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2007年11月21日 つまらぬ一日のコト

どうせつまらぬ毎日の積み重ねのつまらぬ人生なのだから、ソレを自虐的に扱いますコトで何か面白みが得られるのならば、すなわちコレ幸いである。という具合で、前にも一度だけ記したが、再度試みる「<つまらぬ>今日の流れ」。 憐憫と同情の波押し寄せる!?


6:55 起床
〜8:00 「めざましテレビ」を見ながら朝食、仕度
〜8:30 歯磨きとかお着替え
8:35〜 お出かけ
〜8:55 学校着
9:00〜 或るリベラル教授のつまらぬ授業
10:40〜 少しだけ面白い哲学的な授業
12:00〜 ゼミのセンセイと修論についての意見交換※1
12:30〜 留学生のKクンからまさかの連絡を受け、午後の授業休止決定※2
12:40〜 仕方ないので帰宅
〜13:15 帰宅に無事成功
13:20〜 朝読めなかった朝刊を黙読。万能細胞※3
13:50〜 読書
14:35〜 睡魔に襲われたためお昼寝
〜15:30 目覚める
15:35〜 読書の続き
16:05〜 お相撲を見ながら軽食、身支度
16:45 お相撲観戦を断念して泣く泣くバイトへ
16:55〜 バイトの始まり(沈鬱)
21:05〜 バイト終了、帰途へ(歓喜!)
21:15 帰宅に再度成功
21:20〜 見れなかったお相撲の結果をネットで確認
21:30〜 入浴
21:50〜 NHKの偏向ニュース番組&福田総理の会見を見る
22:20〜 夕食
22:50〜 歯磨き等
23:05〜 ブログ更新を決意
23:10〜 つまらぬ文章を書き始める→現在に至る


補足
※1…もうそろそろ修士論文の全容を確定せねばならぬ。私は、実用的な理系ではあらず細々としたる文系でございまして、しかも「思想史」という歴史学でもかなり“大雑把”な、厳密な史料調査や実地調査を大して要せぬような分野(斯様なコトを申し上げると、或いは誤解を招くかもしれんが、誤解を恐れてはおりません)を専攻しておる以上、どうしても書物との格闘になる。それ故、如何なる書物を読み込んでいきますかを、もう確定しなければいけない。
ところで私が教えを受けているセンセイは、酔狂だ。「戦後(政治)思想をやるんだろう? それなら共産党の無謀な戦争責任追求でも取り上げてやったらイイじゃないか。あんなバカなコトをやっても何の意味もないってことを書けば良い」なんて言う。―ハァ、共産党は確かに愚ですが、でも戦後史の中では無視出来ない存在で、しかしソレは…
そもそもこのセンセイは、共産党を辛辣に罵るかと思えば、妙に同情的な発言をしたりもする。やはり酔狂なのであろうか。いずれにせよ酔いはまだ治まらず。妙に機嫌が良い。「キミは、コレはオダテじゃなくて本当のコトだけど、私は四十年もこの仕事やっとるけど、私が見て来た中でキミは一番優秀だよ」などと素っ頓狂なコトを放言す。「Kサン(私があまり得意としていないセンセイ)も『Yクン(私のコト)は最近貫禄がついてきた』と言ってたぞ」―ハァ、私に「貫禄」ですか。ソレは北島三郎とノイズミュージックくらいの懸隔があるってモンです。Kセンセイも酔狂なる乎!?
さて、修論。「吉田満」という人物に焦点を当て、彼が戦争経験を通じて得た戦後観や国家観、戦後の所謂「平和論・平和主義、民主主義」に対する問題点などを論じたいのでありまして、そう致すとやはり「戦争責任問題」は避けられぬか。吉田を軸としながらも、保守陣営では福田恆存や江藤淳、リベラルの陣営では丸山眞男や清水幾太郎の思想を夫々その時代の影響力等を加味し申し上げて「代表例」として取り上げ、また民主主義の問題であったり国家観の問題に関しては国内の知識人だけではあらず、例えばA・ハミルトンやトクヴィル、E・バーク等の保守主義思想をも参考にしながら吉田の思想との対比、共通点の指摘や、そこから導き出される問題及び可能性等を論じたいのでしたが(バーク等の保守主義思想を持ち出すゆえんは、吉田の中にそうしたものとの共通項が少なからず見えるからであって、またそれにより戦後日本における保守の思想の問題も射程に入りそうだから)、ソレは非常に果てしない。そうして、ソコから現在まで残されておる問題へと架橋するコトなど今の私にできようか。先は依然として見えぬ。センセイなぞは他人事だと思って好き勝手にバークの思想を語るが、肝心の吉田については非常な無関心。「吉田は面白い存在だ」って言ってたクセに。


※2…Kクン、いつも連絡とれないで申し訳ない。ケータイを放置している故、我が不覚なり。伝言メッセージを入れてくれたのが九時七分で、ソレに気付いたのが十二時三十分過ぎという驚くべきタイムロス。もう俺、ケータイいらん、このケータイ死ね。


※3…万能細胞なるモノは大いに注目に値します。もし実用化された暁にはヒトの寿命は如何なるか。多くのヒトは死を欲せざるし、現にそうした意思を表明致すが、しかしながら「生き過ぎる(長生きし過ぎる)」ような事態になると、今度は「死ななければいけない」と言うようになるのであろうか。そうすると、ヒトは本能的に己の死の必要性を捉え、死を(生来的な意に反して?)「義務」と考えているコトになるのでしょうか。葛藤。なかなか興味深い問題であります。

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