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2007年10月27日 夢無き日々の嘆き

ヱビスビールを傍らに置き、TBSは「ブロードキャスター」なる怪しげなニオイを漂わせております番組を視聴しつつ此のブログを記すのが此処数ヶ月間の“土曜の夜に於ける日課”になっておるのであった。番組のマズさをビールの美味さが中和してくれる。


いきなりハナシは変わって、世間では斯くの如き言い伝えが流布しておる。曰く「美人は三日で飽きる」
如何様に考慮しても外見の芳しくないモノ―要はブサイクが「美人」に嫉妬して言い出したとしか思えません此の物言いに関してまして、私は次の様に返答するのが常なのであった。すなわち「確かに『美人は三日で飽きる』かも知れんが、『ブサイクは一日も保たない』よ」
そう致しますれば、連中は懲りずにこう反論す。「美人は三日で飽きるが、ブスは三日で慣れる」と。
おう、言うじゃないか。しかしながら貴女の言い分に倣って言うなれば、美人も飽きたのではなくて“慣れた”だけじゃありませんかねぇ。まぁ、三ヶ日を美人と共に過ごすコトが叶い、結果飽きた(慣れた)としても其れを幸せと呼ぶコトに異論はありますまい。一方ブスと三日も過ごさねばならぬ状況下で、結局三日後には慣れたとして、それはある種の不幸及び悲劇ではないのか。
何でも慣れれば良いってモノではありません。


再びハナシは変わって、愈々十一月が目前に迫り来った。平成十九年の年も残すトコロ二月であります。時期としては今頃が最高なのだ。十一月、最早十一の月を積み重ねて来たのである。一月や二月などというのは依然として何も積み重ねがあらぬ状態であるからして、どうしても幼さを拭い去ることが出来ないのでありますが、十一月ともなると数多の月日の重みを感じずにはおられんではないか!そうしてその積み重ねは十二月三十一日、すなわちおおつごもり、今日的な言い方をすれば大晦日にてピークを迎える。私が大晦日を嫌いなコトは昨年の大晦日にお書き致しましたが(参考リンク:安堵できない最後の安楽日)、此処で再度其の由を申せば、大晦日を越境するというのはつまり月日のリセットを意味するのであり、およそ三百と六十五の日を重ねて来ったにも関わらず、翌日は何事もあらぬかのような顔で一月一日の振り出しに戻ってしまうからなのでした。全てが無に帰したような感覚、今までの経験が何か意味のないモノであるかのような錯覚、また同じ道を辿れと命令されますかのような恐怖、そうしたものが大晦日と元旦の間には横たわっておる。
斯くして振り出しに戻るより前の数ヶ月―神無月・霜月・師走は実に心地良い。二桁の数字を目撃するだけで月日の経過を実感させて貰えるでありましょう。其れが大晦日を境にまた一月一日、一月二日…とアタマに送り返されるコトの何たる徒労感であるコトか!


今を貴重なるモノと認識致しますのです。そうして…可能であらばこの辺りに留まっておきたき心境。情けなし。実に情けなき二十二歳であった。

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