« 四年一度なのに… | もどる | シジマールGT »

2008年03月01日 <すべてを投げ放つ>映画

大日本人一周遅れて「大日本人」を鑑賞した。DVDで。
映画に関しての見聞なぞ全くゼロな私であるから、従って何も専門的なコトは申せぬワケでありまして、よって「映画の質として云々」といった評論家まがいの発言はこの際断じて斥けねばならぬし、また他の映画との比較を以て、その表現技法についてアレやコレやと言い立てるコトなどハナから不可能。そうして、感じたコトをほんの少しばかり書いてみただけなのさ。


まず、一通り見た感想として、無気味なほど爽快な映画だと思った。「革新的な」との文句を付け加えるべきか否かは知らん。ただ、単純にコレは面白い映像表現。
前半の、淡々として独特の間で展開されるインタビュー。ここに物語の核心を担う伏線が存するのかと思っておったのだけれども、完全にそうであるとは言い切れないような感覚。何だソレ、的なやり取りの応酬。その合間に挿入される小ネタ的描写に「VISUALBUM」に適用されてあったものを想起致すのだが、かと言って完全に笑いをとりにきているとは思えないようなところもあり、些か訝しくもなる。―これは後になって明らかになるように(私には)思えたのですが、この部分全体が終わりに向けての壮大な仕掛け(“前フリ”)なのではないだろうか。未だハッキリとしたことは分からないのでしたが。
序盤に或る緊張感をまず持って来ておいて、つまり物語に荘重なる空気を漂わせておく。これが後になって効いてくる。…依然として一度見ただけでしたが、何となくそんな気がしておるのであった。


中盤。この辺に関しては、海原はるかと竹内力があのような状態で登場してくるコトが異常に面白かった、と申すに留めておいて、終盤とラストの急展開。
ここでは(特にクライマックス)世界における日本及び日本人の政治的な態度、情勢を皮肉るような意図を十二分に読み取ることができるのでありまして、その意味では相当ストレートな表現(アメリカの背後にいる日本、凶暴なるアメリカ)もあるのですが、まー、ココは賛否が大きく別れそうな点なのでこの場では放置するが、兎に角愉快なのは、この部分で一気に前半の緊張感を忘却させるほどの緩みを描いておるというコトなのだ。これが誠に爽快! (これまで結構厳格にやってきた)前半部分のフリに或る種の風刺を交えて一気に解消。いやいや、この場合はむしろ<すべてを投げ放つ>と称した方が適切かもしらん。一気に状況が転換す。突如として“大日本人”(“大佐藤”)の世界が放擲され、現るのは文字通り果てしのない“スーパージャスティス”の世界(=アメリカの世界)。そこにおいて“大日本人”(“大佐藤”)は全くなす術がない。あれほど巨大であった存在が矮小化され、従来の戦慄は単なる不甲斐なさへと化ければ、而して嗤われる“大日本人”、嗤う日本人、自虐。
あの転換がなければ、この種の“嗤い”は成立し難いのかもしれません。


━━━孤独、強がり、楽観、強情、諦観、卑屈、猜疑心、無責任…それらの陰にある尊慕、思いやり、慈しみ。
一方を嫌悪して一方を希求する感情はありきたりなモノだが、果たしてソレで何が解決されようか。そうしたモノの複合体としての一個の生命を如何に処遇していくかが、我々には問われているのではありますまいか。この点を見落として、いわば理想郷としての己‘のみ’を途方も無い不確実性の中で模索していくコト、ソレって滑稽じゃないかい? 結局その先にあるのは、身勝手な誤解やそれに基づく自己認識能力の不具合、二律背反、挙げ句、責任転嫁や他力本願じゃないでしょうか。━━━
そこを思い切って突けば出てくる嗤い、笑いがある。


松本人志という芸人は、その世界の中で「建築・破壊」という行為をシュールに用いて笑いを創造するヒトというイメージがあるのだが(「壊す」作業は笑いを生むのではなかろうか)、「大日本人」ではそれがかなり明瞭になっておったと感ずる。本作は「松本人志の作品」ということを念頭に置いてみますと、相当見易いように作られてあると実感しましたが、果たして…


あと、猫のウロウロと「スーパージャスティスの父」の(パンツとの)奮闘は、率直に面白いのです。

« 四年一度なのに… | もどる | シジマールGT »