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2007年05月01日 サザエさんのSEX事情考察試論

このサイトを立ち上げるより3年前に、私はexciteブログを利用していたことがある。そこで「サザエさんのSEX事情考察」なるものを記して、何人かのヒトから好評を得た。
あれから3年という月日の経過の早さに驚きつつ、改めてそれを掲載してみようと思う。なお、今回の再掲載にあたってタイトルを「サザエさんのSEX事情考察試論」とした。これは、まだ改訂の余地が大いに残るものであり、あくまでもプロトタイプでしないという意味を含んでのことである。また本文自体も、前回の「サザエさんのSEX事情考察」の大筋を辿りながらも、全面的に書き改めた。


1.夫々の「サザエさんのSEX事情考察」のために
さて、まずは、なぜこのような考察を試みたかという、その動機から書き記さねばなるまい。ヒトは私がこのようなモノを記しているのを見て、限りない性欲に溢れた犯罪予備軍の一員と思うかもしれない。或は、二次元のキャラクターにだけ興奮してしまう特殊な性癖の持ち主と思うかもしれない。否、単純に阿呆者と思うかもしれない。そうである、確かにこんなことを考えているヤツは阿呆かもしれない。だが、私は性欲に溺れる性犯罪者でもないし、二次元のキャラクターを前に発情したりもしない。その動機は、以前に寺山修司氏の「サザエさんの性生活」をチラッと見たのがきっかけに過ぎないのである。日曜の夕方の定番になっている「サザエさん」、しかしながら彼らの性事情は一切明かされていない。様々な理由があるだろうが、明かされぬのなら自ら解き明かしてやろうではないか、との思いが、私に「サザエさんのSEX事情考察」を書かせたのである。
以前に掲載した「サザエさんのSEX事情考察」も、この「サザエさんのSEX事情考察試論」も、寺山氏のものとは比べ物にならないことは承知の上であるが、私はただ、本試論が夫々にサザエさんのSEX事情を考察する上での一助となれば幸いである、と思い、再びこのような形で掲載することを決めた。


2.客観化される性的行動
長い「サザエさん」の放送の中で、SEXシーンが描かれたことは、おそらく皆無であろう。SEXシーンとまではいかなくても、マスオ・サザエ夫婦や波平・フネ夫婦、またはノリスケ・タイコ夫婦がキスをするシーンすら放送されたことが無いのではないか。稀に、マスオが奇妙なバーのような所に行き、シャツにキスマークを付けて帰宅するという光景が描かれることがある。しかし、この場合でも、行為そのものがハッキリとした形で描かれることはない。こうしたことから「サザエさん」の主要キャラは皆、SEXやキスといった性的行動からは隔離された存在であるといえる。
ここで“主要キャラ”と記したのにはワケがあって、実は主要キャラ以外の人物がキスをするといったシーンは、今までに何度か描かれているからだ。主要キャラではないキャラ、つまりその場限りの登場人物としても良いのだが、彼らがキスをしたりいちゃついたりするシーンはしばしば見ることが出来る。それは次のような光景である。
波平が仕事から帰る道すがら、前方に若いカップルを発見する。その二人は道の隅で抱き合ってみたり、場合によってはキスをする。それを見ていた波平は「最近の若いモンは!」などと立腹するのである。
「サザエさん」において見られる性的行動は、こうした全く関係のない第三者の行動を、常に主要キャラと対置させた視点で描かれている。つまり「他人の行動」として客観化されて映し出されるのであって、サザエやマスオが主体性を持ってキスをしたり異性と抱擁を交わすといったシーンは描かれない。そこには明確な一線が引かれており、主要キャラがその線を越えることは許されていないのである。そして「他人の行動」として線が引かれることにより、無意識のうちに視聴者は、「サザエさん」において主要キャラは性的行動と距離を置いた存在であると理解してしまうのである。
それでは、いったい何故斯様な線が引かれるのであろうか。


3.サイクルの中に置かれた運命
その答えは簡単明瞭。もしも線が引かれずに、サザエもマスオも波平も、挙げ句にはフネまでもが性的行動を起こしまくれば、最早放送が出来なくなるからである。と、こんなことを言ってしまえば身も蓋もないので、もう少し別の視点から見てみよう。
ご存知の通り「サザエさん」の世界では季節の移り変わりはあっても、年の移り変わりというものは無い。彼らは永久に春夏秋冬のみのサイクルの中で生きることを余儀なくされている。誰もがカツオが6年生になるとは考えていないし、タラオが幼稚園に入ることも、ワカメが生理痛で悩むこともあり得ないと理解している。この成長しないという問題は、今日ではほとんど取り上げられることがない。それは既に暗黙裡に了承された事項であって、「サザエさん」の登場人物が年の移り変わりのない、ただ季節の移り変わりの中だけに生きているということで、物語は一定の形を維持できているともいえるのである。そして、これが主要キャラの性的行動が描かれない一つの要因ともなっているのだ。
言うまでもなく性的行動、極言すればSEXとは新たな生命を生み出す為の行為として捉えられる。SEXをして、妊娠して、出産する。この一連の過程を描こうとすれば、必然的に新たな生命が育っていくという描写が必要になる。そうすることはつまり「サザエさん」における‘成長しないという問題’、すなわち年の移り変わりが存在しないというルールを破ることであり、今日まで間断なく続いて来た春夏秋冬のみのサイクルという「サザエさん」の世界における現象と真っ向から対決することを意味するのだ。
仮に、一度でもマスオ・サザエ夫婦のSEXシーンを描いてしまえば、それは否応なく視聴者に「タラちゃんに弟妹ができる」という認識を植え付けることになってしまい、その時点で年の移り変わりという新たなサイクルが入り込んできてしまう。そうなれば、もはや物語そのものが従来の在り方では存続できなくなるという大問題が生じるのである。
春夏秋冬のみのサイクルに生きる運命、これが主要キャラの性的行動を制限しているといえよう。


4.サザエさんのSEX事情
それならば、避妊具を付ければ良いではないか、という声も出てくるであろう。最もである。現代においてはそうした手段を持ちいることは、ある意味では常識ともいえる。だが、考えてみて欲しい。もし、マスオ・サザエ夫婦やノリスケ・タイコ夫婦にそれを許してしまえば、ヤりたい放題の節操のない状態になってしまう。それは春夏秋冬のみのサイクル云々に関わらず、あまりに下品ではないか。
しかし、しかしである。重要なのはここからだ。
この「サザエさんのSEX事情考察試論」は他ならぬ、放送できないトコロでサザエたちがSEXをしているという前提でしか始まらないということは、容易に理解されよう。これまでは何故に「サザエさん」で性的行動が描かれないかという問題を、表の面からのみ考察してきた。ここからは裏の面、つまり彼らが、置かれているサイクルを壊さない為に、何の問題もなく避妊具を着用してSEXをヤりまくっているという仮定の上で、彼らの隠されたSEX事情を考察していきたい。避妊具を付けている?まったく結構。その通りなのである。


a.声と間取りの問題
上述したように、もしも主要キャラの中で誰かが妊娠してしまえば、それは即ち物語の崩壊を意味する。物語を壊さないためには、何としても妊娠するべからず。されば完全なる避妊具の着用こそ、基本中の基本の所作であろう。
元より「サザエさん」の世界において主要キャラのSEXシーンが描かれたことがない以上、ここからは推測で彼らの事情を述べていくしかない。そこで今回は「サザエさんのSEX事情考察試論」というタイトルに従い、マスオ・サザエ夫婦に限定して、彼らのSEX事情を考察する。


磯野家「サザエさん」において、仮にSEXシーンが描かれるなら、最も現実的なのは、夜、他の者たちが寝静まったあとでのプレイである。しかし、ここで無視出来ない問題が発生する。それは磯野家の間取り、というか部屋の配置が甚だ良くないのである。
右の図中のAがマスオ・サザエ夫婦(+タラオ)の寝室、Bがカツオ・ワカメの寝室である。一目瞭然、向かい合っているではないか。これでは相当気を使ってヤらなければいけない。しかもマスオとサザエの間にはタラオという邪魔者が常に眠っているのである。マスオ・サザエ夫婦は、まずタラオを起こさないことに細心の注意を払いつつ、同時にカツオ・ワカメにも気を遣わなければならぬ。そんなことが果たしてあの夫婦に可能であろうか。
知っての通りサザエは地声がデカイ。性格も決してお淑やかではない。むしろ煩い部類に入る。そんな女が、SEXの時に真ん中で眠る餓鬼を起こさないように、また向かいの部屋に眠る自らの弟妹に感付かれぬように、一通りのプレイをし終えるコトが出来ようか? 断言する。無理である。あのサザエが、夜、布団の上でどれだけ上品に声を押し殺そうとしても、それは新幹線を三輪車で追い抜こうとするようなものであり、到底不可能であると言わざるを得ない。
一方で、こうも考えられる。マスオがヘタクソだ、と。サザエは全然気持ち良く無いから、声も出ない、と。しかしこの空想も棒切れでマグロを釣ろうとするイメージに変わることなく、まったくもって空虚である。なぜならば、あのサザエにしてマスオがヘタであれば、状況を忘れて怒り心頭、いつも通りのあの大声を出して不平不満を並べることが目に見えるではないか。畢竟、タラオも目覚めてしまい、カツオやワカメも何事かと部屋を飛び出して来るであろう。
なお、これは、マスオが早漏である、という仮定にも共通すると考えて差し支えない。


b.休日の空白時間
以上によって、マスオ・サザエ夫婦が自宅でSEXをする推論は現実的ではないといえる。それでは彼らは何時、何処でヤるのだろうか。その答えは、実は容易に見出せるのである。
それはしばしばマスオ・サザエ夫婦が二人きりで外出する休日に他ならない。「サザエさん」において、マスオかサザエのどちらかが映画のチケット等を手に入れ、「たまには二人で出掛けよう」という展開になることは決して珍しくはない(本当は全然「たまに」ではないのである)。この場合、波平やフネも「たまには二人で楽しんで来なさいよ」などと言い、二人を後押ししてあげている。そして休日になれば、タラオを波平やフネに任せておいて、午前中からマスオ・サザエ夫婦は出て行くのである。
それでは、彼らのそうした休日の行動を推測してみよう。


10:30 外出(ほとんどの場合徒歩で出発。途中からバスに乗車?)
11:30 街に到着(磯野家は世田谷区の閑静な住宅街にある。どれだけ多く見積もっても、1時間あれば映画館等のある市街地までは行けるものと推測されよう。)
11:45 昼食
12:40 映画館に向かう
13:00 上映開始
15:30 映画終了
15:45〜17:30 1時間45分の空白時間
17:45 夕食
19:00 帰宅の途へ
19:30 タクシーで帰宅


以上が、予測される大まかな休日の行動である。時間は余裕をもって見積もってある。
ここで注目すべきは、やはり15:45〜17:30に設けられた1時間45分の空白時間である。
マスオ・サザエ夫婦の休日シーンを思い出してみても、大抵午前中に外出し、夜は暗くなってから帰宅することが多い。季節によって暗くなる時間は異なるものの、大方19:00〜20:00の間に帰ると見て良いだろう。さすれば出発時間も、夕食から帰宅するまでの時間も大体想像できよう。そうしてここに、映画の上映時間と夕食時間に挟まれた謎の空白時間を、彼らはいったい何をして過ごしているのかという、実に不可解な疑問が自ずから生じてくるのである。稀にデパートの買い物袋を持って帰宅する時もあるから、おそらくはショッピングでもしているのであろう。しかしまた一方では、手ぶらでタクシーから降りて来る時もある。帰宅時にはいつもタクシーなのも気にかかるが、ここでの問題はそれではない。この空白期間をいったいどうやって埋めているのかを問うことである。
私はここで一つの答えをショッピングとし、また別の答えをSEXであるとしたい。「a.声と間取りの問題」で述べたように、マスオ・サザエ夫婦にとって、いやサザエにとって、自宅でのSEXは絵に描いた餅に過ぎない。そうであるからこそ、あの強情な女はどこかで発奮せねばならぬ。カツオとタラオという非常に手間のかかる餓鬼を相手に連日奮闘する反面、日々の家事に関しては黙々とこなす律儀な面を兼ね備えたサザエという女ーそう彼女も「女」なのだー、あの女がセックスレスで支障無く生活を送れるはずが無いではないか。魚一匹のために裸足で追いかけて行く女が、SEXに関しては妥協出来るはずもなかろう。どこかで思いっきり発奮せねばならぬのだ。今まで繰り返し述べて来ているように、あの大家族では、あの家では、満足したプレイは出来ようはずも無い。しからば自ずと求むるのは外の開放的な空間。それがどこであるかは自明であろう。今の世の中には他人に気兼ねなくSEXの出来る小屋があるではないか。ヒトはそれを“ラブホテル”と呼ぶ。
最後にこうした休日がどれくらいの頻度で訪れるのかを問いたい。
これまでに二人きりで外出するシーンを描いた休日の回が少なくない点からして、おそらく最低でも月一くらいの割合で二人は外出しているのではないだろうか。あるいは年齢に伴う性欲という面を考慮すると、二週間に一度くらいの頻度で出て行っているのかも知れぬ(中には買物と偽って、単にヤりに行くだけの日があるかもしれない)。放送されない裏まで考慮してみれば、数ヶ月に一度という割合だとは考到底えられないではないか。結局、最低でも月一、裏を探れば二週間に一度くらい、というところに落ち着くだろう。


4.おわりに
冒頭にも記したように、これは「サザエさんのSEX事情考察試論」であり、あくまでも「試論」に過ぎないものである。読者の中には、この試論の欠点を容易に指摘できる者が少なからずいることであろう。私自身も、実は未だにかなりの穴があるものではないかという気がしてならないのだ。何といっても、現実に「サザエさん」において彼らのSEXシーンが描かれたことがない以上、その多くは勝手気侭な推測に頼らざるを得ず、ヒトによって様々な推論が立てられることと思う。
もしも、私のこの中途半端な推論に“刺激された”というヒトがいれば、是非とも各自で独特で且つ私の欠点を補って余りのある斬新な推論を導き出して欲しい。繰り返すが、あくまでもこれは推測に基づくものであり、まだ試論でしかない。私自身、様々な所から得るものを得て、いつの日か納得のいく一つの“論”に仕立て上げたいと目論んでいる。これはその最初の一歩に他ならないのである。 


※本試論は主としてテレビアニメの「サザエさん」を対象にして書いたものです。その為、原作とは若干相容れない部分があるかもしれません。その点をご理解して頂きたく存じます。

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