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2006年08月29日

2006年08月29日 他所者は去れ!という声に怯え…

ツクツクボウシの鳴き声がツクヅク「ツクツクボウシ」と聞こえない昨今、夏も終わりに近付き非常に浮かれている小生ですが、今、一番カワイソウなのは、あの斎藤君と田中君で、それは一高校生なのにあれ程に騒がれて記者への対応とかも大変だろうと思ったりするからです。


先日発売されたコーネリアスのシングルは噴飯もので、最高じゃないかという思いがしているけど、もう聴きたくないという思いもしている複雑な気分。音楽はバカで良いと思うけど、意識してバカをやると大抵退屈なことになる。
小山田なんかはマジメにやってるんだろうけど、どうもバカに聴こえてくる時があって、それが良いんですが、この前出たシングルはダメだったと思う。というのはマジメだったから。
小山田で思い出したけど、小沢健二の「Ecology Of Everyday Life 毎日の環境学」というアルバムは良くて、初めて小沢健二が良いと思えた瞬間があった、訪れた。
このアルバムはなぜかどういうわけか漱石の小説とマッチする不思議さである。


もう知らん、糞みたいなブログで相済みません、他言は必要なし、で良いのか? 知らんがな。

2006年08月25日

2006年08月25日 叫びの意味とは?

Y「狂気」といえば、やはりピンク・フロイドを思い浮かべるヒトが多いのだろうか。私は、ピンク・フロイドの「狂気」はいささか抽象的な意味での「狂気」じゃないか、と思う。もっと分かり易い、直の「狂気」というのであれば、例えば、Suicideや初期のボアダムスなんかが相応しいだろう。


今回取り上げるポップ・グループも、ある意味では「狂気」を表現したようなバンドだが、多少ほかの連中とは異なる。
その決定的な違いは、やはり音楽的な広がりだ。
彼らの曲は、パンクやファンクやダブ・ミュージックなどを基底とした上に成り立っている。音楽的にはかなり豊穣なバックグラウンドを持っているようである。
ただ、曲の中ではそれらがゴチャゴチャになってしまい、一つの塊と化しているがために、非常に様々な要素が顔を覗かせているのが面白い。


そしてマーク・スチュワートの「死んでしまえ!」と言わんばかりの鋭利な叫びは、暴力的であると同時に、心の奥まで染み渡り聴き手を解放させる即効性を持っている。


仮にピンク・フロイドの「狂気」を閉じられた感情ゆえのものとするならば、ポップ・グループの「狂気」は開け放たれたものであるといえる。
どちらが優れているとか言うのではない。
重要なことは、自分の感情とどう折り合うかだ。
そう思う時に、マーク・スチュワートのあの叫びの意味も、少しは理解できるような気がするのだ。


ところで、ポップ・グループは、この「Y」以外のアルバムはほとんど売られていない。なぜかいつも廃盤状態だ。たまに再発されるみたいだけど、やっぱりすぐに消えてしまい、いつの間にか廃盤扱いになっている。それだけポップ・グループの音源を求めているヒトが多く、すぐに売り切れるということなのかどうかは分からないが、とりあえず「Y」以外のアルバムを店頭で見かけることは滅多に無いと言って良いだろう。なぜ「Y」だけが常時購入することができる状態なのかも分からないが、どうせなら他の2枚も「Y」と同じくらい出せば良いのにねぇ。

2006年08月23日

2006年08月23日 マジカル・パワー

Magical Powerマジカル・パワー・マコは日本におけるCaptain Beefheartである、とは言えないだろうか。
音楽性自体に違いはあるものの、そのぶっ飛んだ才能や演っている音楽はCaptain Beefheartにも引けをとらない。


この人ほど純粋に"音を楽しむ"音楽をやっている人もいないだろう。
いわば音楽の原点のようなことをやる人である。
そしてこのファーストアルバム「マジカル・パワー」は、原点も原点であって、音楽そのものの面白さを詰め込んでいる。
例えば「チャチャ」という曲なんかは、ひたすら「チャチャチャチャチャチャ」と叫び続けるだけだし、「秋がない(アギネ) 」では、おっさんが純度100%の津軽弁で歌いまくるし、「アメリカン・ヴィレッジ1973」ではこれ以上無いほどの繊細な音を作り上げている。
そして2曲に参加している灰野敬二の活躍があまりにも素晴らしい。


こういう風な手段で音楽をやる人がいるんだから、凡百のミュージシャンはたまったものではないだろう。
だって「音楽」のありのままの姿を、こうも明確に描かれては、やりきれないだろうから。
私が音楽をやっている立場なら、もう嫌になってやめてしまうかもしれん。
それほどこのアルバムはショッキングな内容だ。
マジカル・パワー、というのも頷ける。


マジカル・パワー、ね。うん、ピッタリの名前だ。

2006年08月22日

2006年08月22日 最後の音楽

Trout Mask ReplicaCaptain Beefheartというヒトは天才過ぎたのだと思う。
天才過ぎて天才過ぎてどうしようもなかったから、「Trout Mask Replica」などという化け物アルバムを作ってしまった。彼がやりたい音楽を、小細工なしに、真っ直ぐに表現したら、こんなアルバムができてしまったのだろう。


ブルースとかフリージャズとか、この際そんなものはどーでも良い。重要なのは、このアルバムの果てしなくデカい全体像だ。


このアルバムに詰め込まれた莫大な音楽的要素。それもおそらくはCaptain Beefheartの一部に過ぎない。
音楽などというのは、彼にとっては、単なる表現手段の一つに過ぎなかったのだろう。しかし、彼のような天才が音楽を好き勝手にやってしまうと、こんなコトになってしまう。
これは歴史の驚異的な一面を記録した音源だ。


そして彼をとりまくメンバーもまた半端ではない。このアルバムに収められている28曲、全てにおいてまるで即興的な感を受けるが、よく聴いてみると実は緻密な演奏がなされている。


ワンフレーズ、どこを取ってみてもスキがない。
この手の音楽というのは、大抵無駄で埋め尽くされているのがフツウなのだが、このアルバムだけはほとんど無駄がない。その為このアルバムを真剣に聴こうとすると、相当の疲労を伴うことを覚悟しなければならない。


Captain Beefheartが音楽から離れてもう何年も経過するが、こんなアルバムを残した以上、彼が音楽を続ける意味もないだろう。
そして、音楽自体も、この辺りでひとつの終わりを迎えているのかもしれない。
少なくとも、これは、何かが行き着く果てにある終わりの音楽である、というような雰囲気がプンプンと漂って来ている。

2006年08月21日

2006年08月21日 「新」

Faust IVどういうわけか、70年代の「ジャーマンロック」などという部類に分けられるミュージシャンには、ヘンテコな連中が多い。
CANやNEU!やTangerine Dreamなどは、その中でも代表的な存在だが、このFaustも同様に「ジャーマンロック」を象徴するヘンテコなバンドであろう。


Faustといえば「Faust」や「So Far」というアルバムが有名だが、音楽的にはこの「Faust IV」が一番面白い(ヘンテコな)ことをやっているように思う。


Faustの音楽は、実態を捉え辛い。
だが、降り注ぐような不気味な音は、いつ聴いても新鮮で垢抜けている。
一方で、彼らの音の底に眠るものは、あまりに鋭く、そして混迷している。
相対するものが結びついているようだ。


このアルバムでは、その両者の対立が恐いくらいに表れている。
背筋を凍らせるほど不気味に、鋭く、迫ってくるものがある。
自分の内側にある何かを一新させるほどの力を伴っているのだ。


一概に「新鮮」や「一新」と言ってもピンとこないだろうが、直接このアルバムを聴いてみると「ナルホドな」と思ったりするであろう。

2006年08月20日

2006年08月20日 その真意は!?

Barrett先日亡くなったシド・バレットの2nd「Barrett」。
この人のソロは「The Madcap Laughs」の方が好かれているような気もするが、私はこちらの方が好きである。というよりこちらに興味を惹かれる。
まぁ、どちらも甲乙付け難い傑作であることに間違いはないが。


私はこのアルバムを聴くと、変な気持ちになる。
彼のソロ作品はピンク・フロイドの時みたいなサイケっぽさが薄れて、どちらかといえば「歌モノ」としての要素が強くなっている。特にこのアルバムではそれが顕著だ。「The Madcap Laughs」の頃はサイケフォークとも言うことができたが、このアルバムはほとんどフォークともいえる。しかし、私はこれをフォークだとは思わない。曲自体は極めてシンプルな音作りで、いずれも聴き易いものだが。
何かよく分からないが、変な気がするのだ。若干歯車が狂ったような感じ。どうしても、これを単にフォークとして解してしまって良いのだろうかという思いが駆け巡る。
何か前衛音楽を聴いているような気持ち。


シド・バレットがどのような心境でこのアルバムを作ったのかは分からないが、このアルバムはサイケやフォークなどを飛び越えた斬新さがあるように思えてならない。
そうして改めてひとつひとつの音を意識して聴くと、その間合いに捕われそうになる。音と音との感覚が、何か絶妙なのである。
いやはや、まったく恐ろしいアルバムだ。
これはシド・バレットが残したとてつもなく難解なメッセージなのかもしれない。そんなことを考えてしまう程の違和感に包まれた怪作である。

2006年08月20日 変態タンゴ

南蛮渡来江戸アケミはどう見ても変態だと思う。
変態でなければこんな曲を書けるわけがない。
私はその変態性が大好きで、JAGATARAみたいな変態バンドをずっと探している。
やっぱり正常者が奏でる音楽というのは、一定の範囲内から出ることはない。本当に面白い音楽とは、その先にあるのだと思う。


画期的な音楽や、独創的な音楽をやる人は、どこかしら変態的な一面を持っている。そしてその真価は同じような変態性を持っている人たちにしか伝わらないのではないか。もの凄く狭い範囲内でしか共有されないということだ。
だから、私なんかがJAGATARAの真価を問うことはできない。
でも、ありきたりの言い方になるが、何か無性にワクワクするのだ。 JAGATARAの音楽は不思議な高揚感を与えてくれる。
特にこの「南蛮渡来」の自由自在ぶりは最高だ。ロックとかファンクとかパンクとか、そんなものは関係ない。単純に、音楽として面白いし、ワクワクする。


往々にして変態的なミュージシャンは短命である。
アケミもその例に漏れることはなかった。
だが、これだけ"ちゃんとした"作品が幾つか残されたことには感謝すべきだろう。
アケミの本性を解明することなど全くもって不可能だろうが、彼の思いの一端を垣間見ることくらいはできるはずである。その手がかりとなる作品が何枚も出ている。この「南蛮渡来」もその一つに過ぎない。
私は彼の曲を聴く度に、今後、江戸アケミを、JAGATARAをどれだけ知ることができるだろうかと考える。
一生かけて追い求めても良いくらい、彼や彼の音楽というものは謎が多く、深いものであるように思えるからである。

2006年08月19日

2006年08月19日 無駄は無駄

今日は珍しくいっぱい更新した。
と言っても今まで書き溜めてたのを放出しただけだが。


元来、この糞みたいなブログは、何の意味も無いものでーというか、個人のブログに意味を持たせる必要なんてあるのか?ー、どうにかこうにか惰性で存続させようとしていたに過ぎない。


そこにお相撲の話題や音楽の感想などのカテゴリーを設けることで、多少なりとも充実したものにしようとしたのだ。
まあ、さっきも言ったけど、個人のブログに意義付けをすること程虚しくて哀れな行為もない気がするので、そんなに必死になって更新する意味もないと感じていた。しかし、あまりにも更新しないようなら、止めた方が良いのではないかとも思った。


「継続は力なり」というように、無駄なことでも続けることに意味があるかもしれん、ということで、今日は音楽のカテゴリーをいっぱい更新した。
これでほんの少しは充実したかな。でも、「音楽のカテゴリー」といっても、単に私が思ったことや感じていることを乱雑に書いているだけの、ほとんど無意味なものなんだけど…


ただ、やっぱり「継続は力なり」というように、続けることが忍耐。
雑文を書き続けることだって修行であると思って、これからも無駄なことを書いていこうと思っている。のでありますよ。

ちなみに、まだまだ音楽のカテゴリーで書き溜めているものがあるので、明日からも小出しにしていくつもりです。

2006年08月19日 切なさの永遠

Pet Sounds多くの者が"切なさ"という感情を求めているのかもしれない、と思うときがある。
例えば、切ない恋の映画や小説が大ヒットしたり、切ないバラードが売れたり、夏の終わりを切なさと重ねて語られることが頻繁にあったり…etc


で、切ないアルバムといえば、私は真っ先に「Pet Sounds」を思い浮かべる。
メロディー、歌詞、そして歌、全てがどことなく切なくて物悲しいのだ。
これほど極上のポップ・アルバムで、曲の作りも複雑なのに、なぜか切なさばかりが先行する。
1曲1曲の持っている力強さが半端ではない気がする一方で、非常に幻想的な儚さを兼ね備えているようにも感じる。


「Pet Sounds」についてはもう語り尽くされた感があるから、私なんかはもう何も言わない方が賢明だろうが、では果たしてこのアルバムの持つ不思議な魅力を適確に語り得た者がどれほどいるであろうか。
その独特の不思議さが、今なお多くの人々に愛される所以なのかもしれない。
そして私もまたその不思議さに導かれて、「Pet Sounds」をいつまでも聴き続けることだろう。

2006年08月19日 ノンフィクションの音楽

Cop/Young God/Greed/Holy MoneySWANSの初期のアルバム2枚を収めた2枚組の「Cop/Young God/Greed/Holy Money」。
おそらく呪術師の部屋ではこのCDが鳴り響いている。私にはそんなイメージが思い浮かぶ。
どうしようもなく退廃的な部屋の中で、黒いマントを纏った薬物中毒みたいな長髪の男が鬼のような形相で佇んでいる。
その光景こそがSWANSの音楽だ。


シンプルながらも恐ろしいほどに重く鈍く響き渡る音。
ひたすら繰り返される単調であり、無機質なサウンドの連鎖。


日本語の「音楽」とは本当に巧く言ったもので、SWANSほど「音楽」できるバンドは、そういるものではない。


何をどう表現するかということは、限りなく重要な問題で、人類に一生問われていくであろう。
SWANSは、退廃や暗黒や呪術という言葉を、これ以上無いというほど見事に音で表現している。
だから、SWANSの曲を聴くと、それがどんなに鈍くても重くても単調であっても無機質であっても、「音楽」できるのだ。
彼らの曲をどう受け止めるかはヒトそれぞれだろうが、私はこんなに真に迫るほどの迫力で、混沌とした部分を表現した音楽をほかに知らない。
美しくなくて良い。整然としてなくて良い。綺麗でなくて良い。大切なのは、何かの一部分を克明に描き出すことなのだ、と改めて感じさせてくれる音楽がここにある。

2006年08月19日 「なんじゃこりゃ」で良い

Flowers of Romanceこのアルバムの1曲目にある"Four Enclosed Walls"を聴いた時、私はニヤニヤしながら「なんじゃこりゃ」と思った。
それは期待に胸を膨らませてのことである。
1曲目の"Four Enclosed Walls"を聴いた時に、私は、これは明らかに別格なアルバムだと悟った。


PILの最高傑作はやはりこの「Flowers of Romance」であり、もう二度とこんなアルバムは出てこないのではないかという思いがする。


そしてジョン・ライドンはこのアルバムで何がしたかったのかということを、未だにはっきりと理解できないでいる。
私が初めて"Four Enclosed Walls"を聴いた時に思った「なんじゃこりゃ」という心境、結局これが総てであった。


このアルバムについてあえて何かを言うなら「空間を無視した音楽」ということになる。
ここではギターもベースもヴォーカルも一切が関係ない。
ドラムの音がかなり全面に出てきているが、それも実は関係ない。
このアルバムで重要なことは、その無限のリズムである。
怒濤の如く拡大していくリズム。果てはない。
手段も方法も感情も真実もない。ただ、リズムが延びていくだけ、まさに狂気である。正気でこんなことはできない。
それゆえにこのアルバムは「なんじゃこりゃ」というコトになるのだ。
そしてこれはいつまでも「なんじゃこりゃ」という範疇に属するもので良い。だってそういうものが幾らかは存在しないとつまらないでしょう。

2006年08月19日 桃月に思ふ

Pink Moon素朴なもの程その奥に潜んでいる潜在的なモノは凄まじい。
例えば、茶の湯や龍安寺石庭のような日本庭園などはその最たる例ある。
現在では、それらのものの奥に秘められた意義を、日本人でさえ理解し難くなっていやしないだろうか。
そうした有り様ゆえに、外国人に素朴な日本文化を理解させることは、相当困難なことに違いない。


音楽においても同様のことが言えるはずで、例えばこのニック・ドレイク。
彼の音楽はあまりにシンプルだが、その奥は限りなく深い。
ギターと歌だけで、ここまで感情をざわつかせることができるだろうか。
あまりに純朴で、あまりに繊細で、あまりに陰鬱で、あまりに静かで、あまりに寂しい。
彼が歌に込めた思いの程を正確に推し量ることは、本人以外には不可能なのではあるまいか。


彼の遺作となったこの「Pink Moon」は、特に悲壮的な雰囲気に満ちていて、どうしようもない閉塞感に支配されている。
しかし、ここにある彼の歌は、嘘ではない。そのことが肌にしみ入ってくるから、私はニック・ドレイクを信じられるような気がするのだ。


冒頭に記した素朴なものに宿る潜在的なモノは、視覚や聴覚で意識的に捉えようとしても無理なのかもしれない。
もしそこに本物の何かが存在しているなら、こちら側が求めずとも、意識の中に侵入してくるのではなかろうか。
ニック・ドレイクの歌は、無意識のうちに聞き手の感情を支配する。それに身を任せるだけで良いではないか。ニック・ドレイクの歌と向き合う方法はそうする以外にないのだろうから。

2006年08月19日 彷徨

Rock Bottomテレビでよく見る映像に、重病患者の生への強い意志を捉えたものがある。
難病と闘う患者、移植手術を受けた患者、または受けなければならない患者の生き様を追い、彼らに密着している。
そのような人々は、想像もつかない程に強い意志を持ち、生きようとしている。
強い生命の希求。彼らを動かす源は何であるのか。私はいつも考えさせられる。


このロバート・ワイアットの「Rock Bottom」も、限りなく強い生を求めた末に辿り着いた一つの境地であろう。
彼は事故により下半身不随となった。その絶望の後に立ち上がり、作り上げたのがこのアルバムである。
元ソフトマシーンのドラマーとして語られることもあるが、ただのドラマーがこれ程までの歌を作れるだろうか。
彼はドラマーである以上に、天性の才を持ったヴォーカリストであろう。


この声の力強さの根源は何か。
間違いなく生への希求によるものだろう。
生きるということを諦めない限り、その未来に可能性は、ある。
このアルバム以上にそれを教えてくれるものが、果たしてどれくらいあるだろうか。

2006年08月18日

2006年08月18日 全部目の前にある

98.12.28 男達の別れFISHMANSのラスト・ライヴを収録したアルバム、「98.12.28 男達の別れ」。
このアルバムは、やはり悲しい。
これ以外のアルバムでは普通に聴ける曲も、ここでは格段に悲しく聴こえてくる。


何が悲しいって、このライヴには、"最後"を感じさせる空気が全く漂っていない。
まだまだ続きがあって、このライヴはただの節目にしか過ぎない。
おそらく、誰もが、そう思っていただろう。


この後に訪れる突然の「別れ」とは無縁の音楽だ。


悲しい雰囲気がほとんど伝わってこないから、逆に悲しくなる。


あまりに突然の別れ。
それは日常的なものだと実感させられる。


このアルバムは、ある意味では、残酷な現実世界を克明に封印した作品と言えるのではないか。
ここまで現実的な、突き抜けた切なさ・悲しさ・寂しさを感じさせるアルバムは、滅多にあるものではない。


男達の「別れ」 そう 別れとは唐突に訪れるものなのだ、ろう。

2006年08月17日

2006年08月17日 曖昧であってこそ…

Terminall Loveピーター・アイヴァースの「Terminal Love」。
この人の歌は、おそらく気持ち良いものではない。
彼の歌声は、聴き手を感傷的にさせ、何かモヤモヤした想いを想起させるからだ。


そもそもピーター・アイヴァース自身が、あまりにも現代の主流とはかけ離れているように思える。
だからこそ、というべきか……彼の歌声には、特別なモノが含まれているのだ。


ピーター・アイヴァースの歌に救いはない。彼は誰かの代弁者ではないだろう。
しかし、彼の声には不思議な優しさがある。
この優しさが、私の感じる「特別なモノ」の一つで、それは世俗的な色を帯びているようにも思えるのだ。
しかし、ピーター・アイヴァースそのものは世俗的ではないヒトだ。
何か矛盾している?曖昧?


そこがピーター・アイヴァースの魅力なのだと思う。だから私もわざと曖昧なことを書いてみた。
彼の歌から受ける印象は、常に形を変え続けて曖昧である。
それ故、感傷的にさせ、モヤモヤさせるのではないだろうか。
意味が分からん?それこそが彼の本質かもしれない。


ピーター・アイヴァースの歌には、優しさと悲しみが同居している。
聴く時の気持ちによって、そのどちらかが強く全面に現れてくる。
時と場合によって、様態を変えるという意味でも、彼の歌は曖昧であるといえる。
まるで雲のようなモヤモヤ具合なのである。

2006年08月07日

2006年08月07日 残骸

最近、毎日のように亀田のことが報道されているけど、私は不思議に思うことが一つある。


あの〜、国歌斉唱。
T-BOLANのなんとかいう時代遅れチックなアホみたいな男がふざけた歌い方をしたこと。


アレは良いのですか?


あのように国歌をゴミみたいに扱う輩をわざわざ出してきたことが、まず第一の問題で、私はあの歌い方を聞いて苦情を入れようかと思ったほどでごわす。ジャッジと同じくらい、アレはダメ。


しかも"T-BOLAN"ってなんやねん。
マーク・ボランと関係あるのかどうかは知らんが、「不敬だ」と右翼から抗議が来てもおかしくはないと思う。


国歌斉唱から茶番だったんだから、もうどうしようもないやね。

2006年08月03日

2006年08月03日 天国(笑)

世界的に気温が上昇しているらしい。


嗚呼、これは何かの予兆なるか。陽が沈むとも涼しさ訪れんや。
いかにも。朝夕関係なく、陽は我を焼き尽くさんとし、その温もりを置きて立ち去らん。


・・・暑さでアタマがヤられておかしな日本語を口走ってしまった。
ところで天国なんてないよね。
天国があるとしたら、いったいどういう姿でいくのだろうか。
例えば、80歳で死ねば80歳の姿のままでいくのか。20歳で死ねば20歳の姿のままでいくのか。生後2ヶ月で死ねば生後2ヶ月の姿のままでいくのか。それなら、必然的に天国は年寄りだらけということになるなぁ。そんなバカな。
まー、百歩譲って死んだときの姿のままでいくとして、赤子はどうなるんだ?天国にいけば赤子も自立できるようになるのか。
そう考えると、どうも分からなくなる。
もしかしたら、天国なんてトコロは、私たちの想像を絶する環境で、姿なんてモノは無いのかもしれない。
霊魂みたいな存在だけで、感情のみを交換するような場所。年を重ねることもなければ、時間という概念に支配されることもない空間。感情だけが真空保存されたようになり、意識の繋がりのみで存在する。
それなら、まだ、理解できる。
想像し難いことだが。


こういうことを考えると、どうしても天国などというものの存在は曖昧で、最初にソレを提案した奴は見切り発車だったんじゃないかと思う。
人間の中にある死にたくないという無意味な希求。しかし、どれだけ望んでも、死は確実に平等に訪れる。
死後の我が身よ、果たしていかなるものか、という不安。
それを克服するために考え出されたのが、天国というモノの存在だったのではないだろうか。
所謂"この世"で死んでも、また"あの世"で生きられる。次の世界の創造。それがすなわち天国。仏教でいうところの極楽浄土である。厳密には天国と極楽浄土は大きく異なるものだが、死後にいき着く場所という共通点によってこの両者は交わる。
信仰心が篤ければ、死んでもまた生きることができるんだゼ。次はより素晴らしい世界で生きられるんだゾ。だからオレたちは宗教を大事にしなければならない? 生きるのではない、神様に生かされているのだ。それゆえワシらはずっと感謝のお祈りをしなければいけないんじゃ。


生をもって死を意味付ける。日本人は逆なんだろうなぁ。死をもって生を意味付けるんだろう。だから「死際」というものを大事にする。ここら辺に日本人が特定の宗教(特に西欧起源のもの)を強く信仰しない要因の一端があるかも分からん。

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