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2008年04月15日 出入の一刻

Metal Machine MusicLou Leedの「Metal Machine Music」
以前にも一度、このアルバムには触れておるのでしたが(参考リンク:晴れ時々ノイズ! )、些か曖昧に記したるトコロがありますので、再度書き述べておこうかと感じ入った次第。


再述するに及び、まず以て明らかにしておきたきコトは、コレは百面相の如きアルバムである哉ってな感慨でありました。
ところで以前に私は斯く記し上げた。


これは比較的堅いタイプの音だと思う。勿論ノイズの嵐なんだけど、ノイズの中でもかなり頑丈なタイプのもので、金属音に近いような、無機質な音の連鎖。


この「Metal Machine Music」、所謂ノイズミュージックの走りと解されるコトの多き一品でしたが、実は(唐突ながら)ココにおいて既にノイズは極まっておるのではないか、とも思ったのです。確かに「堅い」「無機質」な音であるのだけれども、しかしソレでは上辺だけの捉え方というもんだ。而して加えて言うに、この中には時に柔和さを、または動の中に存します特有の静なるモノが持ち合わせる閑寂さが包含されてもいる。畢竟、聴き手の心情や取り巻きの環境等に相当程度依存する音が発せられておるのでありまして、おそらく百度拝聴致せば百通りの聴こえ方をするのではないかと思念致します。それは確かに単なるノイズのみの受信時もあろうが、翻って奇怪な程にメリハリの効いた、要は抑揚のある破壊音、残響、そして一種の静寂の受容をも期待できるのだった。
ただのノイズはどう捻くり回してもやはりノイズ、すなわち雑音に相違ないが、ココにあるのは紛う方なき「音楽」―ノイズミュージックでありまして、ソレが持つ諸種の魅力が既に充満しているのであった。押すか引くか、動くか抑えるか、保つか転がすか、開くか閉じるか…感情の出し入れを見事なまでにノイズという一つの手法により凝縮した作品、ソレが他ならぬ「Metal Machine Music」である。


斯様に野心的なアルバムを制作したルー・リードは、きっと怒りに満ちていたのではないかと思うのでございます。何への憤懣であったか。ソレは今となっては聴き手の想像に委ねられるべきモノのように思われる。しかしながら、何によるとせよ「Metal Machine Music」ほど多元的に聴き手の在り方と密接に連関し、その時々の隙間に猛然と強烈に乱雑として浸入してくる音楽も限られているのであって、ソレを未だ知らぬモノに対して如何様に表現すべきであるか…コレが実は真実に最も厄介かつ困難な仕業であるコトは覆しようがない。
試しに…どんなアルバムか。つまり―
箪笥の引き出しを無闇矢鱈に開け閉めしておきながら、結局何らめぼしきモノを発見できなかったにも関わらず、再度引き出しを掻き乱さんとする盲目的なる泥棒がいて、ソレをヒッソリと傍観しておった半狂乱の男がその醜態を狂喜乱舞しながら歪なステップで描写して見せる悪魔的光景がある。斯かる破廉恥を健常者が大胆かつ冷静、冷酷に転覆せしめた時の調子、コレをギターのフィードバックノイズという一点で捉えたのが「Metal Machine Music」である。

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