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2007年10月31日

2007年10月31日 オッサンの「何か買え」オーラの怪

学び舎からの帰宅道中、以前に一度だけ目撃しておった書店に行ってみようと思い現実に行ったのでした。私はその書店を古書店即ち古本屋だとばかり思っていたのにも関わらず、実際はこじんまりとした至ってフツウの本屋、新品ばかりが並んでおる街の外れに位置する個人経営の本屋だという事実に対面したのであった。


入店してみれば、店内には客である私と店主と思われるオッサンの二人きりではないか。豈図らんや、いきなりラブラブモード全開である。
「ん〜、何かイイ本はあるまいか」と狭い店内をウロウロ。しかし好奇心は間もなく失望に転化す。「うぅロクな本が無いや」


「・・・・・・・・」
微妙な空気が店内を支配し始めて来る。重たき雰囲気がオッサンの鼻から抜けて私の双肩にのしかからんと致しますので、愈々困惑してゆき、妙なプレッシャーを実感せねばならぬ様態に陥るのです。
「…んっ!? コレはアレか、オレぁこのまま店を出てエエんかいな 散々粘っといて何も買わずに店を出るのはチョット気まずくないかい ねぇー」
案の定意味の分からない気の遣い方をしてしまう。さぁ、ココに至りて訪れるのは他でもない、強迫観念です。
「なーに−か買わないと! ええーっと 面白そうな本は、と。高いのはダメだな。安くて暇つぶしに読めそうな本は、と…」ちょっと焦りたる心境。もう何かを買わなければいけなくなってしまっておる。既成事実化である。そうしまして小声で目に入りました本の名前を読み上げていったのです。
「『鈍感力』 この本売れてるなー 『不動心』…松井秀喜 ええーと『風水』何とか どーでもいーわ え〜上の方に何か面白いのがあるような・・・『高松宮日記』・・『高松宮日記』!? 欲しいぃ〜 こんな小さな書店に何でこんなモンが!」
この時、私は一瞬だけ『高松宮日記』を購入せんと決意しそうになったのであったが、しかしそれは最早どうでも良かろう。懊悩は続く。
「ああ、そうだ外国の文学でも。ええーと、スティーブン・キング・・ 『ゲーテ格言集』 ・・・『ヘッセ詩集』持ってるわ う〜ん、イマイチだなー 『職業としての学問』 うー・・んっ!あ、コレだ!マックス・ウェーバー 薄いし安いわぁ〜 文学作品じゃないけど名著だし! でも、以前に読んだかな? まぁイイわ」
すかさずレジに持ってゆくのでございました。このハナシにオチは金輪際一切無い。


百頁にも満たぬウェーバーの 『職業としての学問』
本当に暇つぶしくらいの時間で読了出来たのであったが、いやはやコレは実に示唆に富む内容でありまして、或は私はこの本をやや過大解釈したのかも知れぬが、それもウェーバーが本作を記したる(語りたる)時代と今日の時代状況に些かの乖離が生じておるコトなどを加味して頂きますれば、あながち御許しを得られぬワケでもないのではと念ずる。すなわち私はこの本の内容を以下のように解釈したのである。そこでまず最初に、本書の締めの部分を<ぶった切り的にではあるが>抽出させて下さいまし。


このことからわれわれは、いたずらに待ちこがれているだけではなにごともなされないという教訓を引きだそう、そしてこうした態度を改めて、自分の仕事に就き、そして「日々の要求」に━━人間関係のうえでもまた職業のうえでも━━従おう。このことは、もし各人がそれぞれの人生をあやつっている守護霊をみいだしてそれに従うならば、容易にまた簡単におこなわれうるのである。


当然のコトながら、未読のモノにとっては、この部分だけを提示されても何が何やら分からぬコト、それは万事請け負うが、要は、学問とは―多様な“価値観”や選択肢が溢れ返ります今日において人々は曖昧な態度や優柔不断な行動に終始しておってはいけません、いけません、それはいけませぬから、そこで学問が人々に果たせる役割はと申せば、彼らが「明確さと責任感」を併せ持った“価値観”を夫々選択致すますよう手助けするコトであって、各自がそうした“価値観”を持つや否や(「人生をあやつっている守護霊をみいだしてそれに従う」コトで)誰しもが豊かで円滑な日々を送ることが出来るんじゃないかい、ってなコトをウェーバーは述べたと私は解釈しておるのですが、これはやはり相当色を付けた理解の仕方なのかも知れません。何ならもう此処まで言ってしまおうか。すなわち汝、一喜一憂せず自らの信念を確立しそれに忠実であれ、学問はその際扶けとなるだろう。
まー、これだけじゃ「職業としての学問」の意味が分かりません。ただ、斯様な具体的な点に於かれましては本文に解り易いカタチにて記されておりますから、此処では言及しますまい。私がこの場にて述べたのは相当程度に抽象化された非常な大枠に過ぎぬのです。


最後に。
今週の木曜にあっては、例の「正倉院展」に赴くはずだったのであるが、どうやらその日は関西全域に渡り天候不良なりとのコトであるので、敢えて一日延期しようではないか。十一月は二日の金曜日、東大寺周辺にて、ニット帽を深く被り、ズボンのポケットに手を入れ、ややうつむき加減で、比較的大股かつ比較的早いペースで移動しておる無精ヒゲの無精な輩がおれば、其れはかなりの高確率で私ではないかしらん。が、職質されるほどは怪しくありません。

2007年10月28日

2007年10月28日 孔子センセイの教え

ネットの上に於かれまして斯くなる格言(?)を発見したので引用させて頂こうではないか。


弟子「先生、処女を貴重だと思う男は多いです」
孔子「その通りだ」
弟子「しかし逆に童貞は女に気持ち悪がられます」
孔子「確かに」
弟子「おかしいじゃないですか、何故このような意識の違いが生まれるのですか」
孔子「それは一度も侵入を許していない砦は頼もしく、 一度も侵入に成功しない兵士は頼りないからだ」


全く孔子恐るべきである。目から鱗が落ちるとは此のコトを申すのかと憚りながら申し上げたき心境にございます。私にとりて上記の文句はエドマンド・バークのそれ(ら)に値する。如何なるモノが斯様なコトを孔子に語らせたのかは存じ上げぬが、確かに仰ります通り攻撃不能のモノに幾許の価値をか見出せと述べる側にこそ無理があるではないか。・・・あっ、オレのモノは何だろう。これは只の突起物であるのか、それとも付着致します位置を誤りたる尻尾であろうか。まぁ、畢竟何でも宜し。機能不全、不完全燃焼の余剰器官、新手の装飾物…フフフフ 自虐ネタは大いに楽し。何故ならば私はM(マゾヒスト)であるから。 アラぁ、結局そのオチですかい。実際においては非常な具合のマゾでは決してあらぬのに。強いて言えば、との註釈付きで解釈願い度くお願い申し上げる。
それにしましても私のとは対照的に其処許のは宜しゅうござんすなぁ・・・


何時の日にか此のモノを駆使しまくってやらんとする大望を抱く休日の朝。心無しか肌寒さが妙に堪えます。

2007年10月27日

2007年10月27日 夢無き日々の嘆き

ヱビスビールを傍らに置き、TBSは「ブロードキャスター」なる怪しげなニオイを漂わせております番組を視聴しつつ此のブログを記すのが此処数ヶ月間の“土曜の夜に於ける日課”になっておるのであった。番組のマズさをビールの美味さが中和してくれる。


いきなりハナシは変わって、世間では斯くの如き言い伝えが流布しておる。曰く「美人は三日で飽きる」
如何様に考慮しても外見の芳しくないモノ―要はブサイクが「美人」に嫉妬して言い出したとしか思えません此の物言いに関してまして、私は次の様に返答するのが常なのであった。すなわち「確かに『美人は三日で飽きる』かも知れんが、『ブサイクは一日も保たない』よ」
そう致しますれば、連中は懲りずにこう反論す。「美人は三日で飽きるが、ブスは三日で慣れる」と。
おう、言うじゃないか。しかしながら貴女の言い分に倣って言うなれば、美人も飽きたのではなくて“慣れた”だけじゃありませんかねぇ。まぁ、三ヶ日を美人と共に過ごすコトが叶い、結果飽きた(慣れた)としても其れを幸せと呼ぶコトに異論はありますまい。一方ブスと三日も過ごさねばならぬ状況下で、結局三日後には慣れたとして、それはある種の不幸及び悲劇ではないのか。
何でも慣れれば良いってモノではありません。


再びハナシは変わって、愈々十一月が目前に迫り来った。平成十九年の年も残すトコロ二月であります。時期としては今頃が最高なのだ。十一月、最早十一の月を積み重ねて来たのである。一月や二月などというのは依然として何も積み重ねがあらぬ状態であるからして、どうしても幼さを拭い去ることが出来ないのでありますが、十一月ともなると数多の月日の重みを感じずにはおられんではないか!そうしてその積み重ねは十二月三十一日、すなわちおおつごもり、今日的な言い方をすれば大晦日にてピークを迎える。私が大晦日を嫌いなコトは昨年の大晦日にお書き致しましたが(参考リンク:安堵できない最後の安楽日)、此処で再度其の由を申せば、大晦日を越境するというのはつまり月日のリセットを意味するのであり、およそ三百と六十五の日を重ねて来ったにも関わらず、翌日は何事もあらぬかのような顔で一月一日の振り出しに戻ってしまうからなのでした。全てが無に帰したような感覚、今までの経験が何か意味のないモノであるかのような錯覚、また同じ道を辿れと命令されますかのような恐怖、そうしたものが大晦日と元旦の間には横たわっておる。
斯くして振り出しに戻るより前の数ヶ月―神無月・霜月・師走は実に心地良い。二桁の数字を目撃するだけで月日の経過を実感させて貰えるでありましょう。其れが大晦日を境にまた一月一日、一月二日…とアタマに送り返されるコトの何たる徒労感であるコトか!


今を貴重なるモノと認識致しますのです。そうして…可能であらばこの辺りに留まっておきたき心境。情けなし。実に情けなき二十二歳であった。

2007年10月23日

2007年10月23日 締めが最悪

台湾から来っておる留学生のKサン(女性)が、秋になりたる故にか否かはいざ知りませぬが、前髪を上げて、常日頃とは若干趣を異にするメイク(アイシャドーのカラー、薄紫の様でもあり水色の様でもある色彩)を施してきたのをそれとなく察知したのまでは良かったが、よく見るとその具合が甚だ宜しかったモノですから、思わず一目惚れしそうになったのはそれほど前のコトであらぬ。初対面の折からそれとなく綺麗なヒトだと思ってはおりましたが、この度の転換に際して「オレ、その髪型と目元好き!」と思わず言いそうになった秋の一日である。


どうもいかぬ。いやはや、私は前髪を上げている女性を好みがちにあるってコト。何故であろう。その原因を探り当ててみようではないか。
おそらくは露出された額、そしてその下に連なる眉毛と瞳のラインに対して<無意識の裡に>何らかの関心を集めているのではないかと推測致す。つまり斯くなる具合である。髪の毛を頭の上部から後部にかけて撤去するコトで著しく見晴らしの良くなりました額に、私はある種の屈託の無さに似た類の開放的な気分を見出す、更に其の下に描かれるやや穏やかな角度で上昇しておる眉毛に潔癖的な自立心とでも言おうか、気丈な「自我」といったモノの影を感じとることが出来ますから、またその屈強な精神を宿すかのような眉毛に近接するカタチにて青や赤や紫といった比較的自己主張の強い色がアイシャドーやアイラインやマスカラに用いられることによりて、非常に澄み切った感慨が演出されておるように感ずるのである。すなわち額―眉毛―目元(の色彩)が一体俄然となりて、そのモノの存在をある種“攻撃的”にある種“能動的”に仕立て上げておるのでありまして、其処には言わば<自意識の不可逆性>ともいうべき状態を志向するかの如く己をストイックに高めんと欲してあるような実直で剛健な有り様が含まれている点と相俟って、私を惹き込んでいくのですけれど。
そうして此の問題は私の“受動的”嗜好―ハッキリ申すと「マゾヒスティック」であるコト―と深い関わり合いを持つように思えてならぬ。くだんの如く前髪を上げたスタイルの女性が包含す“能動的”な明瞭さというモノは、私の内面を支配する“受動的”或は“消極的”性質の隙間に間断無く訴え来たるモノにて、威圧さえするのであった。斯様な攻撃は「マゾヒスティック」に占領されております精神において非常な声援を持って歓迎されるべき有り難き存在であって、是を私は抵抗するコトなど無く、むしろ半ば喜びを伴って屈服するより他に選択すべき道はございません。
これだけの条件がソコには備わっているのだ。


以上が前髪を上げている女性に私が惹き込まれる所以である。
Kサン、アナタのそのスタイルは私にとって多分に堪えるのです。あまり“攻撃的”なのは止しておくれ。お願い、次会う時には以前の御姿に戻っていて欲しいのだ…あまり派手にやられると、好きになっちゃうよ。


こんなクサくて乱暴な締め方で宜しくて?(タイトル参照)

2007年10月20日

2007年10月20日 いざ正倉院へ

夢の無い生涯を送って来ました。
自分には、人間の有り様というものが、見当つかないのです。自分は四国の田舎に生れましたので、アフロヘアーをはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。


人間の資格を失したモノが書きそうな文言が口をついて出る。“人間失格”の証しであろうか。
現在の私は、およそ思い浮かぶ限りの<人間らしい>夢を持てないでおりますので、浅薄なる情熱にでも砂上楼閣に過ぎぬような感動の幻影にでも揺り動かされてみたいと願う。
今夏に私は書きました。以下に引用を施してみたい。


今年の夏休みは名所観光に繰り出そうと思います。遺跡、お寺、意味不明な建築物。色々と見て来きます。名所観光をするのに絶好の位置に住んでいたということを忘却していた。非常に情けない。


夢の無い生涯のままではいけないとココロが慟哭し憔悴し、やがて私を動かす、はずだったのであるが・・・
夢を探索す旅に赴かんと欲しておった初夏。しかしながら日々は淡々と無愛想に流れ、最早霜月が目前まで行進してきておるような現状に至りて、此のままにては<嘘つき>の汚名を着せられんことは必至であります。夏、テメェは何をしておったのかと尋問致されますれば、私は斯く返答するしか方途がございませぬ。即ち「引き蘢って読書若しくは御昼寝、要するに堕落」と。
嗚呼、名所観光の「め」の文字すら望めぬ堕落人生。
活力の無い生涯を送って来ました。


此処に達して愈々名誉挽回のチャンス到来す。秋には起動可能かもしれぬ。いや、一度だけ起動するのだ!
私は赴く! 今秋こそ赴くゾ! 此の場にて高らかに宣誓致します以上、動かぬワケにはいかぬ、というトコロまで己を追求し、或る場所に赴くのです。私自身を赴かせよう。
あ〜あ、言ってしもうた。もう言ったが最後、行くしかありませぬではないか。


今秋、奈良は「正倉院展」に向かうのである。
第55回 正倉院展
平成19年10月27日(土)〜11月12日(月)


ご存知の通り「正倉院展」は期間限定である。毎年この時期にしか公開され得ぬのでありますから、この機会を逸せばまた来年まで我慢せねばならぬので、其れはもうそろそろご勘弁願い度しだ。中学のあの頃、歴史で「正倉院」の存在を知り、奇妙奇天烈なお宝の数々が保管されておる場所だと知るや否や、私の潜在的な盗賊意識が刺激されたコトは嘘であるが、とりあえず一度はその怪しげなるお宝の品々を生で観察しておきたいと願いながら、幾年の秋を見過ごして来たったコトでありましょうか。不覚!今年こそ今年の秋こそ、私は正倉院に赴きましょう。
モチロン一人で行く。何故にか? お友達が存在せぬから。否、単独行動が大好きだから一人で東大寺の周辺をブラブラしたいのであります。平日の昼間に東大寺周辺をウロチョロ、こんなコトが可能なのは老人か学生くらいでございましょうか、もしくは変質者か。
計画と致しましては、10月の29日(月)或は11月の1日(木)の何れかにしたいのであるが、其れは天気の具合などと御相談の上で決定し申し上げよう。
然し乍ら唯一確実な真実は、私は、今秋、奈良は「正倉院展」に向かうのである!


それでは赴いた暁には御土産話の一つや二つを此の場に記してみようと企図しておるのですから、どうぞ交通安全を祈願して、無事に到着及び帰宅が可能なようにアナタ様も念じておって欲しいのでした。
「正倉院」は逃げぬ、今秋の私も逃げぬゾ。


正倉院に行かぬ生涯を送って来ました。今秋までは。
と書ける日よ、もうすぐではないか。

2007年10月19日

2007年10月19日 観客意識と役者意識

恋をしたブログが三つほどあるワケでして、要は三又をかけているのだけど、一つ二つは俗にいう「ミュージシャン」のモノで、三つ目は簡明に申し上げますれば「世間一般のヒト」のモノなのでした。この三者のブログを日々、起床後に決まった順番で巡回するコトによって私のココロは安らぎ得るのですけれども、果たして何故にかヒトのブログを見るコトに些かの興味や喜びといった感情を覚えるのであろうか。此処において私は演劇に数十年携わっているヒトから聞いた次のようなハナシへ帰着するのが常なのであります。すなわちそのお方はこのようにお喋りになられた。


「演劇でもとりわけ近代演劇の面白味の一つとして、他人の生活を覗き見しているような感覚を味わえるという点がある。近代の演劇では舞台の上で何気ない日常を淡々と演じるような類のものが少なからずあって、それはまさに観客にとって、隣の家をコッソリと覗いているかのような錯覚を生じさせ得るものだ。古代の演劇は野外で行われるのが主だったが、近代は屋内で、しかも客席の照明を落としているから、観客は心理的に隠れた場所から他人の生活(舞台の上)を覗いているような感覚を持つ。つまり見る側は徹底的に姿を隠すことができて、演じる側は常に光を浴びて見られているという構図、この落差が、見るモノにとって妙な興奮や関心を呼び起こす。」


この発言の中におかれます重要箇所は、近代演劇と古代演劇とを対比しました場合にあって、古代の観客は野外に座しておった以上、演劇を鑑賞しながら常に己自身も他の観客によって見られる可能性があったのに比して、近代の観客はほとんどが屋内の劇場でしかも照明が落とされた闇の中に座しているワケですから、彼らは畢竟舞台を見るコトに専念できる状態、つまりヒトの目を全く意識しないで純粋に“見る行為”に専従するコトが可能だとする点にある。


それでは何故斯様なるエピソードを引用して来ったのかと申せば、ヒトのブログを見る行為とはまさしく上記のような近代演劇の観客と同等の心理的状況下でなされるモノではないでしょうか、と私が実感致しておるからに他ならぬ。すなわち閲覧者は、何時何処であろうと、また鼻クソをほじりながらであろうと自慰行為をしながらであろうと、それは各々好き勝手な状況でブログに接するコトが可能になってある。彼ら(私)はただ“見る行為”にのみ専念するコトが許容されており、「ああ、コイツの頭はおかしいや姉さん」と思おうが、「このヒトは私と同じくらい陰湿だ」と嫌悪しようが、「このブログの書き手は実は男じゃないか?」と懐疑的な目を向けようが、当然のコトながらソレは自由行為でありまして、斯かる状態は非常にくだらない演劇を見せられた場合に堂々と眠ることが可能な近代の観客の如しではあるまいか。翻って書き手はとなると、「こんなコトは書けない、良心に反する」、「コレを書くと警察沙汰になるかもしれぬ」、「こんなコトを記す必然性はあらへん」等々と苦慮しながら、何かにつけて気を遣わねばなりません。コレこそ他ならぬ舞台上の役者の如き有様ではないか。これら両者の対極こそ実に(近代の)演劇を鑑賞する観客⇔舞台上の役者のソレであるってコト、そしてブログを巡る環境とは、画面越しにおける観客意識と役者意識の創建であるってコト、私は是を言いたかった。(とは言っても、私は此処で古代の演劇の面白味を否定しているワケでは無い。)


そう致しますれば、ヒトのブログを見るコトに些かの興味や喜びといった感情を覚える理由も説明がつくってモンじゃないか。曰く「“見る行為”への専従」である。ヒトのブログを見る行為、それは何のリスクを背負い込むコトもなく、自由に裁定可能でございまして、おまけに「隣の家をコッソリと覗いているかのような錯覚」を抱けるとなれば、これほどお得なモノもありますまいに。けだし、この場合において見る対象はあくまでもバーチャルな存在に転じておる人々の姿に過ぎぬのだが、しかし恐ろしき哉、それが却って見る側のリスクをより葬り去るのです。それでは想像してみるが宜しい。今、アナタの眼前で女装した男が「ホモだ!くたばれ!」と怒られて、怪しげな中年男性に射殺されたのです。さて、アナタはその一連の光景を目撃致しましたから、もう「目撃者」としての社会的なリスクを背負い込むコトになった。幾らかの責任感に苦悩するはずではないか。何故俺はあんなモノを見てしまったのか、何で俺はあの場に居合わせたのか、其れ恐らく一生付きまとう影でありましょう。一方のブログ。ブログに如何なるコトが記述されていようとも、所詮はネット上の婆ちゃんな、いや失礼、バーチャルなモノでしかあらぬ。それ故に場合によっては全く現実性が伴わぬコトだってあろうに。コレに何の責任感が秘められてあるか?
斯様にしてブログを見るという行為は、閲覧者と記述者が別々の空間にて夫々好き勝手な状態で画面越しに対峙しているのでありまして、しかも一方はノーリスク、一方は曇り時々ハイリスクにて、その関係は「深入り」する必要などを全く生起させ得ないモノでもあって、単に“見て終わり”という或る意味では非常に淡白な関係で過ごすことが十二分に可能な状態なのであります。その気楽な性格、何ら圧迫感の無い有り様であるからして、ブログを見る行為は大いに愉快なのです。(斯くなる結論を「我田引水」だと感じましたアナタ、それはおそらく気のせい。もしかして眠いのでは?)


とはいえ、肝心のブログ本体がどのようなモノによって如何なるコトが記載されておるか、この点に関して己の興味関心と合致せるモノが存せねば、根本的な面白味は味わえぬ。
当方の此のブログに関して申し上げれば、日々斯かる事柄を記述致しておるにも関わらず、僅かながらのしかし一定のアクセス数がある。果たして如何なるモノが如何なる態度で見ていますのか。客席の照明が落ちておる以上、私からソチラ側の顔は見えぬが、連日(私のバーチャルな存在に転じた)姿は見られておる以上、ウッカリしておっては観客の失笑を買うコトになりかねません。精一杯の演技をせねばならぬ!

2007年10月18日

2007年10月18日 新たなる主従関係

全く困惑するコト親父がリアルな寝言を言うのをハッキリと見聞した瞬間の如しである。
たとえば―先日或る哲学者の書いた文章を読む機会に巡り会わせたので、甘んじて(失礼!)黙読しておったのですが、是が書きやがる。曰く「オプティミスティックな社会」だと。ハイハイ、誠に結構でござんした。貴公は何人であると申すか。ハーフか? 何人と何人のハーフであるか。日本人なら素直に「楽天的な社会」と書けば宜しいではないか。何が「オプティミスティック」だ。いやはや哲学者なるモノは実にカッコつけの捻くれモノであります。
たとえば―最近朝刊が非常に乱暴に投函されております。新聞を取り始めた最初の期間は非常に非常に丁寧に、まるで「安置」さてれおるのかと見紛いますほど神経質に投函されておったのに、今朝なぞはポストから3センチくらい紙面がはみ出してありました上に、本来はキッチリと四つ折りにされているはずのモノが、グシャっと、いやゴニョっとねじ曲がっておるような具合であり、しかも黄色いチラシが著しく飛び出てあって、おまけに開いてみればテレビ欄の右下が折れているではないか。何たるコト! 思わず「フッ」と笑ってしまったのでした。こんなコトで笑う己に喝を入れたき次第。コレを何かに喩えて申すのならば、男と女の関係の様ではありませぬか。若しくは先輩と後輩の関係の様ではありませぬか。共に、出会ってから最初の間は、お互いの意志が那辺に存すのかを探り合いながら付き合うていこうとするのであるが、時間の推移とほぼ比例して横着になり始め、遂にはまるで相手を見切ったかのように傍若無人なる言動を発散するコトがある。男は女に使われ、先輩は後輩に貶される。歌謡曲などで「出会った頃のように」であるとか「あの頃の二人に」などと歌い上げる曲が珍しくございませんが、そうした事情を思慮すれば、果たして今の私とて陳腐な音楽に同情する感慨を持ち合わせるコトくらいは出来そうなモノなのですけれども。女に命令されることも、後輩に貶されることも経験してきた私、その最初期を想起致しませば、やはり両者は互いに純真又は形式的であった。而して時の経過と共に一方の決壊が崩れるに至りて、忽ちにして立場は決定・逆転す。是即ち主従関係の成立である。この場合、私は常に「従」の関係に甘んじるコトで現状に妥協して来ったのでありましたが、なんともはや今日に達するに及んで、未だ顔すら拝見せざる新聞配達員にまで「従」の関係を強要される事態に陥ろうとは! どんだけ俺ぁMなんだ。アー、ハイハイ、「マゾヒストにもホドがあるぞ」なる指摘、非常に有り難く拝聴致します。いやぁ〜 でもねぇ、この支配されているかの如き状態が堪らんのよ。なんたって俺ぁMだからさ。


ええぇと、「コイツァは何を書いてるんだ?」とお思いになられた方に最後に一言申し上げておきたいのは、こんなペースでこれからもずっと記述していかんと欲しておりまするので、何卒ご容赦下さいまし、ってコト。なぁーに、今に始まったコトじゃ無いよってに。

2007年10月17日

2007年10月17日 幸福な抑制

なぜであろうか、これはどうした事態であろうか。最近心持ちが穏やかすぎて、自分でもいささか奇妙に感ずるのでありました。今日などは昼休みに学校内を移動している時、意味も無く可笑しくなってきて、独りでニヤニヤしながら歩いてしまいそうになりましたので、それではただの変態であろうから、ココはキッと引き締まった表情に整えねばならぬ、と思い、湧き出てくる笑みを抑えるのに必死だったのだ。なんという幸福な抑制であろうか。なんという余裕の程度でありましょうか。怒りや悲しみを抑制するので必死、それはあまりに辛過ぎる事態と推測するけれども、現在の私などはむしろ悲劇をも喜劇と勘違いしてしまいそうなほどに、“意味も無く”嬉々としておるのである。他面バカかもしれぬが、しかしながら見方によってはこれほど幸せなコトもあるまい。能天気も盲目的に判定すれば幸福の部類に属すってコトですわ。いやぁ〜、まいったなー。
日常生活においては、必ずしも楽しいコトが連鎖してはいないコト。むしろ悲しみと隣り合っているコト。けれども源泉不明の笑みに支配されているコト。コレをどう解釈するべきか、悩む、困る。頭がおかしくなってしまったのかと結論付けますのは、自分のコトながら自分に対して哀れなので、そんな風には持って行きませぬ。


嗚呼、誰か一緒に笑おうぜ。
苦悩も嫌悪も倦怠も、笑いに飲み込ませてやれ。
自虐的な開き直りのアジテーションでございましょうか? フフフフフ…

2007年10月13日

2007年10月13日 三十四分の二

髪の毛を六ヶ月以上切っていないのである。そうだ、意図的に切っていないのだ。切り忘れているワケではない。ついウッカリ半年も・・・・ ソレではただの馬鹿じゃないか!
髪の毛を切っていない理由はおよそ三十四個くらいあるのだが、今日はその中から厳選した二つを述べてみようじゃありませんか。
まず第一に、私は来年就活をしなければならぬ。就活をするということは、そうです、学生生活も末期なのである。社会人になってからは、大概長髪などはタブーであるし、それは既に就活の時期からも同然で、掟の上ではいけないことになっている。となれば、今、出来得る限りの力を発揮して髪の毛を伸ばしておかねば、次は果たしていつ自分の長髪を御覧になることが可能でありますかは、もはや運命のみぞ知るってコトであろう。
てやんでい!オレァ学生生活の記念に髪の毛を目一杯伸ばすんでい!
来年の正月後くらいに切る計画を保持しておるが、それまで私の髪の毛は神聖不可侵、刃物が触れられません領域にまで高められました、とさ。
そして二つめ。私の親父は何を思ったのか禿げている。私の気まぐれにより危機を感知致しておりませぬ間に、“遺伝”なる悪魔が我が身に降臨していないとは、誰が言い切れるであろうか。大仰なコトを申し述べたが、つまり、俺もハゲになるんじゃないかしらん、というまるで単独にてアマゾンの秘境に侵入せる時に抱くでありましょう不気味さに似た漠然とした<怪奇なる未来>を身勝手に背負い込むコトで、今日における私の使命は定まったのだ!
ソレが、伸ばせるモノは伸ばせるうちに伸ばしましょう、ってコトでございます。晩年になり、伸ばしたい衝動に駆られたとしても、まさか松山千春氏のようなヘッドになっていては、こちとらメランコリーに支配されちゃうだけ。
さて、斯くして無残にも半年間放置された私の頭髪は、現在耳をほぼ覆い隠すくらいまでに到達致したのです。誠に遺憾ながら、このペースでは到底肩には及ばぬ。畜生。
ついでに無精髭も生やしてやろうと企図し、今週いっぱい顎周辺に髭を蓄えてみたのでありますが、あまりに滑稽、斬新なほど不似合いだったので、本日をもって全面的に剃髪ならぬ剃髭を施した。無念。


今日の流れ。
お昼前に起床。
お昼またぎで朝刊黙読+軽食。もはや“朝”刊の意味が喪失しておる。
1:00〜 丸山眞男「超国家主義の論理と心理」精読+考察。大好きな論文。
3:00〜 剃髭。
3:20〜 テレビを見ながらボーーっとする。抑え切れぬ性衝動。
4:00〜 昼食。もはや“昼”食の意味が喪失しておる。
4:50〜 五時からバイトのため外出。
4:55〜 自転車の前輪がパンクしているコトに気付く。迷った挙げ句、自転車屋に急行。
5:00〜 自転車屋で修理。古くなっていた故に前輪交換。おまけにライトも無理矢理交換させられる。計3200円の出費。
5:17〜 バイト。多少遅れても何も言われないルーズな場所。
9:06〜 バイト終了。帰りに買い物。
9:25〜 帰宅。
9:30〜 とりあえず入浴。PC電源ON。
10:00〜 TBS「ブロードキャスター」を見ながら夕食。
11:00〜 「久々にブログ更新すッか」 記入開始。現在に至る。抑え切れぬ性衝動。


まったく哀れな人生。誰かこんな私に献花でもしておくれ。彼岸花でもイイからさ。…ようし、今日はこの程度で勘弁してやろう。

2007年10月07日

2007年10月07日 情熱は絶えてはいけない

現代文明を象徴するインターネットをコッソリと駆使して遊んでいたら、なんと驚くべきコトに、高校時代に教えを受けた国語の日影千草センセイ(仮名)のブログに到達してしまったのである(このセンセイの外見が「月影千草」に似ているコトはあまり公言すべきではありません。ただアソコまで老けてはいないのであるけれど)。いやはや、知っておる方のブログを視認するコトの不意をつかれたような驚きに加えてくすぐったいような喜びと、そして猫に引っ掻かれた時のような困惑は如何なる言葉をもって社会に反映させるのが妥当なのであることだろうか。私の中に保存されておる日影センセイは、もの凄く落ち着いた表情で古典の授業を丁寧に進行していきますイメージが鮮明な故に、どうしても現代の産物たるブログと助動詞「す」の活用「せ・せ・す・する・すれ・せよ」を唱えていたアノ御姿が重なり合わないでいる。
見た目は寡黙そうで不機嫌そうな魔性のベールを纏った日影センセイ、突然テンションが沸騰するコトのある日影センセイ、体が決して丈夫にはなっていなかった日影センセイ、変なタイミングで笑い出すコトのあった日影センセイ。
未だその記憶は薄れるコトなくあり。


演劇部の顧問も務め、自ら脚本も書き、大きな大会で賞も獲得しました日影センセイが(毎日欠かさず!)ブログに綴る文章は、やはり整然としていながらも、スクっと己の感情を控えめに注入することの多い、しかしながら教師という仕事に熱き情熱を抱き続けていることを感じさせます、胸に微細な電流を走らせてくれるものでした。お元気そうで何よりです。いきなり不躾な言辞を弄しまして申し訳御座いません。
日影センセイがお書きになられた脚本も、指揮棒を振るわれた演劇部の御芝居も、私は一度も目撃しておりませぬが、センセイの可憐な精神がもたらす演劇への情熱は多分に人々の中に浸透しておることと想像致しておるのです。


教師たるもの無条件に学生から呼び捨てにされるという誠に不条理な宿命を抱えているのであるコトは疑うべくも無いが、また私も複数のセンセイをコッソリと陰湿に呼び捨てにした経験は幾多ありまして、しかし媚びているワケでは無く真正直に申し上げたいコトは、今までに日影センセイを呼び捨てにした記憶はございません、との何の気勢も伴わない事実の発表に他ならぬ。こうした例は、私の中では二例しか無く、いま一つは現在お世話になっているセンセイであるってコトを意味は無いながらも併記しておこうではないか。もう身も蓋もないハナシ、それ以外のセンセイというセンセイは、悉く呼び捨てにするかアダ名で指名しておるのです。当然陰でのコトなのだが、いやいや・・・ それに対して日影センセイは、何であろうか、我々が呼び捨てにできないような不可思議なオーラを持っておった。


思い出話はこの辺にしておきたいのである。そして、もうセンセイとはお会いできる機会も無いと想定するのである。けれども、こうやって間接的にではあるが、日影センセイの現在を(ほぼ覗き見的にだけれども)窺い知るコトが可能な場があるコトに対しては、殊に現代文明への謝意を表せねばなるまい。
センセイ、情熱を絶やさず、生徒を立派に巣立たせてあげて下さい。呉々も私のようなモノを外に送り出してはなりませんゾ。


「読書百遍意自ずから通ず」
センセイがよく口にした言葉でありますね。今もなお胸に抱きつつ…
未だその記憶は薄れるコトなくあり。

2007年10月06日

2007年10月06日 麻生さんにある余裕

何による影響かはいざ知りませぬが、政治家の印象なるモノは概して芳しくない。曰く汚職、天下り、賄賂、談合、強欲、傲慢、大金、裏工作、裏取引・・・
「国民のため」との言質など所詮は票獲得のための戯れ言に過ぎぬではないか、とのご指摘は或る意味においては尤もなご意見でありましょう。しかし、斯かる陰気な風潮に棹さす如く、独自の路線を突っ走り、一部世間では非常な好評を博しておる“偉大な”方もいらっしゃる。その一人が麻生太郎氏ではありませぬか。


麻生太郎氏「2ちゃん、時々書き込む」


この世の中、何を意識してかなかなかに口外し辛いコトもございましょう。「世間」と呼ばれる得体の知れぬ影に脅えながら、ヒトは己の中に複数の影を宿す。殊に政治家たるモノ、その影は幾重にも重なる綴れ織りなのでありまして、果たしてどこまでがまだセーフティーゾーンでどこからがもうデッドゾーンなのか明瞭ならざるコト、実に「犬が西向きゃ尾は東」状態と言えよう。斯様な人々の心理を逆手に取るかのように、堂々と「(2ちゃんねるに)書いたりなんかすることは、時々やったりすることがありますよ」と申し上げる麻生氏は、実にそのセーフティーゾーンが広大であり、民からすれば、そのオープンさ、すなわち氏の開放的立ち居振る舞いには一種の安堵感すら覚えてしまうほど光沢があると言っても宜しいのではないでしょうか。さすがに扉を開け過ぎるのは不用心であるが、まだこのラインならどうってコトはあるまい。「2ちゃんねらー」総理大臣が誕生し得る世の中で何が悪しきか。
まったく世の中は閉塞しておる。借金を抱え自殺を図るのは安田忠夫に限ったコトでありませぬコトは、今日の小学生ですら自覚するトコロのモノでございます。こうした時世を捉え、人々の意識下に巧みに侵入せるのが、有能な政治家ではないのか。麻生氏のオープンな言動が社会に何を齎すか、いかなる影響を与え得るか。つまるところ、それは「安心感」の寄与に他ならぬではありませぬか。何かを身近に感ずる喜びを現代の人々が必要とし、それにより精神が満たされ、向上すると言うのであれば、麻生氏のような人柄を保持する政治家こそが、“現代社会”なるモノに実に適合せる人物ではありますまいか。[「2ちゃんねる」の隆盛と時代の閉塞感といったものが、どのような連関の中にあるか。コレもまた大いなる問題であり、別個に検討を要す。ここでは差し当たり、一つの媒介を経て人々の連座意識が直接・間接的に私たちに「安心感」を生起させる要因となる、と言うに留めておくことでご容赦願いたい。]
「2ちゃんねる」を敬遠・忌避するモノは数多であり、私もその故は解さぬワケではございませぬが、同時にソレが我が国の文化の一形態を示すモノにまで発達したという現状を鑑みる限りにおいて、ソコを無視してやり過ごす行為もまた不自然かつ傲慢、もしくは詐称的と言われかねません。「民意」というほど過剰ではあらぬが、今日的な社会の一部品としての認識をソコに当てても別段怪しくは無いであろうってモンだ。そうしてココに「あれはなかなかいいとこ突いて…新聞記事なんかよりよっぽどいいとこ突いてますよ」とする意見が一政治家の口から放出されるコトも、自然な時流というモノだろう。


麻生氏が裏に何らかの意図を所持して「2ちゃんねる」に肯定的評価を与えたのか否かは判断しかねておるが、少なくともこの発言は、従来の政治家の壁を一歩乗り越えたトコロの、一部の人々に多少の安心感と親近感を与え、かつ負の要素が前面に出現しがちな政治家の姿を、僅かでも方向転換させ得るマジックを伴うモノではありませんか(一方で、「2ちゃんねる」に肯定的見解を示したコトへの反発も当然予期され得る事態であるが)。ココまでの評価は過大でほぼ装飾品だと受け止められるかもしれませんが、私は少なくとも麻生氏のコノ発言に、近来の政治家の殻を破るような新たな方向性を見たいのである。まさに希望的観測と言って退ければ、確かにそうに違いないのであるが、しかしながら「民意」なるモノを政治家が獲得するための手法として、斯様な一歩が顧みられるコトがあっても良いであろう。もしかすると麻生氏には半ば“悪ノリ”のような、イタズラっぽい心持ちがあるのかもしれぬが、そこから逆説的・肯定的に氏の言動を見ようとしてみた時においては、こうした余裕こそが民に活力を与える契機となるのではないかと思う向上的感情がサワサワと湧き起こってきておる。三度総裁の座を逃したとはいえ、斯かる余裕と見られる心情を吐露する姿勢は、政治家に求められる一つの要素でございましょう。これからも気が向いたら書き込む姿勢を保ち続けてもらった方が良いと思うのであった。

2007年10月04日

2007年10月04日 マナカナ運動会

前々回「運動会など廃止しちゃった方がイイんでないかい?」ってな、多少の嫌みと大いなるコンプレックスとを含蓄する無謀なる提案を披瀝してみたのでありましたコトは、比較的記憶に新しい事柄であろうかと推察致しますが、さぁ、やってきた運動会シーズン。先週・今週にかけて、叩き売りの如く開催されておる。近所の小学校だけに限らず、通学途中の小学校においても、またバイト先に隣接する小学校においても、あたかも義務であるかのように、強迫観念に迫られているのかと疑わざるを得ないほどに、至るトコロで運動会運動会なのでございます。よくもまぁ、飽きずに毎年毎年やっておる。「継続は力なり」転じて「反復は義務なり」としか思えないような、代わり映えのしない行事なのであります。続けているとは言わせません、同じコトを毎年、参加者の顔ぶれを入れ替えて、反復させられているだけに過ぎぬのである。其処の基底には目に見えぬ不可思議な「教典」のようなモノが沈潜しており、それは表向きに「プログラム」と称される形式をもって私たちに提供されているモノに他ならぬのですが、コレがやむを得ぬ反復活動の基点となるコトは最早言うに及ばず、そら、懐疑的、疑心暗鬼になって、昨年配布されたソレと今年配布されるソレを、家族団欒の場で、お茶の間で、夕食後の空き時間で、若しくは一人きりの居間または雪隠で、比較検討されてみるが宜しい。あら、明瞭なる哉、詐術的なる哉、一卵性双生児の様相を呈しているではないか! 昨年の運動会が“マナ”なら今年のモノは“カナ”であろうか。斯くしてここに運動会の“マナカナ”が誕生するのであった。
而して、だが、反復は反復に過ぎぬのかもしれませんが、それが「伝統」となり、末永く伝えられていくのでしたら、どうしてソレを一方的に切り捨てられるであろうか。私たちは或る物事に対して一卵性双生児であると理解しながらも同一なる行動を繰り返し、「反復は義務なり」→「継続は力なり」とその意義を半ば無理矢理にではあってもプラスに転換することで、何ものかを維持して来ったのではありませんか。


ココに至りて(投げやりの)理解と(アンニュイな)現実との乖離が生ずる。
「よーい」の後に朗らかに打ち鳴らされる“パンッ!”という乾いた音が、今になって胸中深くに仕舞い込んだはずのホロ苦き記憶を、イタズラで小悪魔的微笑を伴って、刺激する。戻りたくはない瞬間に引き落とされそうな思いに駆られる、とはやや過剰な表現でありましょうか。
久々に飲用せしコーヒーは、予期していたモノより苦みが強烈であった。コレが「大人の味」であると申すのなら、私はいっそ子供のままでいたいと願わずにはおれない。但し、運動会だけは‘容赦なく’勘弁致し度くお願い申し上げます。黙拝。

2007年10月02日

2007年10月02日 なんちゃ〜がやないぞなもし

「たいようのマキバオー」にて「なんちゃ〜かやない」なる方言が颯爽と登場しているにも関わらず、四国出身の私にもコノ高知の言葉はよく分からないのであった。
大雑把に述べますと、四国四県の中で香川・徳島は比較的関西弁に近い言葉を駆使し、愛媛・高知はかなり独特の言葉を発揮するのであります。そういうワケで、四国にいても、出身地が異なれば、分からない言葉も多々あるのです。
けれども「なんちゃ〜かやない」の「なんちゃ〜」は分かりまして、わたくしの父なども「なんちゃ〜無い」などとするセリフを、野良犬のように吐いておりました。そういうワケで、すなわち「なんちゃ〜」とは「何にも」だとか「何も」だとか「全然」だとか、大概その程度の意味になっちゃうのだ。
って、問題なのは「がやない」の方であって、こんな言葉は今までに一度も聞いた経験が無かった。高知の方言なのかしらんが、いったいどういう意を有しているのでありましょうか。前後の文脈から推測するに及んで、この場合「大丈夫」だとか「平気」といった立ち位置になるようであるが、すると「がやない」の「ない」に注目してみると、むしろ「問題ない」と受け取った方がスムーズであろう。
斯様にして、私は、「なんちゃ〜かやない」を「何も問題ない」と解したのであったが、果たしてコノ解釈が正しいか否かは漠然としておる。


方言ってのは、いったいぜんたいその地に居る者でなければ<生>の意味を、つまり“生きた意味”を奪取することはできません。何も知りはせぬ余所者が、容易に触れられぬ場所には安置されておらぬ。
前述の如く私は四国出身であるが、聞いたコトのない四国の方言は、それこそ文字通り「山ほど」あるってコトです。漱石の『坊ちゃん』は、愛媛は松山を舞台にしながら、その松山を扱き下ろしたコトで、まぁ有名な小説ですが、その中で頻繁に用いられておる「ぞなもし」なる日本語は、未だかつて聞いたことがございません。漱石は「お気をお付けたがええぞなもし」であるとか「山嵐て何ぞなもし」だなどと登場人物に言わせているのであるが、どうもこの世のモノとは思えない日本語で、果たしてなかなか解せない。こんな言葉を吐き出す人々などを私は存ぜぬ。松山のどこに行けば、くだんの如き日本語を喋るモノがいるぞなもし。教えてくれぞなもし。そんなん、なんちゃ〜がやない、松山城の近くにいけば会えるぞなもし。ホラ、道後温泉があって・・。 道後温泉は松山城に近くないぞなもし、2キロくらい離れとるけん、松山城の近くには県庁なんかがあったような気がするぞなもし。
私も松山のことはよく知らぬ存ぜぬ。四国だって狭いようで広いちゅうワケか。日本と同じようなモンかいな。


一年と10ヶ月続けて来たこのブログなのであるが、正直、やり直したい情熱に駆られてしまった。色々経てきたが、もう過去のモノとはオサラバ、バイバイ。そういうワケで今日から再スタートであり、私の中では今日のコレが最初の投稿に認定されております。今までのは助走ってコトで堪忍して戴きたくお願い申し上げたき思い。ああ、だが、行き詰まれば放棄するか放置するかもしれぬぞなもし。

2007年10月01日

2007年10月01日 独裁者の気分

「教育改革」だとか何だとか言われている昨今ですが、私が独裁者にでもなって「教育改革」に着手するのなら、次のようにします。(「独裁者」である以上、その者がやることは全て独善的(気狂い的)になります。←ココ超重要)


現在の「教育改革」では、週当たりの授業数を増やすなどという案がありますが、そんなコトは不必要。次の4点を実施するだけで、脱ゆとり教育が可能です。


1.公立学校での体育の廃止=体育教師の全面廃止
2.運動会・体育祭/クラスマッチの廃止
3.修学旅行/遠足の廃止
4.頻繁に教員の実力判定を実施


それでは1の「公立学校での体育の廃止」から説明します。
大体体育は週に3回くらいありますが、あんなものは百害あって一利なしです。その3回は他の授業に使いましょう。運動など授業でやらなくとも、昼休みなどに校庭や学校内の施設でやらせる等の処置をとれば良いのです。そもそも体育教師などという連中は、中高生時代から大学時代に至るまで“一つ”のスポーツをずーとやり続けて来たようなヤツらばかりです。ある特定の競技以外には何の知識も持ち合わせていないようなヤツ。威勢だけが取り柄。つまり「教師」というには相応しくなく、公務員としてはただの税金泥棒のようなモノ。そんなのを雇う必要は無い。将来のことも視野に入れてスポーツを専門的にしたい者は、公立学校以外でやりましょう。体育教師を全面廃止すれば、相当なお金が浮いてきます。スポーツをしたいけれど公立学校以外では金銭的に苦しい者に対しては、体育教師を廃止して出てくるお金を充てて支援してあげれば良いのです。「公立学校での体育の廃止」は「公務員改革」にもなります。
あるいは、最低限度の運動が必要だというのならば、月に1度か2度の体育は構いません。しかしその場合は、手の空いている数学や国語や社会科の教師が監督をすれば良いのです(その場合、特別手当が付くようにする)。特に水泳の授業をするのであれば、ある程度泳ぎが得意な先生を充てる(ちなみに私が通っていた高校に、ほとんど泳げない体育教師がいた。それは明らかに無意味である)。いや、それよりもいっそのことプールなど取り壊して、そこに別の施設を建設すべきであろうか?


2の「運動会・体育祭・クラスマッチの廃止」についてはもう言うまでもありませんね。1に連動してこういう処置になるのです。例年「運動会・体育祭/クラスマッチ」をしていた日はモチロン授業に回す。特に「運動会・体育祭」は練習や準備なんかにも結構な時間がかかるから、コレを廃止するだけで実質3日分=約15〜20時間分くらいの授業時間が確保できます。効率的!


3の「修学旅行/遠足の廃止」。こんなものは現代において、もはや不必要です。いまさら集団で旅行に行く必然性なんてありましょうか? お金もかかります。修学旅行を廃止すれば、またかなりの授業時間が確保できます。それに加えて、学校や行政が修学旅行のために負担していたお金を授業のために用いれば良いのです。つまり教材や学校の施設を充実させるために。
昔は比較的貧しく、家族や知人との旅行も限られていたから、学校で旅行に行くコトが重宝されたのでしょうが、もはやそんなモノは不必要。時代遅れの典型です。
遠足に関しても同様であります。まぁ、一度や二度くらい息抜きとして必要かもしれませんが、毎年行く必要などはありません。


4の「頻繁に教員の実力判定を実施」というのは、どれだけ授業時間が確保出来て、どれだけ施設や教材が充実しても、肝心の教師がダメならば意味がありません。ロクでもない教師を発見するために、かなり念入りな実力判定をして、篩に掛けましょう。実力判定の方法も複数考え出して、様々な基準を参照するのが理想的ですね。
現在、教師希望者の数は多過ぎるくらいいると言われています。教師になりたい者が溢れ返っているのです。ロクでもない教師が教壇を占有し続ける現状は撤廃されるべきです。実力と熱意のある者が子供たちの前に出られる状況を作り出しましょう。


大雑把に述べると、こういうコトをしてみるだけで、脱ゆとり教育が可能となるでしょう。
あとは最近取り上げられている「道徳」の必須化とか、馬鹿親に対する対処方法や、授業で扱う範囲(特に数学-算数-や歴史)なども、教育現場においては重要な問題です。しかしまずは上記の4大改革を実施して、環境整備から!
学校の在り方を考え直す必要があるのです。


以上、「独裁者」の気狂い「教育改革」提言でした。

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