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2007年05月22日 大いなる倒錯と矛盾に満ちた百回目

このブログの「ほんのささいなこと」のカテゴリーが、今回で100個目となる。つまりコレが100回目の「ほんのささいなこと」である。100回を記念して、超どーでもいー「ほんのささいなこと」を書く。


私は、何を隠そう「人間味溢れる」とか「人間臭い」とかいう言葉をヘドが出る程心の奥底から嫌悪している。
情熱とか泥臭いとか熱いとかいうのも大嫌いである。
好きなのは淡白だとか平坦だとか無機質だとか無意味だとか・・・

そうであるから、出来るだけ淡白な性格を志し、心は平坦に感情は無機質に、人生の本分は無意味であろうと心掛けている。決して情熱的であってはならない。何はともあれ泥臭くてはいけない。
そうした志向を持てば、あまり詳しくは知らないのだが、例えばサルトルの「実存主義」のような思想とはどこかで食い違う気もしている。
自らの存在に偏重してはならぬのである。己の<生>に無関心でありたいとも願う。それは私にとって究極の理想である。坐禅などでいう「無」とはまた違うのだけど、どこかでそれに似た矜持的なものを欲しているようにも感ずる。


さて、だが、ここで問題が生じる。
冒頭にも記したように、私は「人間味溢れる」とか「人間臭い」というものを魂の深淵から嫌悪しており、そこから意識的に離脱したいと思っている。が、そもそも如何なる状態を「人間味溢れる」とか「人間臭い」というのか。
普遍的な定義などはない。
感情を出す事も「人間味溢れる」行為であるし、無理して感情を押し殺そうとする様子もまた「人間臭い」姿であるといえよう。


そして、ここで妙な矛盾点に行き当たる。所謂「人間的」なものから意識的に離れようとする行為、それこそが最も「人間的」行為ではないかということだ。要するに、犬が意識的に「もう犬なんて嫌だ。これから俺は猫として生きる」などと思うようなことはないわけで、意識的にあるものからの脱却を計ろうとするのは、古今東西、人間だけである。というワケだから、私の意志する「人間的」なものからの解放という理想自体が、どう考えても「人間的」な行為に他ならないということになり、すなわち人間が「人間的」であることから逃避しようということなど、そもそも不可能なのだ。


そこで思い当たる一つの結論。
「人間味溢れる」とか「人間臭い」とか淡白だとか平坦だとか無機質だとか無意味だとか、そうした一切のものを超越する方法が、それでも一つだけあるように思う。
それは、ありのままに生きる、ということ。
つまり、余計なことは考えないような暮らしを志すこと。
本能に忠実であれ。
人間は、他の動物的な本能が崩壊していくから、成長段階で理性というものを身につけるとも考えられる。
もう一度、己の本能へ深化せよ。
そこには一切の「人間的」なものもなければ、淡白だとか平坦だとか無機質だとか無意味というものもない。
ただ<生>があるだけではなかろうか。


じゃあ、<生>とは何ぞや。
・・・おっと、これ以上考えてはいけない。考え過ぎることは、つまり「人間的」であることを意味する。究極の理想は考えずに生活することである。
山ごもりでもしないと無理か?
少なくとも今の人間関係を維持しようと思えば、無理だろう。
人間は最終的には一人である、という前提がなければいけない。
現代社会でこうしたことを追求しようとすることは、よっぽど不可能なことであろうか。


・・・これ以上考えてはいけない。考えるなとも考えるな。今日はあまり好きではない「人間」という言葉を多用してしまった。気狂いみたいになってきた。

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