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2008年11月05日 大相撲と応援者について

朝青龍、休場へ


朝青龍が帰ってきました。尤も彼の場合、モンゴルに帰国し、日本に来ると表現した方が適切かもしれませんが。
朝青龍に対する風当たりは非常に強いものがあります。土俵上での振る舞い、土俵以外の場所での言動。「敵」を作る要因は多々あります。
ここでまず予め述べておいた方が良いでしょうが、私は朝青龍を全面的には支持致しません。一力士として見た場合、彼の行動は些か大胆過ぎる部分もあるからです。容易に見過ごすコトはできません。しかし、他方では、彼の相撲に対して尋常ならざる期待を寄せてきたのも事実であります。至るトコロで限界説が囁かれています。確かに土俵上で実力を出し切れる、その峠を超えた可能性は大いにあります。明けない夜が無いのと同時に暮れない昼は無いのです。けれども、思い出して欲しいのは、朝青龍という力士が如何に並々ならぬ相撲を披瀝してきたか。2〜3年前、彼がピーク時の迫力は正に「大横綱」の形容が相応しいものでした。現在、もう一人の横綱である白鵬にしても、依然として脂の乗り切っていた時期の朝青龍を超えるコトはできていません。立ち合い前の集中力、あの瞬間の目を一度でも見たコトがあるヒトならば、真実、彼がどれだけ稀有な素質を抱いていたかを、その記憶に刻み込んでいるはずだと思います。
おそらく朝青龍は九州場所を休場するでしょう。その間も彼に対する批難は轟々として止むコトが無いでしょう。横綱としての務めを全うしていないという指摘は誠に正鵠を射たものであると思います。その点に関しては彼も真摯に批判を受け止めなければいけません。その点に関する自覚は無ければなりません。果たして彼がどの様な意識を抱いているのか。残念ながら明確ではありません。
本人は怪我を治して、初場所に進退を賭ける覚悟なのでしょう。言うまでもなく、もはやそうする他にはありません。全てが問われる場所になりそうです。しかし、これは清算の場所ではない。けじめの場所なのです。ここまできたらもう後退はあり得ません。そして──今のトコロ、前進も望めません。もはや留まるか飛び降りるかの二者択一です。モチロン、その結果とて果たしてどうなるものか、全くもって何も分かりません。ここで再度述べておきたいと思います。私は愚鈍で、未練がましい性格ですので、そう易々と反旗を翻すような勇気を持ち合わせてはおりません。現在の朝青龍が如何に醜く、無様であろうとも、私は今日まで彼の相撲に関しては一貫して支持をして参りましたから──来年の話をすると鬼が笑うなどと言いますから、あまり具体的なコトは言えませんが──来年の初場所がどうなろうとも、また朝青龍に対して如何なるバッシングがなされようとも、私は彼に対して背を向けるようなコトだけはしないでおこうと思います。


当然、横綱の品位云々といった議論は確かに無視し得ないものです。その部分に関しては、彼を擁護し切れない部分で溢れ返っています。情けないハナシ、ココに大いなるジレンマがあるのです。整合性が著しく欠けています。私は以前に「相撲というものは土俵の上だけで成立するものではない。普段の生活、稽古、挨拶、習慣…それら全てが交叉したところに初めて真実の相撲といえるものが構築される」といった様なコトをココに記しました。それはモチロン今でも変わらぬ信念です。しかし、ソレも朝青龍を前にした時、途端に曖昧なモノと化してきたのも事実です。土俵上の魅力が全てを後退させた。それは他ならぬ朝青龍自身が演じた失態であるにも関わらず!
既にけじめをつけなければいけない時期がきているようです。
けれど、過去を単純に割り切って洗い流すフリをするのは、実は至極容易なコトではないでしょうか。私はそれ故懲りずに朝青龍を支持する側に立ちます。ジレンマを内包したまま彼に向かいます。向かわざるを得ません。私の場合、コレは土俵上の充実と様式美としての相撲の狭間に横たわる問題ではないかと思っているのです。今まではどちらか一方を選べば、どちらか一方を断念せざるを得なかった。その結果、自己分裂的なカタチとして、相撲を見る姿勢に大きな齟齬が生じてきます。強さと品位の両立。これは歴代横綱にとっても厄介な問題であり続けました。近年においてソレを象徴的に表現してしまったのが、朝青龍と、そして彼を礼賛した私のような応援者ではなかったかと思うのです。
この問題は容易に解決できるような代物ではありません。声に出すコトは容易だが、現実化するには難儀である。その時々に強いモノに対してハナから敵対視していれば、表面上は整合性を維持するコトができるように思われるかもしれません。しかし、実際のトコロ、そうした振る舞いは事の内奥に入り込んでいないように思われます。それでは本当の解答を導き出すコトができないのではないでしょうか。どこまでを支持し、どこからは善意の批判者となるか。そのような境界線がアッサリと発見されれば良いのですが…(結局、こうした問題については、どこかで割り切ろうとしなければいけないのかもしれません。ナイーヴ過ぎると却って混沌たる有り様を迎えてしまう。完璧主義者、潔癖性ではやっていけない。支点の不在という穴を埋め合わせる方途を模索していかねばならないと思います。)


…と、ココまで書きました。ココまで書いて自分自身に対しても、また相撲そのものに対しても、何ら確固たる見解を得られなかったので、とりあえず今回は円満に(!?)擱筆します。
改めて懸念の要点を絞り込んでおきますと、相撲の様式美を乱さぬよう信念を貫きつつ、他方で朝青龍のようなハデな相撲をとる力士の魅力を如何に受容していくか。すなわち、美と力の両立のためには、応援者はまずもって現実に対してどうあるべきか。この点に尽きるのですが…

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