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2007年11月29日

2007年11月29日 変わらないというコトへの期待

ほんの数刻前に日付が変わりたるをもって、少しばかり昔のコトを想起せし夜であるから、ちょっとだけ思い出していた記憶を書き留めてイイ?


高校一年生の時に同じクラスになりたるIクンは、非常にマジメな生徒であった。マジメを絵に描いたとは真に彼の如き人物を評して云うのであります。容姿も冷静沈着な風を保ちたる具合で、語彙こそ大したコトは無かったのですが、会話はスゴク改まった調子で明晰にハナシを展開する。文字も端麗で、成績も宜しかった。おそらくクラスで一番良かったのではあらぬか。当時、勉強を「クソみたいなモン」だと“定義”し、己の空想にのみのめり込んでおった私などと比しても、テストでは常に一回り上の得点を叩き出しておったように記憶致す。私は斯様なIクンとはそれほど親しい間柄に成り得ず、従って彼のプライヴェートなコトはモチロン、その実態についても外面的な観察をもって知れる以上の事実は如何程も持ち合わせておらなかった。ただし、「マジメ」であるという事実だけはどうしても覆せぬモノであると愈々確信していたのです。
私が中学時代から現在に至るまで親交を保持し続けておる―数少ない人物の1人―Tは、Iクンを小学校の時から心得ておるようであって、TによるとIクンはなかなかワケありのモノであるという。曰く、Iクンは長男で、彼の下には四〜五人の弟妹がおり、しかも母子家庭であるらしいのでしたが、彼の父親は或る日突然蒸発し、以後行方知らずで今に至りたる。そういう事情であるから、ハッキリ申し上げて<貧しい家庭>の中に身を置き、相当な苦労を背負い込んでいるというのであった。私が通っていた高校は、原則として「アルバイトは厳禁とす。ただし諸事情により認可を受けた者は是を行い得る」といったような校則でありまして、まさにIクンは家計を助ける為にバイトをしながら学校に通っており、今時非常に珍しいタイプの<苦学生>であるコトを私はTから聴取し得た故に知り、そうしてIクンに対して僅かばかり尊敬の念を抱くようになった。隠れてバイトをしておるような輩は幾人かおったけれども、斯様な連中の行動原理は、嗚呼、単純なる哉、ただのお小遣い欲しさという軽薄な動機に過ぎず、それとは対照的にIクンは家計を考慮して“やむを得ず”バイトをしているのでありますから、何やらソコには涙をそそる動きが潮流しておるではありませんか?


高校二年以後、私はIクンと異なるクラスになり、元々親しくはなかった故に、次第に彼のコトは意識から薄れ行き果てた。私が彼のコトで存じ上げておったのは、進学を希望しているコト、そしてこれまたやはり家計を考慮してであろう、志望は国公立大学であるコト、それのみであった。
山々も色付き始めた(二年の)秋、私たちは修学旅行を迎えたのであるが、Iクンは金銭的な問題等を理由に辞退したことをTから聞いた。その時は大した驚きも存せぬような有様でありましたが、しかし所詮は田舎の公立高校、行き先はくだらん「横浜・千葉・東京三泊四日の旅」である。都会のお嬢様私立校の如き「ヨーロッパに丸々一週間の旅」などとは比べモノにならん質素な団体行動でありまして、実に田舎臭い安上がりなモンだ。Iクンは修学旅行へ行かなかったと云うが、思えばその頃から彼の歯車は狂い始めておったのかもしれぬ。


三年になりたる頃、私はふとIクンを思い出した。Tにそれとなく「そういえば最近I見ないな」と聞いてみたのでしたが、Tも素っ気なく「確かに見てないな」と言っただけであった。
遅鈍な私も、三年の夏休みを迎えるにあたり漸く己の進路に対して漠然とした焦燥感を抱き始めたのは、ただ「進学希望」という曖昧な目標をぶら下げておるだけであって、具体的に進学して如何なる勉強をしたいか、といったコトが皆目検討の付かない状態であったからなのでした。それから私は徐々に、今度はマジメに、己の内面に入り込んでゆくようになり、またTも進学に向けて余裕のない日々を送るようになっていった。私の中からも、そしておそらくTの中からも、Iクンの存在は完全に亡失されつつあった。


Tは私より早く、推薦で某名門私立大学に入る僥倖に恵まれ、私と対照的に年末には余裕を回復しておった。そんなTからIクンのハナシがもたらされたのは、卒業を目前に控えた、おそらくセンター試験の前後ではなかっただろうか。私の中ではもはや完全に彼の存在が消去されてあったので、それはまさに寝耳に水の事態でございました。
Tによると、Iクンは、理由は分からぬがいつの間にか退学しており、しかもTの友人がIクンと接触したらしく、その時にIクンは女を妊娠させたと言って非常に狼狽していたという。そして、こうも言っていたと教えられた。「堕ろすにしても金が無いし…」
一瞬私は「あのマジメなIに限ってそんなコトあるか!」と心の中で反言したが、しかし同時に抗い難い時間の流れに想いを致したとき、どうしようもない諦念のようなモノに覆い包まれ、「確かにそういうコトもあるんかなぁ」と、むしろ己に言い聞かせるかの如き具合で念じたのでした。


その時まで私の中にいたIクンはあくまでも高一のIクンでしかあらずして、あの時点でのIクン―すなわち十八歳のIクン―のコトを私は何も存じ上げておらなかった。その一年半の間にIクンに何があったのかは、もはや知る余地もない(モチロン、彼の現状については微塵も知らぬ)。
彼が変わったのならば私だって(一年半の間に)変わっていっただろう。ヒトは時間に抗うことが出来ず、時間に押し流され姿を変えて行く生き物だとしても、それでも私はこう思いたいのである。変わるとしてもそれは表面だけであって、決して骨の髄まで変わるようなコトはない。そんなコトは絶対にあってはならない、と。

2007年11月26日

2007年11月26日 大相撲九州場所感想07

昨日は大相撲の千秋楽だったにも関わらず、格好のタバコネタを発見せし故、ついつい気をソチラに取られてしまったのであった。喫煙者を馬鹿にするといっても、或る特定の誰かを念頭に置いていますワケではなくて、あんなモノは一時的な熱病の如き錯乱状態であると解して頂きましたならば、私のロクでもなさも池田大作に負けず劣らずってコトが明瞭になるはずです。


さて、大相撲九州場所。
千代大海に振り回された場所である、と、この一言に尽きるのではありますまいか。この世の誰が、千代大海が最後まで優勝争いに関わりながら、肝心の千秋楽に休場すると予想したであろうか。まったく完全なお笑いキャラであるコト甚だし。
結局白鵬が優勝したのだけれども、正直それほど印象に残っておらん。魁皇の限界突破が明瞭になったコトと、相変わらず琴光喜の面白みが無い相撲と、後半戦までの千代大海の好調ぶりは、上位陣の中でも印象に残っておったのでして、しかし、メインの横綱白鵬については安馬に負けた一番が最も記憶に残るくらいで、結果的に強さは見せつけたのだけど、やはり朝青龍が不在というコトも加わり、イマイチ迫力に欠けるような具合でありました。


そうして今場所はやはり把瑠都と若麒麟に若ノ鵬の下位力士が面白かった。若ノ鵬に関しては、数場所前から非常に「ダーティー」なニオイを感じておったのですが、ソレは入幕後も然りであった。彼は「ダーティーキャラ」、「ヒールキャラ」になるやもしれぬ。
一方の把瑠都と若麒麟は宜しかった。把瑠都のその潜在能力については今更云々する必要などあらぬが、どうも私が期待しておらぬ時に“のみ”優勝争いに加わるようでございます。よし! 把瑠都のためにも、来場所、来年も期待せずにおこう。
若麒麟、初入幕で十番勝利致した。「若麒麟」っていうのに、明らかにベテランみたいな顔つきなのはやむを得ないとして、立ち合いから一気に押し込むような素晴らしい相撲が何番かあったのは、これからに繋がるのではありませんか。


今回は眠いのでこの辺にさせて頂きたいのですが、最後に来年の展望を僅かばかり述べさせて頂きたく存じます。
まず、朝青龍の復帰。果たして如何なる!? いきなり中心的存在に戻り得るか、それともブランクの影響大で、一気に没落してゆくか。それにより、今後の相撲界の流れも変わり行くだろう。
次に、白鵬。来年23歳、愈々肉体的にも技量的にも最も充実した時期を迎える次第でありますが、まずは初場所、復帰して来た朝青龍を凌ぐ活躍を見せて欲しい。
次に、どうしても私はこのヒトの名前をあげたい。すなわち稀勢の里。此処のトコロ、豪栄道や栃煌山など彼と同年代のモノが徐々に台頭し来たっておるが、この世代で最高に力量のあるのは、やはり稀勢の里ではないかしらん、と期待し申し上げておるのです(アレ? 白鵬も彼らと同世代? イヤ、ソレは無視しておくれ)。もはやヘタレ大関と化した琴欧洲を超えるくらいに、来年は飛躍の一年であって欲しいと“強く”祈願しておる。


最後に、もう散々言われておるコトだけど、今年は相撲界を巡る不祥事が多発しまくった。五年分くらいの不祥事が発生致した。来年は是非とも「信頼回復の年」と位置付けて、相撲界の暗黒部分を抹消するくらいの勢いで、親方衆も関取衆も、一層<相撲道>に励んで、励みまくって欲しい。
呉々も、復帰したての朝青龍が再び不祥事を起こして、破門、永久追放などになるようなコトがありませんように。
呉々も、行き過ぎた「かわいがり」が発生しませんように。
呉々も、八百長を週刊誌にスッパ抜かれませんように。
呉々も、全ての大相撲関係者が、軽卒な行動を取りませんように。
呉々も、大相撲ファンを失望させるような出来事が発生致しませんように。
お祈りを捧げて、来年を待望す。沢山のお相撲サンたち、今年もありがとう。


来年も機会があれば、一度くらいは本場所を見に行きたき所存であるかなぁ。

2007年11月25日

2007年11月25日 真の“ヒューマニスト”

肺ガンで死のベットにいる自分の姿を想像してみてください


肺ガンで今わの際に至りたるモノの様子だと云う。


低体重児出産や子どものぜんそくを引き起こすタバコ


頭が狂った喫煙者の母親(=メス豚)のせいで死にかけの未熟児だと云う。


33歳、ミイラの状態で人生の終末を迎える悲惨さ


33歳にて肺ガンで死に果てたモノとその家族が幽明境を異にする寸前の様子だと云う。


以下、リンク先のサイトから引用


肺がんという病気は空気が吸えなくなり、死ぬ最後まで、堪え難い苦痛を伴います。
そして、食事も出来なくなり、ミイラのような状態で最後を迎えます。
タバコをやめるのを努力しますか?それとも肺がんで死ぬ時苦しみますか?
日本人の死因のトップはがんです。がんの種類別では肺がんがダントツのトップです。


誠に拙劣な文章でありますが、コレはおそらく低水準な知能の持ち主である喫煙者にも理解できるよう配慮して書かれた為でありましょう。
苦しめば良いのである。迷惑な喫煙者を楽に死なせるなどというのは、殺人犯を「懲役一日」で釈放するようなモノである。「食事も出来なくなり、ミイラのような状態で最後」を迎えれば宜しい。なお、此の場合の文字は「最後」ではなく「最期」が相応しいのだが、知能が小学三年生レベルの大半の喫煙者はソレすらも理解致せぬ故、この誤字はあって無いようなモノになっておる。


喫煙する雑菌の苦しみなどに想いを馳せるようなのは、せいぜい元喫煙者か“ヒューマニスト”を装った偽善者くらいでありましょうコトは、フツウの感覚を持ち合わせる非喫煙者ならば容易に察しの付くコトでございます。むしろ正常なる感覚・思慮を持ち合わせるモノならば、真ん中の画像の「犠牲者」たる未熟児の様態にこそその意識を全力注入すべきであって、斯様な子供を産む(産み捨てる)無責任、無感情の鬼畜的有害物質に相当する喫煙者の親を殺害するくらいの怒りに己の魂を奮わせますのが、真の意味での“ヒューマニスト”の在り方ではなかろうかってコトでした。

2007年11月24日

2007年11月24日 君の体温をありがとう

Tobira Album丸山眞男や吉本隆明に騙されるのはイヤですが、エドマンド・バークやRie fuになら騙されてもイイ。屈託がなく「ありのままの強さを教えてくれ」るからである。
待望のサードアルバムがもたらされた。Rie fu:「Tobira Album」


ここ最近のシングルの出来具合が突き抜けて素晴らしい有様だったので、来るべきアルバムも大いに結構なモノになるだろうという信頼を抱いておりましたが、やはりその通り、紛うことなき傑作アルバムのご光臨である。
「ツキアカリ」を聴いた時に愈々確信致したのでしたが、彼女には曇りがない。穢れもない。<異常なほどに>真っ直ぐなのであって、それでいて開放的な自由さ、気ままさを内包するのは、すなわち「Tobira」が開かれているからであろう。その好奇心、向上心、自立心が全てを受容し、しかし、その中に混じり入る有害物質は彼女独特の手法でもって排除されるのです。故に、ソコには迷いの侵入できる余地はなく、「自分なりのペースで あせらなくてもいい」という想いが前面に出ておりますコトで、今、自分が伝えるべきコト、表現すべきコトを決して逃さない感性が生まれるのであった。22歳―あろうコトか私と同い年!―の等身大の「今」が、このアルバムには保存されてある。
ロンドンの大学に留学し、そこで過ごした四年間を彼女はこの一枚のアルバムに昇華させ得た。そう申しても良いのではありませんか。それを象徴するかの如き秀逸なるナンバーは、今作の白眉となる「London」。“The air was dry in London”とRie fuが歌う時、その瞬間において、ソコにある情景は<彼女の想いによって>潤いを得る。極限するコトになるでありましょうが、この一曲を作りあげただけでも、彼女のロンドン体験は無駄では無かったと思うのです。


前作が比較的アグレッシヴな内容、自らに“強さ”や“明確さ”を吹き込むようなモノであったとすれば、今作は自らに宿る“穏やかさ”や“優しさ”を確認するようなモノに相当するのではあらぬか。前作で強き意志を確定致したのであったならば、Rie fuは今作でロンドンに於ける経験を相対化し、ソレを前作で得た強靭なボディに混在させ得るコトで、紛うことなき「自分の歩むべき道」を見出したのです。


なんたってこのアルバムの第一声が「君の体温をちょうだい」である。あらゆるモノを真正面から受け入れ、その全部を決して無駄にしようとはしない明瞭なる“成長するコト”、“先へ向かうコト”への喜びが顔を覗かせる。ああ、私も言いたい。これからも「君の体温をちょうだい」


ハイ、今回もRie fuの「体温」をシッカリと頂きやした。

2007年11月21日

2007年11月21日 つまらぬ一日のコト

どうせつまらぬ毎日の積み重ねのつまらぬ人生なのだから、ソレを自虐的に扱いますコトで何か面白みが得られるのならば、すなわちコレ幸いである。という具合で、前にも一度だけ記したが、再度試みる「<つまらぬ>今日の流れ」。 憐憫と同情の波押し寄せる!?


6:55 起床
〜8:00 「めざましテレビ」を見ながら朝食、仕度
〜8:30 歯磨きとかお着替え
8:35〜 お出かけ
〜8:55 学校着
9:00〜 或るリベラル教授のつまらぬ授業
10:40〜 少しだけ面白い哲学的な授業
12:00〜 ゼミのセンセイと修論についての意見交換※1
12:30〜 留学生のKクンからまさかの連絡を受け、午後の授業休止決定※2
12:40〜 仕方ないので帰宅
〜13:15 帰宅に無事成功
13:20〜 朝読めなかった朝刊を黙読。万能細胞※3
13:50〜 読書
14:35〜 睡魔に襲われたためお昼寝
〜15:30 目覚める
15:35〜 読書の続き
16:05〜 お相撲を見ながら軽食、身支度
16:45 お相撲観戦を断念して泣く泣くバイトへ
16:55〜 バイトの始まり(沈鬱)
21:05〜 バイト終了、帰途へ(歓喜!)
21:15 帰宅に再度成功
21:20〜 見れなかったお相撲の結果をネットで確認
21:30〜 入浴
21:50〜 NHKの偏向ニュース番組&福田総理の会見を見る
22:20〜 夕食
22:50〜 歯磨き等
23:05〜 ブログ更新を決意
23:10〜 つまらぬ文章を書き始める→現在に至る


補足
※1…もうそろそろ修士論文の全容を確定せねばならぬ。私は、実用的な理系ではあらず細々としたる文系でございまして、しかも「思想史」という歴史学でもかなり“大雑把”な、厳密な史料調査や実地調査を大して要せぬような分野(斯様なコトを申し上げると、或いは誤解を招くかもしれんが、誤解を恐れてはおりません)を専攻しておる以上、どうしても書物との格闘になる。それ故、如何なる書物を読み込んでいきますかを、もう確定しなければいけない。
ところで私が教えを受けているセンセイは、酔狂だ。「戦後(政治)思想をやるんだろう? それなら共産党の無謀な戦争責任追求でも取り上げてやったらイイじゃないか。あんなバカなコトをやっても何の意味もないってことを書けば良い」なんて言う。―ハァ、共産党は確かに愚ですが、でも戦後史の中では無視出来ない存在で、しかしソレは…
そもそもこのセンセイは、共産党を辛辣に罵るかと思えば、妙に同情的な発言をしたりもする。やはり酔狂なのであろうか。いずれにせよ酔いはまだ治まらず。妙に機嫌が良い。「キミは、コレはオダテじゃなくて本当のコトだけど、私は四十年もこの仕事やっとるけど、私が見て来た中でキミは一番優秀だよ」などと素っ頓狂なコトを放言す。「Kサン(私があまり得意としていないセンセイ)も『Yクン(私のコト)は最近貫禄がついてきた』と言ってたぞ」―ハァ、私に「貫禄」ですか。ソレは北島三郎とノイズミュージックくらいの懸隔があるってモンです。Kセンセイも酔狂なる乎!?
さて、修論。「吉田満」という人物に焦点を当て、彼が戦争経験を通じて得た戦後観や国家観、戦後の所謂「平和論・平和主義、民主主義」に対する問題点などを論じたいのでありまして、そう致すとやはり「戦争責任問題」は避けられぬか。吉田を軸としながらも、保守陣営では福田恆存や江藤淳、リベラルの陣営では丸山眞男や清水幾太郎の思想を夫々その時代の影響力等を加味し申し上げて「代表例」として取り上げ、また民主主義の問題であったり国家観の問題に関しては国内の知識人だけではあらず、例えばA・ハミルトンやトクヴィル、E・バーク等の保守主義思想をも参考にしながら吉田の思想との対比、共通点の指摘や、そこから導き出される問題及び可能性等を論じたいのでしたが(バーク等の保守主義思想を持ち出すゆえんは、吉田の中にそうしたものとの共通項が少なからず見えるからであって、またそれにより戦後日本における保守の思想の問題も射程に入りそうだから)、ソレは非常に果てしない。そうして、ソコから現在まで残されておる問題へと架橋するコトなど今の私にできようか。先は依然として見えぬ。センセイなぞは他人事だと思って好き勝手にバークの思想を語るが、肝心の吉田については非常な無関心。「吉田は面白い存在だ」って言ってたクセに。


※2…Kクン、いつも連絡とれないで申し訳ない。ケータイを放置している故、我が不覚なり。伝言メッセージを入れてくれたのが九時七分で、ソレに気付いたのが十二時三十分過ぎという驚くべきタイムロス。もう俺、ケータイいらん、このケータイ死ね。


※3…万能細胞なるモノは大いに注目に値します。もし実用化された暁にはヒトの寿命は如何なるか。多くのヒトは死を欲せざるし、現にそうした意思を表明致すが、しかしながら「生き過ぎる(長生きし過ぎる)」ような事態になると、今度は「死ななければいけない」と言うようになるのであろうか。そうすると、ヒトは本能的に己の死の必要性を捉え、死を(生来的な意に反して?)「義務」と考えているコトになるのでしょうか。葛藤。なかなか興味深い問題であります。

2007年11月20日

2007年11月20日 攻撃は最大の防御なり

元来、この場は、私の思い(想い)、恨み、喜び、落胆、笑い(嗤い)、悲観、嘆き等の感情を無秩序に雑然と列挙致します場に他なりません。ソコで他人の感情を唐突に紹介するようなのは、或る意味で無礼だと思うのでしたが、一度くらいはやっても良いのではないかしらん、というコトで、今日は例外的に他人の文章ばかりを提示(引用)させて頂き、其れについて少しばかり触れておきたい

さて、そういうワケで今日のネタ(?)は、知るヒトぞ知る中川八洋センセイの著書『皇統断絶』である。(皇室典範及び女性・女系天皇に関する本)
保守勢力の暴走機関車的な中川センセイは、その過激な発言が諸種の場にて取り上げられるコトもあるようでしたが、私は今日まで斯様なモノに接近せずに居た。しかしながら、たまたま興味本位で手に取ってみた中川氏の著作がこの『皇統断絶』であったのでして、いやはや正直何度か吹き出した。ココで中川センセイが展開する他人に対する批判若しくは異議申し立ては、もはや常軌を逸するレベルにまで到達してありますので、結局は“誹謗”のレベルに足を踏み入れておるようにも思える。ソレが面白いので、以下に幾つか引用させて頂く。この本はフツウのとは異なる意味で「必読書」です。
それでは、中川センセイの<東大卒、スタンフォード大学大学院修了、現筑波大学教授>という肩書きを記憶に留めてから以下の文章をお読みください。


どうも高森には、学者になれるだけの基礎教養が著しく不足している。四十八歳にもなって定職がなく、「古代史巡りの観光ガイド」にしかなれない理由はこれである。(二十六頁)


高森明勅への攻撃です。職業のコトは放っといてやれよ…


英米では法曹家たらんとする誰でもがもっているコークの『英国法提要』も、ブラックストーンの『イギリス法釈義』も、日本では裁判官ですら、一人として、その表紙すら見たことがない。ちなみに、私事で恐縮だが、私はコークの主著とブラックストーンの主著を、文字通り座右においている。(百三十一頁)


誠に結構ですね。


小堀桂一郎は、森鴎外の研究を除けば、過去三十年に及ぶ著作の多くは「盗作」か「他人の研究の代理執筆」であるように、自分で研究をする能力と知見がほとんどない。(百六十頁)


次!


福田和也の人格とは、“祖国喪失を願う病気”に冒されたそれであり、その「反日」度は、共産党や朝日新聞が「保守」に見えるほどで、戦後日本の六十年史に、前例もないし類似の者がほとんどいない、空前絶後の“超(スーパー)極左”である。(二百三十三頁)


次!


学問の能力を欠き口舌にのみ生きる売文業者の中西輝政は、旧と現の皇室典範も読んだこともない。またその制定過程の法制史についての知見もない。一般教養は無知に近い。八代十名の女性天皇が「男系の血筋が途絶えないようにという目的で即位された」などと、初歩的な歴史事実に関する知見を欠くほど、その歴史知識は中学生以下である。
 しかし中西は、現在の皇室典範をダイナマイトで粉砕して、天皇制廃止を実現しようとする策謀には長けている。(二百五十六頁)


最後の一文は秀逸。およそ国立大学の教授が記した文章とは思えないほどの攻撃性を備え持っておる。


ちなみに私のお気に入りは、
「日本共産党の大塚英志は(二百三十五頁)」
という箇所。大塚英志は共産党関係者だと決めてかかっておりまして、このセンセイにとって「共産党」及び「共産主義者」が最高の罵倒用語であるコトを象徴している。裏を返せば「共産」の一語でもって相手を排除するので、批判がすぐに一定の範囲に収束致す危険性を孕んでおるのですけれども。
ただし本人からすれば、斯様な文章を書き続けてソレが一冊の立派な本になりたるという事実、それだけで愉快で愉快で堪らんであろう。いやいや、羨ましき哉。さて、その印税の用途は如何様に?

2007年11月18日

2007年11月18日 或る美徳の淵源―オシム氏に宛てて

オシム氏が心配で心配で致し方の無い日々を送っておる。
私はサッカーの門外漢であるから何もエラそうなコトは言えぬが、しかしオシム氏は某前監督よりよほど信頼できそうな様子だとお見受け致したのでした。某氏はプレイヤーとしては「神様」でありましたが、監督としてもまた別の意味で「神様」であったのかもしれぬ。つまり民衆どもに好き勝手な権限を付与し、彼らが自主的に仕事をこなすようになれば、必ずや活気に満ちた素晴らしき世の中が形成できると信じておった。ソレは民衆の美徳と義務意識と理性と各々の属する共同体への忠誠意識等が“例外無く完全に”発達した世界(つまり非人間的世界)においてしか実現し得ないにも関わらず。某氏は神の世界の定理を人間の世界にも適用可能であると思慮したのかもしれぬ。
その分、某前々監督などは分かり易かったであろう。典型的な「将軍様」の態を呈しておったのでしたから。「将軍様」が治めます御時は、或る特定の分野に関してはそれなりの発達を遂げるコトもあるが、しかし一方では目を覆いたくなるような破綻ぶりを露呈するコトがある。
そう致せば自然の摂理か否か、人々は「将軍様」を打ち倒さんと欲し蠢く。或る瞬間に至りてソレが最高潮に達した時、従来の権威は打破さる。斯様な具合で遂に念願叶いて「将軍様」の“独裁”を倒した後、連中は己の権利が増大した“民主的”状態に歓喜絶叫するのであった。しかしながら、ハナシは堂々巡りの観を抱いておるのでありまして、民衆に全てを与える<完全なる民主制>は必ずや混乱を引き起こす。其れはトクヴィルなどの高邁な学者が重々警告を鳴らしたトコロのモノでありまして、しかして<完全なる民主制>は必然的に無数の利害が対立し合い統一を欠くから、自ずと民衆全体をまとめあげようとする力が生じてきて、それを巡ってまた争いが勃発し、終局的には皮肉にも再び<独裁体制>へと向かうのでした。
<完全なる民主制>→<独裁体制>→<完全なる民主制>→<独裁体制>→…
まるで「鶏と卵はどちらが先か」の議論の如しである。


本当に必要なモノは何であるか。言う迄もない。或る権威は権威として保存しておきながら、人々はそこに盲目的に隷従するのではなくして、信頼し敬い、各々が自らに相応しい仕事に忠誠を尽くすコトで生ずる利益を最大限に保持し続けるモノでありませんか。或る権威は美徳の淵源である。其の権威を支柱にし、そこから導き出される任務に忠実であることによって、人々ははじめて最大の自由を享受できるのであった。卑屈になるのではありません、横暴になるのでもありません、全てのモノが予め定められたトコロの仕事を精一杯尽くすより他に喜びは得られぬでした。(言う必要などあらぬかもしれぬが、「将軍様」がいけないのは、本来与えられぬ仕事すらを民に強制し、さらにそれによって生まれ出た利益をも簒奪し、独占しようとする点にある。)


ハナシを最初に振り戻そう。
オシム氏の目指すサッカースタイルが如何なるモノかは存じ上げません。しかしながら、私は氏の中に「神様」のものでも「将軍様」のものでもない美徳を見出せるような気がしてならぬ。「将軍様」→「神様」→…の堂々巡りを幸運にも回避し得たこの至福の境遇において、選手たちが其処から生ずる役割を明瞭に認識し、己の仕事に忠実で、そうして獲得した己の権利をチームのために(すなわち其れはまた自分のためでもあるのだが)役立てんと願った時にのみ、歓喜はもたらされるのではないでしょうか。
大雑把で概観的ではありますが、私が言えるコトはこの程度でしかありません。
オシム氏の一刻も早いご回復をお祈り致しております。

2007年11月17日

2007年11月17日 永遠の写真

日常的な写真撮影の慣習などは持ち合わせておらぬが、しばしば「おっ、コレを画像に残しておきたい」と思わせるモノに出逢うコトはあるのです。斯様な時にデジカメでも所持しておれば、或いは愉快千万なのかもしれぬが、生憎そのような科学技術の集合体は依然として持ち合わせておりませんから、私などは決まって泣き寝入りする他にマトモな手段は無いのであった。
私の親父はロクでもないがカメラは敢えて言うなれば好きな模様で、若かりし頃はソレなりに写真で遊んだらしいのだが、最近ではほとんど何も撮らなくなった。そのくせ安物のデジカメを購入しては嬉々としておったのが、つい一昨年くらい前のコトであったでしょうか。今は如何なる場所に如何なる具合で保管(放置)されておるのか、あのデジカメよ。


そうだ、実家にはデジカメが“一応”あるではないか。そうすると、私は今コノ瞬間に次のような思惑を抱いたのでした。すなわち年末に実家へ帰省せし時に、私の生まれ育ちたる<平原>を撮影致そうではないか。田舎の中でも比較的上の部類に属するであろう田舎の光景を留めておこう。
モチロン、ココでいう<平原>とはやや過剰な表現であって、実際にモンゴルのような平原などがあるワケがないのであって、コレは要するに「殺風景」と同義語だと思って頂きたいのであります。私の地元にはビルなど絶対的にありはせぬ。まるでソコは<現代的外観>が許容されておらぬような空間である。ソレを撮って、このブログに晒そうとするのです。私の原点を。私の“害悪の”原点を。フフフフ…


本当は、東大寺や「正倉院展」に赴きたる時においても、何らかの風景を撮影すべきであったのかもしれぬが、斯様なコトはせずに過ごした。ま、仮に撮影致したとしても、私はデジカメもスキャナも持っていない以上、ソレをPCに取り込んで、このブログに掲載するコト能わずなので、畢竟ソレを見るのは自分だけに限られまして、それならばわざわざ撮影などする必要はございません。心のシャッターを下ろすだけで充分なのである。其れは何時でも見たいと欲する時に見るコトの出来る「永遠の写真」を撮るのですから。

2007年11月15日

2007年11月15日 一年を経てもなお…

今週の日曜(11日)に親類が集いて昨年亡くなった祖母の一周忌法要を取りなしたという。私は地元に戻っておらぬから、従って出席しておらぬのだが、それにしても月日の経過の素早いコト、ジャイアンに追っかけられた時ののび太の如しです。丁度昨年の昨日が告別式であったのを思い出すに、此の一年で私は何か成長致しましたでしょうか。それは確かに急激に成長するコトは不可能であるから、大きな前進は望めませぬが、さりとてせめて<前への一歩の兆し>のようなモノでも胚胎しておれば良いと願うのでしたけれど…


「アサヒる」「初音ミク」「ローゼン麻生」等、「現代用語の基礎知識」に収録。


はてなブックマークは、ユーザーがコンテンツを追加・編集するオンライン辞書「はてなダイアリーキーワード」に掲載されている97のキーワードが、新語辞典「現代用語の基礎知識2008」(自由国民社)に収録されると発表した。…(中略)…ここでいう「アサヒる」とは、『捏造する。でっちあげる。執拗にいじめる。』の意。朝日新聞社が『アベする』なる語句を創出してまで自らの論調に相容れない者を執拗に攻撃することから意味づけがされた。ちなみに『アベする』とは、「仕事も責任も放り投げてしまいたい心情の吐露」を表すらしい。


その掲載されるキーワードは以下にて確認可能であります。


『現代用語の基礎知識2008』にはてなダイアリーキーワードが掲載されます - はてなダイアリー日記


分かるモノもあれば初見のモノもあり…

「ヘタレ保守」「HDDのフォーマットと同人誌の焼却」「性の6時間」等はなかなか興味を惹く。


私の部屋には同人誌こそないもののHDDは若干ヤバイのではないかと感じるのでした。
マスターベーション例えば、ネット上で拾い上げた斯かる画像を嬉々として、また危機として保存してあるコトなぞは、もし私が急死でもして、何も知らぬ第三者がこのPCを起動させたのならば、大いに失望し、嘲笑するであろう事実を確信させましょう(画像をクリックすればよりハッキリとしたカタチで見えます)。
コノ画像はというと、先般国会でも問題となりたる所謂“行き過ぎた表現を伴う性教育用の教科書(―過激な「保健」(?)の教科書)”に掲載されてある(らしい)モノなのだが、ソレを知るモノは少ない。よって他人から見ればただの低次元なワイセツ変態画像に過ぎぬ。 そうである以上、誰も「危機」の方の意識は汲み取ってくれますまい。私はあくまでも日本の教育レベルの幼稚さを示す<資料>だと思って保管しておるのですが、さすがにソレすらも言い訳に聞こえそうな虚しさは何故か。


嗚呼、斯様な具合であるコトは、私の成長の低さを感じさせずにはいられないではないか。祖母も冥界で嘆いておるやもしれませぬ。イヤ、コレは<資料>なんだってば!

2007年11月13日

2007年11月13日 或る精神錯乱者について

記者の前で“本番”実演…秋田SEX教団、衝撃ルポ


気狂いが世に蔓延る昨今、またもや我々の眼前に大いなる狂人が登場し来った。
ZAKZAKがおそらく半ばふざけて掲載したでありましょう斯かる記事を、私は、織田裕二がホモであり異常性欲であるコトを秘匿しておるのを見抜く如く、此の記事に記されておる愚劣極まる生き物の正体を暴く!
記事を追って行こうではありませんか。


秋田県湯沢市に“教団”を名乗る奇妙な集団が出現した。「預言的使命」と称して、セックスをへんてこりんな教義に取り込み、インターネット上で“ほぼ本番”のわいせつ画像を流し続ける。…(中略)…新たなカルトとして話題になっているのは、「リトル・ペブル同宿会」。教義を支える“性”なる儀式について、教団の創設者「ジャン・マリー神父」こと杉浦洋氏(47)は「アダムとエバの楽園が人類に還ってきたことを象徴する行為」と説明する。


古今東西、セックスにて地上の楽園を築かんと欲し、ソレを厚く信奉する輩は、種々差異があれども、根底はアナーキストに決まっておる。そうしてアナーキストというのは例外無く精神に異常を来しておる愚民であるから、必ずと言って良いほど他の存在を利用致しまして、その力を間接的に用いらんと企む。曰く「神」、「キリスト」、「お釈迦」、「それは“サイババ”の勝手なんですよ」、「仏」、「唯一神又吉“イエス”」、斯かる状況にあってココで利用されておりますのが「アダムとエバ」でした(「アダムとイヴ」の方がより一般的であろう)。今日、どれほど「人情味」が喪失した時代と叫ばれようとも、人間は本来、思考回路がルーレットのようになっておるモノには関わりを持たぬのが常でありましょう。「道理に合わないもの、自己にとって有益たり得ないものについて人間は権利を持っていないのです。」―エドマンド・バーク
己の思考と感情と外見が猫ひろしを五分の一に圧縮したかのような醜態になってあるコトへの無自覚、それ故に精神錯乱者は他力を以て自己の正当性を主張せんとす。ソレは脳機能が常人と比するに半分程度しか活性化されておらぬような土井たか子や福島瑞穂をも凌ぐ、劣悪野蛮な獣に他ならぬでしょう。


いくつかの不可思議な思想の中で特に異様なのは、外出時に着用する「ナノテク繊維でできている」(男性信者)という白装束だ。


 杉浦氏は「我々が信仰するリトル・ペブル氏への愛の証です」と説明する。リトル・ペブル氏とはオーストラリアに本拠を持つ聖シャーベル修道会の教祖だが、その評判はすこぶる悪い。カルト問題に詳しい紀藤正樹弁護士は「ペブル氏は幼女への暴行罪で服役するなど、キリスト教系では性的問題が多い団体として有名」と説明する。


 大いなる疑念を抱きながら、問題の性儀について切り出した。すると杉浦氏は一瞬、苦悩の表情を浮かべ、「私は近い将来、婦女暴行罪で逮捕連行され、辱めを受けるでしょう」と預言。だが、次の瞬間、意を決したように「神が望むなら…やるんです」。力強くそう言うと、おもむろに服を脱ぎ始めた。


日本共産党員や創価学会をも凌ぐ正真正銘の異常人格者は、常に現実と虚構(=不敬にも神と己を一体視し、筑紫哲也を「真っ当なニュースキャスター」と述べるが如く高熱病に冒されでもしているかのようなバーチャルな自分認識)の世界を彷徨致します。或る瞬間においては現実世界の法令を知覚し(「婦女暴行罪で逮捕連行」)、そうかと思えばまた次の瞬間には「神が望むなら」などとほざき立て、我々には、いや如何なる天才をもってしても確認できぬはずの神の御姿・御意思を身勝手に創造し、悦に浸るのでした。斯様な害獣にとりて、神とは畢竟<自己を規定する“ひとつのモノ”>に過ぎず、これ以上の冒涜は考えられません。ヒトは精神の支柱が根幹から腐り果てると、その瞬間に“姿カタチだけの人間”へと変貌し、どいつもコイツも白装束を好み(以前にも「白装束の集団」が世間を賑わせたコトを思い出すが良い)、しかして中身は事実と妄想を混同させる「報道ステーション」の加藤千洋的毒キノコ生物へと顛落していくのであった。それを証明するのが「リトル・ペブル氏」なるおそらくは辻元清美と大して変わらぬであろう自己抑制を可能にするブレーキが遥か彼方へブッ飛んだ外人、害人への共鳴である。杉浦はマグマの如く吹き出る性欲とソレを満たすための野蛮劣等な行為に対して、自己の内部で何らかの<整合性>を構築する必要に迫られたのでありまして、そこにおいて着目致しましたのが他ならぬ「リトル・ペブル氏」であった。コレは現実と虚構を往来する特権的フリーパス券を所持しておるモノにしか達成できぬ“奇芸”を意味致しますから、つまり微かな現実認識と過大な偽りの世界という二つの調味料が、道場六三郎も喫驚するほどのバランスで混ぜ合わされた時にのみ生じ得る「奇跡の邂逅」なのでした。


ロウソク替わりのLEDライトが数本立てられた祭壇の前に布団を敷き、台所から瓶とヨーグルトを持ってきた。


 「挿入せずに性器に擦りつけて射精するのが、『正しいセックス』。ヨーグルトは滑りをよくするためで、瓶は精子の採取用です」


 やり方はすべて「神様からのインスピレーションでわかった」という。相手をしたのは「クララ・ヨゼファ・メネンデス」と名乗る、きれいな女性信者(35)。だが、目の前で繰り広げられた光景は性交がないだけで、“本番”そのものだった。


 あっけにとられていると、杉浦氏の口から驚くべき事実が飛び出した。「クララは妊娠しました。現在、7カ月目に入っています」。無受精での妊娠は間違いなく世界初だろう。


 こうした行為は杉浦氏にのみ許される。同じ屋根の下で、“営み”を見せつけられる信者の気持ちはどうなのか。一緒に住む男性信者2人は「全然気になりません。ごく日常的な光景で行為の最中も普段と変わらず過ごしています」と答えた。


ヨーグルトを性器に塗りたくりますコトで快楽を覚えるのか否かは実践してみたいが事後処理が面倒でイヤなのでやはり一向に解せぬコトですが、しかし斯かる行為を「正しいセックス」などと奇怪なほどストレートなコトバでもって主張する正直さには、毎日毎日バレバレのカツラを被りてテレビに堂々と出ておる「とくダネ!」の小倉サンもビックリでありましょう。ココでも当然の如く「神」を持ち出してきて着飾っておるが、何のコトはない、アソコはヨーグルトでグチャグチャなのであって、そうした矛盾を察知できぬ時点でなかなかどうして河野洋平並みのだらしの無い輩である。或いはコヤツ、小学校にすら通っていないのではないか。
ココに至りても杉浦洋と申す精神に甚大な障害を抱く狂人は懲りずに、むしろ飄々として「神様からのインスピレーション」などと喚き立てる。この無様な姿は、大した能力も行動力もないくせに口だけは達者な田中眞紀子を思わせるではありませんか。眞紀子同様に詭弁は振るいまくります。曰く「クララは妊娠しました。現在、7カ月目に入っています」 もはや呆れ果てて発するべき言葉を見失うのでしたけど、それは共に生活をする信者とて同じようなモノであって、「全然気になりません。ごく日常的な光景で(以下略)」というこの発言がまさに正常な感覚の麻痺を示唆する。
私は、杉浦洋なる史上稀に見る精神錯乱者について言及してしまったが故に、自らの精神も正常なバランス感覚を喪失しかけておるのかもしれぬ。いや、コレは危ない。ココらで失礼させて頂きやす。呉々も気狂いには用心を。

2007年11月11日

2007年11月11日 四年越しの付き合い、そして別れ

白鵬が初日に弱いのは分かっていたコト。とはいえ、まさかこうも初日に勝てぬとなると、一度お祓いでもして頂くべきではないか、と要らぬ忖度に身を窶す。ああ、非常に難しい文字でありましょう。「窶す」…「やつす」と読むのでしたが、今、変換してみて自分でもその難解さに驚いた。ところで、私は心配で身体に異変を来すほど「窶れて」はおらぬ。過剰表現こそが私の得意技でございます。
魁皇はもう引退であろうか。千代大海は後半にいつも通りボロを噴出するか。琴光喜は来場所角番か? それにしても九州場所は客入りが悪過ぎる。今日の惨状は如何なる事態か。「初日」において斯かる状況であると申すのなら、いっそのこと九州場所を廃止して、全国各地様々な場所で開催するように致せ。すなわち「11月場所」とし、毎年異なる地域にお相撲さんを派遣するという“妙案”がコレである。三年先くらい迄の目処は立てられましょう。予算や資金源などの問題は無視しちゃうが、札幌や仙台や横浜や広島や神戸など、比較的大きな都市での開催なら集客率も九州―福岡よりは望めるかもしれません。名古屋も状態が怪しいけれども、コレはまだ何とかなりそうではありませんか。やはり最も懸念すべきは実質<魁皇場所>になってある九州に他ならず、魁皇などたとえ今場所を凌ぎ切ったとしても、残す現役生活は三年にも満たぬであろうから、やはり今のうちに何か策を練らねばならないのです。何なら巡業ではないガチンコの<海外場所>という“ナパーム弾級”の奇策もあり得る。いや、コレはウソである。現実には絶対にあらぬコトは百も承知、だが、或いはコレでも九州よりはマシかもしれぬ。
「九州男児」などというが、あんなものはタダの贔屓の引き倒しの詰まらぬ輩どもである。魁皇さえ良ければ後はどうだって良いという、今さえ良ければ後(=子孫)のことは考えない、短絡的な現状改革を夢見る一部の有権者と同じような愚直さに過ぎんのでした。ソレは比較的“保守”のイメージがあるが、現状は怪しいモノでありまして、宮崎哲弥のいかがわしさに匹敵す。


まとめる気などは毛頭ないのであって、とりあえず最優先して申し上げたきコトは、今晩、四年間ほど使用して来った茶碗を落とし、ソレが粉砕してしまったので、肌寒い中、夜の九時過ぎに新しいお茶碗を買いに行く羽目になったのは、全て私の責任に因るモノでありまして、学校におられるフェミニストのA教授のような女を絶滅させたいなどとは言うつもりありません。

2007年11月10日

2007年11月10日 積読の害

貧乏に拍車がかかる。
欲望により、ついつい本を購入致しますので、読むペースが買うペースに比例せずして、どんどん未読の書物が積み重なってゆくのを見過ごすのであった。所謂「積読(つんどく)」ってヤツ。そうして金銭も不足し申し上げます。
このままではいかぬ、と思い、積み重なりし本をどうにか年末までに処理するため、私は規則正しき生活を送らねばなるまい。そこで一週間の予定表を作成し、私はソレに従って生きるコトにす。すなわち、その予定表は曜日ごとに一日の行動予定が記されてあるのでございます。例えば月曜だと、朝の九時〜十時頃に起床し、午後三時頃までおよそ五時間ほど読書をする。その後、三時から食事や何やらを致して五時からバイトへ。九時過ぎに帰宅後、夕食などを経て、再び十一時頃から一時頃まで読書に勤しみ、就寝。とこういう具合である。畢竟、学校へ行くか、バイトへ行くか、それ以外の時間はほとんど読書に充てるコトに決定致しました。学校へは火曜から金曜まで行かねばならぬので、それによって読書の時間も変化して来るのです。そうして無駄を省いた結果、一週間当たり約三十五〜四十時間程の読書タイムを設けますコトになりそうなのでした。
此処に至りて、このブログの更新頻度もガクッっと落ちるコトは必然。週二くらいの更新間隔に陥るかもしれぬが、まぁ、元来大したコトは書かぬので、それほど影響はありますまい。


何の為に読書をするか。其れは知らん。知らないのですが、「いつかはコレが役に立つ」と思い、コツコツとやっていこうと思うのであった。ただし、明日から大相撲が始まるが、予定表の中にはキッチリと「相撲」と書かれた時間が存在する。その時ばかりは読書も一時疎開であります。頑張れ朝青龍!ってアレ?いないぞ!?


本日、バイトの帰りにスーパーにて湯豆腐用の豆腐を購入致し、日本酒で一杯と思ったのだが、面倒なので湯豆腐用の豆腐で冷奴を作り上げてやった。なかなかイケるじゃないか。日本酒と冷奴。オッサンである。いつの間にか冷奴を平気で食せるようになりたる己に月日の経過を感じずにはおれないのでした。私は、邪道かもしれぬが、冷奴は醤油とわさびで頂く。鰹節もネギもイヤであるのです。わさびこそが最適。
さて、そろそろ読書へ戻らん。

2007年11月09日

2007年11月09日 お目出たき人

限りなき羞恥心に満ちたハナシであるが、私は今日に至るまで「祝い箸」なるものの存在を知らないで生活して来った。本日偶然黙読せし本(『亡食の時代』扶桑社)の中において、「祝い箸」の説明が記されておったのでありまして、其れを目にするにあたって当然の如く思い出されたのは、幾度となく経験してきた元旦のコトなのでした。その折、私の祖父母の末っ子、つまり私の母親は、おせち料理を並べてみせる。とは言っても、利便な昨今、ほとんどが予め作られたものなのでしたが、兎に角日本の伝統に従いましてウチでも当然の如くおせち料理が“一応”用意されるのであって、その時ばかりは年間を通じて唯一<ちょっとカッコイイ木の箸>が配置されておったのであった。そして、其れがおせち料理用に特別に用いられる「祝い箸」であるコトを私は今更ながら知悉致し、誠に恐れ入った。無知な私なぞはその箸を見て「ああ、一年の始まりというコトで、気分を新たにする意味で、こんな細工を施した使い捨ての箸を用意してあるんだなー」などと思っていたものですが、斯かる浅薄な目的ではありませずして、現実にはキッチリとした意味が堆積されておる儀礼的な箸であることを察知し、何やら母親に謝罪した方が良いのではあるまいかという気さえしてきたのです。こういうコトはガキの頃に教えてくれといても良かったのではないかしらん。おせち料理+「祝い箸」がセットであるコト、それはマナーとして、一般常識として知っておかねばならぬコトのように推察致しました。
…とは言うものの、母親は本当に自覚しておるのであろうか。母親こそ「ただ何となく高級感漂うから」とか「(スーパーで購入したおせち料理セットに)付いていたから」なんて理由で毎年毎年食卓に並べていたのでしたら、私はもうガッカリしちゃいます。親父に至っては「正月早々食器やら何やらを洗ったりするのは大変だから、割り箸でラクをするのサ」などと言いそうで恐ろしくなり申し上げます。およそ妙な両親ではあろうが、斯様なコトに関しては一つでも多く知っていて欲しいと思うのは、我が身を顧みぬ身勝手な“子心”ってモンです。
(今年の年末はおそらく実家に帰省するであろうから)その時にソレと無く「祝い箸」について聞いてみようと思うのであった。果たして「高級感」や「ラク」なる言葉が返って来ぬコトをお祈り致しながら…
【言うまでもなく、表題は武者小路実篤の『お目出たき人』とは無関係です。】

2007年11月08日

2007年11月08日 「正倉院展」及び東大寺周辺雑記5

コレは「『正倉院展』及び東大寺周辺雑記4」の続きです。ソレを未読の方は先にコチラからどうぞ。


ああ〜、何分待ちだろう…と暗然たる心持ちでおると、果たしてどんどんと前に進んでいくのでした。おや? コレは如何なる事態か。進む、進む。驚くべき速度で前に進みます。結局五〜八分くらいで入場口へ達す。いやいや、一人のオッサンがチケットを切っておるものだから、ソコで滞って行列ができておるだけで、何も入場制限されておったワケではないのでした。入場制限されておったのは団体客のみで、個人は次々に入れる模様。そりゃそうだ。団体客を次から次に押し込めば、中は大変なコトになりましょう。だから、団体客だけはやたらと待たされてあるワケね。
というコトで、入場し、二回の展示場へと一路向かう。階段を上りて、すぐに「第一展示場」と書かれた看板が目に入る。おお〜、ついに来たか!どれどれ、如何なるモノが展示されておるのか、と思い、第一展示場に踏み込みます。


・・・・・・・・


ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト・・・・


正倉院の中に存しておったお宝など一向に見えはせぬ。ショーウインドウの周りにはヒト―しかも高齢者ばっかり!―でごった返しており、いったい何があるのかも判明致せず。考えてみれば、個人客の入場でも異常なほどに行列が出来ておったのだから、アレがドっと中に押し入れば斯かる事態になるのは火を見るよりも明かではないか。
ええい!私は年寄りを見に来たのではあらぬ!


隙をついてガラスケースの周辺に達するも、嗚呼、驚くべき哉、いやむしろ悲しむべき哉、古今東西工芸品等に関わる知識が欠落しておる私にはサッパリ分からぬモノばかりである。手のひらサイズの木箱に似たるモノであるとか、朱肉のようなモノであるとか、おそらく仏教の経典を記したと思われるような巻物であるとか、意味不明の細長い三十センチばかりの木の棒であるとか、これまた模様入りの小型金属皿のようなモノであるとか・・・兎に角、よく解からなさ過ぎるのであります。何れの場所にもプレートが設置されておって、ソコにお宝についての解説が記述されてあるのだが、生憎の人集りではソレすらロクに読めず。故に、サッパリ分からぬまま私は第一展示場〜第三展示場までを巡ったのでした。
或るババアなぞは、金属皿のようなモノに描かれている模様をちょっと見て「隙が無いねー」などと感心しておったが、アレとても何処まで理解しておるのかは怪しきモンである。あのヒト集りの中で、彼処に展示されておるモノの素晴らしき点を詳細に説明できるモノが、果たして幾人ほどいるであろうか。「正倉院展」という名前に騙されて、ソレだけで高級な気分に浸っておるモノも少なからず存在するはずである。
期待した私がダメであった。恥をあえて忍ばずに言わせてもらうが、正倉院展はワケが分からぬ。相当お勉強して赴かないと、まったく楽しむコト能わず。いや、仮に勉強して挑んでも、あのヒトの数じゃあ、余裕を抱きつつ鑑賞するコトなど叶わぬであろう。
まぁ、そういうワケで最も印象に残った展示物を一点あげるならば、ズバリ“朱肉のようなモノ”である。誠に遺憾ながらこれ以上は説明できません。申し訳なき思い。ソレが朱肉なのか何なのかすら分からぬが、仮にアレが朱肉だとして、いったいソノ何処に価値があるのであろうか。恥ずかしながら全く理解できなかったという点で、最大の印象をソコに置く。


それにしても、東大寺周辺に沢山おったはずの外国人を、驚くべきことに正倉院展にては一人も目撃せず。コレがまずもって一番に衝撃的であった。私の見た範囲、一人として外国人がおらなかったのである。コレは如何なる事態で、何を示しておるのか。「正倉院展」なるモノの存在について考えずにはおれなくなるではないか。私のように名前に惹かれて訪れる日本人ばかりだというのでしょうか。此の点に関してなど、心理学者が喜びそうな問題である。


より詳細に記述したきコトは多々ございますけれども、ブログという表現形態を取る以上、非常に大雑把にならざるを得ない。大雑把であるが故に、どうしても満足のいくように書き記すコトができず、そうして必然的に完成度の低い殴り書きへと堕落してしまった。こりゃあ、失敗です。つまらん。書いていてもつまらないんだから読む側はもっとつまらんでしょう。失礼致します。
最後に総まとめをさせて頂くと、今回のお出かけで最も有意義だったのは、南大門の見学であり、お出かけ自体の結果としては、正倉院展が散々な結果だった以上、一連の行動も散々なモノに帰結せざるを得ない、と、まー、こういう具合になるワケでして、ハハァーン、所詮オレの行動などロクでもない結果に終わりますのがオチですよ、ってことを証明する一日であったのだと、こういう風な結論でもって締めさせて頂きたいのでした。長らくおつ付き合い有り難うございました。漸く次回からは“通常バージョン”に復帰出来そうで、一安心。

2007年11月08日 「正倉院展」及び東大寺周辺雑記4

“正倉院自体”を無事に見学し終えて、いざ奈良国立博物館へと向かわん。畦道のように土が露出しておるルートを、多少の懐かしさを覚えつつ歩む。私の実家周辺には依然と致しまして、このように舗装されておらぬ道が残存しているのであったが、ソレとこの時歩んでいた道が妙な具合で一致するのを覚えたのでした。都会の中に住んでおっては到底生じ得ぬ<懐郷>ではなかろうかしらん。
それにしても、其の荒々しい道の隅々にも自動車が幾台も停車せられておって、コレは現代では当然の事実なのでありましょうが、しかしながら‘東大寺の中’にて斯様な光景を目撃するコトには些かの心細さを覚えたのだった。だが、コレがそもそもいけないというコトを私は徐々に感じ始めたのでした。と言いますのも、私は其れに対して余りにも<歴史的価値>を見出さんと必死であったからなのです。すなわち、私は平成十九年の今日において東大寺を、其れが建築されたのと同時の時代感覚を抱いて鑑賞したいと祈願しておったコトに今更ながら気付いたのであります。勿論、斯様なコトは絶対的に不可能な仕業であって、どう足掻いても其れは平成十九年度の人々の視点でしか目撃出来ぬではないか。私が抱いておったような奈良時代の人々の意識下にイリュージョンして鑑賞しようなどとする意図は、所詮は愚昧な空中楼閣でしかあらぬ。此のコトに気付きたる時点で、私の中の視野は明確に転換したのであります。すなわち、東大寺に存すはずと思惟しておった<歴史的価値>への得体の知れぬ一体感所持の願望を打破し、其処にある<現代と過去の調和>にこそ何モノかを見出す必要に迫られたのであり、ココにしか面白みは発見できぬ、と痛感したのである。
斯くして、“正倉院自体”を後にし、大仏殿をも背中に見ながら、鏡池周辺に達す。よくよく見てみれば、その辺りも実に近代的外観で溢れておったのでした。つまり郵便ポスト・プラスチック製の品を並べたる屋台・ガラス張りの土産屋などの存在がソレである。これらはいずれも行きの道中にては気付かぬ存在であったが、何のコトはない、予め用意されておったモノなのだ。当初は私の視界に入り来たらなかっただけでして、コレらを確認するに及び、一層私の確信は強くなり申した。曰く、東大寺ーいや、奈良公園自体が最早<歴史的価値>の現存というよりは、<過去の或る価値と現代の価値の断片的調和>になっておる、というコト、この結論である。東大寺に赴くにあたって、あくまでも保持しておかねばならぬ基本的思慮はコレ以外にはありませぬように思われるのですが、果たして其処に“偉大な歴史そのもの”を見ようとして訪れたのならば、私のように妙な心的ショックを味わうコトにもなりかねません、と考えるのですが、イッタイゼンタイ如何がなるか…


其れであっても、帰りに今一度南大門をジックリと見る。う〜む、此処だけは別格でないかしらん。此の場はやはり“現代”と少しばかり隔絶されておるよ。
そう思っていると、近くにおった団体ツアーのガイドを勤めておる爺さんが此のようなコトをのたまっていたのでした。
「この金剛力士像は、運慶、快慶が十数人の部下を率いておよそ七〜八週間で製作されたものであり…(中略)…当然、このように巨大な像が一本の木で出来ているワケではなく、複数の木を合わせる『寄木造』という手法で作られており…(中略)…この辺りには修学旅行生も多くいますが、この中(東大寺)のガイドはバスガイドには出来ません。ちゃんと県から資格を得たモノでなくては案内ができないようになっております。ですから、私のように資格を持っているモノは毎日此処で案内をしています。お昼は毎日抜きです。今日も多分抜きです。…(中略)…ガイドの仕方にも複数あって、団体客用、小学生用、中学生用、高校生用があって、高校生用は更に二つに分かれます。商業・工業高校などのユルい学校用と進学校用です。今日(のお客)はレベルが高いので進学校用ので行きます。」
最後の部分は間違いなくネタであるが、年寄り相手には結構ウケておった。喋り慣れた爺さん、アレぞガイドのプロであろう。


さて、修学旅行生や幼稚園児の団体などを数多目にしながら、愈々奈良国立博物館へと向かわん。時刻は正午を十五分ほど過ぎた頃でございます。
東大寺への入り口になる交差点を横断し、ものの二分も歩めば、すぐそこに見えますのが「正倉院展」を開催しておる奈良国立博物館に他ならぬ。周辺にはやたらに多くの正倉院展を宣伝する幟や看板が設立されておりまして、その宣伝の必死ぶりには少しばかり哀れになる。
横断歩道の前にて悠長に座り込む鹿の隣で信号待ち。其処を横断した後、すぐに左前方に見えて来たのは、さすがに立派な建物の国立博物館。敷地面積もなかなかのモノです。歩道から外れて緩やかな角度で曲がる広々として段差の低い階段を下ると、・・・むむっ、妙な人だかりが出来ておる。テーマパークよろしく「入場まで一時間四十五分待ち」などと記されておったのですが、コレが他ならぬ正倉院展の入り口であるコトに気付き愕然となりまして、えへへへぇ〜、予想外過ぎるだろ! この展示会ってそんなに大人気なのか〜、約二時間も待てるか、諦めて帰ろうかなーなどと弱気になっておると、案内員のようなオッサンがマイクで「個人の方はアチラからお入り下さい」と言う。指し示された方を見ると、其処も人気遊園地のジェットコースターの下側の如く三列くらいの行列が完成致しておるではないか。うへぇ〜、正倉院展ってこんなに大人気なのかー、しかも平日だろうぅー。恨む。恨んでも恨み切れん恨みが発生し申し上げます。が、此処まで来った以上、帰るワケにはいかん。今ココで帰るというコト、ソレは三ツ星レストランに悠然と入り込み、フルコースを注文しておきながら、メインディッシュを前に腹痛を起こして席を立つようなモノでしかあらず、しからば無理をしてでも入るしかないではありませんか! 大人一枚千円というやや高価なチケットを購入し(なぜかチケット売り場は混雑していなかった。今度は丁寧な対応で一安心)、意を決して行列に並ぶ。


本当はコレにて終わりますはずだったのですが、今回の分は長過ぎるので二つに分けます。続きはコチラ(「『正倉院展』及び東大寺周辺雑記5」)にて。

2007年11月06日

2007年11月06日 「正倉院展」及び東大寺周辺雑記3

中門をそれとなく見過ごして、次に目指さんとするのは、或る意味において東大寺の親分であります大仏殿なのでした。
中門に至りて、其処から左折し、大して特徴のない中門の壁伝いに歩むことおよそ五十メートルばかりで大仏殿への入り口が見えてくる。巨大な大仏様が控えておる大仏殿とは不釣り合いな狭き入り口でありまして、ヒトが二人以上は並んで入れぬ仕組みになってある。此処において人々は何かにつけて誘導される如く其の中へと闖入して行くのでした。私もすかさず中へと入り込もうではないか。
門を通り越してみると回廊の如き廊下が右手に延びておって、天井もある。が、豈図らんや、入り口の前には小さな行列が三列ほど出来ておったので、はて、何事かと思う間もなく其処はチケット売り場である事を察知致す。行列の先には小窓が設置されておりまして、小窓の上には入場料が明記されてある白き札が取り付けられてあって、見るに「大人500円 小学生300円」とある。やれやれ、こういうトコロはキッチリと金を取るのね。大仏様も金を取ってまで見せ物にされて、さぞ可哀想に、などと脳内で独り言談を弄していましたら、私の番に達しましたから、クールに「大人一枚」と言い野口英世の顔が描かれたお札を一枚差し出す。向かっておる小窓は、本当に「小窓」でありまして、中でチケットの手配をしているモノの顔すら誠によく確認できぬ。或いは窓にスモークでも貼付けているのではないかしらん、と思うくらいに明瞭であらず。あまり覗き込むのも申し訳なかろうとデリカシーを働かせまして、やむを得ず視線を移す。辛うじて判明致しましたのは、中に座しておったモノは肩くらいまでパーマをあてたような黒髪を垂らした中年の女性で、眼鏡のようなモノを装着しておったというコト。それ以外に表情や化粧の乗り具合や皺の数などは分からず。相手からすれば分かって欲しくないであろう点を、私はまんまと確認出来ず残念であります。
そうしておるとすぐにチケットが不躾に出てきた。出てくるというよりは滑り出てくるとでも言った方が適切な具合に、乱暴に提出される。「ホラよ、さっさと取りな」と言わんばかりの横暴さ!おまけにお釣りの五百円も瞬く間に滑り出てくる。なんちゅう対応じゃ!と思うものの、大仏様の前では冷静に、と自らを鎮めたのでした。
しかして、チケットを手に回廊の如き廊下を五十メートルもブラブラと進みますと、オッサンが三人程立っておって、まるで昔の駅の改札口を思わせるかのような具合でチケットを切っていたのでした。チケットを差し出すと、切り取り線をビリリと手際よく破り、チケットを切る。何の面白みもありゃしない。
此処に至りて漸く大仏殿を拝める。チケットを切ったトコロから十メートルも歩めば、今度はそれなりに大きな門があって、此処なら横に四、五人が並んでおっても大丈夫そうです。門の前に立ち、見上げるに遥かそびえ立つは大仏殿・・・であるのだが、何だコレは。まるでミサワホームじゃありませんか。どうしようもないほど味気のない建物、無闇矢鱈に図体だけがデカく、外観は実に迫力に欠けておる。まず嘆息すべきなのは、必要以上に建物自体が照っておるので、どうしても“歴史”というものを感じさせない。「兄ちゃん、ありゃぁ築八年の建造物さ」と囁かれたら納得してしまいそうなほどに、<不必要な新鮮さ>を漂わせておりまして、幾年の歳月を経て其処に存在しておるような確証を見出せないのです。南大門には見られた時間の重みが此処では全くに欠落しておって、歴史的建造物に特有の“厳しさ”や“辛辣”さを何処かに落としているようであった。次に大仏殿へと続く道に施された細工が、より其の<不必要な新鮮さ>を助長させてあります。すなわちその道は明らかに現代的に加工されたタイル若しくは光沢を徹底して出したと言わんばかりの石のような素材で埋め尽くされておって、明らかに歴史的建造物というものに相応しくないのでした。そうして最後に、あまりに開放的な様態を示しておる。仏教の精神について私は塵ほどにしか心得ぬが、さりとて其処は宗教の施設である以上何らかの閉鎖性や明確なる存在目的意識のようなものがあって当然ではないでしょうかい。しかし、私の目に映りたる大仏殿に斯様なものはなく、まるで開け放たれたる宮殿の如し。かつて存しておったはずの精神は、もはや時間によって盗み去られてしまったのであろうか。


斯かる失望感に包まれながらもとりあえず接近す。二十メートル、三十メートルと歩めば、その影に覆われる位置にまで達す。成る程、こうやって見上げてみれば、極めて近い位置からだと、それなりに時間の経過を感じさせてはくれる。だが、やはり建物が(構造的には頑強だと見たが、其処から受け取るイメージは)妙に弱々しく覚え、芯が通っていないように感ずる。実に覚束ない。
此処でも相変わらず急な階段を上り、大仏殿の中に入らんと欲す。さすがに此の辺りには外国人観光客が相当いる。まま、宜しい。
失礼して入らせて頂く。


・・・残念ながら、私は此処に関して特に記すべき事実を持ち合わせるコトが出来なかったので先を急ぐコトにする。やはり第一印象が全てであった。
御免なさい。


大仏殿を後にし、いよいよ正倉院展に赴こうではないか。
と、その前に、ついでに“正倉院自体”を見ておこうと思い、大仏殿の裏の路地を私はトボトボと歩んだのだった。


うぬっ! またしてもスペースがあらぬ。やや冗長に過ぎるので、“正倉院自体”についても割愛させて頂きます。いや、割愛しても構わぬのでした。此の度、私が見たかったのは<正倉院の中身>であって<正倉院の外身>ではあらぬ。此の場にては、大仏殿への率直な感想を(舌足らずだが)記すコトが出来ただけでも良い。


次回(最後の回)へ続く。

2007年11月04日

2007年11月04日 「正倉院展」及び東大寺周辺雑記2

眼前に遥かそびえ立つは、言わずと知れた南大門であった。「国宝」である。国宝であるからというワケではあらぬが、やはり過剰な雰囲気を醸し出してある。要は非常な差別意識を感ずるのであって、どう見ても周囲の光景に調和しておらぬ。面白い具合に自分勝手に、あまりに突出しすぎておるのでした。
当日は昼前から青空が広がって来るような晴天になったコトも幸いに、南大門の雄大な瓦屋根が日光を多分に吸収致しまして、光を得た個々の瓦たちは薄灰色から若干濁りを伴うような水色に自らを演出しておって、その下には時間の推移の焼き付いた異様に重量感のある柱また柱の郡が連なり、其れが門全体を支配しておるのではないかと錯覚するほど見事な“立ち居振る舞い”であったので、思わず私はその門を見上げたまま近づいて行ったのでありました。門の周辺及び中には世代・国籍・性別・身なりを問わぬ無数の人々が、或るモノはケータイのカメラ片手に、また或るモノは使い捨てカメラ或いはデジカメなどを持ち、その荘厳さを何とか記録に留め置かんとしてシャッターを切る。そして少し離れたトコロでは老夫婦と思わしき一組の男女が存し、南大門から十メートルばかり離れた距離にて、旦那と思しき男が妻と思しき女を、これまた門をバックに記念撮影に勤しみます。其処に於ける老女の妙な笑顔は…私はソレを作り笑顔に似たるモノと推察したのでしたが、今になりて思うにアレは作り笑顔というよりはむしろ相当自然な笑顔であったのかも知れぬ。しかしながらあの瞬間、不自然な笑顔に思えましたのは、南大門の雄大さ―我々を包み込む巨大な一つの影!に圧倒されたか―に老女の表情が適合しなかったが故の不幸事であったのではないかと回想致す。斯くまでに偉大な南大門、その前にておよそいかなる形容が相応しからん。此処からは当代一流の文学者センセイ方にお任せするより他に方途はあるまい。私の貧弱な語彙ではとても手に負えるシロモノではありませんでした。
斯様な光景を見ながら門に接近するに及んで、まず目に入り来ったものは「寺厳華大」(大華厳寺)と記された門の中段に掲げられる一つの額でありました。はて、このようなモノがあったかしらんと思いつつも、それはさておき、門の下に入り“例のモノ”を見ようと歩むに、そこに設けられておる四〜五段ほどの階段の段差が急なコトにまずもって驚く。バリアフリー完全無視の、入るモノを明らかに限定するかのようなその階段(一段一段の高いコト!)に、正体不明の厳しさを覚え、何か責め立てられたような身分を思う。(さて、その「寺厳華大」と記された額であるが、此れは昨年に設置されたものであるとのコト。う〜む、それにしては古めかしい雰囲気を噴出しておったゾ)
しかして二十二の年齢をフルに活かして階段を上り切るに、其処は深き門の傘により、若干薄暗くなりたるものの、見上げれば「大仏様」と呼ばれる建築方式独特の幾多の木材を水平方向に一定の間隔で整然と組み合わせた隙の無い構造となっておりまして、少しばかりの薄暗さが尚更その建築の緻密さを引き立ててある。姉歯建築士(もはや過去のヒト?)もビックリの精密さであろう。これほど精彩な方式の建築物をよくぞ開発したものぞと内心驚嘆す。そうして、今度は頂上の高さを見定めんと頭を上げて、グッと上方を睨みつけたものの、天井と思わしき部分は遥か彼方でして、メートル単位での高さを推測すること能わず。無念千万。


ようやく、此処で一つの山場を向かえる。すなわち“例のモノ”でございます。南大門といえば、此れを抜きには語れぬ―金剛力士立像である。「運慶」「快慶」「湛慶」などと日本史で触れた名前が無意識に出てくる。懐かしい。
其処には二つの巨大な木像が安置されておりまして、ココで「阿吽(あうん)」のハナシをするのがお決まりなのかどうかは分かりませぬが、日本史の授業でも教わったコトなので其の受け売りとして言うのだが、門に入りて右側に置かれてある像が「吽」の像、左が「阿」の像。「阿」の像が口を開けておりまして、「吽」の像が口を閉じておる。「阿吽の呼吸」のアレですな。私も表情を確かめんと二体の像を夫々凝視したのであるが、暗い上に視力が宜しくないもので、明確に確認出来ず。残念。
途方も無く巨大な像(8メートルを超える)を見るに、足から腰にかけての部分しかハッキリと確認することが適わず、実に歯痒いものです。が、全体像を明瞭に捉えるコトの不可能さにこそ、この二つの像が持つ<恐ろしさ>を垣間見るコトが可能ではないか。近くにいた体格の良い白人のオッサンなぞは像をしばし見上げた後に、「なんだコレは!?」という様子で呆気にとられたような笑みを含んでおったが、私もその笑みに同感するモノであります。いやはやスケールが違うのだ。門の段階でこの有様でございます。ましてや大仏殿などは・・・ おっと先走るのは止そう。まったく昔のヒトは或る意味で現代のモノよりもよっぽど過激だったのではないかしらん。
見えた範囲で申し上げますれば、異様に大きな足と何が何やら分からぬ腰回り。彼らの出で立ちは腰の付近に布のようなモノを纏っているのみの、見方によっては余りに質素なものだが、そりゃそうだろうと思わずにはおれない。こんな巨人に着せる改まったカタチの服なんてあるもんか。足にしろ途方も無く巨大なのだから、ただ大きいというだけで愉快である。もうそれ以上に必要とするものは無いのです。単純に巨大だという事実が、見る側のココロを満たす。其処には言い知れぬ“妖気”のようなものが漂っており、無駄な装飾品などはかえって不要なのである。妙な色付けもいらぬ。そう思えば、これほど単純でこれほど無駄のない芸術品もあらぬのではないか。
こんな像を一つくらい家の前に置いておけば・・・なんて邪道な思いつきが出てくるが、やはり実際において斯様な巨像が家の前にあれば、色々な面で迷惑でしょうね。


むぬぬ、全く前に進まぬ。これではいつ終わるともしれん。南大門は名残惜しいが先に進む必要がある。私は金剛力士像に別れを告げ、前進したのであった。右に全然美しさの欠片もあらぬ鏡池を見ながら、左にまばらな状態で展開する屋台の店を見ながら。
すると今度は中門が見えて来った。だが、此処に関して述べておくべきスペースは残念ながら存せぬ。泣く泣く大仏殿にハナシを進めるのでした。


次回に続く。
ホントは今回で終わらせるハズだったのだが…
このペースじゃ何時になれば終わるというのか。

2007年11月03日

2007年11月03日 「正倉院展」及び東大寺周辺雑記1

天王寺駅から環状線内回りに乗車し、二駅を経て鶴橋駅に午前十時半頃に到着す。此処から近鉄線に移り、一路(近鉄)奈良駅を目指さん。
JR線から近鉄線乗り場へと移動し、待つことおよそ十分で奈良行きの急行列車は姿を現したのでした。だが、ソレはどうも薄汚れておるような、哀愁というモノを全く拒絶致しておる単なる小汚い列車であった。そうして、中はそれなりに混雑してあるようで、生憎立ち乗りでございます。
ニット帽を深く被り、ソロリと電車に入り込み、車内を見渡しますと若いカップルから老夫婦まで、または私と同年代の学生風の女、家を飛び出して来たまんまの粗雑な服装をした中年男性まで、なかなか多彩な身分のモノが乗車していたのでありました。私は近鉄列車なるモノを今日に至るまでおよそ2回ほどしか利用していないと記憶するが、果たせる哉、何時乗っても状態が芳しくない。要するに発車が良くないのです。扉が閉まると、“チンチン”とどこかしら懐かしさを感じさせる鈴の音のような音を鳴らした後、キュッ、とスピードを上げて動き出さんとするので、慣れない身は思わず前へと振られてしまう。しかして、どうやら慣れていないのは私だけのようで、何度も前にフラついておるようなモノは他に見かけず一人だけフラフラしておったので、多少の羞恥心を感ずる。
先を急ごう。当初、私の知り得る限りでは三十分も待てば奈良へ到着すると思い込んでいたのであったが、いやはや如何なる事態か。列車はどんどん山間部へと入り込んでゆくではないか。鶴橋駅から発車して十分、十五分…待てども待てども次の駅へ到着する気配がない。乗り込んだ列車は紛うコト無き奈良行きであるが、コレは如何なるコトであると申しますのでしょうか。気が短い私は当然の如くイライラし始める。外はいつの間にか長閑な畑や密集した墓地が見えるような山間部へと突入しておるのです。窓外に見える景色とは対照的に私のココロは穏やかでなくなり、「オイッ、早く着け」と理不尽な怒りを抱くも、悠長に走り続ける列車―オイオイ!どういうコトじゃ!遠過ぎる…と怒りが喉元まで来った時、漸くにして次の駅が目前に。一安心。予想外の怒りにより、到着前にして疲労感が漂い始めます。おまけに腰に違和感も。嗚呼、俺の旅もココまでか、と思わずにはおれないのであった。


何たる事態! 限られたスペースにも関わらず、まだ東大寺にすら到着しておらんではないか。コレでは駄目だ。腰痛も糞も忘れてしまおう。誰も旅行記などを書く気は無いのであり、やむを得ず電車内のコトは此の辺にして、場所を移さんではないか。


というコトで、(近鉄)奈良駅へと到着致したのです。さすがに県庁が眼前にありますコトもあって、若者やら学生やら老人やらサラリーマンやらでそれなりに賑わっておる。その駅前には看板が設立されてあり、それを見るに「東大寺1.5km」と記されておる。成る程、それだけ歩かねばならぬか。仕方あるまい。目的の「正倉院展」は東大寺ではあらず、その近隣に設立されたる「奈良国立博物館」にて開催されておるのであるが、まずは東大寺へと赴こうとするのであった。
東大寺へと向かう歩道を歩むに、カメラを大事そうに抱えた欧米系のオッサンやらアジア系のモノが多くを占めておる。言うでもなく旅行者である。そして其れに負けず劣らず学生の姿が見える。コチラも旅行者、修学旅行生であろう。私も中学の修学旅行で東大寺を訪れたモンだ。此の場に来るのはあの時以来か、と多少過去を振り返る。が、今は後ろを振り向く時ではあらぬ。いざ、東大寺へ。歩みは一直線!
歩道を数百メートルも進むと、奈良公園名物の鹿たちの御出迎えです。しかし、哀れなる哉、どの鹿たちもツノがバッサリと根こそぎ切断されておるではないか。おそらくは人々に危害を加えぬようにと、係のモノが定期的に切っておるのであろうが、いやはや、ツノを切られた鹿は実に迫力が無い。「とくダネ」の小倉さんに被り物があって当然のように、鹿にはツノがあって当然ではないか。にも関わらず、奈良公園周辺における鹿たちは例外無くツノが切られておるのである。しかも切られた跡がハッキリと視認できるため、尚更寂寥感に駆られる。鹿にとってツノは<一種のアイデンティティー>ではありませぬか。ソレを奪われた鹿に、私は何を見出せば良いのであろう。畢竟、ソレは鹿でもロバでも宜しい。其処におるのは鹿であり鹿で非ず。いきなり寂しさに襲われたのであった。子供や陽気な外国人たちは名物“鹿せんべい”を購入し、楽しそうに与えており、またカメラを抱えた人々の中には鹿をフィルムに収めんとしてカメラを構えておるのであったが、果たして象徴を喪失した鹿を美しく、自然に撮れるであろうか。斯様なコトを思いながら、歩むこと五分弱、愈々東大寺が視界に入り始めたのです。中学生らしきモノたちに加え、幼稚園児や体操服姿の集団も姿を見せる。おそらくアレは地元の学生が遠足で来たっておるのでありましょう。しかし、体操服でお寺巡りとは、恥ずかしいねぇ。などと要らぬ同情を持ちつつ目線を上げると、目前には古めかしきも壮大な木造の門―国宝南大門が雄大にそびえ立っておったのです。


明日に続く。

2007年11月01日

2007年11月01日 漱石も落ち込むだろう

「Kaku」なるブログ更新ツールを導入致しまして、試験的に運用してみておる状態であります。今日に達するまで此のようなソフトを用いたコトが無いものですから、なかなかに新鮮な気分を味わうことができるってモン。


現代文明の恩恵に授かりましておる近況を申せば、amazonのマーケットプレイスで古本を購入しますコト多し。インターネット・クレジットカード、嗚呼、21世紀の象徴なる哉。コレらのツールを、例えば24世紀の人々は如何様な目で評価するのであろうか、などというコトを考えてみたくなります毎日。―毎日かよ! ところで果たして24世紀に人類は、地球は存しておるのか否か。アタシャ知りまへん。
しかしながら、amazonのマーケットプレイスでは相当に状態の良い古本を容易に安価に購入できるのでありまして、コレはソコ等の古本屋の店主にとりてかなりの脅威となっておるのではないかしらん。
90年代中頃に安室やらミスチルやらGLAYやら朋ちゃんやらがミリオンを連発した時代、今日を迎えるにあたり、其の当時のCDが中古で溢れ返っておるのですが、本とて同様でありまして、amazonのマーケットプレイスにかかれば過去にベストセラーとなりたるような本は「1円」から叩き売りされてある。送料が340円必要であるから、最安値でも「341円」にて購入できてしまいます。まったく著者からすれば脱力モンじゃないのかね。「ワシの小説1円かよ!」と漱石も鴎外も草葉の陰で落胆しておるコトと推察申し上げましょう。
斯かる今日の情勢を見る限り、古めかしい文庫本なぞを古書店に持参し、買取りを依頼せんとしても、果たして快く買い上げて頂けますでしょうか。まー、「1円」の文庫本が飽和状態にありたるコトは、それだけ中古本の数多しの証明でありましょうが、では一体売却値は如何程に? 
其れ以前に申し上げ度きことは、ポンポンポンポンと本を売り放つモノの心境、これ如何に、って問題に他ならないのです。私なぞは根が貧乏であるのか否かは判断に窮するが、兎に角本を売るコトには非常な抵抗を覚える。いや、そうではない。まず私の場合、購入せし本は必ずと言って良いくらいに精読しながら線を引いたり書き込みを入れたりしてありますので、おそらく売れぬのではないか、買取り御免になるのではあらぬのか、と推測するのでした。
ソレで思い出したのであるが、以前に吉本隆明の『共同幻想論』を古本にて購入した折、そのかなり多くの部分に線が引かれてあって、多少戸惑った記憶を持つ。「オイオイ、前の持ち主が誰かは知らんけど、こんなにイッパイ線を引いてあるような本を売るなよ」と思わずにはおれなかった。ココには次の二つのイラ立ちがある。
まず一つ目は、後にソレを買うヒトに対して無配慮であり過ぎる点。私のように読みつつどんどん線を引いていくようなモノでも、予め線が引かれてあるのは何となくイヤな感じがするのでありましてねぇ。
そして二つ目は、此れ程に線を引いてあるってコトは、アンタにとっても重要な本じゃないのかという点。ソレを売っちゃってイイのかい?と思わずにはおれん。いったいどうすれば売る気になるのでありましょうか。
全く不可解な輩が存在するモノであると言っておこうではないか。


予想以上にダラダラと書き垂らしてしまった。「Kaku」のテストのつもりであったのに…
さて、明日はブラリと東大寺に赴かんと欲しておる。願わくば晴天、願わくば交通安全。南無南無。

2007年11月01日 決して放棄できぬ10の音

近頃の私は音楽に対する偏食が甚だしく、より明確に其れを申せば、極僅かの人々の曲を拝聴するのみなのである。されば贔屓なるかといえば、果たしてそうでもありませんで、要するに徐々に音楽という土壌から遠ざかりつつあるのだった。
斯かる私の眼前に、例えば或る日の午前三時二十四分に“音楽の神”なるモノを名乗る白ヒゲの爺さんが陰鬱な表情でもって、二日酔いかと見紛うような調子で次のような命令を下しましたと致しまして、それに対する私の返答を考えてみんとするのが今回の目的なのです。つまり“音楽の神”なる村山富市元首相の如き眉毛を蓄えた喜寿の爺さんは私に述べたのであった。

神「キサマは音楽に対して、オッホン、あまりに傲慢じゃ」
私「ハァ・・・」
神「オマエはこ うお〜〜っほん!! 失礼 オマエなぞは音楽と絶縁しろ」
私「・・イヤ、それは、チョット・・・」
神「じゃあ、猶予を授けよう」
私「それよりも爺さん、何時だと思ってんだ。土足で勝手に上がり込んで」
神「貴様への猶予、それは今後10枚のCDしか手元に所持できぬ、コレじゃ」
私「『コレじゃ』って、アンタ…いやいや」
神「選べ、選ばぬならお前の持っているCDを全部没収するぞ さぁ選べ!」
私「・・・困ったなぁ」


と、斯かる事態を予め想定し申し上げるコトで、いざソレが現実のモノとなったときに焦らぬでも良いように、今、私は此処でその10枚を記し上げておきたいのである。要は「決して放棄できぬ10の音」。言うまでもなく某レコードショップのフリーペーパーや某音楽雑誌にあるような「無人島に持っていく5枚」やら「青春の1枚」のパクリ企画でありますが、今回私がやってみんと欲して実際にやったのはもっと究極的、より切羽詰まった状態での10枚。「コレだけは、コレだけは勘弁して下さいましぃ〜」っていう、どうしても手放せない10の音源を以下にあげてみるのでした。(アルファベット順・一言コメント付き)


All Things Must Pass「All Things Must Pass」/George Harrison
―ジョンでもポールでもなくジョージ。全ては移ろい行く。過去の中にも希望を見出すコトの大切さを想う。


DIRGE No.9「Dirge No.9」/WINO
―高校生の頃に一番聴き込んだアルバム。大袈裟だがこのアルバムには私の一断面が投射されているかの如く錯覚す。


K.AND HIS BIKE「K.AND HIS BIKE」/the band apart
―バイタリティにポピュラリティにオリジナリティにポシビリティーに・・・無数の「リティ」の融合。


Niagara Moon「Niagara Moon」/大滝詠一
―“遊び道具”としての音楽、遊びと職人芸の結晶。


Rock Bottom「Rock Bottom」/Robert Wyatt
―およそ私が知る限り最もエモーショナルな歌声の持ち主。それ故にココロを締め付けられる。


Saxophone Colossus「Saxophone Colossus」/Sonny Rollins
―ジャズに関しては赤子同然であるが、「名盤」と呼ばれる本作、とりわけ冒頭曲「St. Thomas」の1曲は決して放棄出来ぬ。


ソングライン「ソングライン」/羅針盤
―「歌」を主眼に置けば究極このアルバムと次のIdiot O'clockのみでも良い。山本精一の歌はじんわりと温もりの籠る湯たんぽのよう。


The Original Album「The Original Album」/Idiot O'clock
―Idiot O'clock唯一のアルバム。「歌」で気持ちを伝えるコトの神髄と言おうか、これはヒトが持ち得る限りの感情の真空保存。


The Rotter's Club「The Rotter's Club」/Hatfield and the North
―怠惰・儚さ・希望・憂鬱、それらが離散集合する時、そこにかけがえの無い「美」が生ずることを見る。


Trout Mask Replica
「Trout Mask Replica」/Captain Beefheart and the Magic Band
―乱暴で猥雑で凶暴、緻密かつ整然かつ明確。境目不詳の恐るべき謎がココには存す。


色々と検討してみたのでありましたが、やはりどうしてこの10枚だけは放棄できぬ。今後、より音楽から著しく離れたとしても、ここにあげた10の音は、永久かつ不変に愛聴してゆくのではあらぬかと自覚致す。爺さん、いや神様、以上が如何様に考慮しても捨てられませぬモノたちでございます。宜しいでしょうか?

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