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2008年10月27日

2008年10月27日 イメージを

前回アホなコトを記し上げてしまったばかりに風邪気味に陥る。
日経平均とともに体調も下降気味なのでした。
日々精進します。精進、精進、消尽・・・

2008年10月25日

2008年10月25日 オレは外人

……もうイヤだ。日本人なんてイヤだ。外人が良い。外人に生まれたかった…


・・・・・・・・・んっ!? 待てよ。ポルトガル人からすればオレは「外人」じゃないか。イヤ、ポルトガル人に限らずオランダ人だってイラン人だってキューバ人だってオレを「外人」と言うだろう。


よっしゃぁぁぁあああああー!!!! オレ「外人」じゃん!!!!
オレって何人? 外人だあああああああ!!!! Yes,I do. Yes,I can.


もう怖いモノなんてねぇぜ〜〜〜
革命でも天変地異でも温暖化でも何でも来いってんだぁぁあああ!!!
だって、オレは、外人だからよ

2008年10月23日

2008年10月23日 「人権イデオロギスト」への勘繰り

愈々「相棒」が始まった。昨日の二時間は、二時間では物足りぬくらいの内容であった。──「特命が引っ張ってきたから確度は高いかと」ってセリフにはやられた──
このドラマが開始されると、最早秋であったり冬であったり春であったり、斯かる多様な季節感の包含。それにしても、改めていうまでもなく、何時の間にか、登場人物の多様なコト豊富なコト。映画のヒットもありまして、「大人気ドラマ」の感も否応無く発揮しているのですが、何年か前までは結構地味な雰囲気で放送されていたはず… それが今や一大刑事ドラマ!
ま、そーゆーコトもあろー


ところで、
本日の産經新聞「断」のコーナーに呉智英氏が立派なコラムを執筆されておられる。


職業に「貴賤」あり


職業には好まれる職業と嫌悪される職業がある。とすれば究極的には「職業に貴賤あり」を認めなければならない。この厳然たる事実から目をそむけて良識というイデオロギーが成立している(左右ともに同じ)。「紙の爆弾」(という雑誌があるんです)十一月号で、ルポライターの深笛義也がエロを蔑むエロ業界人を批判している。エロを蔑むエロ業界人のどこがいかんのか、私には理解できない。深笛やその御眷属は、職業に貴賤はなく、むしろ最下層の職業ほど本当は高貴だとする最悪の人権イデオロギストである。


慰安婦が、強制によるにしろ自由意思によるにしろ、救済・支援の対象になるのは、それが最下層の職業だからだ。軍医が、強制による(ないだろうが)にしろ自由意思によるにしろ、救済・支援の対象にならないのは、医者という憧れの最上層の職業だからだ。


後段の一文に対しては、或いは反発があるかもしれぬが、前段については全く以て同意せざるを得ないのでして、むしろこのような当たり前のコトが書かれねばならぬってその事情が奇怪ではないか。ねじ曲がっているのか、“自称”善意のヒューマニストが。果たして呉氏の述べる「人権イデオロギスト」なるモノの跳梁跋扈が如何ほどであるかは存じ上げませんが、仮に(“窮極的”なトコロの)「職業の貴賤」を否定するような連中が存しておるのでしたら、ソレはソレは誠に偽善者という他なく、斯かる見識を保持する輩こそ正に「賤」の立場にある。


コレをバークのいう「(理性折り込み済みの)偏見」と合わせて考えるコトも無理ではない。極端なハナシ、全ての職業が同一地平に置かれるべきだ、平等に扱われるべきだというのならば、待遇の芳しくない肉体労働者は絶対的に改善されねばならぬでしょう。いや、他方で、例えば能書きを垂れて下らぬ論文しか執筆できぬ其処等の大学教授こそ、殊に給料泥棒というべきでして、彼らなぞは月収が二〇万前後に抑えられて当然である。ソレがなされぬのはなぜか。明らかに愚劣な教授でも(イメージの世界で)「貴」の身分に祀り上げられるのはどうしてか。ココに「偏見」が備わる。「偏見」があるからこそ愚劣な教授がのさばる一方で、有能な若い人々が常にその座を追撃す。畢竟こうした事情が職業選択の自由へと結びつき、ソコに競争が発生し、私や彼や貴方や「人権イデオロギスト」の中から何モノかが淘汰される事態へと向かい、而してソレが自由主義経済を根底で維持しておるコトの明証。今日の社会にあっては「偏見」に由来する(“窮極的”もしくは“根源的”な部分における)「職業の貴賤」の意識が存在しているがために、各自に自由な活動が保障される、そしてソレがどこかで発展へと至り、または一定の秩序・性質を保つ。「偏見」なき平等社会(斯様なモノは元来存在し得ないが)では、すべて停滞致しますのです。仮令「職業の貴賤」などはあり得なく、全てが対等なのだと放言致せば、ソレは(極言すると)社会主義への急接近を明らかにしていらっしゃる。「人権イデオロギスト」なるモノがおられるのでしたなら、彼はもしかすると実体不明の「格差」に対する怨嗟の故に、全てを均一にし、各職業が有する機能を相対化し、挙げ句無に帰し、各人の生活が計画的に誘導されるが如き<強制の下におけるユートピア(=社会主義)>を理想として奉戴されているのではないか、などと勘繰らざるを得ないんでした。ソコではもうモラルもマナーも関係ねぇ。全員高貴なんです。ってコトは全員粗野だってコトでもある。皆が金持ちだってのは、その世界では皆がビンボーなんですから。そういう社会は、嗚呼、実に素晴らしいんだと思いたいのでした。

2008年10月21日

2008年10月21日 御伽の背景を楽しむ

「雪男の足跡発見」 ネパールで日本捜索隊


 21日付のインド紙タイムズ・オブ・インディアは、日本人登山家らで構成する捜索隊が、ヒマラヤにいるとされる雪男(イエティ)の足跡をネパール・ダウラギリ山群で発見、写真撮影に成功したと報じた。(中略)足跡はクマやサル、シカなどの動物の形状と異なる上、標高4000メートルまで登ってくることはないことなどを根拠に、「足跡はイエティのものと確信を持っている」(高橋氏)という。


な、なんだってぇぇぇえええええ!!!!


と、まぁ、驚いたフリを致したワケなのでございました。然るに当方は斯様な話題を大いに好む傾向にあり。而して通常はこうしたモノを「バカげていらぁ」と一蹴するコトは誠に容易でありますが、しかしながら、コレを受容するコトは甚だしく困難を極める。「未確認生物」と申すモノは、よくよく思慮してみるに、あくまでも「確認」されておらぬだけですから、万が一として、確かに存在しておりますかもしれぬ。が、他方で全くのデマ、ウソ、狂気の沙汰のでっちあげの可能性も濃厚。──ソレなら後者に賭けちまえってなのが現代の風潮であるのなら、私は・・・韮澤サンの方を見ても良い気がする。言ってみれば、斯かるモノの当否を巡りて闘わされる議論なんてのも、コレは一種の「遊び」でありまして、昔はそのような習わしが無数に存したのです。この点に関してはヨハン・ホイジンガが周知の如く、かの名著『ホモ・ルーデンス』において展開しているコトでもある。一九世紀以降、科学、工業、経済的因子の重要視、合理主義等への偏重によって、我々の生活から「遊び」が駆逐されてしまっておる、まったく以てくだらねー世界だな、チクショー!とホイジンガは内心思っていた(はず)のでして、私からすれば、実際にこうした「イエティ」なる存在は明確に確認されなくても宜しい、と思うのでした。重要なのは、人々が未知の存在に如何にロマンや希望、夢、大志を感じられるかではございますまいか。自己を超越したモノ、人知の及ばぬモノへの敬意……科学が嘲笑するそのようなモノへの眼差しがあれば、多少は心持ちも異なってくるであろうに… なんて思わずにはおれん。


例えば、桃太郎にしても「ガキが桃から生まれるなんてバカバカしいにも程があるぜぇ」なんて斥けてはいけない、と私は思っているのだけれども…
むしろそのような物語が世に蔓延った背景にこそ興味深い点が存するのです。現に、手っ取り早くamazonにおいて和書の「人文・思想」ジャンルで「桃太郎」を検索してみれば、その存在をテーマとした研究書が数多散見されるではないか! 私も軽く触れてみたことがあるのですが、どうやら「桃太郎」というお伽噺を創作した連中からすれば、彼を桃から生まれる設定にしたのも、鬼退治へ向かわしめたのも、全て必然的な理由がある。一見「バカバカしい」と想定されるコトにも、何らかの意図が仮託されております。ソコを探るのが楽しいちゃあ楽しいワケであろう。
一例をあげれば、「桃太郎」とは権力者の象徴であって、鬼とは無垢な民衆の象徴だったんだ!とする研究が幾つか披瀝されている(こうしたテーマに関する小論が屢々學燈社の雑誌『國文學』に掲載されております)。要するにコレは、正義面した桃太郎たる権力者が、(鬼とされた)哀れな民衆を制圧するために侵入してきたってコトを、(権力者側が正当化する為に)鬼退治になぞらえて語りあげたのが桃太郎の母体でありまっせ、という一見解なのでした。ココには民衆の側に立った権力者敵視の思想が展開されていますが、戦時中に桃太郎と権力者及びメディアの間に密接な関係が取り結ばれたコトなども考察致せば、この解釈も一概にはバカにできない。桃太郎はそのヒーロー像が結構都合良く利用されていらっしゃる。
私としては桃太郎に奇妙さを感ずるのは、村人を虐める鬼をやっつけるために鬼退治へと出たは良いものの、なぜ「金銀財宝」を持参して帰還するのかって点。鬼どもが村人から「金銀財宝」を奪取するハズがない。というより、村人は斯様なお宝を所持しておらん。となれば、桃太郎が持ち帰った「金銀財宝」は誰のモノであるか!? 鬼共から取り返したなんて説明は成立不可能である。 いやはや、まったく解せませぬ。 たった一つだけハッキリしておりますコト、ソレすなわち、桃太郎は火事場泥棒的性格の持ち主であって、必ずしも正義の味方などではないという事実。むしろ敗者に対する情け容赦のない、日本男児の理想を全面的に裏切る残念なヤツだ。あと、ソコに加えるならば、鬼と格闘する際にあっても、実際、犬・猿・雉に負う所大なる故に、この男、実は愚人である、ヘタレである。決してヒーローではございません。むしろお笑い的要素の方がふんだんに盛られているのですから、今日に伝わっておるが如きストーリー展開の桃太郎は色々と破綻している、と指摘するコトができます。おそらく初期の桃太郎はもう少しマトモなハナシだったのであろうが、時間を経る毎に、噂話によくありますのと同様、尾ひれがつき、翼が生え、牙が出てきて、異様な姿形──原型とは異なったモノへと化したのでしょう。その変遷過程にロマンや希望、夢、大志を感じられれば、(今日の)桃太郎みたいなダメ人間を相手にするハナシも大いに愉快になり得る。
また、現代の権力者もしくはメディアにあっては、もう今更桃太郎の威を借るコト能わず、そのストーリーを再構築せねばならぬ。今度は赤ちゃんポストから生まれた男が、スイーツを持参して、ミニチュアダックスフンド・コモンマーモセット・サンショクキムネオオハシを率いて六本木ヒルズに攻め込むって設定にでもしますか?

2008年10月17日

2008年10月17日 競ギャ・馬グ マンガ

たいようのマキバオー4巻「たいようのマキバオー」5巻でっせ。以下雑記。
文太も力を発揮し始めてきておりまして、愈々本格的に「来たな」との感慨もそれなりに。しかし「みどりのマキバオー」と比すれば、やはりスローペースに話が進む。つの丸先生が仕事さぼってYoutubeやニコニコ動画を見られておるからでしょうか?(カバー袖及び表紙参照)


話は九州、佐賀へと。遠征でごわす。
「ギガモッコス」は素晴らしいキャラだ。ベアナックルを彷彿とさせる。(そのベアナックルも「像」として登場しますが)
もう一方の「フラットビッキー」はカスケード産駒なのね。「マキバオー」史上最も人相…ならぬ馬相の宜しくないヤツだ。鬣(たてがみ)にその面影を垣間見るコトはできるのだけど、こりゃ過激に過ぎる。パンクロッカーに変貌したカスケードだ。而してプライドの高さはお父さんと瓜二つの如し…


レースの結果までには敢えて触れませんが、ただ一つ、ハヤトは私が勝手に思っていたよりも何倍も立派なジョッキーなんだ。少なくとも親分と共にミドリマキバオーに騎乗しておった時の菅助よりは度量がありそうな予感を感じさせる(とはいえ、彼は中央のジョッキーになれなかったのですが)。
あと、余分にもう一つ──「荒炎賞」の第三コーナーのインの突き方を見て、菊花賞を連想してしまったのは、果たして何処の誰でございましょう?


手短に綴って参りました。
この5巻全体を通じて宜しかった点をあげますと、それは他ならぬ「競馬マンガ」と「ギャグマンガ」のバランスが見事に均衡した点にこそ求められよう! 新たな領域へと向かい始めたか!? すなわち、「たいようのマキバオー」はココに至り両者を融合せしめた「競馬・ギャグ漫画」/「ギャグ・競馬漫画」ならぬ「競ギャ・馬グ(けいぎゃまぐ)マンガ」なる荒野へと単独で侵入致したのではあらぬか、などと他愛もなきコトを発言したいのであった。
他方、登場するキャラが目紛しく変転するため、どの馬が誰であるかを見分けるのに困難だってなトラブルも生じておるような気配をそこはかとなく感ずる。この点に関しては、まぁ、文太が強くなりまして、重賞に挑戦できるといった状態へと進めば克服されるのであろうけど、それは……何時!?


終わりに疑問を。「ダービーグランプリ」、存続している設定かい?


参考リンク:射程圏内? (4巻の感想文です。)

2008年10月11日

2008年10月11日 間断期

内外に多忙を極める時期になって参りましたので、引きこもりの努力で以て力戦奮闘致さねばならぬ由、何人たりともに期待されぬ当ブログも十一月上旬くらいまでは滞りがちになるであろう…というよりも、滞らせるくらいの気概で放置。


福田恆存「傳統にたいする心構」は非常に良い評論だと思う。
ソレは是非とも書いて置きたかった。

2008年10月08日

2008年10月08日 仁王立ちする悪魔

中高生に1箱千円が効果的=禁煙分岐点、「大人より高い」−9万人調査・厚労省


たばこを吸う中学生、高校生を禁煙させるには、1箱1000円以上にすることが効果的との研究結果を、厚生労働省研究班(主任研究者・大井田隆日大医学部教授)が8日公表した。同教授は「分岐点の価格が大人より高い可能性がある。未成年者の喫煙率をゼロにするため、思い切った値上げが必要」としている。


タバコに関わるモノは、一切が悉く気狂いと化してしまうようであります。彼らは値段の問題として、愚かなる経済的視点から効用を明らかにするといった精神的荒廃を見せるに至った。世の中資本次第で如何様にでもなるといわんばかりの、ある種の極限にまで達した合理主義的思考!
私はタバコを心底嫌悪するモノですが、極端に急激な値上げには反対をしておるのでした。ソレは低劣な喫煙者を庇ってのものでは毛頭無く、そうした人為的な価格統制が及ぼす諸種の悪影響を思ってのコトであり、タバコに関わらず如何なる商品であっても、原材料の不足とかといった事態とは無関係の事実に由来して、突発的に価格を操作するのは芳しくないって心理的背景。上げるなら漸進的に。


それで…… 空虚な糞餓鬼の喫煙問題について、お金の次元で解決を図ろうとするが如き事態に至っては、もはや一つの末期的症状を呈しているとしか言いようがなく、おそらく彼らは裕福な中高校生の喫煙に対しては、経済学的な視点から容認するかもしれん。──何でも価格及び市場の操作によって解決ですか! そもそも「未成年者の喫煙率をゼロにするため」、「1箱1000円以上にすることが効果的」との見解は意味不明でございましょう。一箱千円にするコトで中高生の喫煙率が「ゼロ」になると想定する御目出度い発想には脱帽せざるを得ないんだが、コレは我が国が憲法9条を護持してきたが故に、戦後六〇年の間、実に見事な平和が維持されて来ったと本気で捉える論者と表裏一体をなす脳天気な見識であります。9条が存しなければ、平和ももたらされぬのか。千円にしなければ、喫煙率はゼロにならぬのか。彼らは一様にその背後にある力や意志…斯かるモノへの配慮が欠けている。ソレは徹頭徹尾他人任せな視点でして、言うなれば、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」との中学生の作文レベルの代物と一歩も変わるトコロのない決意表明だ。この場合、主体は己にあらず。
而して話を再度振り戻せば、連中は中高生の喫煙問題にしても、「もはや昨今のガキ共は言っても聞き入れるだけの能力がないから、経済的制裁でコントロールしてやれ!」との無機質な見解を放り投げるのみではないか。(これを逆転させた発想が現行憲法の前文であるコトは、猿でも解せる。「オレたちは強く信じてるから、アイツらも信じてくれるだろう」ってな根拠不在の良心に基づき、他国をまぁコントロール可能なものであろうと本気で思慮する無鉄砲さ!!) 畢竟するに、自らの意志でどうにかしてやろう!という次元に視点は置かれず、間接的なモノに依存しているだけなんだ。ソレが金銭的に独立しておらぬ中高生に対する「1000円」なる価格として現出するにしろ、他国の「公正と信義」として表明されるにしろ、いっさいは楽観的に決断されてゆく。


タバコに関していえば、安いから彼らは吸うのか。アンタら、立場的に「未成年であっても購入できるだけの金銭的余裕があれば、別に吸っても良いよ」とは言えないでしょ? にも関わらず価格の問題として処理しようという馬鹿げた見解を披瀝する厚労省の研究班。──民間の研究グループではないのだ! 平和が9条のおかげではなく、事実上米軍という一種の「強制機構」の存在に負うトコロが大きいのを覆い隠します9条神格化論者と、喫煙の問題を経済的な「強制措置」で解決可能なモノと看做す哀れなる研究者。恐るべきほどに崩れ去った一面生しか見ようとはせぬ人々よ、前者にあっては現実感が、後者にあっては公徳心もしくは遵法精神がまったく欠落しておる。まるでどこぞの論者が好き好んで主張致すように、「戦後民主主義的特徴」を兼ね備えたが如き雰囲気、彼らは二つで一つ。この両者を逆立ちさせて握手させれば、きっと素晴らしい景観が拝めるのだろうけど・・・

2008年10月07日

2008年10月07日 “元”日本人

ノーベル賞授賞理由 日本人3氏


南部陽一郎、小林誠、益川敏英3氏の授賞理由の要旨は次の通り。


南部氏は1960年という早い時期に「自発的対称性の破れ」という極めて有用な理論を提唱、素粒子物理学の基盤を形成した。この理論に基づき、これまでに、自然界に存在する4つの基本的な力のうち3つが1つの理論に統一された。


やはり気になるコトですので、わざわざココに記すのですが、南部氏はアメリカに帰化してまっせ。ってコトは「元日本人」で「現アメリカ人」と認識しなければならぬ。ラモスや曙や旭天鵬や三都主や闘莉王といったヒトたちを思い返せば宜しい。彼らは皆日本人だ! 国家間におけるルール上はそうでありましょう。


いやはや、南部氏を貶めようなどという大それて無礼な野心はございません。ただ、現在の国籍によって何人であるかを区別しないのであれば、コチャゴチャになってしまうではないか!と述べたき心境。日本に帰化しておらぬ凶悪な在日韓国人や在日中国人は、国籍が他国にある以上<日本人>ではない。その点については易々と受容するヒトが存したとして、然るに他国に帰化したモノまでをも「(現)日本人」であるかの如く扱うのでありましたならば、ソレは何たる捻れか。「日本人」なる響きのなかには、暗黙裡に「日本国籍所有者」との意味合いが伴っておる。斯様なコトは自明であるが故に、普段は誰も言いません。従って日本国籍を所持せぬモノを「日本人」と称するのは一種の誤解でありますから、これはいけない。どうしてもいけない。私は斯様な点については、結構厳格でありたい。だから、初め日本人であって他国へ帰化したヒトに対しては、言うなれば「日本出身者」とでもお呼びすべきで、「日本人」と呼ぶのには違和感がある。──「〜人」ってのは、あくまでも現時点の国籍の所在によって決まるモノだと思うんです。故に次のようなコトだって言える。すなわち、仮に祖父母が共に「元日本人」でありながら、双方イギリスに帰化しておったとする。そうすると彼らのお子様は必然的にイギリス籍を持つ「イギリス人」として扱われる。けれども外見は日本人っぽい。そしてそのお子様が後に結婚する運びとなり、お相手も自らと同様の境遇にある日系イギリス人。さすれば彼らのお子様も必然的に外見は日本人の如き様相を呈す。さて、そうしたとき、祖父母が「元日本人」のイギリス人であり、両親が「日系イギリス人」でありましたなら、三代目の彼に対して誰が「日本人」だといえるか。人種としては日本人のソレであるが、ルール上はイギリス人。…コレは凄まじい例なんですが、とにもかくにも「〜人」ってのは徹底して国籍に基づくってコト。レゲエをやってそうなヤバイ雰囲気のドレッドヘアの黒人がございまして、彼の国籍が日本であれば、そのモノを「ジャマイカ人」であるとは絶対的に言えないのでして、やはり「日本人」とせねばならない。ロシア生まれの世界的に有名な殺人鬼がおり、そのモノが日本国籍を所有していたのでしたら、コレを「日本人」の殺人鬼と看做さなければならない。この例を逆に申し上げれば、親子三代に渡って天才的な頭脳を持つ家系に生まれた在日の日系ドイツ人「シュミット・三郎」氏、彼は見事にノーベル賞を獲得した。が、氏には何と日本国籍が付与されていない!…となると、なかなかどうしてそのモノを「日本人」受賞者だと認定するワケにゃあいかねーぜ。そりゃドイツ人受賞者だ。参考記録だ。残念ながら。もしくは両親の外見が典型的なアングロ・サクソンでありながら国籍は日本、彼らの子が優秀な研究者となりアメリカの大学で活躍、ノーベル賞を受賞。彼がアメリカに帰国しておらねば、当然容姿など関係なく、日本人受賞者としてすんなり受け入れるべき。


・・・というハナシで、南部陽一郎、小林誠、益川敏英の三氏は誠に御目出度う御座居ます。二人の日本人と、日本出身のアメリカ人の方が「ノーベル物理学賞」を受賞されたという立派なニュースについて書かせて頂きました。


参考リンク1:2 Japanese, 1 American share Nobel physics prize
参考リンク2:US, Japanese researchers win Nobel Prize for Physics
参考リンク3:2 Japanese, American Share Nobel Physics Prize
参考リンク4:1 American, 2 Japanese Share Nobel Physics Prize

2008年10月06日

2008年10月06日 「社会的」の謎

ひるドラ「キッパリ!!」が打ち切られるらしい


10月5日まで放送してまいりました「キッパリ!!」の
出演者の一人が覚せい剤と大麻所持で逮捕されたことが判りました。
このため、社会的影響を考慮し「キッパリ!!」は、10月3日(金)放送分第25話で打ち切りいたします。


ココで気になるのは「社会的影響」とは何を指していらっしゃるのかが甚だ曖昧である点。この場合の「社会的」なる言葉の裏には果たして如何なる心理的、思想的、情緒的イメージが想定されておるのか。たった一人の出演者が逮捕されたコトと、このドラマの熱心なファンの意に反して突然打ち切りを決定致すことに、どのような「社会的」結びつきがあるのか…
すなわち、「社会的影響」などという意味不明な言葉を用いるからいけないのであって、「キッパリ!!」と「主要人物が逮捕されました。この人物を映さずに放送することはストーリー上無理がありますので、ココにやむを得なく放送中止とさせて頂きます。」とでも正直に書けば宜しい。冗長であっても、斯かる書き方の方がよほど素直です。「社会的影響」などという一語で以て誤魔化そうとするのは、酷い隠蔽体質の現れではあらぬか。「社会的影響」──ハイエクが『法と立法と自由』の第二巻において「社会的正義」なる言葉の曖昧さと卑猥さについて怒りを込めて言及していたのを思い出す。


しかしながら、考えようによってはこの五文字は使える!! 何かが生じれば「社会的影響」の名の下に幾らでも批難できるし、逆に弁護するコトも可能であろう。実体不明の抽象的な「社会」を盾にとるコトによって、<正義>はコチラ側に味方する。こんなに利便性のある言葉も珍しいってモンだ。

2008年10月05日

2008年10月05日 一分間勝負

今から一分で書けるトコロまで書く。1minutesでブログを更新し申し上げる。
ヨーイ、スタート!
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先日から肩や腕が痛かったので薬局へ行き「タイガーバーム」を購入致したのですが、コレはやはり凄まじく効力がある。臭いけど、臭過ぎるけど、もうほぼ完治。二日くらいで。


先日の木曜洋画劇場で放映された「セルラー」は何度見てもおか


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終わり。
コレだけしか綴れなかった。何という無内容な・・・

2008年10月02日

2008年10月02日 誰もいない

「自分がいた」って雰囲気の表現がいけ好かないのです。曰く、
「後悔している自分がいた」「涙を流している私がいた」「思わず断崖から飛び降りちゃってる私がいた」……中にはご丁寧に「そこには」なんてモノまで付着させちゃいまして、「そこには微睡みながらも前進するしかないと亡き母に誓った自分がいた」なんて申し上げてしまう可愛い小娘共よ。何でございましょうか! 斯様に唐突な己の客観視は。あたかも自己意識が希薄で、多重人格よろしく或る行動に出た動機を一切見ず知らずってな、虚妄な精神の流布。怒りに狂い切って「キレる」少年、犯行時には正常な意識が保持されていませんで、彼に責任能力の判断は能わずとでも言わんばかりの迷妄告白、ソレは大いなる矛盾。「片手に包丁、片手に魚、鱗を取っている自分がいた」──取れなくても私に責任(能力)はございません。なぜならば途中迄(事実上、終盤迄)、私に健常な意識はございませんでしたので……
コレは極めて危険な状態であると言わざるを得ないのではないでしょうか。この「自分がいた」という五文字は、<無責任>を象徴する魔性の言葉であって、図らずも現代の砂上楼閣的な、風が吹けば一瞬にして瓦解しかねない彼や彼女、オレやオマエ、アイツやコイツの適当かつ理不尽、挙げ句には蒙昧にして投げやりな意識を端的に表出したモノの如き哉。
己の意識や感情すらまともに把握できぬ現代の空虚な精神状況、嗚呼、ヒトは、同一人は、年間に幾度斯かる五文字を用いて自らの正体を暴露するコトよ! 生涯にたった一度ではないのだ! 彼奴は何かあれば「自分がいた」と、己の発見。一体何を理解して何を理解しておらぬのか! 全ての景観は蜃気楼の如くまやかしの実体であると述べますか? 一方で「自分探し」が流行り、かと思うに他方では「自分がいた」の自己認識完了。結局ソレって、実際のハナシ、全然己を“探し当てられていない”し、真っ当に自らの姿を掌握できていませんってコトではありますまいか。──「自分探し」と「自分がいた」──これらは意味をなさぬ表裏一体、前者によって後者を演繹してくることは絶対的に不可能であり、また後者から前者(が本来得られるはずの解答)を帰納するってな芸当も悪魔的に無理な仕業。本当はいるようでいないんです。嘘つきなんです。


ふぅ、今日はこんな感じで良いだろう…

・・・け、けんきょうふかい? そんな難しい言葉知りません><

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