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2009年02月26日

2009年02月26日 Safari 4 BETA版、曖昧なブラウザ

Safari 4 BetaSafariの4のBETA版が世に放たれました。洟垂れ小僧よろしく。……おっと、失敬。
うん、このブラウザ、結構早い。そこそこ便利な機能も搭載されていて、悪くはありません。
──でもなぁ、何か違和感を覚えます。chromeみたいなデザインは置いといて、何かがおかしいのです。そう思って見ていると、おやおやツールバーに更新ボタンがありませんよ。カスタマイズしようとしても元から装着できなくなってあります。コレでは面倒です。やはり大きなボタンが欲しい。わたしは斯様に地味な変更がイヤになるタチでして、今、とても困惑しているのです。アドレスバーの横にある小さな矢印をクリックしなきゃいけないなんて……
また、履歴を消去してしまえば、一緒に検索バーのなかの記録も消えてしまうというのも面倒な事態だと思います。以前と同様に検索バーの履歴は別に消せるようにしておけば良かったのだ。こういうのを“いらんおせっかい”と言います。
あと、「Top Sites」の必要性がイマイチ理解できません。何だろうコレは、何だろうこのブラウザは。この違和感、この曖昧な感じ、スムーズに使うためにはソレらに慣れてしまうしかないのでしょうか!? だというのであれば、慣れとは恐ろしいモノかもしれません。

2009年02月24日

2009年02月24日 楽なら良い

昨日、提出用の健康診断書を入手するため、健康診断へと赴いたのですが、尿検査・内科検診・胸部レントゲン・血液検査・血圧等において何ら異常は見当たらなかったとのコトです。まだ当分の間病死する機会は無さそうです(尤も脳卒中や急性くも膜下出血の可能性は残りますが)。しかし、わたし、決して健康に細心の注意を払っているワケでもなければ、超人的な肉体を持ち合わせているワケでもないだろうと思っていますので、コレはいずれ何かが起こるのではないかしらん、と強迫観念的に考え続けているのでした。というのも、わたしはこれまでに大きな病に罹患した経験がありません。入院経験もなければ、モチロン、手術の経験だってありゃしない。縫合も当然なし。骨折の経験もどうやらないようです。「どうやら」と申しましたのは、実は幼稚園に通っていたくらいの時分、遊んでいる最中に腕がグキッとなって激痛が走った記憶がありまして、わたしは母親に連れられて病院へと行ったのです。診察室へと入ったわたしは、医者に対して執拗に「折れた折れた」と言って言って言いまくりましたので、ソコで医者も飽きれ果てて「じゃあ、念のため吊っておこうね」と言い、三角巾でわたしの腕を吊ってくれたのです。当たり前のコトながらギブスはしておりません。ただ意味なく吊っていただけです。ナゼわたしがそのような主張をしたのかというと、当時幼なじみが丁度ガチで腕を骨折しておりまして、ギブスを付けて幼稚園へと通っていたのです。その光景を見たわたしは、子供独特の好奇心と奇異なるモノへの羨望の眼差しから、自分も同じようなコトを経験してみたいと思ったのでしょう。それ故、タイミングよく腕を軽く痛めた機会を利用して骨折を装ったというワケです。先ほども記しましたように、ギブスはしておりませんので実質何も固定されていない状態に等しい。でも、幼稚園児にギブス云々といった事情は知る由もないコトでして、ただ腕を吊っているだけで骨折気分を満喫していたのだというアホみたいなハナシです、コレは。母親がかつて言っていましたが、痛めてから数日後には吊っている方の腕をグワングワン動かしまくっていたそうです。ソレは万が一にも折れてはいないという事実の明証。医者からすればとんだやくざ患者に違いありません。──コレがわたしが今までに経験した一番大きな(大袈裟な)怪我です。


こうやって現在までに無難な時を過ごしてきた事実が、否応無く未来に待ち受けているであろう不吉な気配を暗示せずにはいないではありませんか! いっそ一思いに、なら怖くはないし、イヤでもないのだけど、じわりじわりと激痛あるいは悶絶を繰り返しながら……というのでは、とてもとてもイヤで困ります。止めてください。
そうなれば、わたしなどは考えてしまいます。「死ぬのが怖いとは思わない」とアッサリと述べられるヒトは、案外自分が苦しまないで楽に死ねると信じているようなタイプなのかもしれないな、と。そういう自信を是非とも持ちたいものです。(または、わたしもそうなのですが、ある程度若くて妙な自覚症状がない間も、徒な恐怖心などとは無縁なのかもしれません。でも、ソレは、言うまでもなく危険と隣り合わせの状態に違いないのです。ああ、恐ろしや恐ろしや)

2009年02月22日

2009年02月22日 わたしの悪弊

オセロはたまにやりますが、あまり強くありません。将棋とチェスは駒の動かし方を理解している程度で、ソレっぽい思考をしながらゲームを進めていくなどというコトはやった憶えがありません。麻雀、囲碁に関してはまったく分かりません。麻雀は覚えようとしたコトがあるのですが、すぐに止めました。囲碁は打とうと思ったコトすらありません。だから「ヒカルの碁」にもそれほど熱中できなかったのだと思います。
チェスと将棋でいえば、将棋を最初にやってみて、それから相当後になってからチェスの仕方を覚えましたので(Macにプリインストールされているゲームで覚えました)、かなり戸惑った憶えがあります。一度取られた駒を再利用できるかできないか、ポーンは斜め前の駒しか取れない、クイーンが最強過ぎる、などと、まぁいろいろ困惑したモノです。が、一通り駒の動かし方を覚えてしまえば、ソレっきりで満足してしまうのが、わたしの悪弊。
なんでこんなハナシをしているのかは分かりません。思いつきで書いてしまうのも、わたしの悪弊。
……とココまで書いて、「悪弊」ではなく「悪癖」の間違いじゃないか? と思うようになりました。そうだ! この場合、「悪弊」よりも「悪癖」が妥当だろうに。──そういうワケですので、“わたしの悪弊”が露呈したコノ文章を記念としてココへ残置しておきましょう。

2009年02月21日

2009年02月21日 黒澤明の凄さ 映画の面白さ

今、BSで「没後10年 黒澤明特集」と題しまして、黒澤作品全30作が順次放送されています(参考リンク:没後10年 黒澤明特集)。二週間くらい前には、人気投票で最も支持を集めた上位5作が毎晩放送されていました。その5作とは以下の通りです(参考リンク:没後十年 黒澤明特集 あなたが選んだ黒澤アンコール 結果発表!、ちなみに括弧内は下記5作品中の個人的な順番)。


5位 「天国と地獄」(3)
4位 「生きる」(4)
3位 「用心棒」(2)
2位 「赤ひげ」(5)
1位 「七人の侍」(1)


わたしは映画をほとんど知りません。人並み以下の見聞録です。一番好きな映画はジャック・ニコルソン主演の「カッコーの巣の上で」なのですが、これとて2回くらいしか見ていません。況や黒澤明においてをや……なんです。事実、今回の特集で「天国と地獄」以外の作品を初めてしっかりと見た次第なのですから。従いまして、わたしが映画について何かを述べるなどというのは、本来まったくおかしな話なのだと思います。おこがましいと思います。でも、今日はこうやって言おうとしている。声を出し始めている。


面白い。ただそれだけなのに、何かを言いたくなってしまいます。それが黒澤明の魅力なのでしょうか。上に掲げた5作品はどれも大層面白いものでした。現代劇の「天国と地獄」にしても「生きる」にしても、はたまた時代劇の「用心棒」、「赤ひげ」、「七人の侍」にしても、どれも一刻たりとも飽きさせない魔力が観るモノを包み込んでしまう、そのような印象を抱きます。三船敏郎の大胆にして豪快な演技と志村喬の百面相の如き変幻自在の変貌ぶり、この二者を中心にして作り出される世界は、まさに<迫真>そのものなのでしょう。特に志村喬の演技には唸り声をあげそうになります。この数週間で、わたしはすっかり彼のファンになってしまいました。
超有名作である「七人の侍」も、実は初めて見ました。およそ3時間に渡る大作なのですが、どこにも隙がないではありませんか! 終盤の戦シーンは言わずもがな、お侍集めの場面や村での下見の場面、どこを切っても生きているのです。各々の「絵」が呼吸し続けています。そして最後の「今度もまた負け戦だったな…」との一言に、侍という身分に付き纏う冷酷さ、百姓という身分に備わる冷淡さが見事に収斂されていく仕上がり具合。恐れ入った。これはとんでもない映画です。


今になって黒澤明監督の魅力に取り憑かれてしまいそうなのです。DVDが欲しくなってきました。黒澤作品からは無頓着なわたしにも映画の面白さを伝えてくれるような、そんな力を感じるのです。賛嘆、それ以上。
さて、次は土曜の夜(時間的には日曜の午前)に「野良犬」があります。これも楽しみです。

2009年02月18日

2009年02月18日 見出しに注意

大滝詠一もビックリ「はっぴいえんど」鈴木茂が大麻所持


おかしなタイトルになっています。大滝サンも驚いてはいるだろうけど、この場合どうも勝手に「ビックリ」したコトにされているような気がしなくもないのです。というのも、この短い記事のなかに大滝サンの発言は一切紹介されていないのだから。コレではまるで安物の雑誌に掲載されている「ハリウッドスターのS・Vも愛用!」などと書かれた胡散臭い商品広告と同等ではありませんか。まったく、この見出しにビックリですよ。「ねえ もうやめようよ こんな淋しい話」


知らない空が ぐるりとまわり
冬の絵の具が 淋しく流れる
どの通りにも さよならなんて
淋しい言葉が 滲んでいるだけ
こうしてぼくは待っていよう
きみが微笑みを想い出すまでは


【さよなら通り3番地】

2009年02月17日

2009年02月17日 紅茶はジュースではありません。

わたしは紅茶が好きなのです。オーソドックスにダージリンやアッサム、アールグレイ。茶葉は大抵ブロークン・オレンジペコ。ダストはどうもいけない。
風味豊かな紅茶は心身を癒してくれます。3年ほど前に体質的な問題としてコーヒーを飲むと不愉快な気分になってしまうコトに感付いてからは、専ら紅茶(時々緑茶、烏龍茶)に限ります。トワイニングのリーフを愛用しているモノです、わたしは。
普段はほとんどストレートで飲むのですが、ごく稀にミルクを投入してみたいなどという浮ついた思いに駆られ、あれよあれよという間にミルクティーなぞを拵えたりもするのですけれど、基本は常にストレートです。


ところで、自動販売機やペットボトルで販売されている紅茶はどうしても頂けません。なんだアレらは! まず香りが死んでいます。次に無闇矢鱈に甘く仕立て上げられているではありませんか。コレは何かの嫌がらせか?と思うほどに、ジュースのような紅茶が次から次へと市場に投入されています。果たして需要があるのかしらん、と思いはするものの、相も変わらず売られ続けている様子をみるに、どうやら一定の人気は保っておられるようです。──どうも分かりません。ナゼあのような具合になるのでしょう。わたしが紅茶をホンキで好きになるより以前、すなわち中高生の時分から「午後の紅茶」ミルクティーと「紅茶花伝」はジュースとして嗜んできました。思えばあの頃から違和感を覚えていたのかもしれない…… 缶コーヒーともなれば、甘〜いのからブラックの苦〜いのまで多様な形態が存するのに、どうして紅茶に関しては皆一様に同質の甘さ、(無)風味なのでしょう。コレは異常に不思議な事態と言わざるを得ません。「探偵!ナイトスクープ」の出番かもしれません。
なかでも特に衝撃的だったのは、紅茶を愛飲するようになってから「午後の紅茶」ストレートティーを飲んでみた時に感じた奇妙な甘さでした。イギリス人はよく紅茶を飲むと教えられて参りましたが、もしもあのように甘〜い甘〜いお茶を連日連夜飲んでいるとするならば、国民総糖尿病化は間違いありません。例外はありましょうが、緑茶にしろ烏龍茶にしろ基本的に「茶」の文字を冠したモノに甘みは似合いません。加藤茶も風貌は決して甘くないように。


脈絡無く勝手な不満を書き付けてきましたが、結論としてわたしはこのように思っているのです。つまり、日本の飲料メーカーで商品開発に携わっているヒトの過半は紅茶をジュースのカテゴリーとして捉えているか、もしくは非常な甘党であってオーソドックスなストレートティーには満足しないのだろう、と。だから奇怪な味のモノが世に蔓延っているのではないかと思うのです。如何なる事情があろうとも「茶」には風情というものが無ければいけないと思うのですが、いかんせんあのように甘みを前面に押し出されますと、ただただ困惑してしまうだけなのです。

2009年02月14日

2009年02月14日 バカは風邪ひかない

暖かいので元気です。
暖かくなくても元気ですが。
もう少し潜んでみます。

2009年02月06日

2009年02月06日 「相棒 -劇場版-」は不思議な映画

相棒 -劇場版- 絶体絶命!42.195km 東京ビッグシティマラソン「相棒」の劇場版です。まったくもって不思議な作品だと思います。ある意味では何度も見たくなる映画なのです。というのは、どうも腑に落ちない点が幾つかあるため、改めて見返したくなってしまうという難点を抱えているからです。
──キーワードはチェス。平幹二朗サンが小泉元首相風のチェス好き元首相役を演じておりまして、全てはこのチェス好きのオッサン(とそのお友達)の作為から始まっているようです。そういう意味では一応全編に渡ってソレらしきモノが散りばめられているコトに意味はある、と言って良いのでしょうか。どうも困ってしまいます。何か中途半端な感じがするのです。この違和感を一言で言ってしまうと、「アンタ、そこまで頑張って壮大なゲームをするコトに意味はあるのかい?」と。コレは犯人に対して。そもそも「ゲーム」、「対戦相手」と言っているのですが、肝心のゲームの行われるコトが容易には気付き難いのではないでしょうか。まずあの幼稚なサイトの管理者用ページの存在とパスワードが分からなければ始まらないのですから。右京サンが分かったから良かったものの… コレではまるで東京に住んでいるヒトが予め茨城の方にまで逃げておいてから、知人に「じゃあ鬼ごっこ開始〜」と言っているようなモンです。卑怯、臆病、準備不足極まりない。いったいどうしたというのでしょう、チェスでマラソンコースを描くよう誘導するコトのできるほど天才的な計画性を持つ犯人にしては、どうも妙な点が見受けられるのです。そして、アソコまで壮大な計画を立てておきながら、その最終目的を果たすための舞台というのが、実はあのようなゲームを用意しなくても良かったのではないかと思われる点もまたオカシイ。マラソン大会は壮大な前フリ、前座のようなものなのですから。


この映画、何も考えずに目で追って行くのなら、間違いなくとても楽しい一作だと思います。動きがあって展開もスムーズに進んで、メリハリだってある。ただし、音楽がムダだ!うるさい!と思われるシーンがあるのが困りモノです。映画故にでしょうか、どうもOPから壮大な感じを出そう出そうと先走ってしまっているような雰囲気を受けてしまうのです。音楽だけでなく映像にしても。「相棒」の良さ、面白さというのは、誤解を恐れずに言ってしまえば、独特の地味な間合いだと思うのですがねぇ〜 コレは映画だぞ!との意気込みが溢れ出てしまって、何か別の作品のようなムードになってしまっているのが、ボクとしては頂けないトコロでしょうか。(かと言って、スクリーンでいつも通りのコトをやられても、観ているヒトは戸惑うのでしょうけど)
おかげで右京サンの推理力はさほど発揮されることもなく、また真の犯人もあっさりと分かってしまうような見せ方になっていて、後半は悪い意味でスムーズに進んでしまった感じがあります(中盤の爆発シーンの辺りなどは、右京サンよりも「刑事貴族」の本城サンが出てきた方が面白くなりそうだ…)。
また、この作品、当然のことながらあくまでもテレビドラマありきのモノでして、序盤は通常版の方でご活躍されている面々を揃わせようと場面の転換が忙しく、ちょっと落ち着きがありません。そして、テレビドラマに大きく依存しているため、おそらく本作単体ではその魅力が伝えきれないものと思われます。つまり、今現在、もしくは二十年後、三十年後に、テレビドラマの方を知らないヒトたちがいきなりこの映画を観たと仮定してみれば良いのですが、彼らには各人物の個性やら相関関係などを理解するコトがとても困難で、それ故に「相棒」における大きな魅力の一つともなっている特命係とそれを取り巻く人々の間に存在する独特の空気感を掴むコトができないように思われるのです。そこにこそこの物語の面白さが詰まっているのに! この映画単体では勝負し切れないように思われます。


以上に挙げた感想をまとめると以下の四点になります。


1.気付き難いゲームの存在、犯人の目的とマラソン大会の間にある微妙なズレ
2.音楽が芳しくない。映像と合わせて懸命に盛り上げようとし過ぎている。
3.流れはスムーズで良い。でも、後半もスムーズなため意外性に欠ける。
4.映画として独り立ちできていないのでは?


そして、コレに五点目を付け加えさせて頂きたく思います。


5.出演者の演技は皆素晴らしい。特に終盤の右京サンと犯人が二人きりで話すシーン、そこでの右京サン、イヤ、水谷さんの表情が秀逸。


物語を通じての印象では、確かに「相棒」というモノの存在、意味合いが明確にされていたと思うのですが、その分、この作品本来の持ち味である意表を突く展開や余韻を残す結末、奇抜な推理といったものが失われていたのは残念です。映画という枠組みを与えられて物語のスケールを拡大するコトで、(あまり良い意味ではなく)これまでのものとは異なった雰囲気になってしまいました。個人的な思いですが、どうして当初から脚本を書いてきた輿水泰弘氏を起用しなかったのかが疑問です。このヒトは「相棒」の節目節目に素晴らしいストーリーを書いてきた実績を残しているのですから、劇場版ともなるとまず真っ先に彼が筆を握るのが“筋”だと思うのですが… はて、「大人の事情」というヤツでしょうか。

2009年02月04日

2009年02月04日 情熱へと至る思い

若麒麟の大麻事件を受け、各方面、様々な意見が飛び交うなか、よくよく気を配って観察してみますと、この件を巡って声を荒げている人々──ソレは他でもなく普段から品の無い見出しと粗雑な文章を掲載している新聞、或いはその場しのぎの“オレは世間の見方”、“オレこそ世論の代弁者”面をしているキャスターやコメンテーターばかりであるコトに気付かされ、昨今の報道関係者の軽薄さを思い知らされます。
思えば千秋楽の翌日、一面に大きく優勝の模様を掲げておきながら、その後に何事も存在しなかったかのようにガッツポーズ避難を始めた輩。朝青龍を何としてでも非難したくて仕方のない精神疾患を患う気狂い記者や自称漫画家の例のヒトたち曰く「品格」及び「自覚」の欠如、挙げ句には「伝統」やら「美徳」の尊重などと言うのですから、コチラが恥ずかしくなってきます。「品格」、「美徳」を云々するのであれば、まずはキッチリと優勝を飾った横綱への祝辞が一つくらいあっても良いのではありませんか。ソレがアナタたちが錦の御旗として掲げる日本人の伝統美でしょうが。自称「保守」、しかしながらその実態は朝日と近親関係にある産經新聞などには特にこのコトを申し上げたい。そして、こうしたコトを第64代横綱であり元はアメリカ人であった曙太郎サンからも指摘されるくらいにまで堕してしまっているのですから、もはやどちらが真に「日本精神」を知悉しているのか分かったものではありません(参考リンク:おめでとうALOHA!! AKEBONO’s BLOGより)。


さて、上述の大麻事件に関してですが、上に記しましたような劣等メディアを除いたトコロからの声、すなわち大相撲関係者による見解というのは非常に限られているように思われます。元来、彼らの声明が公にされる場が不足している(と思われる)のも、こうした事態に対して相撲界の不透明さを感じさせる一因となっているのかもしれません。現場にいる人々の意識の有り様が、外部の応援者を始めとして相撲に関心を抱く者へと伝わる状態になるコトを、改めて望みます。そうしたなかにあって、管見の限りでは、事件発覚直後に次の二者から率直な心情が発表されたことが、とても貴重なものであるように思われました。
まず第一は友綱部屋のブログにおいて「直下型地震」と題して、部屋関係者のありのままの思いが伝えられました。そこに記されている懊悩や戸惑いといったものは、相撲界のなかに身を置く人々が感じた偽らざる心境ではないでしょうか。以下にその一部分を引用させて頂きます。


真面目にコツコツと取り組んでいる彼らが
またまた 「 みんな 」 と十羽一絡げの括りで見られる辛さと
フツフツとこみ上げる憤りをどこにぶつければよいのだろうか ・・・ と思うと言いようのない怖さが襲う


それにしても ・・・・・・・ 情けなくて、申し訳なくて、どうしていいのか名案が湧かないものの
締め付けるだけでは真の信頼関係は生まれない、
24時間監視するのは不可能で、個々に自覚を促してしていく以外に方法はない、
これからも・・・伝えられる限りを伝え、どこまでも信じ、楯になれる存在でいたいし
彼らはそれに応えてくれると信じる


続いて元敷島の小野川親方が自身のブログ(現場主義!)上にて記された心境──それは上掲の友綱部屋からのものと極めて近い思いであると同時に、若手の協会員として相撲界の(一部の)現状に対するやるせなさを吐露したものとして、非常に意義ある声明です。また親方のなかには相撲界という一つの特殊な世界から、外部との距離感を意識するところも見受けられ、今回の件を巡って内の世界と外の世界の間で何かしらの葛藤が生まれていることを暗示しているかのようです。


ココで上の二者の見解を取り上げたのは、事件が起きたとき、形となるリアクションを示したというのが決して無意味なモノではないと思ったからです。
友綱部屋の方々も小野川親方も、今回の大麻事件に関してはある意味で間接的な当事者でしかありません。彼らが不祥事の直接的な発生源から離れた存在であることはほぼ間違いありませんので。でも、同じ世界に身を置くものとして即座に率直な見解を公にしたということ、事件発生を受けてできる限りの反応をしようとの思いから各々に文章を綴ったこと、そこに少なからぬ意味があるのではないでしょうか。今回の件に関して、同じ世界であってもある程度距離を保つことのできる者であれば、関係者として無言を貫くことだってできるはずでしょうし、現にそうしているヒトたちが大半です。それに対しては悪いことだとは申しません。無言の決意というものをわたしは決してバカにはしません。むしろギャーギャー騒ぎ立てるよりも、そうした方を選択する人々を称揚したいくらいです。ですが、事件発生直後に自らの意見・意志を発表できる場を持っているヒトたちのなかから、早期に真摯な思いを寄せる者が現れたことに、わたしは一つの大いなる光を見た思いがするのです。モチロン、それで事件の何かが解決するだとか相撲界が良い方向に向い始めるだとかといったことを言うのではありません。そんなことは言えません。安易に過ぎるというものです。けれども、真面目に自分たちの生活のことや相撲界のことを想っている人々の存在があってこそ将来への見通しは立つのであり、またそうした意志をもつ人々の存在を知り、彼らに信を寄せる応援者がいてこそ活力ももたらされるはずです。だから、内部の人々からの強い声というのは決して無意味ではなく、むしろ今こそ必要とされているように思われるのです。わたしがこのちっぽけで安っぽいブログに彼らの声のことを記したのも、そのような(内側からの)情熱へと至る思いの存在を少しでも知って頂きたいと願ったからに他なりません。
そうした声に、そうした思いに、<健全>への種があるのではないでしょうか?

2009年02月01日

2009年02月01日 宮本浩という生き様

『定本 宮本から君へ』
新井英樹サンの初連載作品『宮本から君へ』が太田出版より『定本 宮本から君へ』として復刊されました。今月から4月まで毎月一巻ずつ計4巻の予定で順次刊行されてゆくとのコトです。
新井サンといえば、先日『RIN』が幕を下ろしたばかりですが、そういえば『ザ・ワールド・イズ・マイン』が『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン』として復刊されたのも『キーチ』が一旦区切りを迎えた直後でした。偶然か必然か、復刊と連載終了のタイミングが重なるかの如く動いています。また、つい数日前には短編集『あまなつ』にデビュー作となる読み切り「8月の光」を加えた『『8月の光』『ひな』その他の短編』も復刊(新刊?)されています。ココにきて過去の作品群が入手し易い状態になっているというのは、素朴なファンとしては嬉しい限りです。


さて、本作『定本 宮本から君へ』ですが、“定本”などという冠を付けられますと、わたしなどはまずもって『定本 柳田國男集』を連想してしまうのですが、コレは余談でした。
『宮本から君へ』はエレファントカシマシのヴォーカル宮本浩次をモジったと思われる名前の宮本浩を主人公とする物語です。彼は文具メーカーの営業担当の新米サラリーマン、熱意に溢れ己の信念に忠実な真っ直ぐな男…
イヤイヤ、そんなに立派なモノではないかもしれません。融通が利かず不器用で我が儘で所謂「大人の世界」などと称される場所で生きるのがヘタな男のストーリー、そういった方が相応しいような気がします。「俺がカッコいいと思ってるものをそうじゃないって言う人間に認めさせたいだけです」と本気の顔で言ってのけられるこの男は、傍から見ると時に痛々しく場違いで未熟で意固地で自分勝手で視野狭窄で疎ましく思われるコトの多い人物なのです。この『宮本から君へ』はまさにそのタイトル通りこうした宮本の姿を捉えた作品であって、彼からのメッセージを含んでいるように思われます。彼はこう叫んでいるのではないでしょうか。「これが俺のカッコいいと思う生き様だ。お前は俺よりカッコいいものを持っているか?」と。だからこれは作者である新井英樹という漫画家が、クソ頑固モノの宮本を通じて売った喧嘩であるようにもみえるのです。──誰に売っているか。都合の良い道徳や倫理、「正論」と称される「大人の世界」における一種の作法……そういったモノ(に依拠する連中)に対して。その意味では今現在彼が『キーチ』、『キーチVS』においてテーマとしている事柄に相通ずるトコロもあるかもしれません。いえ、もっとハッキリと言ってしまおう。漫画家としての新井英樹の描くモノの正体というのは、終始一貫しているのだ。彼は目に見える胸クソ悪いモノに対して、ソレを徹底的に攻撃対象としているため、そこからどうしようもないほどのあの熱烈な圧力が読み手の中へともたらされるコトになるのです。今も昔も同様に。(『ボーイズ・オン・ザ・ラン』を描いた花沢健吾氏もその圧力に絡めとられたのでしょうか!?)
本作は、確かに初の連載作品というコトもあって、現在の作品と比べると(あくまでも素人の見解ですが)非常に荒々しい点が見受けられます。が、ソレがどうしたワケだろう、宮本の熱意を倍加させるが如き演出となっているように思われます。物語はこの後(つまり『定本 宮本から君へ』2巻以降)思いもよらぬ方向へと進展していくコトになりますが、その飛躍ぶりも彼のスタンスが一貫しているコトを明証しているのだと言って良いかもしれません。
いずれにせよ、世の中の胸クソ悪いモノや大人の「正論」のなかで意地を張り通す宮本の青臭くて泥に塗れた姿や、自分勝手でありながらも一本筋の通った姿勢は、読み手の想いを目一杯掻き混ぜるコトでしょう。これは単なるサラリーマン漫画ではない、その範疇から逸脱し(それ故異常な世界観を持つ)、宮本浩の生き様に肉薄する、片意地を張る男を通じた読み手への問いかけなのではないか、そんなコトを思わせる漫画。…暑苦しくて邪魔臭い宮本の言動、だけどそのなかに何かがあるんじゃないか、宮本はダメな男で、ヤツの声をお前はただ無視するだけか。斯様な訴えに答える用意が必要かもしれません。


──この漫画を読んでいて、ふと宮本を己の中でどう位置付けるか、そのコトに思いを巡らしてしまった。宮本とは何か、如何なる意味を持つ如何なる存在か、この点がより明確になった時、『宮本から君へ』が包含する大きな大きな“凄み”が見えてきそうな気がしています。

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