« 永遠の写真 | もどる | 攻撃は最大の防御なり »

2007年11月18日 或る美徳の淵源―オシム氏に宛てて

オシム氏が心配で心配で致し方の無い日々を送っておる。
私はサッカーの門外漢であるから何もエラそうなコトは言えぬが、しかしオシム氏は某前監督よりよほど信頼できそうな様子だとお見受け致したのでした。某氏はプレイヤーとしては「神様」でありましたが、監督としてもまた別の意味で「神様」であったのかもしれぬ。つまり民衆どもに好き勝手な権限を付与し、彼らが自主的に仕事をこなすようになれば、必ずや活気に満ちた素晴らしき世の中が形成できると信じておった。ソレは民衆の美徳と義務意識と理性と各々の属する共同体への忠誠意識等が“例外無く完全に”発達した世界(つまり非人間的世界)においてしか実現し得ないにも関わらず。某氏は神の世界の定理を人間の世界にも適用可能であると思慮したのかもしれぬ。
その分、某前々監督などは分かり易かったであろう。典型的な「将軍様」の態を呈しておったのでしたから。「将軍様」が治めます御時は、或る特定の分野に関してはそれなりの発達を遂げるコトもあるが、しかし一方では目を覆いたくなるような破綻ぶりを露呈するコトがある。
そう致せば自然の摂理か否か、人々は「将軍様」を打ち倒さんと欲し蠢く。或る瞬間に至りてソレが最高潮に達した時、従来の権威は打破さる。斯様な具合で遂に念願叶いて「将軍様」の“独裁”を倒した後、連中は己の権利が増大した“民主的”状態に歓喜絶叫するのであった。しかしながら、ハナシは堂々巡りの観を抱いておるのでありまして、民衆に全てを与える<完全なる民主制>は必ずや混乱を引き起こす。其れはトクヴィルなどの高邁な学者が重々警告を鳴らしたトコロのモノでありまして、しかして<完全なる民主制>は必然的に無数の利害が対立し合い統一を欠くから、自ずと民衆全体をまとめあげようとする力が生じてきて、それを巡ってまた争いが勃発し、終局的には皮肉にも再び<独裁体制>へと向かうのでした。
<完全なる民主制>→<独裁体制>→<完全なる民主制>→<独裁体制>→…
まるで「鶏と卵はどちらが先か」の議論の如しである。


本当に必要なモノは何であるか。言う迄もない。或る権威は権威として保存しておきながら、人々はそこに盲目的に隷従するのではなくして、信頼し敬い、各々が自らに相応しい仕事に忠誠を尽くすコトで生ずる利益を最大限に保持し続けるモノでありませんか。或る権威は美徳の淵源である。其の権威を支柱にし、そこから導き出される任務に忠実であることによって、人々ははじめて最大の自由を享受できるのであった。卑屈になるのではありません、横暴になるのでもありません、全てのモノが予め定められたトコロの仕事を精一杯尽くすより他に喜びは得られぬでした。(言う必要などあらぬかもしれぬが、「将軍様」がいけないのは、本来与えられぬ仕事すらを民に強制し、さらにそれによって生まれ出た利益をも簒奪し、独占しようとする点にある。)


ハナシを最初に振り戻そう。
オシム氏の目指すサッカースタイルが如何なるモノかは存じ上げません。しかしながら、私は氏の中に「神様」のものでも「将軍様」のものでもない美徳を見出せるような気がしてならぬ。「将軍様」→「神様」→…の堂々巡りを幸運にも回避し得たこの至福の境遇において、選手たちが其処から生ずる役割を明瞭に認識し、己の仕事に忠実で、そうして獲得した己の権利をチームのために(すなわち其れはまた自分のためでもあるのだが)役立てんと願った時にのみ、歓喜はもたらされるのではないでしょうか。
大雑把で概観的ではありますが、私が言えるコトはこの程度でしかありません。
オシム氏の一刻も早いご回復をお祈り致しております。

« 永遠の写真 | もどる | 攻撃は最大の防御なり »