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2008年10月21日 御伽の背景を楽しむ

「雪男の足跡発見」 ネパールで日本捜索隊


 21日付のインド紙タイムズ・オブ・インディアは、日本人登山家らで構成する捜索隊が、ヒマラヤにいるとされる雪男(イエティ)の足跡をネパール・ダウラギリ山群で発見、写真撮影に成功したと報じた。(中略)足跡はクマやサル、シカなどの動物の形状と異なる上、標高4000メートルまで登ってくることはないことなどを根拠に、「足跡はイエティのものと確信を持っている」(高橋氏)という。


な、なんだってぇぇぇえええええ!!!!


と、まぁ、驚いたフリを致したワケなのでございました。然るに当方は斯様な話題を大いに好む傾向にあり。而して通常はこうしたモノを「バカげていらぁ」と一蹴するコトは誠に容易でありますが、しかしながら、コレを受容するコトは甚だしく困難を極める。「未確認生物」と申すモノは、よくよく思慮してみるに、あくまでも「確認」されておらぬだけですから、万が一として、確かに存在しておりますかもしれぬ。が、他方で全くのデマ、ウソ、狂気の沙汰のでっちあげの可能性も濃厚。──ソレなら後者に賭けちまえってなのが現代の風潮であるのなら、私は・・・韮澤サンの方を見ても良い気がする。言ってみれば、斯かるモノの当否を巡りて闘わされる議論なんてのも、コレは一種の「遊び」でありまして、昔はそのような習わしが無数に存したのです。この点に関してはヨハン・ホイジンガが周知の如く、かの名著『ホモ・ルーデンス』において展開しているコトでもある。一九世紀以降、科学、工業、経済的因子の重要視、合理主義等への偏重によって、我々の生活から「遊び」が駆逐されてしまっておる、まったく以てくだらねー世界だな、チクショー!とホイジンガは内心思っていた(はず)のでして、私からすれば、実際にこうした「イエティ」なる存在は明確に確認されなくても宜しい、と思うのでした。重要なのは、人々が未知の存在に如何にロマンや希望、夢、大志を感じられるかではございますまいか。自己を超越したモノ、人知の及ばぬモノへの敬意……科学が嘲笑するそのようなモノへの眼差しがあれば、多少は心持ちも異なってくるであろうに… なんて思わずにはおれん。


例えば、桃太郎にしても「ガキが桃から生まれるなんてバカバカしいにも程があるぜぇ」なんて斥けてはいけない、と私は思っているのだけれども…
むしろそのような物語が世に蔓延った背景にこそ興味深い点が存するのです。現に、手っ取り早くamazonにおいて和書の「人文・思想」ジャンルで「桃太郎」を検索してみれば、その存在をテーマとした研究書が数多散見されるではないか! 私も軽く触れてみたことがあるのですが、どうやら「桃太郎」というお伽噺を創作した連中からすれば、彼を桃から生まれる設定にしたのも、鬼退治へ向かわしめたのも、全て必然的な理由がある。一見「バカバカしい」と想定されるコトにも、何らかの意図が仮託されております。ソコを探るのが楽しいちゃあ楽しいワケであろう。
一例をあげれば、「桃太郎」とは権力者の象徴であって、鬼とは無垢な民衆の象徴だったんだ!とする研究が幾つか披瀝されている(こうしたテーマに関する小論が屢々學燈社の雑誌『國文學』に掲載されております)。要するにコレは、正義面した桃太郎たる権力者が、(鬼とされた)哀れな民衆を制圧するために侵入してきたってコトを、(権力者側が正当化する為に)鬼退治になぞらえて語りあげたのが桃太郎の母体でありまっせ、という一見解なのでした。ココには民衆の側に立った権力者敵視の思想が展開されていますが、戦時中に桃太郎と権力者及びメディアの間に密接な関係が取り結ばれたコトなども考察致せば、この解釈も一概にはバカにできない。桃太郎はそのヒーロー像が結構都合良く利用されていらっしゃる。
私としては桃太郎に奇妙さを感ずるのは、村人を虐める鬼をやっつけるために鬼退治へと出たは良いものの、なぜ「金銀財宝」を持参して帰還するのかって点。鬼どもが村人から「金銀財宝」を奪取するハズがない。というより、村人は斯様なお宝を所持しておらん。となれば、桃太郎が持ち帰った「金銀財宝」は誰のモノであるか!? 鬼共から取り返したなんて説明は成立不可能である。 いやはや、まったく解せませぬ。 たった一つだけハッキリしておりますコト、ソレすなわち、桃太郎は火事場泥棒的性格の持ち主であって、必ずしも正義の味方などではないという事実。むしろ敗者に対する情け容赦のない、日本男児の理想を全面的に裏切る残念なヤツだ。あと、ソコに加えるならば、鬼と格闘する際にあっても、実際、犬・猿・雉に負う所大なる故に、この男、実は愚人である、ヘタレである。決してヒーローではございません。むしろお笑い的要素の方がふんだんに盛られているのですから、今日に伝わっておるが如きストーリー展開の桃太郎は色々と破綻している、と指摘するコトができます。おそらく初期の桃太郎はもう少しマトモなハナシだったのであろうが、時間を経る毎に、噂話によくありますのと同様、尾ひれがつき、翼が生え、牙が出てきて、異様な姿形──原型とは異なったモノへと化したのでしょう。その変遷過程にロマンや希望、夢、大志を感じられれば、(今日の)桃太郎みたいなダメ人間を相手にするハナシも大いに愉快になり得る。
また、現代の権力者もしくはメディアにあっては、もう今更桃太郎の威を借るコト能わず、そのストーリーを再構築せねばならぬ。今度は赤ちゃんポストから生まれた男が、スイーツを持参して、ミニチュアダックスフンド・コモンマーモセット・サンショクキムネオオハシを率いて六本木ヒルズに攻め込むって設定にでもしますか?

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