« 御伽の背景を楽しむ | もどる | オレは外人 »

2008年10月23日 「人権イデオロギスト」への勘繰り

愈々「相棒」が始まった。昨日の二時間は、二時間では物足りぬくらいの内容であった。──「特命が引っ張ってきたから確度は高いかと」ってセリフにはやられた──
このドラマが開始されると、最早秋であったり冬であったり春であったり、斯かる多様な季節感の包含。それにしても、改めていうまでもなく、何時の間にか、登場人物の多様なコト豊富なコト。映画のヒットもありまして、「大人気ドラマ」の感も否応無く発揮しているのですが、何年か前までは結構地味な雰囲気で放送されていたはず… それが今や一大刑事ドラマ!
ま、そーゆーコトもあろー


ところで、
本日の産經新聞「断」のコーナーに呉智英氏が立派なコラムを執筆されておられる。


職業に「貴賤」あり


職業には好まれる職業と嫌悪される職業がある。とすれば究極的には「職業に貴賤あり」を認めなければならない。この厳然たる事実から目をそむけて良識というイデオロギーが成立している(左右ともに同じ)。「紙の爆弾」(という雑誌があるんです)十一月号で、ルポライターの深笛義也がエロを蔑むエロ業界人を批判している。エロを蔑むエロ業界人のどこがいかんのか、私には理解できない。深笛やその御眷属は、職業に貴賤はなく、むしろ最下層の職業ほど本当は高貴だとする最悪の人権イデオロギストである。


慰安婦が、強制によるにしろ自由意思によるにしろ、救済・支援の対象になるのは、それが最下層の職業だからだ。軍医が、強制による(ないだろうが)にしろ自由意思によるにしろ、救済・支援の対象にならないのは、医者という憧れの最上層の職業だからだ。


後段の一文に対しては、或いは反発があるかもしれぬが、前段については全く以て同意せざるを得ないのでして、むしろこのような当たり前のコトが書かれねばならぬってその事情が奇怪ではないか。ねじ曲がっているのか、“自称”善意のヒューマニストが。果たして呉氏の述べる「人権イデオロギスト」なるモノの跳梁跋扈が如何ほどであるかは存じ上げませんが、仮に(“窮極的”なトコロの)「職業の貴賤」を否定するような連中が存しておるのでしたら、ソレはソレは誠に偽善者という他なく、斯かる見識を保持する輩こそ正に「賤」の立場にある。


コレをバークのいう「(理性折り込み済みの)偏見」と合わせて考えるコトも無理ではない。極端なハナシ、全ての職業が同一地平に置かれるべきだ、平等に扱われるべきだというのならば、待遇の芳しくない肉体労働者は絶対的に改善されねばならぬでしょう。いや、他方で、例えば能書きを垂れて下らぬ論文しか執筆できぬ其処等の大学教授こそ、殊に給料泥棒というべきでして、彼らなぞは月収が二〇万前後に抑えられて当然である。ソレがなされぬのはなぜか。明らかに愚劣な教授でも(イメージの世界で)「貴」の身分に祀り上げられるのはどうしてか。ココに「偏見」が備わる。「偏見」があるからこそ愚劣な教授がのさばる一方で、有能な若い人々が常にその座を追撃す。畢竟こうした事情が職業選択の自由へと結びつき、ソコに競争が発生し、私や彼や貴方や「人権イデオロギスト」の中から何モノかが淘汰される事態へと向かい、而してソレが自由主義経済を根底で維持しておるコトの明証。今日の社会にあっては「偏見」に由来する(“窮極的”もしくは“根源的”な部分における)「職業の貴賤」の意識が存在しているがために、各自に自由な活動が保障される、そしてソレがどこかで発展へと至り、または一定の秩序・性質を保つ。「偏見」なき平等社会(斯様なモノは元来存在し得ないが)では、すべて停滞致しますのです。仮令「職業の貴賤」などはあり得なく、全てが対等なのだと放言致せば、ソレは(極言すると)社会主義への急接近を明らかにしていらっしゃる。「人権イデオロギスト」なるモノがおられるのでしたなら、彼はもしかすると実体不明の「格差」に対する怨嗟の故に、全てを均一にし、各職業が有する機能を相対化し、挙げ句無に帰し、各人の生活が計画的に誘導されるが如き<強制の下におけるユートピア(=社会主義)>を理想として奉戴されているのではないか、などと勘繰らざるを得ないんでした。ソコではもうモラルもマナーも関係ねぇ。全員高貴なんです。ってコトは全員粗野だってコトでもある。皆が金持ちだってのは、その世界では皆がビンボーなんですから。そういう社会は、嗚呼、実に素晴らしいんだと思いたいのでした。

« 御伽の背景を楽しむ | もどる | オレは外人 »