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2007年10月19日 観客意識と役者意識

恋をしたブログが三つほどあるワケでして、要は三又をかけているのだけど、一つ二つは俗にいう「ミュージシャン」のモノで、三つ目は簡明に申し上げますれば「世間一般のヒト」のモノなのでした。この三者のブログを日々、起床後に決まった順番で巡回するコトによって私のココロは安らぎ得るのですけれども、果たして何故にかヒトのブログを見るコトに些かの興味や喜びといった感情を覚えるのであろうか。此処において私は演劇に数十年携わっているヒトから聞いた次のようなハナシへ帰着するのが常なのであります。すなわちそのお方はこのようにお喋りになられた。


「演劇でもとりわけ近代演劇の面白味の一つとして、他人の生活を覗き見しているような感覚を味わえるという点がある。近代の演劇では舞台の上で何気ない日常を淡々と演じるような類のものが少なからずあって、それはまさに観客にとって、隣の家をコッソリと覗いているかのような錯覚を生じさせ得るものだ。古代の演劇は野外で行われるのが主だったが、近代は屋内で、しかも客席の照明を落としているから、観客は心理的に隠れた場所から他人の生活(舞台の上)を覗いているような感覚を持つ。つまり見る側は徹底的に姿を隠すことができて、演じる側は常に光を浴びて見られているという構図、この落差が、見るモノにとって妙な興奮や関心を呼び起こす。」


この発言の中におかれます重要箇所は、近代演劇と古代演劇とを対比しました場合にあって、古代の観客は野外に座しておった以上、演劇を鑑賞しながら常に己自身も他の観客によって見られる可能性があったのに比して、近代の観客はほとんどが屋内の劇場でしかも照明が落とされた闇の中に座しているワケですから、彼らは畢竟舞台を見るコトに専念できる状態、つまりヒトの目を全く意識しないで純粋に“見る行為”に専従するコトが可能だとする点にある。


それでは何故斯様なるエピソードを引用して来ったのかと申せば、ヒトのブログを見る行為とはまさしく上記のような近代演劇の観客と同等の心理的状況下でなされるモノではないでしょうか、と私が実感致しておるからに他ならぬ。すなわち閲覧者は、何時何処であろうと、また鼻クソをほじりながらであろうと自慰行為をしながらであろうと、それは各々好き勝手な状況でブログに接するコトが可能になってある。彼ら(私)はただ“見る行為”にのみ専念するコトが許容されており、「ああ、コイツの頭はおかしいや姉さん」と思おうが、「このヒトは私と同じくらい陰湿だ」と嫌悪しようが、「このブログの書き手は実は男じゃないか?」と懐疑的な目を向けようが、当然のコトながらソレは自由行為でありまして、斯かる状態は非常にくだらない演劇を見せられた場合に堂々と眠ることが可能な近代の観客の如しではあるまいか。翻って書き手はとなると、「こんなコトは書けない、良心に反する」、「コレを書くと警察沙汰になるかもしれぬ」、「こんなコトを記す必然性はあらへん」等々と苦慮しながら、何かにつけて気を遣わねばなりません。コレこそ他ならぬ舞台上の役者の如き有様ではないか。これら両者の対極こそ実に(近代の)演劇を鑑賞する観客⇔舞台上の役者のソレであるってコト、そしてブログを巡る環境とは、画面越しにおける観客意識と役者意識の創建であるってコト、私は是を言いたかった。(とは言っても、私は此処で古代の演劇の面白味を否定しているワケでは無い。)


そう致しますれば、ヒトのブログを見るコトに些かの興味や喜びといった感情を覚える理由も説明がつくってモンじゃないか。曰く「“見る行為”への専従」である。ヒトのブログを見る行為、それは何のリスクを背負い込むコトもなく、自由に裁定可能でございまして、おまけに「隣の家をコッソリと覗いているかのような錯覚」を抱けるとなれば、これほどお得なモノもありますまいに。けだし、この場合において見る対象はあくまでもバーチャルな存在に転じておる人々の姿に過ぎぬのだが、しかし恐ろしき哉、それが却って見る側のリスクをより葬り去るのです。それでは想像してみるが宜しい。今、アナタの眼前で女装した男が「ホモだ!くたばれ!」と怒られて、怪しげな中年男性に射殺されたのです。さて、アナタはその一連の光景を目撃致しましたから、もう「目撃者」としての社会的なリスクを背負い込むコトになった。幾らかの責任感に苦悩するはずではないか。何故俺はあんなモノを見てしまったのか、何で俺はあの場に居合わせたのか、其れ恐らく一生付きまとう影でありましょう。一方のブログ。ブログに如何なるコトが記述されていようとも、所詮はネット上の婆ちゃんな、いや失礼、バーチャルなモノでしかあらぬ。それ故に場合によっては全く現実性が伴わぬコトだってあろうに。コレに何の責任感が秘められてあるか?
斯様にしてブログを見るという行為は、閲覧者と記述者が別々の空間にて夫々好き勝手な状態で画面越しに対峙しているのでありまして、しかも一方はノーリスク、一方は曇り時々ハイリスクにて、その関係は「深入り」する必要などを全く生起させ得ないモノでもあって、単に“見て終わり”という或る意味では非常に淡白な関係で過ごすことが十二分に可能な状態なのであります。その気楽な性格、何ら圧迫感の無い有り様であるからして、ブログを見る行為は大いに愉快なのです。(斯くなる結論を「我田引水」だと感じましたアナタ、それはおそらく気のせい。もしかして眠いのでは?)


とはいえ、肝心のブログ本体がどのようなモノによって如何なるコトが記載されておるか、この点に関して己の興味関心と合致せるモノが存せねば、根本的な面白味は味わえぬ。
当方の此のブログに関して申し上げれば、日々斯かる事柄を記述致しておるにも関わらず、僅かながらのしかし一定のアクセス数がある。果たして如何なるモノが如何なる態度で見ていますのか。客席の照明が落ちておる以上、私からソチラ側の顔は見えぬが、連日(私のバーチャルな存在に転じた)姿は見られておる以上、ウッカリしておっては観客の失笑を買うコトになりかねません。精一杯の演技をせねばならぬ!

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