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2007年11月01日 漱石も落ち込むだろう

「Kaku」なるブログ更新ツールを導入致しまして、試験的に運用してみておる状態であります。今日に達するまで此のようなソフトを用いたコトが無いものですから、なかなかに新鮮な気分を味わうことができるってモン。


現代文明の恩恵に授かりましておる近況を申せば、amazonのマーケットプレイスで古本を購入しますコト多し。インターネット・クレジットカード、嗚呼、21世紀の象徴なる哉。コレらのツールを、例えば24世紀の人々は如何様な目で評価するのであろうか、などというコトを考えてみたくなります毎日。―毎日かよ! ところで果たして24世紀に人類は、地球は存しておるのか否か。アタシャ知りまへん。
しかしながら、amazonのマーケットプレイスでは相当に状態の良い古本を容易に安価に購入できるのでありまして、コレはソコ等の古本屋の店主にとりてかなりの脅威となっておるのではないかしらん。
90年代中頃に安室やらミスチルやらGLAYやら朋ちゃんやらがミリオンを連発した時代、今日を迎えるにあたり、其の当時のCDが中古で溢れ返っておるのですが、本とて同様でありまして、amazonのマーケットプレイスにかかれば過去にベストセラーとなりたるような本は「1円」から叩き売りされてある。送料が340円必要であるから、最安値でも「341円」にて購入できてしまいます。まったく著者からすれば脱力モンじゃないのかね。「ワシの小説1円かよ!」と漱石も鴎外も草葉の陰で落胆しておるコトと推察申し上げましょう。
斯かる今日の情勢を見る限り、古めかしい文庫本なぞを古書店に持参し、買取りを依頼せんとしても、果たして快く買い上げて頂けますでしょうか。まー、「1円」の文庫本が飽和状態にありたるコトは、それだけ中古本の数多しの証明でありましょうが、では一体売却値は如何程に? 
其れ以前に申し上げ度きことは、ポンポンポンポンと本を売り放つモノの心境、これ如何に、って問題に他ならないのです。私なぞは根が貧乏であるのか否かは判断に窮するが、兎に角本を売るコトには非常な抵抗を覚える。いや、そうではない。まず私の場合、購入せし本は必ずと言って良いくらいに精読しながら線を引いたり書き込みを入れたりしてありますので、おそらく売れぬのではないか、買取り御免になるのではあらぬのか、と推測するのでした。
ソレで思い出したのであるが、以前に吉本隆明の『共同幻想論』を古本にて購入した折、そのかなり多くの部分に線が引かれてあって、多少戸惑った記憶を持つ。「オイオイ、前の持ち主が誰かは知らんけど、こんなにイッパイ線を引いてあるような本を売るなよ」と思わずにはおれなかった。ココには次の二つのイラ立ちがある。
まず一つ目は、後にソレを買うヒトに対して無配慮であり過ぎる点。私のように読みつつどんどん線を引いていくようなモノでも、予め線が引かれてあるのは何となくイヤな感じがするのでありましてねぇ。
そして二つ目は、此れ程に線を引いてあるってコトは、アンタにとっても重要な本じゃないのかという点。ソレを売っちゃってイイのかい?と思わずにはおれん。いったいどうすれば売る気になるのでありましょうか。
全く不可解な輩が存在するモノであると言っておこうではないか。


予想以上にダラダラと書き垂らしてしまった。「Kaku」のテストのつもりであったのに…
さて、明日はブラリと東大寺に赴かんと欲しておる。願わくば晴天、願わくば交通安全。南無南無。

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