校の校歌は(私の中で)ポケットビスケッツにも広末涼子の「MajiでKoiする5秒前」にも「慎吾ママのおはロック」にも負けちゃってるんです。そんなバカなっ!

2008年09月26日

2008年09月26日 「白髪」の力

小田和正というヒトは凄い。誰の曲を歌っても、忽ちにしてソレを<小田和正の曲>に変換してしまう力を備えておる。先日発売されたくるりのシングルにカップリングとして収められています「ばらの花」を聴きましてもソレはそうで、まるで己の曲であるかの如く軽妙に響かせる。余裕に、楽勝に。
しかし、コレ、コラボするもう一方の側からしますと、どう頑張っても勝てない相手だ。最高でも引き分け、失敗致せば完敗・・・・ うへぇ〜 リスクが大き過ぎるよー にも関わらず、何だ、最近のこのヒトの仕事は。若い連中と沢山一緒にお仕事をされていらっしゃる。松山千春に「オレがハゲでアイツは白髪だろ」と、「白髪」呼ばわりされた男とは思えない貪欲ぶりではないか。
多分、小田和正はSlipknotとコラボしても引き分けるし、Napalm Deathを相手にしても引き分ける!

2008年08月16日

2008年08月16日 夏の受容

The Man Who夏の最も暑い盛りになると、このTravisの「The Man Who」というアルバムを聴くようにしている。本作を購入致しましたのが高二の八月十四日若しくは十五日であったろうか。おそらくそうに違いないのです。その時の記憶がダイレクトに継続されたままであって、このアルバムは依然としてかつての<夏の記憶>と親近感を保ち続けております。“アンチ夏”である当方としては、一見不可解なコトであるのだけれども、コレに触れぬまでは夏を実感できないのである。夏への反目に対して夏の受容──その両者の架け橋的存在でありますのが、この「The Man Who」
回想致しますに、私は地元四国の夏は嫌いではなかった。その時、夏への反目は鳴りを潜め、提携のムードすら存してあったのです。而して今日の留まるトコロを知らぬ徹底的な夏へのアンチテーゼ、ソレへの特効薬としてどうやら私はこのアルバムに包含される「夏の受容」的な機能を欲しているとしか捉えようがない。バランサーとしての音。均衡維持の為の音。斯かる観念を抱くのです。


実は、単刀直入に発言させて頂きますと、私はこのアルバム以外のTravisにはさほど興味がない。知識が無い。表面的には初期のRADIOHEADの如き雰囲気を漂わせておりますヴォーカルも演奏も、メランコリックでアンニュイな歌詞の雰囲気も、畢竟するにどうしようもない夏への対抗心と結びついてこそ活き活きと魅力的なモノに感じられるようになるんです。
繊細さと剛健さの両面を織り交ぜながら描き出される歌と音の世界は、意外と涼しい。やたら派手な風鈴の音色の如し。ソレを象徴するかのようなこのアルバムに収められたる名曲(と称されるであろう)3つ、すなわち「Writing to Reach You」「Turn」「Why Does It Always Rain on Me?」、何れも水辺の白鳥を思わせるかのような静謐さの中に程よき熱が籠り、かつモノクロの原風景に接した時のような儚くも淡い郷愁の念に近き感慨がございます。ソレらが看取される時、また倦怠と熱情の双方が入り乱れる時、ソレは反目と受容の見事な表象に思えて仕方ないのですから、私は自ずとこのアルバムに夏への意志を託したくなるってなモンだ。


「Turn」の歌詞で見事に、簡明に、優麗に歌われている意識を忘れないようにありたいのです。


If we turn, turn, turn, turn, turn
And if we turn, turn, turn, turn
Then we might learn
Turn, turn, turn, turn
Turn, turn, turn
And if we turn, turn, turn, turn
Then we might learn
Learn to turn


変わって、変わって、変わり行くうちに、移ろいゆく季節の中で、我々は学ぶ。
変転を遂げる中で、何かを悟り、受容と反目すらいずれは統一されると思えば、少しは心持ちも楽になりましょう。斯かる意識を保持するコトで、感情の均衡へと向うのかもしれなければ、ソレはソレは世界に優しい思想でありますまいか。ポジティブ! 世界を救うはポジティブシンキング! …んっ!? う〜ん…

2008年07月27日

2008年07月27日 東京の恋人たちの歌

暑いからブログも熱を上げておるのかもしれぬ。
トップページの方に綴り上げましょうかと企図するも、敢えてココに記しておきたきコト。


サニーデイ・サービスが8年ぶりに再結成。〈RISING SUN ROCK FESTIVAL 2008 in EZO〉に出演


サニーデイ再結成するんだぁ。18,19の時に何も考えずによく拝聴致した思い出。
でも、もう今は聴けないや。悲しくなります。サニーデイの曲は全部。特に「東京」なんて凄まじいのである。見覚えの無い郷愁。曽我部サンは如何にも東京的な音を奏でるヒトではないかと思うのでした。田舎モンのオイラには、やはりどこか合致できぬトコロがある。・・・って、彼も私と同じく四国の出身なのであったが。然るにもう色々と抜けるモノは抜けまして、キッパリと洗練されて新たな味わいが添えられている。
東京の恋人たちの歌、で良いじゃないか。
花電車を聴いた時に、何となく「ああ、コレは80年代の大阪だからこそ…」と思わせるモノがありますように、サニーデイだって90年代の東京の音だ…多分。そんな気がしておる。東京を知らない私には所詮不似合いなモノであったと思いますので、もう聴かない。聴けない。合わない。花電車を聴けるのは、私が大阪の空気なら察知できる故。だけども、だけれども、全部が全部何処かの地の空気感を漂わせていますワケではないのだから、普段は斯様なコトは考えない。が、稀に(サニーデイの如く)強烈なバックグランドが垣間見えたりすると、私は卑屈にも後退するのです。


そうして、こうして、アルバム「24時」は唯一例外的に比較的カラっとした音が多くて、結構聴くコトができたりするのです。でも、どう足掻いても「東京」はムリなんだなぁ。シュンとなるのでございまして、ございます。

2008年06月21日

2008年06月21日 絶好の梅雨対策

Kind Of Blue何時かの梅雨、湿度に制圧された環境を恨み、蒸し暑さに耐えつつ、ふとジャズなるモノを聴いてみたくなったのでした。昼過ぎに。ソコでインターネットという文明の利器を駆使し、「ジャズ 入門」であるとか「ジャズ 最初の一枚」とか、斯かるキーワードで検索しておったトコロ、アチラコチラでお見受け致しましたのが、この「Kind Of Blue」であった。
当然、マイルス・デイヴィスなるオジサンの存在も知っておらないで、何となく“聴き易さ”だけを求めてタワーレコードのジャズコーナーへと猪突猛進したのでございました。小雨の夕方。帰宅ラッシュを恨めしく思いながら。そうした具合であって、ジャズコーナーには客もまばら、私は迷わずコノ定番アイテムをレジへと差し出した。初めてのおつかい気取りで。


〜帰宅途中のコトは省略〜


帰宅し、とりあえず一回通して聴いてみた。
あまり明瞭に感じ取れたモノはなかった。ソレは初めてゴーヤチャンプルを食しまして、何となく嫌いではないが、好きでもあらぬってな感覚。ああ、コレが大人の味か、と思ったほどで、別段感動はなかった。ただ、マイルスが奏でますトランペットの音が、この時季のジメジメした陰湿な空気に対し不思議と合致していまして、それも夜、太陽が姿を消した時間のソレと適合して、おお! コレは絶好の梅雨対策だ!と思ったコトは今でもハッキリと記憶の中に留まっております。だから、私のマイルス第一印象は「絶好の梅雨対策」ってな現在では誠に不可解なモノです。現内閣の存在意義と同様に。


それから、しばしばこのアルバムを拝聴するのであったが、例えば夏場や初春にはどうしても適合せぬ。況んや晩秋においてをや。──個人的な固定観念の形成をソコに垣間見る。以来、私は「絶好の梅雨対策」として、いつもコノ時季になると、そっと「Kind Of Blue」を取り出してくるのでした。カツオがサザエの目を盗んで戸棚からおやつを取り出す如く。
絶好の梅雨対策、絶好の梅雨対策、絶好の梅雨対策、絶好の梅雨対策・・・ 私がマイルス・デイヴィスに真に惹かれ、この「Kind Of Blue」にあっても梅雨から切断して聴いてみようと思うには、それから二年くらい経過しまして「On The Corner」と「Jack Johnson」に触れてからなのである。所謂「電化マイルス」なる呼称で知られる時期の、あのアグレッシヴさよ!


而して今では本作について、「絶好の梅雨対策」である一方、何かしら奇妙な捉え所なき郷愁感と結びついたモノであるように思われてならない。この郷愁感は何であろうか。梅雨への倦怠感に対する反抗心の変態… ソレは何でしょう? でも、マイベスト6月アルバム「Kind Of Blue」── コレだけは確実かしらん。

2008年05月08日

2008年05月08日 裸の大将アルバム

The Slip暑さが漫ろに自己主張を開始した初夏。その虚をついてNine Inch Nailsが、と申し上げるよりもトレント・レズナーが、オフィシャルサイト上でニューアルバム(「The Slip」)をタダで解放致した。
参考リンク:nin.com
→アルバムダウンロード:nine inch nails: the slip


最近は斯様な試みの増加しておるコト、タダほど高いモノは無きとやら何とやらではありますが、しかし、こうして一流の人々が野心的にも己の渾身の一撃を普くに平等に問いかけんとする挑戦は、果たして如何なる影響を及ぼしてあるのだろうか。そもそも何たる手段で以てその制作費を回収する予定でございましょう。ライヴだけで達することが出来ようか、いや、よく分からぬ。


と、いうワケで、私もタダの恩恵に与って、ダウンロードさせて頂きましたのでしたが、嗚呼、フツウに立派なアルバムだ。(しかもどうやら曲毎にイメージピクチャー[ジャケット]が異なっておる手の施し具合!)
タダでっせ。
コレで良いんか。
正統なNINの音、シッカリした従来のトレント・レズナーの表現。
真新しさこそ無いモノの、だがタダで世に提供されたる一品にコレ以上の度合いを希求したるなどというのは横暴に過ぎるってモンだ。もしや!彼は何ともマゾヒスティックな… イヤ、ソレは早合点であるか。
だが、何であれ、おそらくタダで配布されてある音源の中では最高峰に位置する作品ではなかろうかと思うのでして、コレを眼前に、コレを以て、さもドラマ「裸の大将放浪記」にて、画伯が旅先に御礼と致して自らの秀逸なる作品を残して颯爽と去り行く様を想起しましたモノも、決して私だけではあらぬと思慮したのです。


…という結論で、コレは「裸の大将アルバム」でした。
だが、果たして本作は全然“Slip”するようなシロモノではなく、むしろ“Jump”しても摩訶不思議と言うには及ばぬ完成度。──強引に過大解釈するならば、コレをタダで受け取った方が驚いて“Slip”するゼ的な、イヤ“Slip”させちゃうゼ的な、斯かるイタズラ心までもが見え隠れのする嬉しい一品、お得な一品。オススメの一枚、裸の大将万歳!

2008年04月15日

2008年04月15日 出入の一刻

Metal Machine MusicLou Leedの「Metal Machine Music」
以前にも一度、このアルバムには触れておるのでしたが(参考リンク:晴れ時々ノイズ! )、些か曖昧に記したるトコロがありますので、再度書き述べておこうかと感じ入った次第。


再述するに及び、まず以て明らかにしておきたきコトは、コレは百面相の如きアルバムである哉ってな感慨でありました。
ところで以前に私は斯く記し上げた。


これは比較的堅いタイプの音だと思う。勿論ノイズの嵐なんだけど、ノイズの中でもかなり頑丈なタイプのもので、金属音に近いような、無機質な音の連鎖。


この「Metal Machine Music」、所謂ノイズミュージックの走りと解されるコトの多き一品でしたが、実は(唐突ながら)ココにおいて既にノイズは極まっておるのではないか、とも思ったのです。確かに「堅い」「無機質」な音であるのだけれども、しかしソレでは上辺だけの捉え方というもんだ。而して加えて言うに、この中には時に柔和さを、または動の中に存します特有の静なるモノが持ち合わせる閑寂さが包含されてもいる。畢竟、聴き手の心情や取り巻きの環境等に相当程度依存する音が発せられておるのでありまして、おそらく百度拝聴致せば百通りの聴こえ方をするのではないかと思念致します。それは確かに単なるノイズのみの受信時もあろうが、翻って奇怪な程にメリハリの効いた、要は抑揚のある破壊音、残響、そして一種の静寂の受容をも期待できるのだった。
ただのノイズはどう捻くり回してもやはりノイズ、すなわち雑音に相違ないが、ココにあるのは紛う方なき「音楽」―ノイズミュージックでありまして、ソレが持つ諸種の魅力が既に充満しているのであった。押すか引くか、動くか抑えるか、保つか転がすか、開くか閉じるか…感情の出し入れを見事なまでにノイズという一つの手法により凝縮した作品、ソレが他ならぬ「Metal Machine Music」である。


斯様に野心的なアルバムを制作したルー・リードは、きっと怒りに満ちていたのではないかと思うのでございます。何への憤懣であったか。ソレは今となっては聴き手の想像に委ねられるべきモノのように思われる。しかしながら、何によるとせよ「Metal Machine Music」ほど多元的に聴き手の在り方と密接に連関し、その時々の隙間に猛然と強烈に乱雑として浸入してくる音楽も限られているのであって、ソレを未だ知らぬモノに対して如何様に表現すべきであるか…コレが実は真実に最も厄介かつ困難な仕業であるコトは覆しようがない。
試しに…どんなアルバムか。つまり―
箪笥の引き出しを無闇矢鱈に開け閉めしておきながら、結局何らめぼしきモノを発見できなかったにも関わらず、再度引き出しを掻き乱さんとする盲目的なる泥棒がいて、ソレをヒッソリと傍観しておった半狂乱の男がその醜態を狂喜乱舞しながら歪なステップで描写して見せる悪魔的光景がある。斯かる破廉恥を健常者が大胆かつ冷静、冷酷に転覆せしめた時の調子、コレをギターのフィードバックノイズという一点で捉えたのが「Metal Machine Music」である。

2008年03月31日

2008年03月31日 見せかけの花束はいらない

古明地洋哉物心ついた時分から暗いモノが好きであった。


暗い詩
暗い物語
暗い文章
暗い絵
暗いオチのコント
そして、暗い音楽


そういったものを好んで受容してきた。それは今でも変わらない。
「孤独」という言葉に、特に強く惹かれた。―惹かれている。
其処に何が存するのか、何が見えるのか、何を想えるのか、何を感ずるのか…それは結局いつまでも知る由のないことなのかもしれない。それでも、己の中の何かがそれへの共鳴を続けるのであった。


古明地洋哉は「孤独」を表現する音楽家と言って良いと思う。いや、むしろ、彼の場合はそうするより他に自らを具象化する術を知らなかったのではないかとさえ感じさせる切実さを伴う。彼は、真摯に、日々と、世界と、そして自分自身と対峙することで、そこに根を据え付けているはずの「孤独」を隠匿する行いを絶対的に拒むに至ったのだ。それを抜きにして己の感情を表現することに、どうしようもない欺瞞を感じ取ったのであろう。故に、それを歌にした。
古明地の綴る詩は、他人が敢えて振り払おうとするものを、換言すれば、見て見ぬ振りをしようとするところのものを抉り取って、人々の眼前へと曝け出すような、そうした<攻撃的>な面すらを包含する。だが、而して、そこにこそ偽りなき表現者【アーティスト】としての天分の才を垣間見れるのだ。


古明地洋哉は、十年後、二十年後にも確実に裏切られぬことのないであろう心象を果敢に具現化する音楽家なのである。(どうしても文章にして残しておきたい感慨があった。彼の魅力が少しでも伝わることを祈りつつ…)

2008年02月13日

2008年02月13日 逃げ場

「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」逃げ場を持つというコトは弱さの証なるか。


気持ちの閉塞感を解放する術なく、それを抱き込んだまま佇まんとする。そこには自ずと逃避願望が生じてくる。/或る音楽に逃げ場としての機能を預けてしまうコトは、自らの感情を曖昧にするだけ、誤摩化すだけではないか。/笑いとは無縁で、むしろ無表情や俯きや影に親近感を覚えてしまう瞬間を認め、暫くそうした感情に浸っておきたいと、半ばせいせいした諦めを伴った実感を味わう。/嫉妬、憧憬、自己認識、開き直り、楽観、意識的に悲観と戯れる時間の不愉快な快楽。/飛翔する夢、空を見上げ地団駄を踏む己。/神秘の妄想。/花に揺さぶられる心、枯葉への同情、しかし己が枯葉になるコトは決して望まぬエゴイズム。
あまり死にたくはならないけど、四六時中イヤにはなっている。


逃げ場を持つというコトは弱さの証なるか。
早川義夫「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」
慰めの言葉、自己と同体化する表情、あまりにも主観的な現状肯定、正当化、不器用な振舞。/浮遊しては沈殿する味気のない鼓動。幻想の先に重ね合わせるいつもの顔や気持ち、そして孤独、嫉妬…
逃げ場を持つというコトは弱さの証なるか。


早川義夫「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」
我が現状を鑑みるに、望むべくも無い言葉への期待。それでも雑然と自分にだけは向けてみたかった言葉があった。
Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen. ―Ludwig Wittgenstein

2007年12月21日

2007年12月21日 “texas pandaa”というらしい存在

Days“texas pandaa”というらしいバンドの「Days」というらしいアルバムがイイらしい。「pandaa」となっておるのは、私の入力ミスではなくて、彼らがワザとこういう風に命名したらしい。このアルバム中にて最も素晴らしき哉ってのは、他でもないがジャケットらしい気も致すのでしたが(現に私はジャケットに惹かれて聴いてみた次第であった)、中身も負けず劣らず上質らしい。彼らについては何も存じ上げないらしい私、ヴォーカル(+ギター)とベースが女で、ギターとドラムのモノが男らしい。「男らしい」と申しても、筋骨隆々、肉体美を誇り、いかなる危機にも率先して立ち向かうような類の「男らしい」ではなく、この場合の「男らしい」とは“どうやら性別は男のようだ”という意味での「男らしい」であるのです。
アルバムのこと。二曲目の表題曲「Days」でいきなり引っかかりを覚ゆ。どこかで味わいたる響き、残音、声・・・思慮を巡らすにSonic Youthの「Sympathy for the Strawberry」の一節を彷彿とさせる構造であるか。斯くしてキム・ゴードンと姿がごく矮小なる一点にて交わらんとするも、やや趣を異にする故に、どうもシックリと来ないのでありまして、ソコがこの“texas pandaa”というらしいバンドらしいバンドの面白みの一つであるらしい。Sonic YouthやらMogwaiやらThe Jesus and Mary Chainやらの有名所を無理矢理引っ張り出してきて、彼らを器の中にて混ぜ合わせ、卵とお醤油をかけてもう一度混ぜ返し、ソレを神棚に供えて二日くらい放置したる後に、火を通して食せば、おそらくこの“texas pandaa”というらしいバンドと瓜二つの味になる。一言付け加える必要があるかもしれぬが、コレは大いなる讃辞でございます。


深い「嬉しさ」が必然的に「喜び」へ推移するに反して、深い「悲しみ」は「歎き」へ開かずにみずからの中に閉じ籠ろうとするのである。(「情緒の系図」)

と斯く申し上げたのは、日本の哲学者九鬼周造であったが、まさに至言である。この“texas pandaa”というらしいバンドに開放性はあまり感ずるトコロがないらしいけれども、その分、光を放つような疑惑的なる殻の中より「悲しみ」にじっと対峙しておるかのような情景を想像させる辺りなどは、まさに一つの表現体としてのバンドというモノの機能が、ある種健全に、ある種中毒的蒙昧さを兼ね備えながらも、自らの欲する軌道に従って回転しておることの左証と見ることができます。


音楽のフィールドにおいて、「憂い」を自家発酵させるコトで体得できる情念は何たるかと云えば、私は真っ先にこの“texas pandaa”というらしいバンドを持ち出して来たいらしい。このアルバムの内部から伝わり来るイメージには、軽薄で浮かれ切って楽観的な享楽精神があまりにも感じられないコトを以て、私は彼らに短命であって欲しくはないと願い、その将来のより偉大なる発展へと思いを馳せるのであった。斯様な響きの集合体を、今の時代は欲せざるか否か。

2007年11月24日

2007年11月24日 君の体温をありがとう

Tobira Album丸山眞男や吉本隆明に騙されるのはイヤですが、エドマンド・バークやRie fuになら騙されてもイイ。屈託がなく「ありのままの強さを教えてくれ」るからである。
待望のサードアルバムがもたらされた。Rie fu:「Tobira Album」


ここ最近のシングルの出来具合が突き抜けて素晴らしい有様だったので、来るべきアルバムも大いに結構なモノになるだろうという信頼を抱いておりましたが、やはりその通り、紛うことなき傑作アルバムのご光臨である。
「ツキアカリ」を聴いた時に愈々確信致したのでしたが、彼女には曇りがない。穢れもない。<異常なほどに>真っ直ぐなのであって、それでいて開放的な自由さ、気ままさを内包するのは、すなわち「Tobira」が開かれているからであろう。その好奇心、向上心、自立心が全てを受容し、しかし、その中に混じり入る有害物質は彼女独特の手法でもって排除されるのです。故に、ソコには迷いの侵入できる余地はなく、「自分なりのペースで あせらなくてもいい」という想いが前面に出ておりますコトで、今、自分が伝えるべきコト、表現すべきコトを決して逃さない感性が生まれるのであった。22歳―あろうコトか私と同い年!―の等身大の「今」が、このアルバムには保存されてある。
ロンドンの大学に留学し、そこで過ごした四年間を彼女はこの一枚のアルバムに昇華させ得た。そう申しても良いのではありませんか。それを象徴するかの如き秀逸なるナンバーは、今作の白眉となる「London」。“The air was dry in London”とRie fuが歌う時、その瞬間において、ソコにある情景は<彼女の想いによって>潤いを得る。極限するコトになるでありましょうが、この一曲を作りあげただけでも、彼女のロンドン体験は無駄では無かったと思うのです。


前作が比較的アグレッシヴな内容、自らに“強さ”や“明確さ”を吹き込むようなモノであったとすれば、今作は自らに宿る“穏やかさ”や“優しさ”を確認するようなモノに相当するのではあらぬか。前作で強き意志を確定致したのであったならば、Rie fuは今作でロンドンに於ける経験を相対化し、ソレを前作で得た強靭なボディに混在させ得るコトで、紛うことなき「自分の歩むべき道」を見出したのです。


なんたってこのアルバムの第一声が「君の体温をちょうだい」である。あらゆるモノを真正面から受け入れ、その全部を決して無駄にしようとはしない明瞭なる“成長するコト”、“先へ向かうコト”への喜びが顔を覗かせる。ああ、私も言いたい。これからも「君の体温をちょうだい」


ハイ、今回もRie fuの「体温」をシッカリと頂きやした。

2007年11月01日

2007年11月01日 決して放棄できぬ10の音

近頃の私は音楽に対する偏食が甚だしく、より明確に其れを申せば、極僅かの人々の曲を拝聴するのみなのである。されば贔屓なるかといえば、果たしてそうでもありませんで、要するに徐々に音楽という土壌から遠ざかりつつあるのだった。
斯かる私の眼前に、例えば或る日の午前三時二十四分に“音楽の神”なるモノを名乗る白ヒゲの爺さんが陰鬱な表情でもって、二日酔いかと見紛うような調子で次のような命令を下しましたと致しまして、それに対する私の返答を考えてみんとするのが今回の目的なのです。つまり“音楽の神”なる村山富市元首相の如き眉毛を蓄えた喜寿の爺さんは私に述べたのであった。

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2007年08月26日

2007年08月26日 クリムゾンのCM

TOYOTAの「ist」とかいう車のCMにKing Crimsonの「Easy Money」が使用されているのは愉快だ。これは良い曲だもんね。TOYOTAは以前にもクリムゾンの曲を使っていたなぁ。お偉いさんの中の誰かが好きなのかしらん。
ちなみに、どーでもいーけど、私が好きなKing Crimsonのアルバムを3枚挙げると次のようになる。
『Earthbound』
『Larks' Tongues In Aspic(「太陽と戦慄」)』
『USA』


上記の「Easy Money」が収録されているのは2番目の『太陽と戦慄』ね。(『USA』にもライヴ版が収録されている) 他の二枚はライヴアルバム。私は普段あまりライヴアルバムを聞かないけど、クリムゾンだけは別だなぁ。
『USA』『Earthbound』は共に凄く乱暴なライヴアルバムだと思う(←讃辞!)。特に『Earthbound』なんてノイズだらけだもんね。『USA』はそれほど評判が芳しくないようだけど、私は好きだなぁ。このバンドのユニークさが非常に感じられる一枚だと思う。


TOYOTAもどうせなら「Easy Money」よりも、『Earthbound』の一曲目に収められている「Twenty First Century Schizoid Man(21世紀のスキッツォイド・マン)」を使用すれば良かった。これはあり得ない程録音状態が最悪で、ノイズだらけの非常に乱暴・凶悪な、おそらく現存する中ではトップクラスに荒々しくハイテンション、そしてダイナミックな「Twenty First Century Schizoid Man」。このトラックがテレビから流れてきたトコロを想像するだけでワクワクする! PTAから苦情が来たりしてね。そしてCMにこのトラックを使用した商品はまず売れないだろう。でも良いじゃないか、歴史を作ってみるというのも。どこかのメーカーがこのトラックを使用して大胆なCMを作ってみないかしらん。お願いしますよ。

2007年06月22日

2007年06月22日 ほぶらきん『ほぶらきん』

ほぶらきんああ、意味が分からない。というか、そもそも意味などあるのだろうかと考えてしまう、が、そうすることすら無意味であると教えられるような気がする。となると、始めからここは常人が介入不可能な領域であり、我々にとっての明確な意味などは用意されていないということになろう。


髪の毛にマヨネーズを付けてセット、助さん格さんに欲情する水戸黄門とそれに嫉妬するお銀、犬に派手な服を着せて自らは全裸の婦人、チンチン痒い痒いー、コムスンの折口社長の髪型、初キッスはセロハンテープの味、歌うぜ歌うぜ俺のイヌイットへの想い、増々上機嫌、チンピラ同士の紛争解決はあみだくじ、間違って普通の眼鏡をかけて来たタモリさん、俺の乳首からも母乳噴射
こんな感じ?


ピーピーパピパピー!
ピーピーパピパピー!
ピーピーパピパピー!
ピーピーパピパピー!


頭が欲しい、頭が欲しい、頭が欲しい、頭が欲しい


ゴースンゴー!ゴースンゴー!ゴースンゴー!ゴースンゴー!


フレーズが素晴らし過ぎるのである。

2007年06月03日

2007年06月03日 キレイ

ツキアカリrie fuの「ツキアカリ」という曲。
私はこのヒトの曲が好きなんだけど、なんだ、やたらとアニメのタイアップが多いぞ。まー、商業的な面で必要なのだろう。
決してアニソン歌手ではありませんので。多分。


この曲もそうなんだけど、彼女の曲は綺麗なんだよなぁ。澄み渡っているような、晴れ渡っているような。決して澱んではいない。人間性というヤツが出ているのかもしれん。rie fuは清浄なイメージ。作っているのかもしれんが。
そんでこのヒトの魅力のヒトツが声。ボクもこんな声欲しいよ。いや、男としては遠慮するけど、自分が女だと思えば欲しくなる声。


「ツキアカリ」は思いっきりのラブソング。あまりラブソングは好きじゃないけど、こういう曲なら良いかと思う。綺麗だから。
あと、これは変な主観で申し訳ないけど、「いつまでも未来をさがしてた」の「いつまでも」の部分と、「たしかに逢いにゆくよ」の「たしかに」の「に」の部分と、「君との未来を」の「君と」の部分などは憎たらしいくらいに味のあるrie fu特有の節回しだと思った。これを聴いて嬉しくなった。
カップリングの「dreams be」は全英語詞の曲。なんだろうなぁ、これは。歌詞をそのまま読めば失恋の曲。「dreams be」というのを無理して捉えれば、挫折しても明日に向かって生きていくぞ! dreams beってことに・・・ならねーか…
コッチも良い曲です。ファーストアルバムの雰囲気に幾分近い曲、といえば、誰かは分かってくれる、と思う。


キーワードは「綺麗」
ジャケットがちょっと怖いのがアレだけど、中はスッとしています。スッーーと。
アルバムが楽しみ。いつ出るか知らんけど。

2007年04月12日

2007年04月12日 薄味〜健康の為に〜

Good God's Urgeペリー・ファレルというヒトは不可解だ。おそらく本人はそれなりにマジメにやっているつもりなんだろうけど、私にはこのヒトの“音楽観”のようなモノがまるで見えない。
特に今回取り上げたいPorno for Pyrosなどは、「何コレ?」と思わず呟いてしまっても不思議ではない。


さて、Porno for Pyrosであるが、私は断然この「Good God's Urge」が好きだ。
このアルバムは何から何まで非常に薄い。
まずジャケット。色合いが全体的に薄い。次にヴォーカル。これも薄い、それまでのペリー・ファレルのモノと比べると相当薄められている。そしてサウンドである。これはもう薄いを通り越して、凝視しないと見えてこない程だ。気を張って見ないといけないので、その分疲れる。
こんなので良いのかと思うけど、これが全体的にはかなりしっかりしたバランスで成り立っているから愉快この上無い。


何故こんなに薄いのかというと、それはおそらく料理と同じ事だろう。
濃い味付けのものばかりを食べていると、そのうち体調に異変を来す。
ならば、出来るだけ薄口料理を食べよう。健康の為には薄口が重要だ。
こんな理由で薄くなったのだろう。おそらく。
ずっと濃いままではやっていけない。そして知る薄さの重要性、である。


本作は明らかに、ペリー・ファレルというミュージシャンの作品群中においては異色作のモノだ。だからこそ面白いと思う。本人が意図してかどうかに関わらず、別の顔を見せた瞬間というのは、常に記憶に残るものである。
これがペリー・ファレルの別の顔。こんなに薄めてもやっていけるのか!と思うと、不図ニヤついてしまった。

2007年03月27日

2007年03月27日 “総体としての音楽”/フランク・ザッパという存在

フランク・ザッパフランク・ザッパの公式アルバム全部、っていったいどれくらいあるか知らんけれども、とにかく全ての公式アルバムをボックスセットにして出してくれ。勿論一組。小出しはダメよ。値段は十五万でも二十万でも良い、購入するから。借金してでも購入する。そして、それがおそらく私の一生分の音楽になる。


というのも、私は今まで色んな音楽に手を出して、「何かオレの知らないワクワクするような世界があるんじゃないか」と思い続けてきたんだけど、最近になって音楽(民族音楽や伝統芸能に組み込まれるモノ以外の音楽)では感じられるワクワクに限界があるような気がしてきたからだ。確かにプレスリーもビートルズもディランも良いし、プログレやパンクやハードロックやメタルも面白い。マイルスもキース・ジャレットも素晴らしいし、ノイズやサイケや即興モノも楽しい。
でもコレは欠かせないというモノは無い。つまり単体としては面白いけど、“総体としての音楽”という広大な視点を持って見た場合に、私の中で、実はどんな音楽と接するコトにも意義なんて無いんじゃなかろうか、という疑念が生じ始めたのである。この疑念を解消しない限り、ワクワクもハラハラもあったもんじゃない。
しかし思うに、“総体としての音楽”とは、そもそも何ぞや。まずはそれをハッキリさせなければならない。それを確認せずして、面白いも詰まらないも重要も不必要もあったものではない。
だが、それを知るのは実に困難なことだ。五十年間ずーっと音楽を聴き続けても容易に理解できるものではないだろう。事実、私も“総体としての音楽”という観念をまず思い描いてみたものの、その実態をどうやって摑むべきかを苦慮している。けれど、それを朧げながらでも知らない限り、私が抱いた音楽への疑念も払拭できないままでしかない。


そうして、ココに俄然と出てくるのが、必然的にフランク・ザッパという存在である。
化け物のように音楽の大海原を一生航海し続けた狂人・巨匠・天才・気狂い・鬼才、ええーい冠は何でも良い。とりあえず常人では到達不可能な領域を何度かは見たであろう、この偉人(異人)の膨大な作品を一纏めにすれば、私の思う“総体としての音楽”なるものが、かなり明瞭になるのではないかと思うのだ。


フランク・ザッパは一人で音楽の持ち得る可能性のほとんどを暴き出した、と私は思っている。
彼の多額の遺産を無駄にせず、公(これが私のいうボックスセットのこと)にしてくれれば、それだけで“総体としての音楽”というものに接することが出来、私のモヤモヤも吹き飛んで、それがワクワクに変わるかもしれないというコトだ。
そうやって考えれば、結局のトコロ、ザッパの多量の音楽ひとつで全てが賄えてしまうのではないかということにもなる。
彼の音楽はそれだけ懐が広い。言うなればモンゴルの草原のようなものである。広い草原を駆け巡って世界は未知の可能性に溢れていると感動するのか、どこまで行っても同じ光景ばかりじゃないかと呆れ果てるのかは、分からない。しかし、駆け巡るだけの価値は十二分にあるだろう。


その全てに、正解と過ちを、可能性の有無を、希望と絶望を、正解と過ちを、託すことが出来れば、自ずと答えは明確になる。
だからコレは、まずボックスセットを発売して欲しい、というお願いなのであります。衷心からです。

2007年03月09日

2007年03月09日 覚醒術

Freedom Bondage普段「ロック」というものが何であるのかなどとは考えもしないが、もしそういう問いかけがなされるのであれば、それはZeni Gevaのこのアルバム、すなわち「Freedom Bondage」において顕著に表現されているようなものであるといえよう。


これぞまさに正真正銘最高のロック、ロックンロール、ヘヴィ・ロック、パンク・ロック等々、兎に角ロックと名の付くもののお手本になるような一枚である。
しかもタイトルがやたらと素晴らしい。何しろ「Freedom Bondage」である。直訳すれば「自由束縛」
思えば世の中などほとんどが「Freedom Bondage」ではないだろうか。表面はどれだけ自由を標榜していようとも、内なる面では種々の束縛を受けている。それが社会秩序というものであれ、道徳というものであれ、信条というものであれ、全ては結局のところ「Freedom Bondage」であることを、我々はふと気付かされることがある。
Zeni Gevaは何も社会的なメッセージを発するバンドというわけではないが、その重厚で凶暴で粗野でいきり立っているかのような暴力的サウンドは、聴き手の感度を究極的に高揚させると同時に、それが醒めた瞬間に思わず“マイナス地点”へと目を向けてしまう程の冷酷さを与える。そしてその白昼夢のような覚醒感こそロックンロールがなせる最高の魔術であり、また世の中が「Freedom Bondage」でしかないことを知らしめる技に他ならないのだ。


Zeni Gevaが不世出のロックンロールを怒鳴り散らせ続けられる所以は、そのような術を駆使できるからである。

2007年03月05日

2007年03月05日 まだ土壌はあるか?

SIX最近「UKロック」という言葉が何となく陳腐に思えてならないのであるが、それならば「ブリットポップ」などという言葉はもう腐った魚みたいに悪臭を放つ迷惑千万な存在であっても不思議ではなく、現に腐った魚のような認識がやっとなのである。
Radiohead、oasis、blur、Travis、The Charlatans、Supergrass、Ashといったブリットポップの代表格バンドは今でも確固たる地位を築いて健在だが、その一方でブームが去るとともに姿を消したバンドも多い。例えばThe Verveであったり、Suedeであったり、Gay Dadであったり、Elasticaというバンドは既に解散していたり活動停止状態にある。そして今回取り上げるMansunも4年前に解散したブリットポップバンドだ。


Mansunはズバリこの「Six」以外に取り立てて言うべきことのないバンドである。ブームに乗って登場し、そのブームが去った後にこの一大傑作アルバムを世に出したというだけである。
Radioheadが「OK Computer」を、blurが「blur」を出し、ブリットポップなどというつまらないモノから完全に訣別したように、Mansunも意識的に、かどうかは分からないが、そこから離れた音楽を奏でた。それはあまり知られていないし、これからも知られないだろうし、多分あまり知る必要も無い。ただこの「Six」というアルバムが傑作だというコトを知れば良いのである。


本作はおそらくPink Floydの「The Dark Side Of The Moon(狂気)」やMagmaの「Mekanïk Destruktïw Kommandöh」やCANの「Tago Mago」といったプログレの諸作品と同系列のモノであると見た方が良い。
ぶっ飛んだ曲展開と多様な音楽的要素の集合、アルバム一枚を通して一つの世界が完結するその壮大さ、終始続く変態的なバンドのテンション、そして実に巧みな音の繋げ方、一曲の中でも複数の音を見事に繋ぎ合わせるその手腕には驚かざるを得ない。
とてもあのブリットポップの流れに乗って出てきたとは思えない異端のバンドである。彼らは異端であるが故に今日まであまり認識されていないのかどうかは知らないが、兎に角このアルバムに関する限りでは70年代のプログレバンドが90年代に衣替えをして登場してきたかのようである。何と言っても全編に渡るその奇妙さ不可解さが数々のプログレバンドを彷彿とさせている。


しかし残念なのは、このテンションがこれっきりで終わってしまったこと。
Mausunはこのアルバムによって完全に骨抜きにされてしまったかのようである。彼らにとってこの「Six」という一大傑作の代償はあまりに大きなものであったのだろうか。それとも、もしかすると、もう現在では70年代のようにこうしたアルバムを立て続けに世に出せる土壌が失われているのかもしれない。
これがプログレという音楽の最後の足掻きなのか、Mansunという異端バンドの臨界点を突破した究極の状態なのかは判然としないか、いずれにしても聴く者を惹き付け悩まし掻き立て打ちのめすアルバムであることに疑いは無い。
90年代ロックミュージックの遺産の一つであると思う。

2007年02月16日

2007年02月16日 ミックスジュース

Neo Yankee's Holiday春の訪れも差し迫った如月半ば、私は既に春と対面したかのように穏やかな気分で、定期的に迎えるFishmansブームの真っ只中にあります。
何故にFishmansの曲は古くならないのでしょうか。
「Pet Sounds」がいつ聴いても至福のアルバムであるように、Fishmansもそれ自体がいつ聴いても寂寥感漂いながらも、温かみを包容した新鮮な存在であり、而して彼らの中からは溢れんばかりの至福が垣間見えるのです。
此処で私が彼らのサードアルバム「Neo Yankee's Holiday」を邦楽版「Pet Sounds」と申しても宜しいでしょうか。


記憶は時とともに薄れゆくものですが、究極大切なものだけが遺れば良いんです。Fishmansを聴きながら思うこと、思い出す風景はいつも同じです。おそらく自分で気付かない裡、忘却してしまった裡では、他にも無数の事柄が流れ飛んでいるのでしょうが、余分なものは時間がどこかに運んで行ってくれるということです。斯くして思い浮かべるイメージは、自ずと一定のものに帰着するのです。それは過去の繊細な記憶、換言すれば他人には取るに足らない出来事。斯様なものでも何処かでFishmansの音楽と結びついて、今に至るのであります。
想像力がもたらしたものというより、直感的に繋がり得たものなのです。
何かを認識して、それが全く別のものとリンクする瞬間ほど愉快なものはありません。


例えば此の度例に挙げました「Neo Yankee's Holiday」、これほど関係のないものと繋がり合おうとするアルバムは、滅多に御座いません。
つまらない記憶でも、素晴らしいアイテムと重なり合うことによって、至福の瞬間へと変貌することはあるのです。
而して「Pet Sounds」而して「Neo Yankee's Holiday」而して・・・
置き去りにされた日々の再利用。石と真珠に与する歯車。


一つの出会いが出鱈目で退屈な過去に輝きを呉れることもあるでしょう。

2007年01月22日

2007年01月22日 過去との交叉点

宙の淵fra-foaの1st「宙の淵」


非常に思い出深い一枚である。fra-foaは高校時代、かなり思い入れのあったバンドだ。


所謂「青春」時代などというものは、いかにも青臭くて、感傷的で、陰鬱で不安定なのに、そのくせ妙な期待や淡い幻想を抱いているものである。
私にもそのような時期はあったのかと顧みても、どうも思い当たるフシがない。というのも、私の高校生時代はダシを取り忘れたみそ汁のようなモノで、実に味気ないものだったからだ。何かに夢中になる純粋さや青臭さも無ければ、感傷的にさせられるような出来事もなかった。言ってみれば、欠伸ばかりの平凡であった。
しかし、確かに自らの置かれている状況については自覚的だった。それ故に、自分自身のありきたりな日常を怨嗟することもあった。だが、それも「自業自得」という簡素な一言で我が身へと跳ね返ってきたに過ぎない。当然の帰結である。


そしてfra-foa。
彼らは、というより三上ちさ子(ちさこ)は、生と死を逃げることなく捉え、今の自分の位置を確認する強さと、生きる意味を只管に自身に納得させようとする強烈な意志に満ちていた。聴き手を飲み込まんばかりのその圧倒的なエネルギーに、私は自分に全く欠けているものを見た。外見などかなぐり捨てて、一直線に苦痛を吐露するそのスタイルに、ただならぬものを感じ取った。
それはある意味で、私が思い描いたような「青春」の一断面に違いなかった。
だからと言って、典型的な幼さみたいなものを感じられない所が、fra-foaの最大の魅力であった。


fra-foaは結局、アルバム2枚を出しただけで解散してしまったが、私はこのアルバムがあるだけでも良いと思っている。
音楽的には次の「13 leaves」の方が安定感があるのだろうけど、そこからは伝わってくる印象が限られているような気がしてならない。
対して、この「宙の淵」は、三上ちさ子の思いが全てぶつけられたようで、いつ聴いても胸が動く。そして、ダシのないみそ汁に浸っていた頃の感触も蘇ってくるようで、どことなく変な気持ちになる。それは決して心地良いものではない。だからこそ、私はその“変な気持ち”と完全に訣別できる日まで、このアルバムを大切にし続けていかなければならないのだろう。ずっとそういう気がしてならないのである。

2006年12月29日

2006年12月29日 オ・ナ・ジ

The Air ForceXiu Xiuは意味の分からんバンドだ。
まず名前からしてよく分からん。これで一応「シュー・シュー」と読む、という。うん、そうだろう。


最初にXiu Xiuを聴いた時、えー!と思った。
二回目にXiu Xiuを聴いた時、うわぁ〜と思った。
三回目にXiu Xiuを聴いた時、キモいと思った。
四回目にXiu Xiuを聴いた時、うほぉーいと思った。
それ以降Xiu Xiuに飲み込まれた。


Xiu Xiuは騒音と静寂は紙一重だということを明らかにしてみせたバンドだ。


実に奇妙な存在。実に不可解なサウンド。
あまりにもメランコリックであまりにもノイジーであまりにもドリーミーであまりにもマゾヒスティックな旋律。
空気を入れすぎた風船に見る破裂寸前の緊張感。精神の昂りを力づくで抑えられた後に訪れるであろう虚無感。Xiu Xiuにはそんなものが絶えず付き纏っている。


このバンドにハズレは無いが、アタリも無い。(最高の讃辞!、のつもり)
ということで、今回は最新作の「The Air Force」を挙げておく。
騒と静、動と止、表と裏、高と低、長と短、そしてアタリとハズレ。全て同じだというだけ。

2006年10月29日

2006年10月29日 ハードに責めて

NARKISSOS17年ぶりの再結成らしいサディスティック・ミカ・バンド(Sadistic Mikaela Band)。
どうやらカエラちゃんの参加ばかり注目されているようだけど、ぶっちゃけ彼女がいなくても良い!と思わせるくらいの傑作アルバムを出して来られた。
正直なところ、驚くべき駄作だろうと思って聴いたんだけど、全然そんなことはない。今年聴いた中で一番良いアルバムだ。まさかここまでヤるとは!


なんというか、とにかく全員が好きなことをやっているのが良いね。
この人たちはそれぞれ素晴らしい実績を残されておるから、今更名誉とか賞賛の声とかはいらないんでしょう。各自心の赴くままに曲を作ってきて、それを楽しんで奏でているのが分かる。そして抜群の演奏力。一切の誤摩化しなし。真正面からロックンロールですか。随所に見られる60年代におけるイギリスのモッズ系バンドのようなサウンドが、偽りなく「楽しい」。


一方で幸宏作曲の4曲目「Last Season」、7曲目「Tumbleweed」なんか思いっきりSketch Showと同心円上にある曲なんだけど、なるほど、今、彼の曲をミカ・バンドでやればこうなるのか!と思う程の秀逸さ。


多分、メンバーが好き勝手に曲を書いたんでしょう。それ故、統一感には欠けるけれども、逆にいえばそれだけ個々の懐の深さを感じられるわけです。
バンドを離れるとそれぞれ全く異なる音楽をやっているけど、それを今一度持って帰ってきて、改めてやってみたらこんな風になりましたよ、って作品。そしてこれが驚くほどパワフルな傑作になってしまったという嘘みたいな話。いやはや本当に“サディスティック”な連中だ。どれだけ責めりゃ気が済むんだ。本当に「タイムマシンにおねがい」して昔に戻り、感覚を取り戻してきたんじゃないだろうか、とさえ思った。

2006年10月13日

2006年10月13日 音楽界の寅さん

The Information.pngBeckは、それほど聴き込んでいるというわけではないが、とりあえずこのヒトほど「自由人」という言葉が適合するミュージシャンも滅多にいるものではないであろう。まったく不思議なモノである。


音楽にルールなんてない、と思うけど、Beckの場合ジャンルもスタイルも関係ない。好きな時に好きな場所を好き勝手に動き回る男である。まるで音楽界の「寅さん」だ。要は楽しけりゃ良い。それで結構じゃないか。楽しめない、楽しませられないミュージシャンが良い音楽を奏でられるわけがない。


今作(「The Information」)の内容については、まぁ言うまでもない。今までのBeckとさして変わりがなく、多種多様な曲が並ぶ。モチロン完成度の高い素晴らしい作品である。これだけ色んな音楽をつまみ食いしといて、それを見事に違和感なく聴けるレベルにまで昇華させていることには、改めて驚嘆せざるを得ない。


このヒトは好き勝手やってれば良い。それで独り善がりにならず、リスナーを惹き付けることのできる天賦の才を持っているんだから。Beckが楽しければ、皆楽しい。この不思議な"方程式"は、まだ当分崩れそうにない。

2006年10月09日

2006年10月09日 ロード・ムービー

alfred and cavitythe band apartは、前作あたりからCDを通して、楽しんで音楽をやっているのがハッキリと分かるようになってきた。それはこのサードアルバム「alfred and cavity」でも明瞭に伝わってくる。


今作は、これまでのアルバムと比べても、曲構成がワンランク上のレベルにある。多くのライブで鍛えられた演奏力を存分に発揮して、想像力を掻き立てるような情緒豊かなサウンドを鳴り響かせている。
彼らの奏でる音から浮かび上がってくる表情が、随分と増えているのを実感できる。
一本筋の通った、独特の、しっかりとしたグルーヴ感のブレない所が、このバンドの魅力であり、面白いところですな。
前作で不動のものにした感のあるバンアパのスタイルを、今作では更に一歩先に進めたんじゃないかなぁ。"the band apart"という音楽ジャンルを、もう鉄壁の状態にまで築き上げましたね。


ファーストやセカンドと比べると、ぐっと静かになった分、そこから見えてくる風景も落ち着いた、すっきりした印象を抱く。


ただ今作は、確かに彼らの音が豊かになっていることを実感できる傑作ではあるのだけど、あと一押しあれば・・・と思わずにはいられないのも事実。その一押しがあれば、ファーストやセカンドのような「大傑作」になってただろうと思うのだけれども…
いや、でも、コレ、相当良いアルバムですよ。
本当に沢山の色んな景色を思い浮かばせてくれる一枚なんです。

2006年08月25日

2006年08月25日 叫びの意味とは?

Y「狂気」といえば、やはりピンク・フロイドを思い浮かべるヒトが多いのだろうか。私は、ピンク・フロイドの「狂気」はいささか抽象的な意味での「狂気」じゃないか、と思う。もっと分かり易い、直の「狂気」というのであれば、例えば、Suicideや初期のボアダムスなんかが相応しいだろう。


今回取り上げるポップ・グループも、ある意味では「狂気」を表現したようなバンドだが、多少ほかの連中とは異なる。
その決定的な違いは、やはり音楽的な広がりだ。
彼らの曲は、パンクやファンクやダブ・ミュージックなどを基底とした上に成り立っている。音楽的にはかなり豊穣なバックグラウンドを持っているようである。
ただ、曲の中ではそれらがゴチャゴチャになってしまい、一つの塊と化しているがために、非常に様々な要素が顔を覗かせているのが面白い。


そしてマーク・スチュワートの「死んでしまえ!」と言わんばかりの鋭利な叫びは、暴力的であると同時に、心の奥まで染み渡り聴き手を解放させる即効性を持っている。


仮にピンク・フロイドの「狂気」を閉じられた感情ゆえのものとするならば、ポップ・グループの「狂気」は開け放たれたものであるといえる。
どちらが優れているとか言うのではない。
重要なことは、自分の感情とどう折り合うかだ。
そう思う時に、マーク・スチュワートのあの叫びの意味も、少しは理解できるような気がするのだ。


ところで、ポップ・グループは、この「Y」以外のアルバムはほとんど売られていない。なぜかいつも廃盤状態だ。たまに再発されるみたいだけど、やっぱりすぐに消えてしまい、いつの間にか廃盤扱いになっている。それだけポップ・グループの音源を求めているヒトが多く、すぐに売り切れるということなのかどうかは分からないが、とりあえず「Y」以外のアルバムを店頭で見かけることは滅多に無いと言って良いだろう。なぜ「Y」だけが常時購入することができる状態なのかも分からないが、どうせなら他の2枚も「Y」と同じくらい出せば良いのにねぇ。

2006年08月23日

2006年08月23日 マジカル・パワー

Magical Powerマジカル・パワー・マコは日本におけるCaptain Beefheartである、とは言えないだろうか。
音楽性自体に違いはあるものの、そのぶっ飛んだ才能や演っている音楽はCaptain Beefheartにも引けをとらない。


この人ほど純粋に"音を楽しむ"音楽をやっている人もいないだろう。
いわば音楽の原点のようなことをやる人である。
そしてこのファーストアルバム「マジカル・パワー」は、原点も原点であって、音楽そのものの面白さを詰め込んでいる。
例えば「チャチャ」という曲なんかは、ひたすら「チャチャチャチャチャチャ」と叫び続けるだけだし、「秋がない(アギネ) 」では、おっさんが純度100%の津軽弁で歌いまくるし、「アメリカン・ヴィレッジ1973」ではこれ以上無いほどの繊細な音を作り上げている。
そして2曲に参加している灰野敬二の活躍があまりにも素晴らしい。


こういう風な手段で音楽をやる人がいるんだから、凡百のミュージシャンはたまったものではないだろう。
だって「音楽」のありのままの姿を、こうも明確に描かれては、やりきれないだろうから。
私が音楽をやっている立場なら、もう嫌になってやめてしまうかもしれん。
それほどこのアルバムはショッキングな内容だ。
マジカル・パワー、というのも頷ける。


マジカル・パワー、ね。うん、ピッタリの名前だ。

2006年08月22日

2006年08月22日 最後の音楽

Trout Mask ReplicaCaptain Beefheartというヒトは天才過ぎたのだと思う。
天才過ぎて天才過ぎてどうしようもなかったから、「Trout Mask Replica」などという化け物アルバムを作ってしまった。彼がやりたい音楽を、小細工なしに、真っ直ぐに表現したら、こんなアルバムができてしまったのだろう。


ブルースとかフリージャズとか、この際そんなものはどーでも良い。重要なのは、このアルバムの果てしなくデカい全体像だ。


このアルバムに詰め込まれた莫大な音楽的要素。それもおそらくはCaptain Beefheartの一部に過ぎない。
音楽などというのは、彼にとっては、単なる表現手段の一つに過ぎなかったのだろう。しかし、彼のような天才が音楽を好き勝手にやってしまうと、こんなコトになってしまう。
これは歴史の驚異的な一面を記録した音源だ。


そして彼をとりまくメンバーもまた半端ではない。このアルバムに収められている28曲、全てにおいてまるで即興的な感を受けるが、よく聴いてみると実は緻密な演奏がなされている。


ワンフレーズ、どこを取ってみてもスキがない。
この手の音楽というのは、大抵無駄で埋め尽くされているのがフツウなのだが、このアルバムだけはほとんど無駄がない。その為このアルバムを真剣に聴こうとすると、相当の疲労を伴うことを覚悟しなければならない。


Captain Beefheartが音楽から離れてもう何年も経過するが、こんなアルバムを残した以上、彼が音楽を続ける意味もないだろう。
そして、音楽自体も、この辺りでひとつの終わりを迎えているのかもしれない。
少なくとも、これは、何かが行き着く果てにある終わりの音楽である、というような雰囲気がプンプンと漂って来ている。

2006年08月21日

2006年08月21日 「新」

Faust IVどういうわけか、70年代の「ジャーマンロック」などという部類に分けられるミュージシャンには、ヘンテコな連中が多い。
CANやNEU!やTangerine Dreamなどは、その中でも代表的な存在だが、このFaustも同様に「ジャーマンロック」を象徴するヘンテコなバンドであろう。


Faustといえば「Faust」や「So Far」というアルバムが有名だが、音楽的にはこの「Faust IV」が一番面白い(ヘンテコな)ことをやっているように思う。


Faustの音楽は、実態を捉え辛い。
だが、降り注ぐような不気味な音は、いつ聴いても新鮮で垢抜けている。
一方で、彼らの音の底に眠るものは、あまりに鋭く、そして混迷している。
相対するものが結びついているようだ。


このアルバムでは、その両者の対立が恐いくらいに表れている。
背筋を凍らせるほど不気味に、鋭く、迫ってくるものがある。
自分の内側にある何かを一新させるほどの力を伴っているのだ。


一概に「新鮮」や「一新」と言ってもピンとこないだろうが、直接このアルバムを聴いてみると「ナルホドな」と思ったりするであろう。

2006年08月20日

2006年08月20日 その真意は!?

Barrett先日亡くなったシド・バレットの2nd「Barrett」。
この人のソロは「The Madcap Laughs」の方が好かれているような気もするが、私はこちらの方が好きである。というよりこちらに興味を惹かれる。
まぁ、どちらも甲乙付け難い傑作であることに間違いはないが。


私はこのアルバムを聴くと、変な気持ちになる。
彼のソロ作品はピンク・フロイドの時みたいなサイケっぽさが薄れて、どちらかといえば「歌モノ」としての要素が強くなっている。特にこのアルバムではそれが顕著だ。「The Madcap Laughs」の頃はサイケフォークとも言うことができたが、このアルバムはほとんどフォークともいえる。しかし、私はこれをフォークだとは思わない。曲自体は極めてシンプルな音作りで、いずれも聴き易いものだが。
何かよく分からないが、変な気がするのだ。若干歯車が狂ったような感じ。どうしても、これを単にフォークとして解してしまって良いのだろうかという思いが駆け巡る。
何か前衛音楽を聴いているような気持ち。


シド・バレットがどのような心境でこのアルバムを作ったのかは分からないが、このアルバムはサイケやフォークなどを飛び越えた斬新さがあるように思えてならない。
そうして改めてひとつひとつの音を意識して聴くと、その間合いに捕われそうになる。音と音との感覚が、何か絶妙なのである。
いやはや、まったく恐ろしいアルバムだ。
これはシド・バレットが残したとてつもなく難解なメッセージなのかもしれない。そんなことを考えてしまう程の違和感に包まれた怪作である。

2006年08月20日 変態タンゴ

南蛮渡来江戸アケミはどう見ても変態だと思う。
変態でなければこんな曲を書けるわけがない。
私はその変態性が大好きで、JAGATARAみたいな変態バンドをずっと探している。
やっぱり正常者が奏でる音楽というのは、一定の範囲内から出ることはない。本当に面白い音楽とは、その先にあるのだと思う。


画期的な音楽や、独創的な音楽をやる人は、どこかしら変態的な一面を持っている。そしてその真価は同じような変態性を持っている人たちにしか伝わらないのではないか。もの凄く狭い範囲内でしか共有されないということだ。
だから、私なんかがJAGATARAの真価を問うことはできない。
でも、ありきたりの言い方になるが、何か無性にワクワクするのだ。 JAGATARAの音楽は不思議な高揚感を与えてくれる。
特にこの「南蛮渡来」の自由自在ぶりは最高だ。ロックとかファンクとかパンクとか、そんなものは関係ない。単純に、音楽として面白いし、ワクワクする。


往々にして変態的なミュージシャンは短命である。
アケミもその例に漏れることはなかった。
だが、これだけ"ちゃんとした"作品が幾つか残されたことには感謝すべきだろう。
アケミの本性を解明することなど全くもって不可能だろうが、彼の思いの一端を垣間見ることくらいはできるはずである。その手がかりとなる作品が何枚も出ている。この「南蛮渡来」もその一つに過ぎない。
私は彼の曲を聴く度に、今後、江戸アケミを、JAGATARAをどれだけ知ることができるだろうかと考える。
一生かけて追い求めても良いくらい、彼や彼の音楽というものは謎が多く、深いものであるように思えるからである。

2006年08月19日

2006年08月19日 切なさの永遠

Pet Sounds多くの者が"切なさ"という感情を求めているのかもしれない、と思うときがある。
例えば、切ない恋の映画や小説が大ヒットしたり、切ないバラードが売れたり、夏の終わりを切なさと重ねて語られることが頻繁にあったり…etc


で、切ないアルバムといえば、私は真っ先に「Pet Sounds」を思い浮かべる。
メロディー、歌詞、そして歌、全てがどことなく切なくて物悲しいのだ。
これほど極上のポップ・アルバムで、曲の作りも複雑なのに、なぜか切なさばかりが先行する。
1曲1曲の持っている力強さが半端ではない気がする一方で、非常に幻想的な儚さを兼ね備えているようにも感じる。


「Pet Sounds」についてはもう語り尽くされた感があるから、私なんかはもう何も言わない方が賢明だろうが、では果たしてこのアルバムの持つ不思議な魅力を適確に語り得た者がどれほどいるであろうか。
その独特の不思議さが、今なお多くの人々に愛される所以なのかもしれない。
そして私もまたその不思議さに導かれて、「Pet Sounds」をいつまでも聴き続けることだろう。

2006年08月19日 ノンフィクションの音楽

Cop/Young God/Greed/Holy MoneySWANSの初期のアルバム2枚を収めた2枚組の「Cop/Young God/Greed/Holy Money」。
おそらく呪術師の部屋ではこのCDが鳴り響いている。私にはそんなイメージが思い浮かぶ。
どうしようもなく退廃的な部屋の中で、黒いマントを纏った薬物中毒みたいな長髪の男が鬼のような形相で佇んでいる。
その光景こそがSWANSの音楽だ。


シンプルながらも恐ろしいほどに重く鈍く響き渡る音。
ひたすら繰り返される単調であり、無機質なサウンドの連鎖。


日本語の「音楽」とは本当に巧く言ったもので、SWANSほど「音楽」できるバンドは、そういるものではない。


何をどう表現するかということは、限りなく重要な問題で、人類に一生問われていくであろう。
SWANSは、退廃や暗黒や呪術という言葉を、これ以上無いというほど見事に音で表現している。
だから、SWANSの曲を聴くと、それがどんなに鈍くても重くても単調であっても無機質であっても、「音楽」できるのだ。
彼らの曲をどう受け止めるかはヒトそれぞれだろうが、私はこんなに真に迫るほどの迫力で、混沌とした部分を表現した音楽をほかに知らない。
美しくなくて良い。整然としてなくて良い。綺麗でなくて良い。大切なのは、何かの一部分を克明に描き出すことなのだ、と改めて感じさせてくれる音楽がここにある。

2006年08月19日 「なんじゃこりゃ」で良い

Flowers of Romanceこのアルバムの1曲目にある"Four Enclosed Walls"を聴いた時、私はニヤニヤしながら「なんじゃこりゃ」と思った。
それは期待に胸を膨らませてのことである。
1曲目の"Four Enclosed Walls"を聴いた時に、私は、これは明らかに別格なアルバムだと悟った。


PILの最高傑作はやはりこの「Flowers of Romance」であり、もう二度とこんなアルバムは出てこないのではないかという思いがする。


そしてジョン・ライドンはこのアルバムで何がしたかったのかということを、未だにはっきりと理解できないでいる。
私が初めて"Four Enclosed Walls"を聴いた時に思った「なんじゃこりゃ」という心境、結局これが総てであった。


このアルバムについてあえて何かを言うなら「空間を無視した音楽」ということになる。
ここではギターもベースもヴォーカルも一切が関係ない。
ドラムの音がかなり全面に出てきているが、それも実は関係ない。
このアルバムで重要なことは、その無限のリズムである。
怒濤の如く拡大していくリズム。果てはない。
手段も方法も感情も真実もない。ただ、リズムが延びていくだけ、まさに狂気である。正気でこんなことはできない。
それゆえにこのアルバムは「なんじゃこりゃ」というコトになるのだ。
そしてこれはいつまでも「なんじゃこりゃ」という範疇に属するもので良い。だってそういうものが幾らかは存在しないとつまらないでしょう。

2006年08月19日 桃月に思ふ

Pink Moon素朴なもの程その奥に潜んでいる潜在的なモノは凄まじい。
例えば、茶の湯や龍安寺石庭のような日本庭園などはその最たる例ある。
現在では、それらのものの奥に秘められた意義を、日本人でさえ理解し難くなっていやしないだろうか。
そうした有り様ゆえに、外国人に素朴な日本文化を理解させることは、相当困難なことに違いない。


音楽においても同様のことが言えるはずで、例えばこのニック・ドレイク。
彼の音楽はあまりにシンプルだが、その奥は限りなく深い。
ギターと歌だけで、ここまで感情をざわつかせることができるだろうか。
あまりに純朴で、あまりに繊細で、あまりに陰鬱で、あまりに静かで、あまりに寂しい。
彼が歌に込めた思いの程を正確に推し量ることは、本人以外には不可能なのではあるまいか。


彼の遺作となったこの「Pink Moon」は、特に悲壮的な雰囲気に満ちていて、どうしようもない閉塞感に支配されている。
しかし、ここにある彼の歌は、嘘ではない。そのことが肌にしみ入ってくるから、私はニック・ドレイクを信じられるような気がするのだ。


冒頭に記した素朴なものに宿る潜在的なモノは、視覚や聴覚で意識的に捉えようとしても無理なのかもしれない。
もしそこに本物の何かが存在しているなら、こちら側が求めずとも、意識の中に侵入してくるのではなかろうか。
ニック・ドレイクの歌は、無意識のうちに聞き手の感情を支配する。それに身を任せるだけで良いではないか。ニック・ドレイクの歌と向き合う方法はそうする以外にないのだろうから。

2006年08月19日 彷徨

Rock Bottomテレビでよく見る映像に、重病患者の生への強い意志を捉えたものがある。
難病と闘う患者、移植手術を受けた患者、または受けなければならない患者の生き様を追い、彼らに密着している。
そのような人々は、想像もつかない程に強い意志を持ち、生きようとしている。
強い生命の希求。彼らを動かす源は何であるのか。私はいつも考えさせられる。


このロバート・ワイアットの「Rock Bottom」も、限りなく強い生を求めた末に辿り着いた一つの境地であろう。
彼は事故により下半身不随となった。その絶望の後に立ち上がり、作り上げたのがこのアルバムである。
元ソフトマシーンのドラマーとして語られることもあるが、ただのドラマーがこれ程までの歌を作れるだろうか。
彼はドラマーである以上に、天性の才を持ったヴォーカリストであろう。


この声の力強さの根源は何か。
間違いなく生への希求によるものだろう。
生きるということを諦めない限り、その未来に可能性は、ある。
このアルバム以上にそれを教えてくれるものが、果たしてどれくらいあるだろうか。

2006年08月18日

2006年08月18日 全部目の前にある

98.12.28 男達の別れFISHMANSのラスト・ライヴを収録したアルバム、「98.12.28 男達の別れ」。
このアルバムは、やはり悲しい。
これ以外のアルバムでは普通に聴ける曲も、ここでは格段に悲しく聴こえてくる。


何が悲しいって、このライヴには、"最後"を感じさせる空気が全く漂っていない。
まだまだ続きがあって、このライヴはただの節目にしか過ぎない。
おそらく、誰もが、そう思っていただろう。


この後に訪れる突然の「別れ」とは無縁の音楽だ。


悲しい雰囲気がほとんど伝わってこないから、逆に悲しくなる。


あまりに突然の別れ。
それは日常的なものだと実感させられる。


このアルバムは、ある意味では、残酷な現実世界を克明に封印した作品と言えるのではないか。
ここまで現実的な、突き抜けた切なさ・悲しさ・寂しさを感じさせるアルバムは、滅多にあるものではない。


男達の「別れ」 そう 別れとは唐突に訪れるものなのだ、ろう。

2006年08月17日

2006年08月17日 曖昧であってこそ…

Terminall Loveピーター・アイヴァースの「Terminal Love」。
この人の歌は、おそらく気持ち良いものではない。
彼の歌声は、聴き手を感傷的にさせ、何かモヤモヤした想いを想起させるからだ。


そもそもピーター・アイヴァース自身が、あまりにも現代の主流とはかけ離れているように思える。
だからこそ、というべきか……彼の歌声には、特別なモノが含まれているのだ。


ピーター・アイヴァースの歌に救いはない。彼は誰かの代弁者ではないだろう。
しかし、彼の声には不思議な優しさがある。
この優しさが、私の感じる「特別なモノ」の一つで、それは世俗的な色を帯びているようにも思えるのだ。
しかし、ピーター・アイヴァースそのものは世俗的ではないヒトだ。
何か矛盾している?曖昧?


そこがピーター・アイヴァースの魅力なのだと思う。だから私もわざと曖昧なことを書いてみた。
彼の歌から受ける印象は、常に形を変え続けて曖昧である。
それ故、感傷的にさせ、モヤモヤさせるのではないだろうか。
意味が分からん?それこそが彼の本質かもしれない。


ピーター・アイヴァースの歌には、優しさと悲しみが同居している。
聴く時の気持ちによって、そのどちらかが強く全面に現れてくる。
時と場合によって、様態を変えるという意味でも、彼の歌は曖昧であるといえる。
まるで雲のようなモヤモヤ具合なのである。

2006年07月25日

2006年07月25日 波を待つ瞬間

ROSE ALBUMRie fuの2ndアルバム「ROSE ALBUM」(先日発売された新曲も良いぞー)。発売されてもう5ヶ月くらいが経過してます。
この人は、一時期アメリカでの生活を経験し、現在はロンドンの大学に在籍中、ということで英語は(多分)堪能で、比較的滑らかな発音をしていて、日本人のミュージシャンによくある"違和感"を感じさせないのが良い。
しかも、どうやら私と同い年だぜ。すげーな!
俺がバッタなら、Rie fuはコーカサスオオカブト。もう圧倒的な差がある。俺なんか今日もカマキリに食われ、車に轢かれて潰れるのだ。一方のRie fuは、今日も数千円の値段で取り引きされてるぞ。
俺なんて所詮30円未満だよ。むしろ値段が付くだけでもありがたいって感じがしてきた。


ところで、彼女は、ジャケ写と通常の写真で外見が異なるのはなんでだろう?
あっ! これはイイや。まぁ、イロイロあるだろうし。


さて、彼女の音楽ですけど、なんと説明すれば良いのか迷ったんですが・・・、一言でいうなら「流れるような曲を書く」。
つまり変なクセがなく、スッと入ってくるのです。それは、透き通った小川、敬虔なクリスチャンの瞳、処女の照れて火照った頬、名匠が作り上げた名刀の輝き、ポケットから出てきたお菓子の匂い、割礼の儀式の前に流れる特殊な空気と予想されるモノ...


真夏の微風のように、そっと流れてきて爽快感を与えることができるヒトなんです。


派手さがない分、一回だけで万人を惹き付ける力には劣るかもしれないけど、涼しげな光景を感じさせる曲を書くミュージシャン。


このアルバムでは、前作よりも音楽的な拡がりも見せ、しっかりと自分の立つべき地平を築いてきているという感じを受けます。
まだまだ完成されたミュージシャンではないゆえ、これからが非常に楽しみです。
楽しみといっても、ワクワクという感じではなく、ソワソワと伝わってくる楽しみなんです。
ボクはサーファー。あっ! 向こうから波が来る! ビッグウェーブではないけど、十分大きな波だ。よし、あれに照準を合わせるぞ。
っといった感じの楽しみ。分からないヒトは、とりあえずサーフィンをやってみましょう。まー、私はやったことありませんけど。

2006年06月26日

2006年06月26日 ゴール地点。またスタート、

3×3×3ゆらゆら帝国のメジャー初アルバム「3×3×3」。


このバンドの曲には、ストーリー性がある。
それが彼等の最大の武器であり、間違いのないオリジナリティを感じさせる由縁だろう。


彼等のアルバムは、まー、ほとんど外れがないから、聴いたことがなくても、良い。どこからでも入れる。


誤解を恐れず、簡単に言えば、基本的に、ゆらゆら帝国というバンドは、ノイジーさとサイケデリック、時にメランコリックで、シンプルな轟音ロックを響き渡らせるバンド。なのだが、このアルバムでは、どことなく哀愁漂う雰囲気の曲も幾つか収められており、比較的聴きやすいものになっている。
そして、その分、より彼等の表現しようとする世界観が明確なものとなっているように思われる。


音楽による、所謂「表現」ということを考えた場合、このアルバムからは、ある種行き着くところまで行き着いた感さえ覚える。1枚のアルバム中に、これほど多様な世界観を内包することに成功しているアルバムというのも珍しいのではないだろうか。

2006年06月21日

2006年06月21日 三十路過ぎにて

中島みゆきの「空と君のあいだに」という曲はメチャクチャ素晴らしい。
"メチャクチャ"などという言葉で表現してしまうと、その瞬間に安っぽくなりそうだが、いや、本当に素晴らしい曲だ。


この曲は「家なき子」の主題歌で、当時、かなりヒットしたのを覚えている。
私は小学3〜4年生くらいだったはず。
「家なき子」は新聞やワイドショーなどでやたらと評判になり、私は最終回だけ、見た。
「今夜ついに最終回」みたいな煽りがスゴかったので、(それまで見てなかったけど)お父さんに頼んで最終回だけ見せてもらった。当時はパパがテレビのチャンネル権を独占状態だったという微笑ましい思い出だ。
最後のシーンは、街中でゴミ箱に捨ててあったポテトか何かを拾って、愛犬と分けあって食べているのを見る世間様の冷たい目に対して、「同情するなら金をくれ」というお馴染みの台詞で終わったと記憶している。


で、ドラマに連動して主題歌も人気になって、私の周りでも結構ウケていた。CDを買ってたヤツもいた。
今改めて聴いてみて思ったけど、小学生が聴いてもなかなか分かる曲じゃないよ、コレは。多分雰囲気とか曲調で聴いてたんだろうなぁ。


例えば

君の心がわかる、とたやすく誓える男に
なぜ女はついてゆくのだろう そして泣くのだろう
君がすさんだ瞳で強がるのが とても痛い
憎むことで いつまでもあいつに縛られないで


こんな歌詞が小学生に理解できるものかしらん。
こういう曲を10歳前後の子供が聴いてたなんておかしい。
今の坊やたちの間では、このようなことは無いだろう。
何も私の小学生時代が良かったと言ってるわけではない。
ちょっと変な現象が起きていたというだけ。
中島みゆきの曲などは30歳過ぎてから漸く理解できるものかもしれん。
太宰の小説が、30過ぎてからは読めないと云われるように、中島みゆきは30過ぎるまでは分からないとか。そんな感じなのかも…
となると、現在21歳の私なんかは"蚊帳の外"ということになる。
まぁ、そうだろう。歌詞に関しては表面的なことしか分かってないと思うよ。小学生の頃よりは分かるだろうけど、まだまだとても理解できるもんじゃない。
いや、でも、それでも、「空と君のあいだに」というのは素晴らしい曲だわ。

2006年06月17日

2006年06月17日 色んなモノがEmissions

EmissionsROSSOの新作「Emissions」。
正直前作「DIRTY KARAT」はイマイチだったから、ROSSOには期待しないことにしてたんだけど、意外や意外、このアルバムが良い。私の中にあるROSSOのイメージが一変した。


今作は全4曲で30分ちょいと時間的にはコンパクトにまとめられてるんだけど、これが良い具合に作用している。
このアルバムからは、徐々に音を組み立てていく構築することの魅力が感じられる。
いずれの曲も淡々としたところから、少しずつ骨肉が付けられていって、最終的には頑丈な体になる。その過程があまりに楽しい。バンドとしての原点に立ち返ったかのような印象さえ受ける。


ところで、チバはこの後、The Birthdayとかいうバンドでやるらしいね。
ROSSOでもこれほど刺激的なことができるのに、なぜ別のバンドをやるんだろう。
内部事情かねえ。
出来ることならもっとこういう感じの曲をROSSOでやって欲しかった。
良いアルバムだけに、これで幕引きとなるなら、ちょっと残念。
まー、でも、彼は今までも好きなようにやってきたから、あえて気にしないでおこう。

2006年05月27日

2006年05月27日 晴天の霹靂とはこの様な事ですか?

ON今回は独り善がりな気持ちを書きまくったに過ぎないことを予め言っておく必要があるのではないかという気がする。というのも正直Boom Boom Satellitesに対しては1stアルバム以後なんかガッカリというかアレッというかう〜むというか、そういう煮え切らない感想を持つことばっかりだったのだけど、先日出たこの5th「ON」は今までのマイナス感情をある種の驚きを伴って一気にプラスへと変える程凄く良いアルバムだったのだ。


1st「Out Loud」以後、どんどん音楽的な幅が広がり、サウンドに関しても、大雑把に言えば「頑丈」になっていくことは実感できていたんだけど、それは私のツボを刺激するものでは、無かった。
一口に言ってしまえば、彼等のアルバムは常にクオリティが高かった。けれど「Out Loud」で抱いた私の期待やらイメージやらは、その後の彼等の作品とは結びつかなかった。だから、私は、どうやら本人たちの志す方向性と私が待っているモノは食い違うものなのだという結論に達していた。
しかし、しかしだ。ここにきて事態は急変! 何だこれは!これは私が当初勝手に彼等に対して抱いていた期待やらイメージやらとは乖離するものである。…にも関わらず、これは!!!
ああ、なんということだろう。今まで私が予期していたものとは全く異なるタイプのモノをBoom Boom Satellitesは教示してくれた。


私は「Out Loud」のようなアルバムばかりを待ち望んでいたのではない。むしろそれとは別のタイプのアルバムを期待していた。そして彼等は常にそういう期待に応えるものを出してきた。ただ、上述のように、それは私のツボを刺激しなかったというだけのことだ。
これは凄く微妙な問題で、一概にどういうモノを私が待っていたかは、非常に形容し難い。というか、し難かった。
しかし今となっては容易なことだ。私が待っていたのは、まさにこのアルバムのようなモノなのだ。
私自身もこのアルバムを聴くまで、自分がこういうモノを待望していたとは気付かなかった。ただ漠然と「Out Loud」を聴いた時に残る、あの昇天せんばかりの高揚感をもって、何かしらの思いを寄せていた。
そして、今回ついにそういう理想と対峙し得たということなのだ。しかし、改めて言うが、まさかこういうタイプの音を自分自身が渇望していたとは、なぜだか気が付かなかったのだ。


・・・今日は、沢山書いたからもう良い。
私が待望していたという「こういうタイプの音」とはどういうものかというのを、私ははっきりと説明できない。文才が無いから。
だから今回はこれで終わりにする。でも、なんかそれで良い気がする。
音楽なんてのは本来、聴いて何らかの感情を刺激できれば良いものだ。そういった意味では万人が異なった趣向を持っているといえるから、あれやこれやと説明する必要なんて、本当は無いのだろう。
だから、感想だけで十分だ。今日はちゃんと感想を書けたから、先生にも怒られないと思う。これで提出しても大丈夫だろう。

2006年05月13日

2006年05月13日 発狂音楽諦観

Tubular Bellsウソをつかない音楽というものがある。


私はまずカッコをつけて「ウソをつかない音楽というものがある。」などと書き出してみたのだが、果たしてウソとは何であるのか。所詮そんなものは受け手の中でいかようにも変化するものではなかろうか。
私にとってウソであっても、A子さんにとっては本当なのである。
B助君がウソだと思っても、私は信じるのだ。
そんなものが世の中には無数にあると言っておけば良い。
そうすれば私は哲学者が新進気鋭の現代作家のような気になれるのである。


さて、それならば言い換えなければいけない。


自分にとって常に真実であり続ける音楽というものがある。


これでちょっとはスッキリした。
そうである!「自分にとって常に真実であり続ける音楽というものがある」のだ!
それが何なのか。私にとってそれの代表格は「Tubular Bells」である。


「Tubular Bells」には歌詞のある歌がないから良い。
言葉は信じられない。信じていた言葉に裏切られることは珍しくない。言葉の意味というのは、こうしている間にも変化し続けているのだ。
だから言葉でしか互いの意思を交わそうとしない現代社会は信じられない。ウソばかりである。言葉はウソの元凶に他ならぬ。
それなら言葉を要しない世界に入り込めば良い。そこにはもはや真実しかないのだから。ただし、言葉のないものが全て良いというわけではない。私が「Tubular Bells」にこだわるにはそれなりの理由がある。


それは無限の世界。イメージがイメージを生む世界。自ずと思想は拡大され、果ては真理をも掴み得るのだ! 自己の内面と対話し続けられる魔力を秘めているのである。
私が「Tubular Bells」という一枚のアルバムを飽きることなく聴き続けらる由縁はこうした所にある。


夢幻の自然と、思い描き得るだけの情念と、果てしなき快楽、解毒、恩恵、解放…とあとは ああ もう何でも良い。どうでも良くなってきた。
こういう時にこそ、「Tubular Bells」に身体を預けるのである。


その時私はそこにはいない。微笑を浮かべながら無限の世界に佇んでいるのである。

2006年04月24日

2006年04月24日 深〜〜〜〜い音の泉

Electronicビートルズのメンバーで誰が一番好きかと問われれば、私はジョージ・ハリスンの名を挙げる。
ご存じのように、ビートルズ内では常にジョン・ポールに次ぐ3番手の存在であったジョージだが、彼は徐々にその才能を伸ばしてくる。
そして「Revolver」の頃になると"Taxman"や"I Want To Tell You"といった超名曲を書くまでのミュージシャンになり、その後も"While My Guitar Gently Weeps"や"Long Long Long"を始めとして"Only A Northern Song"、"It's All Too Much"、"Something"などの最強過ぎる名曲を生み出した。
で、ソロになっていきなり天下御免の名盤中の名盤「All Things Must Pass」を世に出し、それ以後「Cloud Nine」や「Extra Texture」などの傑作を多く出している。(余談だが、「All Things Must Pass」はビートルズのメンバーのソロ作品中最高のものだと思う。これこそジョージがジョンやポールを凌駕した瞬間を示す何よりもの証だ)


そんなジョージの作品群の中で、私が最も興味深く、好きなアルバムがこの「Electronic Sound」である。邦題は「電子音楽の世界」
このアルバムはビートルズ解散前の1969年にアップルのサブレーベルであるザップルからリリースされたもので、ムーグシンセサイザーを用いて制作され、ビートルズのレコーディングにシンセサイザーを持ち込むきっかけとなった、というのはある程度有名な話である。
が、いかんせんこのアルバムは評判が頗る悪い。


これは約20分前後のインスト曲2つが収められただけの作品であるが、この2曲というのが非常に前衛的。
ビートルズ関連でいえば、ジョンの"Revolution 9"やPlastic Ono Bandとしてリリースされた諸作品中のオノ・ヨーコの曲みたいな感じ。
とにかく相当実験的なもので、現代音楽ともとれるような曲が2つ。


なんとも形容しがたいアルバムだが、私は大好きなアルバム。
音像が非常に心地よく、聴いているうちに引き込まれていくような感じを覚える。
前述したように、前衛的であり現代音楽的であるが、一方でエレクトロニカやノイズやコラージュ等にも通じるところのあるアルバムだ。
無限に広がる音の海を堪能できる日陰に置かれた名盤。

2006年04月08日

2006年04月08日 伝える、ということ。

DuskThe Theというのは非常に厄介なヤツである。
何が厄介かというと、コイツをamzonなどで検索する時に「The The」と入力してもヒットしないのである。
それ故、仕方なく「Dusk」やら「Mind Bomb」といった作品名で検索することを余儀無くされる。全くもって困ったものである。
厄介なのはそれだけじゃない。The Theというのはバンドで活動してみたり、マット・ジョンソンのソロ的な活動として登場してみたりとその実態も捉えようが無い。
おまけに音楽的なスタイルもアルバムによって、結構大きく変遷を遂げている。
The Theは一概に語ることができない、複雑なバンドだ。


で、The Theといえば、「Mind Bomb」か「Dusk」が最高傑作であるとされている。
私もそのどちらか、いや両方がイチバンだと感じており、最近はThe Theのアルバムではこの二枚しか聴いていない。ような気がする。
そういうわけで、ここではそのどちらかについて書いてみようと思ったが、どちらにするかはすぐに決まった。


今回取り上げた「Dusk」は、驚くほど真摯な歌で溢れかえっており、マット・ジョンソンの持つ率直さがダイレクトに伝わってくるアルバムだ。
「Dusk」はできる限りの飾りを払いのけ、ただ"感情"を伝えることだけに重点が置かれている。
前作「Mind Bomb」が比較的多彩なサウンドの上に成り立っていたのを考えると、全く対照的なアルバムだといえる。
そして何より注目すべきはその歌詞である。
マット・ジョンソンほど真正面から社会を捉え、人心を駆け巡る感情を露にし、それでもなお悲観することなく力強く歌い続ける人物はいないであろう。


「If you can't change the world. Change yourself.
If you can't change the world. Change yourself.」


世界を変えられないなら、君自身が変わるんだ。
と歌う"Lonely Planet"の歌詞に、マット・ジョンソンの道徳観は凝縮されているのではないか。


希望だとか愛だとか自由だとか絶望だとか勇気だとか孤独だとか、そういうことについて思うことがあるなら是非このアルバムを聴いて頂きたい。
全面的ではないが、おそらく一通りのものを感じられるはずだ。
マット・ジョンソンの歌は決して気楽に聴けるものではないが、真剣に聴こうとすると必ず色んなものが見えてくる。
それだけのものを表現している人なのだ。マット・ジョンソンという人物は。

2006年03月30日

2006年03月30日 魔性のミュージック

天皇こっそりとアルケミーから再発されていたNOISEの「天皇」。


と言っても、実はこのバンド(?)については名前くらいしか知らなかった。
ある日某大手レコード店内をブラブラしてたら、偶然このアルバムを見つけた。他に何も買うものも無いし、滅多に来ることもない店だったので、記念としてこのアルバムを買って帰った。


家路に着く途中、"NOISE"という名前、「天皇」というタイトルから相当過激なコトをヤっているのだろうと勝手に想像し、期待していた。


さて、帰宅し若干胸を躍らせながらCDを再生してみたが、


・・・・・・・・・・・


アレ!? なんじゃこれ?


かなりの勢いで頭の回りにクエスチョンマークが点灯する。


聴こえてくる霞みがかったようなオルガンの音は、ある意味では"NOISE"だが・・・


そして恐ろしいほどの緊張感の中、ドラムの音が響き渡り、幽霊のようなヴォーカル(失礼か!?)が被さる。


歌詞カードを見なければ、絶対に歌詞は聴き取れん。
もしライブでこんな風に目の前で歌われると、徐々にどこかが狂っていきそうになる歌。
幻想的というよりは、呪怨的という感じ。
サイケではあるんだが、普通のサイケではない。


何なんだ。よく分からん。
ただ間違いなく言えることは、美しさと恐怖感を兼ね備えた音楽。
地獄で祭典でもあれば鳴っていそうな音。
美しくも邪悪な女鬼たちが奏でていそうな音。


不気味ではあるが、グッと聴き手を惹き込む魔力のようなものを秘めているアルバムだ。


最初に想像していたものとは全く異なるものだが、これは私のイメージを軽々と凌駕する壮絶な音楽じゃないか!
こういったものに出会うことは、この上も無い幸福であり、音楽の力を思い知る時でもある。
何気無い気持ちで買ったアルバムだが、今となっては当時の何気無さに非常に感謝している。
素晴らしい出会いというのは以外と簡単なトコロから始まるものだからね。


私が今、学校の先生なら迷わず生徒たちにこう言う。
「皆さんも何気無い気持ちを大切にしましょう。」

2006年03月27日

2006年03月27日 大滝詠一トリビュート

Niagara Recordsとタワレコがコラボレーション、トリビュート盤を毎シーズン発表


大滝詠一さんのトリビュートアルバムは以前にも出されてましたが、今回はシーズンごとに計4タイトルが出るようです。
曲目と参加ミュージシャンは以下の通り。


1. Cider’73/featuring Chocolat&Akito
2. Pap-Pi-Doo-Bi-Doo-Ba物語/□□□(クチロロ)
3.恋はメレンゲ/THE MICETEETH
4. 論寒牛男〜LONESOME COWBOY〜/HONESTY
5.雨のウェンズデイ/永山マキ


これはなかなか面白い人たちが集まってますね。
おまけに選曲もイイ感じだ。
先日「Niagara Triangle Vol.1 30th Anniversary Edition」が出たばかりですが、秋には「GO!GO!NIAGARA」の"30th Anniversary Edition"も出る予定ですし、今年は大滝詠一関連でいろいろと楽しめそうです。


ああ、そうか。大滝さんはこうやって毎年小出しにしてるから印税もそれなりに入ってきて、ずっと隠居生活できるわけですね。
なんか羨ましいなぁ。

2006年03月21日

2006年03月21日 教祖様は世界を救い給う?

LIE - The Love and Terror Cultご存じ? Charles Manson(チャールズ・マンソン)。
彼は怪しい新興宗教の教祖で、「白人と黒人の世界最終戦争が起こり、その後Mansonファミリーが世界を征服する」と如何にもなことを言っている人。
んで一応ミュージシャンもやってる。というかやってた。いや、今もそれらしいことはやってるのか。
まぁとにもかくにも彼は現在服役中で表立った行動は無い。猟奇殺人を犯して逮捕された模様。
ここまで言えば察しがつくと思うが所謂"普通のヒト"ではない。怪しい新興宗教の教祖で猟奇殺人犯。もうこれだけでもインパクは十分だ。何かビーチボーイズと繋がりを持っていたという話もありますが、正直そんなことはどーでもいー。あとマリリン・マンソンの名前の由来は彼だと言われているが、それもどーでもいー。
私としてはもう上記に記した「怪しい新興宗教の教祖で猟奇殺人犯」という肩書きだけでお腹いっぱい。


で、そんなヤツが音楽を演っててCDまで出しているという。そういう情報を聞き付ければ興味を持つヒトも少なからずいるはず。
現に私は彼のことを知るや否やすぐにこのCD(「LIE - The Love and Terror Cult」)を購入した次第だ。amazonなどで普通に買えるのが面白い。


そして期待に胸を膨らませ聴いてみたわけだけど・・・・ なんじゃこりゃ。ただのフォークやんけ。・・・という感じ。
そう、これはただのサイケフォークだ。おまけに彼の弾くギターはロクなもんじゃあない。リストラされたおっさんが酒に溺れ、自暴自棄になって、弾けもしないギターを持って歌っているような暗い印象を受ける。(非常に例えが曖昧で申し訳ないが) しかしそこに漂う陰鬱さはいかにも新興宗教の教祖っぽい。


彼はビートルズ狂らしいのですが、ここにある曲はビートルズの影響をモロに感じさせるもの、なんて一つも無い。
後ろから奇妙な女性・子供の声(コーラス)が聞こえてくる曲とか、終始不気味で混沌とした雰囲気が漂っている曲とか、とにかくネガティブなものばかり。


怪しい新興宗教の教祖・猟奇殺人犯という肩書きからとんでもなくぶっ飛んだアルバムを期待していたら、私みたいに軽くショックを受けるだろう。
これは「ただのサイケフォーク」ではあるけれど、アルバムの出来も傑作とまではいかないけれども、悪くはないし、聞けばだんだんと面白く感じるアルバムである。
カルピスに青汁を微量加えて薄めて飲んでいたら、次第にハマっていくような感じ。(例えが最高に分かり辛くて申し訳ないが)


とりあえず珍しい類の音源になると思うので、そういうのが好きなヒトにはマストなのかもしれん。


ちなみにこのCD、盤起こしの為ちょっとしたノイズが入っています。それがまた変な雰囲気を醸し出してて良いのです!


※教祖様は今もたまに監獄でライヴを行ってるみたい。まさに「監獄ロック」ならぬ「監獄フォーク」か!?

2006年03月08日

2006年03月08日 ゼペットじいさんとは無関係

ROSSOのチバユウスケとイマイアキノブによるMidnight Bankrobbersがファースト・アルバム『冬のピノキオ』発表


という長いタイトルの記事ですが、どうやらROSSOのチバ・イマイ両氏がMidnight Bankrobbers名義でアルバムを出すとのこと。
なぜこの二人だけなのか、その辺の事情については詳しく知りませんが、個人的にはROSSOのアルバムがイマイチだったので、このアルバムに期待してみようと思います。
ていうか、随分沈黙期間があったから、ROSSOとか忘れてましたけど。


それにしても、「冬のピノキオ」って何かイイ感じのタイトルだなぁ。
「春のピノキオ」、「夏のピノキオ」、「秋のピノキオ」 う〜ん、でもなんかどれでもイイ感じに思えてきた・・・
要はピノキオって言葉に惹かれただけかもしれん。


アルバムが出るまで鼻を伸ばして待つか。

2006年03月07日

2006年03月07日 ショートケーキのような感じ?

Circle木村カエラの2ndアルバム。
彼女は今、キリンラガービールのCMに出ていますね。一時的に再結成したらしいサディスティック・ミカ・バンドのヴォーカルに抜擢され「タイムマシンにおねがい」を歌ってますけど、まぁ良い声だこと、と思いました。
それで、ちょっと気になったので彼女の2ndアルバムを聴いてみました。このアルバム全曲の作詞を本人がやってるみたいですけど、あまり私が好きなタイプの歌詞ではありませんでした。唯一惹かれたのは「You」という曲の歌詞です。私はどうもこういう感じの寂しい詞に惹かれ易いんですねぇ〜。いやぁ単純だ。


HMVのサイトによると

今作では、これまでの木村カエラを支えてきた曾田茂一(Foe、Honesty)、奥田民生、渡邊忍(Asparagus)、高桑圭(Great 3)に加え、岸田繁(くるり)、ミト(クラムボン)、堀江博久(Neil & Iraiza)、吉村秀樹(Bloodthirsty Buchers)といった面々が楽曲を提供しています。
とのことです。

まあ、この中で私が好きなミュージシャンは正直皆無ですが、でもこのアルバムなかなか良いんですよね。
特に5曲目の「トゥリル トゥリル リカー」と7曲目の「You」と11曲目の「Circle」と12曲目の「はちみつ」が良い感じです。
誰がどの曲を作ったのかは、当方のある事情によって知ることができませんが、上記の4曲は良いと思いました。
でも4曲目の「Beat」って曲は一発で奥田民生が書いた曲だと分かりましたが・・・・


このアルバム、いわゆるロックチューンから、ポップ、エレクトロニカと様々なタイプの曲が収められています。
そりゃ曲提供者を見れば、様々なタイプの曲が集まることは余裕で分かるわけですが、木村カエラというヴォーカリストはどんなタイプの曲でも無難に歌いこなせる技量を持っていますね。それが彼女の魅力なんでしょうが、その一方で歌そのものにイマイチ面白みが感じられないというのも正直なところでごわす。


まあ、「耳馴染みの良い音楽」という形容をすれば、スゴく良い印象を与えることができるけど、裏を返せば中身がギッシリと詰まっているわけではないとも言えるのです。
ただ、一曲単位で見ると、どれも平均レベル以上のクオリティはあると思うので、今まで興味の無かった方でも聴いて損はないと思います。
アルバム全体の流れとして見た場合は、決してスマートなものではありませんが、あくまでコレは彼女の歌がメインなわけですから(私はそう思っている)、その点に関して私は、あまり気になりませんでした。
気になる人はかなり気になるかもしれませんが。


けれど、ジャケットのセンスが悪すぎるのだけは気になりました。

2006年03月05日

2006年03月05日 大豊作

Harvestニール・ヤングについては、正直ほとんど知らないけれども、このアルバム、「Harvest」は大好きだ。
何が好きかというと、やはりこのヴォーカルである。
本来ニール・ヤングはもっと硬派な感じの曲を演っているミュージシャンというイメージがあるが、ここで聴かれるのは優しい音楽、軟派な感じのする音楽。
「素敵」という言葉とはまた違うけれど、どことなく惹かれていくような、魅惑的な雰囲気を秘めた曲が、並んでいる。


メロディー・歌詞・歌声が三位一体となってほんわりとした空間を演出しているアルバム。
この三つが相互作用することによって、それぞれを引き立ち合っているようだ。


このアルバム一枚でニール・ヤングの魅力を知ることはできないだろう。
しかし、この一枚のアルバムには魅力がぎっしりと詰まっている。
それはつまり、歌というものが持つ魅力であり、音楽の持つ美しさである。


今日のような晴天の日曜の午後にピッタリなアルバムだ。

2006年02月24日

2006年02月24日 Jigsaw Puzzle

Crown Of Fuzzy Groove一つ一つの小さな粒が固まり、大きく揺れているかのような、そんな幻想的な世界。
まるでジグソーパズルであるかのようなこのアルバムが完成されるまでにかかった時間は5年とも言われており、山本精一曰く「真のファーストアルバム」だとか。


このアルバムに収められている曲群は基本的に、アンビエント、エレクトロニカ、ブレイクビーツ、テクノなどの要素が混在したものであり、とにかく音像が凄い。そして音の高揚感が堪らない。
脳を刺激する音が無数に散らばり、聴く者のイマジネーションを"これでもか"、と言わんばかりに高めていく。
はっきり言って、「凄すぎる」アルバム。驚くべき完成度である。


一つ一つの音が全てをぶち壊し、全てを生成し、全てを包容するかのような不思議な威力を持っている。
そして限りなく透き通って、ただただ美しい。


しかし「Crown of Fuzzy Groove」とは、実に言い得て妙なタイトルだと思う。 "Fuzzy Groove"というのは、このアルバムに収められている曲を形容するのにピッタリな言葉だろう。


無数の"Fuzzy Groove"が至る所から響いてきて、聴くものを新しい感覚に陥れる。 聴いているうちに、一つの鬼気迫った"Fuzzy"な世界が見えてきそうになる。


踊るような音ではなく、揺さぶられる音。
音が地殻変動を起こしている。そんなことを感じさせられる、尋常ではないアルバム。
最高ランクの一枚。

2006年02月15日

2006年02月15日 細野さんのソロアルバム 。

細野さん、ソロアルバムをレコーディング!?


おお! ソロ出すみたいですね。
最近は「HOSONO HOUSE」からの楽曲をライブでやったりして話題の細野さんですが、新作はどういったものになるんでしょうか?


私としては、やはりもう一度細野さんの"歌"を聴きたいという思いがあるので、歌モノアルバムを期待しています。
でもそこは細野さんですから、どんな形になろうとも、多分面白い作品を出してくれるとは思いますが・・・


果たしていつ頃に発売されるのでしょうか。 まぁ、気長に待とうと思います。

2006年02月14日

2006年02月14日 血のバレンタ・・血の轍

Blood on the Tracks最近はボブ・ディランのアルバムを聴きまくっている。
ディランを聴きまくると意味分からなくなる。
失礼な話だが、なんかどれも同じに聴こえてしまうからだ。


それで数あるディランのアルバムの中でも特にスンゴいアルバムがこれ。
「Blood on the Tracks」。邦題は「血の轍」。
"轍"って何じゃと思うかもしれないが、これは「わだち」と読む。
ええい! ややこしい。「血のわだち」の方がスッキリして良いじゃないか! 誰だこんな難しい字を使ったのは。


音の方は「最高傑作」と評されることもあって、かなりの充実ぶり。
歌もギターもハーモニカもその他の演奏も歌詞もメロディーも何もかもが、おそらく最高の状態にある。
ディランが「神様」と呼ばれている理由が分かる気がする。


安心して耳を傾けることのできるアルバムってのは、そう多くはない。でもこのアルバムになら全てを委ねられるな。
なんたってこのアルバムには美しい名曲しか入ってないのだから。


こんな曲たちをギター1本で歌いまくっていた当時のディランに匹敵する人物って現在いないよなぁ。
当時のディランがどんだけスゴかったかなんてリアルタイムで見てないだけに、語ることはできない。
しかし、はっきりしていると思うのは、現在にはこんなアルバムを作れる人物はおそらくいないだろうし、ギター1つでここまで美しい曲を歌える人物もほとんどいないだろう。
唯一、まだそんなことができる人物を挙げるならば、それはボブ・ディラン本人だけなのではないか。

2006年02月11日

2006年02月11日 大阪の奇蹟

Subvert Art Complete Works80年代後半から90年代前半にかけて大阪を中心に活動していた、名実共に「伝説」という名が相応しいのではないかと思われる3ピースバンド、Subvert Blaze。
「大阪の奇蹟」とも呼ばれていたらしい彼等の1stと2nd(いずれも廃盤になっていた)が2in1でアルケミーから復刻されました(かなり前のことだけど・・・)。
で、これがそのアルバム「Subvert Art Complete Works」。


一聴して思うことは、「まあ なんというモノ凄く圧倒的な演奏力であるのか!」ということです。完璧なまでの演奏力を兼ね備えた者達によって叩き出される超ミレニアムヘビーウルトラメガトンスーパーハイテンションサイケロックは、全てのものを木っ端微塵にするだけの破壊力を有しています。
また、そのルックスも実に特徴的なもので、まるで60年代、70年代のヤツらがそっくりそのままタイムスリップしてきたかのような雰囲気でございます。(この辺りのことについてはJOJO広重氏がライナーで触れているので、そっちを参考にしてもらえれば良いです。)


どこかおかしいのではないかと思われるほどの轟音を出しまくるギター、アメリカのトルネードくらいにうねっているベース、尋常じゃない手数のドラム。どこをとっても完璧なこのバンドは、完璧すぎるが故に短命であったバンドの代表的存在であると思います


このアルバムを聴くと、Subvert Blazeには今のロックに消え失せてしまったモノが全て存在しているんじゃないか、なんてことを考えてしまいます。
とても単純な言い方だけど、このバンドの出す音は迫力が違い過ぎる。そこらでロックぶっているヤツらの自信を一気にかき消すだろうこの音は、正に本物以外の何物でもありません。その辺の自称"ロックバンド"が(ドラゴンボールの)餃子なら、Subvert Blazeは(ドラゴンボールZの)魔人ブウですな。それくらい格が違います。
Subvert Blazeと同系列のバンドとして、初期の花電車なんかが連想されますが、思えばSubvert Blazeと初期の花電車は、共に80年代後半から90年代前半に大阪を中心に活動していました。Subvert Blaze、花電車 どちらか一つだけでも驚異的な存在なのに、それが同時期に同所で活動していたのだから恐れ入る。もはやどっちも「大阪の奇蹟」ですよ。


ちなみに、ここに収録されているあの「Summertime Blues」のカバーは、おそらくどの連中のよりもスゴいものです。この一曲だけでもSubvert Blazeというバンドの「奇蹟」っぷりを推し量ることができます。


「Subvert Art Complete Works」。ロックという音楽が、最も激しく爆発していた瞬間の記録。

2006年02月11日 ジャズ+ロック+ジャズ+ロック・・・

Jack Johnsonマイルスが最もロック的だった時のロック的なジャズアルバム「Jack Johnson」。(と言ってもハワイ出身のシンガーのことじゃないよ。)


「ロック的」というのは、あくまでで、これはロック的なジャズ。ジャズロックとかそういうのじゃないです。でも、そこらに蔓延している阿呆みたいなロックなんかよりはよっぽどロックで、そこらに溢れかえっている馬鹿みたいなジャズよりは、当然だけど、よっぽどジャズです。
このアルバムには全2曲、約25分の曲が2曲入ってます。なんといっても一曲目の「Right off」が圧巻。このアルバムは「Right off」で全てが始まって、全てが終わっているような気がします。2曲目の「Yesternow」は余興みたいなモン。
このアルバムが壮絶なのは、「Right off」でのマクラフリンのギターとマイルスのトランペットの絶妙な掛け合い。掛け合いというか、ここまで来るともう殺り合いといえるかもしれません。両者が奏でる音は完全に、従来のジャズにあったギターとトランペットのソレから外れたもので、いきなり辿り着くところまで辿り着いてしまったか、という感じすら覚えます。


このアルバムは「ロック的」だと言ったけど、それはマクラフリンのギターとマイルスのトランペットだけじゃなく、ベースやドラムにも言えること。この強力なリズム隊があって初めて「Jack Johnson」は姿を現す。
しかし、なんというのか、「ロック的」な、異端なジャズではあるんだけど、それでもちゃんと"マイルスの音"として出しているあたりが驚異的ですわ。マイルスほどいろんな音楽を縦横無尽に食い散らかしたミュージシャンも珍しいけど(フランク・ザッパの名前が思い浮かんだが、この両者は全く正反対に位置しているよなぁ)、どんな音楽に傾倒しようとも、根本的には変わることがなく、自分のスタイルを維持し続けられたからこそ、マイルスはマイルスであり続けられたのでしょう。


刺激的なマイルスが堪能できる一枚です。

2006年02月11日 唯一無二の存在

ジャックスの世界「ジャックスの世界」は完璧な世界。まずこのジャケットが良い。ダメすぎて良い。このジャケットは何かを意味しているようで、実は何も意味してないんじゃないか、と思う。しかしこの無意味なジャケットが、ある程度「ジャックスの世界」を物語っているのかもしれない。私が思う「ジャックスの世界」は空虚で地に堕ちた世界。まさに「からっぽの世界」なのだ。


名曲「マリアンヌ」から全ては始まる。早川義夫の叫びとも取れる、痛切な思いが詰め込まれた歌は、もはや歌という箱には収まりきるものではない。思いをただ吐き出しているかのような歌声は、聴く者のココロをどこか別の場所に連れていくような不思議な魔力を秘めている。
早川義夫という人物のスゴいところは、歌にこうした圧倒的な力を宿らせているところであると思う。悲しい歌を、本当に悲しく歌うことのできる数少ない歌い手である。


1968年にこのアルバムは発売された。はっぴいえんども頭脳警察も出てくる以前に、これほどのアルバムを出していた者達がいたことには、驚くばかりである。しかし、このアルバムが発売された当時は、キワモノ的な扱いをされていたと聞く。そして現在。キワモノ的な扱いはされなくなったが、どこを見回してもジャックスのようなバンドは存在しない。いや、存在しないのではなく、存在し得ないのだ。彼等はまさに未来永劫、唯一無二の存在なのだ。


ジャックスはその存在自体が奇跡的である。そして、その中心人物である早川義夫が再び歌い出したことも、また奇跡的なことではないか。こんな時代だからこそジャックスや早川義夫の歌が、必要なのであると思う。

2006年02月11日 アバンギャルド音頭

LET'S ONDO AGAIN間違いなく邦楽史上最強の珍盤にして最強のアルバム。
このアルバムを聴くと、大滝詠一というヒトが後に"ロンバケ"を作ったことが信じられなくなる。
最高にアバンギャルドなアルバム。数あるアバンギャルドな作品の中でも最高峰の一つに数えられるべき作品がこの「LET'S ONDO AGAIN」。


なんでもこのアルバムを作るのにはかな〜りの大金を注ぎ込んだものの、結果見事売れずに大撃沈したという最高の逸話も備わっている作品だ。
もはや全ての面で最高のアルバム。
個人的には多数の大滝詠一関連の作品の中で頂点に挙げても良いと思っている作品がコレ。


本当に最高だ。このアルバムのことになると、とりあえず「最高」という言葉しか出なくなる。
なんというボギャブラリーの貧困であろうか!


でも本当に最高のアルバム。
ロックやポップといった音楽要素の中に日本古来の"音頭"というものを投げ込み、見事昇華させた歴史に残るであろうこのアルバムを無視して邦楽は語れないんじゃないか、と評論家まがいのことまで考えたくなる。
今でいうならばミクスチャーということになるのか。いや、そんなKOЯNやレッチリみたいな低俗なものではない。
なんかよく分からんが、とにかくこんな芸当ができるのは、後にも先にも大滝詠一くらいだろう。


最高の音頭アルバムであり、最高のロックアルバムであり、最高のアバンギャルドアルバムなアルバム。「盆と正月が一遍に来た」ようなとは、まさにこのアルバムにピッタリな言葉だ。

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2006年02月11日 晴れ時々ノイズ!

Metal Machine Musicルー・リードの「Metal Machine Music」。
以前このアルバムを部屋でかけていたら、母親に「スピーカー壊れてるんじゃないの?」と言われたことがある。
・・・まあ、そんなもんだろう。


そもそもなぜルー・リードがこんなアルバムを出そうと思ったのかは分からない。
今でこそ"ノイズ"というジャンルが確立されているから良いようなものの、これが出された1975年にはおそらく"ノイズ"という音楽ジャンルは無かったと言っても良いだろう。
そんな時代にこんなアルバムを出すのだ。ファンとしては堪ったもんじゃない。
私がルー・リードのファンだったらブチ切れますよ。絶対に。


ありがたいこと、かどうかは分からないけど、今となってはノイズミュージックというのも珍しいものではないから、この「Metal Machine Music」も抵抗なく受け入れられるけど、当時このアルバムをすんなりと受け入れられた人ってどのくらいいるんだろうか?


Velvet Underground時代に「Sister Ray」という名曲を生み出したくらいだから、こういう方向に進んでもおかしくはないと思うけど、それでもやっぱり衝撃作にして大問題作だと思うな。
しかし、このアルバムがいろんな所に影響を及ぼしたのだけは確かなことで、有名所じゃSonic Youthなどからはモロに「Metal Machine Music」の匂いが感じられる。


最後にこのアルバムについて簡単な説明をしてみると、これは比較的堅いタイプの音だと思う。勿論ノイズの嵐なんだけど、ノイズの中でもかなり頑丈なタイプのもので、金属音に近いような、無機質な音の連鎖。
純度100%のノイズなんだけど、それがまた本当に心地良い。
今から30も年も前にこういうアルバムを作ったルー・リードこそ本物の「鬼才」と呼ぶに相応しい人物ではないだろうか。

2006年01月26日

2006年01月26日 座禅って意味あるの?

ZAZEN BOYSIIIナンバーガールは退屈だったからそれほど好きではなかったが、ZAZEN BOYSは好きである。好きといっても「そこそこ好き」という程度だが。
なぜ私がZAZEN BOYSを好きかというと、あまりよく分からないことを演っているからだ。


ナンバーガールはかなり人気があったから、その流れでZAZEN BOYSを聴いている人は多いだろう。
そういう人たちに私は聞きたい。このバンドがやっていることを完全に理解できているのかどうかと。


三枚目のこのアルバムではシンセサイザーが導入されたり、ドラムがかなり寸断され、フリージャズのような展開を見せたりする一方で、ぶっ飛んだようなフリーキーなグルーヴを叩き出したりしている。また向井の狙っているのかどうか分からない脱力させるような裏声も聴こえてくる。
お約束の「繰り返される諸行は無常」やら「蘇る性的衝動」やら「冷凍都市」という言葉も当然出てくる。


全て計算されたことなのか、セッションしていたらたまたまこうなったのか、それともただの変態の結果がコレなのかは分からない。
とりあえずこのアルバムを聴いて思うことは、やっぱZAZEN BOYSは分からん、ということ。
でもそこにこのバンドの魅力があるわけで、この先ナンバーガールのようなアルバムを出せば途端にZAZEN BOYSの魅力は無くなるだろう。当たり前のことだけど。
ナンバーガールに比べると、ZAZEN BOYSは何倍も面白いバンドだと思う。
こういうアルバムをあと何枚か出して欲しいものである。

2006年01月17日

2006年01月17日 まだ坂道の途中

MY FOOTthe pilowsの新作「MY FOOT」。
これは「これぞピロウズ!」という傑作アルバムじゃあるまいか。
結成して15年を過ぎたバンドが出すようなモノじゃない。普通に考えれば。


結成15年というと確かスピッツなんかも同じくらいだっと思うが、スピッツがデビューから現在に至るまで一貫して不思議な爽快感・切なさなどに加えある種の刺々しさみたいなものを兼ね備えているのと同様、ピロウズも15年間疾走感を失っていない。
いや、それどころか今作は近年のピロウズの作品の中でも屈指の出来だ。マジデスゴイヨ オッサンタチ。


しかしピロウズの音というのは徐々に変化を遂げてきた訳であるが、15年目を過ぎた現在になってここまでストレートな音になることには面白ささえ感じる。
というのは前作「GOOD DREAMS」はそれまでのピロウズからすると明らかに外れた音を出しているアルバムであり、肩の力が抜けていながらもピロウズの代表作ともなる大傑作だったからだ。


前作での息抜きを経て、再びこうしたツインギターを全面に押し出したストレートな音になったところを考えると、まだまだピロウズは突き抜けていきそうなバンドだということを実感する。
これでもう少し売れるとバンドにとってもレーベルにとっても最高なんだろうけども、それはもう仕方のないことだ。

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