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2008年02月29日

2008年02月29日 四年一度なのに…

二十世紀において、おそらく最も影響を及ぼしたであろう哲学者はイマヌエル・カントに違いないが、彼は生涯童貞であった、というコトは彼の散歩のエピソードと同等に有名な事柄でしょう。またD・ヒュームやヴィトゲンシュタインも同様であったらしい(あくまでも「らしい」)。何故にか。彼らが異性との交わりを絶ちたる由縁は、すなわちカントの場合にあっては、彼の申す「定言命法」の故か。彼の内に存する或る種の倫理規範が、執拗にあるべき欲求・衝動・情念等を拒んだのでありましょうか。そうすると自ずと宮沢賢治を想起致したくもなりますが。
カントやヒュームにヴィトゲンシュタインといった超絶無比、浮世離れも甚だしき未曾有の天才(歴代哲学者の中でも群を抜いた天才!)が童貞であったとなると、其処に何かしらの根拠を見出さんと欲する諸種の好奇心及び雑念が滲出してきそうな気配であったのでして、一方でルソーなんぞは狂人で有名だが、あんなのはSEXばかりしておったから頭が腐ったのでありましょう、而してそのようなモノの思想を教科書に掲載してしまう日本の教育の現状なんてまさしくSEX教団の如き…


もう止そう。本日は四年一度の二月二九日なり。
記念に何かを書き留めておきたかった。
さて、次の二月二九日まで、当サイトが存続しておる可能性・・・堂々の4%未満。というワケで、残りの96%をココに留め置いたのでした。…なんかよく意味が解らんけども。

2008年02月26日

2008年02月26日 名言

「行動を怠り後悔するよりも、失敗の後に後悔する方が良い」
という偉大な名言が存する。


挑戦してみてダメならば、最早仕方があるまい。が、何もやらずにいて、時間が経ってから、過去の怠惰を悔いるコトほど惨めな行為は無いのだゼ、って謂。
誠に現代の若者(特にニート諸君!)に贈りたき名言であり、私自身も肝に銘じておかねばなりません。果たして斯様な名文句を世に放ちたる人物とは誰であろうか。…そうである、何を隠そう、私でした。
なんかあっという間に思いついたコトバなのだけど、案外宜しいモノでしたので、ついつい「名言」にまでランク上げして祀り上げちゃった。どうもスイマセン。私のセリフだと思うと、途端にその価値は雲散霧消してしまいそうなのでしたが、どうだろうか、ココは思い切ってマゼランの発言だと思い込んでみては… あら、不思議!? 一瞬にして勇気が湧いてきますような感慨を抱いたのではありませんか? 何ならその勢いで世界一周旅行に出かけちゃってもイイのですよ。

2008年02月25日

2008年02月25日 あまねくうるわし

昨日、朝に起きてみると―やっぱり起きてみたのだけど、そうしたならば雪が降っていたのです。あっ、解らないヒトのために説明致すと、「雪」というのは「気温が摂氏〇度以下の大気の上層で、雲中の水蒸気が凝結し氷の結晶が集まって地上に降るもの」でして、色は白色をしておるのですが、ソレが民家の屋根の上などに、おっと! 専門用語なので理解できないヒトもいるかもしれませんね。「屋根」とは「雨露などを防ぐために建物の上部につけたおおい」を指すモノでして、「笑点」では木久扇サン(前木久蔵)が屋根と「嫌」をかけて「や〜ねぇ〜」なんて駄洒落を発する時がありまして、・・え〜と…少しばかりマイナー過ぎる単語を遣ってしまったのであるが、「笑点」ってのは、1966年(昭和41年)から日本テレビ系列で放送が開始された長寿番組であって、落語家が登場致して大喜利なんかを・・・ ああ、「大喜利」は或る問いが出題されますから、ソレに対してユーモラスな答えを提示致しまして、御覧の皆様を楽しませる日本のお笑い文化を象徴する演芸です。で、元に舞い戻ると、「笑点」では木久扇サンが屋根を用いた非常に非常に洗練された駄洒落を、・・・駄洒落は説明せずともお解りでしょう―駄洒落を言うのですが
・・・ま、そういうコトで雪が降っていたと、そういうハナシでございます。
ところで、ヒトには到底申し上げられないが、「実は私、○○のファンなんですぅ〜」ってコトが誰にでもあろうと推測してみるのだったが、斯くなる上は、私も雑多なモノの変態的隠れファンなのかもしれぬが、敢えて変態的ではないモノを挙げてみようかしらん、私はthe brilliant greenの地底ファン、すなわち潜在的ファンかもしれぬし、或いはそうではあらぬかもしれぬ、CDは一枚も持っておらぬ、わざと、わざと一枚も持っていないのでしたが、好き、ちょっと好き、ほんのりと好き、微細な好意…うーん、ええっと 「好意」は「このましいと思う気持ち」の相当高度な言い回しであって、また、「このましい」ってのは「感じがよくて、心を引かれる」状態を指す形容詞です。あ、形容詞と申しますのは・・・(本日の利用サイト:Infoseek マルチ辞書 ←暇ならココで「形容詞」を調べてみよう! 「品詞の一。用言に属し、活用があり、終止形語尾が、口語では『い』、文語では『し』であるもの。事物の性質・状態または心情・感情などを表す。『早い』『楽しい』『あまねし』『うるわし』の類。活用は、口語では一種類であるが、文語にはク活用・シク活用の二種類がある。」という説明が出て来るよ。)

2008年02月22日

2008年02月22日 「スイーツ」基準

最近やたらと視界に侵入してくる「スイーツ」ってコトバ、コレは何でござんしょ。不愉快。日本語であるか。否。英語であるか。否。和製英語であるか…そもそも和製英語とは何たる矛盾、錯綜。ソレはもはや日本語と解釈すべきではないか…ってコトは、「スイーツ」も日本語になり果ててしまうのか。いやはや愚劣なる哉。何故に日本語を蔑ろにするのでありましょうか。隠す気配ゼロ、西洋コンプレックスの放出。IQ35未満。甚だ愉快なり。我が子に奇怪千万なる名前を付与し、墓石にまで刻まれる恒久の恥を強制致します淫らな気狂い両親の醜態と同等の不名誉、ソレが「スイーツ」という一語の強かな流行具合に象徴されてはおりませんか、ってな素朴かつ素直な疑問提起。


余りにも可笑しき恥辱事態と思念致しましたので、不図「スイーツ(笑)」と検索してみたところ、なんとwikipediaに同名の項目が設置されてあった。(参照リンク:「スイーツ (笑)」


スイーツ(笑)またはスィーツ(笑)とは、女性誌・女性向けファッション雑誌に多く見受けられる浅薄なキャッチコピーやマーケティング戦略に無自覚に踊らされる女性を揶揄するインターネットスラングである。 女性の強欲さやふしだらさ、自己中心的さやメディアリテラシーの無さを嘲笑する際や、一見しゃれている(ように見える)キャッチコピーで流行を煽る女性誌を冷笑する際などにも用いられる。


ネット上では、既に、相当早くから、斯様な低俗用語を揶揄するモノが無数に存してあったようです。
あえて上記の文章を不用意に参考してみよう。要するに「スイーツ」なる底浅きモノの背景、ソレはアタマの機能に著しき不具合を抱えるオンナを引っ掛けるために、大して知恵を絞るコトもなく、イメージのみで考案されたモノに過ぎぬ。コレがコトの真相であろうか。
なるほど。しかしながら、コレは考えようによっては利便であらぬか。すなわち「スイーツ」なんてコトバを馬鹿面を掲げて申しちゃうオンナを眼前に確認できれば、ヒトはそれだけで、そのモノの低劣さを確信しても良いのです。心の表情、ソコから溢れ出さんばかりの嘲笑を伴った卑屈な<偏見>が彼女たちに贈呈されるコトも、もはや不思議ではない。一切ない。


加えるに愉快であったは、上記のページの下部に設置されてあります「揶揄の対象となる用語の例」って部分。ソコに記されておる単語、ソレは確実に「スイーツ」と同等の頻度で、私たちの眼前に到来致しておりますモノたちに他ならん。一部を以下に引用する。


スパゲッティ→パスタ(笑) (パスタだとマカロニまで含む。スパゲッティのみを意図する用法は誤用といえる)
ジーパン→デニム(笑) (デニムとは素材そのものを指す)
和菓子→和スイーツ(笑)
化粧→夏色コスメ(笑)
できちゃった結婚→ダブルハッピー婚(笑)


「デニム」、「夏色コスメ」はよく見聞致します。「ダブルハッピー婚」… コレは何であろうか?? 中学一年生程度の知能しか所持しておらぬ輩が発案したであろう到底この世のコトバとは思えぬ、あまりに拙劣、粗雑なモノ。愈々末期症状たるこの惨状。無念なり。


終わりに、20世紀に生を受けた女性の中でおそらく三本の指に入るであろう賢女・才女である偉大なる哲学者ハンナ・アーレントの示唆に富み現状を鑑みるに看過できようはずもない次のような言葉を、此処に留め置きたいのだ。


道徳性がたんなる習俗の集まりに崩壊してしまい、恣意的に変えることのできる慣例、習慣、約束ごとに堕してしまうのは、犯罪者の責任ではなく、ごく普通の人々の責任なのです。『責任と判断』(筑摩書房) 六十九頁

2008年02月20日

2008年02月20日 元ヤンの子供も九割方ヤンキー

今年に入ってからというもの、このブログはどうも悪ふざけのようなカタチへと変貌致してきておるような気がしなくもないのでした。それでも依然として自重能力は作用してある、つもり。
回顧するに、昨年辺りから、私は、マジメな文章を綴らねばならぬ時にも、書きながらニヤけてしまうようなコトをやっておる。例えば授業で要求されたレポートにしても、さすがに悪ふざけまでには達しないものの、「なんでこんな展開にするんだ?」と己の無謀な論の進め方に、或る時ふと微笑を禁じ得ないのでした。
おそらくあんなモノを提出されたセンセイは、困惑し、嘲笑し、脱力しておるかもしらん。而してそうしたセンセイが単独ではあらずして複数いるであろうってコトは、人口に膾炙して…いない。全くしていない。だが、現に、斯様な目に遭わされているセンセイがいるのであります。アーメン。


ところで、この頃、如何なるワケか、何たる事態か、普段私が用いていますメールアドレスと全く同じアドレスから迷惑メールが送られて来るようになった。コレはタチが悪過ぎます。ブロックもできない。仮に、私のアドレスを心得ておるモノのトコロにあのようなモノが送信されたのならば、絶対確実無限大に私の仕業であると疑われる。…いくら私がヒマでもそんなコトはしないぜよ。ニートになってもソレはしないぜよ。


ムムム、ほんのりと暖かくなってきておるではないか。オレはもう夏の影を見た。参上致すな。お前だけは他のヤツよりも遠回りして、遅刻しなさい。知っている通学路全部で事故が発生していなさい。通学途中に十六人のババアから助けを求められなさい。妹にお前のランドセルを間違えて持って行かれなさい。「七時集合」の遠足を「一時集合」と聞き間違え、真昼に登校してきて、誰もいないコトに気付き、路頭に迷いなさい(コレは私の周囲で実際に発生した実話でしたが…)。
とりあえず今年は著しく遅れて来なさい。来る途中で両足を挫けば良いんだ。見ろやこの筋肉 カッチカチやぞ カッチカチやぞ! ゾックゾクするやろ!! だから10月くらいに到来し、すぐさま帰れ。WANDSを聴きながら帰れ。

2008年02月19日

2008年02月19日 まちがいさがし

ダイエーの王監督

2008年02月18日

2008年02月18日 別の航路もあるだろう

就活にてスーツ姿で以て高層ビルの立ち並ぶオフィス街を闊歩してみるコトが徐々に増えつつあるのですが… 前々から薄々悟り始めておったコトなのでしたが、本日愈々確信に近づいた如く覚ゆ。すなわち、オレァ、サラリーマンに向いてないんじゃなかろうか。
果たして私が毎日ネクタイを締めてオフィス街へと赴き、または取引先の企業を訪問して回り、または接待を兼ねた飲み会へと参加する…斯様な生活に適合出来ようか、いや適合出来まい。なんと、反語も出ちゃう程のミスマッチ!
私がサラリーマンをこなしている姿よりAV男優を勤めている姿の方がよほど現実的。私がサラリーマンをこなしている姿より40歳で転職回数35回の浮浪者的姿の方がよほど現実的。私がサラリーマンをこなしている姿より全く売れないお笑い芸人を細々と勤めている姿の方がよほど現実的。
こうなればAV男優へ向かうかお笑い芸人へ向かうか。現状のテクニック的なコトを考慮するに、無理して申せば芸人の方が身近にあるようにも思えるのでしたが、この場合の「身近」というのは、地球から土星及び水星の距離に対して用いるようなモノに過ぎずして、要は遥遠たる有り様!!
当方、西日本の某所在住故に、繁華街で最もよく赴く地は大阪の梅田や難波であるのだけれども、難波に行きたる折、タワーレコードのすぐ近くに吉本の劇場「なんばグランド花月」が存してあって、そのまた近くに吉本の芸人養成所である「NSC」を抱えるビルがございますれば、ソレを見るに及び、ココは夢と挫折が交錯する空間であろう、と勝手気ままな想像を巡らしたコトがあります。


何故か今日は(今日"も"?)ヘンなコトを記し上げておる。
ついでに。昨今のお笑いブームの中、数多の芸人を目にするが、私としてはチュートリアルのネタが相当にツボであるのでして、昨夜の「レッドカーペット」で彼らが見せたネタは、誠に秀逸であった。
早くもYouTubeにアップされておる。どうせすぐに消されるだろうけど、一応貼っておきますね。


チュートリアル 爆笑レッドカーペット2008/2/17

2008年02月15日

2008年02月15日 vs鼻毛マフィア

小学生か中学生の頃、鼻毛が出ておるヤツを見つけて随分とバカにした思い出を内包する。その時の私は「あり得ない。鼻毛が勢い余って飛び出してくるなんて、常軌を逸してる」と思っていたのでした。


月日は流れ、私は二十歳を超えた。
アレはおそらく三年ほど前のコトであろうか。或る朝、何気なく鏡と対面すると、ソコには並外れて目立ちたがり屋の鼻毛氏がいたのでございます。しかも単独ではなく。ソレはソレは衝撃を通り過ぎた先の呆然といった状態に陥ったのであって、私は誠に遺憾ながら出る杭を打たせて頂いた。
またまた月日は流れ、およそ一年ほど前のコトである。
例の如く鏡と対面すると、今度は見たことも無いような、想像の壁を踏み越えた、正しく常軌を逸した鼻毛氏が私を鋭く睨みつけておった。しかもあらゆる体毛の中で最強と考察されます太くて屈強なボディと高枝切りバサミも驚きの長さを兼ね備えて。彼は何かの目印に指定されても良いほど派手な体であったので、私はそのモノに「鼻毛のドン」というを御尊名を冠して、非常に畏れ多いコトではありますが、丁重に抜かせて頂いた。しかし、それからというもの、定期的に「鼻毛のドン」は我が眼前に降臨するものですから、その度に私は恐縮しながら毛抜きを用いらざるを得ないのでありました。―彼は外見とは裏腹に、足下が弱いので直ぐに倒せる。


目下「鼻毛のドン」は右側の方を我が住処と定めて活躍していらっしゃるご様子で、反対側は至って平穏なのであった。平和と戦争。右側だけがやたらと荒廃しているのであった。そうして最近はなんと「鼻毛のドン」は手下を引き連れてくるようになったのでして、彼を取り巻く連中が“ドン”を隠すような時もあるのでした。ソレ故に、致し方が無いので、私は“ドン”も手下もまとめてギロチンの刑に処さざるを得ないのです。残忍!
それにしても、あのように“ドン”とその手下たちに跋扈されては、右側の方だけにマフィアのアジトを建設されては、私とて気が抜けぬ。更に近頃は“ドン”及び手下という呼称では彼らを巧くカヴァーできぬような気がしてきているのですから、ココはいっそ彼らをお雛様にでも見立てて、「お内裏様」と「お雛様」、「官女」に「五人囃子」といった具合にでもしないと、些か物足りず迫力にも欠ける。
―私は今、一つのマフィアを体内に抱えてあるのでした。


二十歳を超えると鼻毛が我が敵となる、っておハナシ。
「エチケット」なんて美名に騙されて、軽く考えてちゃあいけない。相手は結構組織的に動いてくるコトを肝に銘じておくんだ!

2008年02月14日

2008年02月14日 敬い

教会で結婚式を挙げる非キリスト教徒の日本人は一人残らずタンクローリーに轢き殺されてしまえ。教会で式を挙げておきながら、家にキリスト教の勧誘が来た時に「結構です」と憮然として断り、その後家のモノに「宗教の勧誘よ。全く迷惑ねぇ」的なコトを放言するような輩は一人残らずリニアモーターカーに跳ね飛ばされてしまえ。普段は宗教にある種の嫌悪感を示す不逞なゴミが、結婚の時だけソコに<オシャレ>意識を持ち込むなど、これ以上の神に対する冒涜がありますか。間違いなく地獄行きだよ。クリスマスの日をやたらと神聖視するヤツも同類な。そういう思想の野郎はロクな生き方をしないでしょう。下品なモノの見方、愚昧な興味関心のみを手にして、客観的な視野は決して持とうとせず、ソノ一生を己の檻の中で自己満足と同居ながら哀れな醜態を晒し続けるのみでしょう。

2008年02月13日

2008年02月13日 逃げ場

「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」逃げ場を持つというコトは弱さの証なるか。


気持ちの閉塞感を解放する術なく、それを抱き込んだまま佇まんとする。そこには自ずと逃避願望が生じてくる。/或る音楽に逃げ場としての機能を預けてしまうコトは、自らの感情を曖昧にするだけ、誤摩化すだけではないか。/笑いとは無縁で、むしろ無表情や俯きや影に親近感を覚えてしまう瞬間を認め、暫くそうした感情に浸っておきたいと、半ばせいせいした諦めを伴った実感を味わう。/嫉妬、憧憬、自己認識、開き直り、楽観、意識的に悲観と戯れる時間の不愉快な快楽。/飛翔する夢、空を見上げ地団駄を踏む己。/神秘の妄想。/花に揺さぶられる心、枯葉への同情、しかし己が枯葉になるコトは決して望まぬエゴイズム。
あまり死にたくはならないけど、四六時中イヤにはなっている。


逃げ場を持つというコトは弱さの証なるか。
早川義夫「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」
慰めの言葉、自己と同体化する表情、あまりにも主観的な現状肯定、正当化、不器用な振舞。/浮遊しては沈殿する味気のない鼓動。幻想の先に重ね合わせるいつもの顔や気持ち、そして孤独、嫉妬…
逃げ場を持つというコトは弱さの証なるか。


早川義夫「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」
我が現状を鑑みるに、望むべくも無い言葉への期待。それでも雑然と自分にだけは向けてみたかった言葉があった。
Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen. ―Ludwig Wittgenstein

2008年02月13日 気狂いを淘汰せよ!

編集者・校閲者は作品の最初の読者である。作家には最も辛辣(しんらつ)な批判者でもある。昔は鬼と呼ばれる編集者・校閲者がいた。国文学者も及ばぬ見識を備え、どんな大家の原稿にも遠慮なく朱筆を入れた。同時に差別表現だのなんだの愚論をゴネてくる連中には作家とともに反撃した。今そんな人の話を聞かない。差別表現は厳重チェック。だが誤記誤用は素通し。いや、それが誤記誤用であることさえ知らない。


上に掲げたるものは、先日の産經新聞に掲載されてあったコラムの一節であって、書き手は封建主義者の呉智英氏です。(参照リンク:【断 呉智英】編集者・校閲者の見識は?
ここで取り上げられているのは、主として文学に携わっておる編集者・校閲者の見識に関する事柄であるのだけれども、少し視野を拡大してみれば、昨今のおよそ「編集者」らしき輩、すなわち文学だけに限らず新聞、雑誌、テレビ等の編集に携わるモノの様態はあまり芳しくないように見受けられるのです。そう云えば例の「羊水腐る」発言でもスタッフの問題が取り沙汰されておった。―だが、あんなのはどーでもいー。くだらなさすぎる事件である故に、問題にされてしまう方が逆に問題なくらいでして、極論ですが、発言云々よりも、あのような女を使ったトコロに間違いがあった。下品、粗野、横暴、不見識…最初はアノ女にかかっていたコレらの単語が、遂にスタッフにまで伝播してしまっただけよ。
引用した呉氏の文章の最後の部分。「同時に差別表現だのなんだの愚論をゴネてくる連中には作家とともに反撃した。今そんな人の話を聞かない。差別表現は厳重チェック。だが誤記誤用は素通し。」 
誠に、さもありなん。
テレビ番組を例にとれば分かり易し。ソコに携わるモノは近年差別発言に甚だしく神経質になっておるようで、またここ数年のうちに規制も随分と積み重ねられている気配。裏に見え隠れするは、気狂いのPTAや低知能の集まりに過ぎない市民団体所属の劣等生物。テレビ局には毎度毎度彼らからの抗議が存すようであるから、結局作り手は一部の圧力に屈服しておるというコトになろう。
NHK、テレビ朝日、TBSの“ほぼ極左報道局”共は懲りずに洗脳ニュース番組を垂れ流しにする一方でありますのに、バラエティ番組だけは年々追いつめられていっておらぬか。フツウのバラエティ番組を視聴した後に、些細な事柄で苦情の電話をかけるようなのは、アタア・精神に病を抱えてある哀れな気狂いでありますのに、何故に斯かるモノに配慮致すのか。何故にそうした一部の廃棄物が淘汰されぬのか。媚び、諂い…まさかねぇ。全く原因の発生源が確認し難いが、おそらく、かなり確実に、編集者の思想、態度といったモノが愚劣なマイノリティーに呑み込まれてしまっています。
人権だの差別だの偏見だのと過剰にほざき立てる投棄物、ソレに対する有効な処分方法を一刻も早く見つけ出さねば、いずれ日本は腐敗物の惨禍で圧殺される。

2008年02月12日

2008年02月12日 焼け石に水

まずは前回の分の補足から。蛇足ではあるが。
果たして倖田來未の「羊水が腐る」発言で傷ついたモノがいるのであろうか。ココで重要なのは<倖田來未の発言>というコトでありまして、仮にコレが六大陸に響き渡るほどの名声を保持致す名医の口から飛び出したモノでしたら、事態はより騒然、而して悲哀、悲痛、嗚咽が咲き乱れても不思議ではあらぬ。だが、今回は倖田來未の言、倖田來未の如き○○○○○女の言、誰が斯様なモノを真に受けるのでしょうか、誰が斯かる発言に落胆し申し上げる被害妄想持ち的なモノの存在を推定できましょうか。ソレはベジータがリア・ディゾンと手を繋いでデートをするくらい考えられない。オープンカフェで西岡徳馬が綾瀬はるかに「ハ〜イ、アーンしてぇ」と言われて、イチゴチョコパフェを一緒に食べているくらい考えられない。森繁久彌が平成生まれの女とラブホテルに入って行くシーンくらい考えられない。マスコミの“自称”正義感、漂う。


さて、では前回の予告を消化せねばならぬ。
予想外に間隔の開きたる展開は何を物語るのか。すなわち…
約五年間愛用してきたiPodが愈々逝去致しましたので、コレはもう寿命であろう、やむを得ぬ、と一度は観念した私でしたが、果たしてそれでも最愛のモノを喪失したる以上、笑いながらもおられぬワケであって、従って過去五年間で最も路頭に迷いまして、失望し、やがては極限の自暴自棄になり、やけ酒とシンナーに浸り、挙げ句盗んだバイクで走り出し、夜の校舎 窓ガラス壊してまわり、その辺の女に声をかけ、きしむベッドの上で 優しさを持ちより きつく躰 抱きしめあい、そうして僕が僕であるために思い切って新しいiPodを購入した次第である。就活用に貯めておいたお金から泣く泣く差し引いた三万円。…オレは何をやってんだ。


iPod classiciPod classic 80GB。映像や写真などは入れぬから、80GBもあれば十分なり。現在、約40GB分の音源をぶち込んである。
先日まで使用しておったのは、随分古いモデルであった故に、ほぼモノクロ状態であったれば、今日のモデルは多彩な色合いでありまして、ジャケットまでキッチリと表示されてある。これじゃあ、CDを買ったのと同じようなもんじゃないか。感覚としては。益々CDの存在価値が疑われる時代である哉。どうなるレコードショップ!? 
あと、薄い、薄いのだ。板チョコかと思っちゃった。こんなにぺっちゃんこで80GB! MacBook Airの登場にも頷き。
それにしても“Cover Flow”なる機能は楽しいねー だから久しぶりにT.Rexを聴いている。マーク・ボランの声は歌以外には不向きな声、つまり歌をやらねば何をする、というコトになる。変態ギター。


しかしながら、難点も大いに存す。
ホイールの操作性が著しく劣等なのでした。そして全般的に動作が鈍い。関取だらけの徒競走か、と思うレベルでトロい。利点、欠点を相互に加味致した結果、コレは如何に見積もっても欠陥商品、欠陥モデルではないかしらん。
ネット上にも動作における問題が幾つか提示されてあるのを閲覧するに及び、やはり同様の感慨を抱きたるモノがいたコトを実感す。
―まぁ、まぁ、ただし使えぬコトはないのですから、ココは我慢であろう。
善し悪しに関しましては今後急展開を見せるかもしれぬから、まだ断言は避けたいトコロでございましたが、何か衝動的に言っちゃった。言っちゃった。先生に言っちゃった。


・・・じゃあ、今回はコレで。

2008年02月08日

2008年02月08日 感情の付随物

ホントに世知辛い世の中でござんしょ。
泣けば良いってモンでもあるまいに。沢尻にしろ倖田にしろ。涙は所詮<感情の付随物>に過ぎぬ。もしくは<感情の過剰演出効果>の機能を有する魔性の液体でありましょうか。
ココで、数年前のコトを持ち出してきて誠に恐縮ではありますが、何気なくテレビを見ておった折、ダウンタウンの松ちゃんが「女は泣けば許してもらえると思ってる」的なコトを申しておったのを思い出す。ソレは正しい。全面的かつ絶対的な正論ではありませんか。
そして、しかしながら、如何なる事態か、“世間”様は恐ろしく優柔不断の体であって、女の涙、殊に若き女の涙を前に致しますれば、まるでヘビに睨まれたカエル、トラと10メートルの距離で対峙してしまったシマウマ、定食屋で同僚と上司を罵っておったら、なんとその上司も同じ店におり、モノ凄い形相でコチラを見ていたコトに気付き、もはや万事休すの若手社員、放課後に教室内でスリルを楽しみながらオナニーをしていたら、その一部始終を映像に撮られていた哀れな男子生徒のその後、といった如く、一様に無力になってしまうのでした。コレではいけない。彼らは涙に涙以上の価値を―おそらく無意識の裡に―付与してしまっておるが故に、斯様な詐術に欺かれ続けるのであった。
涙に意味は無い。再度申す必要があるかもしれぬ。涙は所詮<感情の付随物>に過ぎないのです。而してヒトは意図してソレを付属させ得るコトも可能なのであります。


男が泣きながら釈明するのも、女が泣きながら釈明するのも、行為自体においては全き同一のモノであるはずなのに、何故にか、人々はソコに差異を生ぜしめる。笑止千万! 愚鈍にもホドがあるってモンですぜ。
例えば。仮にこういう想像を巡らしてみようではないですか。或る中年男性芸能人が問題発言をし、謝罪会見を開いた。彼は発言する。「わ、私の ふ、ふて、不適切な、は、は、はぁ発言問題につき、つきましてぇ、こ、此の度は、と、と当事者の、み、皆様方に た、た多大な、ご、ご、ご迷惑をお掛け致しましたことを、ふ、深く、お お詫び、・・申し上げます」斯かる具合に泣きながら会見をしてみなさい。コレを見ましたモノで、寛大なお心を有しまして、「よしよし。誰にでも過ちはあるもんです。そんなに泣く必要なんてありませんよ!」などと心中で思う輩が、果たして幾人ほどいるコトでございましょうか。この会見をご覧になりたるモノは、皆一様に、あらゆる逡巡を拒み、こう思うであろう。「バッカじゃないの? イイ歳したオッサンが何泣いてんの?」


問題発言に際して泣きながら謝罪したという一点におきましては、彼も、上述のお下品な女性芸能人共も、同様であるコトは疑い得ない。ココには何らの相違も存せぬ。(極言してみようか━━アレもコレも「バッカじゃないの?」で片付けるコトは可能だ。)テレビでしばしば見られる「涙の謝罪会見」なる大仰なモノには一文の価値もあらぬし、あってはならぬし、与えてもならぬ。ソコに涙があるか否かなどを気に致しますコトは、これ以上に無いってホドに徒労であります。仮に私共がそうした類の会見中に何かを求める必要があるとしますれば―そんな必要は十中八九無いのでしたが―、ソレはくだんの如く涙ではあらずして、<誠心誠意の心情>の有無ではないか。涙がソコに付属してくるか否かなどは二の次の問題に過ぎぬのであって、間違っても涙をバロメーターにしてはいけない。涙を流さないから反省しておらぬ、などとほざき立てる馬鹿野郎は、心の眼が潰れておって、表面的なコトでしか当人の心情を察せられないコトを暴露しちゃう劣等生物、コレに他ならぬのでありました。


次回予告:【iPodが壊れちゃった(実話)】の巻

2008年02月07日

2008年02月07日 希望の九割は幻想

どうも、突然ですが「おもちゃのチャチャチャ」の歌詞で、
「鉛の兵隊 トテチテタ」の部分を「生身の兵隊 取って付けた(なまみのへいたい とってつけた)」
と勘違いしていたモノですが。


ウソでした。


最近、このブログは、三流コラムニストの弟(ニート)が暇潰しで書いているヤツみたいになってきて、誠に申し訳ない。そりゃ、アレですよ、私は凄いコトを書こうと思えば、寝起きでも書けるんですが、才能の出し惜しみ、能ある鷹は爪を隠す、であります。
そうして爪の出し方を忘れるのです。


ところで二月は七日の午前、大いなる失意の底辺へと叩き落されてある。
およそX-JAPANのhideが死去した後に後追い自殺をした女の情緒が解せたような心持ち。詳しくは明日にでも。
残念ながら自殺は ま だ しません。小説書いて、ノーベル文学賞でも獲得すれば、自殺致そう。


オレは、川端康成か!


三流コラムニストの弟(ニート)でした。

2008年02月06日

2008年02月06日 あそび

冬、我が破戒的心境。
こゝろは限りなく透明に近いブルーであるのですが、太陽の季節を目指してダンス・ダンス・ダンス。痴人の愛も忘却し、父からの大いなる遺産は風と共に去りぬ。そして誰もいなくなったのであった。
このままでは人間失格、新生を期して、それから、日はまた昇るコトを願おうとしています。
無限の罪と罰を抱きつつも、夜明け前にささめごとを…
或る女のみだれ髪を遠目で見ながら、ふと外をみる。人でなしの恋の影、車輪の下にある一握の砂、薄れゆく月に吠える犬、友情の欠片、黒い雨という幻影、日々の焦燥感。
悲しみよこんにちは。終わりよければ全てよし。真実一路を欲す。
所詮このブログは或阿呆の一生の生態録に過ぎず。冷笑を伴うソレは処女懐胎の如き白痴的現象。斯くなる上はもはや沈黙するのみ。嗚呼
結論が出た。すなわち鬼平犯科帳。


ハイ、…そういうワケで、有名小説のタイトルを組み込んだだけでして・・・ 全部で34作品。暇なら探してみて下さい。

2008年02月05日

2008年02月05日 生涯の伴侶にでも

『アメリカの民主政治』トクヴィルの『アメリカの民主政治』ほど、想像、記憶、確認、思索の飛躍等の感覚を展開させてくれる書物は希有。20代後半から30代半ばで斯様な大著を著したとは、恐るべき炯眼でございます。視力検査で喩えてしまうなら、彼の眼は45.0くらいではなかろうか。
ところで、この時のトクヴィルからは能動的な意思を少なからず感ずるのでした。彼は「平等」がもたらすその害悪を、“民主主義”下の民衆が各個支離滅裂に解体されるも、やがて各自の無力ゆえに或る強大な権力の内へとそぞろに集ってくるであろうって展開の果てに、終局、「独裁」が立ちはだかるという点に結びつけ指摘したのであったが、其処に絶望感は込められてない。そうして、以上の事柄は今日においても看過し得ない問題であることは申すまでもありません。
この崇高なる超人的予言者が世に警告を放ちて、既に170年ほどが経過したのであったが、今、ココに繰り広げられる情勢は、何を告げ、何を明らかにしておるのか。トクヴィルの炯眼がもたらした課題は、益々逼迫した様相を呈して、アチラコチラに散見されてはいないか。


『アメリカの民主政治』という一つの書物は、21世紀を迎えた今においてこそ、研究者の中でライフワークとして追求されるべき価値を十二分に包含していますように思われましてなりません。果たして如何程の重要事項が本書の中に提示されてあるか。莫大すぎて途方に暮れましょう。私だって知力と気力と財力と時間さえ存しておれば、この書物を20年30年かけて研究したいもんである。フーリエやサン・シモンの研究なぞは衰退しても一向に構わんけれども、トクヴィル研究は一層向上されんコトを願わずにおれない。


というワケで、我が雑念放出完了。
講談社学術文庫版の翻訳は決して芳しくございませぬが、今のところ日本語に完訳されておるのはコレしかあらぬので、私のように外国語に弱い日本人は誠に不遇でありますが、コレを選び取るしかないのであった。数年前に岩波からも出版されてあるが、コッチは依然として半身浴の状態。早く全身浸かれますことをお祈り致しておるのです。
そんなこんなで『アメリカの民主政治』は必読だっちゃ。

2008年02月03日

2008年02月03日 スルメ

The only thing necessary for the triumph of evil is for good men to do nothing.【Edmund Burke】
―有徳者の怠惰は有害な輩を凱旋へと導く。(私による意訳)


When you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth. 【Sherlock Holmes】
―あり得ないコトを切り捨てていって、終に残ったものが、絶対的真実なのさ。例えソレが如何に奇想天外なモノだとしても、ね。(私による意訳)
シャーロック・ホームズの名言。時代の故だろうか、コナン・ドイルの綴る英文はカッコ良く思われるのです。


そういうワケで、今日の日本は民主党の小沢一郎や自民党の山崎拓、河野洋平、古賀誠、社民党の福島瑞穂の如き売国政治家・売国政党どもの跳梁跋扈により、愈々残すトコロ半世紀以内には国力衰退し、アジア圏内においても中国やインドに凌駕され、三流経済国へと華麗に転落する可能性が濃厚ではあらぬか。加えるに人々の精神も益々堕落し続けてゆく様相を呈しまして、病状は甚だ末期的のように看取せらる。二十一世紀に日本に生を受けし者は、さしずめタイタニック号の乗客の如く皮相的装飾に欺かれて大いなる安逸に浸っておるうちに、その<小さな巨船>とともに身を海中深く没す運命に置かれてあるコトはもはや疑い得ない。
曰く、数十年後に確実に訪れるであろう真実の石油危機、中国による過剰なる地下水汲上げの結果生ずる大規模な著しき水争奪戦、森林伐採・地球温暖化・オゾン層の破壊、中国の軍事的脅威及び環境汚染並びに食物テロ等による生命への夥しき脅迫、留まるトコロを知らぬ人口増加による慢性的食料危機、それに拍車をかける日本の食料自給率の惨状・・・
斯かる現状を眼前に見出したる今、ココで私は以下の憂国的警告を放たざるを得ない。本日は真に政治的憂慮を臆するコトなく吐露するのであった。


〽赤道ギニアはイイ国、赤道直下のギニア湾に面する共和国
年間平均気温は26℃くらいだよ
宗教は、キリスト教。言語は、な、な、なんとスペイン語!
さぁ 皆さん、寄ってらっしゃい!見てらっしゃい! 新婚旅行・家族旅行・社員旅行は赤道ギニアで決まり〜

2008年02月02日

2008年02月02日 全然甘党ではないのに。

我輩はチョコレートが好きである。食べ過ぎて鼻血を出したコトはまだ無い。
今日もコンビニでチョコレートを買おうとして気付いたのであったが、もはやそろそろバレンタインデーと云う名の菓子メーカーによる策略日が迫り来っています。斯様な頃合いに、男が単独ではチョコレートを購入し辛いように思われるのは、果てして私の思い込み、考え過ぎであろうか。
私の想念。レジにて。レジの女の心中。「ああ、コイツは誰からもチョコレートを貰えないから、自分で買い上げることで気を紛らわそうとしているな(失笑+嘲笑)」
やかましい。大きなお世話だ。こちとら一年中買っとるわい。
以上のような夢想的葛藤をしながらですが、何故に私が気まずい思いでチョコレートを買わねばならぬか、またはコノ期間だけ購入を見送らねばならぬか?
私の想念其の弐。レジにて。レジの女の心中。「ああ、コイツは誰からもチョコレートを貰えないから、自分で買い上げることで気を紛らわそうとしているな(失笑+嘲笑)」
ソレに対する私の内心における反論。「違うのよ。ボクは渡す方なの。だから一杯チョコレートを買ってあげるの。ユウくんにケンくんにタッちゃんにジュンくんに…」
コレは悪くありません。ホモであるという重大な一点を除いては。


チョコレートには甘さの魅力がある。従って甘くないチョコレートは偽物である。同様にカレーには辛さの魅力がある。従って辛みの存せぬカレーはその時点で失格である。同様に餃子には有毒物質混入の危惧がある。従って毒が混入されておらぬ餃子は、美味しい。満員電車には痴漢がつきものである。従って痴漢に遭遇したコトのない女は、客観的に見てブサイクであると思え。


最後に一つだけ補助しておきますと、私は全然甘党ではない。全然甘党ではない。


※本日の内容は、チョコレートを買った折に一瞬で思いついたモノです。ソレをホントに文字にしてしまうほどの暇さ具合! 嗤え。

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