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2007年10月07日 情熱は絶えてはいけない

現代文明を象徴するインターネットをコッソリと駆使して遊んでいたら、なんと驚くべきコトに、高校時代に教えを受けた国語の日影千草センセイ(仮名)のブログに到達してしまったのである(このセンセイの外見が「月影千草」に似ているコトはあまり公言すべきではありません。ただアソコまで老けてはいないのであるけれど)。いやはや、知っておる方のブログを視認するコトの不意をつかれたような驚きに加えてくすぐったいような喜びと、そして猫に引っ掻かれた時のような困惑は如何なる言葉をもって社会に反映させるのが妥当なのであることだろうか。私の中に保存されておる日影センセイは、もの凄く落ち着いた表情で古典の授業を丁寧に進行していきますイメージが鮮明な故に、どうしても現代の産物たるブログと助動詞「す」の活用「せ・せ・す・する・すれ・せよ」を唱えていたアノ御姿が重なり合わないでいる。
見た目は寡黙そうで不機嫌そうな魔性のベールを纏った日影センセイ、突然テンションが沸騰するコトのある日影センセイ、体が決して丈夫にはなっていなかった日影センセイ、変なタイミングで笑い出すコトのあった日影センセイ。
未だその記憶は薄れるコトなくあり。


演劇部の顧問も務め、自ら脚本も書き、大きな大会で賞も獲得しました日影センセイが(毎日欠かさず!)ブログに綴る文章は、やはり整然としていながらも、スクっと己の感情を控えめに注入することの多い、しかしながら教師という仕事に熱き情熱を抱き続けていることを感じさせます、胸に微細な電流を走らせてくれるものでした。お元気そうで何よりです。いきなり不躾な言辞を弄しまして申し訳御座いません。
日影センセイがお書きになられた脚本も、指揮棒を振るわれた演劇部の御芝居も、私は一度も目撃しておりませぬが、センセイの可憐な精神がもたらす演劇への情熱は多分に人々の中に浸透しておることと想像致しておるのです。


教師たるもの無条件に学生から呼び捨てにされるという誠に不条理な宿命を抱えているのであるコトは疑うべくも無いが、また私も複数のセンセイをコッソリと陰湿に呼び捨てにした経験は幾多ありまして、しかし媚びているワケでは無く真正直に申し上げたいコトは、今までに日影センセイを呼び捨てにした記憶はございません、との何の気勢も伴わない事実の発表に他ならぬ。こうした例は、私の中では二例しか無く、いま一つは現在お世話になっているセンセイであるってコトを意味は無いながらも併記しておこうではないか。もう身も蓋もないハナシ、それ以外のセンセイというセンセイは、悉く呼び捨てにするかアダ名で指名しておるのです。当然陰でのコトなのだが、いやいや・・・ それに対して日影センセイは、何であろうか、我々が呼び捨てにできないような不可思議なオーラを持っておった。


思い出話はこの辺にしておきたいのである。そして、もうセンセイとはお会いできる機会も無いと想定するのである。けれども、こうやって間接的にではあるが、日影センセイの現在を(ほぼ覗き見的にだけれども)窺い知るコトが可能な場があるコトに対しては、殊に現代文明への謝意を表せねばなるまい。
センセイ、情熱を絶やさず、生徒を立派に巣立たせてあげて下さい。呉々も私のようなモノを外に送り出してはなりませんゾ。


「読書百遍意自ずから通ず」
センセイがよく口にした言葉でありますね。今もなお胸に抱きつつ…
未だその記憶は薄れるコトなくあり。

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