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2007年10月31日 オッサンの「何か買え」オーラの怪

学び舎からの帰宅道中、以前に一度だけ目撃しておった書店に行ってみようと思い現実に行ったのでした。私はその書店を古書店即ち古本屋だとばかり思っていたのにも関わらず、実際はこじんまりとした至ってフツウの本屋、新品ばかりが並んでおる街の外れに位置する個人経営の本屋だという事実に対面したのであった。


入店してみれば、店内には客である私と店主と思われるオッサンの二人きりではないか。豈図らんや、いきなりラブラブモード全開である。
「ん〜、何かイイ本はあるまいか」と狭い店内をウロウロ。しかし好奇心は間もなく失望に転化す。「うぅロクな本が無いや」


「・・・・・・・・」
微妙な空気が店内を支配し始めて来る。重たき雰囲気がオッサンの鼻から抜けて私の双肩にのしかからんと致しますので、愈々困惑してゆき、妙なプレッシャーを実感せねばならぬ様態に陥るのです。
「…んっ!? コレはアレか、オレぁこのまま店を出てエエんかいな 散々粘っといて何も買わずに店を出るのはチョット気まずくないかい ねぇー」
案の定意味の分からない気の遣い方をしてしまう。さぁ、ココに至りて訪れるのは他でもない、強迫観念です。
「なーに−か買わないと! ええーっと 面白そうな本は、と。高いのはダメだな。安くて暇つぶしに読めそうな本は、と…」ちょっと焦りたる心境。もう何かを買わなければいけなくなってしまっておる。既成事実化である。そうしまして小声で目に入りました本の名前を読み上げていったのです。
「『鈍感力』 この本売れてるなー 『不動心』…松井秀喜 ええーと『風水』何とか どーでもいーわ え〜上の方に何か面白いのがあるような・・・『高松宮日記』・・『高松宮日記』!? 欲しいぃ〜 こんな小さな書店に何でこんなモンが!」
この時、私は一瞬だけ『高松宮日記』を購入せんと決意しそうになったのであったが、しかしそれは最早どうでも良かろう。懊悩は続く。
「ああ、そうだ外国の文学でも。ええーと、スティーブン・キング・・ 『ゲーテ格言集』 ・・・『ヘッセ詩集』持ってるわ う〜ん、イマイチだなー 『職業としての学問』 うー・・んっ!あ、コレだ!マックス・ウェーバー 薄いし安いわぁ〜 文学作品じゃないけど名著だし! でも、以前に読んだかな? まぁイイわ」
すかさずレジに持ってゆくのでございました。このハナシにオチは金輪際一切無い。


百頁にも満たぬウェーバーの 『職業としての学問』
本当に暇つぶしくらいの時間で読了出来たのであったが、いやはやコレは実に示唆に富む内容でありまして、或は私はこの本をやや過大解釈したのかも知れぬが、それもウェーバーが本作を記したる(語りたる)時代と今日の時代状況に些かの乖離が生じておるコトなどを加味して頂きますれば、あながち御許しを得られぬワケでもないのではと念ずる。すなわち私はこの本の内容を以下のように解釈したのである。そこでまず最初に、本書の締めの部分を<ぶった切り的にではあるが>抽出させて下さいまし。


このことからわれわれは、いたずらに待ちこがれているだけではなにごともなされないという教訓を引きだそう、そしてこうした態度を改めて、自分の仕事に就き、そして「日々の要求」に━━人間関係のうえでもまた職業のうえでも━━従おう。このことは、もし各人がそれぞれの人生をあやつっている守護霊をみいだしてそれに従うならば、容易にまた簡単におこなわれうるのである。


当然のコトながら、未読のモノにとっては、この部分だけを提示されても何が何やら分からぬコト、それは万事請け負うが、要は、学問とは―多様な“価値観”や選択肢が溢れ返ります今日において人々は曖昧な態度や優柔不断な行動に終始しておってはいけません、いけません、それはいけませぬから、そこで学問が人々に果たせる役割はと申せば、彼らが「明確さと責任感」を併せ持った“価値観”を夫々選択致すますよう手助けするコトであって、各自がそうした“価値観”を持つや否や(「人生をあやつっている守護霊をみいだしてそれに従う」コトで)誰しもが豊かで円滑な日々を送ることが出来るんじゃないかい、ってなコトをウェーバーは述べたと私は解釈しておるのですが、これはやはり相当色を付けた理解の仕方なのかも知れません。何ならもう此処まで言ってしまおうか。すなわち汝、一喜一憂せず自らの信念を確立しそれに忠実であれ、学問はその際扶けとなるだろう。
まー、これだけじゃ「職業としての学問」の意味が分かりません。ただ、斯様な具体的な点に於かれましては本文に解り易いカタチにて記されておりますから、此処では言及しますまい。私がこの場にて述べたのは相当程度に抽象化された非常な大枠に過ぎぬのです。


最後に。
今週の木曜にあっては、例の「正倉院展」に赴くはずだったのであるが、どうやらその日は関西全域に渡り天候不良なりとのコトであるので、敢えて一日延期しようではないか。十一月は二日の金曜日、東大寺周辺にて、ニット帽を深く被り、ズボンのポケットに手を入れ、ややうつむき加減で、比較的大股かつ比較的早いペースで移動しておる無精ヒゲの無精な輩がおれば、其れはかなりの高確率で私ではないかしらん。が、職質されるほどは怪しくありません。

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