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2007年10月06日 麻生さんにある余裕

何による影響かはいざ知りませぬが、政治家の印象なるモノは概して芳しくない。曰く汚職、天下り、賄賂、談合、強欲、傲慢、大金、裏工作、裏取引・・・
「国民のため」との言質など所詮は票獲得のための戯れ言に過ぎぬではないか、とのご指摘は或る意味においては尤もなご意見でありましょう。しかし、斯かる陰気な風潮に棹さす如く、独自の路線を突っ走り、一部世間では非常な好評を博しておる“偉大な”方もいらっしゃる。その一人が麻生太郎氏ではありませぬか。


麻生太郎氏「2ちゃん、時々書き込む」


この世の中、何を意識してかなかなかに口外し辛いコトもございましょう。「世間」と呼ばれる得体の知れぬ影に脅えながら、ヒトは己の中に複数の影を宿す。殊に政治家たるモノ、その影は幾重にも重なる綴れ織りなのでありまして、果たしてどこまでがまだセーフティーゾーンでどこからがもうデッドゾーンなのか明瞭ならざるコト、実に「犬が西向きゃ尾は東」状態と言えよう。斯様な人々の心理を逆手に取るかのように、堂々と「(2ちゃんねるに)書いたりなんかすることは、時々やったりすることがありますよ」と申し上げる麻生氏は、実にそのセーフティーゾーンが広大であり、民からすれば、そのオープンさ、すなわち氏の開放的立ち居振る舞いには一種の安堵感すら覚えてしまうほど光沢があると言っても宜しいのではないでしょうか。さすがに扉を開け過ぎるのは不用心であるが、まだこのラインならどうってコトはあるまい。「2ちゃんねらー」総理大臣が誕生し得る世の中で何が悪しきか。
まったく世の中は閉塞しておる。借金を抱え自殺を図るのは安田忠夫に限ったコトでありませぬコトは、今日の小学生ですら自覚するトコロのモノでございます。こうした時世を捉え、人々の意識下に巧みに侵入せるのが、有能な政治家ではないのか。麻生氏のオープンな言動が社会に何を齎すか、いかなる影響を与え得るか。つまるところ、それは「安心感」の寄与に他ならぬではありませぬか。何かを身近に感ずる喜びを現代の人々が必要とし、それにより精神が満たされ、向上すると言うのであれば、麻生氏のような人柄を保持する政治家こそが、“現代社会”なるモノに実に適合せる人物ではありますまいか。[「2ちゃんねる」の隆盛と時代の閉塞感といったものが、どのような連関の中にあるか。コレもまた大いなる問題であり、別個に検討を要す。ここでは差し当たり、一つの媒介を経て人々の連座意識が直接・間接的に私たちに「安心感」を生起させる要因となる、と言うに留めておくことでご容赦願いたい。]
「2ちゃんねる」を敬遠・忌避するモノは数多であり、私もその故は解さぬワケではございませぬが、同時にソレが我が国の文化の一形態を示すモノにまで発達したという現状を鑑みる限りにおいて、ソコを無視してやり過ごす行為もまた不自然かつ傲慢、もしくは詐称的と言われかねません。「民意」というほど過剰ではあらぬが、今日的な社会の一部品としての認識をソコに当てても別段怪しくは無いであろうってモンだ。そうしてココに「あれはなかなかいいとこ突いて…新聞記事なんかよりよっぽどいいとこ突いてますよ」とする意見が一政治家の口から放出されるコトも、自然な時流というモノだろう。


麻生氏が裏に何らかの意図を所持して「2ちゃんねる」に肯定的評価を与えたのか否かは判断しかねておるが、少なくともこの発言は、従来の政治家の壁を一歩乗り越えたトコロの、一部の人々に多少の安心感と親近感を与え、かつ負の要素が前面に出現しがちな政治家の姿を、僅かでも方向転換させ得るマジックを伴うモノではありませんか(一方で、「2ちゃんねる」に肯定的見解を示したコトへの反発も当然予期され得る事態であるが)。ココまでの評価は過大でほぼ装飾品だと受け止められるかもしれませんが、私は少なくとも麻生氏のコノ発言に、近来の政治家の殻を破るような新たな方向性を見たいのである。まさに希望的観測と言って退ければ、確かにそうに違いないのであるが、しかしながら「民意」なるモノを政治家が獲得するための手法として、斯様な一歩が顧みられるコトがあっても良いであろう。もしかすると麻生氏には半ば“悪ノリ”のような、イタズラっぽい心持ちがあるのかもしれぬが、そこから逆説的・肯定的に氏の言動を見ようとしてみた時においては、こうした余裕こそが民に活力を与える契機となるのではないかと思う向上的感情がサワサワと湧き起こってきておる。三度総裁の座を逃したとはいえ、斯かる余裕と見られる心情を吐露する姿勢は、政治家に求められる一つの要素でございましょう。これからも気が向いたら書き込む姿勢を保ち続けてもらった方が良いと思うのであった。

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