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2008年11月06日 続かない物語

昨日は実に曖昧な内容の文章を記したものだと思います。自分のコトながらほとほと困惑致します。力はヒトを解放し、挙げ句彼を傲慢にする。ソレを抑止するための美──様式美、美徳、美意識…ソコに何かしらの期待を寄せてみたいと思ったまでです。エドマンド・バークの言葉が遠方から響いてくる思いです。


それにしても、知恵も美徳も欠いた自由とはそも何ものでしょう。それはおよそあり得るすべての害悪中でも最大のものです。


自由と抑制というこの対立する要素を調合して一つの首尾一貫した作品にするためには、多くの思考と、深い省察と、賢明で力に溢れ総合力ある精神とを必要とします。


『蟹工船』今日は午前中に小林多喜二の『蟹工船』を読んでいました。130〜40ページの小説なので意外とすんなり読めます。最近、この本がよく売れて、共産党シンパも増大しているようです。……が、私からは何も申し上げるコトがございません。
『蟹工船』を読んで、思わず笑ってしまいました。純粋なんですねぇ。非常に純粋。換言しますと、彼らは甘っちょろい。所謂「ブルジョワジー」に対してあと一歩、あと一手がない。ソレは彼らの置かれる立場上やむを得ないモノなのかもしれませんが、はからずもソコに戦前の共産主義運動が全くもって大した成果を上げられなかった要因が顔を覗かせているようにも思えます。(ソレを象徴しているのが新潮文庫などでは一緒に所収されている「党生活者」です。コッチはもっと傑作のお笑い話。)然るに作者の小林多喜二は、ご都合主義的にこの物語を一応の成功でもって終わらせているのですから、コレがなおさら厄介なのです。俺たちは狡猾なブルジョワの搾取に対して、一致団結して闘争するぞ! その心意気は誠に結構です。でも、こうした“立派な”彼らの意志も所詮創作物語の次元に止まっていて、現実との乖離を露呈しています。この小説に描かれているような人々の言動(及びソレを裏で支える背景をも加味して)が、強力なブルジョワ勢力を前にして果たしてどこまでの結果を与えてくれるか。楽観論ではなく現実主義的に考察してみた方が良い。(しかもコレを思い切って現状と重ね合わせてみるならばなおのこと…) あくまでも小説ですので、こういうコトをいうのはオカシイのかもしれませんが、コレ(『蟹工船』)はもはやただの砂上楼閣に過ぎないといえる。外見はソコソコ取り繕った風な体裁ですが、中に入ろうと扉に手をかけてみると忽ちにして瓦解してしまう。ソ連を楽園のように描いているシーンがあるのも、今となっては砂上楼閣の一端を形成するものであるといえましょうか。
共産主義運動の先には何があるか。──小林多喜二はこの点に関して何かしらの明確なイメージを持てていたのでしょうか。彼の想像力に対しては些か疑問符が付きます。もしかすると彼がこの物語の最終的結末を「附記」としてしか記さなかったのは、その「先」についてのイメージを形成するコトができなかったからではないのか? コレは私の素朴な疑いです。確かにココでは彼らの「サボ」が成功し、監督に対する抵抗は一応の成果を上げます。しかしながら、ソレをもって「プロレタリアート」の勝利だなどというには、あまりにも楽観的過ぎというものです。極小的な事象を極大的なモノへと拡大していく、そうした共産主義運動(殊に日本におけるソレ)がもたらす具体的かつ善良なる未来というモノを、小林は実体化できなかった。それ故、彼はご都合主義的に「附記」という形式でポジティブな未来を示唆するコトでしか幕を閉じられなかったのではないか。尤も小林が如何なる具象を提示しようとも、今となっては共産主義という制度がもたらした事実によって、ソレらは全て反証される可能性がありますが…
『蟹工船』は、──いや、作者の小林多喜二からして、ソレは八方塞がりの賜物であるといえるかもしれません。ココには如何なる光も射し込みません。共産主義運動の限界を披瀝したという点では、この物語、殊にその結末の書き方ほど微笑ましいモノはないでしょう。ただしソレ以上でもソレ以下でもない貧相な小説。
この本が売れるのは、或いは現在の人々の間に立ち籠める八方塞がりの状況を暗示しているのかもしれません。そしてソコに何らかの意義、論点があるとしても、ココで一つだけ明確にしておきたいコト、ソレはコノ物語が何ら具体的かつ光栄ある未来に対する一助とはならない、という点に尽きると思います。

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