« 「気狂い」と書いて○○と読む。 | もどる | 大相撲秋場所感想07 »

2007年09月22日 雑記「生存のための秘密と適合」

ノノノノーバディ ノゥズマイシークレッt イッt サァム パ・パ・ッパ♪
誰もオレの秘密を知らないぜー パ・パ・パ!


サイコーのはじまりじゃないか。
いや、バンドアパートの新曲「Moonlight Stepper」ですけど。素晴らしい曲ですね。
そうである、誰も知らない秘密があるのだ。


知らないで良いコトと知られたくないコト。国家からすれば、国民に知られたくないコトがそのまま知らないで良いコトになる。つまりメディアに対して報道規制をしたり、ひた隠しにする。当たり前のコトですけど。
何も国家に限ったコトではない。もっと小さな共同体にだってそういうモノはある。例えば深沢七郎の『楢山節考』に描かれているような村が過去に実在したということは、民間に伝わる説話や幾つかの古典文学から確認できることである。その村に生きる人々は自らの生存手段として、年老いた親を捨てる。子が親を捨てるということは、結局その子もまた親になり年老いたときには己の子に捨てられることを意味する。日常的な問題でいえば、親が子を捨てる方がより一般的な事柄であり、それは一代限りで終わるのが常である。例えば「赤ちゃんポスト」なるものが昨年辺りから我が国でも或る問題として取り上げられているが、古今東西「捨て子」というものは至るところに存在してきた。また近年では「介護疲れ」との理由で親を殺すといった事件も増加しつつあるが、それもやはり伝統として繰り返される類のものではなく、むしろ突発的な部類として扱った方が適切かもしれない。
『楢山節考』で描かれるような村は、そうしたものとは立場を異にする。前述のように、村全体で延々と子が親を捨て続けるのである。そこは当然閉鎖的な空気が支配する空間であり、自分たちの村に伝わる掟を外部に対しては秘匿する。彼らは、村に貧困という問題が蔓延する以上、伝統的生存行為に拘束されざるを得ない人々だ。
勿論通常の感覚からいえば、人間が人間を捨てる行為は、いかなる理由があれ禁忌とされていることである。では彼らは、生存のための伝統に規定される彼らは、そうした禁忌への意識が欠落しているのか、否か。


人間の中に本能的に備わる自己防衛意識が最高度まで“刺激”されたとき、彼らは、いや我々はそれでも一定のモラルを持ち得るのだろうか。こういう問題を絡めずして、彼らの深層を解することはできないのでないか。
そしていま一つの問題は、なぜ彼らは自らの共同体内における伝統を外部に対して明らかにしないのか、という点である。これは何を意味するのか。ヒトは罪悪感なくして他者を蹴落とすことなどできようはずがないことの証明と見るのか、それとも単に自らを“綺麗”に装うための繕いと見るのか。
私はそこにヒトの持つ複雑な生存本能が見られるような気がしてならないのである。つまり、自らの自己防衛意識として親を捨てる行為も、それを外部に対してひた隠しにする態度も、全ては上手く生きていくための“歪んだ”生存手段の一つなのだ。合理的であるとか非合理的であるとか、そういう次元では語ることのできない、より切羽詰まった状態でのヒトの生存本能が、彼らのなかには蠢いているように、私には思えるのである。
子が親を捨てる行為は当然禁忌とされるべきものであるが、それでもそうした手段を常態化せざるを得ない状況に置かれた人々は、そこに相応しい形式で、自らのモラルを適合させてゆく。この場合において、彼らの中の罪悪感の有無を探る行為にどれほどの価値があるだろうか。ヒトは、自らの自己防衛意識を意識的に“健全な形式”でコントロールできぬ限りにおいて、禁忌や罪悪感をも巧みに消化してしまう呪うべき能力を所持していることを、彼らの伝統行為は証明しているのであるから。


そうしてこれが非常に危険な状態であることは言うまでもなかろう。すなわちヒトは自らの自己防衛意識が極度に追いつめられたとき、いかなる行為をも正当化してしまう可能性を生むのだ。そうした心理(行動)を想定する限り、『楢山節考』で描かれるような村を“健常な形式”ではないとして、頭ごなしに批判することはできないのである。


自らを防衛する手段を持たない共同体は必ず滅びるが、過剰な防衛手段しか持たない共同体もまた滅びゆくだろう。なぜならば、そうした共同体は、外部との避けることのできない摩擦と、内部の改善されることのない悪環境が混ざり合い、必然的に閉鎖的にならざるを得ず、いつか内部崩壊してゆく運命にあるからだ。
『楢山節考』の村がいかなる運命を辿ったかは、もはや想像に頼るしかないが、あの村もまた過剰な防衛手段しか持たないが故に閉鎖的であり、人々は平穏と隔離されていた。となると、その運命を察することは、さほど困難なことではあるまい。
現在の世界においても、自己防衛のために過剰な防衛手段しか持ちえない国々があるではないか(※それは決して我々と別次元の存在ではない)。そうした国家の姿を『楢山節考』の村と重ね合わせて見るコトは、やや行き過ぎた行為であろうか。

« 「気狂い」と書いて○○と読む。 | もどる | 大相撲秋場所感想07 »