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2008年06月29日 「大衆の反逆」(テレビ編)

テレビが数十万する時代、録画を試みようとすればDVDレコーダーが求められ、ソレが十万〜三十万くらいであろうか。だが、果たしてソコまでして見たいと願う番組の数、たいそう少ないのです。ってなワケで、今日はテレビのバラエティ番組について、愚見を披瀝させて頂きたいと企図す。


「最近のテレビは・・・」と大人を気取ったヒトは申し上げる。曰く「低俗化」「幼稚化」「馬鹿騒ぎ」云々。或る意味で正鵠を射ており、或る意味で的外れだと思うのです。およそ十五年ほど前を思い起こしただけでも、テレビにおいて放送される内容はよほど大人しくなってきており、規制は厳しくなり、相当な配慮がなされてある。約十五年前、ソレは私が小学校に入ったばかりくらいの時期ですが、あの頃は例えば「志村けんのバカ殿様」にしろ「ダウンタウンのごっつええ感じ」にしろ、おそらく今では放送できぬほどの過激な悪ノリがあった。暴力、オッパイ、暴言、斯かるモノを私も平気で見ておりました。今は如何・・・ 大層上品になってきておる。その意味では、最近の番組を「低俗化」「幼稚化」「馬鹿騒ぎ」と形容するのは少しおかしい。以前の方がよほど(今の感覚でいう)問題は多かったはずなのだから。一面ではずっと「高貴さ」「大人っぽさ」「落ち着き」を獲得してきておるのが、今のテレビ番組であるのではないか。──単純に比較をしてみた場合。
けれども「低俗化」「幼稚化」「馬鹿騒ぎ」と言いたくなるのも分からなくはない。どこもが同じようなコトばかりをやって、締め付けられた規制の中で少しでも盛り上げようと演者は必死になり果てていらっしゃる。足掻き。挙げ句に、志茂田景樹など今では容姿そのものが放送コードに引っ掛かるのではいかと危惧致す。
社会全体が多大なる勘違いをしているのか否かは知らんけれども、精神や文化は十年や二十年では何も発達せぬが、しかしながら、マナーや倫理の声に圧倒され、自由度が狭められた電波の中にあって、テレビ局は視聴者との共生に必死ってコト。すなわち、観客の顔色を窺うのに気を取られるあまり、苦情の声に身を震え上がらせるあまり、制作者が超然とした態度ではいられなくなるってコト。テレビが「低俗化」「幼稚化」されるのは、見るモノの平均レベルに合致させんと試みるあまり、そうならざるを得ないってコト。
何所もが一様に同じ方向を向き始めて、全体が足並みを揃えて愚劣になり果ててゆく。上に比較を出した十五年ほど前はそうではございませんでした。確かにソコには思いっきり低俗で幼稚なコトと受け取られるモノが存した。しかし一方では、バランスを維持するが如く、キッチリとした大人の番組があった(バラエティ番組でも)。ソレが今では、どこにあってもギャップが消え失せ、画一化されつつある。おそらくあと十年後にはより一層差異が解消されておるでありましょう。
結局こういうコト。つまり、愈々「大衆の反逆」(テレビ編)が押し寄せて来ったのです。
私が子供の頃に見た「志村けんのバカ殿様」や「ダウンタウンのごっつええ感じ」にあったような、或る意味では非常に思い切った内容のコント・お笑いといったモノは、もはやテレビから亡失してしまうのでしょうか。ソレは舞台上や制限を設けたDVD及びネット配信のようなカタチでしか表現され得なくなるのかもしれぬ。マナーや倫理を叫ぶ行為は、それ自体では決して悪くないのですけれど、今ではそうしたモノが叫ばれ過ぎるあまり、表現の幅を限定し過ぎるコトになり、従いまして表に出て来るものが実質一度検閲を受けたような体でしか存在し得なくなる。…昨今の世間様が下品だという事柄にも色んな種類のモノがあって、一概にすべてを抹消せんとするが如きは、あまりに過激、あまりに暴挙だと思うのでございます。而してソレを文化、精神、道徳の向上といったモノと混同してしまう「大衆の反逆」よ!
この先、妥協せずに、満足に、面白いモノを追求していくヒトたち──演者、制作者、作家等々──は、もしかするとバッファロー吾郎のようなスタイルでなければ生き残れなくなるのかもしれないなぁ。または立川談志師匠のようなやり方を選ぶか(ただし、ソレには天才的才能が要る)。もしくは鳥肌実の如く、徹底してアングラに隠るか… 少なくともテレビの世界は相当な妥協が加わるでしょう。斯かる選択によって「低俗化」「幼稚化」「馬鹿騒ぎ」が回避され得るとしても、その時、もはやソコに娯楽的要素は如何程存するか。ドリフ、ひょうきん族、ごっつええ感じ…斯様なモノはもうテレビからは発祥しないかもしれん。そうして「国民的お笑い番組」というモノも、現状が進む限り無くなりゆくかもしれん。「大衆の反逆」(テレビ編)が招来し来った今、面白いモノを追求していくヒトたちは、自らのフィールドだけではなく、対象とする客をも予め選択しておかねばならないのではありますまいか。“お笑い”なるモノの質もこれから変化を遂げてゆくはずで、例えばドリフやダウンタウンと同等の手法をテレビで用いるコトの限界はもう目前まで迫ってきているような気が致す。面白きコトの追求、その点に関してはいつの世も<深く狭く>に淵源するのかもしれぬが、今後いっそうそのような傾向が増進されゆくであろう。そうして畢竟、テレビは「触らぬ神に祟りなし」の精神上、安全地帯を求め過ぎて、やがては砂漠地帯へと辿り着くハメになるであろう。ソレ、すなわち形骸化に他ならんのです…

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