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2008年03月31日

2008年03月31日 見せかけの花束はいらない

古明地洋哉物心ついた時分から暗いモノが好きであった。


暗い詩
暗い物語
暗い文章
暗い絵
暗いオチのコント
そして、暗い音楽


そういったものを好んで受容してきた。それは今でも変わらない。
「孤独」という言葉に、特に強く惹かれた。―惹かれている。
其処に何が存するのか、何が見えるのか、何を想えるのか、何を感ずるのか…それは結局いつまでも知る由のないことなのかもしれない。それでも、己の中の何かがそれへの共鳴を続けるのであった。


古明地洋哉は「孤独」を表現する音楽家と言って良いと思う。いや、むしろ、彼の場合はそうするより他に自らを具象化する術を知らなかったのではないかとさえ感じさせる切実さを伴う。彼は、真摯に、日々と、世界と、そして自分自身と対峙することで、そこに根を据え付けているはずの「孤独」を隠匿する行いを絶対的に拒むに至ったのだ。それを抜きにして己の感情を表現することに、どうしようもない欺瞞を感じ取ったのであろう。故に、それを歌にした。
古明地の綴る詩は、他人が敢えて振り払おうとするものを、換言すれば、見て見ぬ振りをしようとするところのものを抉り取って、人々の眼前へと曝け出すような、そうした<攻撃的>な面すらを包含する。だが、而して、そこにこそ偽りなき表現者【アーティスト】としての天分の才を垣間見れるのだ。


古明地洋哉は、十年後、二十年後にも確実に裏切られぬことのないであろう心象を果敢に具現化する音楽家なのである。(どうしても文章にして残しておきたい感慨があった。彼の魅力が少しでも伝わることを祈りつつ…)

2008年03月30日

2008年03月30日 浅学非才以下の以下

無念にも喫煙者の前には「taspo」なるモノが立ちはだかるのだという。誠に面倒ではありませぬか。頭が悪い。喫煙者だけではあらず、ソレを取り巻く連中までもが低知能でした。斯様なモノに何の効果があるのかしらん。私が未成年の喫煙者ならば、平気な顔をしてコンビニで購入致しまっせ。何と浅薄な策略!頭隠して尻隠さずへ近似する稚拙ぶり。愚劣、愚の骨頂。
当方、タバコを敬遠している故に「taspo」について深くは自覚しておらぬが、こんなアホみたいなモノにも、ただでさえ乏しい日本国家のお金が用いられておるのではないか。そして斯くなるモノを運営及び管理致す団体のようなモノがあるのか否かは知らんが、兎に角その裏には胡散臭さが漂いまくっております。もしかしたらココまで見事に下衆な代物に関わらねばならぬのは、どーしょーもない喫煙者へのペナルティではなかろうか。邪推御免。嗤っちゃいますね。全く。マナーへの配慮が欠け、近所でも評判の悪い下品な私立高校の生徒どもでも、斯かる具合に存在理由の曖昧なモノを世に流通させようとは思わぬはず。
幾ら頭悪き喫煙者といえでも、さすがにコレには挙って反対の意を示さなければならぬように思うのです。さもなければどんどん<大きな組織>の思う壷になっていってしまう。身の危険が迫り来る前に、気狂いは殺害せねばならぬ―比喩的な意味で。
笑ってる場合じゃないですよ。ま、私は喫煙せぬので、嗤ってますけども…

2008年03月26日

2008年03月26日 孫がしてくれる肩叩き

今朝、お外でオバサン同士の妙な会話を聞いた。
オバサンA「今日、寒いなぁ」
オバサンB「ホント。もっと夏かと思ったんだけどなー」


言わんとするコトは解せる。だが、極論過ぎるのだ。オバサンBの宣う「夏」=「暖かい」コトを指すのであろうが、そうすると畢竟この熟女にとりて気候を表すコトバは「夏」と「冬」しか存せぬのかもしれぬ。とても寒い場合は「今日は冬過ぎるね」になり、逆に暑過ぎる時は「今日は夏過ぎるわ」となるのでありましょう。また、冬なのに予想以上に気温が高かった場合は「冬なのに何でこんなに夏なんでしょう!」と言ってしまうのであろう。
もしもオバサンBにとってこの世で最も美味しい食べ物が<オムライス>だったとすれば、次のような事態が推測可能なのです。すなわち近所に美味しいと評判の寿司屋がオープン致したので赴いてみたのだったが、その店は思っていた程に美味ではなかった。そこでオバサンBは斯く申すだろう。「美味しいって聞いてたのに、ココのお寿司は全然オムライスじゃないね」 こうなるともはや理解不能である。寿司がオムライスであらぬコトなどは百も承知なのでしたが、それでもこのオバサンの“理屈上”そうならざるを得ないのだから仕方ないのであります。
または次のような奇怪な光景にも出会すかもしれぬ。オバサンBが地球上に現存致しますモノで最も尖っていると思慮する対象が<12〜16歳くらいの男子中学生>だったならば…或る日オバサンBが裁縫をしようと針を取り出したのであるが、使い古したモノであった故に先端が欠けており、上手い具合に縫うコトが出来なかった。そこでオバサンBはその針に対して「この針先はもう傷んでしもうて、全然12〜16歳くらいの男子中学生やあらへん」と言う。完全に頭のオカシイ輩ですが、コレもそうなってしまうのだから仕方ないのです。
もう一歩踏み出せば、オバサンBの意識下において最高に気持ちイイと格付けされてあるコトが<孫がしてくれる肩叩き>であったならば…夜の生活の最中にあっても、「ああぁ〜、孫がしてくれる肩叩きィイぃぃ〜、イクぅ〜」 ・・・もうこの辺にしておきましょうではないか。

2008年03月25日

2008年03月25日 大相撲春場所感想08

いと暑し。
扇風機を出そうかしらん、と本気で思った今日。もう嫌になる。春から夏にかけてくたばれ! 秋から冬の冷ややかさをちょっとは見習え。


Vでも…内館委員が朝青龍切り捨てた!


内館委員は優勝直後のガッツポーズ、「死ね」発言騒動で「誰が言ったんや」と“釈明”した言い回しを例に挙げて追及。「強くて優勝したからといって(品格問題を)水に流していいのか」とクギを刺した。


さらに、力士の教育システムを再構築することを提唱。「新十両、新入幕、新三役など、段階ごとに教え続けた方がいい」と訴えた。協会側は師匠を通じた教育で十分としたが、内館委員は「では、今後は大丈夫なんですね」と、しつこく食い下がったという。


この頭の狂った婆サンを表に出してはならぬのではないか。もういい加減にして頂きたくお願い申し上げる。そして朝青龍には、この老人が生存する限り勝ち続け、優勝し続けて欲しいのです。
遅れたけど、朝青龍が優勝して私は喜んだ。今場所はトータルで見て両横綱ともに万全ではなかったと思うのだけれども、それでも千秋楽は状態の差が生んだ結果だったのではあらぬかと感じた。朝青龍は序盤完璧であったが、中盤から終盤にかけて徐々に崩れて行ったような具合で、その極みが琴奨菊と琴光喜に喫した連敗、だがその後の二番を持ち堪えたのはやはり経験の故であろうか。対する白鵬は、不安定な状態が続いておったが、安易に申すと底力が通常のモノとは異なるから勝てる。でも、最後はちょっと焦ったのでありましょうか。


まぁ、いろいろあるコトと思うけれど、夏場所が楽しみになりました。
朝青龍は、復帰後一度優勝したことで漸く落ち着いたのではないか。そして白鵬も来場所は願わくば本調子の相撲を取って、また先場所・今場所のような千秋楽を見たいではありませぬか。期待をして擱筆。

2008年03月20日

2008年03月20日 二つの家

まったく横綱には驚かされる。
四年数ヶ月ぶりに両横綱が立て続けに黒星。
白鵬も朝青龍もわざと観客を驚かしたんじゃないだろうかって具合。朝青龍に関しては完璧なる敗北であった故、アレは演出ではあらぬかと疑いたくもなるってモンでっせ。
白鵬がまんまと千代大海にしてやられた時は、ああ、これで朝青龍の全勝優勝も見えたか、と思ったのでしたけれど、まさかまさかー、また分からぬようになってしもうた。


さて、現在、金八の最終回を見ておるのですが、このシリーズを見るのは本日が最初で最後というコトになりましょうが、相変わらず安直な“ヒューマニズム”の総まとめが展開されている。いつも同じコトをやっているではないか!しかも今回は一時間の通常タイムでやらねばならぬからキツイ。そりゃ毎度毎度同じようなコトばっかりやっておっては、最終回のSPも無くなるってモンでっせ。
単純なるヒューマニズムなど毛頭重要ではない。一度ヒューマニズムに裏切られたトコロからの再出発にこそ現実味や真実味を帯びた本当に大切なモノが包含されてあると思うのでしたが、果たして斯様な考えは誤謬で、相手にされぬのでありましょうか。―金八には表しか存せぬのです。表がキレイでも骨組みが腐っておる住宅というモノはあろう。他方、表の見栄えは良くなくとも、骨組みが非常に丈夫で、大地震でも崩壊せぬ家というモノがあろう。どちらを選ぶかはお好きになさい。いざとなった折にいずれの側にメリットがあるか、ソレは敢えて申しませぬけれども…

2008年03月17日

2008年03月17日 最低

所々イヤらしいしりとりをしよう!


イヤらしい→医者→社会の窓→弩級→窮屈→突く→繰り返し→下ネタ→多量→浮気→騎乗位→イマラチオ→オーガズム→無理強い→イマラチオ→オーガズム→ムラムラ→ラブラブ→部室内→イマラチオ→オーガズム→無性にヤリたい→イマラチオ→オーガズム→昔から彼女とヤリたい→イマラチオ→オーガズム→ムッチャヤリたい→磯野ワカメ、と

2008年03月16日

2008年03月16日 内外のデタラメ

さりげなくではあるがトップページに何となく注目を集めておるらしいTwitterを導入してみたのであったが、一体何を書き続ければ良いのか迷う。こんなコトを書いているのでした。


数年ほど前から先日まで、自宅のすぐ近く(およそ50メートルほどの距離)に高架線路が建設されておりましたのですが、何と昨日からソコを電車が本格的に走り出した。新しい路線が開通したとのコト。さすがに田舎のソレではあらぬので、昼間は5分に一度くらいの割合でカァガァーーーーガラゴラガーと電車が通過する次第でして、通過する時間は短いが、一瞬だけテレビの音が聞こえなくなったりするので、誠に残念です。まぁ、ある程度離れたトコロに線路が建造されただけでも良いとしよう。アレがもし自宅の裏なら私は既にノイローゼになっているかもしらん。


「アイツの日記」を書き出してからというもの、コッチの方のブログはどーでもいーと少しだけ思い始めておる。なんたって「アイツ」は馬鹿なんだから。毎日がオカシイ。昨日(3月15日)のヤツは大して面白くもないが、今日(3月16日)のはオカシイ。やはり「アイツ」は単なる馬鹿だ。ちなみに私は「ライフ・イズ・ビューティフル」を一度も見たことがありませぬ。
特技はデタラメ。

2008年03月14日

2008年03月14日 書き出しが「恋」って…

恋、と書いたら、あと、書けなくなった。


太宰治はユニークである。
普通、書き出しでまず「恋」とは書かぬ。書くにしてもその後に何かを継ぎ足そうとして書きはせぬ。本来、「恋」は単に「恋」と書き付けるだけで完結してしまいそうなモノです。所謂自己確認。然るに、この乙女は「恋」と書いて、更にその後に何かを綴ろうとしてあったのでした。なんという貪欲さ! まだ言葉を欲するか! そうして斯かる展開で(当然の如く)行き詰まったコトをさも無念そうに受け取っておるのだから、その時点で、それだけで十分「斜陽」なのである。


そもそも「恋」から始まる文面はあまりに単刀直入及び無思慮かつ無分別でありまして、詰まるトコロ芸当が無さ過ぎて宜しくはない、と思うのです。
「恋」の後に何が続く? 何を持って来たい? それ以上に欲するモノとは?
「恋」は、冒頭の文句ではあらぬ。むしろ終盤の文句なのでございます。
一度終盤で遣っておいてから、機が熟するのを待ちて冒頭に用いるというのはアリかもしれぬが、いきなり頭に引っ張り出して来るってのは、ちょっと芳しくないのではありますまいか。
だから、一目惚れってのは冷める時には急激に冷めちゃうんだろう。なぜなら、ソレは序盤が存するのみで中盤から終盤にかけての過程が全く欠落しております、著しき未完状態なのであるから。


ああ、いけない、不似合いなコトを申しまくった。


両横綱の立ち合いが危なっかしい。
コレを今日か明日に発言しようと思っておったのだけど、今日言った次第なのでした。

2008年03月12日

2008年03月12日 日記はじめました2

強さが存するから弱さが露呈するのか。
美しさが存するから醜さが露呈するのか。
優しさが存するから冷酷さが露呈するのか。
面白さが存するからつまらなさが露呈するのか。


弱さが存するから強さが際立つのか。
醜さが存するから美しさが際立つのか。
冷酷さが存するから優しさが際立つのか。
つまらなさが存するから面白さが際立つのか。


どっちが露呈している? どっちが際立っている? どちらとも姿を見せていない?
際立つものがあれば、「愛」について、その核心に近づけそうな気がした。


ってコトを「アイツの日記」に書こうかと思ったけど、曖昧な内容だから止めにした。 ええ、再度報告ですとも。日記はじめました。(フィクション)

2008年03月09日

2008年03月09日 凸凹と相撲

上村愛子サンがモーグルの何かで総合優勝とかそういうのを達成したと云う。私は彼女が好きなのでしたが、そのワケは、あの驚くべき純粋な雰囲気なのであった。彼女と比較的同世代のモノ、すなわち私を含めて昨今の20代のモノなんてのは大抵曖昧な存在―自動車のギアで申せば二速―なのだが、それに対するに、未だかつて私は彼女よりひたむきかつ純粋に前を見つめて日々を生き抜いておるモノを、ほとんど知らぬ。


大相撲が始まる。浪速にて。
朝青龍に頑張って欲しいのですが、白鵬もやりよる。
それ以外の連中は、頑張ったようでも結局は優勝争いに絡まずに、絡まなさそうで絡んで、でも遂には振り落とされるといった毎度のパターンだろうから、やはり相変わらずの二強状態。
いつも横綱ではない他の連中に期待するのだけど、最近はずーーーと裏切られておるような感覚。相手から猛アタックを受けて交際し始めたのに、付き合ってから二ヶ月目くらいで浮気されて「アンタもういい」と捨てられるような感覚。否、むしろこの場合は捨てる方か!?


難波まで行ったてもええねんけど、チケット高いしなー。
四国出身のモノにとって関西弁を吸収するコトなぞは、ムツゴロウさんが牛の小便を一気飲みするくらいに朝飯前ですわ。
まぁ、ワシもぎょうさんやるコトあるさかいに、行きとうてもよう行かれへんわ。 今時こんなベタベタな関西弁を遣う輩は“一部の”年配者を除いては存在せぬであろう。(←コレは政治的に考察してみれば、かなり重要な問題が包含されておるのではないかしらん)

2008年03月08日

2008年03月08日 日記はじめました

新たなブログを制作致した。というより、コレは個人的な日記でしたが。


アイツの日記〜窓際に置かれた水仙花〜


誠に適当かつシンプルであって、更に相当キモチ悪い外観のサイトである。
思いついてから四時間程度で作り上げたのでしたが、今となってはこうするより他に道は無かったであろう、と固く信じておる具合なのです。


現実と虚構を織り交ぜた、意味の分からない文章を綴りたくなったので、斯様に陳腐なモノを立ち上げてみたのだが、果たして「日記」というコトでコメントもトラバも遮り、極力無駄を省いたプライベート空間を演出したのでございまして、果たして「日記」というコトで毎日何かしらのモノは残していきたく考えている次第。


コンセプトは「意味分からんけど、コイツはもう放っとけ」です。そうでありますから、「意味分からん。死ね」とでも思ってくれれば、もうアナタの意図は翻って我が掌中にあるも同然…!?

2008年03月06日

2008年03月06日 シジマールGT

テレビなどで映る度に思っておったのでしたが、都庁のビルはデカイ。あんなにデカイ必要があるのだろうか。幾ら都庁舎とはいえ、もう少しコンパクトにまとめ上げるコトはできなかったのでしょうか。大阪府警の本部も最近新しいのが建設されましたが、コレもやたらとデカイ。同様に大阪の阿倍野には近鉄百貨店が新たなビルを建築するそうであって、コレが完成されれば日本一の高さを誇る強大なモノになるのだと云う。何故斯くも大を求むるか。「大」阪だけに大を好・・・


そうして関西方面には九日から始まる大相撲春場所のため、お相撲さんが大挙して訪れている。先日もソッチ方面に向かうと、或る駅のホームで数人の若手力士グループが女子高生かと見紛うほど無邪気に、能天気に「キャッキャ」騒ぎ立てておりました。ありゃそれほど芳しくはない。おそらく十両以下の者たちだろうが、当分大銀杏が結えそうな気配はない。


このブログ、ちょくちょく漫画のコトなどを記し上げているのでございますが、そのうち井上雄彦サンの「リアル」について書いてみたいと思いつつ、おそらく一年以上が経過している。なんだかんだでもう七巻が出ておる。
今年中には何か綴るコトができればイイなー。

2008年03月01日

2008年03月01日 <すべてを投げ放つ>映画

大日本人一周遅れて「大日本人」を鑑賞した。DVDで。
映画に関しての見聞なぞ全くゼロな私であるから、従って何も専門的なコトは申せぬワケでありまして、よって「映画の質として云々」といった評論家まがいの発言はこの際断じて斥けねばならぬし、また他の映画との比較を以て、その表現技法についてアレやコレやと言い立てるコトなどハナから不可能。そうして、感じたコトをほんの少しばかり書いてみただけなのさ。


まず、一通り見た感想として、無気味なほど爽快な映画だと思った。「革新的な」との文句を付け加えるべきか否かは知らん。ただ、単純にコレは面白い映像表現。
前半の、淡々として独特の間で展開されるインタビュー。ここに物語の核心を担う伏線が存するのかと思っておったのだけれども、完全にそうであるとは言い切れないような感覚。何だソレ、的なやり取りの応酬。その合間に挿入される小ネタ的描写に「VISUALBUM」に適用されてあったものを想起致すのだが、かと言って完全に笑いをとりにきているとは思えないようなところもあり、些か訝しくもなる。―これは後になって明らかになるように(私には)思えたのですが、この部分全体が終わりに向けての壮大な仕掛け(“前フリ”)なのではないだろうか。未だハッキリとしたことは分からないのでしたが。
序盤に或る緊張感をまず持って来ておいて、つまり物語に荘重なる空気を漂わせておく。これが後になって効いてくる。…依然として一度見ただけでしたが、何となくそんな気がしておるのであった。


中盤。この辺に関しては、海原はるかと竹内力があのような状態で登場してくるコトが異常に面白かった、と申すに留めておいて、終盤とラストの急展開。
ここでは(特にクライマックス)世界における日本及び日本人の政治的な態度、情勢を皮肉るような意図を十二分に読み取ることができるのでありまして、その意味では相当ストレートな表現(アメリカの背後にいる日本、凶暴なるアメリカ)もあるのですが、まー、ココは賛否が大きく別れそうな点なのでこの場では放置するが、兎に角愉快なのは、この部分で一気に前半の緊張感を忘却させるほどの緩みを描いておるというコトなのだ。これが誠に爽快! (これまで結構厳格にやってきた)前半部分のフリに或る種の風刺を交えて一気に解消。いやいや、この場合はむしろ<すべてを投げ放つ>と称した方が適切かもしらん。一気に状況が転換す。突如として“大日本人”(“大佐藤”)の世界が放擲され、現るのは文字通り果てしのない“スーパージャスティス”の世界(=アメリカの世界)。そこにおいて“大日本人”(“大佐藤”)は全くなす術がない。あれほど巨大であった存在が矮小化され、従来の戦慄は単なる不甲斐なさへと化ければ、而して嗤われる“大日本人”、嗤う日本人、自虐。
あの転換がなければ、この種の“嗤い”は成立し難いのかもしれません。


━━━孤独、強がり、楽観、強情、諦観、卑屈、猜疑心、無責任…それらの陰にある尊慕、思いやり、慈しみ。
一方を嫌悪して一方を希求する感情はありきたりなモノだが、果たしてソレで何が解決されようか。そうしたモノの複合体としての一個の生命を如何に処遇していくかが、我々には問われているのではありますまいか。この点を見落として、いわば理想郷としての己‘のみ’を途方も無い不確実性の中で模索していくコト、ソレって滑稽じゃないかい? 結局その先にあるのは、身勝手な誤解やそれに基づく自己認識能力の不具合、二律背反、挙げ句、責任転嫁や他力本願じゃないでしょうか。━━━
そこを思い切って突けば出てくる嗤い、笑いがある。


松本人志という芸人は、その世界の中で「建築・破壊」という行為をシュールに用いて笑いを創造するヒトというイメージがあるのだが(「壊す」作業は笑いを生むのではなかろうか)、「大日本人」ではそれがかなり明瞭になっておったと感ずる。本作は「松本人志の作品」ということを念頭に置いてみますと、相当見易いように作られてあると実感しましたが、果たして…


あと、猫のウロウロと「スーパージャスティスの父」の(パンツとの)奮闘は、率直に面白いのです。

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