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2007年05月29日

2007年05月29日 告白

ボクの秘密壱。
常に除菌用のウェットティッシュを持ち歩いている。
持っているとこの上なく安心する。ばい菌には負けんぞ!って思うとドキドキしたワクワクしたりする。血が騒ぐというヤツじゃ。
ウェットティッシュでも「ノンアルコール」などと書いてあるようなのはどうしようもない。ソレは本当に濡れただけのティッシュ、「ウェットティッシュ」に過ぎない。私のは「アルコール 除菌」と書いてある「ウェットティッシュ」。
こういうトコロで大人買いしている。


ワシの秘密弐。
うどんを見ると、目一杯七味唐辛子をぶっかけたくなる。表面が真っ赤になるくらいかけたくなる。っていうか、かける。うどんの味などどーでもいー。元々うどんはあまり好きじゃない。七味唐辛子漬けになったうどんが大好きなだけ。例外的にきつねうどんだけは、何も無くても好き。
ワシの秘密弐の補足。
七味唐辛子だけじゃない。一味唐辛子でもタバスコでも、とりあえず香辛料的なモノがあって、ソレをかけるものがあれば、大量にかけたくなる。ピザへのタバスコ、ラーメンへのコショウ、ホットドッグへのマスタード、そばつゆへのわさび、おでんへのからし。あれば大量に用いる。無ければ無いで良い。“大量の”香辛料大好き。体に悪い。後先考えずにぶっかけるんだから、頭も悪い。ただし唐辛子の丸かじりだけは出来ない。


拙者の秘密参。
中三の時、図書室のガラスを割ったのはボクです。廊下にいた不良の二年生たちにこっそり罪をなすりつけました。彼らとは面識が無かったから「イイや」と思って・・・ソコにいたのが不良生徒だから、集まってきた先生たちみんなもソイツらが割ったと決めつけていた。思い返せば悪い先生たちだ。(自分のことは棚に上げて)
ボクが中から割りました。外の廊下には思いっきり破片が落ちてたよ。ちょっと考えれば分かるんだけどね、中からガラスを割れば破片は外に落ちるんだよ。逆に外から割れば中に落ちる。手前から割れば破片は向こう側に落ちる、と言った方が分かり易いかな?そんなことに誰も気付かなかったのを良い事に、ボクは知らんぷり。ボクは廊下に(外に)落ちている破片を見て、もう逃げ道がないと思ったけど、なんとなんと誤摩化せたんですね。
図書室の中には、非常に良い加減なことで評判な英語のI先生がいまして、ボクがガラスを割った時、I先生はテラスへ出る扉を必死で修理していました。ボクはI先生に「先生、ガラスが割れました」と言ったんですが、先生は「そんなこと良いから、あそこにあるドライバー持ってこい」と言いました。I先生が無頓着なのを好機と思い、全責任を不良たちになすりつけたんです。ゴメンナサイ。
私が図書室から逃げようとした時、外は野次馬だらけで大変騒がしくなっておりました。I先生はそれでも必死にテラスに通ずる扉を修理していたのですが、ボソっと一言。「(図書室の)中にいたヤツは無関係だと言っておくから」。これは私を弁護するためのモノではありません。I先生はガラスが割れた状況すら気にしていなかったので、心の底から私は無関係だと思っていたのです。そうです、私は不良生徒の他にI先生も騙したのです。改めてゴメンナサイ。

2007年05月28日

2007年05月28日 別の世界への気配り

松岡大臣が自殺したり、ZARDのヒトが転落死したり、驚くようなニュースが続けて入ってきた日だった。
驚くといえば、昨日の全日空システム障害も、ちょっとした驚き。
あのニュースを見て思ったこと。
いかにコンピューターに依存しているかということ。それがトラブルを起こせば、本当にどうしようもなくなるということ。私はちょっと情けないような気分になった。これは停電の時と同じ。電気が途絶えて気付く電気の便利さとそれへの依存度。停電になって全ての電化製品が使えなくなると、本当にいかにそれに頼って生活しているかということに気付く。
そうであるから、停電になったことに対して文句を言うと、後々になって情けないような気分になる。電気に生かされていることを自覚させられるから。電気が無ければお前は死ぬだろう、というような脅迫を眼前に突きつけられたような感じを覚えるから。だから文句を言うのは筋違いのような気がしている。普段から停電になっても、余裕で過ごせるような態勢を構築しておかねばならぬ。電気が無ければ何もできぬ、というのでは、ややみっともないではないか。
電気に頼り切って、それが途絶えると文句を言うのは、電気のある世界に浸り切って、その外の世界が見えなくなっているといった感じだろうか。
別の世界への気配りを忘れないようにありたいと願う次第である。

2007年05月27日

2007年05月27日 大相撲夏場所感想07

ウオッカ、ウオッカよ!驚いた。ぶっ飛んだ。なんだあの馬。本当に牝馬か?凄いや姉さん。歴史的な日本ダービー。ご観戦の皇太子さまもご満悦。


白鵬、おめでとう!!文句無しの全勝優勝。千秋楽は凄かったなー。朝青龍に完勝。八百長なんかじゃないよ。
朝青龍の連敗が気になるけど、やはり腕か?もう完全に白鵬に並ばれたよ。
だけど優勝インタビューで不知火型宣言しちゃったよ。不知火型は短命と言われてるけど、大丈夫だよね。朝青龍の雲竜型、白鵬の不知火型。いろんな所で競い合ってくれ。


さて、その他で印象に残った事など。
琴光喜とか魁皇とかはスルー。もう良いよ。時間との闘い。
三賞。殊勲賞:安美錦、敢闘賞:出島、技能賞:朝赤龍。
この中じゃ、やはり出島かなぁ。朝赤龍も良い相撲があったけど、ええと、あまり印象が強く無いなー。
あとは普天王と龍皇の10勝。普天王は良かったね。場所によって勝ち星が安定しない、というか上位相手には今一歩のところで負けることも少なくないんだけど、今場所みたいな相撲を上位陣相手にも取れれば、三役定着もできそうな気がする。龍皇は新入幕でいきなりの活躍。押し相撲の力士ってのは、どこかで壁にぶつかるから、今後はとても頑張り時だと思います。そういう意味では、来場所からが試練の時かもしれません。期待しております。


十両。
何といっても把瑠都!やはりモノが違う。もう少しで二度目の「北の富士賞」だったんだけどねぇ。まぁ、来場所からまた上を目指して頑張って欲しいと思います。
で、若ノ鵬と豊響。ともに素質はあると思っている両者が、揃って10勝。あら目出度い。期待期待。
返り十両の猛虎浪も勝ち越した。彼には密かに注目してるんだけど、うーん、どうだろう。来場所も踏ん張れ!


そして、その来場所のこと。
新横綱白鵬がどういう相撲を取るか。朝青龍との争い。今場所負け越した豊真将や稀勢の里ら若手も奮闘して欲しい。あと関脇を維持した安馬にも期待。朝青龍、白鵬に続くモンゴル人横綱を目指すくらいの気概で。そして把瑠都。早く上に来い。来て下さい。アナタは技術さえ磨けば、それこそホンモノの「化け物」になります。期待しまくっております。
最後に琴欧洲。大丈夫か? 今場所はダメな相撲が多かったなぁ。それでも9勝。よく9勝もできたな、という感じなんですけど、果たして来場所は・・・是非とも大関らしい相撲を。って、「大関らしい相撲」がどんなものかはイメージし辛いですけど、少なくとも今場所の琴欧洲は大関らしくなかった。大関らしくない大関、TさんとかKさんみたいにはならないように頑張って下さい。でも、今場所はTさんもKさんも頑張った。大関みんなが横綱に勝ったし。というと、横綱の調子が悪いかレベルが下がったみたいだけど、まぁ勝ちは勝ち。
来場所は、個人的に今まで以上に上位陣に注目して見たいと思います。新横綱の白鵬、連敗で終わった朝青龍、勝ち星はつくけど、どうも大関らしくない三者。一応大関への挑戦をするらしい琴光喜、大関挑戦を目指したい(?)安馬。なんかメチャクチャな気がする。でも、上位に注目。モチロン若手にもね。


とにもかくにも新横綱白鵬。彼が横綱としてどういうスタートを切るかに注目です。

2007年05月25日

2007年05月25日 記念日

たった今、朝青龍が負けた。
記念にココに書いておく。何の記念かというと、モチロン白鵬の横綱昇進確定。


いつになく慎重な横綱、差し手争いで魁皇に上手を取られた時、「ヤバイ!ヤバイ!」と言いながら笑ってたら、負けちゃった。上手だし投げ。横綱がピークを過ぎ去った大関相手に、あんな風に上手取られちゃダメだろう。


上手を取れた白鵬、上手を取られた朝青龍。
これを八百長と見るか、朝青龍に異変ありと見るか。
兎に角、今日はある意味で歴史的な一日。
何かが変わる!?


場所前は、白鵬の綱取りに対して不安視していた私だけど、いやいやとんでもない。今場所の相撲内容はピカイチだよ。昨日辺りから立ち合いの踏み込みが素晴らしい。あの立ち合いで当たっていければ、この後も問題なし。全勝優勝の可能性が限りなく高くなってきた。というか、今場所の白鵬と朝青龍を比べれば、白鵬は絶対に負けられない。問題は、千代大海・・・千代大海を逆に押し出すくらいじゃないと。まぁ、引き落としてやっても良いんだけど。

2007年05月24日

2007年05月24日 十年越しの膝蹴り!?

祝・白鵬横綱昇進!
と言っても良い気がするなぁ。千代大海凄いじゃないか。いや、朝青龍が不甲斐ないだけか?どうしたんだろうなぁ。もうピークが過ぎちゃったのだろうか。それとも、もう一人横綱を作って盛り上げる為の八百(以下自粛)


牛乳が旨い。最近はコンビニやスーパーで飲み物を買うときも牛乳ばかり買っている。今までは何気なくビールなんか買っちゃってたけど、もう牛乳だもんねー。ビールより安くてカルシウム多いもんねー。赤ちゃんみたいにガブガブ飲むもんねー。おっぱいが恋しくなってきたもんねー。


サラダが旨い。この頃コンビニでよくサラダを買う。サラダを食べながら、思い切ってヴェジタリアンになってやろうかと思うけど、そうすれば牛乳も飲めなくなるし、卵とかもアウトだから、ちょっと無理かなと思い、即座にヴェジタリアンへの意志は忘れる。灰野敬二さんはヴェジタリアンらしいけど、風貌はあんなに怖いのに、食べるものは野菜だけだと思うと、更に怖くなる。wikipediaによると嫌煙家でタバコも吸わないらしい。思いっきり吸ってそうだけど。灰野さんは、煙に巻かれるイメージ。煙に包まれたような感じがあるのに。
ヒトは見かけによらない。
私が小学生のとき、同じクラスにモノ凄いガリガリな体格のクセに肉が大好きなヤツがいた。ソイツは給食の時、肉が一番多く盛られている皿を意識的に取っていた。あまりに肉好き過ぎて腹が立ったから、肉がもの凄く盛られていない皿をわざとソイツの机の上に置いてやったら、無表情で私が置いた肉の少ない皿を隣のヤツの机に置いて、自分の机の上には肉が沢山盛られた皿を嬉しそうに置いた。私を始めとして何人かのヤツがそのムカツク光景を見ていたようで、肉好きの彼はその後、暴力的なSから容赦のない膝蹴りを喰らっていた。Sが膝蹴りをした理由はよく分かるし、あれはせねばならなかった膝蹴りである。私もしてやりたかったが、実はSの膝蹴りは相当強烈で、それを喰らった肉好きのヤツが悶絶しそうなくらい痛がっていたから、それを見て、なんかもうイイやと思った。
その肉好きのヤツは、腕も足も細くて、胸板も薄っぺらいクセに、腹の周りだけは異様に肉がついていて怖かった。モチロン、肉ばかり食っているせいで、脂肪のバランスが崩れたのだ。そういうことにしている。じゃないと説明がつかん。だって、見た目は相当ガリガリなのに腹回りだけジャイアンみたいなのって、ちょっと普通のヒトじゃないだろう。
彼のことを思い出したら、改めて膝蹴りをしたくなった。

2007年05月23日

2007年05月23日 貫き通す哲学?

暑くて嫌になる。もう何か色々死ねよ、と思わず言いそうになる。っていうか、多分無意識のうちに何度か言ってる。


しかし、学校に行くと、当たり前だけど、そこには色々な学問を専攻している先生がいる。
先生たちを見ていると、学問はヒトを作るというのは、ある意味で正解だと思う。ハッキリとは言えないけど、自らが専攻する分野によって人格がかなり決定されてくるような感じ。
とりわけ妙な先生が多いのは、何といっても哲学をやっているヒトだ。
哲学を教えているような教授の特徴を大雑把にいうと、こうだ。
彼らはほとんどが軟弱な体格。筋骨隆々でスポーツ刈り、見た目が強そうな哲学専攻者などはいない。実に頼りなさそうな体格で、目つきも虚ろ。睨まれても何も怖く無い。というか、ヒトを睨むような顔つきではない。
髪型もスッキリとはしておらず、無造作に中途半端に伸びていたり、無理にセットしていたりで、お洒落という感じではない。喋り方もハキハキとはしておらず、何を言っているのか聞き取れないこともあるような感じで、突然どーでも良い話をし始めたりする。だが、喋るときは常に冷静で、感情を前面に出したりはしない。口論をする時でも、相手の言うことを最後までよく聞いてから、ゆっくりと反論していくような感じのヒトたちだ。
所謂体育会系の連中とは正反対にいるヒトたちであり、捉え所のないオジさんたちが多い。
おそらく、哲学を専攻して、教授にまでなってしまったようなヒトは、他人を気にしたりはしないのだろう。だって哲学なんて難解な言語を駆使して論文を書くような分野で、毎日やれ実存主義だのやれ構造主義だのやれポスト・モダンだのやれルサンチマンだのというものと格闘しているワケで、そうした難解で特殊な分野であるが故に、どこかに優越意識のようなモノが生まれているのかもしれない。俺はニーチェが分かる、俺にはハイデッガーの欠点が分かる、俺はフーコーのココから影響を受け、評価をしている、などという思いが、他者との差別化に繋がる。凡人と才人のような感覚。すると凡人にどう見られようが、そんなモノは意に介さない、となる。凡人のオレを見る目など、何の価値もないというコトになり、彼らは非常に特殊な存在になっていく。それが外見にも出てくるのではないか。ニーチェだって他人を見下していたなんていうしね。


哲学をやっている教授たちは、憎らしいほどマイペースな感じを受ける。
彼らと他者との間には異なる時間が流れているような雰囲気でさえある。
ただ、そういう雰囲気は悪く無いかな、とも思う。
例えば、他人をカッコ良いと思うのは良い。誰にでもあることだろう。でも、ソレを真似してしまったら、その時点で自分はカッコ悪くなる。そういうことに自覚的な感じが嫌いにはなれない。
これはあくまでも私の主観だけど。
哲学をやっているだけあって、その生き方にも独特の哲学がありそうな感じを、時に受ける。それがやたらと愉快であったりする。でも、だからといって、哲学をやっている教授のようになりたいとは思わないけれども。


暑いから、またどーでもいーことを書いてしまった。
追伸 今日の白鵬の相撲は悪く無かったよ。もう横綱になっても良いね。優勝しそうだし。昨日、朝青龍が負けた段階で、かなり現実的になったと思う。もしかすると全勝優勝とか・・・まさか!?

2007年05月22日

2007年05月22日 大いなる倒錯と矛盾に満ちた百回目

このブログの「ほんのささいなこと」のカテゴリーが、今回で100個目となる。つまりコレが100回目の「ほんのささいなこと」である。100回を記念して、超どーでもいー「ほんのささいなこと」を書く。


私は、何を隠そう「人間味溢れる」とか「人間臭い」とかいう言葉をヘドが出る程心の奥底から嫌悪している。
情熱とか泥臭いとか熱いとかいうのも大嫌いである。
好きなのは淡白だとか平坦だとか無機質だとか無意味だとか・・・

そうであるから、出来るだけ淡白な性格を志し、心は平坦に感情は無機質に、人生の本分は無意味であろうと心掛けている。決して情熱的であってはならない。何はともあれ泥臭くてはいけない。
そうした志向を持てば、あまり詳しくは知らないのだが、例えばサルトルの「実存主義」のような思想とはどこかで食い違う気もしている。
自らの存在に偏重してはならぬのである。己の<生>に無関心でありたいとも願う。それは私にとって究極の理想である。坐禅などでいう「無」とはまた違うのだけど、どこかでそれに似た矜持的なものを欲しているようにも感ずる。


さて、だが、ここで問題が生じる。
冒頭にも記したように、私は「人間味溢れる」とか「人間臭い」というものを魂の深淵から嫌悪しており、そこから意識的に離脱したいと思っている。が、そもそも如何なる状態を「人間味溢れる」とか「人間臭い」というのか。
普遍的な定義などはない。
感情を出す事も「人間味溢れる」行為であるし、無理して感情を押し殺そうとする様子もまた「人間臭い」姿であるといえよう。


そして、ここで妙な矛盾点に行き当たる。所謂「人間的」なものから意識的に離れようとする行為、それこそが最も「人間的」行為ではないかということだ。要するに、犬が意識的に「もう犬なんて嫌だ。これから俺は猫として生きる」などと思うようなことはないわけで、意識的にあるものからの脱却を計ろうとするのは、古今東西、人間だけである。というワケだから、私の意志する「人間的」なものからの解放という理想自体が、どう考えても「人間的」な行為に他ならないということになり、すなわち人間が「人間的」であることから逃避しようということなど、そもそも不可能なのだ。


そこで思い当たる一つの結論。
「人間味溢れる」とか「人間臭い」とか淡白だとか平坦だとか無機質だとか無意味だとか、そうした一切のものを超越する方法が、それでも一つだけあるように思う。
それは、ありのままに生きる、ということ。
つまり、余計なことは考えないような暮らしを志すこと。
本能に忠実であれ。
人間は、他の動物的な本能が崩壊していくから、成長段階で理性というものを身につけるとも考えられる。
もう一度、己の本能へ深化せよ。
そこには一切の「人間的」なものもなければ、淡白だとか平坦だとか無機質だとか無意味というものもない。
ただ<生>があるだけではなかろうか。


じゃあ、<生>とは何ぞや。
・・・おっと、これ以上考えてはいけない。考え過ぎることは、つまり「人間的」であることを意味する。究極の理想は考えずに生活することである。
山ごもりでもしないと無理か?
少なくとも今の人間関係を維持しようと思えば、無理だろう。
人間は最終的には一人である、という前提がなければいけない。
現代社会でこうしたことを追求しようとすることは、よっぽど不可能なことであろうか。


・・・これ以上考えてはいけない。考えるなとも考えるな。今日はあまり好きではない「人間」という言葉を多用してしまった。気狂いみたいになってきた。

2007年05月21日

2007年05月21日 「I'm a Buddhist」で通す

三社祭で神輿に乗った馬鹿者が逮捕されたという。
当然である。
神輿は神様を担ぐものであるから、その上に乗るということは神様の上に乗る事になる。そんなことも考えずに、神輿の上に乗ったのだろうか。救いようのない馬鹿だ。禁固刑にしてしまえ。(って、罪名は迷惑防止条例違反なんだよなぁ。神輿に乗った“だけ”では法律で罰せられない…)


どうも最近の祭りは騒げば良いという感じになってきている。祭り=騒ぐもの、という認識しか持たずに参加する者も見学する者も、私は大嫌いだ。
騒ぐだけの祭りなど廃止した方が良い。
私もそうだけど日本人は宗教という観念を持ち辛い民族だ。だから、祭りの意味とか意義とか起源とかを深く考えずにただただ騒いでしまうのだろうか。お祭りは飲んで騒ぐだけのものじゃないことくらいは、ちょっと考えれば分かると思うけどなぁ。考えられないから、平気な顔して神輿に乗ってしまうのだろうか。


日本人と宗教で思い出した。
外国に行った時、国によっては入国時に自らの宗教を書いたり、述べたりしなければならない場合があるという。どこの国かは忘れたけど、そういうことをハッキリさせておかないと入国できない国があるのだという。
そうした国で、たまに「No」とか「None」とか「No religious」などと答える日本人がいるらしい。つまり「信仰心はありません」とか「宗教なんて信じねぇー」と。これは日本人からすれば当たり前、フツウのことかもしれないけれど、世界的にみればとんでもない非常識であり、馬鹿者かという感じを与える。現に「No」とか「None」とか「No religious」などと言えば、ほぼ間違いなく「ああっ!コイツは何をほざいてるんだ?」という目で見られるらしい。場合によっては別室で調査されたり。不審者と思われて。
日本人の信仰心の薄さが良いのか悪いのかは別として、外国人から「あなたはどの宗教を信仰していますか?」などと聞かれることがあったら、とりあえず「I'm a Buddhist(仏教徒だ)」と返答すればイイだろう。
「俺はどの宗教も信仰してねぇよ」というのは、外国人、とりわけキリスト教圏、イスラム教圏の人々にはまず通じないし、頭のおかしいヤツだと思われる。
ほとんどの日本人が死ねば仏教式のお葬式をして、戒名も付くんだから「仏教徒だ」というのがベター。現に私はキリスト教の勧誘に遭えば、ハッキリと「仏教徒ですから」と言うようにしている。そうすると連中、あっさりと立ち去る。そりゃそうだ。


外国では「I'm a Buddhist」と言うつもり(まぁー、でも別に神道でも良いんですけど。日本はその変もゴチャゴチャになってるからちょっと面倒ですね)。明確な信仰心の有無に関わらず、普段からそういう意識があれば、祭りで馬鹿騒ぎする事もない? ちょっと無理のある結びかねぇ?

2007年05月19日

2007年05月19日 22年分の情けなさ

2007年5月19日土曜日。私は今日という日を忘れはしないだろう。いや、日付は忘れるかもしれないが、今日の出来事は永久に忘れることがないと誓える。


いきなり仰々しい書き出しで申し訳ないが、これからはもっと申し訳ないこと、というか下品なことをいう。
なんでこんなことをいう必要があるのか、と思われるかもしれないが、それはブログという匿名性ゆえにである。匿名じゃなければ、こんなこといわない。


今日、お昼寝をしていたんだけど、私、初めて夢精しちゃった。今年の1月で22歳になりました。22年間生きてきて、初めての経験。
夢精をする時には変な夢を見るというけど、それは本当だな。ん?そういう夢を見るから「夢精」というのか?まー、その辺りのことは正直どーでもいー。


私が見た夢。
私は駐輪場のような所にいた。すると隣にバイクに乗った若くて綺麗な子連れの女性が現れた。若妻ということか。その女性はヘルメットを脱いだ後、ハンドルの所にそれを掛けて、子供と一緒に立ち去って行った。
この後、突然時間が飛ぶ。
気付けば私はなぜかそのヘルメットに顔を埋めていた。臭いを嗅いでいるというわけではない。ただ顔を入れているだけである。そうするうちに突然眠くなってきた。「ヤバイ、眠い。こんな格好で寝るわけにはいかない」と思っていたら、徐々に意識が遠くなってきて、チョロっと。


最初、私は寝小便をしたと思った。まさかアッチのモノが出るとは、夢ながらにして夢にも思わなかった。
夢の中でも、眠っていきかけた時に下から何かが出るのに気付いて、「うわー!小便出ちゃった!」と相当焦りながら、一気にヘルメットから顔を上げた。
それが夢の最後で、気付けば夢じゃない真の私も飛び起きていた。目覚めてからすぐ、「おいおい、22歳でおねしょしちゃったよ!情けねえええええ!!」と思った。本当に、すぐにそう思った。でも、思った程布団が濡れていない。あれれ〜と思い、パンツを触ったら・・・ヌルッと・・・すぐに事態把握。初体験なのに、すぐに自分がしてしまったことを理解出来た。
ここで問題なのは、おねしょと夢精のどちらが情けないかだ。それをパンツを履き替えながら考えていたら、自分がこれ以上無い程に惨めに思えてきた。
今年一番のショックである。


夢精の存在を知ったのは、小学五年生の時。担任の先生が、自らの経験を語ってくれた。始めての性教育。笑いながら聞いていた。
その後、友人が実際に経験したことや、友人の父親が、情けない事にいい年して夢精し、こっそりとパンツを洗っていたのを見た、という話をこれまた笑いながら聞いていた。
まさか自分が経験することになるとは思わないからねぇ。明日は我が身とはこのことだ。
今まで経験していなかったことだけに、余計に情けない。22歳という年齢が、必要以上にそう思わせる。


それにしてもなんちゅう夢じゃ。
フロイトからいわせれば、夢とはその者の願望の充足であるとか何とかいうけど、じゃあ私の場合、ストレートにいけば、内心では女性のヘルメットの臭いや髪の毛の匂いや汗の臭いを欲しているということか!?変態じゃないか!?誰にでもそういう隠された変態性みたいなものがあるのだろうか。嗚呼、恐ろしや恐ろしや。


いや、本当にね、こんなことは匿名性という利点のあるブログだから堂々と書けるし、ちょっとしたネタになって良いけど、誰かに面と向かっては話し辛いことですよぉ〜。中学生とかならまだ良いが、なんたってもう22歳、二十歳超えての夢精はキツい。
怖いのは、一度経験してしまったことで癖にならないかということ。身体が変な癖を覚えてしまわないように願うばかり。
別に“溜まっていた”ワケじゃないんだよなー。それだけに非常に今後が怖い。昼寝大好きだったのに、迂闊に出来なくなってしまったじゃないか。
ストレスなどが原因ですることもあるというから、無意識のうちにストレスが溜まっていたのかもしれん。今までは情けない夢精防止の為に、アッチの方は溜めないようにしていたんだけど、ストレスが溜まっていたのかなぁ。でも、夢精したら更にストレスが溜まるぞ。それは今回の件で明らかだ。精子出してストレス出さずだよ、コレじゃあ。
今まで一度も夢精したことのないのが、唯一の取り柄だったのに・・・
22年分の情けなさが一気に出たような気がする。私は今、精神的洞穴に己を閉じ込めたい。嗚呼。

2007年05月18日

2007年05月18日 「キーチ!!」ー“マナー”への視点

キーチ!!新井英樹の「キーチ!!」
大好きな漫画だが、未だにこの作品をどう捉えれば良いのか戸惑う。
新井英樹流の社会風刺として捉えるのか、究極的なカタチでの理想表現として捉えるのか、社会に対する挑発として捉えるのか、一種のニヒリズム的なものとして捉えるのか・・・


読みながら思ったことを、ちょっと書いてみようと思う。上手く整理出来なくて歯痒いが。


キーチが真っ正面から世の中に挑もうとする姿、そしてそれに対する世論・リアクション。キーチへの同調と反発、抵抗と屈服。
正義とは何か、道徳とはモラルとは人権とは信頼とは何か。ここではそれらを一纏めにして“マナー”とするが、このマナーに対する果てしない問いが、「キーチ!!」においては発せられているように感ずる。


キーチが志すマナーは、今日においては一般的な意味での、極めて純粋なそれである。要するに、現代の人々が理想とする、言うなれば「今日における常識的な最低限のマナー」を守ることである。法律や人権、平和や博愛といった観念が作られた根幹に存するところのものを死守しようとする原始的ともいうべきエネルギーが、キーチにはある。
キーチはそのマナーが犯されているみさとを救う為に、マナーを無視して行動する。本人はおそらく無自覚のうちに、一方的にコチラ側のマナーのために自らに忠実に、他のマナーを侵害して突き進んでいく。そこには明確な矛盾意識などは毫もない。
マナーを守る為には、敢えてマナーを破って動かなければならない。守るべきものを全て守って動いていても、結局何ら解決されることはない。むしろそうしていてはマナーを犯す側に蹂躙されるだけだということを、キーチは本能的に自覚している。彼にとってはそれが正当な理由であり、自らの行動原理ともなるものである。


マナーのためにマナーを破棄する、その意識を独善的であると言えるか?


作品中において、そうしたキーチの意識は世論からの支持を得た。つまり、甲斐の「国が定めた法律を破った側に味方してんねや」(9巻 第82話)と言うセリフに見られるように、キーチがなしたマナーのためにマナーを破る行為を、世間は是としたのである。おそらくコチラの世界、すなわち私たちが暮らす世界においても、キーチがとったような行動は、時として是認されることであろう。
而して、作中で見られる人々のキーチに対する熱狂は、ある問題へのメタファーとして描かれているのである。
ここで問われるべき事、それはやはり一つだけ。究極的にマナーとは何であるのか、ということだ。作者である新井英樹が「キーチ!!」を通して問い続けた問題の核心は、ここにあるのではなかろうか。
法律も秩序も人権も道徳もーここで私が言うマナーというものなどは、夫々の立場により如何様にでも定義、再定義されるということを、新井英樹は「キーチ!!」を描くことで暗示しようとしたのではないか。
キーチという一人の少年の言動により、浮き彫りにされる矛盾を孕んだマナーの存在とその意義、価値。そして、それを定義付けできる“立場”を手中に収めた者が持つ影響力に対する問題提起及び再考。無意識のうちにその影響力の傘下に入ってしまう世の中、それへの嘲笑を伴ったシニカルな警鐘。無自覚/無意識、思考停止は一つの罪だとする視点(これは新井英樹が「ザ・ワールド・イズ・マイン」の頃から現在に至るまで一貫して主張し続けていることだ)。
それと同じくして、自分たちのマナーを守るためには“タブー”が容認されるとともに、自分たちにとって不都合なマナーが打破されようとする時にもまた、タブーは黙認されるという、相反する現象も描写される。元来、反目するはずのマナーとタブーが、実は状況次第で結合するのだという、ある種の皮肉の暴露である。
それを人間の欠点・弱点と見ても良いだろうし、意外とそんなもんだと受け流しても良いだろうし、時としてマナーとタブーが妥協せねば“体制”などというものは到底維持出来ないと、二つの融和を正当化しても良いだろう。その解釈は、究極、個人と状況による。


「キーチ!!」に内包されている視点、そこから発せられる問いは、おおよそ上述のようなものであろう。ーマナーが抱える矛盾。それを暴き、ではお前はどう対応するのだという問題提示及び挑発。お前にとって真の“正しきマナー”とは何だという喧嘩腰での問いかけ。人々が信ずる“健全な”マナーを守り通すことは可能か、それを維持しようとする土壌が現代社会には存在しているか否かという疑問ー
この問いにどう対処するかは、やはり個人の問題なのである。マナーをどう捉え、それに絡むタブーを黙認するか否か…突き詰めていえば、この問題への返答は、己の人生観、価値観、倫理観、思想等といったものに、非常に強く束縛されるものになる。
今、その答えをいかにして見出すべきだろうか。答えは百人百通りであって良い。


「キーチ!!」をどう捉えるか、キーチとどう向き合うかは、必然的に己のマナー観を問うといった行為にも繋がってくる。マナー観・・・すなわち道徳、モラル、人権、信念、信条、価値観、人生観…生きていく上での基準となる諸々の事物への見方が問われるということであり、畢竟、「キーチ!!」をいかなる立場をもって受け止めるのか、このことはその者を構成する枠組みを明確に識別するフィルターのようなものとして作用することにもなるといえよう。


新井英樹からの“マナー”に向けられる峻厳なる視点、それに対して読み手がいかなるリアクションを返すか。読み手である私たちは、いま一度各々の立場からのリアクションが求められているように思えるのである。

…う〜む、抽象的な表現が多い上に、雑然とし過ぎてどうも良くない。
それにこれだけではまだまだ不十分だ。
「キーチ!!」が何を発しているのか、その問いは今後も継続していかねばならぬように思う。
依然として眼前にはキーチが立ちはだかっている。

2007年05月15日

2007年05月15日 夏前に

今日、コンビニで。
飲み物を持ってレジに行ったら、色白で神経質で軟弱そうな、二流ホストみたいな髪型、スーツ姿の男が、財布を覗き込んで長い間小銭をいじくり回していた。私は後ろでイライラして待っていたけど、ソイツが数枚の小銭を店員に渡した後、思わずヘッと笑ってしまった。店員が「200円丁度お預かりします」と言ったから。
いい年した男が、カッコつけた髪型の男が、ホストみたいな容貌でナルシストっぽい男が、200円程度の金額を、小銭を集めに集めて出す必要があるか?店員も小銭の合計を確認するのにちょっと手間取っていたじゃないか。
いくら外見でカッコつけていても、ああいう行為一つで器が知れる。そりゃ財布に小銭がいっぱいあれば、使おうと思う気持ちも分かるが、ちょっと時間がかかりすぎだ。財布の中にテレビでもあって、それを見ているのかと思うくらい必死に財布を覗き込んでいたものだから、何か見ているコッチが情けない気持ちになってきたわ。その男のせいでニヤニヤしてしまったもんだから、お金を払う時、今度は逆に私が店員から変な目で見られてしまったじゃないか。あの店員は「変な客が続くなぁ」と思ったかもしれん。スマン。全ての原因はオレの前の器の小さい偽ホストだ。
私なんか会計がピッタリ300円だったから、すぐに財布から百円玉を三枚取り出してやったもんねぇー。ヘヘーン、私の方がよっぽどスマートだぜー。


今、「松坂が完投勝利!」というニュースを見た。
松坂で思い出したけど、数週間前の朝、出掛ける前にテレビをつけたらメジャー中継をやっていた。松坂が先発する試合。その時の松坂はまだ1勝1敗くらいの成績だったけど、解説者は「相手投手からすれば、今日の相手が松坂ですから、負けて当然という気持ちで来るでしょう」などとほざいていたのを聞いて、テレビを殴り捨てようかと思った。最悪な朝。
確かに松坂は破格の金額が話題になったけど、あくまでも向こうでは実績の無い新人。しかも開幕したばっかりでまだ凄い結果を出しているワケでは無い。それなのに対戦相手の投手が「負けて当然」などと思うワケがないだろうがこの馬鹿。しかもメジャーでの実績では、その対戦相手の投手の方が上だ。そういう場合、「話題のマツ-ザカが相手か。ここで俺が良いピッチングをすれば・・・」と思うのが、プロフェッショナルじゃないのか。
メジャーでの実績に乏しい新人相手に、話合前から「負けて当然」などと思うヤツがいるとすれば、そんなヤツはやがて消えていく。競争に残れない。
その解説者だけのハナシではないが、何故日本のメディアは、ああまでして松坂有利に考えたがるのだろう(勝てば「さすが松坂!」、負ければ「次に向けての収穫あり!」で超ポジティブ。世相を嘲笑うかのように白々しい陽気)。そういえばW杯を目前にした一年前の今頃も、一次リーグ突破を前提にしたような報道が幾らかあったなぁ。
日本のメディア(特にスポーツ関連)は何でも楽観的、希望的観測で物事を語ろうとする。で、往々にして結果が出ないんだ。そうすると今度は「残念。でもよく頑張りました。お疲れさまでしたー」となる。これじゃあ国民の側からプロフェッショナル精神を高めようとする機運も起こらないわけだ。ということを、以前にも書いたけど、やっぱりその体質は今でも変わってないなー。
選手を労るのは大切だが、時として厳しい視点も必要。アメとムチ。欧米のメディアは、そういう点では優れていると思わされる。
マスメディアに浸食するリアリズムの欠如。本来無効であるべき憲法が、今に至るまで改正されずに残されて来た原因の一つには、こうした問題もあるのではないか。と、どこぞの人々が好きそうな締め方で終わり。

2007年05月14日

2007年05月14日 生まれてはじめての「おめでとう」

「お誕生日おめでとう」と言われても困る。誕生日の何が「おめでとう」なんだ。「今日は僕の誕生日です。今日で22歳になりました」と言って、「おめでとう!」と返されても・・・。それは今までの22年間無事に生きて来られて「おめでとう」というコトなのだろうか。それなら、まだ少しは分かる。でも、それ以外に何が「おめでとう」なのかは分からない。22歳そのものがおめでたいワケでもないから、「おめでとう」を言うのならば節目になる年が良い。10歳、20歳、30歳・・・50歳、100歳と。それは十分「おめでとう」だ。でも、22歳とか28歳とか42歳のどこに「おめでとう」の意味があるのかが分からない。中途半端は良く無い。しかも42歳なんて厄年だからな。「今日は私の誕生日です。今日で42歳になりました」と言えば、「ああ、そうですか。厄年じゃないですか。可哀想に。まぁ、頑張って一年過ごして下さい」くらいなもんだ。
一般的には、誕生日、自分が生まれて来た日、我が人生が始まった日、それをおめでたいというのだろう。でも、自分が生まれたことを、自分で「おめでたい」と思うヒトはまずいないだろうから、他人から「おめでとう」と言われることは、「ああ、そうか。俺の人生の始まりの日を、つまり俺の存在の根本を、こうやって決まり文句的にではあるが、おめでたいと声をかけてくれるヒトがいるのか」と思うくらいなわけで、畢竟、「お誕生日おめでとう」は自分自身にとっての慰めの言葉くらいにしか思えないのだ。それならばいっそのこと「誕生日ですか。今日で22歳ですか。まだそんなモンですか」とでも言われた方が、逆にスッキリして、活力が湧きそうなもんである。
最後に。例えば45歳になる男盛りのオッサンに「今日は課長の誕生日ですか!今日で45歳ですか!!それはおめでとうございまぁーす!!!」などと言うのは少し変で気持ち悪いから、やっぱり「45歳になられたんですね。45年の積み重ねが顔に出ていますよ。ご立派な人生ですね」くらいにしておくべきだと思う。45歳、課長の誕生日に「おめでとう!」は、無いよなぁ。


「生まれてはじめて」と言う意味が分からない。それはつまり「はじめて」ということだろう?じゃあ何でわざわざ「生まれて」などという余計な言葉を付け加える必要があるのだろうか。「生まれてはじめて」と「はじめて」に違いがあるのかな。
「私は今日、生まれてはじめて痴漢をした」
「私は今日、はじめて痴漢をした」
「彼は、生まれてはじめて亡命をした」
「彼は、はじめて亡命をした」
「彼女は、生まれてはじめて大統領になった」
「彼女は、はじめて大統領になった」
同じじゃないか!
「生まれてはじめて」なんていうワケの分からないコトを言ってると、コイツは生まれる前の記憶、すなわち胎内での記憶でもあるのだろうかと不審に思うし、そもそも蛇足だ。
「お腹の腹痛がヒドイ」とか「歯が虫歯になった」などと似たようなもので、本来必要のない言葉を重ねるのは、それ自体で意味が通じなくは無いが、ハッキリ言って二度手間だ。


今日、私は生まれてはじめて「誕生日おめでとう」が困惑して困ると言った。

2007年05月13日

2007年05月13日 大相撲夏場所展望07

もうゴチャゴチャ言わんよ。
白鵬の綱取り、朝青龍が横綱の貫禄を見せて、それを阻止するか。
他の大関・上位陣に期待はするけれども、何といっても今場所は白鵬の綱取りだけ。


私の予想。
朝青龍。こういう所でやってくれるのが朝青龍。出稽古、豊ノ島の件で散々叩かれているけど、あの男は意外とこういう場所でやってくれる。
何をやるかって?
白鵬を蹴落として優勝?それとも白鵬の綱取りをサポート?
うーーーん、前者だ。


白鵬次第、なんて言えば元も子も無いけど、朝青龍はまだ立ちはだかるよ。
それに先場所の優勝決定戦がどうも引っかかる。あんな相撲で勝ってガッツポーズしちゃった白鵬、今度は真っ向から行くだろうけど、それでどこまで行けるか。朝青龍が怪我でもしない限り、相当厳しいんじゃないかなぁ。
これを乗り越えられれば、白鵬時代到来。乗り越えられなければ、やっぱり朝青龍の独壇場。もう白鵬も琴欧洲も誰も入れない。彼が衰えるのを待つしか無い。


ということで、先場所の優勝決定戦は伏線なんだな。プラスに作用する伏線か、マイナスに作用する伏線はまだ分からない。でも、人生なんて悲劇的なもんで、そういったリズムがあるわけ。悲劇から喜劇へ、喜劇だと思えばまた悲劇へ。白鵬にとって先場所が喜劇なら今場所は・・・
白鵬の相手は自らが作り出すリズム。ペースといっても良いかもしれん。朝青龍が強いのは、そうしたリズム/ペースを自身で自在に操れるから。綱取りの白鵬、彼自身に相応しいリズム/ペースを自ら構築できるか。それが問われる。技量ではもう横綱になっても申し分ないだけに、あとは本当にそういうトコロだけだと思うんだけど。


冒頭で「ゴチャゴチャ言わない」なんて言いながら、ちょっと余計なことをいっぱい言ってしまったので、十両とかの展望は割愛。お許しを願う次第。

2007年05月11日

2007年05月11日 小学一年生の扇風機購入日記

先生あのね、今日は新しい扇風機を買ったよ。
今まで使っていた扇風機はかなり古い扇風機だったけど、今買った扇風機は新しくて、機能もイッパイあってド肝を抜かれました。まず、今まではリモコンが無かったけど、新しいのにはブサイクなカオリちゃんよりもよっぽどかわいいリモート・コントローラー、すなわちリモコンがあって、まるでテレビのようだと思うと、扇風機も偉くなったもんだと、なんだか腹が立ってきたので、思わず扇風機のリモコンをテレビに使ってみたら、何も起きなかったので増々ムカつきました。でも、テレビのリモコンを扇風機に向けたら、テレビが消えた。さすがテレビのリモコン!テレビのリモコンの方がやっぱり強くて偉いんだなぁと思いました。
そして、新しい扇風機には羽が5枚あります。今までのは4枚でした。羽が1枚増えるだけで、来る風が強くなります。さしずめ強風注意報から暴風警報への進展です。扇風機を付けっ放しで、しかも卑猥なことに裸で寝たオジサンが寝たままポックリと死んでしまったというお馬鹿なニュースを見て、どうしようもないおじさんだなーと思っていたけど、5枚の羽がある扇風機を付けっ放しで、しかもおチンチン丸出しで、要するに全裸で寝たら、もしかすると本当に死んでしまう気がした。この風は気をつけないと致死的レベルにまで体を冷やしてしまいそうです。最近の扇風機はちょっとした殺人兵器だと言いながら笑うと、お母さんがコラッ!と言いました。
そして、マイナスイオンという機能が付いています。でも、情けないことに、僕にはコレが何かはサッパリ分かりません。マイナスイオンというボタンを押しても、ランプが点くだけで何も変わらないからです。マイナスイオンが羽から吹き出ると思っていたけど、そうではないみたいだから、僕は残念でした。説明書を見ても、マイナスイオンについては一切全然触れられていないので、面白かったです。ソコが売りなんじゃないのかよ!と呟きましたが、説明書は何も答えてくれなかったので、ふと孤独を感じた。人間が最後に辿り着く駅は、孤独駅です。しかも自己否定駅を通過しての孤独駅着です。
いったい白い服を着てヒゲを生やした小太りで白髪頭の博士、というか開発者は、何の為にこんな機能を付属させたのかなぁ。
って、そんなことを先生に聞いても分かるワケないよねぇ。アハハハ、ゴメンねぇ〜

2007年05月10日

2007年05月10日 付与

私はニックネームを付けるのが好きだ。或る人物に対して、コッソリとニックネームを付ける。それが楽しい。
中学生の時、全ての教師にニックネームを付けたことがある。それは私を始めとして、ごく少数の者たちの間でしか認識されていないモノだったが、いつの間にか私が付けた一部のニックネームが浸透してしまい、驚いたことがある。誰かも分からないようなヤツが、或る先生のことを私が付けたニックネームで呼んでいるのを見た時は、ソレがどういうルートで広まったのか、もの凄く不思議に思ったものだ。


今、私はスーパーでバイトをしている。そこはもうニックネーム付け放題の場所である。
しばらくの期間勤務をしていると、自ずと常連客の顔を覚えてしまう。そうするともうニックネームを付ける、付けざるを得ないのだ。
今思い出せるだけでも「レゲエで挫折」、「弁当屋のオバチャン」、「海軍生活三年」、「怖い貴ノ浪」、「香港映画のエキストラさん(略して“ホンエキ”)」、「酔いどれ夫婦」、「サッパリ堅(サッパリした平井堅)」、「可哀想なスボン」、「ガチャピンの母親」等。ニックネームで客を判別してしまうようになる。そして、ニックネームを付けている客から「○○はどこにありますか?」などと聞かれると、ちょっと緊張してしまう。まるでスターにでも話しかけられたかのような錯覚に陥ってしまうからだ。


私はヒトの顔を覚えるのが苦手だ。だから自ずとニックネームを付けて、相手を覚えようとする。そういう習慣を持つと、ついつい見ず知らずのヒトにまでニックネームを付けてしまうようになる。付けっ放しで忘れてしまうこともあるから、たまに一人に複数のニックネームを付けてしまう時もある。だからといって、別に困るワケではないのだが。だから何なんだ、と言われれば、別に何でもないのだが。そう、何でもないのである。

2007年05月08日

2007年05月08日 驚き

しかし、まぁ驚きというものは突然、一気にやってくる。


今朝、テレビをつけたら「辻ちゃん結婚!」なんて言ってるじゃないか。しかも妊娠二ヶ月だと。ほぇ〜 あの辻ちゃんが結婚ねぇ。私の中では依然として小学生くらいのイメージしか無かったのに。思わず「えー!」と言ってしまった。一人で言ってしまった。辻ちゃんでも結婚してしまうくらいだから、絶対誰かはつんくと関係を持ってるはず。持ったことがあるはず。


それで、今日は暑過ぎるじゃないか。驚きを通り越して呆れ返るわ。


好天列島、今年1番の暑さ−7、8月並みの気温も


最近よく「電車の中で化粧をする非常識な女が増えた」とか何とか言って、主に若者の常識の無さを指摘する声があるけれど、そもそも地球環境が非常識じゃないか。五月上旬にして七、八月並の気温を記録するような非常識な環境で生活していれば、そこにいる生物も非常識になるわなぁ。


3つ目の驚き。これが最も驚いた。目ん玉が耳から出そうになった。
なんと「週刊プレイボーイ」で「マキバオー」の続編が始まっているではないか!!!その名も「たいようのマキバオー」
「みどりのマキバオー」、週刊少年ジャンプで連載されていた、つの丸の漫画。
この漫画が終わったのは、私が中一の時だった。競馬に興味を持ち始めた頃に連載されていたので、勉強する目的も含めて愛読していた実に思い出深い漫画だ。今でも実家には単行本が全巻ある。もう相当ボロボロになっていたと思うが。
この「マキバオー」、最終回がとんでもないんだよ。終わりというのは、いかなるものであれ重視される宿命にあるが、この最終回ほど見事な最終回がどれほどあるだろうか。つの丸という漫画家が底力を見せつけた、歴史に残るクライマックスだと、私は思い続けている。
その後のつの丸は、面白い漫画を描いているんだけど、どうもイマイチで、結局打ち切られてしまう。まったく不遇である。しかし、ここにきて、ついにやることにしたのか。最終兵器のマキバオーをいよいよ行使するか!ちょっと複雑ではあるが、これは是非とも見てみたい!と思い、コンビニで「週刊プレイボーイ」を探したけど見つからなかった。売り切れたのだろうか?ムカついたので「週刊朝日」を万引きしてやろうと思ったけれど、良い子だから止めた。


最後に。ほんのちょっとだけ風邪気味。
こんな時期に風邪をひいた自分に驚いた。思い返せば、三年くらい前の今頃にも風邪をひいたんだ。冬場は絶対にひかないのに。
「暑い、暑い」と言いながら、鼻水を出しているバカがいる。喉の調子も芳しくない。あっ、今「ざまーみろ」って声が聞こえて来た。アナタの方から聞こえて来た。


それにしても、非常識(暑い)だ。今日は実に非常識だ。

2007年05月06日

2007年05月06日 春の最後

雨が降っている。外には出ない。今日は涼しい。これが夏前の最後の涼しさだろう。明日からはまた気温が上がる。25度を平気で超えてくる夏日の毎日。
「のど自慢」は面白い。変なヒトが次から次に出てくる。笑う。笑っても笑っても、意味なんてないと思った。
春の後ろ姿。半袖と長袖のシャツが交錯する街中。
季節の移ろいに敏感で、音に過敏で、感情には怠惰。
雨が降っている。外には出ない。今日は涼しい。これが夏前の最後の涼しさだろう。

2007年05月05日

2007年05月05日 己への“挑戦”

特攻の島1巻二日続けて漫画のコトを書くべきかどうか迷ったけど、とりあえず書くことにした。なぜなら、そこに書くスペースがあるから。そして今日書こうとすることは、昨日のことと少なからず繋がる面があるから。敢えて書く。


佐藤秀峰「特攻の島」
発売されてからもう一年が経っている。今更言うまでもないが、「ブラックジャックによろしく」とか「海猿」を描いたヒトの作品である。でも、私はこのヒトの漫画をほとんど読んでいない。彼が扱うテーマは実に興味深いものの、なぜかイマイチ惹かれなかったからだ。とは言っても、次は「特攻隊」をテーマにしてきた。これは見過ごそうにも、そうそう素通り出来るものではない。しかも「回天」だ。


来週から「俺は、君のためにこそ死ににいく」という特攻隊の映画が公開される予定だが、それはお馴染みの航空特攻。零戦や一式陸攻に250キロ爆弾等を装着して、敵艦艇へと体当たり攻撃を仕掛ける、今日でもよく知られているものである。
飛行機による特攻というのはよく知られているものの、それ以外の方法による特攻は、一般的にはあまり認知されていないようである。例えば“人間爆弾”と称された「桜花」、これはミサイルのような形をした爆弾にジェットエンジンが付いていて、中に人間が乗り込み敵艦艇への突撃を計ろうとしたものだ。また「震洋」という特攻兵器は、モーターボードに炸薬を積み込んだものを人間が操縦して相手に突撃しようとするものであった。そしてこの作品で扱われている「回天」とは、“人間魚雷”と称され、全長約15m程の魚雷に人間が乗り込んで敵艦艇へと体当たり攻撃をするために開発されたものである。この「回天」という特攻兵器は、広く知れ渡っているとは思われないが、それでもここ数年の間に映画化されたりドラマ化されたりしているから、それなりに認知度は上がって来ているのかもしれない。
特攻。生還の余地が残されていない戦法。なぜ斯様なものが生み出されたのかという問いは、今なお続けられている。他に有効な手が無かった、と言ってしまえば、もはやそれまでかもしれない。しかし、そこまでする必要があったのか、ということや、こうした戦法を作り出した日本人の内面(精神や思想、死生観など)への問題等、未だに判然としない事柄が多いのも事実である。


この「特攻の島」では、黒木博司大尉、仁科関夫中尉という実際に「回天」開発に尽力した人物が描かれ、限りなくノンフィクションに近い形で物語が展開されている。
そして問われる「命」の問題。
おそらく、特攻隊員のほとんど全ての者が避けられぬであっただろう問い、自問自答、すなわち俺の「命」とは、俺の「人生」とは、俺が「死」ぬことの意味とは一体何であるのか。それと同時に繰り返される、俺は何を守り、何を志し、何をすべきなのかという煩悶。
そこには生還の余地が許されていない環境下においてのみ、真剣に向き合わねばならぬ己自身への回帰があったはずである。
予科練の身ながら仁科中尉と「回天」に乗り込むことになるこの物語の主人公、渡辺裕三が言う「俺自身の人生を・・・ 俺のものにするためです・・・・・・!!」という一言は、おそらく多くの特攻隊員たちが共通して抱こうとした思いに他ならない。絶対に生還出来ない特攻という戦法の下で、それならばそこに己の生命の全てを意義付けてやろうという気概。必然的な「死」を前にして、己が持つ「生」というものの内実を明瞭にするには、そうした意志の所有が不可避であることに彼らは思い至ったのだ。


特攻隊員を見つめるということは、くだんの如く、そこに自己の全てを賭けて完全燃焼しようとした人々の姿を捉えることである。死を前提に物事を捉えねばならなかったが故に、なさねばならなかった素の己への“挑戦”が、そこにはある。それは時として極めて個人的な問題へと逢着することもあれば、国家や「悠久の大義」という概念に向かうこともあろう。だが、何人たりとも避けては通れぬのが家族、友人、恋人への視点である。
自らの「生」の基礎を何処に置くべきか、世界、国家、社会、故郷、家族…その選択により“結果”も当然異なってくる。
佐藤氏は今後、この“挑戦”を、いかなる形をもって描こうとするのか。弥が上にも注目しないわけにはいかない。

2007年05月04日

2007年05月04日 「私」の生き方

わにとかげぎす3巻「わにとかげぎす」の3巻。


何だろうか、コレは。あり得ない程に引き込まれてしまった。
富岡と羽田さんの関係、新たに登場した斉藤の存在。このバランス、不均衡ながら辛うじて成立しているような雰囲気、堪らんなぁ。


これらの登場人物の中では、私はダンゼン斉藤君の立ち位置に近いかもしれない。それが正直なトコロ、怖い。だって、あと10年くらいすれば「(友達なんて)いらない・・・わずらわしいだけだ・・・・」と言ってしまう自分の可能性を否定し切れないじゃないか。
ただ、この漫画の根っこは、そういった感情の否定にあるのではないだろうか。
富岡も斉藤も、その背景は完璧に孤独であるけれど、まず富岡がそこからの訣別を決意し、羽田さんとの関係を結ぶ。次は斉藤の番なのか。


大雑把に言えば、この3巻は
生き方を変えてみる、という挑戦(それはこの漫画全体を覆うテーマでもある。ここでは特にそれが強く出て来た)。
古谷実という漫画家が終始一貫して問いかけているのは、実はこういった点なのかもしれない。
さしあたりここでの問題は次の一点。すなわち、ヒトは孤独で良いのか。
生存するだけなら、友人も恋人も確かに存在しなくて良い。
しかし、生活していく上での孤独は、そのヒト自身をある一定の枠に閉じ込めることになる。つまり、著しく偏った厭世観や異性への変態的・観念的な視点、人間の本能的な営みに対する嫌悪感及び否定、少し世間ズレした自意識の形成等々がそれである。


現在所有する自らの意識や価値観、それを己の過去と重ね合わせてみた時、そこには逃れることの出来ない明瞭な「私」個人の姿が浮かび上がる。そしてヒトはそれと対峙した時に、或は己を肯定し、或は否定する。成長という過程はその経験を通じてのみ形作られるものであり、常に現在の「私」と抗うことが求められる。
現状を無思想に受け入れることの無意味性、「私」を無効化する追求心の放擲への警告。とりあえず今の「私」を問うてみよう、という一つの課題提示。これは簡単なようで実は相当“ヘビーな”難題であろう。


最後に。(男からすれば)羽田さんのような女は、希望に溢れた魅力的な存在だ。だが、こんなヒトは存在し得ないこともまた、何となく直感で理解している。そこにある甘〜い罠の存在については、多くの者が既に勘付いている。もしも現実世界で、甘さを求め続けている者がいるならば、彼は、ふと気付いた時には泥沼に落ち込んで抜けられなくなっていることだろう。

2007年05月01日

2007年05月01日 サザエさんのSEX事情考察試論

このサイトを立ち上げるより3年前に、私はexciteブログを利用していたことがある。そこで「サザエさんのSEX事情考察」なるものを記して、何人かのヒトから好評を得た。
あれから3年という月日の経過の早さに驚きつつ、改めてそれを掲載してみようと思う。なお、今回の再掲載にあたってタイトルを「サザエさんのSEX事情考察試論」とした。これは、まだ改訂の余地が大いに残るものであり、あくまでもプロトタイプでしないという意味を含んでのことである。また本文自体も、前回の「サザエさんのSEX事情考察」の大筋を辿りながらも、全面的に書き改めた。


1.夫々の「サザエさんのSEX事情考察」のために
さて、まずは、なぜこのような考察を試みたかという、その動機から書き記さねばなるまい。ヒトは私がこのようなモノを記しているのを見て、限りない性欲に溢れた犯罪予備軍の一員と思うかもしれない。或は、二次元のキャラクターにだけ興奮してしまう特殊な性癖の持ち主と思うかもしれない。否、単純に阿呆者と思うかもしれない。そうである、確かにこんなことを考えているヤツは阿呆かもしれない。だが、私は性欲に溺れる性犯罪者でもないし、二次元のキャラクターを前に発情したりもしない。その動機は、以前に寺山修司氏の「サザエさんの性生活」をチラッと見たのがきっかけに過ぎないのである。日曜の夕方の定番になっている「サザエさん」、しかしながら彼らの性事情は一切明かされていない。様々な理由があるだろうが、明かされぬのなら自ら解き明かしてやろうではないか、との思いが、私に「サザエさんのSEX事情考察」を書かせたのである。
以前に掲載した「サザエさんのSEX事情考察」も、この「サザエさんのSEX事情考察試論」も、寺山氏のものとは比べ物にならないことは承知の上であるが、私はただ、本試論が夫々にサザエさんのSEX事情を考察する上での一助となれば幸いである、と思い、再びこのような形で掲載することを決めた。


2.客観化される性的行動
長い「サザエさん」の放送の中で、SEXシーンが描かれたことは、おそらく皆無であろう。SEXシーンとまではいかなくても、マスオ・サザエ夫婦や波平・フネ夫婦、またはノリスケ・タイコ夫婦がキスをするシーンすら放送されたことが無いのではないか。稀に、マスオが奇妙なバーのような所に行き、シャツにキスマークを付けて帰宅するという光景が描かれることがある。しかし、この場合でも、行為そのものがハッキリとした形で描かれることはない。こうしたことから「サザエさん」の主要キャラは皆、SEXやキスといった性的行動からは隔離された存在であるといえる。
ここで“主要キャラ”と記したのにはワケがあって、実は主要キャラ以外の人物がキスをするといったシーンは、今までに何度か描かれているからだ。主要キャラではないキャラ、つまりその場限りの登場人物としても良いのだが、彼らがキスをしたりいちゃついたりするシーンはしばしば見ることが出来る。それは次のような光景である。
波平が仕事から帰る道すがら、前方に若いカップルを発見する。その二人は道の隅で抱き合ってみたり、場合によってはキスをする。それを見ていた波平は「最近の若いモンは!」などと立腹するのである。
「サザエさん」において見られる性的行動は、こうした全く関係のない第三者の行動を、常に主要キャラと対置させた視点で描かれている。つまり「他人の行動」として客観化されて映し出されるのであって、サザエやマスオが主体性を持ってキスをしたり異性と抱擁を交わすといったシーンは描かれない。そこには明確な一線が引かれており、主要キャラがその線を越えることは許されていないのである。そして「他人の行動」として線が引かれることにより、無意識のうちに視聴者は、「サザエさん」において主要キャラは性的行動と距離を置いた存在であると理解してしまうのである。
それでは、いったい何故斯様な線が引かれるのであろうか。


3.サイクルの中に置かれた運命
その答えは簡単明瞭。もしも線が引かれずに、サザエもマスオも波平も、挙げ句にはフネまでもが性的行動を起こしまくれば、最早放送が出来なくなるからである。と、こんなことを言ってしまえば身も蓋もないので、もう少し別の視点から見てみよう。
ご存知の通り「サザエさん」の世界では季節の移り変わりはあっても、年の移り変わりというものは無い。彼らは永久に春夏秋冬のみのサイクルの中で生きることを余儀なくされている。誰もがカツオが6年生になるとは考えていないし、タラオが幼稚園に入ることも、ワカメが生理痛で悩むこともあり得ないと理解している。この成長しないという問題は、今日ではほとんど取り上げられることがない。それは既に暗黙裡に了承された事項であって、「サザエさん」の登場人物が年の移り変わりのない、ただ季節の移り変わりの中だけに生きているということで、物語は一定の形を維持できているともいえるのである。そして、これが主要キャラの性的行動が描かれない一つの要因ともなっているのだ。
言うまでもなく性的行動、極言すればSEXとは新たな生命を生み出す為の行為として捉えられる。SEXをして、妊娠して、出産する。この一連の過程を描こうとすれば、必然的に新たな生命が育っていくという描写が必要になる。そうすることはつまり「サザエさん」における‘成長しないという問題’、すなわち年の移り変わりが存在しないというルールを破ることであり、今日まで間断なく続いて来た春夏秋冬のみのサイクルという「サザエさん」の世界における現象と真っ向から対決することを意味するのだ。
仮に、一度でもマスオ・サザエ夫婦のSEXシーンを描いてしまえば、それは否応なく視聴者に「タラちゃんに弟妹ができる」という認識を植え付けることになってしまい、その時点で年の移り変わりという新たなサイクルが入り込んできてしまう。そうなれば、もはや物語そのものが従来の在り方では存続できなくなるという大問題が生じるのである。
春夏秋冬のみのサイクルに生きる運命、これが主要キャラの性的行動を制限しているといえよう。


4.サザエさんのSEX事情
それならば、避妊具を付ければ良いではないか、という声も出てくるであろう。最もである。現代においてはそうした手段を持ちいることは、ある意味では常識ともいえる。だが、考えてみて欲しい。もし、マスオ・サザエ夫婦やノリスケ・タイコ夫婦にそれを許してしまえば、ヤりたい放題の節操のない状態になってしまう。それは春夏秋冬のみのサイクル云々に関わらず、あまりに下品ではないか。
しかし、しかしである。重要なのはここからだ。
この「サザエさんのSEX事情考察試論」は他ならぬ、放送できないトコロでサザエたちがSEXをしているという前提でしか始まらないということは、容易に理解されよう。これまでは何故に「サザエさん」で性的行動が描かれないかという問題を、表の面からのみ考察してきた。ここからは裏の面、つまり彼らが、置かれているサイクルを壊さない為に、何の問題もなく避妊具を着用してSEXをヤりまくっているという仮定の上で、彼らの隠されたSEX事情を考察していきたい。避妊具を付けている?まったく結構。その通りなのである。


a.声と間取りの問題
上述したように、もしも主要キャラの中で誰かが妊娠してしまえば、それは即ち物語の崩壊を意味する。物語を壊さないためには、何としても妊娠するべからず。されば完全なる避妊具の着用こそ、基本中の基本の所作であろう。
元より「サザエさん」の世界において主要キャラのSEXシーンが描かれたことがない以上、ここからは推測で彼らの事情を述べていくしかない。そこで今回は「サザエさんのSEX事情考察試論」というタイトルに従い、マスオ・サザエ夫婦に限定して、彼らのSEX事情を考察する。


磯野家「サザエさん」において、仮にSEXシーンが描かれるなら、最も現実的なのは、夜、他の者たちが寝静まったあとでのプレイである。しかし、ここで無視出来ない問題が発生する。それは磯野家の間取り、というか部屋の配置が甚だ良くないのである。
右の図中のAがマスオ・サザエ夫婦(+タラオ)の寝室、Bがカツオ・ワカメの寝室である。一目瞭然、向かい合っているではないか。これでは相当気を使ってヤらなければいけない。しかもマスオとサザエの間にはタラオという邪魔者が常に眠っているのである。マスオ・サザエ夫婦は、まずタラオを起こさないことに細心の注意を払いつつ、同時にカツオ・ワカメにも気を遣わなければならぬ。そんなことが果たしてあの夫婦に可能であろうか。
知っての通りサザエは地声がデカイ。性格も決してお淑やかではない。むしろ煩い部類に入る。そんな女が、SEXの時に真ん中で眠る餓鬼を起こさないように、また向かいの部屋に眠る自らの弟妹に感付かれぬように、一通りのプレイをし終えるコトが出来ようか? 断言する。無理である。あのサザエが、夜、布団の上でどれだけ上品に声を押し殺そうとしても、それは新幹線を三輪車で追い抜こうとするようなものであり、到底不可能であると言わざるを得ない。
一方で、こうも考えられる。マスオがヘタクソだ、と。サザエは全然気持ち良く無いから、声も出ない、と。しかしこの空想も棒切れでマグロを釣ろうとするイメージに変わることなく、まったくもって空虚である。なぜならば、あのサザエにしてマスオがヘタであれば、状況を忘れて怒り心頭、いつも通りのあの大声を出して不平不満を並べることが目に見えるではないか。畢竟、タラオも目覚めてしまい、カツオやワカメも何事かと部屋を飛び出して来るであろう。
なお、これは、マスオが早漏である、という仮定にも共通すると考えて差し支えない。


b.休日の空白時間
以上によって、マスオ・サザエ夫婦が自宅でSEXをする推論は現実的ではないといえる。それでは彼らは何時、何処でヤるのだろうか。その答えは、実は容易に見出せるのである。
それはしばしばマスオ・サザエ夫婦が二人きりで外出する休日に他ならない。「サザエさん」において、マスオかサザエのどちらかが映画のチケット等を手に入れ、「たまには二人で出掛けよう」という展開になることは決して珍しくはない(本当は全然「たまに」ではないのである)。この場合、波平やフネも「たまには二人で楽しんで来なさいよ」などと言い、二人を後押ししてあげている。そして休日になれば、タラオを波平やフネに任せておいて、午前中からマスオ・サザエ夫婦は出て行くのである。
それでは、彼らのそうした休日の行動を推測してみよう。


10:30 外出(ほとんどの場合徒歩で出発。途中からバスに乗車?)
11:30 街に到着(磯野家は世田谷区の閑静な住宅街にある。どれだけ多く見積もっても、1時間あれば映画館等のある市街地までは行けるものと推測されよう。)
11:45 昼食
12:40 映画館に向かう
13:00 上映開始
15:30 映画終了
15:45〜17:30 1時間45分の空白時間
17:45 夕食
19:00 帰宅の途へ
19:30 タクシーで帰宅


以上が、予測される大まかな休日の行動である。時間は余裕をもって見積もってある。
ここで注目すべきは、やはり15:45〜17:30に設けられた1時間45分の空白時間である。
マスオ・サザエ夫婦の休日シーンを思い出してみても、大抵午前中に外出し、夜は暗くなってから帰宅することが多い。季節によって暗くなる時間は異なるものの、大方19:00〜20:00の間に帰ると見て良いだろう。さすれば出発時間も、夕食から帰宅するまでの時間も大体想像できよう。そうしてここに、映画の上映時間と夕食時間に挟まれた謎の空白時間を、彼らはいったい何をして過ごしているのかという、実に不可解な疑問が自ずから生じてくるのである。稀にデパートの買い物袋を持って帰宅する時もあるから、おそらくはショッピングでもしているのであろう。しかしまた一方では、手ぶらでタクシーから降りて来る時もある。帰宅時にはいつもタクシーなのも気にかかるが、ここでの問題はそれではない。この空白期間をいったいどうやって埋めているのかを問うことである。
私はここで一つの答えをショッピングとし、また別の答えをSEXであるとしたい。「a.声と間取りの問題」で述べたように、マスオ・サザエ夫婦にとって、いやサザエにとって、自宅でのSEXは絵に描いた餅に過ぎない。そうであるからこそ、あの強情な女はどこかで発奮せねばならぬ。カツオとタラオという非常に手間のかかる餓鬼を相手に連日奮闘する反面、日々の家事に関しては黙々とこなす律儀な面を兼ね備えたサザエという女ーそう彼女も「女」なのだー、あの女がセックスレスで支障無く生活を送れるはずが無いではないか。魚一匹のために裸足で追いかけて行く女が、SEXに関しては妥協出来るはずもなかろう。どこかで思いっきり発奮せねばならぬのだ。今まで繰り返し述べて来ているように、あの大家族では、あの家では、満足したプレイは出来ようはずも無い。しからば自ずと求むるのは外の開放的な空間。それがどこであるかは自明であろう。今の世の中には他人に気兼ねなくSEXの出来る小屋があるではないか。ヒトはそれを“ラブホテル”と呼ぶ。
最後にこうした休日がどれくらいの頻度で訪れるのかを問いたい。
これまでに二人きりで外出するシーンを描いた休日の回が少なくない点からして、おそらく最低でも月一くらいの割合で二人は外出しているのではないだろうか。あるいは年齢に伴う性欲という面を考慮すると、二週間に一度くらいの頻度で出て行っているのかも知れぬ(中には買物と偽って、単にヤりに行くだけの日があるかもしれない)。放送されない裏まで考慮してみれば、数ヶ月に一度という割合だとは考到底えられないではないか。結局、最低でも月一、裏を探れば二週間に一度くらい、というところに落ち着くだろう。


4.おわりに
冒頭にも記したように、これは「サザエさんのSEX事情考察試論」であり、あくまでも「試論」に過ぎないものである。読者の中には、この試論の欠点を容易に指摘できる者が少なからずいることであろう。私自身も、実は未だにかなりの穴があるものではないかという気がしてならないのだ。何といっても、現実に「サザエさん」において彼らのSEXシーンが描かれたことがない以上、その多くは勝手気侭な推測に頼らざるを得ず、ヒトによって様々な推論が立てられることと思う。
もしも、私のこの中途半端な推論に“刺激された”というヒトがいれば、是非とも各自で独特で且つ私の欠点を補って余りのある斬新な推論を導き出して欲しい。繰り返すが、あくまでもこれは推測に基づくものであり、まだ試論でしかない。私自身、様々な所から得るものを得て、いつの日か納得のいく一つの“論”に仕立て上げたいと目論んでいる。これはその最初の一歩に他ならないのである。 


※本試論は主としてテレビアニメの「サザエさん」を対象にして書いたものです。その為、原作とは若干相容れない部分があるかもしれません。その点をご理解して頂きたく存じます。

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