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2007年07月09日 小さな世界は大きな世界?

わにとかげぎす4巻「わにとかげぎす」4巻について。
以下にはネタバレが大いに含まれております。未読のヒトは見ない方が宜しいと思います。


え〜、私は途中でヤンマガの連載の方を読むのを止めたから知らなかったんだけど、終わってたんだねコレ。打ち切りか!? それっぽい終わり方だよなぁ。


一応完結ということで、物語の終わりを見ての感想を次の一言で表すのが適当かどうかは分からないがー多分不適当だと思うー、敢えて一言で。


なんじゃこりゃ。


何この終わり方。何このラスト。・・・捉え辛いよ…
富岡は果たして本当に孤独では無くなったのか?
この物語の主人公は他ならぬ富岡であるから、ココではあくまでも富岡目線で考えてみたい。羽田さん目線で見ると、あるいは全く逆のモノが見えてくるのかもしれないが、ここではそこまで踏み込むことはしないでおく。富岡という一人の男について、ちょっとだけマジメに考えてみたくなった。


最終話で富岡が「オレはもう 孤独じゃない」といい、その後に富岡らしき人物が血を流して倒れている描写があるけれど、おそらくこれは富岡が過去の自分との訣別を悟ったということを描いたものだろう。今までの孤独だった自分は死んだ、これからは「孤独じゃない」人間として生きてゆける、という意味を含んだ“過去の富岡”の死。


でも、本当にそれで良いのか、と思わずにはいられないんだよなぁ。
再び富岡のセリフを持ち出してくるが、「自分が生きている様を見ていてくれてる…証人だ いるといないじゃ大違い」というその認識は、真っ当なものだと感ずる。しかし、彼にとっての証人は羽田さんという特定の人物に留まったままであり、その先が開かれていないのだ。確かに、従来は己の中だけで物事を完結させていた彼に、羽田さんという新たな視点が加わったことは大きな進化だといえよう。しかし、彼の世界は富岡⇔羽田という二者に限定されたものであり、他者との関係は依然として遮られているようにさえ思えてくる。結局モノ凄く閉塞された空間に存在し続けているような印象を拭いされないまま、物語は幕を閉じてしまったのである。


私はそこに妙な違和感を覚える。


富岡が目標としていた孤独からの脱出という点は、一応達成されたものとして見受けられるかもしれない。が、やはり彼は羽田さんという人物と親密になったことにより、幸か不幸か、そこに全てを吸収されているような感じを受けてしまうのである。彼のエネルギーはもう一点にしか向けられていない、本当に視野が拡がったという感じを受けない、羽田さん以外の他者は排除されているような視点の中にいる、そうした近視眼的な世界に収束してしまった感が否めないのだ。孤独からは脱出できたのかもしれないが、その代わりに別の問題が浮上してきていることに、おそらく本人は気付いていない。


・・・ああ、「恋は盲目」ってヤツですか。
拡がったようで、あまり拡がっていないようでもある世界。
これから拡げていくのはアナタの想像力です、ってことでしょうか?
それとも、人生なんて本当は狭い世界に収束していくもんなんだよ、という作者の或る見解の露呈でしょうか?
まだ私には分かりません。


ただ、もしかすると、小さな世界の中にしか本当に自分を満たしてくれるものなんて無いのかもしれませんね。


追伸:『シガテラ』の頃から強く思っていたのだけど、古谷さんに「伏線」というものは無いのか。毎回ソレらしいモノが出てきては、何事も無かったかのように過ぎ去ってしまう。伏線をぶった切るような展開ばっかりだ。(私は個人的にこうしたモノを「ぶった切り」と呼んでいるが)読者にアレコレ推測させては、「ぶった切り」してしまう実にイヤらしい作風が定着しつつあるのが、面白くもあり変でもある・・・

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