« 幸福な抑制 | もどる | 観客意識と役者意識 »

2007年10月18日 新たなる主従関係

全く困惑するコト親父がリアルな寝言を言うのをハッキリと見聞した瞬間の如しである。
たとえば―先日或る哲学者の書いた文章を読む機会に巡り会わせたので、甘んじて(失礼!)黙読しておったのですが、是が書きやがる。曰く「オプティミスティックな社会」だと。ハイハイ、誠に結構でござんした。貴公は何人であると申すか。ハーフか? 何人と何人のハーフであるか。日本人なら素直に「楽天的な社会」と書けば宜しいではないか。何が「オプティミスティック」だ。いやはや哲学者なるモノは実にカッコつけの捻くれモノであります。
たとえば―最近朝刊が非常に乱暴に投函されております。新聞を取り始めた最初の期間は非常に非常に丁寧に、まるで「安置」さてれおるのかと見紛いますほど神経質に投函されておったのに、今朝なぞはポストから3センチくらい紙面がはみ出してありました上に、本来はキッチリと四つ折りにされているはずのモノが、グシャっと、いやゴニョっとねじ曲がっておるような具合であり、しかも黄色いチラシが著しく飛び出てあって、おまけに開いてみればテレビ欄の右下が折れているではないか。何たるコト! 思わず「フッ」と笑ってしまったのでした。こんなコトで笑う己に喝を入れたき次第。コレを何かに喩えて申すのならば、男と女の関係の様ではありませぬか。若しくは先輩と後輩の関係の様ではありませぬか。共に、出会ってから最初の間は、お互いの意志が那辺に存すのかを探り合いながら付き合うていこうとするのであるが、時間の推移とほぼ比例して横着になり始め、遂にはまるで相手を見切ったかのように傍若無人なる言動を発散するコトがある。男は女に使われ、先輩は後輩に貶される。歌謡曲などで「出会った頃のように」であるとか「あの頃の二人に」などと歌い上げる曲が珍しくございませんが、そうした事情を思慮すれば、果たして今の私とて陳腐な音楽に同情する感慨を持ち合わせるコトくらいは出来そうなモノなのですけれども。女に命令されることも、後輩に貶されることも経験してきた私、その最初期を想起致しませば、やはり両者は互いに純真又は形式的であった。而して時の経過と共に一方の決壊が崩れるに至りて、忽ちにして立場は決定・逆転す。是即ち主従関係の成立である。この場合、私は常に「従」の関係に甘んじるコトで現状に妥協して来ったのでありましたが、なんともはや今日に達するに及んで、未だ顔すら拝見せざる新聞配達員にまで「従」の関係を強要される事態に陥ろうとは! どんだけ俺ぁMなんだ。アー、ハイハイ、「マゾヒストにもホドがあるぞ」なる指摘、非常に有り難く拝聴致します。いやぁ〜 でもねぇ、この支配されているかの如き状態が堪らんのよ。なんたって俺ぁMだからさ。


ええぇと、「コイツァは何を書いてるんだ?」とお思いになられた方に最後に一言申し上げておきたいのは、こんなペースでこれからもずっと記述していかんと欲しておりまするので、何卒ご容赦下さいまし、ってコト。なぁーに、今に始まったコトじゃ無いよってに。

« 幸福な抑制 | もどる | 観客意識と役者意識 »