« 「正倉院展」及び東大寺周辺雑記5 | もどる | 積読の害 »

2007年11月09日 お目出たき人

限りなき羞恥心に満ちたハナシであるが、私は今日に至るまで「祝い箸」なるものの存在を知らないで生活して来った。本日偶然黙読せし本(『亡食の時代』扶桑社)の中において、「祝い箸」の説明が記されておったのでありまして、其れを目にするにあたって当然の如く思い出されたのは、幾度となく経験してきた元旦のコトなのでした。その折、私の祖父母の末っ子、つまり私の母親は、おせち料理を並べてみせる。とは言っても、利便な昨今、ほとんどが予め作られたものなのでしたが、兎に角日本の伝統に従いましてウチでも当然の如くおせち料理が“一応”用意されるのであって、その時ばかりは年間を通じて唯一<ちょっとカッコイイ木の箸>が配置されておったのであった。そして、其れがおせち料理用に特別に用いられる「祝い箸」であるコトを私は今更ながら知悉致し、誠に恐れ入った。無知な私なぞはその箸を見て「ああ、一年の始まりというコトで、気分を新たにする意味で、こんな細工を施した使い捨ての箸を用意してあるんだなー」などと思っていたものですが、斯かる浅薄な目的ではありませずして、現実にはキッチリとした意味が堆積されておる儀礼的な箸であることを察知し、何やら母親に謝罪した方が良いのではあるまいかという気さえしてきたのです。こういうコトはガキの頃に教えてくれといても良かったのではないかしらん。おせち料理+「祝い箸」がセットであるコト、それはマナーとして、一般常識として知っておかねばならぬコトのように推察致しました。
…とは言うものの、母親は本当に自覚しておるのであろうか。母親こそ「ただ何となく高級感漂うから」とか「(スーパーで購入したおせち料理セットに)付いていたから」なんて理由で毎年毎年食卓に並べていたのでしたら、私はもうガッカリしちゃいます。親父に至っては「正月早々食器やら何やらを洗ったりするのは大変だから、割り箸でラクをするのサ」などと言いそうで恐ろしくなり申し上げます。およそ妙な両親ではあろうが、斯様なコトに関しては一つでも多く知っていて欲しいと思うのは、我が身を顧みぬ身勝手な“子心”ってモンです。
(今年の年末はおそらく実家に帰省するであろうから)その時にソレと無く「祝い箸」について聞いてみようと思うのであった。果たして「高級感」や「ラク」なる言葉が返って来ぬコトをお祈り致しながら…
【言うまでもなく、表題は武者小路実篤の『お目出たき人』とは無関係です。】

« 「正倉院展」及び東大寺周辺雑記5 | もどる | 積読の害 »