« 2008年03月 | もどる | 2008年05月 »

2008年04月30日

2008年04月30日 未だ静閑成らず

ガソリンの値上げ。元来有限の物質である以上、いずれ底をつくのは分かり切っておるはず。ソレを承知の上で今日未明まで恩恵に与ってきてあるというコト、然るに値上げに際して文句の垂れ流し、民衆の傲慢さ!? ココに極まれり、である哉。なんてね、ル・ボンの『群集心理』を黙読致しておりましたら、斯かる一節が字にはならず空漠として脳内を徘徊するのでありましたから、敢えて文字に起こしてみた次第。
それでは…オアトガゼンゼンヨロシクナイヨウデ。

2008年04月28日

2008年04月28日 悪鬼的土曜日

「キーチvs」1巻「RIN」3巻先週の土曜、26日は或る意味で凄い日であった。
「キーチVS」1巻
「RIN」3巻
新井英樹漫画が二作同時発売なんて! 斯様な事態は、私の胸の裡をゲーム好きのソレに適合致しますれば、すなわちFFとDQが同時発売されるようなモノであって、また一部のお笑い好きのソレに適合致しますれば、バッファロー吾郎と野性爆弾がいいとも!のレギュラーに抜擢されるくらいの珍事なのでありますが…後者は蛇足なのだった。


この作品は 明るく楽しい漫画ではありません。新井英樹の漫画ですから、気をつけて読んでください。内容はというと、主人公キーチが世の中の不快なものと闘う話です。正義や平和を求めて闘ったりしません。あしからず。


「キーチVS」のカバーに斯かる文句が記し上げられておった。どういうコトじゃ。珍奇過ぎる、逆説的な発想…受け手にそう思わせようと意図してはおらぬはず、だが。自ずから一歩引いて、相手を一歩コチラ側に誘い込む手段であるか!?
ところで、と言うより、しかし、「明るく楽しい漫画ではありません」と出版社側が申しておるのが裏目に出たか否かは知らぬけれども、店先扱いは芳しくないようであります。店頭で買い求めます分には些細な苦労を要すかもしれん。―これは私の勝手な註釈なのだった。コレも蛇足なのだった。
内容については触らぬ神に祟りなし的なコトもあろうから、前編「キーチ」がより巨視的に、熱狂的に民の支持を得ておるような具合であって、一体ドコまでハナシを拡げて行くのであろうか、ってコトを述べるに留めておきたいのです。依然として現状は導入段階であろうから、まだ迂闊に言を弄ぶワケにはいきますまい、寄りの状態。


「RIN」の方も多言を要せず、ぶっ飛んだボクシング漫画が存するのですから、是非「百聞は一見に如かず」を贈呈する。
…ボギャブラリーが崩壊しかけておるのでしたが、こうなるのは無理な文体の背後に去来する悪鬼的な輩の呪いなのでごいざいます。そうして当方の見解の披瀝を許容して頂けるのでありましたらば、「新井英樹の漫画ですから、気をつけて読んでください。」との概説が相応しいのは、専らコチラ「RIN」の方でして―ソレは縦横無尽、エキセントリックに貪欲過ぎな描写に驚愕せしめられるから。ああきて、こうきて、そうきた後に千代に(が)イクなんて。 ソコに加えるに中尾、1R終了間際、首を振っているシーン、これなぞは天才の慧眼だろうか、彼は最高のキャラでありましょう。
ええ、でも此の先再度一年間の待機を強要されれば、すなわち4巻はまた来年の春である由、異常にサディスティック、サディスティックな春、略してSS(Sadistic Spring)、「ダブルエス」と称し度く存じ上げます。


…わざと支離滅裂な文章を書いているワケではないんです。自然の流れの中で、今回はこうしたモノになってしまったのであるから、コレは不可抗力としか申せませぬ。故に手直しも不可能。ただ、存外、こうであっても、それなりに最低限度のモノの伝達は達成できておると思う次第なのでした。以上を以て書き終わり。

2008年04月27日

2008年04月27日 ブス:美人=失敗:成功

Movable Type4.1をこのサーバー上にインストール致したので、さぁこれからカスタマイズをしてサイトを一新するぞ!と思ったのでしたが、4.1においてはシステムが相当な変化を遂げておるような具合、カスタマイズをする方途は半分理解できて半分チンプンカンプンの状態でありますので、当分現状維持という結論に達したのであった。次はもっとシンプルなサイトに仕立て上げたいと目論んでおったのでございますが、ソレは目論みだけで終わるかもしれん。


特技は弱音を吐くことです。
またの特技は見栄を切るコトでもあります。
どちらに転ぶかはその時の気分と集中力次第。弱音を捨てて見栄を切ってみたところで、結果が伴う確率、すなわち成功する割合:失敗する割合は、女子プロゴルファーのブス:美人の割合に正比例するのであったが、それが何でしょうか?
そして麻婆豆腐こそ究極の料理だと観念致したのです。

2008年04月25日

2008年04月25日 貼付けられろ!

喫煙者全員、イタズラ小僧に灰皿を天井に貼付けられてしまえ。そして喫煙者が普段通りにタバコを吸おうとして火をつけた後に、灰皿が天井に貼付けられているコトに気付いて困れ。困りまくれ。アホだから一度貼付けられている灰皿に灰を落としてみたけど、案の定灰はそのまま下に落ちてきてカーペットが焦げろ。

2008年04月22日

2008年04月22日 No nonsense No life

徹底的にPerfumeの良さが分からんのです。幻影じゃありませぬかい? 15年後に同じテンションで聴けますかい? 短絡的な… ほとばしる倦怠感。遅れてきた斜陽族やがな。色んなモノに「お」を付与しそう。本人たちは「おPerfume」って称してそう。「お歌番組にお出になるために、お六本木のおテレビ朝日にお出かけになって、おタモリさんとお会いしたの。お楽しくお歌わさせてお頂きおました。」 斯様なコトを先日のミュージックステーションを通じて思ったのであります。ソコにはACIDMANも出演中であったが、実は彼らも苦手なのだった。「オレたちバンド結成時からカッコイイんです。やってるコトが自然とカッコイイ感じになってくるんです。」 本人たちは斯かる<下心>の如きモノは保持致しておらぬかもしれんが、私はそうしたモノを感じ取る。受信する。
平均的な男は10代に活発さを志向し、20代にカッコ良さに憧憬の念を抱き、30代に知的なユーモラスさを探索し、40代に安定へと移行し、50代に冷静な大人の魅力を追求したがる、はず。そんな気が致します。ソレはソレで一つの在り方であろうし、悪いとは思わぬ。けれど、果たして私はそうしたライフプランを抱きかねます… 活発さ、皆無。カッコ良さ、沼に沈んだまま。知的ユーモラスさ、豚に真珠。安定、二階から目薬。冷静な大人の魅力、水と油。
10代に孤独というキーワードについて考え、20代の今に切ない面白みなるモノが存するか否かを知りたいと思い、30代以降については全くの白紙でしかありませぬのが私なのです。
タワーレコードがNo music No lifeであったれば、当方は所詮No nonsense No lifeくらいがその生涯を達観したトコロに見受けられる標語として関の山でありましょう。フンッ。

2008年04月19日

2008年04月19日 アレを阻止せよ

学校で、詳細は心得ておらぬが、「近日中に単行本として出版される予定の論文集にキミの卒業論文を掲載してあげよう。ワタシがその本に採用する論文を決められるので」とセンセイから言われて、ヒドく狼狽した私のブログです、ココは。まったくなんちゅう角度から攻めてくるんじゃ。如何なるタイプのサディスティックじゃ。確かに私はMかもしらんが、そういう類の放置プレイだけは勘弁して頂きたい。謙遜して申すのではないが、あの卒業論文は大失敗であるのです。論が錯綜している。確かに私は現実生活においても著しき方向音痴で、故に論が目的地に辿り着けずアッチ行きコッチ行きするのはやむを得ないかもしれんが、しかしそこには悔恨がある。道に迷うと涙腺が緩む。同様に論が彷徨っておるのを痛感すると、肚の据わっておらぬ我が臆病さを嘆きたくなるのでした。加えるに斯様な論文集には、書き手として一流二流、或いは三流の大学教授などの論文が併せて掲載されておるワケでして、例え幾ら三流の論を展開する教授であっても、ソレは一応教授なのであるから、私との差は一目瞭然、斯かる専門の研究者の著したモノと対比されたならば、さすがに白痴の如き学生でしかない私の論文など忽ちにしてその稚拙さが露呈し、嘲笑されるコトは必至である。まさに晒しモノ。従ってこの度のセンセイの突拍子も無い野望だけは何としても阻止せねばなりません。場合によってはセンセイの飯に毒を盛るというコトも…
とりあえず最初の段階と致しまして、センセイの前ではずーっとスティーヴィー・ワンダーのように顔を上げて首を振り続けてみようと計画している。無言であのように首を振っておれば、「あ、コイツは白痴だ」と迫真の気合いで信じて頂けよう。ま、そうなればゼミも変わるコトになるのであろうけど…

2008年04月17日

2008年04月17日 回れ石

現在、我が人生初のローリング・ストーンズ旋風が巻き起こっている最中です。ココに至りて今更ストーンズとは、ミニ四ブームやたまごっちブームよりも時代を遡るコト数十年の昔と同化するのかしないのかは知る由もないが、ちょっと眠いのでもーどーでもいーのである。


ストーンズの好きなアルバム ベスト5を挙げておきます。


1.「Black And Blue」
2.「Goats Head Soup」
3.「Dirty Work」
4.「Get Yer Ya-Ya's Out!」
5.「Let It Bleed」


「Black And Blue」はぶっ飛び傑作アルバムであるにも関わらず、なぜか忘却されているような気配。これほどブラックでファンキーでロケンローでダンスゥィングトゥナイッなアルバムを探索致そうとしたら、夕方中レコードショップの視聴コーナーで諸作品を聴いて回っても時間が足りず、すぐに日が暮れちゃうぜ。
あと、アッキーナ カワイイ。でも多分オレは騙されてる。まぁイイや。How I used to be… ついでに。前回の「Metal Machine Music」のヤツは、半分が悪フザケ。それもまぁイイや。何となくそういう気配を感じ取ってくれておれば…

2008年04月15日

2008年04月15日 出入の一刻

Metal Machine MusicLou Leedの「Metal Machine Music」
以前にも一度、このアルバムには触れておるのでしたが(参考リンク:晴れ時々ノイズ! )、些か曖昧に記したるトコロがありますので、再度書き述べておこうかと感じ入った次第。


再述するに及び、まず以て明らかにしておきたきコトは、コレは百面相の如きアルバムである哉ってな感慨でありました。
ところで以前に私は斯く記し上げた。


これは比較的堅いタイプの音だと思う。勿論ノイズの嵐なんだけど、ノイズの中でもかなり頑丈なタイプのもので、金属音に近いような、無機質な音の連鎖。


この「Metal Machine Music」、所謂ノイズミュージックの走りと解されるコトの多き一品でしたが、実は(唐突ながら)ココにおいて既にノイズは極まっておるのではないか、とも思ったのです。確かに「堅い」「無機質」な音であるのだけれども、しかしソレでは上辺だけの捉え方というもんだ。而して加えて言うに、この中には時に柔和さを、または動の中に存します特有の静なるモノが持ち合わせる閑寂さが包含されてもいる。畢竟、聴き手の心情や取り巻きの環境等に相当程度依存する音が発せられておるのでありまして、おそらく百度拝聴致せば百通りの聴こえ方をするのではないかと思念致します。それは確かに単なるノイズのみの受信時もあろうが、翻って奇怪な程にメリハリの効いた、要は抑揚のある破壊音、残響、そして一種の静寂の受容をも期待できるのだった。
ただのノイズはどう捻くり回してもやはりノイズ、すなわち雑音に相違ないが、ココにあるのは紛う方なき「音楽」―ノイズミュージックでありまして、ソレが持つ諸種の魅力が既に充満しているのであった。押すか引くか、動くか抑えるか、保つか転がすか、開くか閉じるか…感情の出し入れを見事なまでにノイズという一つの手法により凝縮した作品、ソレが他ならぬ「Metal Machine Music」である。


斯様に野心的なアルバムを制作したルー・リードは、きっと怒りに満ちていたのではないかと思うのでございます。何への憤懣であったか。ソレは今となっては聴き手の想像に委ねられるべきモノのように思われる。しかしながら、何によるとせよ「Metal Machine Music」ほど多元的に聴き手の在り方と密接に連関し、その時々の隙間に猛然と強烈に乱雑として浸入してくる音楽も限られているのであって、ソレを未だ知らぬモノに対して如何様に表現すべきであるか…コレが実は真実に最も厄介かつ困難な仕業であるコトは覆しようがない。
試しに…どんなアルバムか。つまり―
箪笥の引き出しを無闇矢鱈に開け閉めしておきながら、結局何らめぼしきモノを発見できなかったにも関わらず、再度引き出しを掻き乱さんとする盲目的なる泥棒がいて、ソレをヒッソリと傍観しておった半狂乱の男がその醜態を狂喜乱舞しながら歪なステップで描写して見せる悪魔的光景がある。斯かる破廉恥を健常者が大胆かつ冷静、冷酷に転覆せしめた時の調子、コレをギターのフィードバックノイズという一点で捉えたのが「Metal Machine Music」である。

2008年04月13日

2008年04月13日 パッチリしたい

ブラックマヨネーズはその漫才スタイルと相俟って全国放送の番組でも仲違いをよくしていますが、地元ローカルでは和気藹々としておって良い雰囲気なのであった。きっと本来は関係良好なコンビなのだと看取出来る。外見の故かイマイチ人気が上昇しないのが残念、同世代であるチュートリアルの露出具合と比較した場合、非常な物寂しさを覚ゆ。ブラマヨは若手コンビの中にあってバランスのとれたピカイチのコンビだと勝手に思っているのでして、一方のチュートリアル、というか徳井は、ルックスと裏腹にシュールな面で面白さを発揮する芸人だと勝手に思っているのでして、同じく吉本で“イケメン”などと云われておる次長課長の井上もシュールなネタでこそ生きる芸人だと勝手に思っているのでして…、というコトをまず書いた。ちゃんと書いた。それ以上でもそれ以下でもない。思いこみ。そもそも個人的な考えなどというのは、決めつけや勘違いと紙一重ではないかしらん。大事なのはその<一重>を認識できるか否かでありますが、それならば私の場合は奥二重なんです。日によってはパッチリ二重になるコトもございますが、基本的に奥二重で。家族全員二重なのにオレだけコッソリ一重と二重を往復の毎日。ソレでヤケになって、先週こたつを片付けた。もう寒がりじゃないからな! 真冬でも温度は常に「弱」くらいで。ゴールデンウィークにはいつも扇風機を出しますねん。追い風を求めているのだけど、気付けば扇風機は常に向かい風であります。あっ!コレが原因か!? ずっと扇風機の風に向かっておるから、つまり四六時中向かい風と接しているが故に実生活でも追い風が吹かぬのか。試しに今から扇風機を破壊する。そうすれば運気も開けるような気がしてきたのであります、ありやす…アリアスという野球選手がいたなぁ。扇風機を壊すトコロからが俺流開運法のはじまりのように思う。そもそも個人的な考えなどというのは、決めつけや勘違いと紙一重だ。ちなみに今日のおやつはクッキーです。

2008年04月11日

2008年04月11日 世界は我が手中に

欲せられず欲せず。意味が分かぬ。ガンジー主義の偏屈。下宿をしておるのですが、現在私は或る陋狭なる3号室の部屋に身を潜めている。すなわち1号室、2号室と来て3号室が当方の軟禁箇所。そうして隣から4号室、5号室と当然の如く続いていくのであったが、今春より何と!両隣(2号室、4号室)に存しておった気狂いの住人が去り果てたのでした。而してその隣の部屋、つまるところ1号室と5号室も元来空き部屋であった故に、歓喜すべき哉、1〜5号室までの室で生物が闖入してあるのは、私が身を投げ出す3号室だけなのである。祝!閑散。ただ、それほど古い建物でないにも関わらず、この入居者の無さは逆に不気味なのです。
両隣に気を遣う必要なく、更にその隣―両々隣をも遠慮の対象外とした。しかも一番上の階におります、よって最早同一建物内の住人が発する奇声、嬌声、猥雑なる騒音に悩まされるコトは限りなく無に等しい。加えるに“学生専用”の賃貸部屋であるから、向こう一年は安泰。そして一年後には私もココを出て行く。天晴。これこそが「The World Is Mine」の世界。無敵である。音の消えた世界。無敵である。
今迄どれほど隣人の騒音にストレスを蓄積してきたことか。俺のこの気持ち、リリース&フリーダム。意味が分かぬ。幾度深夜に管理会社へ苦情の電話を申し入れたと思っているのです!? 順を追って書いてやろうか。まず、私がこの空間に侵入してきて二日目、いきなり隣の2号室の奴が宴会騒ぎで夜半にはSEXの嬌声。オイオイ、随分と挑発的な歓迎ではないか。それ以後も幾度かの痴呆的馬鹿騒ぎ及びSEXにより私は管理会社に苦情の電話を入れる連鎖反応。そうすると2号室の野郎(偶然にも早稲田に設けられていた生ける屍サークル=スーパーフリーの主犯格と同じ名字のヤツであった)は逆襲を仕掛けてきやがったのです。すなわち、私が少しでもテレビの音を上げてみれば、壁を非リズミカルに叩きやがる。そこで私は決意致しました。
「そうか、そうくるか。それならコッチは徹底的に沈静してやるから、もしソレで貴様が狂騒すれば、俺は容赦せぬぞ!管理会社のヒトに頼んで注意してもらうからな。俺は怖いから直接注意しないが、管理会社にはそういうのを注意してくれるお方がおるので、そのヒトに目一杯懇願するからな!」
ここからは一進一退の攻防。手に汗握る睨み合い。が、この気狂いは翌年退室したのでした。祝!精神の病んだ奴淘汰。そして新たに潜伏してきたのが、異様に足音のデカい変人。お前、絶対泥棒できないわ、と誰もが思うデリカシー皆無の足音でありまして、イカしたロックバンドのベースも顔負けの低音の響き。ドスドス。コレを以てしても苦情の電話に値するが、私は動けませんでした。なぜなら「隣の騒音の件でお電話したのですが、あのぉ〜、隣のヒトの足音がですね、ちょっとうるさ過ぎて…」などと電話を入れたら、逆にコッチがアホみたいに神経質な輩だと思われて管理会社のモノから相手にされぬのではないか、との危惧が生じたからなのです。しかし床の振動が部屋伝いに感ずられるまでの凄まじさでしたから、考察の仕方によっては下の階の方がよほど迷惑であっただろうと同情致す。彼奴も今春で退室し去った。去れば去る、去らねども去れ。漸く訪れた平穏。祝!小太鼓退散。これが2号室の場合。
3号室。コチラは私がココに投げ入れられた時から今春まで同一の住人でありましたが、彼は単純にアホであった。夜中に決して高くはない歌唱力で大滝詠一サンの「恋するカレン」を歌い出したかと思えば、これまた深夜に洗濯物を干しながらエアロスミスの「I Don't Want to Miss a Thing」を外に向かって熱唱するといった具合で、さも己の歌唱力を町内に響き渡らせんとするかの如き野心を抱いていた、のかどうかは不明なのでございますが、兎に角、周囲を顧みず中途半端な歌唱力を披瀝されるのだから堪ったモノじゃない。コイツは奈良の騒音オバサンのフォロワーだ。だが、私は歌の害によって受話器を持ち上げるコトは避けた。ソコは許容した。しかし、コイツも定期的に夜中に宴会騒ぎのようなコトを主催するので、ソッチの方で5回くらい管理会社のオッサンに頼った。我一切を関知せず。だ、誰がヘタレやねん!


両隣が騒がしく、ソレに神経を尖らせて苦情の電話を申し入れる当方、そのオレが逆に隣人から騒音で苦情の電話を入れられたのでは元も子もない、斯く思慮しました私は、ココにおいて徹底的に沈黙を維持することに努めた。その結果、彼らからの苦情は一つも存せぬという最低限のマナーを厳守し得たのでありまして、実に優等生だ。その甲斐あって、今日、閑散とした空間でテレビの音も以前よりは2くらい上げておる。さすがに5もランクアップするワケにはいかぬので2の上昇に甘んじておる。資金さえ所持していましたら気兼ねせずにデリヘル嬢をお呼びしても良いのかもしれぬが、遺憾ながら貨幣も紙幣もない。平和勝ち得て金運勝ち得ず。こりゃ宿命だろうか。

2008年04月09日

2008年04月09日 今回は題名が思いつかない

年に一度あるかないかでいえば、あるといわれている健康診断で、骨折を一度も経験したコトがない程の健康が唯一のとりえであります私が、まさか検尿で引っ掛かるとは! 潜血の気配有りとやらで、来週再検査をせねばならぬ。そりゃ血液は飽きもせずに全身を走り回っておるのだから、たまには尿に紛れ込むコトだってあろうに。そんなに差別化してやるなよぉ〜 そして未だに一年の間に身長が1.5センチメートルばかり伸びておる事実が判明したのです。俺の成長留まるトコロを知らぬ。貪欲、強欲、強情。残念ながら体重はほとんど変化なしで、平均レベルでしたが。まったくつまらねぇ体型だよ。早く2メートルを超えないかしらん。このままのペースで伸び続ければ“男盛り”までには2メートルくらいにはなる!多分。その自分まで生きていればのハナシ。
そして、視力検査ではメガネを自宅に忘れてきたため、裸眼で計測する無惨な事態になりまして、両眼ともに0.2であった。外出時は決してメガネをかけぬ信条がアダとなった。それにしましても私としては0.5くらいの視界を確保しておるつもりなのだけれども、数字は残酷だ。容赦ない。だが、不便じゃない。景色は見える。また、メガネをかけてヒトの顔を見たら、当然の如く裸眼の状態よりはハッキリ視認できる故に、必ず「うわっ、このヒト、意外と肌荒れてるなぁ」とか「ああ、このヒト、ハッキリ見ると髪の毛汚いなぁ」などと思ってしまうのですから、要は私の場合、あらゆるヒトに対して裸眼で接した方が相当キレイなイメージを相手に抱けるのであった。見え過ぎるコトは常にショックをもたらす。
あとはレントゲンの異常と再度の尿検査で異常が判明せぬコトを祈願するのみ。まぁ、仮に多少の異常は良い。だが、病院で精密検査を受診しろなどという事態になりましては、甚だ面倒この上ないので、そういうのだけはご勘弁を。親より早く死なぬのであれば、短命であっても良い、と誰かが言っておったようなおらぬような。そういうコト。

2008年04月07日

2008年04月07日 とても恐ろしい。

山崎まさよしの「One more time,One more chance」は、彼の代表曲でもあるが、やはり傑作なのである。M−1決勝でチュートリアルが自転車のちりんちりんネタの中で用いたコトも相俟って、私はこの曲を聴くと笑ってしまうのであります。


いつでも捜しているよ どっかに君の姿を
明け方の街 桜木町で
こんなとこに来るはずもないのに


いつでも捜しているよ
どっかに君の破片を
旅先の店 新聞の隅
こんなとこにあるはずもないのに


何故に斯様な歌詞にしたのでございましょう。捜している有り様がややズレておるように思われて仕方ない。微妙に危なっかしい男の香りも漂っています。
「向かいのホーム」や「交差点」までは納得できるのであったが、「明け方の街 桜木町」であるとか「旅先の店 新聞の隅」までとなると、ちょっと必死過ぎてこの一歩先には犯罪の予感を感ずるモノもいるのではないか。未練が半端ではないのでした。通り魔やストーカーの偏狭的思考と斯かる探究心―あえてそう呼ぶが―はおそらくどこかで重なり合うモノと思わずにはおれない。この男の中に存する「こんなとこにいるはずもないのに」という気持ち、このバネが吹っ飛びたる瞬間において、すなわち「ここにいるはずであるのに」へと変質致しました時に、犯罪は生まれるかもしれませぬ。そう思わざるを得ないほどの<怨念への変転を心待ちにしているかの如き情念(=未練)>をココからは感ずるのです。とても恐ろしい。
「One more time,One more chance」を欲する心情、コレが殺意を含む超能動的で猟奇的な探究心へと男を駆り立てぬようなコトが決して無いようにお祈りをしなくてはいけません。とても恐ろしい。
この曲がヒットした由縁は、以上の通り、男の<紙一重>の心情が衆目の関心を喚起せしめたからである…ってコトにしといて下さい。呉々も「死別した相手を想ってのことだろう」などとは言わないように。

2008年04月06日

2008年04月06日 片目物語

山の老人は自然のお喋りが大好きでした。山々の囁き、大地の叫び、風の励まし、雨の眼差し、そんなものたちといつも触れ合っていられることに幸福感を味わっていました。老人に家族はありませんでした。結婚もしませんでした。両親は老人が青年の頃に天国か地獄かに旅立って行ったので、それより今に至るまで一人で、自然と一緒に春の日差しの日も初夏の緑の日も晩秋の落葉の日も冬の白の日も過ごして来たのです。寂しいとは思ったこともありましたが、その度に自然の声援を聞いたので、老人は気力が湧いてきて畑仕事もどんどんこなすことができたのです。
老人に口は必要ありませんでした。彼は自然のお喋りが大好きでしたので、彼らの声を聞き逃さない耳だけがあれば、心は膨らんだのです。


山は言います。「お爺さん、心細くはないかい」
大地も言います。「お爺さん、怖くはないかい」
風も負けじと言います。「お爺さん、寒くはないかい」
雨も加わって言います。「お爺さん、冷たくはないかい」
老人は久しぶりに声を出しました。「ワシは平気じゃよ。いつも君たちが傍にいてくれるからのぉ」


山が言いました。「でも、お爺さんの近くにばかりいるわけではないよ」
大地も言いました。「お爺さんは自分を誤摩化しているだけじゃないのかい」
風も言いました。「お爺さんはあっちの空ばかり見て、こっちの空の色を知らないんじゃないのかい」
雨が最後に言いました。「お爺さんは何のお話もしてくれないや。いつも聞いているだけで、それじゃ僕らは面白くないやい」


老人は何かの言葉を口元まで運んできたのですが、ぐっと抑えて下を見ました。地面が初めて冷たく感じました。地面を温かくしたいと思いましたが、どうすれば良いかは知りませんでした。
山と風が言いました。「お爺さんと僕たちは近いようで遠いのかもね」
大地と雨が言いました。「隣町のお爺さんは物知りだからいつも楽しいんだ。でもこっちのお爺さんは没個性的過ぎていけないよ」
そうして自然は隣町の老人を目がけて走り去って行きました。


老人は独り取り残されたのですが、彼らがまた戻ってくるのを待とうと思いました。彼は喋ることがありませんでしたが、気持ちだけはずっと同じままでいたいと思ったのです。
老人は生き抜くことがヘタクソでした。


皆が隣町の老人から離れて戻ってきたときには、もうこっちの老人は天国か地獄かに移り住んでいたのです。それで山は老人を悼んで花を目一杯咲かし、大地は老人が生きていた場所をしっかりと包み込み、風は沢山の種を運んできて、雨は植物が生き抜けるように思い切り水を分け与えたのです。


これが片目の老人と自然のお話です。

2008年04月03日

2008年04月03日 隴を得て蜀を望む

最近いろんなサイトを閲覧しているのですが、本当に色々なタイプのものがありますねぇ。純粋に感動するようなものもあれば、なんでこんなものがあるんだというようなのもあります。理解できないようなサイトを閲覧しているときに、私は「コイツは何を考えてこんなサイトを作ったのだ」と思うわけですよ。それは良い意味でも悪い意味でも。けれど、世の中はまともなヤツとおかしなヤツがいて成り立っているように、サイトだっておかしなサイトとまともなサイトが存在していないとダメなんじゃないのかと思うわけであります。だって世の中のサイト全てがまともってのはつまらないじゃないですか。(中略)私はとびきりおかしなサイトに出くわした時、それにある種の憧れのようなものを持って、俺もこんな変なサイト作ってみたいな、と思うわけであります。サイトなんてのは、そのほとんどが何かしらの情報を提供するものですが、一方でそういったものを完全に無視したモノが存在しているということに、非常に面白みを感じるわけであります。(中略)私はサイトというものは一種の自己表現の場としても使えると思ってます。現実世界とネット上の世界は明らかに別物ゆえに、現実世界では表現できないようなことをネット上の世界で表現するのも一つの手段だと思ったりします。現実の世界とネットの世界、この両者をはっきりと意識した上で、作り上げるおかしなサイト。ネットの世界でのみ作り上げられることが可能な世界。そういうものにいつか挑戦してみたいと思うわけであります。


コレは二〇〇五年の一月二十二日(土)に今は無き旧サイトに私が記し上げた雑文なのです。タイトルは「いつかやってみたいこと」 齢十九の時の羞恥。
先ほど、偶然そのサイトを保存してあるフォルダが発見されましたので、郷愁の念の如き感慨を抱きながら眺めておったのであるが、率直な意見としては…あまりに稚拙過ぎる文章とくだらなさ過ぎるコトしか綴っておらぬのは当時から今に至るまで一貫しておる。而してソレらの中でもコレはどうにか読むに耐える一文であると判断しましたから、あえてこの場に持ち出してきたという展開。もう苦心惨憺やる方無し、なのだ。


十代最終期の文章も今と同じく年齢不相応に雑魚でしたが、それでも実感致した、一応三年の間に多少は上達しておるコトを。良かった。ソレだけが良かった。改めて申し立てるが、前述のフォルダの中に収められてある文章の95%はココに持ち出すことが適わぬレベルでありまして、漸く上記のモノを引っ張って来れたという無惨な状態なのであります。(余談だが、ココでよく用いる「どーでもいー」なる言い回しは三年前から遣っていたコトが分かった!)
必然の如く、涙が溢れ落ちそうになった。己の不甲斐無さで初めて泣きそうになった。いや、正確には小学三年生くらいの時の運動会に於ける障害物競走で、私はダントツの最下位になりまして、やっとのコトでゴールしたら、すぐ後ろに次のグループの先頭のヤツがいた時以来の己への不甲斐無さなのでございます。


それに致しましても、今日まで斯様な文章を記したコトはすっかり忘却しておったのですが、三年後の今、「そういったものを完全に無視したモノ(=全く何の役にも立たず存在意義がゼロに近いサイト)」を運営できている事実に、自らの精神の幼稚さ、下劣さ、未発達具合を思い、また同時に今後もより一層開き直って「そういったものを完全に無視」していこうと決意し申し上げるのであった。


全く何の役にも立たず存在意義がゼロに近いサイトについては以下参照
アイツの日記

2008年04月01日

2008年04月01日 極寒の踏み絵

本日は四月一日なり、エイプリルフールなり、ってコトで嬉しがってウソをつくのは、寒い。


そもそもエイプリルフールというのは、普段嘘をつかないヒトの為にあるようなものだ。だから私には無関係である。
と丁度一年前にココに記し上げた。・・・そういうコトなのである。普段マジメなモノが意外なコトを申すから味が出るのでありまして、常にチャラチャラしておる私の如き輩がエイプリルフールだからといって、ここぞとばかりに戯言を言い立てても何の説得力も、微塵も感じられぬであろうってコト。


閑話休題。
最近、風が強し。ビュービュー吹き荒れておるのでありますが、斯かる春風の中、それにも関わらず、私は今朝、布団を干した。目一杯干した。然るに、先ほど外を見てみるに、干してあった布団が無かった。風で布団が吹っ飛んだーー!!!それに気付いた時、私は食器を洗っていたのでしたが、あまりの驚きで食器を落して割ってしまった。そう、食器を落した ショッキだぁ。


・・・当サイトを閲覧致すモノに或る種の憤慨と倦怠感と極めつけの退屈を提供したのでありました。まさか今更斯様に低俗な次元でエイプリルフールを利用するとは、よもや小学生すらも峻拒するでありましょう。このご時世に。どうだ呆れ返っただろう。パソコンのキーボードを思いっっっっ切り殴打したくなったのではないか? もうこのブログを二度と見たくもなくなったでしょう。これは一種の踏み絵でございます。細川ふみえとは無関係だけれども。ヌハハハハー


…さて、勉学に勤しも。
人格すらもエイプリルフール。

« 2008年03月 | もどる | 2008年05月 »