« 2008年05月 | もどる | 2008年07月 »

2008年06月29日

2008年06月29日 「大衆の反逆」(テレビ編)

テレビが数十万する時代、録画を試みようとすればDVDレコーダーが求められ、ソレが十万〜三十万くらいであろうか。だが、果たしてソコまでして見たいと願う番組の数、たいそう少ないのです。ってなワケで、今日はテレビのバラエティ番組について、愚見を披瀝させて頂きたいと企図す。


「最近のテレビは・・・」と大人を気取ったヒトは申し上げる。曰く「低俗化」「幼稚化」「馬鹿騒ぎ」云々。或る意味で正鵠を射ており、或る意味で的外れだと思うのです。およそ十五年ほど前を思い起こしただけでも、テレビにおいて放送される内容はよほど大人しくなってきており、規制は厳しくなり、相当な配慮がなされてある。約十五年前、ソレは私が小学校に入ったばかりくらいの時期ですが、あの頃は例えば「志村けんのバカ殿様」にしろ「ダウンタウンのごっつええ感じ」にしろ、おそらく今では放送できぬほどの過激な悪ノリがあった。暴力、オッパイ、暴言、斯かるモノを私も平気で見ておりました。今は如何・・・ 大層上品になってきておる。その意味では、最近の番組を「低俗化」「幼稚化」「馬鹿騒ぎ」と形容するのは少しおかしい。以前の方がよほど(今の感覚でいう)問題は多かったはずなのだから。一面ではずっと「高貴さ」「大人っぽさ」「落ち着き」を獲得してきておるのが、今のテレビ番組であるのではないか。──単純に比較をしてみた場合。
けれども「低俗化」「幼稚化」「馬鹿騒ぎ」と言いたくなるのも分からなくはない。どこもが同じようなコトばかりをやって、締め付けられた規制の中で少しでも盛り上げようと演者は必死になり果てていらっしゃる。足掻き。挙げ句に、志茂田景樹など今では容姿そのものが放送コードに引っ掛かるのではいかと危惧致す。
社会全体が多大なる勘違いをしているのか否かは知らんけれども、精神や文化は十年や二十年では何も発達せぬが、しかしながら、マナーや倫理の声に圧倒され、自由度が狭められた電波の中にあって、テレビ局は視聴者との共生に必死ってコト。すなわち、観客の顔色を窺うのに気を取られるあまり、苦情の声に身を震え上がらせるあまり、制作者が超然とした態度ではいられなくなるってコト。テレビが「低俗化」「幼稚化」されるのは、見るモノの平均レベルに合致させんと試みるあまり、そうならざるを得ないってコト。
何所もが一様に同じ方向を向き始めて、全体が足並みを揃えて愚劣になり果ててゆく。上に比較を出した十五年ほど前はそうではございませんでした。確かにソコには思いっきり低俗で幼稚なコトと受け取られるモノが存した。しかし一方では、バランスを維持するが如く、キッチリとした大人の番組があった(バラエティ番組でも)。ソレが今では、どこにあってもギャップが消え失せ、画一化されつつある。おそらくあと十年後にはより一層差異が解消されておるでありましょう。
結局こういうコト。つまり、愈々「大衆の反逆」(テレビ編)が押し寄せて来ったのです。
私が子供の頃に見た「志村けんのバカ殿様」や「ダウンタウンのごっつええ感じ」にあったような、或る意味では非常に思い切った内容のコント・お笑いといったモノは、もはやテレビから亡失してしまうのでしょうか。ソレは舞台上や制限を設けたDVD及びネット配信のようなカタチでしか表現され得なくなるのかもしれぬ。マナーや倫理を叫ぶ行為は、それ自体では決して悪くないのですけれど、今ではそうしたモノが叫ばれ過ぎるあまり、表現の幅を限定し過ぎるコトになり、従いまして表に出て来るものが実質一度検閲を受けたような体でしか存在し得なくなる。…昨今の世間様が下品だという事柄にも色んな種類のモノがあって、一概にすべてを抹消せんとするが如きは、あまりに過激、あまりに暴挙だと思うのでございます。而してソレを文化、精神、道徳の向上といったモノと混同してしまう「大衆の反逆」よ!
この先、妥協せずに、満足に、面白いモノを追求していくヒトたち──演者、制作者、作家等々──は、もしかするとバッファロー吾郎のようなスタイルでなければ生き残れなくなるのかもしれないなぁ。または立川談志師匠のようなやり方を選ぶか(ただし、ソレには天才的才能が要る)。もしくは鳥肌実の如く、徹底してアングラに隠るか… 少なくともテレビの世界は相当な妥協が加わるでしょう。斯かる選択によって「低俗化」「幼稚化」「馬鹿騒ぎ」が回避され得るとしても、その時、もはやソコに娯楽的要素は如何程存するか。ドリフ、ひょうきん族、ごっつええ感じ…斯様なモノはもうテレビからは発祥しないかもしれん。そうして「国民的お笑い番組」というモノも、現状が進む限り無くなりゆくかもしれん。「大衆の反逆」(テレビ編)が招来し来った今、面白いモノを追求していくヒトたちは、自らのフィールドだけではなく、対象とする客をも予め選択しておかねばならないのではありますまいか。“お笑い”なるモノの質もこれから変化を遂げてゆくはずで、例えばドリフやダウンタウンと同等の手法をテレビで用いるコトの限界はもう目前まで迫ってきているような気が致す。面白きコトの追求、その点に関してはいつの世も<深く狭く>に淵源するのかもしれぬが、今後いっそうそのような傾向が増進されゆくであろう。そうして畢竟、テレビは「触らぬ神に祟りなし」の精神上、安全地帯を求め過ぎて、やがては砂漠地帯へと辿り着くハメになるであろう。ソレ、すなわち形骸化に他ならんのです…

2008年06月25日

2008年06月25日 元気になる呪文

前人未到の色目使いで愛撫され尽くした人生との訣別に辟易
前人未到の色目使いで愛撫され尽くした人生との訣別に辟易
前人未到の色目使いで愛撫され尽くした人生との訣別に辟易
前人未到の色目使いで愛撫され尽くした人生との訣別に辟易
前人未到の色目使いで愛撫され尽くした人生との訣別に辟易
前人未到の色目使いで愛撫され尽くした人生との訣別に辟易
前人未到の色目使いで愛撫され尽くした人生との訣別に辟易
前人未到の色目使いで愛撫され尽くした人生との訣別に辟易
前人未到の色目使いで愛撫され尽くした人生との訣別に辟易
前人未到の色目使いで愛撫され尽くした人生との訣別に辟易

2008年06月22日

2008年06月22日 精神と宗教の哲学

『霊的終末論』ロシアの宗教哲学者、ニコライ・ベルジャーエフの『霊的終末論』
これは凄まじい本です。何でございましょう、この斬れ味。恐ろしい。私が漠然と感じておったような疑問であるとか不可解な現象及び思想または精神について、モノの見事に解説致してくれておる。喫驚、とはコレか。人間、社会、国家の基礎を「宗教的、精神的原理」において見出した偉大なる哲学者の思索集、個人的に超絶なる必読の書であると思うのです。
本書においては以下のような事柄について、ビックリ仰天の炯眼。

ロシア革命について
社会の宗教的、本体的原理について
国家論
民族論
保守主義について
貴族主義について
自由主義について
民主主義について
社会主義について
無政府主義について
戦争論
宇宙経済への転換
文化論
神の国について
ユダヤ民族の運命
共産主義の真実と嘘


蛇足かもしれぬが、以下に幾つかベルジャーエフの思想に関して、そのエッセンスを看取され得ると思われる部分を引用してみます。思いっきり。「冗長」なる言葉は忘却した。百聞は一見に如かず、であるからして…


社会と国家は宗教的、精神的原理にのみ基礎づけられ得るものである。人間の結合と支配のこれらの源泉が破壊される時、社会と国家は原子化し、崩壊する。(六四頁)


人間《我》、人間人格、人間の個体性は、人間より高級な実在、その閉鎖されている《我》より高級な実在が存在するからこそ実在するのである。もし神が存在するなら、人間も徹底して存在する。
 神がない時、人間のなかで神が滅びる時、人間も滅び、崩壊する。人間は自分より高級なもの、人間独自の実在を無限に深い、無限に内容あるものにさせているものにより、常に保持されている。(二八六頁)


社会の合理化と人間独力による社会の建設は、人間個人にとっても、すこぶる危険である。なぜなら人間個人は、そのすべての独特、独自性において、社会性の非合理的原理によって保全されているからである。非合理的に基礎づけられている国家は、まったく合理化した社会よりも、より以上人間個人を尊重し、人間個人に対して権利をあまり主張しない。(二三〇頁)


不平等はすべての宇宙秩序の基礎であり、人間人格の存在そのものがこれにより正当化される。また世界におけるあらゆる創造の源泉である。暗黒のなかにおいて光明は生誕はするが、すべてこれから不平等が発生するのである。あらゆる創造的活動は、不平等を生みだし、高揚し、質をもたぬ大衆が質をもつことである。神の誕生そのものが、不平等である。不平等から世界、宇宙も生まれたのであり、不平等から人間も生まれたのである。もし絶対的平等のままであれば、存在は開かれない状態のまま、無差別のまま、非存在のままとどまることになる。絶対的平等を求める要求は、始元的な未分化のまま混沌的暗黒状態に復帰せよという要求である。非存在的状態の平等に復帰せよという革命的要求は、犠牲と苦悩を受容したくないという欲求から生まれたものである。(七七頁)


民主主義は人間を、算術的単位、数学的にあらゆる他と同一視しており、有機的全体としての国家は原子に分解し、それから機械的集合体として集められる。しかし国民は数学的単位、原子から成立しているものではない。国民は体系的有機体であり、そのなかでは各人独自の存在であり、その質においては不反復的のものである。普通選挙法は、国民生活における質の表現には、不適当な方法である。少数は全一的精神もっている有機的全体としての国民的意志を、より良く、より完全に表現できる。一人であっても、すべての人の量よりも、意志とこの精神をよりよく表現できるものである。(二二四頁)


労働規律、労働組織、労働生産性は、精神的要素に依存している。結局において、精神は自然に打ちかち、自然の盲目力を支配する。自然力の体現、その組織と調節としての経済は、人間精神の行為である。故に経済の性質は、精神の質に依存する。経済は死的、物質的現象ではない。それには人間の精神的エネルギーが浸透しており、人間と自然の合一、相互浸透を前提としている。労働は、物質的現象ではなく、精神的現象である。それは精神的原理をもっている。(三二九頁)


すでに久しい以前から諸君にとっていっさいは夢幻に、人間の欲情と利益の無常迅速、欺瞞の戯れに化し去っている。諸君にとっては、存在そのものに、存在の欺瞞的、社会的皮膜がすりかわっている。諸君にとっては、久しい以前から、生命の本体的、存在的原理はなくなっている。…(中略)…かつての、もっと有機的、実在的であった時代の人びとは、社会結合のずっと深い形態を知っていた。…(中略)…諸君の社会とは騒々しく、仰々しいが、そこに深遠な実在論はない。そこには生命、人間、世界そして神の神秘との関係がない。諸君は表層だけを動きまわることをすこし控えて、もっと深く突込む時であり、反省して心の奥をのぞくべき時である。そこでは世界のいっさいの無限と、神の無限が現実に顕現するはずである。諸君は諸君の社会的自己感覚の自閉性を克服する必要がある。(五六頁)


すべての社会的、政治的形態はつねに形式的となる。それらは生命の精神的目的に服従しなければならない。…(中略)…完全な精神生活を現実的に実現することだけが、完全な社会を建設するという課題の解決となるのである。(二七八頁)

2008年06月21日

2008年06月21日 絶好の梅雨対策

Kind Of Blue何時かの梅雨、湿度に制圧された環境を恨み、蒸し暑さに耐えつつ、ふとジャズなるモノを聴いてみたくなったのでした。昼過ぎに。ソコでインターネットという文明の利器を駆使し、「ジャズ 入門」であるとか「ジャズ 最初の一枚」とか、斯かるキーワードで検索しておったトコロ、アチラコチラでお見受け致しましたのが、この「Kind Of Blue」であった。
当然、マイルス・デイヴィスなるオジサンの存在も知っておらないで、何となく“聴き易さ”だけを求めてタワーレコードのジャズコーナーへと猪突猛進したのでございました。小雨の夕方。帰宅ラッシュを恨めしく思いながら。そうした具合であって、ジャズコーナーには客もまばら、私は迷わずコノ定番アイテムをレジへと差し出した。初めてのおつかい気取りで。


〜帰宅途中のコトは省略〜


帰宅し、とりあえず一回通して聴いてみた。
あまり明瞭に感じ取れたモノはなかった。ソレは初めてゴーヤチャンプルを食しまして、何となく嫌いではないが、好きでもあらぬってな感覚。ああ、コレが大人の味か、と思ったほどで、別段感動はなかった。ただ、マイルスが奏でますトランペットの音が、この時季のジメジメした陰湿な空気に対し不思議と合致していまして、それも夜、太陽が姿を消した時間のソレと適合して、おお! コレは絶好の梅雨対策だ!と思ったコトは今でもハッキリと記憶の中に留まっております。だから、私のマイルス第一印象は「絶好の梅雨対策」ってな現在では誠に不可解なモノです。現内閣の存在意義と同様に。


それから、しばしばこのアルバムを拝聴するのであったが、例えば夏場や初春にはどうしても適合せぬ。況んや晩秋においてをや。──個人的な固定観念の形成をソコに垣間見る。以来、私は「絶好の梅雨対策」として、いつもコノ時季になると、そっと「Kind Of Blue」を取り出してくるのでした。カツオがサザエの目を盗んで戸棚からおやつを取り出す如く。
絶好の梅雨対策、絶好の梅雨対策、絶好の梅雨対策、絶好の梅雨対策・・・ 私がマイルス・デイヴィスに真に惹かれ、この「Kind Of Blue」にあっても梅雨から切断して聴いてみようと思うには、それから二年くらい経過しまして「On The Corner」と「Jack Johnson」に触れてからなのである。所謂「電化マイルス」なる呼称で知られる時期の、あのアグレッシヴさよ!


而して今では本作について、「絶好の梅雨対策」である一方、何かしら奇妙な捉え所なき郷愁感と結びついたモノであるように思われてならない。この郷愁感は何であろうか。梅雨への倦怠感に対する反抗心の変態… ソレは何でしょう? でも、マイベスト6月アルバム「Kind Of Blue」── コレだけは確実かしらん。

2008年06月20日

2008年06月20日 湿度のせいで…


2008年06月19日

2008年06月19日 決定!

× 「2回目のランニングホームランは誤審」
× 「イカの薫製ダンス」
× 「愛憎と昼間のコロッセウム」
× 「常にチェック柄の男」
× 「姉さん、止めてよ姉さん! それはスズメノカタビラだよ」
○ 「野菜不足の少女は可憐なのに虫歯だらけ」
× 「暁のマスク女、ペットは九官鳥」
△ 「下総の美人妻の大義名分」
× 「Times New Roman」
× 「帰化した気せぇへんなぁ の巻き」
× 「キリシタン大名の合コン密着」
× 「流し髪の回想録〜銚子マドレーヌ編〜」

2008年06月16日

2008年06月16日 食材は食べるコト以外にも使われる

バラエティ番組において、例えば牛乳を頭からぶっかけたりするようなコトをしておるのに対して、「食べ物を粗末にするな!」って絶叫する輩の胸中が解せぬ。彼らは言います。「世の中には食糧難で云々」
パッ! 出た! 恐るべき偏屈な論理、途方もない相対主義の嵐。ソレを言い出せばあらゆるコトに決着がつかなくなるコトを想像できないバカがおる。──食糧難の問題を持ち出してくるのであれば、徹底的にやらねばならない。世界情勢でっせ。コノ追求は果てしない迷宮と混沌、政治・宗教・文化等々に内包される狭間に落ち込むコトになりまして、やってみれば分かるが、ソレは究極的にバラエティ番組と食材の関連性を遥かに超えた問答へと至ってしまうのです。而してアノ国では食べ物が無いから…などというのは、どこかに解消されてしまう。加えるに、そもそもアンタ等、普段は貧しい国に対して何かしているのかい? そういう時だけ万能薬の如く貧国を例に持ち出す偽善的な正義!? そうして、また、彼らの言い分に従えば、この点こそ最も愚劣なのですが、万が一食料さえ不足しておらねば、どれだけムダにしても宜しいという事態になるのでしょうか。まぁ、何とも都合のイイ言いがかりであるコトよ。畜生の思考。
まぁ良い。視野を別のトコロに移し替えてみよう。
例えば、チョー大ヒットした映画「タイタニック」 アレなんて相当な量の食材をムダにしてまっせ。豪勢な料理が一気にグチャグチャのポーン。コレは許せませんねぇ。…いや、食材だけではなく、膨大な量の水も弄ばれております。世の中には水が不足して(以下略)
そもそも規模は異なれどバラエティ番組も映画も同じ娯楽の一つではありませんか。映画では食材が沢山犠牲になるのがOKでバラエティはNO? んなアホな。どういう論理、もしくは道徳、倫理、モラルを掲げれば斯様なコトが主張され得よう。
いま、「道徳、倫理、モラル」と申しましたが、確かにそうしたモノを前面に押し出しての抗議ならば、ある程度の妥当性は持つかもしれませんね。しかしながら、そうであれば、尚更のコト、「タイタニック」の如きモノは攻撃せねばならぬはずです。ソレは世界中の多くのモノが鑑賞しているワケで、ソコにおいてあからさまに道徳、倫理、モラルに反する行為がなされているのですから、コレを黙過してきた世界の人々に警告を発する意味でも、必死に抗議をして下さい。


もっと言いたいコトはあるのだけれども、あまり書き過ぎるのもツマラナイから止めよう。ただ、コレだけは再度申し上げておきたい。バラエティ番組も映画も、その他諸々の食べる以外の用途に食材を用いる娯楽的所作に差異はありません。抗議を出すのなら全てに及ぶべきだ。それともソコには何等かの違いがあり、コレは容認可能でアレは容認不可能とでも言うのなら話は別ですが… 果たして公正に、「道徳、倫理、モラル」を裏切らずに、ソレらの区別を正当化できる論理を打ち立てるコトなどできようか。
できないのであれば、もはやこういうコトです。至極簡単。
「食材は食べるコト以外にも使われる」 
使われる以上ムダではない。それとも今度は用いられる量によって区分でもする気ですかい。誰がその境界を設定できましょう? どうしてもムダだと仰るのならば、食べる以外の所作に使用された場合、全てに渡って抗議を出さなければ自らの信念を裏切ったコトになるんです。原理主義者よ、逞しくあれ!

2008年06月11日

2008年06月11日 「罪」と「責任」

「罪」と「責任」の差異、その混同、消滅。
「罪」とは本来何事かを遂行したモノにのみ帰せられるのであります。然るに「責任」の場合はより包括的、複合的な視野から検討されていかねばならぬ。
全てのモノに「罪」が存する、などというのは白痴の戯言でして、何等の価値をも有するコトはないのです。「罪」とはあくまでも行為の結果生じた事態に対して問われるのであるから、すなわち、あらゆるモノに罪があると申すのならば、ソレを裏返してやれば宜しい、つまり、経緯はこうです──それならば何人たりとも罪は持たぬ、と。必然的に斯かる論理が是認されるであろう。然るに他方の「責任」に関しては、全く事情が異なってきます。其れは「罪」あるモノ自身に、「罪」とは異なる領分で抱かれます、またはその親類、友人、諸共同体、諸組織、果ては社会の構成要素、文化、風習、世論等々にまで拡大され、検討されるべき事柄に他ならぬ。畢竟するに、ソレは容易に確定できるが如く夢想されるような事態に陥ってはならんのであります。
「罪」は行為の結果を最大の証拠として抱くのであって、それはあくまでも個人的追求で完遂されねばいけない。けれども「責任」というとき、ソレは時として個人をすら超越するコトがなければダメ。ココで個人を超越するというのは、その場合、言い訳程度に「罪」を犯した当人の上に、彼を取り巻く限定的な周囲を安易に一括りにして、ソレで許容されるような類のモノであってはならないってコト、ソレこそ当たり前の要素であるはずなのに…


モチロン私は、ヒトは全てに対して「責任」を負うべきだなどと述べておりはせぬ。社会の動態で、各個人の活動と(明確に意識され得るほど)直接的な関わり合いを持つモノなどは、ほんの僅かな程度しかありますまい。社会の運動は、いかなる人々も明瞭に意識することができないほどの諸要因が複雑多岐に堆積しておる。(従って、過剰に「社会・文化に責任あり!」と騒ぎ立てます論調は、却って責任の所在を曖昧にするだけで、実際には何の解決にも結び付かぬであろう。)。それ故、己の力量を過大視して、至るトコロに的外れな能動性で以て「責任」の意識を見出さんとするのは、徒にペシミスティックな輩か、自称マリアのつもりでいるかする妄想家くらいなモノでございましょう。然るに、何の権限の故にか、広く社会に対して働きかける“有能気取り”の機関にあって、己の浸透力を全く認識するトコロなく、常に自らを異次元に位置する存在であるかの如く振る舞い、而して積極的に「責任」の在処を或る一定の箇所に留め置こうとする連中の活動、コレは果たして如何なる事態であろうか。「責任」というモノに対してあまりにもオプチミスティック過ぎるのではなかろうか。
窮極彼らのなしておるコトはと申し上げれば、「責任」を強引に一定の場所に収斂せしめるのみでありまして、仮にそうするコトによって何等かの安堵なり正義の意識なりを生産しておるというならば、ソレは途方もない偽善でしかないのです。
何等かの「責任」を追い求めてゆく行為は、決して子供の宝探しゲームの如く遊び心で展開できるモノでもなければ、或る力の行使によって強制的に定めるコトが可能なモノでもない。公に登場し来たって「責任」云々を声高に提唱するのであれば、まずは現在大事に抱えて離さぬアナタ方のその観察道具に関する検討から始めるが宜しいでしょう。斯かる低俗、安価、偏向的な<「責任」虫眼鏡>で以て、何事かを広く確定してみたつもりでいましても、本質的な部分は何も見えておらん。ソレは自家撞着する運命でしかあらぬ。そうしてまた同じ観察日記の繰り返し…
根本原因は、アナタ方の独自の嫌悪感からか、またはお遊び心しか持たぬ幼児の手には対処でき兼ねるという理由からか、決して近付こうとはしてこなかったその地点に芽生えているのでした。「責任」云々が場当たり的なお遊びでしか用いられぬ限り、結局は堂々巡り。ソレすなわち「責任」追求の資格なき、イヤ、するコトの出来ないってな事実の露呈でしかないのに… 究極の悪はその点の認識力欠如にあるのだけれども… 「精神的に向上心のないやつは馬鹿だ」

2008年06月10日

2008年06月10日 一歩目の挫折

夏が過ぎ去り、やがて涼しくなり始めるまで、あと三ヶ月ばかり。


…と書いたら、もう疲れましたので、以後は無しにする。

2008年06月08日

2008年06月08日 悪魔への侮蔑

ナゼ他人を殺す前に己自身を殺すコトを考えぬのであろうか。
──悪魔となる前に。悪魔になり果てるまで固執せねばならぬ「生」とは…


自殺は人非人の手段に他ならぬが、猟奇的な殺人行為は悪魔の仕業でして、すなわち人間の放棄を意味します。人非人にあっては辛うじて人間との接合点を見出せぬコトもないが、悪魔はソレとは異なる世界に身を置くモノであるのだから、常に全的に封殺されねばならない。一度ヒトとしての機能を放擲した存在に対して、コレをヒトとして扱うコト、斯かる愚行は彼の悪魔との契約の否定を意味する<侮蔑>でありまして、また或いはヒトとしての機能を所持致す我々への背進に直結するモノでもあるのだから、畢竟やはりソレ相応の対処をせねばならない。近代・現代のみがあらゆるモノに対して──明白な逸脱者においてすら──、半強制的に人間としての機能を永久的に背負い込ませるコトを旨としたのでございます。曰く「人権」「平等」「ヒューマニズム」「愛」「平和」・・・
斯かる幻想のクローズアップによって、精神は活動を停止し、眼前の私利私欲に眩惑されまして、如何なる形而上的なるモノをも己の内面に受容するコトなく、しかし(その必然的帰結として)自らの「生」だけは重宝して決して手放そうとはせぬ輩の暴走が世間を恐怖のどん底へと叩き込むに至るのでありましょう。こうした点について、ヨハン・ホイジンガの炯眼は、既に半世紀以上も前にあって、近現代の悲劇を的確に捉えておったといえようか。


以前の時代には、一般にみとめられた理想というものがたしかにあった。たとえば、その意味するところはともかく、神の栄光、あるいは正義、徳、知恵。定義の不完全な、古ぼけた形而上的諸概念だと、いまの人たちはいう。だが、これらの諸概念を捨て去ったとともに、文化の統一性もまた、疑惑のまなざしのもとにさらされたのである。なぜというに、けっきょくそれに代ったものはといえば、たがいに抗争する一群の欲望にすぎないのだから。今日、さまざまな文化志向を互いに結ぶことばは、豊かなくらし、権力、安全(平和と秩序ということもこれにふくまれる)といった語彙のうちにみいだされる。すなわち、これすべて自然の本能からまっすぐに出てきただけのものであって、精神によって高められてはいない、ひとつにまとめるよりはたがいに分ける方向にはたらく理想である。こんなものは、すでに穴居人類もこれを知っていた。
『朝の影のなかに』中央公論新社 四八頁


視点変更。
前回の一見確実に意味不明な投稿、実は純度100%の下ネタです。
視点変更。
昨日、ブラックマヨネーズの吉田が、南方熊楠をテーマにフリートークを行い、そこそこの笑いを奪取致していましたのを見るに及んで、相当な感心をしたものです。そんなトコロでもネタになるんだ! なかなかどうしてブラマヨは双方ともに喋りが面白い。誠に芳しいコンビです。
──終わり

2008年06月06日

2008年06月06日 夜の徘徊者

原初の悦びが人々をして欲求へと導く。原初の悦びとは一つの痼りに過ぎない。而して人々は痼りとの邂逅を希求し、我と同じく痼りを知悉するモノと遭遇するや、相共に悦びへの旅に向うのである。その旅路の中にあって、彼は痼りの幻影に触れ、己が欲求との合致を味わう。然るに時の経過が愈々幻影の幻影たる空漠さを明証するに至り、此処に人々は終わりなき出立を余儀なくされるのであった。

2008年06月05日

2008年06月05日 ネギ入りまーす

倉庫の埃っぽいにおいが好きなんです。特に体育倉庫の石灰混じりのにおいが好ましい。体育は大嫌いであったが、体育教師は絶滅して欲しいのですが、体育倉庫のにおいには喜ばしいモノを覚えた。しかし、ソレも過去のコト… 体育倉庫のにおいが好き!だったのに…


ネギは魔力を包含しておると思う。大抵の和食であれば、刻みネギを振りかけていれば、ある程度の結果が保障される。白米に刻みネギだけでも十二分に問題克服力を持つ。しかし刻みネギで思い出すのは、母親の刻みネギは全然刻み切れておらぬってコト。コレは多分どこの家庭にあっても共通するのではないかしらん。オカン、年輪が増えるに反比例してネギの輪は喪失してゆく。繋がりネギはお得意のモノ、たまに切れ目すら確認できぬただ細長いだけのネギが見られる。包丁が切れないんだ。雑にもなる。新婚気分を完全に忘却。そのくせやたらとネギを多様したがるので困惑す。前夜のクリームシチューが余れば、翌朝に温め直して食卓に並べてみては、ソコにみそ汁を添えるってなアンビバレンスな組み合わせ。当然、繋がりネギ。こんなコンビはあり得ねぇ、ってみそ汁を拒めば、キレる。反抗期かという。加えるにカレーにもみそ汁を添える。ソレを眼前にして、親父は無表情でカレーをおかずにみそ汁を飲み干すのだから、日本とインドの友好関係を築き上げるのに必死だ。然るに斯様な関係構築は誰も欲しておらぬ。ネギとみそ汁の大連立が甚だしいのです。…あの分だと入院でも致せば、「点滴にネギ入りみそ汁を入れてくれ!」と言い兼ねない。斯かるコトで病院から呼び出されたりするのは、何人たりとも勘弁願うトコロであろうか。ただ、そのような点滴を打たれるヒトを見てみたい気はなきにしもあらず。


どーでもいーネタで引っ張り切った。今回はこの程度で、もうイイ。

2008年06月04日

2008年06月04日 高いし長い

最近、若干浮かれ気味なのは、涼しさが暑さを圧倒しておるからに他なりません。そういうワケで、


日本に梅雨が・・・・ 来たーーーー!!!


地球に生まれて良かったー!!


・・・・・・ただ時流に乗っかってみただけの仕業。
咄嗟に閑話休題。
其の壱:ヤーコプ・ブルクハルト『世界史的諸考察』を4500円で購入致したのであった。古本にて。岩波文庫、しかし絶版のアレ。
高い! 無駄に高い!!
おそらく4000円ほどの“プレミア”が付随してありましょう。岩波は気狂いである。バークを侮辱しておるとしか思えぬヘタクソな翻訳である『フランス革命についての省察』などを出版している余裕があるならば、ブルクハルトなどを復刻すれば宜しいモノを… 『省察』は既に真っ当な訳版が出てあるではないか。全く何を欲していらっしゃいますのか皆目検討不可能。
ところで、“ヤーコプ”ってカッコイイ。私も己が名前のミドルネームとして“ヤーコプ”を付属させたき心情であるのは吝かではない。
最後の一文、意味不明。


其の弐:サンドウィッチマン伊達サンのブログ、そのトップ画像がほんのちょっとだけオモシロイ。(参照リンク:サンドウィッチマン 伊達みきおオフィシャルブログ「もういいぜ!」by Ameba


こりゃ、どう見てもヤクザだ。
ヤクザが御丁寧に日々の出来事を綴り、綴り、綴り、刺し、撃ち、殺り、殺り、綴り、綴り、鈍器のようなもの、白い粉、綴り、刺し、刺し、彫り、深夜の港湾、深夜の倉庫、綴り、殺り、鋭利な刃物、注射器、閑静な住宅街の一角、綴り、トランクに詰め込まれた人体、樹海、ダブルのスーツ、綴り、綴り、綴り、綴り、綴り、歌舞伎町、歌舞伎町、刺し、四本指、綴り、殺り、東京湾、に、沈め、る、ぞ、綴り、綴り、路上販売取り締まり、刺し、刺し、彫り、時には掘り、アタッシュケース、ドスの効いた、綴り、綴り、岩下志麻を娶り、綴り、綴りしているかの如き風貌。
長い! 無駄に長い!!

« 2008年05月 | もどる | 2008年07月 »