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2007年05月18日 「キーチ!!」ー“マナー”への視点

キーチ!!新井英樹の「キーチ!!」
大好きな漫画だが、未だにこの作品をどう捉えれば良いのか戸惑う。
新井英樹流の社会風刺として捉えるのか、究極的なカタチでの理想表現として捉えるのか、社会に対する挑発として捉えるのか、一種のニヒリズム的なものとして捉えるのか・・・


読みながら思ったことを、ちょっと書いてみようと思う。上手く整理出来なくて歯痒いが。


キーチが真っ正面から世の中に挑もうとする姿、そしてそれに対する世論・リアクション。キーチへの同調と反発、抵抗と屈服。
正義とは何か、道徳とはモラルとは人権とは信頼とは何か。ここではそれらを一纏めにして“マナー”とするが、このマナーに対する果てしない問いが、「キーチ!!」においては発せられているように感ずる。


キーチが志すマナーは、今日においては一般的な意味での、極めて純粋なそれである。要するに、現代の人々が理想とする、言うなれば「今日における常識的な最低限のマナー」を守ることである。法律や人権、平和や博愛といった観念が作られた根幹に存するところのものを死守しようとする原始的ともいうべきエネルギーが、キーチにはある。
キーチはそのマナーが犯されているみさとを救う為に、マナーを無視して行動する。本人はおそらく無自覚のうちに、一方的にコチラ側のマナーのために自らに忠実に、他のマナーを侵害して突き進んでいく。そこには明確な矛盾意識などは毫もない。
マナーを守る為には、敢えてマナーを破って動かなければならない。守るべきものを全て守って動いていても、結局何ら解決されることはない。むしろそうしていてはマナーを犯す側に蹂躙されるだけだということを、キーチは本能的に自覚している。彼にとってはそれが正当な理由であり、自らの行動原理ともなるものである。


マナーのためにマナーを破棄する、その意識を独善的であると言えるか?


作品中において、そうしたキーチの意識は世論からの支持を得た。つまり、甲斐の「国が定めた法律を破った側に味方してんねや」(9巻 第82話)と言うセリフに見られるように、キーチがなしたマナーのためにマナーを破る行為を、世間は是としたのである。おそらくコチラの世界、すなわち私たちが暮らす世界においても、キーチがとったような行動は、時として是認されることであろう。
而して、作中で見られる人々のキーチに対する熱狂は、ある問題へのメタファーとして描かれているのである。
ここで問われるべき事、それはやはり一つだけ。究極的にマナーとは何であるのか、ということだ。作者である新井英樹が「キーチ!!」を通して問い続けた問題の核心は、ここにあるのではなかろうか。
法律も秩序も人権も道徳もーここで私が言うマナーというものなどは、夫々の立場により如何様にでも定義、再定義されるということを、新井英樹は「キーチ!!」を描くことで暗示しようとしたのではないか。
キーチという一人の少年の言動により、浮き彫りにされる矛盾を孕んだマナーの存在とその意義、価値。そして、それを定義付けできる“立場”を手中に収めた者が持つ影響力に対する問題提起及び再考。無意識のうちにその影響力の傘下に入ってしまう世の中、それへの嘲笑を伴ったシニカルな警鐘。無自覚/無意識、思考停止は一つの罪だとする視点(これは新井英樹が「ザ・ワールド・イズ・マイン」の頃から現在に至るまで一貫して主張し続けていることだ)。
それと同じくして、自分たちのマナーを守るためには“タブー”が容認されるとともに、自分たちにとって不都合なマナーが打破されようとする時にもまた、タブーは黙認されるという、相反する現象も描写される。元来、反目するはずのマナーとタブーが、実は状況次第で結合するのだという、ある種の皮肉の暴露である。
それを人間の欠点・弱点と見ても良いだろうし、意外とそんなもんだと受け流しても良いだろうし、時としてマナーとタブーが妥協せねば“体制”などというものは到底維持出来ないと、二つの融和を正当化しても良いだろう。その解釈は、究極、個人と状況による。


「キーチ!!」に内包されている視点、そこから発せられる問いは、おおよそ上述のようなものであろう。ーマナーが抱える矛盾。それを暴き、ではお前はどう対応するのだという問題提示及び挑発。お前にとって真の“正しきマナー”とは何だという喧嘩腰での問いかけ。人々が信ずる“健全な”マナーを守り通すことは可能か、それを維持しようとする土壌が現代社会には存在しているか否かという疑問ー
この問いにどう対処するかは、やはり個人の問題なのである。マナーをどう捉え、それに絡むタブーを黙認するか否か…突き詰めていえば、この問題への返答は、己の人生観、価値観、倫理観、思想等といったものに、非常に強く束縛されるものになる。
今、その答えをいかにして見出すべきだろうか。答えは百人百通りであって良い。


「キーチ!!」をどう捉えるか、キーチとどう向き合うかは、必然的に己のマナー観を問うといった行為にも繋がってくる。マナー観・・・すなわち道徳、モラル、人権、信念、信条、価値観、人生観…生きていく上での基準となる諸々の事物への見方が問われるということであり、畢竟、「キーチ!!」をいかなる立場をもって受け止めるのか、このことはその者を構成する枠組みを明確に識別するフィルターのようなものとして作用することにもなるといえよう。


新井英樹からの“マナー”に向けられる峻厳なる視点、それに対して読み手がいかなるリアクションを返すか。読み手である私たちは、いま一度各々の立場からのリアクションが求められているように思えるのである。

…う〜む、抽象的な表現が多い上に、雑然とし過ぎてどうも良くない。
それにこれだけではまだまだ不十分だ。
「キーチ!!」が何を発しているのか、その問いは今後も継続していかねばならぬように思う。
依然として眼前にはキーチが立ちはだかっている。

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