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2007年10月02日 なんちゃ〜がやないぞなもし

「たいようのマキバオー」にて「なんちゃ〜かやない」なる方言が颯爽と登場しているにも関わらず、四国出身の私にもコノ高知の言葉はよく分からないのであった。
大雑把に述べますと、四国四県の中で香川・徳島は比較的関西弁に近い言葉を駆使し、愛媛・高知はかなり独特の言葉を発揮するのであります。そういうワケで、四国にいても、出身地が異なれば、分からない言葉も多々あるのです。
けれども「なんちゃ〜かやない」の「なんちゃ〜」は分かりまして、わたくしの父なども「なんちゃ〜無い」などとするセリフを、野良犬のように吐いておりました。そういうワケで、すなわち「なんちゃ〜」とは「何にも」だとか「何も」だとか「全然」だとか、大概その程度の意味になっちゃうのだ。
って、問題なのは「がやない」の方であって、こんな言葉は今までに一度も聞いた経験が無かった。高知の方言なのかしらんが、いったいどういう意を有しているのでありましょうか。前後の文脈から推測するに及んで、この場合「大丈夫」だとか「平気」といった立ち位置になるようであるが、すると「がやない」の「ない」に注目してみると、むしろ「問題ない」と受け取った方がスムーズであろう。
斯様にして、私は、「なんちゃ〜かやない」を「何も問題ない」と解したのであったが、果たしてコノ解釈が正しいか否かは漠然としておる。


方言ってのは、いったいぜんたいその地に居る者でなければ<生>の意味を、つまり“生きた意味”を奪取することはできません。何も知りはせぬ余所者が、容易に触れられぬ場所には安置されておらぬ。
前述の如く私は四国出身であるが、聞いたコトのない四国の方言は、それこそ文字通り「山ほど」あるってコトです。漱石の『坊ちゃん』は、愛媛は松山を舞台にしながら、その松山を扱き下ろしたコトで、まぁ有名な小説ですが、その中で頻繁に用いられておる「ぞなもし」なる日本語は、未だかつて聞いたことがございません。漱石は「お気をお付けたがええぞなもし」であるとか「山嵐て何ぞなもし」だなどと登場人物に言わせているのであるが、どうもこの世のモノとは思えない日本語で、果たしてなかなか解せない。こんな言葉を吐き出す人々などを私は存ぜぬ。松山のどこに行けば、くだんの如き日本語を喋るモノがいるぞなもし。教えてくれぞなもし。そんなん、なんちゃ〜がやない、松山城の近くにいけば会えるぞなもし。ホラ、道後温泉があって・・。 道後温泉は松山城に近くないぞなもし、2キロくらい離れとるけん、松山城の近くには県庁なんかがあったような気がするぞなもし。
私も松山のことはよく知らぬ存ぜぬ。四国だって狭いようで広いちゅうワケか。日本と同じようなモンかいな。


一年と10ヶ月続けて来たこのブログなのであるが、正直、やり直したい情熱に駆られてしまった。色々経てきたが、もう過去のモノとはオサラバ、バイバイ。そういうワケで今日から再スタートであり、私の中では今日のコレが最初の投稿に認定されております。今までのは助走ってコトで堪忍して戴きたくお願い申し上げたき思い。ああ、だが、行き詰まれば放棄するか放置するかもしれぬぞなもし。

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