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2007年07月20日 何を書いているのか解らない

ヒトには抽象的観念に無上の安心感を抱き、その中に安住してしまおうとする、現実逃避的な願望があるのかもしれぬ、と思う時がある。
例えば「愛」という言葉。日常にコレほど溢れ返っているにも関わらず、依然としてその実態が明瞭でないものも珍しい。未だかつて万人に受け入れられる「愛」についての普遍的定義を唱えた哲学者が、社会学者が、歴史学者が、心理学者が、いたであろうか。結局、誰も分からないのである。分かったような気がしているだけで、誰一人として「愛」というものを明確に発表できないのである。あるヒトはSEXをもって「愛」の発露だという、あるヒトは人間同士の結びつきを見て、そこに生じる信頼関係・相互扶助の間柄に「愛」が存在しているという・・・
しかし、SEXの中にあるとされる「愛」を、人間同士の結びつきの中に生じるとされる「愛」を、他の言葉に変換して表明することはほぼ不可能な仕業であるといえるのではなかろうか。


斯様な実態不明瞭の抽象的存在によってヒトは支えられているとするならば、ヒトそのものもまた抽象的存在であるということになる。
ヒトの内から外に向かって発生するエネルギーが文明創造の礎となり、それは日々「進歩」しているとされるが(実際には文明は何も「進歩」しておらず、ただ科学技術が向上しているだけであるが)、その内面の一角を占める観念を説き明かすことができていない以上、それが創出するものもまた、不完全で不明瞭な実態を伴わずにはいられないのではないか。その事実を覆い隠し、誤摩化し、そこに絶対的価値を見出し、ヒトの歴史は常に「進歩」と隣り合わせだとする認識の愚昧さ!


言語による共通の認識を構築することが困難だと思われる「愛」という観念、にも関わらず何故日常にこの言葉が散乱しているのか。それは何らかの方法でこの不可解な言葉の持つ内情が共有されているからであろう。具象化されることのない「愛」というものに、人類共通の価値を見出し得るとして、その方法とは如何なるものであるのか。究極的には「感覚」によるものなのか。
それならば、その「感覚」はどの程度統一されているのか。そもそも、人類に完全なカタチでの統一は存在し得ないのではないか。妥協が伴ったカタチでの共通、妥協による統一がどこかでなされていると考えることは、誤りか。


「愛」を伝える「感覚」、そこにもしも妥協というものが入りこんでいるのならば、現在我々が受け止める「愛」も、妥協されたものと考えることは、これまでの思考過程から自ずと導き出されてくることに他ならない。
「愛」に限らず、普段我々が受領する「感覚」はどこかで妥協を伴う。妥協せねば共有できないトコロに人間の認識能力の限界がある。だが、しかし、個人が本来的に備え持つ「感覚」ー妥協が生ずる以前の「感覚」ーを究極至上のものとして認めて良いものか否か。


そうなると、現世に「本物の」「純粋の」などというものはあり得なくなるのではないか。我々は「本物の」「愛」を、「純粋の」「愛」を、理解できていないことに気付くことなく、錯覚したままで、妥協された「愛」を「本物の」ものと看做して、「感覚」的に共有しているつもり、なのではないか。
自らの中に「愛」という抽象的感情が伴うとして、それを一切の錯誤無く他者に伝えることは不可能なのではないか、自らの、または他者の妥協によってしか共有できない感情なのではないか。妥協に次ぐ妥協で続いてきた記録!?

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