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2007年09月29日

2007年09月29日 「あらうか」で良いであろうか?

「あらうか」と書きたいのだ。「あろうか」ではなく、「あらうか」と書きたいのである。その方がしっくりくるからだ。歴史的仮名遣を愛用したいワケではない。この「あらうか」に限ったハナシである。


なぜそう感じるかは、自分自身でも分からない。ただ、ほぼ直感的に「あろうか」よりも「あらうか」と書いた方が、私の中で締りが良いというだけである。
「ちょうちょう(蝶々)」を「てふてふ」などと書きたいと思ったコトは一度も無い。しかし、「あろうか」に関しては、どうも納得できないトコロがあるのだ。
「彼はホモであろうか」と書かれているよりも「彼はホモであらうか」と書かれている方が、すんなり入ってくるのである。読みはモチロン「あろうか」なのだが、それを文字にした場合、私は断然「あらうか」となっていて欲しいのである。「あろうか」よりも「あらうか」と書かれている方が読み易いというのも大きな理由であるが、なぜそう感じるかはどうしても判然としない。


だから、私は文章を書く際に、「あろうか」となる文面に至った場合、ついつい「あらうか」と書きたくなる衝動を抑え、無理して「あろうか」と書いているのだ。なぜならば、それまで現代仮名遣で記してきた文面の中に突如として「あらうか」などという言葉が登場してくるのは、あまりに不自然だからである。
繰り返すが「あろうか」に関してのみ、私は「あらうか」と書きたくなる。
理由はやはり分からない。しかし、無理してその由を探す必要などあらうか。長年異国の地に住み、そこの生活に慣れた頃に、ふと母国の文化を懐かしく思うことは珍しくなかろう。そのように、私の中に流れる血が、かつての仮名遣に対して何かしらの共鳴を示しているコトの表れと考えることもできるのではなかろうか。それとも、斯様なイメージはあまりにファンタジックであらうか。その判断は各々に委ねたい。

2007年09月28日

2007年09月28日 困惑と危急

通学途中に、やたらと左右の壁に共産党のポスターを貼ってある狭い通りがある。私はそこを「ポイズン・ストリート(Poison Street)」と呼んでいるのだが、…もうそんなコトはどうでもイイ。


「ファンタ 謎のフルーツ」とは考えたね。つい買ってしまった。気になるモン。
2種類のフルーとは何だろう?
香りは桃? 味は微妙にマンゴーっぽいようなイチゴっぽいようなパインっぽいような。
マンゴーとイチゴとパインは全然違うぞ。でもそういう感じがする。オレの味覚がおかしいのだろうか。それとも開発者が無理して“それっぽい味”を捻り出したせいだからか。
それにしてもねぇ、肝心の味が微妙なのにはガッカリだ。味に自信が持てなかったから、あえてああいうカタチで売り出したのかしらん。まったくムチャな要求をしやがる。分かるかよ。分かるようで分からないってのは変に空しい気分になる。「スッと抜けていくような感じ」。コレは、週に何度か顔を合わす日本に来て1年ちょっとの中国人留学生の女が、Aセンセイの第一回目の授業で、「次までに『社会科学の方法』(大塚久雄著)を読むように」と言われて、とりあえず読んでみたけど、よく分かるようでよく分からなくて、変な気分になった、「スッと抜けていくような感じ」と言ったのに基づく表現。
『社会科学の方法』はそれでも比較的読みやすいとの評価があるが、果たして日常会話+α程度の日本語習得率の外国人に理解することができるのだろうか。彼女が言った、分かるようで分からない、「スッと抜けていくような感じ」は、なかなか的を射た感想かもしれん。ま、私は彼女と専攻が違うから、詳しい事情は分からん。外国人でも場合によっては「スッと入ってくるような感じ」で理解できる時もあるだろう。こんなコト言えば元も子もないか。


時津風親方悪質な隠ぺい工作、立件即解雇


大相撲時津風部屋の序ノ口力士、時太山(当時17=本名・斉藤俊さん)が兄弟子らから暴行されて死亡した問題で、事件後、時津風親方(57=元小結双津竜)が隠ぺい工作を図ろうとしていたことが27日、明らかになった。この日、時太山の父正人さん(50)が都内で会見。「(遺体を)火葬すると言われたけど『それは困る』と断った」と赤裸々に明かした。また日本協会は、同親方が逮捕された場合、即刻解雇する方針を固めた。…(中略)…顔面が腫れあがり耳は裂け、肋骨(ろっこつ)が折れていたとされる遺体。その遺体を荼毘(だび)に付して送るという、常識では考えられない不可解な申し出。遺族への搬送前、体中の傷を隠すための「火葬」と思われても致し方ない。正人さんも時津風親方の隠ぺいの意思について「今となっては、そうかもしれない」と顔をしかめた。


こりゃもうどうしようもない。もし本当に隠蔽するつもりだったのならば、ヒトとして最低だ。北朝鮮に強制送還するか死刑しかない。廃業がどうのこうの言う段階じゃないゾ。
最近お騒がせな相撲界だが、ここまで来ると、関係者はちょっと切腹でもしてみた方が良いんじゃないか。
それに、遺体の「太ももにはたばこの火を押しつけた跡が3カ所あった」(参考リンク:17歳力士死亡事件を立件へ…時津風親方も暴行と制裁を指示)なんて事実も明らかになってるし。タバコなんか吸うようなバカがこういう事件を起こす。やはり喫煙者である。相撲もスポーツのひとつ。スポーツマンが喫煙してどうする。タバコを吸っているという理由だけで、もう廃業処分モノだ。


力士急死で相撲協会 過去10年間調査へ 文科省で謝罪


大相撲・時津風部屋の力士=当時(17)、本名・斉藤俊さん=が稽古(けいこ)後に急死した問題で、日本相撲協会の北の湖理事長は28日、「この10年間どういう状況だったのかをきちっと把握し、報告すべきだと思う」と述べ、過去10年間にさかのぼり、同様の事例がないか調査する考えを示した。


これはまだ何か出てきそうじゃないか。「しごき」が「リンチ」と同じ土俵に上がるようになったら終わりだよ。そこの見境を付けられないような人々に「国技」を行なう資格は無し。
「国技」の退廃はその国の伝統の退廃に直結する。ここで改善すべき点を徹底して洗い出すことが出来なければ、長い歴史を持つ相撲もあと半世紀を経ずして滅びゆくだろう。それはつまり日本文化が崩壊していくことをも意味する。相撲に携わる者ひとりひとりの自浄能力が問われても不思議ではない重大な時期が到来していることを、いま一度関係者は強く認識すべきである。

2007年09月27日

2007年09月27日 日が昇りはじめる

たいようのマキバオー1巻満を持して、というべきなのだろうか。待望の復活!?
「たいようのマキバオー」


いやぁ〜堪らんなぁ。この雰囲気。この作風。この光景。
私が今まで最も読み込んできた漫画は間違いなく「みどりのマキバオー」だが、その続編と位置付けられる今作は、前作の流れを引き継ぎながらも、新たな要素が随所に加わっている。ガチでマキバオーを描いている時のつの丸は「鬼才」に豹変するな!
まー、コレは余談だが、仮に好きな漫画家を三人あげろといわれれば、私は躊躇することなく「新井英樹、古谷実、そしてつの丸」と答える。この中で一番古くから親しんできたのがつの丸だ。


さて、この「たいようのマキバオー」であるが、ストーリーは高知競馬、すなわち地方競馬を中心に展開してゆく。地方競馬が抱える財政面、人気面、経営方針、馬とヒトの置かれる立場、などを問題として取り込みながら、そこで逞しく(?)生きようとする人馬のお話。
主役は(マキバオーの半妹)ミドリコの最後の産駒「ヒノデマキバオー」(通称「文太」)。姿はもちろんマキバオー・ミドリコとソックリなあのようなモノです。幸いお母さんに似ず気性は穏やか。口癖は「んにゃ」。脚部不安のため中央で走ることが適わず、高知に来たワケありのお馬さん。伯父さんのマキバオーとはかなり異なる境遇なんだ(ちなみに文太の父は「タマブクロス」という散々な名前です[タマモクロス→タマブクロス そりゃあ無いだろうに]。つの丸らしい名前だけどねぇ。マキバオーは「タマーキン」だったし)。
その「文太」の主戦ジョッキーは福留隼人(「ハヤト」)。あまり詳しくは言及しないが、彼もやはり地方ジョッキーによくある中央競馬に対するコンプレックスを抱いている。性格は菅助なんかよりもよっぽど負けん気が強いが、しかし内には優しさを備え持つ典型的な「土佐の男」という感じ。って私の勝手なイメージだけど。実際に高知人が負けん気の強い性格かどうかは定かでない。
この文太とハヤトのコンビが、またグッくるものを持っている。マキバオー=菅助のコンビに負けず劣らず、(作中の)日本競馬の歴史に名を残すような存在になることを期待したい。


菅助といえば・・そうそう菅助が出てくるんだよ。いつの間にか中央のトップジョッキーになってる。前作から10年後の世界が舞台となっているが、10年あればそうなるのね。「マウンテンロック」なんていうムチャクチャクールな馬を乗りこなしちゃう渋いジョッキーになってるんだから驚く(ちなみにマウンテンロックの父も「ホーケィナイナー」という散々な名前ですが。やはりつの丸・・・)。
有馬記念で勝った後に号泣してた管助が、泣きながら「たれ蔵」にしがみついてた菅助が、いつのまにかリーゼントになり、JCダートを勝っている。10年だ。月日の流れはヒトを大きく変える。嶋島なんか「マキバオー世代」なんて言われてバカにされるホームレスみたいになってるし。・・フフフ。


「みどりのマキバオー」が好きだったヒトには是非とも読んでもらいたい作品。好きでなくても読めますが、前作を知っていた方がより楽しめることは確か。
例えば、102ページの菅助のセリフ。「いや…よくわかりますよ…………」
前作を知っていれば、この言葉と結びつく様々なシーンが蘇ってくるはずだ。ちょっと泣きそうになっちゃう。「飯富厩舎」は大変だったからなぁ。
その飯富さんは出てきてないけど、どうなったのだろうか。いずれ出てきて欲しい。


ああ、何やら取り留めの無い懐古話みたいになっている・・・
とりあえず最後にこれだけは付け加えておく。
「みどりのマキバオー」にも「たいようのマキバオー」にも見られる共通点は、非エリートのエリートへの対抗である。マキバオーも菅助も決して良いとは言えない環境や条件の下で這い上がって来たじゃないか! きっと文太とハヤトも・・・ 今度の方が条件は過酷だぞ。(でも、血統的にはマキバオーも文太もかなりイイってコトは内緒)


今のところ、文太にマキバオーのような魅力的な強さを見るコトはできないが、多分この馬の素質は高いと思う。脚に爆弾を抱えているけど、“週刊10馬”などを見る限り、これは結構なモノじゃないかしらんと期待してしまう。・・・が、そう簡単にサクセスストーリーを描かないのがつの丸。つの丸は「苦労と苦悩を突拍子もないギャグを交えて描かせたらピカイチの漫画家」だと私は思っているのだが…
だから、文太もハヤトも苦しみながら上昇していくんだよね。そして地方競馬も―個人的にはそういう願いをこの作品に託したいのです。(だから「ヒノデ」なんだよな?)


まだ一巻が出ただけなのに、いきなり文太=ハヤトに惹き付けられてしまった。このコンビが大きなレースを勝ったら、正直、私は号泣するかもしれん。ウウぅ・・・ 現在22歳。
だから、お願い、打ち切りだけは勘弁して下さい。それだけはマジでお願いします。来年の七夕にこの願いを短冊に書きますから。本当にそれだけはナシよ。ね。


おまけ:14-15ページの最初のコマでベアナックルの顔が吹き出しに隠されて「あれ?」となっているのが好き。そしてこの2ページで前作を説明し切っている。凄まじい。

2007年09月26日

2007年09月26日 (害を)産む機械

これは私の個人的な見解に過ぎぬが、どうも喫煙者と非喫煙者を比較した場合、非喫煙者の方が大人しい性格のように思える。つまり、喫煙者には図々しいヤツが多い。非喫煙者は喫煙者に比べて自らの意志を押し通そうとしない。自己主張がウザいタイプのヤツは結構な確率で喫煙者だ。私の周囲でもそう。大学のセンセイたちでも、うるさい性格のヒトは多くが喫煙者。大人しい性格のセンセイはタバコも吸っていない。
そりゃあそうだろう。現代の暮らしにおいて、明らかに周囲に迷惑を及ぼす喫煙という行為を繰り返しているようなヤツは、「無意識のうち」に図々しくなるさ。この「無意識のうち」ってのが重要で、喫煙者の多くは自分が図々しいコトを理解していない。今、こうやって私が喫煙者の自己認識力の欠如に関する見解を述べても、喫煙者の多くが「そんなことはない」で終わらせてしまう。これが喫煙者が持つもう一方の害毒である。ニコチンでアタマまでやられてしまっているのか?


電車の中などでマナーの悪いヤツ(特に若者)は大抵が喫煙者。
女子中高生を見てみるが良い。派手なメイクをしているようなのは、大抵がタバコを吸ってるよ。アレも自己主張がウザいタイプ。勘違いした低級で下衆の自己主張。ああいうのは日本の有害物質だから駆除した方が良い。アレこそ「(害を)産む機械」さ。
タバコを吸うヤツには、神経質だが短気なヤツも多い。
掃除や整理整頓などはキッチリするくせに、カップ麺なんかは3分待たずに2分40秒くらいで食い出すような性格。「食ってるうちに柔らかくなるよ」と実に不可解な合理的(?)主張。
私なんか念のために3分15秒くらい待つもんねー これは自慢じゃない。常に余裕を持っておきたいってコト。
皆さんも見てみるがよろしい。「あっ、アイツは3分待てないぞ。2分40秒のヤツだ」って思うようなのは、意外と喫煙者だ。それか単にせっかちなだけのヤツか。
世の中なんてそんなもん。大抵、白黒ハッキリするんだなコレが。

2007年09月25日

2007年09月25日 笑って済ませよう

今日、学校から帰る途中に、狭い路地から突然自転車を押したオッサンが出て来て、あやうく衝突しそうになった。
「危ないなー」と思ってチラっとそのオッサンを見たら、こんなモノを肩からぶら下げて







と白地に赤い文字(日の丸と同じ色彩!)で書かれた長さ1メートル20〜30センチ・幅30センチくらいの旗を自転車に括り付けていた。
思わず笑ってしまったコトは言うまでもない。笑うというより微笑む感じ。
あー、ハイハイ、共産主義者ね、って。


さすが「平等」を言いまくる共産主義者だ。交通も皆平等に。お互い止まりましょう、止まらないのならお互い進みましょう、ってコトね。差異があってはいけないんだ。同じ条件じゃなきゃいけない。だから「私だけが止まるのは『不公平だ』」ってコトで出てきたのね。
こりゃどうも失礼しました。宣伝活動頑張って下さい。

2007年09月23日

2007年09月23日 大相撲秋場所感想07

白鵬の優勝。
なんだけど、う〜ん・・・
昨日までの白鵬と今日の白鵬が違ったのは一目瞭然。アレが横綱の集中力なのか。いつもああいう相撲が取れれば隙が無くなって、無敵の横綱になれるのに。などというのは望み過ぎですかね。
しかし、今日の一番は確実に来場所に繋がる。横綱昇進後初優勝ってのはかなり大きいこと。これで来場所は今場所よりも落ち着いて臨めるんじゃないでしょうか。白鵬の横綱人生でポイントになりそうな一番である気がする。


豪栄道。どうもムチャクチャ注目されちゃったけど。新入幕ってこともあると思うけど。新入幕だからこそ、今後が怖い。まだ対戦相手にカタチを読まれ切っていないから、というのが今場所躍進の陰にあるのだろうが、今後それにどう対処していくか、対処できるのか。私はまだ期待よりも不安の目で見てしまいそうです。
把瑠都みたいな圧倒的な馬力は無いからねぇ。まぁ、把瑠都は把瑠都で・・・後述。


旭天鵬。
いろいろ問題はあったけど、もう過去のコト。やはり力を見せましたね。最後まで優勝を争うとは! 年齢的にも結構なモノだけど、まだまだ魅せてくれますね。あー、イイ


安馬。
前半戦は特に印象的だったなぁ。初日に白鵬に勝った相撲。ああいう動きがある限り、この力士は上位を賑わせ続けるでしょうね。今更だけど、運動神経がバツグンに良いヒトだと思います。来場所も期待。


大関。
…はもう良い。
でも、やっぱり一人だけに言いたい。
琴欧洲。
なんちゅう相撲を取ってるんだ。いくら万全ではないといえ、これはヒドいよ。特に今日の相撲なんて・・・稽古で横綱が若い衆に胸を貸しているような感じで、まともに受けただけの相撲。何がしたいのか分からん。


以下感想の列挙。
朝赤龍が関脇で勝ち越したのは高砂部屋の面目か?
安美錦は中盤まで良かったのに。
琴奨菊は10番勝ってるのに、印象が弱いなぁ。
北桜はずっと苦しかったなぁ。
垣添の終盤ブレーキはおかしい。せっかく子供が産まれたのに。


十両。
やはり把瑠都。
優勝おめでとう。もはや「十両横綱」だね。もうそろそろ怪我ともオサラバして、幕内でワイワイやってもらいたいものです。って、私が期待するとどうも勝てない。これからはそっと見守ろう。
若ノ鵬。
あまり良い内容だとは思わないんだけど。10番勝てるのは何だろう。勝っちゃったのか!?
千代白鵬が二場所連続で勝ち越した!


来場所に向けて一言二言。
白鵬がなんか非常にやってくれそうな気がする。
魁皇現役最後の場所? 地元九州では何かがあるからなー
千代大海も一応九州が「地元」になるんだけど・・・彼の場合は何もない!
ちょっと期待したいのは豊真将。来場所は小結かな。山口出身の彼も「地元寄り」の場所で頑張って欲しい。


そんな感じでいよいよ一年収めの九州場所へ。
それまで魁皇のことは敢えて何も言わない。朝青龍のことも。やいやい、頑張っておくれ。

2007年09月22日

2007年09月22日 雑記「生存のための秘密と適合」

ノノノノーバディ ノゥズマイシークレッt イッt サァム パ・パ・ッパ♪
誰もオレの秘密を知らないぜー パ・パ・パ!


サイコーのはじまりじゃないか。
いや、バンドアパートの新曲「Moonlight Stepper」ですけど。素晴らしい曲ですね。
そうである、誰も知らない秘密があるのだ。


知らないで良いコトと知られたくないコト。国家からすれば、国民に知られたくないコトがそのまま知らないで良いコトになる。つまりメディアに対して報道規制をしたり、ひた隠しにする。当たり前のコトですけど。
何も国家に限ったコトではない。もっと小さな共同体にだってそういうモノはある。例えば深沢七郎の『楢山節考』に描かれているような村が過去に実在したということは、民間に伝わる説話や幾つかの古典文学から確認できることである。その村に生きる人々は自らの生存手段として、年老いた親を捨てる。子が親を捨てるということは、結局その子もまた親になり年老いたときには己の子に捨てられることを意味する。日常的な問題でいえば、親が子を捨てる方がより一般的な事柄であり、それは一代限りで終わるのが常である。例えば「赤ちゃんポスト」なるものが昨年辺りから我が国でも或る問題として取り上げられているが、古今東西「捨て子」というものは至るところに存在してきた。また近年では「介護疲れ」との理由で親を殺すといった事件も増加しつつあるが、それもやはり伝統として繰り返される類のものではなく、むしろ突発的な部類として扱った方が適切かもしれない。
『楢山節考』で描かれるような村は、そうしたものとは立場を異にする。前述のように、村全体で延々と子が親を捨て続けるのである。そこは当然閉鎖的な空気が支配する空間であり、自分たちの村に伝わる掟を外部に対しては秘匿する。彼らは、村に貧困という問題が蔓延する以上、伝統的生存行為に拘束されざるを得ない人々だ。
勿論通常の感覚からいえば、人間が人間を捨てる行為は、いかなる理由があれ禁忌とされていることである。では彼らは、生存のための伝統に規定される彼らは、そうした禁忌への意識が欠落しているのか、否か。


人間の中に本能的に備わる自己防衛意識が最高度まで“刺激”されたとき、彼らは、いや我々はそれでも一定のモラルを持ち得るのだろうか。こういう問題を絡めずして、彼らの深層を解することはできないのでないか。
そしていま一つの問題は、なぜ彼らは自らの共同体内における伝統を外部に対して明らかにしないのか、という点である。これは何を意味するのか。ヒトは罪悪感なくして他者を蹴落とすことなどできようはずがないことの証明と見るのか、それとも単に自らを“綺麗”に装うための繕いと見るのか。
私はそこにヒトの持つ複雑な生存本能が見られるような気がしてならないのである。つまり、自らの自己防衛意識として親を捨てる行為も、それを外部に対してひた隠しにする態度も、全ては上手く生きていくための“歪んだ”生存手段の一つなのだ。合理的であるとか非合理的であるとか、そういう次元では語ることのできない、より切羽詰まった状態でのヒトの生存本能が、彼らのなかには蠢いているように、私には思えるのである。
子が親を捨てる行為は当然禁忌とされるべきものであるが、それでもそうした手段を常態化せざるを得ない状況に置かれた人々は、そこに相応しい形式で、自らのモラルを適合させてゆく。この場合において、彼らの中の罪悪感の有無を探る行為にどれほどの価値があるだろうか。ヒトは、自らの自己防衛意識を意識的に“健全な形式”でコントロールできぬ限りにおいて、禁忌や罪悪感をも巧みに消化してしまう呪うべき能力を所持していることを、彼らの伝統行為は証明しているのであるから。


そうしてこれが非常に危険な状態であることは言うまでもなかろう。すなわちヒトは自らの自己防衛意識が極度に追いつめられたとき、いかなる行為をも正当化してしまう可能性を生むのだ。そうした心理(行動)を想定する限り、『楢山節考』で描かれるような村を“健常な形式”ではないとして、頭ごなしに批判することはできないのである。


自らを防衛する手段を持たない共同体は必ず滅びるが、過剰な防衛手段しか持たない共同体もまた滅びゆくだろう。なぜならば、そうした共同体は、外部との避けることのできない摩擦と、内部の改善されることのない悪環境が混ざり合い、必然的に閉鎖的にならざるを得ず、いつか内部崩壊してゆく運命にあるからだ。
『楢山節考』の村がいかなる運命を辿ったかは、もはや想像に頼るしかないが、あの村もまた過剰な防衛手段しか持たないが故に閉鎖的であり、人々は平穏と隔離されていた。となると、その運命を察することは、さほど困難なことではあるまい。
現在の世界においても、自己防衛のために過剰な防衛手段しか持ちえない国々があるではないか(※それは決して我々と別次元の存在ではない)。そうした国家の姿を『楢山節考』の村と重ね合わせて見るコトは、やや行き過ぎた行為であろうか。

2007年09月19日

2007年09月19日 「気狂い」と書いて○○と読む。

たまに見かける「結婚したい有名人ランキング」。まったくあの結果には納得いかない。回答したヤツらはほとんど外見しか見ていない気狂いどもだ。そういう輩が多いから、近年は離婚率が上昇しているのか。あのランキングに出てくるヤツの9割が性格の悪そうなロクでなしじゃないか。「こんなのと結婚しても半年で別れるよ」と思うようなのばっかり。気狂いばっかり。「気狂い」と書いて「なかみがからっぽ」と読む。
なら、問われるな。「お前は何と答えるのか」と。そりゃすべての有名人の性格を知っているワケじゃないから、あくまでも主観になってしまうが・・・私なら「つじあやの」の名を挙げる。派手じゃないし、絶世の美人でもないし、ちょっと「クワバタオハラ」のヤツと被ってるけど、結婚するならああいうヒトがベストなんじゃない? こんなコトを結婚願望のない私が言うのもオカシイけど。
あの歌声、あの表情を持つ彼女の性格が仮に悪ければ、私は人間不信に陥る。だって彼女は女の子なのに大学で史学部を選んだんだよ。歴史を専攻するような女に悪いヤツがいるワケなかろう(美人もいないかもしれないが…)。
ああいうヒトと歴史談義なんて楽しそうだ。歴史談義デート。『図解 江戸の文化』みたいな手軽で見やすい歴史本を持って行って、自宅で歴史の話をアレヤコレと・・・私はキライじゃないね。まぁ、アレか、そういうコトやっていると、歴史観の違いで喧嘩別れするかもしれんね。


話は変わって、コンビニの前で座り込んでいる若者は国家が駆除しろよ。アイツらの生命を国が奪ってしまえばイイ。他人に迷惑をかけている、生きていても仕様がないような気狂いばっかりなんだから。夜のコンビニには行きたくないね。行かなくとも、バイト帰りなどに毎回のように見かけるから不愉快だ。見たくもない。だから駆除すべし。それか万景峰号に積み込んで北朝鮮に持って行ってしまえ。日本には不必要なウイルスだからさ。


そういえば、今日、土俵に浸入しようとしたババアも駆除しろよ。アレは何だったんだ。変なビラみたいなのを大量に持っていたし。私はてっきり極左の気狂いか、頭が死んでいるフェミニストだと思っていたのだけど、どうやら違うみたいだ。


参考: 何に抗議?土俵に女性乱入、高見盛らが取り押さえる


「ビラの内容は意味不明なもの。」って言うし・・・


しかし、写真をよく見れば、このババアは神聖な土俵に上がっているじゃないか! 「女人禁制」という伝統を知らんのか。(参考リンク:女人禁制
「女人禁制」には宗教的な理由もあるというけど、そもそも土俵は褌一枚で勝ち負けを競い合う場だ。上半身裸で動きまわるのは、昔から男だけだよなー。女の上半身裸はタブーだ。そういうコトも「女人禁制」と関わっているのかもしれん。
「女人禁制」を「男女差別だ」という女がいるのなら、アナタも男と同じように上半身裸で褌一枚になってから訴えて下さいよ、ね。その覚悟が無い女に「女人禁制」をとやかく言う資格は0.0001%も無い。一方、男で「女人禁制」を「男女差別だ」というヤツは、もう少し伝統のお勉強をしましょう。
現在の世の中には「女性専用車両」などという気狂いのようなモノまで作られているのに、それだけでは飽き足らず、さらに「土俵に上がらせろ」なんて意味の分からないコトを言う女も駆除された方が良いと思う。それに女が土俵に上がる必要なんて無いし、上がったところで何も出来ないんだから。余計なコトは言うな。そして、今日、土俵に上がったババアは、猛省しろ。まったく気狂いはどうしようもない。「気狂い」と書いて「じぶんかって」と読む。
ちなみに決まり手は高見盛の「送り出し」で。

2007年09月18日

2007年09月18日 私を掬い上げてくれませんか?

今日から学校再開。クソッ!死ね。夏休みが・・・夏は大嫌いだけど、夏休みが過ぎ去るのは寂しい。当たり前か? 学生なんてそんなモンさ。
そしていきなり出た、就職活動の話。勘弁してくれ。そりゃもうそろそろ本腰を入れなきゃいけない時期だけどさ、分かっているけどさ、言われると萎えちゃうのさ。―ヘタレか!
面接、自己分析、企業研究、SPI、履歴書作成、エントリーシート・・・ ああああああーー、もうイヤになっちゃうワ。
日本の就活は短期集中型といえるが、そういうタイプのものは世界的に見れば珍しいとも。そうかもしれませんね。それが良いのか悪いのかは判断しかねますが。
しかし面接なんてどうすれば良いのか悩む。私のように人見知りするヤツには拷問の如きショータイム。“ああいうのはとりあえず喋っとけばイイんだよ。無口なのが一番良くない”なんて言うけどね、結構考えていかないとそんなに喋れるモンじゃないよ。


面接官「我が社を希望した理由は?」
私「ハイ・・・えー、まぁ、御社の社風に惹かれましたのが・・・希望理由です」
面接官「どのような社風ですか?」
私「それは・・ハイ、え〜〜、開放的でノビノビとしているような・・・自分の力をですね、十二分に発揮できるような・・そういう雰囲気を感じました。えー、それが一番大きな印象です」


ぐはっ! ダメだ、こんなんじゃ。
面接官に昭和天皇の如く「あっ、そう」と言われて受け流されるのがオチだ。「もうイイよ」と言われて門前払いされちゃう。もっと良いネタを考えなきゃな。そもそも「えー」とか「まぁ」とか「・・・」がいけない。テキパキと喋れるようにならねば。
自分で面接を想定した台本でも書いて、舞台役者のように自宅で一人稽古をしなければいけないのではないか。面接官相手に“マシンガントーク”をかませるようにならなきゃいけない。
『面接の時に明石家さんまになる方法』なんて面接特訓本が出れば売れそうだけどねぇ。


っていうか!無口で、人見知りする面接官(たち)がいて欲しい。


面接官A「自分の長所と、短所を・・お答えください」
私「ハイ、私の長所は妥協しない強い気持ちを持っているところです。物事は常にキッチリとこなしたいと思い、学生時代においても分からない点は納得のゆくまで調べることを欠かしませんでした。一方の短所は(以下略)」
面接官B「そうですか・・分かりました・・・えー、では・・Cさん何かありますか?」
面接官C「・・いや、私の方からは特に。Aさん、他にありますか?」
面接官A「いえ、もう私の方からも・・・何もありません」
面接官C「そうですか。じゃあこのくらいにしときますか」
面接官B「そうですね」
―退室―
面接官A「いやー、困りましたね。何を聞いて良いのか分からないし、誰が優れているのかも分からない。と言うより、もうこんなことしたくない」
面接官B&面接官C「同感です」


今日、センセイが言っていた言葉。「就活に成功するか否かは、どれだけ本気になれるか」
当たり前のコトだけど、それがなかなか難しい。切羽詰まる前に「本気」にならなきゃ。
「絶対にこのタイミングで就職するんだという気概が必要」とも。
そうだよなー。
仮に「オレは別に今就職しなくてもイイんだ。こんな企業に入らなくともきっと成功してやる」という気概が勝っていたとしても、じゃあ何で成功するんだ、本当に今就職しなくてもやっていける「確証」があるのか、となれば、それはとんでもない質問ですね、私は沈黙しなければいけないでしょう(←翻訳ソフトのような変な日本語)。


私のように“精神的なニート”であり、幻と空想と理想と観念と己の世界にのみ棲息しているヤツからすれば、就活などというモノは、水棲動物が突然「お前は明日から陸上で生きろ。それも標高3000m以上の高地で、な!」と命令されるようなもの。つまり死を意味する。これはオーバー過ぎるか。ならこう言おう。「死ぬ気にならなければ出来ない」と。・・・それこそつまり「本気」になるということじゃないか。
おお!まとまった。そうさね、自分の人生に対して「本気」にならなきゃいけないんだ。もうそんな秋(とき)か。俺はまだ寝ているのかもしれん。


誰か私を救ってくれ。いや、この場合、「掬って」くれ、と言った方が良いか。掬い上げて欲しいんだ。
そうすれば漏れなく私お得意の非現実的なコトをグダグダ言う声が聞こえます、アナタのお隣で。幻と空想と理想と観念と己の世界の発露……

2007年09月17日

2007年09月17日 手軽な“Give & Take”

大相撲中継の時に、西の花道の一番前、砂かぶりにいつもいるガタイの良い白いシャツを着たオッサンが無性に気になる。時代劇俳優のような渋い表情で、いつも幕下の取り組みの頃から(あるいはもっと早くから?)観戦されておられる。そして扇子を持っているのがまた似合っていてカッコイイ。


さて、お相撲の件でどうしても言いたいコトがある。
四股名。
特に外国人力士の四股名。ちょっと適当過ぎだろう、ってのが幾つかある。
列挙してみる。


琴欧洲(ブルガリア<欧州>出身)
把瑠都(エストニア<バルト三国>出身)
露鵬
黒海
猛虎浪
阿夢露(あむうる、ロシア<アムール川>出身)
舛東欧(ますとうおう、ハンガリー<中東欧>出身)
風斧山(かざふざん<カザフスタン出身>)
南乃島(みなみのしま<トンガ出身>)


おそらく外国人力士のうち8〜9人に一人の割合で、出身地にちなんだ安易な四股名が与えられていることなる。把瑠都とか黒海とか阿夢露とか風斧山なんて何の捻りも無いからな!もうちょっと考えてやれよ親方。


例えば風斧山の場合(妄想)
「あー、オイお前 お前もそろそろ四股名がいるな・・・え〜・・・お前どこ出身だっけ?」
「カザフスタン、です」
「カザフスタン? カザ、フ? カ・ザ・フ・・・“かざふやま”でイイか?」
「えーぇ、まぁ・・ハイ・・・・」
「イヤ、やっぱり“かざふざん”にしよう! “ざ”が二つも入っていて洋風っぽいじゃないか。か the ふ the ん なんてな ハハハ」
「・・ハイ・・・・・・・・」
「よし!今日からお前は『かざふざん』だ えーと、どんな字を当てようかな・・」


多分こんな感じだよ。こうやって決められたんだ。


ちなみに風斧山の師匠は錦戸親方、元水戸泉である。
あ〜、なるほどねー
…って、納得できるかよ!


参考(にならない)リンク:水 戸 泉 メ モ リ ー - livedoor Blog(ブログ)

2007年09月15日

2007年09月15日 告白の瞬間、真実の曝露。

TVドラマの「Xファイル」がフィクションであるコトは広く人口に膾炙しているが、何を隠そう私はずーっとノンフィクションだと思っていた。アメリカは怖い国でやんす、行きたくない国でごわす、と思っていたむかし。私のようなヤツがメディアに踊らされる。テレビのいうことなんてどこかしらウソが含まれている。新聞も雑誌も同じく。最近ではネットも。ブログなんてもうウソだらけ。今、アナタが見ているコレもウソだらけ。「ウソだらけ」というか、ウソ以外を書かないのがこのブログのスタンス。
試しにちょっとホントのコトを書いてみようか。


・創価学会は世界で一番素晴らしい宗教。是非お入りください。
・朝日・毎日新聞は日本を代表する素晴らしい新聞。是非ご購読ください。
・TBSとテレビ朝日とNHKは驚くほど中立のスタンスを崩さない。是非御覧ください。
・「森三中」の黒沢はよく見るとそんなに悪くない。
・私の初体験の相手は同級生の「昌也君」
・ファーストキスの相手は中学の部活の後輩「中川」
・私と槇原敬之は同じ人種


こんなもんですか。
ホントのコトを発表するのは恥ずかしい(笑)

創価学会員と朝日・毎日の購読者とTBS・テレ朝・NHKの報道を真摯に受け止めるヤツは生きている価値なし。

2007年09月14日

2007年09月14日 何から「脱却」したかったのか?

前回、「『安倍晋三という男は何がしたかったのか?』この問題もまた人間の知能を超越したところのモノでしか明確な判断を下せないのではなかろうか。」などとアホみたいなコトを書いたのがいけなかった。早合点というヤツでっせ。まぁ半ば分かっていて書いたのだけど。
あのオッサン、いや安倍さんが結構お仕事をしたのは知っているよ。少なくとも橋本や森などよりは数倍頑張ったと思う。


【安倍政権の歩み】


大雑把に抽出してみても


平成18年10月9日の「北朝鮮が核実験」をした後の、北への経済制裁。
同年12月15日の「改正教育基本法が成立」
平成19年1月9日の「防衛省発足」
同年4月6日の「日本版国家安全保障会議(NSC)創設関連法案を提出」
同年5月14日の「憲法改正のための国民投票法成立」
同18日の「集団的自衛権行使の憲法解釈見直しを検討する有識者会議が初会合」
同年6月20日の「教育改革関連三法が成立」


なかなか良い仕事をしている。
特に北朝鮮への経済制裁や防衛省への昇格や「国民投票法」やロクでもない怠慢教育(ゆとり教育)現場の見直しをはかる「改正教育基本法」や「教育改革関連三法」。これらはどれも当然ともいえるものだけど、気狂い売国マスコミの宣伝によって現在ではことごとく無視されるか、まるで失策のような印象すら与えられている。コレはやや不幸なことである。
また以上の他にも少年法を改正したり、(まったく不十分ではあるが)公務員改革に向かうポーズを見せたり、それなりの頑張りがあったのは確か。
一年でこれだけのことをやったのだから、バカにはできない。


しかし、私がどうしても嗤いたくなるのは、安倍さんが述べていた「戦後レジーム」の正体がついに解からず終いに終わってしまったから。
教育基本法を改正し、そして憲法を、それも特に9条を改正(破棄)すれば済む「レジーム(体制)」なのか。いやいやそんなもんじゃなかろう。おそらく安倍さんが思い描いていた「戦後レジーム」なるものは、一つや二つの法を改正したり、憲法を改正(破棄)して安全保障体制を再構築すれば達成されるような生温いものではなかったはずだ。
ド素人の意見で恐縮だが、総理大臣としての安倍さんに欠いていたものは、志向されるべき「レジーム」の姿とそこに向かう「必然性」のようなものを解り易く国民に対して説明する姿勢であったのではないか。結局、振り返ってみて感ずるコトは、安倍晋三という人物は自己完結的かつ抽象的で曖昧な観念を自らの政治目標としてしまい、まるで一介の「思想家」のような状態を脱し切れずに終わった残念な総理であったというコト。


繰り返しになるが、国民の多くが的確に説明できないような「戦後レジーム」というキーワード、そして気狂い売国マスコミの宣伝に対応できなかった点。これがカナシイ。
しかし、だからといって、何でも彼でも国民に伝えよう、分かってもらおうとする姿勢は逆に危険だ。為政者が過度に国民の側にすり寄るコトで究極的に辿り着く場所は、政治家の権限の喪失・無能力化であり、それはハイエクが「無制限の民主主義」と表現した世の中の混乱を意味する。
そういう点を考慮しながらも、政治家は最低限の理解を国民に求めねばならぬのだが、果たして安倍さんにそれが出来ていたか。


より明確な志向されるべき21世紀の「レジーム」を打ち立て、気狂い売国マスコミを逆に手玉に取れるような有能な総理大臣を!
・・・・無理か、無理だよな。こんなコトを言っていると、コッチの方が「思想家」みたいに思えてくる。トホホ…

2007年09月12日

2007年09月12日 「平成の近衛文麿」

人間の知能がどれほど発達しているのかはしらんが、世の中には人間の知能をもってしても解せないコトが多々ある。一例を挙げろといわれると難しいのだが・・・例えば「安倍晋三という男は何がしたかったのか?」この問題もまた人間の知能を超越したところのモノでしか明確な判断を下せないのではなかろうか。
なんちゅうタイミングで辞めるんじゃ、と思った者は少なくない、ことはいうまでもない。(色んなトコで言われているコトだけど)ごく最近の言葉で表現すれば「KY(空気読めない)」という言葉がこれほど適切な人物はいない。この言葉は安倍さんのために生まれたのではないだろうか。
政治家の頂点に立つ内閣総理大臣ともあろうお方が、ここまで無責任な行為を取って許されるのか。いったいどういう意識の持ち主じゃ。まったく呆れ返るわい。


安倍さんが「保守」の立場にあることが幻影だというのは、かなり前から明らかになっていたコトだが、ここまでくるともはやただの売国奴としか思えなくなる。国内だけじゃなく、外国のお偉いさんまで裏切るようなコトをしやがって。どんだけぇ〜 国際的にも安倍さんに対する信頼感が薄まったコトか。若いけどもう二度と総理大臣にはなれまい。ならしてはなるまい。
まるで近衛文麿のような不可解な総理大臣だった。今後安倍さんの愛称は「平成の近衛文麿」でお願いします。やることなすことが悉く裏目に出た(出した!?)点や、都合が悪くなると内閣を投げ出した点など共通する箇所は複数あるしね。
もしくは「保守の仮面を被ったお子様政治家」とでもお呼びしようかしらん。ガキのような無責任な男だった。或る意味では歴史に残る総理大臣だよ。
拉致被害者の家族も無念だろうなぁ。こんなヤツに期待してしまったのかと思わずにはいられんだろう。


ところで、新総理が決まった夜に靖國参拝してはいかがでしょう。
一応最後にそれらしいポーズを取ってみるというのも悪くないかもしれませんよ、安倍さん。なんたってアナタは(一部で)「真正保守」と思われたコトもある(笑)おヒトなんですから。

2007年09月10日

2007年09月10日 またつまらぬものを書いてしまった

「コーヒー牛乳」なんてガキが飲むモノだ、と思っていたのだけど、今日ナゼか無性にそれを飲みたくなったので、つい買ってしまっただけのおハナシ。
いやぁ〜甘い。こんなに甘いモンかねぇ。こりゃ確かにガキの飲み物だ。世間もコレくらい甘ければ良いのだが。


ああ、結婚しようかなー


突拍子もないコトを言いたくなる夏のおわり、秋のはじまり。


総入れ歯と全面的な禿げでは、どちらがイヤか。どちらかを体験しなければいけないのなら、どちらを選ぶ?
総入れ歯はどうだろう。シッカリと噛めるのか、食べ物の味は分かるのだろうか、不安は複数ある。
一方の禿げはどうだろう。夏場は大変だぞ。直射日光で日焼け多し。日焼けだけで済めばまだマシな方だ。頭に日光がひたすら攻撃をしかけてきたら、最悪死もありうる。頭はすぐに温まるから、毛がなければすぐにヒートアップ! そう思えばスキンヘッドなんてロクでもない。自ら進んで寿命を縮めかねない行為をしているのだから、愚劣ココに極めりだ。また、冬は冬で極寒だしなぁ。
でも、私はどちらかと言えば、全面的な禿げを選ぶ。それでも総入れ歯よりは良さそう。
オレの家系、総入れ歯のお年寄り多し。嗚呼、先が思いやられる。差し歯の2本や3本はイイさ。でも、総入れ歯はなぁ・・・


ああ、大型二輪の免許でも取ろうかなー


突拍子もないコトを言いたくなる夏のおわり、秋のはじまり。

2007年09月09日

2007年09月09日 食券死ね!

休日にも関わらず六時過ぎという破格の時間帯に目覚めてしまったので、どうしようかと思いつつ、とりあえず朝刊を読んで、またどうしようかと思っていたらお腹が減ってきたため、コンビニでなんか買ってくるかと思っていた朝。
ということで久々に松屋へ。四年ぶり二回目の松屋、と言うと高校野球の出場校紹介みたいだが、松屋へ行くのは二回目なんだな。
地元である四国の田舎町には牛丼屋なんて無いから、現在住んでいるコッチに越して来た頃は、多少の憧れを持って牛丼屋へ入ったものだ。松屋もそのうちの一つ。・・・が、どうもあまり良くなかった覚えがある。それ以来敬遠していたのだけど、久しぶりに行ってみるかと思い立ち、八時前後に入店。お客は若い男四人組と爺さんだけ。ボーっと席に座っていると、店員から「アチラで食券をお買いください」と言われる。松屋でそういうコトを言われるのはちょっと恥ずかしい。スマンのう、慣れてないもんで。はて、前回も食券なんて買ったかな?
だけどさぁ、食券なんていらんだろう! その点吉野家はエライと思う。私はどうも食券というのがキライだ。ファミレスなどでも食券を利用するトコロは敬遠しがちになる。時間帯にもよるのだろうけど、お食事時にそういう店に入ると、食券を購入するヒトの行列、行列。アレがイヤなんだ。
と、まぁ、そーゆーことで、食券を買い、朝から牛丼、いや牛めし。 何でも食べれるんだよ。朝だろうが夜だろうが関係ない。寝起きでコッテリしまくった豚骨ラーメンを食べれる自信がある、寝起きで焼き肉もOKという自負がある。


すぐに来た牛めし・・・やはり私のお口には合わないようで。行く店が悪いのかしらん。もう自主的には松屋へ行くことはないだろうと思いながらそそくさと店を出る。コレはローソンの牛丼と同等レベルだぞ、コンビニ弁当と張り合っちゃマズイだろう〜 いや、これは私の感想。好きなヒトはどんどん通って下さいな。


お相撲がはじまる日。毎回書いている「展望」はもう中止。場所中に思ったコトをちょくちょく書いていこうと思う。しかしとりあえず朝青龍の連覇に期待。・・・って、アレっ?

2007年09月08日

2007年09月08日 溜め息、出た!

ふううううううう〜〜〜〜〜
非常に息苦しかった一週間が、ようやく終わった。
何がどう息苦しかったのかは言わない。もうイヤ!


若者は漢字大好き パソコン普及「読めても書けず」


調査結果によると、パソコンなどの利用で、「漢字をどんどん使うことは望ましい」が41.9%(10年度調査39.4%)に対し「必要以上に漢字を使うのは望ましくない」が45.1%(同45.0%)とやや上回った。ただ、「漢字多用支持」は20代以下では5割を超えたが、60代以上では32.7%にとどまるなど世代間の差が目立った。


コレはちょっと考えさせられる調査結果だ。
私は「漢字をどんどん使うことは望ましい」とは思わない。
例えば、こんないい加減な感じのブログを書いているときでも、「ココは漢字にした方が良いかな? いや、ひらがなでいくか・・・う〜ん・・・」と悩むときがある。言葉はおなじでも漢字で書くのとひらがなで書くのでは、随分と印象が変わってくる。また、ひらがなとカタカナでも印象は大きく違う。
だからといって自分の中に使い分けの基準があるワケではない。あるのは感覚だけ。この感覚を他人と共有できれば良いのだが、そうはいかない。だから、時として自己満足のようなカタチで完結してしまうコトもあろう。う〜ん、文章を書くのは難しいねぇ。


松村の安倍総理のモノマネがヤバい、ヤバすぎる。私のなかでこのモノマネは貴乃花のヤツと同じくらいにキている。詳しくは以下のYouTubeの動画を参照されたい。(いつまで残されているか分からないので、閲覧はお早めに。)


松村邦洋 ものまね 小泉純一郎 麻生太郎 安倍晋三
安倍総理 モノマネ


最後にもう一度だけ溜め息つかせて。
ふうううううう〜〜〜〜〜

2007年09月04日

2007年09月04日 「不法投棄禁止」の恐るべき意味

「不法投棄禁止」と書かれている看板をよく見かける。そしてソレを見るたびに私は、「この看板を作ったヤツは日本人だろうか?」と疑ってしまう。


ちょっと考えれば分かると思うけど、「不法」ってのは「禁止」ってこと、つまり「不法」は「禁止」された行為を指すワケで、にも関わらず「不法投棄禁止」などと書くのは「禁止行為禁止」と言っているようなモノ。「不法」という言葉の中には既に「禁止」という意味が含まれている。結局「不法投棄禁止」は意味がカブっているワケね。
だからこの場合、「ゴミの投棄禁止」とか「廃棄物の投棄禁止」と書くべきだ。
本来、「不法投棄禁止」なんて気狂い的な看板を立てる連中の意図は、「ココにはゴミを捨てないでおくれ」的なメッセージを社会の人々に投げかけているのだろうけど、残念ながら見方によっては、こんなオカシナ日本語が記された看板を堂々と掲げているようなヤツは日本人じゃないか、もしくは日本語を理解出来ていないバカかと推測されて嘲笑されるだけでござんす。


だが、逆説的にこうも考えられる。「不法投棄禁止」という言葉があるのならば、「合法投棄禁止」という言葉もあるはずじゃないか、と。そしてそこから少し視点を移動して推察してみると、「不法投棄禁止」、すなわち法に従わないやり方での投棄は禁止されているが、法に従ったカタチでの投棄=「合法投棄」ならば禁止されていないのではないか、とする疑いが生じてくる。もしかすると「不法投棄禁止」と記された看板のある場所は、あるやり方でならば投棄しても良いってコトなのかもしれん。じゃあ、その「あるやり方」、「不法投棄」ではない投棄、つまり「合法投棄」とは何ぞや。今のトコロ、それを説明してくれる丁寧な看板を見たことが無いから、私はこれ以上何も言えない。
だが、ココで私が強調したいのは「不法投棄禁止」は「合法投棄許可」とする土地所有者の意思表明かもしれないじゃないか、というコト。コレは実に重要なコトだと言わねばなるまい。「不法投棄禁止」と記された看板、それは一見すると「ああ、オカシナ日本語だが、とりあえずココには何があってもゴミを投棄してはいけないのだな」と思いがちだが、実はそうじゃない。その退廃的だが挑発的な文句の裏には「勝手に捨てられちゃあ困るけど(「不法投棄禁止」)、ちゃんとした手順で捨てたのなら許すよ(「合法投棄許可」)」という、土地所有者の寛大な心持ちが表現されていると考えられなくはないのである。
そしてココでいう「法」とは日本政府が定めたものばかりとは限らない。その土地を所持している者が定めた「法」があるかもしれぬ。「goo 辞書」で「法」を調べると、一番最初に「物事に秩序を与えているもの。法則。のり。」と出てくる。どこにも「国家」や「政府」などの文言は見当たらない。やはり個人が決定した「物事に秩序を与え」るための「もの」を「法」と称しても、その意味上に誤りは無いのだ。だから「不法投棄禁止」の裏に潜んでいる(と推測される)「合法投棄許可」の「合法」手段、それは土地所有者の意志の中に存在しているのではないか。


「不法投棄禁止」、この日本語は表面的に捉えれば確実にオカシイ。が、もはやそんなコトはどうでも良くなった。「不法投棄禁止」の文句、これが意味する内容は、アナタは絶対に捨てちゃあいけない、ってコトじゃない(多分)、という新たな発見をしたのだから! 何らかの「法」に従えば捨てても良いってコトさ。
さぁ、次なる問題が生まれてきたゾ! それはもう言うまでもない。その「法」を発見することだ。そうすれば新たなゴミ捨て場が誕生することになる。これはゴミ処分に困っている現代人たる私たちにとって大いなるチャンスだと思って良い。

2007年09月02日

2007年09月02日 怪奇!爺ちゃんの世界

爺さんというのはやはり私たちの世代には分からない面が多々ある。私も四国の山中に一人で暮らしている祖父のコトが実はよく分からない。
例えば…

『雷が凄かった日の回想。』
爺ちゃん「雷がゴゴゴゴゴゴゴ鳴ってのぅ、こりゃおとろっしい(恐ろしい)と思いよったらゴーって、近くに落ちたんじゃ」
私「大丈夫だった?」
爺ちゃん「テレビがビリビリビリビリ大きな音立てて、映らんようになって…もう婆ちゃんとおとろしい言よったんじゃ」
私「爺ちゃんは大丈夫だった?」
爺ちゃん「テレビがビビビビビビビビビビビいうて、おとろしかったんぞー」
私「…テレビ壊れたん?」
爺ちゃん「ビリビリビリビリいうて、ガーとなったけんのぉ、消したんじゃけど、その後に付けてみたら映らんようになっとったわ ビリビリビリいうて、ガーとなったけん・・・」
私「ヘヘ…ガーとなったん?」
爺ちゃん「雷でビリビリビリいうて、おとろしい思いよったらドーいうて、大きな音の後にテレビがガァーなったけん…」
私「それで壊れたん?」
爺ちゃん「壊れてしもた」
私「ガーってなって?」
爺ちゃん「テレビがガァー!いうて、雷が落ちたんじゃ」
私「ビリビリビリビリいうて?」
爺ちゃん「外に出たら危ないぞ ビリリリリリリリリッいうて、近くに落ちたらコトじゃ!(「大事じゃ」の意)」


「ビリビリビリビリ」とか「ガー」とかそんなのばっかり。同じことを何度でも言う。面白いから何度でも聞いてしまう。


『爺ちゃんの腕相撲自慢。』
爺ちゃん「ワシはこの村で一番腕相撲が強いんぞ」
私「色んなヒトと勝負したん?」
爺ちゃん「若いときは誰にも負けんいうて、強かったんぞ」
私「この村で一番?」
爺ちゃん「村で一番じゃ。今でもトモ(私の父の呼称)より強いぞ」
私「負けたことないん?」
爺ちゃん「誰にも負けんかった この区域で一番じゃ」
私「区域で!? 村じゃなくて!?」
爺ちゃん「この区域では一番じゃ」
私「そんなに強かったんかー」
爺ちゃん「今でもお前等には負けん この区域では一番強い」
私「そうかぁ」
爺ちゃん「今でも力仕事するけんのぉ、まだまだ負けんとは思うとる」


横から母親が「アンタなんか力無いから爺ちゃんには勝てんわ」


爺ちゃん「ワシはこの○○(地区の名前)では一番強いぞ」
私「○○ってこの辺だけやん!住人5人くらいしかおらんやん!村で一番じゃなかったんか!?」
爺ちゃん「○○では一番強い!」


ナゼか徐々にスケールダウンしていく爺ちゃんであった。


『忘れるな!爺ちゃん。』
お墓参りにて。ウチのお墓の前のお墓を見て、
爺ちゃん「この人は終戦の一日前に戦死しとるわ」
私「へぇー」


爺ちゃんが見ていたお墓の側面に記されている死亡年月日を見る。「昭和一九年八月一四日 ○○(南方の島)にて戦病死」


私「爺ちゃん!昭和一九年! 終戦の一年前よコレ」
爺ちゃん「ほーかい(そうかい)、一年前か」


数分後…


爺ちゃん「トモ(父)、この人は戦争の終わる一日前に死んどるわい」
父「ああ、そうか」
私「いや・・・だから・・」


『畑に猿が出た日のこと。』
爺ちゃん「猿が出てのー、ワシが見つけても逃げたりせんのじゃ もう完全に人間を馬鹿にしとるわ ワシが追いかけても逃げれる思てのー」
父「そんで猿は畑のモンを取るんか?」
爺ちゃん「網で防いどいても、賢いわー 隙間からトマトを持って行って、コッチをチラチラみながら食いよったわいなー」
父「どうにかできんもんかのー」
爺ちゃん「ワシが見つけても逃げたりせんのじゃ もう人間を馬鹿にしてしもうとる」
父「なんとかして対策を立てないかんぞ」
爺ちゃん「網で防いどいても、隙間からサッと取るんじゃ」
父「そんで逃げんのか?」
爺ちゃん「全然逃げん 人間を馬鹿にしとる」
父「どうにかならんかのー」
爺ちゃん「網の隙間からサッと持って行っきょるわい」
父「なんとかせな全部持って行かれるぞ」
爺ちゃん「網の隙間からサッと取っての、向こうで堂々と齧じっりょるわ」
父「そない堂々とか 猿も人間をナメきっとるのー」
爺ちゃん「ワシが見つけても逃げたりせんぞ ちょっと近付いて来て挑発したりするんじゃ」
父「完全にナメられてしもうとる」


お気付きの通り会話が全く前に進んでいないのです。爺ちゃんも爺ちゃんだが、父も父だ…こういう会話を延々と10分くらいする。


『爺ちゃん・・・』
ケータイを買った父が、その機能を爺ちゃんに説明していた時のこと。
父「そんでのぅ、このメールってヤツはどこにおっても手紙のような感覚で通信できるんじゃ」
爺ちゃん「ほーぅ、大したもんじゃわい」
父「もう今は何でもメールになって、誰でも彼でもメールしよるわ」
爺ちゃん「そんでコレは何するモノぞ?電話か?」
父「電話じゃ!電話!」


私(心の中で「爺ちゃん・・・」)


爺さんというのは本当に謎だよ。爺さんのいるところに謎ありき。

2007年09月01日

2007年09月01日 像無き像

子供の頃に大好きだった「裸の大将」が復活するというので期待に胸を膨らませていたのだが、いざ始まってみると芦屋雁之助の個性を痛感させられただけだったので、30分で見るのを止めた。誰が二時間もずっと塚地のモノマネを見るんだ。
本物の山下清がどういう言動を取るヒトだったのかは知らないが、おそらく“芦屋雁之助の「裸の大将」”も山下清本人に忠実であったわけではなかろう。だが、芦屋雁之助という俳優の演技力・表現力が「裸の大将」というドラマの魅力をかき立てた。それはとりもなおさず芦屋雁之助の力に他ならない。だが塚地の場合、芦屋雁之助の力をそのまま頼りにしているだけで、彼独自の「裸の大将」像が全く見えて来ないのである。結局、今日のアレは“ドランクドラゴンの塚地が芦屋雁之助の「裸の大将」をマネただけ”のモノだ。
もうなんか脱力して…今日はこの辺で勘弁して下さいませ。

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