« サザエさんのSEX事情考察試論 | もどる | 己への“挑戦” »

2007年05月04日 「私」の生き方

わにとかげぎす3巻「わにとかげぎす」の3巻。


何だろうか、コレは。あり得ない程に引き込まれてしまった。
富岡と羽田さんの関係、新たに登場した斉藤の存在。このバランス、不均衡ながら辛うじて成立しているような雰囲気、堪らんなぁ。


これらの登場人物の中では、私はダンゼン斉藤君の立ち位置に近いかもしれない。それが正直なトコロ、怖い。だって、あと10年くらいすれば「(友達なんて)いらない・・・わずらわしいだけだ・・・・」と言ってしまう自分の可能性を否定し切れないじゃないか。
ただ、この漫画の根っこは、そういった感情の否定にあるのではないだろうか。
富岡も斉藤も、その背景は完璧に孤独であるけれど、まず富岡がそこからの訣別を決意し、羽田さんとの関係を結ぶ。次は斉藤の番なのか。


大雑把に言えば、この3巻は
生き方を変えてみる、という挑戦(それはこの漫画全体を覆うテーマでもある。ここでは特にそれが強く出て来た)。
古谷実という漫画家が終始一貫して問いかけているのは、実はこういった点なのかもしれない。
さしあたりここでの問題は次の一点。すなわち、ヒトは孤独で良いのか。
生存するだけなら、友人も恋人も確かに存在しなくて良い。
しかし、生活していく上での孤独は、そのヒト自身をある一定の枠に閉じ込めることになる。つまり、著しく偏った厭世観や異性への変態的・観念的な視点、人間の本能的な営みに対する嫌悪感及び否定、少し世間ズレした自意識の形成等々がそれである。


現在所有する自らの意識や価値観、それを己の過去と重ね合わせてみた時、そこには逃れることの出来ない明瞭な「私」個人の姿が浮かび上がる。そしてヒトはそれと対峙した時に、或は己を肯定し、或は否定する。成長という過程はその経験を通じてのみ形作られるものであり、常に現在の「私」と抗うことが求められる。
現状を無思想に受け入れることの無意味性、「私」を無効化する追求心の放擲への警告。とりあえず今の「私」を問うてみよう、という一つの課題提示。これは簡単なようで実は相当“ヘビーな”難題であろう。


最後に。(男からすれば)羽田さんのような女は、希望に溢れた魅力的な存在だ。だが、こんなヒトは存在し得ないこともまた、何となく直感で理解している。そこにある甘〜い罠の存在については、多くの者が既に勘付いている。もしも現実世界で、甘さを求め続けている者がいるならば、彼は、ふと気付いた時には泥沼に落ち込んで抜けられなくなっていることだろう。

« サザエさんのSEX事情考察試論 | もどる | 己への“挑戦” »