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2007年12月30日

2007年12月30日 限定され得る想い出・終章

前回の続きにして、懐かしき写真もコレにて終了。
想い出は大切に。
(画像をクリックすると大きな写真が出現するよ)

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2007年12月30日 限定され得る想い出・中章

と、いうコトで、近所の写真を撮ってきたのであったから、これから掲載していこうと思います。およそ三十枚ほど撮影してきたのでしたが(そのくせ撮影時間十五分!)、その中から厳選致した十九枚を晒す。(今回と次回の二回に分けて載せようではないか。)
「田舎の風景」、此処に在り!(クリックすると大きな画像が見られるよ)


なお、ココに載せた全ての写真はPhotoshopで加工したモノである。かなり大袈裟に“色付け”を施しましたモノもあれば、写り込んだ電線等を消去するなど編集したモノもあるのであった。コレらの写真に手を加えた由縁は、ソレを私の記憶と一致させるためである。すなわち、此の度、数年ぶりに私はかつて頻繁に訪れておった場所に向かいて、ソコが私の記憶と著しく異なった風になってあるのを、しみじみと実感したのであります。ソレは私の記憶が、月日の経過に伴って実体の有り様と相違したモノとなっておったからに他ならぬでありましょう。または数年の歳月が、私の記憶を上回るほどにソノ場所を風化させたというコトもあり得るのではありませんか。更には私の写真撮影の技術が、眼前の光景を巧みに捉え切れなかったというコトもあろう。そうした諸種の事情を踏まえて、此の度、私は一度撮影した写真と自らの脳内の記憶を能う限り合致させるために、ソレらに手を入れたのであります。従って、ココに掲載致す十九枚の写真は、現在のソレというよりは、私がかつて接したソレ―およそ十年ほど前の光景―と考えて閲覧して頂ければ、それはそれは望外の喜びである。

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2007年12月28日

2007年12月28日 限定され得る想い出・序章

我が実家より世界中へお届けする「限定され得る想い出」シリーズ、の序章であります。
つまりカッコつけたようなタイトルはさて置き、何のコトはない、私が過ごしてきました土地の写真をココに載せるだけのモノなのであったが、今日は昨日に引き続き一つだけ掲載させて頂こう。
だって、お外が雨だからさ。
今回は私の家から適当に撮影致した一枚の風景写真を披瀝す。窓を開けたれば、其処に展開する光景がすなわちコレである。


お外の風景


能う限りプライバシーに配慮して小さな画像のみとしましたが、万が一、本当に「万」に一つ、奇跡的にも私の実家近辺に住んでおるモノが見れば、私が何処の誰で、如何なるロクデナシかが余裕で判別致すような写真かも知らん。
高層マンションや工場などはおろか、コンビニやスーパーすらも存在しない土地でございます。最寄りのコンビニに至らんとすれば、自動車でおよそ六百秒ほど、すなわち十分ほど行かねばならぬ。自然が豊かであるから、従って空気は新鮮な地であるが、風景自体としては閑散として廃れておるような気がしなくもあるまい。なお、写真に関しては超超超超超素人の私が撮影したのであるから、その技術上の「空虚」さは無視して頂きたいのでした。(ちなみに、この写真はこれから載せて行くであろう諸種の写真に先立つモノである故に、そして私は閲覧者に多少なりとも我が意に沿うよう写真を提示したいという実に“不遜”な野心を抱え持ってあって、従ってコレはそうした野心に閲覧者の心理を合致させるため多少の<印象操作>をしてやろうと、あらかじめPhotoshopで色合いや明暗や画質等を編集した写真であることを、ココに明記させて頂きます。つまり、コレはありのままの風景写真ではなく、<私の解釈が入った風景写真>であると思って頂きたい。以後、この写真をベースにして、幾つかの風景写真をココに留め置かんと欲す。)


最後に、我が個人情報漏洩の危機(?)をも顧みず、何故に斯様な愚行を敢えてなすのか、という点について記しておきたい。


おそらく私は此の地に生涯留まるコトはないであろう。それ故にこそ、私は何らかのカタチで今までの記憶や体験や想いといったモノを、カタチにしておきたいと願いました。これからココに掲載していく写真は、私の想い出の断片でもあるのでした。しかもソレは非常に限られたモノの間でしか共有されていないような断片・・・
例えば東京や名古屋や大阪や神戸といった大きな都市で生まれ育ったモノは、必然的に子供の頃の想い出の地なるモノも、比較的多くの(諸種入り乱れた)モノたちと共有する状態でしか存在していないのではないでしょうか。俺とコイツとアイツしかココでは遊んでいなかった、といったような場所が都市の中にどれほどあるか。例えば田舎の町であれば、山の中なり溜め池の周辺なり枯れ果てた川に架かる橋の下なり廃屋の中なりの様々な場所に、少人数のグループしか足を踏み入れていない<限定され得る想い出>の地というモノがあるのです。今回私はそうした<限定され得る想い出>の写真を幾つか撮りたいと思っている。(枯れ果てた川に架かる橋の下や廃屋へは[実際、近所にはあるけど]行かんよ)
主にこれから撮るであろう写真は、小学生時代に何度か赴いた場所のモノであるが、ソレはとりわけ私の中に“特殊な体験”として根付いているモノであるからに他ならぬのでした。(高校生や大学生になって橋の下や廃屋で遊んでたら、ソレはただの不審者だ)
そうして、ソコには一つの訣別の意を込める。
現在のように時折実家に帰省した時でも、子供の頃に遊んだ場所へは向かわない。ソコはもう自然に私とは離れた場所になってある。ただし、完全にコチラから別れを告げたような場所ではないので、非常に曖昧な状態で、私の記憶に絡み付いているコトも確かなのでありまして、ソコへ今回は訣別の意を伴って、向かわんと欲す。そうして、その地を写真というカタチに変換して、私は自らの手元に留め置きたいのでした。
しかも、斯かる純粋に個人的な試みを、私はサービス精神が旺盛だから、ついでにブログ上に掲載しようとする善意も共に働いておるのだ!


外は雨。別れの予感を感じてすすり泣く空である哉。

2007年12月27日

2007年12月27日 粗雑な我が身辺について

実家にはデジカメが放置されてあった。
試しにデスクの周辺を撮影してみたので、ココに掲載す。
(より大きな画像へのリンク有、いざクリック!)


粗雑な我が周辺


汚らしい。誠に汚れておる。
古いMacにもっと古〜いVALUESTAR(高校生の時に使用していたモノで、今や見るも無惨に置き去りにされているのであった)が存していて、上部に目をやるとこれまた古〜いミニコンポ(今時カセットテープ対応!)に接続されたる古過ぎるターンテーブル(これも現在使われてはいない)と適当に置いた感がしまくりのビートルズの「青盤」LP、PCの隣には一つ前のモデルのiPodとペンケース・消しゴム、のど飴、リップクリームが粗野に投げ置かれてあって、キーボードの上に置いてある本は桶谷秀昭の『昭和精神史』、その下にありますのがハンドクリーム、で、奥に立てられてあるのがなぜか山川出版の『詳説日本史』(言うまでもなく高校の日本史教科書)、VALUESTARの上には怪しげなるコトに必要なティッシュ、手前のふざけたPCには様々に接続されたコード―嗚呼コレこそが最も粗雑! その背後に忍び寄るモニターの影に隠れてあるのがキモチ悪い二組の木彫り人形(こけし)…


今では(普段)誰も使用しない机であるから、まったく生活感が感じられない奇妙な写真でありましょう。
斯かる具合で、近いうちに私が十八年間過ごしたる実家近辺の写真を掲載させて頂くコトにしよう。<超>田舎町の光景、をいずれお目にかけて差し上げるのであった。

2007年11月08日

2007年11月08日 「正倉院展」及び東大寺周辺雑記5

コレは「『正倉院展』及び東大寺周辺雑記4」の続きです。ソレを未読の方は先にコチラからどうぞ。


ああ〜、何分待ちだろう…と暗然たる心持ちでおると、果たしてどんどんと前に進んでいくのでした。おや? コレは如何なる事態か。進む、進む。驚くべき速度で前に進みます。結局五〜八分くらいで入場口へ達す。いやいや、一人のオッサンがチケットを切っておるものだから、ソコで滞って行列ができておるだけで、何も入場制限されておったワケではないのでした。入場制限されておったのは団体客のみで、個人は次々に入れる模様。そりゃそうだ。団体客を次から次に押し込めば、中は大変なコトになりましょう。だから、団体客だけはやたらと待たされてあるワケね。
というコトで、入場し、二回の展示場へと一路向かう。階段を上りて、すぐに「第一展示場」と書かれた看板が目に入る。おお〜、ついに来たか!どれどれ、如何なるモノが展示されておるのか、と思い、第一展示場に踏み込みます。


・・・・・・・・


ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト・・・・


正倉院の中に存しておったお宝など一向に見えはせぬ。ショーウインドウの周りにはヒト―しかも高齢者ばっかり!―でごった返しており、いったい何があるのかも判明致せず。考えてみれば、個人客の入場でも異常なほどに行列が出来ておったのだから、アレがドっと中に押し入れば斯かる事態になるのは火を見るよりも明かではないか。
ええい!私は年寄りを見に来たのではあらぬ!


隙をついてガラスケースの周辺に達するも、嗚呼、驚くべき哉、いやむしろ悲しむべき哉、古今東西工芸品等に関わる知識が欠落しておる私にはサッパリ分からぬモノばかりである。手のひらサイズの木箱に似たるモノであるとか、朱肉のようなモノであるとか、おそらく仏教の経典を記したと思われるような巻物であるとか、意味不明の細長い三十センチばかりの木の棒であるとか、これまた模様入りの小型金属皿のようなモノであるとか・・・兎に角、よく解からなさ過ぎるのであります。何れの場所にもプレートが設置されておって、ソコにお宝についての解説が記述されてあるのだが、生憎の人集りではソレすらロクに読めず。故に、サッパリ分からぬまま私は第一展示場〜第三展示場までを巡ったのでした。
或るババアなぞは、金属皿のようなモノに描かれている模様をちょっと見て「隙が無いねー」などと感心しておったが、アレとても何処まで理解しておるのかは怪しきモンである。あのヒト集りの中で、彼処に展示されておるモノの素晴らしき点を詳細に説明できるモノが、果たして幾人ほどいるであろうか。「正倉院展」という名前に騙されて、ソレだけで高級な気分に浸っておるモノも少なからず存在するはずである。
期待した私がダメであった。恥をあえて忍ばずに言わせてもらうが、正倉院展はワケが分からぬ。相当お勉強して赴かないと、まったく楽しむコト能わず。いや、仮に勉強して挑んでも、あのヒトの数じゃあ、余裕を抱きつつ鑑賞するコトなど叶わぬであろう。
まぁ、そういうワケで最も印象に残った展示物を一点あげるならば、ズバリ“朱肉のようなモノ”である。誠に遺憾ながらこれ以上は説明できません。申し訳なき思い。ソレが朱肉なのか何なのかすら分からぬが、仮にアレが朱肉だとして、いったいソノ何処に価値があるのであろうか。恥ずかしながら全く理解できなかったという点で、最大の印象をソコに置く。


それにしても、東大寺周辺に沢山おったはずの外国人を、驚くべきことに正倉院展にては一人も目撃せず。コレがまずもって一番に衝撃的であった。私の見た範囲、一人として外国人がおらなかったのである。コレは如何なる事態で、何を示しておるのか。「正倉院展」なるモノの存在について考えずにはおれなくなるではないか。私のように名前に惹かれて訪れる日本人ばかりだというのでしょうか。此の点に関してなど、心理学者が喜びそうな問題である。


より詳細に記述したきコトは多々ございますけれども、ブログという表現形態を取る以上、非常に大雑把にならざるを得ない。大雑把であるが故に、どうしても満足のいくように書き記すコトができず、そうして必然的に完成度の低い殴り書きへと堕落してしまった。こりゃあ、失敗です。つまらん。書いていてもつまらないんだから読む側はもっとつまらんでしょう。失礼致します。
最後に総まとめをさせて頂くと、今回のお出かけで最も有意義だったのは、南大門の見学であり、お出かけ自体の結果としては、正倉院展が散々な結果だった以上、一連の行動も散々なモノに帰結せざるを得ない、と、まー、こういう具合になるワケでして、ハハァーン、所詮オレの行動などロクでもない結果に終わりますのがオチですよ、ってことを証明する一日であったのだと、こういう風な結論でもって締めさせて頂きたいのでした。長らくおつ付き合い有り難うございました。漸く次回からは“通常バージョン”に復帰出来そうで、一安心。

2007年11月08日 「正倉院展」及び東大寺周辺雑記4

“正倉院自体”を無事に見学し終えて、いざ奈良国立博物館へと向かわん。畦道のように土が露出しておるルートを、多少の懐かしさを覚えつつ歩む。私の実家周辺には依然と致しまして、このように舗装されておらぬ道が残存しているのであったが、ソレとこの時歩んでいた道が妙な具合で一致するのを覚えたのでした。都会の中に住んでおっては到底生じ得ぬ<懐郷>ではなかろうかしらん。
それにしても、其の荒々しい道の隅々にも自動車が幾台も停車せられておって、コレは現代では当然の事実なのでありましょうが、しかしながら‘東大寺の中’にて斯様な光景を目撃するコトには些かの心細さを覚えたのだった。だが、コレがそもそもいけないというコトを私は徐々に感じ始めたのでした。と言いますのも、私は其れに対して余りにも<歴史的価値>を見出さんと必死であったからなのです。すなわち、私は平成十九年の今日において東大寺を、其れが建築されたのと同時の時代感覚を抱いて鑑賞したいと祈願しておったコトに今更ながら気付いたのであります。勿論、斯様なコトは絶対的に不可能な仕業であって、どう足掻いても其れは平成十九年度の人々の視点でしか目撃出来ぬではないか。私が抱いておったような奈良時代の人々の意識下にイリュージョンして鑑賞しようなどとする意図は、所詮は愚昧な空中楼閣でしかあらぬ。此のコトに気付きたる時点で、私の中の視野は明確に転換したのであります。すなわち、東大寺に存すはずと思惟しておった<歴史的価値>への得体の知れぬ一体感所持の願望を打破し、其処にある<現代と過去の調和>にこそ何モノかを見出す必要に迫られたのであり、ココにしか面白みは発見できぬ、と痛感したのである。
斯くして、“正倉院自体”を後にし、大仏殿をも背中に見ながら、鏡池周辺に達す。よくよく見てみれば、その辺りも実に近代的外観で溢れておったのでした。つまり郵便ポスト・プラスチック製の品を並べたる屋台・ガラス張りの土産屋などの存在がソレである。これらはいずれも行きの道中にては気付かぬ存在であったが、何のコトはない、予め用意されておったモノなのだ。当初は私の視界に入り来たらなかっただけでして、コレらを確認するに及び、一層私の確信は強くなり申した。曰く、東大寺ーいや、奈良公園自体が最早<歴史的価値>の現存というよりは、<過去の或る価値と現代の価値の断片的調和>になっておる、というコト、この結論である。東大寺に赴くにあたって、あくまでも保持しておかねばならぬ基本的思慮はコレ以外にはありませぬように思われるのですが、果たして其処に“偉大な歴史そのもの”を見ようとして訪れたのならば、私のように妙な心的ショックを味わうコトにもなりかねません、と考えるのですが、イッタイゼンタイ如何がなるか…


其れであっても、帰りに今一度南大門をジックリと見る。う〜む、此処だけは別格でないかしらん。此の場はやはり“現代”と少しばかり隔絶されておるよ。
そう思っていると、近くにおった団体ツアーのガイドを勤めておる爺さんが此のようなコトをのたまっていたのでした。
「この金剛力士像は、運慶、快慶が十数人の部下を率いておよそ七〜八週間で製作されたものであり…(中略)…当然、このように巨大な像が一本の木で出来ているワケではなく、複数の木を合わせる『寄木造』という手法で作られており…(中略)…この辺りには修学旅行生も多くいますが、この中(東大寺)のガイドはバスガイドには出来ません。ちゃんと県から資格を得たモノでなくては案内ができないようになっております。ですから、私のように資格を持っているモノは毎日此処で案内をしています。お昼は毎日抜きです。今日も多分抜きです。…(中略)…ガイドの仕方にも複数あって、団体客用、小学生用、中学生用、高校生用があって、高校生用は更に二つに分かれます。商業・工業高校などのユルい学校用と進学校用です。今日(のお客)はレベルが高いので進学校用ので行きます。」
最後の部分は間違いなくネタであるが、年寄り相手には結構ウケておった。喋り慣れた爺さん、アレぞガイドのプロであろう。


さて、修学旅行生や幼稚園児の団体などを数多目にしながら、愈々奈良国立博物館へと向かわん。時刻は正午を十五分ほど過ぎた頃でございます。
東大寺への入り口になる交差点を横断し、ものの二分も歩めば、すぐそこに見えますのが「正倉院展」を開催しておる奈良国立博物館に他ならぬ。周辺にはやたらに多くの正倉院展を宣伝する幟や看板が設立されておりまして、その宣伝の必死ぶりには少しばかり哀れになる。
横断歩道の前にて悠長に座り込む鹿の隣で信号待ち。其処を横断した後、すぐに左前方に見えて来たのは、さすがに立派な建物の国立博物館。敷地面積もなかなかのモノです。歩道から外れて緩やかな角度で曲がる広々として段差の低い階段を下ると、・・・むむっ、妙な人だかりが出来ておる。テーマパークよろしく「入場まで一時間四十五分待ち」などと記されておったのですが、コレが他ならぬ正倉院展の入り口であるコトに気付き愕然となりまして、えへへへぇ〜、予想外過ぎるだろ! この展示会ってそんなに大人気なのか〜、約二時間も待てるか、諦めて帰ろうかなーなどと弱気になっておると、案内員のようなオッサンがマイクで「個人の方はアチラからお入り下さい」と言う。指し示された方を見ると、其処も人気遊園地のジェットコースターの下側の如く三列くらいの行列が完成致しておるではないか。うへぇ〜、正倉院展ってこんなに大人気なのかー、しかも平日だろうぅー。恨む。恨んでも恨み切れん恨みが発生し申し上げます。が、此処まで来った以上、帰るワケにはいかん。今ココで帰るというコト、ソレは三ツ星レストランに悠然と入り込み、フルコースを注文しておきながら、メインディッシュを前に腹痛を起こして席を立つようなモノでしかあらず、しからば無理をしてでも入るしかないではありませんか! 大人一枚千円というやや高価なチケットを購入し(なぜかチケット売り場は混雑していなかった。今度は丁寧な対応で一安心)、意を決して行列に並ぶ。


本当はコレにて終わりますはずだったのですが、今回の分は長過ぎるので二つに分けます。続きはコチラ(「『正倉院展』及び東大寺周辺雑記5」)にて。

2007年11月06日

2007年11月06日 「正倉院展」及び東大寺周辺雑記3

中門をそれとなく見過ごして、次に目指さんとするのは、或る意味において東大寺の親分であります大仏殿なのでした。
中門に至りて、其処から左折し、大して特徴のない中門の壁伝いに歩むことおよそ五十メートルばかりで大仏殿への入り口が見えてくる。巨大な大仏様が控えておる大仏殿とは不釣り合いな狭き入り口でありまして、ヒトが二人以上は並んで入れぬ仕組みになってある。此処において人々は何かにつけて誘導される如く其の中へと闖入して行くのでした。私もすかさず中へと入り込もうではないか。
門を通り越してみると回廊の如き廊下が右手に延びておって、天井もある。が、豈図らんや、入り口の前には小さな行列が三列ほど出来ておったので、はて、何事かと思う間もなく其処はチケット売り場である事を察知致す。行列の先には小窓が設置されておりまして、小窓の上には入場料が明記されてある白き札が取り付けられてあって、見るに「大人500円 小学生300円」とある。やれやれ、こういうトコロはキッチリと金を取るのね。大仏様も金を取ってまで見せ物にされて、さぞ可哀想に、などと脳内で独り言談を弄していましたら、私の番に達しましたから、クールに「大人一枚」と言い野口英世の顔が描かれたお札を一枚差し出す。向かっておる小窓は、本当に「小窓」でありまして、中でチケットの手配をしているモノの顔すら誠によく確認できぬ。或いは窓にスモークでも貼付けているのではないかしらん、と思うくらいに明瞭であらず。あまり覗き込むのも申し訳なかろうとデリカシーを働かせまして、やむを得ず視線を移す。辛うじて判明致しましたのは、中に座しておったモノは肩くらいまでパーマをあてたような黒髪を垂らした中年の女性で、眼鏡のようなモノを装着しておったというコト。それ以外に表情や化粧の乗り具合や皺の数などは分からず。相手からすれば分かって欲しくないであろう点を、私はまんまと確認出来ず残念であります。
そうしておるとすぐにチケットが不躾に出てきた。出てくるというよりは滑り出てくるとでも言った方が適切な具合に、乱暴に提出される。「ホラよ、さっさと取りな」と言わんばかりの横暴さ!おまけにお釣りの五百円も瞬く間に滑り出てくる。なんちゅう対応じゃ!と思うものの、大仏様の前では冷静に、と自らを鎮めたのでした。
しかして、チケットを手に回廊の如き廊下を五十メートルもブラブラと進みますと、オッサンが三人程立っておって、まるで昔の駅の改札口を思わせるかのような具合でチケットを切っていたのでした。チケットを差し出すと、切り取り線をビリリと手際よく破り、チケットを切る。何の面白みもありゃしない。
此処に至りて漸く大仏殿を拝める。チケットを切ったトコロから十メートルも歩めば、今度はそれなりに大きな門があって、此処なら横に四、五人が並んでおっても大丈夫そうです。門の前に立ち、見上げるに遥かそびえ立つは大仏殿・・・であるのだが、何だコレは。まるでミサワホームじゃありませんか。どうしようもないほど味気のない建物、無闇矢鱈に図体だけがデカく、外観は実に迫力に欠けておる。まず嘆息すべきなのは、必要以上に建物自体が照っておるので、どうしても“歴史”というものを感じさせない。「兄ちゃん、ありゃぁ築八年の建造物さ」と囁かれたら納得してしまいそうなほどに、<不必要な新鮮さ>を漂わせておりまして、幾年の歳月を経て其処に存在しておるような確証を見出せないのです。南大門には見られた時間の重みが此処では全くに欠落しておって、歴史的建造物に特有の“厳しさ”や“辛辣”さを何処かに落としているようであった。次に大仏殿へと続く道に施された細工が、より其の<不必要な新鮮さ>を助長させてあります。すなわちその道は明らかに現代的に加工されたタイル若しくは光沢を徹底して出したと言わんばかりの石のような素材で埋め尽くされておって、明らかに歴史的建造物というものに相応しくないのでした。そうして最後に、あまりに開放的な様態を示しておる。仏教の精神について私は塵ほどにしか心得ぬが、さりとて其処は宗教の施設である以上何らかの閉鎖性や明確なる存在目的意識のようなものがあって当然ではないでしょうかい。しかし、私の目に映りたる大仏殿に斯様なものはなく、まるで開け放たれたる宮殿の如し。かつて存しておったはずの精神は、もはや時間によって盗み去られてしまったのであろうか。


斯かる失望感に包まれながらもとりあえず接近す。二十メートル、三十メートルと歩めば、その影に覆われる位置にまで達す。成る程、こうやって見上げてみれば、極めて近い位置からだと、それなりに時間の経過を感じさせてはくれる。だが、やはり建物が(構造的には頑強だと見たが、其処から受け取るイメージは)妙に弱々しく覚え、芯が通っていないように感ずる。実に覚束ない。
此処でも相変わらず急な階段を上り、大仏殿の中に入らんと欲す。さすがに此の辺りには外国人観光客が相当いる。まま、宜しい。
失礼して入らせて頂く。


・・・残念ながら、私は此処に関して特に記すべき事実を持ち合わせるコトが出来なかったので先を急ぐコトにする。やはり第一印象が全てであった。
御免なさい。


大仏殿を後にし、いよいよ正倉院展に赴こうではないか。
と、その前に、ついでに“正倉院自体”を見ておこうと思い、大仏殿の裏の路地を私はトボトボと歩んだのだった。


うぬっ! またしてもスペースがあらぬ。やや冗長に過ぎるので、“正倉院自体”についても割愛させて頂きます。いや、割愛しても構わぬのでした。此の度、私が見たかったのは<正倉院の中身>であって<正倉院の外身>ではあらぬ。此の場にては、大仏殿への率直な感想を(舌足らずだが)記すコトが出来ただけでも良い。


次回(最後の回)へ続く。

2007年11月04日

2007年11月04日 「正倉院展」及び東大寺周辺雑記2

眼前に遥かそびえ立つは、言わずと知れた南大門であった。「国宝」である。国宝であるからというワケではあらぬが、やはり過剰な雰囲気を醸し出してある。要は非常な差別意識を感ずるのであって、どう見ても周囲の光景に調和しておらぬ。面白い具合に自分勝手に、あまりに突出しすぎておるのでした。
当日は昼前から青空が広がって来るような晴天になったコトも幸いに、南大門の雄大な瓦屋根が日光を多分に吸収致しまして、光を得た個々の瓦たちは薄灰色から若干濁りを伴うような水色に自らを演出しておって、その下には時間の推移の焼き付いた異様に重量感のある柱また柱の郡が連なり、其れが門全体を支配しておるのではないかと錯覚するほど見事な“立ち居振る舞い”であったので、思わず私はその門を見上げたまま近づいて行ったのでありました。門の周辺及び中には世代・国籍・性別・身なりを問わぬ無数の人々が、或るモノはケータイのカメラ片手に、また或るモノは使い捨てカメラ或いはデジカメなどを持ち、その荘厳さを何とか記録に留め置かんとしてシャッターを切る。そして少し離れたトコロでは老夫婦と思わしき一組の男女が存し、南大門から十メートルばかり離れた距離にて、旦那と思しき男が妻と思しき女を、これまた門をバックに記念撮影に勤しみます。其処に於ける老女の妙な笑顔は…私はソレを作り笑顔に似たるモノと推察したのでしたが、今になりて思うにアレは作り笑顔というよりはむしろ相当自然な笑顔であったのかも知れぬ。しかしながらあの瞬間、不自然な笑顔に思えましたのは、南大門の雄大さ―我々を包み込む巨大な一つの影!に圧倒されたか―に老女の表情が適合しなかったが故の不幸事であったのではないかと回想致す。斯くまでに偉大な南大門、その前にておよそいかなる形容が相応しからん。此処からは当代一流の文学者センセイ方にお任せするより他に方途はあるまい。私の貧弱な語彙ではとても手に負えるシロモノではありませんでした。
斯様な光景を見ながら門に接近するに及んで、まず目に入り来ったものは「寺厳華大」(大華厳寺)と記された門の中段に掲げられる一つの額でありました。はて、このようなモノがあったかしらんと思いつつも、それはさておき、門の下に入り“例のモノ”を見ようと歩むに、そこに設けられておる四〜五段ほどの階段の段差が急なコトにまずもって驚く。バリアフリー完全無視の、入るモノを明らかに限定するかのようなその階段(一段一段の高いコト!)に、正体不明の厳しさを覚え、何か責め立てられたような身分を思う。(さて、その「寺厳華大」と記された額であるが、此れは昨年に設置されたものであるとのコト。う〜む、それにしては古めかしい雰囲気を噴出しておったゾ)
しかして二十二の年齢をフルに活かして階段を上り切るに、其処は深き門の傘により、若干薄暗くなりたるものの、見上げれば「大仏様」と呼ばれる建築方式独特の幾多の木材を水平方向に一定の間隔で整然と組み合わせた隙の無い構造となっておりまして、少しばかりの薄暗さが尚更その建築の緻密さを引き立ててある。姉歯建築士(もはや過去のヒト?)もビックリの精密さであろう。これほど精彩な方式の建築物をよくぞ開発したものぞと内心驚嘆す。そうして、今度は頂上の高さを見定めんと頭を上げて、グッと上方を睨みつけたものの、天井と思わしき部分は遥か彼方でして、メートル単位での高さを推測すること能わず。無念千万。


ようやく、此処で一つの山場を向かえる。すなわち“例のモノ”でございます。南大門といえば、此れを抜きには語れぬ―金剛力士立像である。「運慶」「快慶」「湛慶」などと日本史で触れた名前が無意識に出てくる。懐かしい。
其処には二つの巨大な木像が安置されておりまして、ココで「阿吽(あうん)」のハナシをするのがお決まりなのかどうかは分かりませぬが、日本史の授業でも教わったコトなので其の受け売りとして言うのだが、門に入りて右側に置かれてある像が「吽」の像、左が「阿」の像。「阿」の像が口を開けておりまして、「吽」の像が口を閉じておる。「阿吽の呼吸」のアレですな。私も表情を確かめんと二体の像を夫々凝視したのであるが、暗い上に視力が宜しくないもので、明確に確認出来ず。残念。
途方も無く巨大な像(8メートルを超える)を見るに、足から腰にかけての部分しかハッキリと確認することが適わず、実に歯痒いものです。が、全体像を明瞭に捉えるコトの不可能さにこそ、この二つの像が持つ<恐ろしさ>を垣間見るコトが可能ではないか。近くにいた体格の良い白人のオッサンなぞは像をしばし見上げた後に、「なんだコレは!?」という様子で呆気にとられたような笑みを含んでおったが、私もその笑みに同感するモノであります。いやはやスケールが違うのだ。門の段階でこの有様でございます。ましてや大仏殿などは・・・ おっと先走るのは止そう。まったく昔のヒトは或る意味で現代のモノよりもよっぽど過激だったのではないかしらん。
見えた範囲で申し上げますれば、異様に大きな足と何が何やら分からぬ腰回り。彼らの出で立ちは腰の付近に布のようなモノを纏っているのみの、見方によっては余りに質素なものだが、そりゃそうだろうと思わずにはおれない。こんな巨人に着せる改まったカタチの服なんてあるもんか。足にしろ途方も無く巨大なのだから、ただ大きいというだけで愉快である。もうそれ以上に必要とするものは無いのです。単純に巨大だという事実が、見る側のココロを満たす。其処には言い知れぬ“妖気”のようなものが漂っており、無駄な装飾品などはかえって不要なのである。妙な色付けもいらぬ。そう思えば、これほど単純でこれほど無駄のない芸術品もあらぬのではないか。
こんな像を一つくらい家の前に置いておけば・・・なんて邪道な思いつきが出てくるが、やはり実際において斯様な巨像が家の前にあれば、色々な面で迷惑でしょうね。


むぬぬ、全く前に進まぬ。これではいつ終わるともしれん。南大門は名残惜しいが先に進む必要がある。私は金剛力士像に別れを告げ、前進したのであった。右に全然美しさの欠片もあらぬ鏡池を見ながら、左にまばらな状態で展開する屋台の店を見ながら。
すると今度は中門が見えて来った。だが、此処に関して述べておくべきスペースは残念ながら存せぬ。泣く泣く大仏殿にハナシを進めるのでした。


次回に続く。
ホントは今回で終わらせるハズだったのだが…
このペースじゃ何時になれば終わるというのか。

2007年11月03日

2007年11月03日 「正倉院展」及び東大寺周辺雑記1

天王寺駅から環状線内回りに乗車し、二駅を経て鶴橋駅に午前十時半頃に到着す。此処から近鉄線に移り、一路(近鉄)奈良駅を目指さん。
JR線から近鉄線乗り場へと移動し、待つことおよそ十分で奈良行きの急行列車は姿を現したのでした。だが、ソレはどうも薄汚れておるような、哀愁というモノを全く拒絶致しておる単なる小汚い列車であった。そうして、中はそれなりに混雑してあるようで、生憎立ち乗りでございます。
ニット帽を深く被り、ソロリと電車に入り込み、車内を見渡しますと若いカップルから老夫婦まで、または私と同年代の学生風の女、家を飛び出して来たまんまの粗雑な服装をした中年男性まで、なかなか多彩な身分のモノが乗車していたのでありました。私は近鉄列車なるモノを今日に至るまでおよそ2回ほどしか利用していないと記憶するが、果たせる哉、何時乗っても状態が芳しくない。要するに発車が良くないのです。扉が閉まると、“チンチン”とどこかしら懐かしさを感じさせる鈴の音のような音を鳴らした後、キュッ、とスピードを上げて動き出さんとするので、慣れない身は思わず前へと振られてしまう。しかして、どうやら慣れていないのは私だけのようで、何度も前にフラついておるようなモノは他に見かけず一人だけフラフラしておったので、多少の羞恥心を感ずる。
先を急ごう。当初、私の知り得る限りでは三十分も待てば奈良へ到着すると思い込んでいたのであったが、いやはや如何なる事態か。列車はどんどん山間部へと入り込んでゆくではないか。鶴橋駅から発車して十分、十五分…待てども待てども次の駅へ到着する気配がない。乗り込んだ列車は紛うコト無き奈良行きであるが、コレは如何なるコトであると申しますのでしょうか。気が短い私は当然の如くイライラし始める。外はいつの間にか長閑な畑や密集した墓地が見えるような山間部へと突入しておるのです。窓外に見える景色とは対照的に私のココロは穏やかでなくなり、「オイッ、早く着け」と理不尽な怒りを抱くも、悠長に走り続ける列車―オイオイ!どういうコトじゃ!遠過ぎる…と怒りが喉元まで来った時、漸くにして次の駅が目前に。一安心。予想外の怒りにより、到着前にして疲労感が漂い始めます。おまけに腰に違和感も。嗚呼、俺の旅もココまでか、と思わずにはおれないのであった。


何たる事態! 限られたスペースにも関わらず、まだ東大寺にすら到着しておらんではないか。コレでは駄目だ。腰痛も糞も忘れてしまおう。誰も旅行記などを書く気は無いのであり、やむを得ず電車内のコトは此の辺にして、場所を移さんではないか。


というコトで、(近鉄)奈良駅へと到着致したのです。さすがに県庁が眼前にありますコトもあって、若者やら学生やら老人やらサラリーマンやらでそれなりに賑わっておる。その駅前には看板が設立されてあり、それを見るに「東大寺1.5km」と記されておる。成る程、それだけ歩かねばならぬか。仕方あるまい。目的の「正倉院展」は東大寺ではあらず、その近隣に設立されたる「奈良国立博物館」にて開催されておるのであるが、まずは東大寺へと赴こうとするのであった。
東大寺へと向かう歩道を歩むに、カメラを大事そうに抱えた欧米系のオッサンやらアジア系のモノが多くを占めておる。言うでもなく旅行者である。そして其れに負けず劣らず学生の姿が見える。コチラも旅行者、修学旅行生であろう。私も中学の修学旅行で東大寺を訪れたモンだ。此の場に来るのはあの時以来か、と多少過去を振り返る。が、今は後ろを振り向く時ではあらぬ。いざ、東大寺へ。歩みは一直線!
歩道を数百メートルも進むと、奈良公園名物の鹿たちの御出迎えです。しかし、哀れなる哉、どの鹿たちもツノがバッサリと根こそぎ切断されておるではないか。おそらくは人々に危害を加えぬようにと、係のモノが定期的に切っておるのであろうが、いやはや、ツノを切られた鹿は実に迫力が無い。「とくダネ」の小倉さんに被り物があって当然のように、鹿にはツノがあって当然ではないか。にも関わらず、奈良公園周辺における鹿たちは例外無くツノが切られておるのである。しかも切られた跡がハッキリと視認できるため、尚更寂寥感に駆られる。鹿にとってツノは<一種のアイデンティティー>ではありませぬか。ソレを奪われた鹿に、私は何を見出せば良いのであろう。畢竟、ソレは鹿でもロバでも宜しい。其処におるのは鹿であり鹿で非ず。いきなり寂しさに襲われたのであった。子供や陽気な外国人たちは名物“鹿せんべい”を購入し、楽しそうに与えており、またカメラを抱えた人々の中には鹿をフィルムに収めんとしてカメラを構えておるのであったが、果たして象徴を喪失した鹿を美しく、自然に撮れるであろうか。斯様なコトを思いながら、歩むこと五分弱、愈々東大寺が視界に入り始めたのです。中学生らしきモノたちに加え、幼稚園児や体操服姿の集団も姿を見せる。おそらくアレは地元の学生が遠足で来たっておるのでありましょう。しかし、体操服でお寺巡りとは、恥ずかしいねぇ。などと要らぬ同情を持ちつつ目線を上げると、目前には古めかしきも壮大な木造の門―国宝南大門が雄大にそびえ立っておったのです。


明日に続く。

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