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2008年11月26日

2008年11月26日 孤独の抵抗者バートルビー

『代書人バートルビー』メルヴィルの小説『代書人バートルビー』(または単に『バートルビー』とも)についての文章です。この物語については昨日トップページで軽く触れたのですが、改めて読み直してみるに、若干の記憶違いもありまして、アチラに記したあらすじに幾らかの誤りがありました。
まずは正確なあらすじを記しておきましょう。

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2008年11月23日

2008年11月23日 山中優著『ハイエクの政治思想』

『ハイエクの政治思想』山中優著『ハイエクの政治思想』
──本書はハイエクの中期〜後期(コレは私が大まかに、かつ感覚的に分類した区分ですが)の理論変遷を適格に整理した好著であろうと思います。
本書の内容をかいつまむと以下のようになるでしょう。

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2008年11月21日

2008年11月21日 大愉快

『大誘拐』刑事ドラマやミステリーモノにおいて最も好きなテーマは「身代金誘拐事件」です。ソレはとてもスリリングです。犯人からの接触の瞬間、捜査本部での捜査方針の決定、どうやって身代金を渡すか、挙げ句にはマスコミを巻き込んでの大騒動・・・ 各種事件のなかで、ココまで緊迫した光景を表現できる題材は他にないかもしれません。
しかし、それにも関わらず、私は常に一片の不満を抱えていました。ソレは必ずといって良いほど最後には警察が勝利! 犯人はあっけなく御用! というお決まりの展開がどうも気に食わないからでした。──警察だって完敗するコトはあるだろう、身代金を全額取られて、犯人側の高笑いで終幕。コレも描き方によれば十分なハッピーエンドとして仕立て上げられるはずなのに… そのようなコトを思い続けていました。けれども、コレは刑事ドラマに関していえば、不可能だといわねばならないでしょう。なぜなら、単純明快、ソコでは警察側の視点でストーリーが進むから。誘拐犯にとってのハッピーエンドを表現したいのならば、(当たり前のコトを言うようですが)犯人側を中心にして物語を創作していかねばなりません。


「クソー、たまには犯人勝っちゃえよ!」と不満を垂れると、「じゃあ、『大誘拐』でも読めばイイじゃん」との返答がお決まりのように返ってきたりもしました。フム、ナルホド、その『大誘拐』ってのは犯人が勝っちゃうんだな! と、文学/ミステリー音痴の私ですが、ココは意を決して是非とも読もうではないかと決心、…して流れた月日は果たして如何ばかりでありましょうか。来る日も来る日も自分が誘拐されたり誘拐したりするモノではないからとの誤魔化し、ついつい御座なりにしてきた無数の日々。
でも、転機は不意に訪れます。先日時間があったのと『大誘拐』を購入する機会に恵まれたコトとで、何とはなしに読み始めたのがキッカケです。──コリャとんでもないお話だ! 普段は本を読み進めるのが誠に遅い私ですけれど、この物語に関してはおよそ450ページを一日で読み上げてしまった。
突拍子もない展開に実に平易な語り口調、そして誘拐犯が勝つというより当の被害者が勝つとでもいうべき斬新なストーリー …果たしてこの事件の真の被害者は!? 結局本当の犯人はどちら? 不快感が一切残らないエンディング。愉快だ。こんな身代金誘拐事件は世界のどこにもあり得ないでしょう。あり得ないからこその唯一無二の独創性が漂っています。コレは誘拐事件の仏様かもしれません。読後、皆が笑顔になってしまうほどの親和性があります。『大誘拐』その名に偽りなし。そして内容も大誘拐ならぬ大愉快。
大きい事件は必ずしも悲劇ではない。描き方によってはこれほど爽快にも仕立て上げられるんだ。フィクション・ノンフィクションを問わず、こんな事件が現出すれば、世界は大愉快になっちゃうよ。仏様の笑顔を拝みましょう。

2008年11月04日

2008年11月04日 「復活のための序曲」

『ビルマの竪琴』これは『ビルマの竪琴』についての文章です。
『ビルマの竪琴』は文学者である竹山道雄氏が子供向けに書いた童話です。でも、二十歳から三年間を無為に見過ごした私が読んでも、心は風に吹かれた蓮花の花の如くサワサワと動きます。これはとても感動的なお話です。これは戦争と音楽のお話です。ビルマ(現ミャンマー)に駐屯する兵隊サンたちを描いたお話です。兵隊サンたちは歌を歌うのです。戦火の下でも、終戦後に捕虜として収容所に収監されても、みんなみんな合唱するのです。「はにゅうの宿」「春らんまん」「庭の千草」といった曲を精一杯、精一杯歌うのです。それが彼らの隊の士気を鼓舞するのです。
主人公の水島上等兵は竪琴を上手に上手に弾きます。他の隊員からの信頼も厚い立派な兵隊さんです。隊長が水島上等兵に寄せる信も殊更強いものがありましたので、彼は水島にある命を託します。それは終戦を告げられてもなおイギリス軍を相手に抗戦する友軍の説得という任務です。隊長の思いはこうです。

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2008年09月09日

2008年09月09日 「法の支配」 阪本昌成著

『法の支配−オーストリア学派の自由論と国家論』フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエク。
二〇世紀を代表する政治学者にしてノーベル経済学者。二一世紀においても、このヒトの唱えた理論は圧倒的な輝きで以て、各地に「ハイエキアン」を生み出し続けるといったのが現状。
さて、ソレで、彼の代表作と致しまして『隷属への道』があげられれば、彼の政治哲学理論の結実を見れますのが『自由の条件』でありまして、而して彼の集大成ともなるべきものが『法と立法と自由』でしたらば、其所に一貫して流れている原理、概念こそが「法の支配」に他ならぬ。ハイエクが「法の支配」を徹底させよ! コラ!ソコっ、勝手に法律を作んな!と声高に言い続けたコトは、知っていれば知っている事実。然るに未だに「法の支配」というものが、殊に我が国にあっては、マイナーな概念として扱われてはおりませんか?
それを徹底的に説いてみせたのが本書『法の支配−オーストリア学派の自由論と国家論』であって、著者は阪本昌成氏。ハイエクの「法の支配」についての概説書であると同時に、ハイエクそのものの政治思想、法思想を明らかにしておる。ハイエクを知るのにも最適な一冊でございますけれども、ソレよりも「法の支配」って何ぞや?という疑問詰問反問毘沙門を論じた名著だと思うんです。(amazonにあっては、何故にかこの本にレビューが付いていないのです。しょこたんのCDには三〇以上のレビューがあるのにぃ!!!)

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2008年06月22日

2008年06月22日 精神と宗教の哲学

『霊的終末論』ロシアの宗教哲学者、ニコライ・ベルジャーエフの『霊的終末論』
これは凄まじい本です。何でございましょう、この斬れ味。恐ろしい。私が漠然と感じておったような疑問であるとか不可解な現象及び思想または精神について、モノの見事に解説致してくれておる。喫驚、とはコレか。人間、社会、国家の基礎を「宗教的、精神的原理」において見出した偉大なる哲学者の思索集、個人的に超絶なる必読の書であると思うのです。
本書においては以下のような事柄について、ビックリ仰天の炯眼。

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2008年02月05日

2008年02月05日 生涯の伴侶にでも

『アメリカの民主政治』トクヴィルの『アメリカの民主政治』ほど、想像、記憶、確認、思索の飛躍等の感覚を展開させてくれる書物は希有。20代後半から30代半ばで斯様な大著を著したとは、恐るべき炯眼でございます。視力検査で喩えてしまうなら、彼の眼は45.0くらいではなかろうか。
ところで、この時のトクヴィルからは能動的な意思を少なからず感ずるのでした。彼は「平等」がもたらすその害悪を、“民主主義”下の民衆が各個支離滅裂に解体されるも、やがて各自の無力ゆえに或る強大な権力の内へとそぞろに集ってくるであろうって展開の果てに、終局、「独裁」が立ちはだかるという点に結びつけ指摘したのであったが、其処に絶望感は込められてない。そうして、以上の事柄は今日においても看過し得ない問題であることは申すまでもありません。
この崇高なる超人的予言者が世に警告を放ちて、既に170年ほどが経過したのであったが、今、ココに繰り広げられる情勢は、何を告げ、何を明らかにしておるのか。トクヴィルの炯眼がもたらした課題は、益々逼迫した様相を呈して、アチラコチラに散見されてはいないか。


『アメリカの民主政治』という一つの書物は、21世紀を迎えた今においてこそ、研究者の中でライフワークとして追求されるべき価値を十二分に包含していますように思われましてなりません。果たして如何程の重要事項が本書の中に提示されてあるか。莫大すぎて途方に暮れましょう。私だって知力と気力と財力と時間さえ存しておれば、この書物を20年30年かけて研究したいもんである。フーリエやサン・シモンの研究なぞは衰退しても一向に構わんけれども、トクヴィル研究は一層向上されんコトを願わずにおれない。


というワケで、我が雑念放出完了。
講談社学術文庫版の翻訳は決して芳しくございませぬが、今のところ日本語に完訳されておるのはコレしかあらぬので、私のように外国語に弱い日本人は誠に不遇でありますが、コレを選び取るしかないのであった。数年前に岩波からも出版されてあるが、コッチは依然として半身浴の状態。早く全身浸かれますことをお祈り致しておるのです。
そんなこんなで『アメリカの民主政治』は必読だっちゃ。

2007年11月20日

2007年11月20日 攻撃は最大の防御なり

元来、この場は、私の思い(想い)、恨み、喜び、落胆、笑い(嗤い)、悲観、嘆き等の感情を無秩序に雑然と列挙致します場に他なりません。ソコで他人の感情を唐突に紹介するようなのは、或る意味で無礼だと思うのでしたが、一度くらいはやっても良いのではないかしらん、というコトで、今日は例外的に他人の文章ばかりを提示(引用)させて頂き、其れについて少しばかり触れておきたい

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2007年07月15日

2007年07月15日 吉田満と戦後社会

「ガンバレ、ガンバレ」甲板ヨリ、耳ヲ突キ刺ス兵ノ声
彼ラ、ワガ苦闘ノ一切ヲ目撃シイタルナリ 真情ニ貫カレタルコノ激励
「生キロ、生キロ、ココマデ来テ死シテ相済ムカ、死ンデ許サレルカ」身ウチニ叫ブ声ス
初メテ、真ニ初メテ、生ヲ求ムル意地、カット開ク
生キタキ希求ニ非ズ、生キズンバヤマザル責務ナリ
肉体消エントシテ魂魄ヨウヤクニ燃エ、スベテヲ奪ワレテタダ真ニ己レナルモノ残ル
血、油ニマミレ、縄ニカラマレシワレニアルハ、カノ消エザル火ノミ
コレゾワガ死スベキ窮極ノ時、死ヲ許サレン至福ノ時
故ニコソマタ果敢ニ生クベキ時


戦艦大和ノ最期吉田満の不朽の名著『戦艦大和ノ最期』の一節である。(講談社文庫版の一四五〜一四六頁)
「天一号作戦」により沖縄に向けて特攻出撃した大和は、昭和20年4月7日14時20分過ぎに連合軍の攻撃を受け、鹿児島県坊ノ岬沖90海里の地点に沈没した。
上に引いた一節は、大和撃沈後、海面に漂流していた吉田がまさに救出されんとしている場面を描いたものである。
特攻出撃という事態の真っ直中に身を置き、そして連合軍の熾烈な空爆との戦闘に死力を尽くし、最早死だけを想定していた心境が、突如としてここで変転する。死ぬ為に生きる、この瞬間に己の生命の全てを賭ける、戦闘中にー命のやり取りをしている瞬間にー戦争の善悪などを問う余地はなく、ただ美しく死ぬために闘い、己の生の価値というものをそこに植え付けようと必死でもがいていた吉田の中に、死への意志を放棄し、限りない生への希求をもたらした瞬間。ー確かにそれは「瞬間」であったが、この時の吉田は明確に「戦死する」という自らにとって宿命的ともいえる願望を振り切っている。


初版のあとがきで、吉田は次のようにいう。

この作品の中に、敵愾心とか、軍人魂とか、日本人の矜持とかを強調する表現が、少なからず含まれていることは確かである。だが、前にも書いたように、この作品に私は、戦いの中の自分の姿をそのままに描こうとした。ともかくも第一線の兵科士官であった私が、この程度の血気に燃えていたからといって、別に不思議はない。我々にとって、戦陣の生活、出撃の体験は、この世の限りのものだったのである。若者が、最後の人生に、何とか生甲斐を見出そうと苦しみ、そこに何ものかを肯定しようとあがくことこそ、むしろ自然ではなかろうか。(同上書一六七頁)


吉田は大和の乗組員として、間違いなく戦争の中に「何とか生甲斐を見出そうと苦しみ、そこに何ものかを肯定しようとあが」いていた。
戦闘が終わり、大和は轟沈し、暗黒のような海中に投げ出された吉田に助けの手が差し伸べられたとき、「コレゾワガ死スベキ窮極ノ時、死ヲ許サレン至福ノ時/故ニコソマタ果敢ニ生クベキ時」との感を吉田に抱かしめる“転機”となったものは何であったか。


決して意識が戦場から離脱したり、無類の安心感を得たというわけではなかろう。一度は死を必定のものと受諾し、それならばそこに向かって精根尽き果てるまでエネルギーを注入せんと試みた者だけが手にすることのできる死に対するある種の希望と、死にゆく己に対する信頼感というものがあるはずだ。しかしながら、そうした思いは、生きとし生けるものの深奥に根ざす本能的な防御意識とどこかで交わることがあるのを忘れてはなるまい。すなわち、一度は死を決意し、承認するがゆえに湧き出てくる生への憧憬がそれである。死への意志に身を包みながらも、その綻びの隙間からこぼれ落ちてくる生への渇望。吉田ならずとも、死と否応無く対峙せねばならぬ状況下に佇むことになった者ならば、誰しもが避けては通れぬ葛藤がある。それが顕在化した瞬間が、他ならぬ上記の場面である。


一度は死への意志を放棄したかのように見える吉田であるが、彼の胸のうちもまた二転三転する。その葛藤する様を拾ってみよう。

特攻作戦終結ヲ耳ニシテ、生死ノ関頭ヲ踏ミ越エタル歓喜ナシ
死ハナオ間近ニアリ、生コソムシロ苦痛ナリ 克己ナリ(同上書一四九〜一五〇頁)


艦スデニ九州西岸ヲ走ル 陽光沁ミワタル眸ニ、内地ノ山ノ、麗ラカナル美シサ
思ワズ嘆声アガル「生キルノモ、ヤッパリイイナア」
(中略)
生還ハ我ラガ発意ニ非ズ、僥倖ノ結果ナリトミズカラヲ慰ムルモ、ナオ後メタサ消エズ我ラ救ワレタルハ、正シキカ(同上書一五八頁)


吉田は、自らの葛藤を臆するところ無く吐露した『戦艦大和ノ最期』を著したことにより、次のような問題と向き合わねばならなかった。

戦争の中の赤裸々な自分を、戦後の立場に立つ批判をまじえることなく、そのまま発表するという姿勢からは、戦後時代をいかに生きるべきかについてわれわれに訴えるものがないという指弾は、初版が公にされて以来絶えずおこなわれてきた。(同上書一七六頁)

「戦争の中の赤裸々な自分を、戦後の立場に立つ批判をまじえることなく、そのまま発表する」といういわば一度全てを受け入れた所からの発言、それは吉田が戦闘経験によって手に入れた唯一の戦争と向き合う手段であったのである。観念的な反戦活動や実態を知らない平和主義者の叫び声を軽薄なものと見なし、己の肉体と魂に刻み込まれた「記憶」によってのみ、戦後の自分を確立する。死とは何であるか、生とは戦争とは平和とは何であるか… すべてを実体験によって学んだ吉田の中には、揺るぎない視点が確立されているように思われる。それは、以下のような発言の中にも顔を覗かせている。
われわれは戦争のために死ぬことによって、ようやく後世への発言を認められる世代であった。(中略)戦中派世代の生き残りは、生き残ったことで存在を認められるのではない。(『戦中派の死生観』)

吉田は戦闘によって、肉体的な死を迎えることはなかった。だが、彼は命を賭けた戦争経験を通じて、死の寸前に迫ることで、死ぬことの意味も生きることの意味も悟ったのではなかろうか。つまり、戦争による死と生が表裏一体であるということの実感ー「いかに死ぬか」は「いかに生きるか」と同義であるということの発見ーは、吉田にとって意識的な上で死の経験に等しいものであったといい得る。戦争を経験することによってしか生まれ出てこなかったであろうそのような新たな思想(戦争に全身全霊をかけた己を肯定し、全てを受け入れた所からの働きかけ・戦争の真っ直中で、生きようとすることにも、死を欲することにも、意味を見出した得た経験からの働きかけ)を獲得した吉田は、自らの体験を普遍化し、その中に自己を確立させることのみが、戦後社会に対する有効な身の施し方であると確信するに至ったのだ。そしてまた、これこそが戦争を通じて「何とか生甲斐を見出そうと苦しみ、そこに何ものかを肯定しようとあが」いていた彼の手にした至上ともいうべきものであった。
吉田の以下の言に注目してみよう。
戦後派にとっては、戦争対平和は、ただ戦争は憎悪すべきもの、平和は歓迎すべきものとの当然かつ単純な対比関係として片づけられ、その仮りの保証の上に、彼ら自身の生涯の逸楽が追い求められているのであろう。戦中派にとっては、戦争対平和は、まず何よりも痛みを持った、自分の生の意味を賭けた問題である。戦後の平和が、例えば気持ちのいい議論や景気のいい宣伝とは全く無縁の、泥まみれな、血みどろの世界であることを身をもって知らされているのである。(『平和への巡礼』)


吉田本人もあとがきで述べているように、『戦艦大和ノ最期』は戦争文学である以上に、吉田満というひとりの人間が、戦後社会の中に己の意識を植え付けようとした最初の一歩に他ならない。
戦後、我々は意識の上での戦争問題とばかり対決してきた。その半狂乱のような状況の中で、吉田がやらんとしたことの重要性を改めて問い直してみる必要もあるのではないか。観念的な戦争問題ではなく、実態としての戦争を通過してきた者の声から意識を再構築するという作業が、もう一度顧みられても良いはずである。ただし、それは大変な勇気を伴う所行でもある。今後、我々はその勇気をどれほど持ち得るか。持ち堪えられ得るか。

2007年06月09日

2007年06月09日 「運命」のヒント

『デミアン』このブログにひっそりと佇む「必読書」のカテゴリー。ずっと放置し続けるのも可哀相だから、一つ追加しよう。


ヘルマン・ヘッセの『デミアン』
これは私にとって最愛の書である。地獄に持っていく一冊を選べと言われれば、おそらくこの本にする。天国となれば・・・もうちょっとハッピーな本にするかな?(おそらくヘッセは、地獄で『デミアン』を抱きながら苦しむ私を尻目に、天国で笑いながら優雅に過ごしていることだろう)


最初にこの本を読んだのは、高一の時。
高校入学直後。
私が入った高校では“朝の読書時間”みたいなものがあって、毎朝10~15分間読書をする時間が設けられていた(ちなみにこの読書時間はいつの間にか消滅した)。そこで私は、その時間用に何か適当な本を買って来てくれ、と母親に頼んだところ、買ってきたのが本書である。本を買いに行くのが面倒だったから、母親に頼んだ。そうしたらこんな驚異的な本を買ってきやがった!母はヘルマン・ヘッセなどは知らない。おそらくは安価だったから買って来たのであろう。いやいや、而してこれはとんでもない本である。まさか母親によって知らされた本が、自分の中でこれほどまでに重要な位置を占めるものになろうとは!


とは言っても、最初にこの本を読んだ時は、難解でイマイチ理解ができなかった、多分、半分くらいしか読んでいなかったように思う。
それから月日は流れて、私は高校を卒業し、大学へと進んだ。大学生になってからのある日、ふとこの本の存在を思い出し、今度は自分で買った。今度は全部読んだ。目から鱗が落ちる、とはこういうことを言うのじゃないかしらんと思った。
何というのか、人生の格言的な言葉が随所に散りばめられているのだ。今でも、私は定期的にこの本を開き、好きな箇所を黙読する。時に音読する。(ところで、私が小説で文中に線を引いてあるのは、本書だけである。)
未だにどう理解すべきか悩む箇所も多いが、それでも自分にとっての重要な言葉が溢れ返っていることだけは確かである。以下にいくつか書き出してみよう。


私たちの内で働いているのと自然の内で働いているのとは、同一不可分な神性である。外界の世界が滅ぶようなことがあったら、私たちのうちのひとりが世界を再建することができるだろう。なぜなら、山や川、木の葉、根や花など、自然界のいっさいの形成物は、私たちの内部に原型を持っており、永遠を本質とするところの魂から発しているからである。私たちはその魂の本質を知らないが、それはおおむね愛の力や創造者の力として感じられるのである。(139頁)


多分に哲学的な文章である。なんだろうか、これは。「外界の世界が滅ぶようなことがあったら・・・」という部分はプラトンのイデア論なんかに影響されているようにも思えるし、「愛の力や創造者の力」という部分だけを見れば、キリスト教の思想に忠実であるようにも思える。
様々な角度から捉えることのできる箇所だが、決して忘れる事のできないものである。


他にもこういったものがある。やや長くなるけれど、それぞれ引用することにする。

ほんとうに自分の運命以外のものはなにも欲しない人には、もはや同類というものはなく、まったく孤立していて、周囲に冷たい宇宙を持つだけだ。ゲッセマネの園におけるイエスはそうだったのだよ。喜んで十字架にかけられた殉教者はいた。しかし、彼らも英雄ではなく、解放されていなかった。彼らも愛しなじみ親しんでいるものを欲し、手本や理想を持っていた。運命をのみ欲するものは、手本も理想もいとしいものも慰めとなるものも持たない。人々はほんとうはこういう道を歩まねばならないだろう。ぼくやきみのような人間はまったく孤独ではあるが、それでもまだおたがいというものを持っているし、ほかの人とは変わっているとか、反抗するとか、並みはずれたものを欲するとか、そういうひそかな満足を持っている。あの道を完全に進もうと思ったら、そんなものは没却されねばならない。革命家、模範、殉教者などであろうと欲してもならない。一々考えることはできないくらいだ━━(170頁)


人類の歩みに貢献した人々はみな等しく、運命に対する用意ができていたからこそ、有能有為だったのだ。それはモーゼにも仏陀にも、ナポレオンにもビスマークにもあてはまる。人間がどんな波に仕え、どんな極から支配されるかは、自分がかってに選びうることではない。もしビスマークが社会民主党員を理解し、そこにピントを合わせたとしたら、彼は賢明な人であったかもしれないが、運命の人ではなかっただろう。ナポレオン、シーザー、ロヲラ、みんな同様だった。それを常に生物学的に進化論的に考えなければならない。地球の表面における変革が水棲動物を陸地にほうり上げ、陸棲動物を水中にほうりこんだとき、新たな前例のないことを遂行し、新しい順応によって自分の種を救うことができたのは、運命に対する用意のできていたものだった。それが以前その種の中で保守的なもの持続的なものとしてひいでたものであったか、あるいはむしろ変わり種であり変革的なものであったかどうかは、わからない。彼らは用意をしていた。だからこそ自分の種を救って、新しい発展に進むことができたのだ。それをぼくたちは知っている。だから、用意をしていよう。(193頁)


壮大でありながらどこか漠然とし、覚醒的な部分をも併せ持つ文章(思想)であるが、なぜか妙に惹かれてしまうのである。おっと、あまり個人の感想は言わないでおこう。私の言葉などはどーでも良いのだ。
最後に、次の一文を記して、今回の幕を閉じようではないか。


なぜ彼らは不安を持っているのか。人は自分自身の腹がきまっていない場合にかぎって不安を持つ。彼らは自分自身の立場を守る決意を表明したことがないから、不安を持つのだ。自分自身の内部の未知なものに対して不安を持つ人間たちばかりの団体だ!(178頁)


※ここで記しているページ数は新潮文庫版(高橋健二訳、右上画像参照)のものです。

2007年03月19日

2007年03月19日 日本人必読書!!

日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略深田匠著『日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』


とにかく一人でも多くの方にこの本を読んでもらいたい。
著者である深田氏は、これからの日本が、米国、中国、台湾、ASEAM諸国などを相手としていかなる道を歩むべきかを、明快に論じるとともに、国内に蔓延る河野洋平や福島瑞穂、加藤紘一、筑紫哲也といった売国奴分子の実態、彼らの目指さんとするモノの成れの果ての惨状を、平易な文章で分かり易く述べておられる。


今回は感想というより、単にこの本を紹介するだけにしたい。なぜなら、当ブログをご覧の方は、私のどーでもいー感想を読むより、この本を実際に読んで頂いた方が何百倍も有意義だからである。


深田氏の主張・見解は明確だ。それをサラッと記すとこうなる。
すなわち現在、最悪・最狂の共産主義国である中国(氏は本書の中で一貫して「中共」と呼称されている)こそが、今後日米(この場合の「米」とは共和党政権を指す。詳しくは後述)両国にとっての最大の敵国であるから、日米(そこに台湾、ASEAN諸国も加わり)が共同して、共産主義という独裁的政治を行う中国に対抗せねばならない。
既に水面下では中米両国による冷戦は開始せられており、あと二十年以内にアジアの覇権は決定しているであろう。
中米両国の争いに日本は無関係でいられない。米国と同盟関係を維持し続ける限り、また中国がアジアの覇権を一手に収めようとする争いである限り、日本は否応無く中米の争いに加わる必然性が生じる。その時に日本が何もしないというのは、すなわち日本が甘んじて中国の支配下に入り、アジアの一弱小国になり下がることを意味する。
中国は、日本から得る大量の資金をもって強大な軍事力を形成し、また徹底した反日政策及び上記の日本国内に在る左翼的売国奴分子を都合良く利用することで、自らに都合の良い政策を日本政府に取らせ、アジアにおける日本の立場を弱体化せしめるとともに、日米同盟を解消させることを企図している。


氏は以上のような中国を中心とする国際情勢を前にして、中国のご機嫌ばかりを窺い、本来政治家が最も考慮すべきである“国益”の追求を放棄した「媚中」政治家により、日本が徐々に共産主義国家である中国の属国となりつつあることに警鐘を鳴らすとともに、それを防ぐために日本がなすべきこととして以下の点を挙げる。
まず、国民一人一人が“将来の日本のために活動する政治家”を選び、中国に利権を明け渡そうとする日本国内の売国奴政治家を徹底駆除すべきこと。
次に、中国側から靖國参拝や教科書の記述に関して抗議を受ける度に繰り返される、毎度お馴染みの謝罪外交。こんなものは最早中国の意のままに動くことに他ならない。日本人は自分達の過去に対して卑屈になる必要は無い。「自虐史観」から抜け出し、本当に歴史を捏造しているのはどちらかをはっきりさせ、中国の内政干渉に毅然とした態度で応対すること。
そして親日反中の立場を取り「強い日本」を希求する共和党政権と歩みを共にすること、それは現在何百という核を日本に対して常時発射態勢をとっている中国に対抗できるだけの軍事力の保有、つまり日米同盟強化・憲法改正・自衛隊強化。日米両国でアジア征服を企図する中国の共産政権を薙ぎ倒し、新しい世界秩序再編の先駆けになるべきである、ということ。
なお、本書のタイトルにもなっているが、米国の二大政党制を構成する共和党と民主党では、政策が百八十度異なるという認識を持つことが重要であると、深田氏は再三力説する。上述のように共和党は、伝統的に親日反中の立場を取り、日本と一緒にアジアの大国中国を牽制しようという立場にある。共和党は日本に対して、“自分のことは自分で対処できる大人の国家”になることを望んでいるのだ。現在のブッシュ共和党政権が日本の憲法改正について暗に推奨しているのは、共和党が斯の如き政策を持つからに他ならない。
対して親中反日の立場から、中国に同調した政策をとり、アジアにおける日本の立場を弱めようとし、日本を“管理下”に置いておきたいのが、民主党である。これは例えば、日本が大東亜戦争に踏み切らざるを得なくなった時を思い起こせば良い。民主党のルーズベルト政権は、一貫して支那を援助し、日本へは強行的な政策を取り続けてきた。あの当時野党であった共和党が、ルーズベルト政権の強行姿勢を批判し、日米協調の立場を崩さなかった一方で、である。
そのようであるから米国には「二つのアメリカ」がある、と深田氏は述べる。


共和党が政権を取るか、民主党が政権を取るか。そのいずれかによって世界情勢は大きく変わる。よって今後の日本が、中国という異常な国の膨張政策に対抗していく為には、共和党と歩みを進めるしかない。もし民主党政権を支持するようなことがあれば、それは自分で自分の首を絞めることに他ならない。
一概にやれ「反米」だ、やれ「親米」だといういうが、共和党を受け入れる「親米」と、民主党を受け入れる「親米」では、全く異なる。同様に共和党批判の「反米」と民主党批判の「反米」も、全く別次元の事柄なのである。つまり「親米」、「反米」論争というものの本質がいかに無意味・無機質なものであるかを意味する。
日本は、日本の“国益”を考えて、共和党を最重要政治パートナーとして選べば良い。そして一刻も早く日本は、共和党が望むような“大人”になるべきである。今まで大人になりきれない“子供”の日本を援護してきたのが、歴代共和党政権である。それに対して歴代民主党政権は、子供を虐め抜いてきた。
それ故に、まだ子供である日本は、どちらの政党が政権を取ろうとも、アメリカに操られているかのように見え、「アメリカの犬」などと揶揄されてきたのだ。日本がこれから米国と対等なレベルで政策決定をしていくためには、日本が共和党政権の望むような大人の国にならなければならない。そのために、大人への成長を阻む国内の売国奴政治家の一掃、そして軍備拡張を施し、共和党が政権をとった米国とともに、世界をリードできる態勢を整えることこそが必要不可欠なのだ。


前述のように米中の争いに日本が巻き込まれることは必至である。その時に、現状のまま自衛隊には何の力も無く、政治家も中国に媚び諂うだけでは、日本に待ち受ける運命はただ一つ、中国の属国化、更に言えば亡国化である。日本が二十一世紀に、大国として先進国として国際社会で生き残っていくために残されている道はもはや限られている。世界のパワー・バランスを考慮しても、日米(共和党)同調しての行動こそ最重要で、共和党のブッシュが政権を担当している今こそ、最大のチャンスだ、その重要性を認識すべきである。


この憂国の熱き想いを、一人でも多くの方に伝わらんことを、私も願って止みません。日本という国を大切にしたい日本人に、是非とも一読して欲しい本であります。

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