« 一歩目の挫折 | もどる | 食材は食べるコト以外にも使われる »

2008年06月11日 「罪」と「責任」

「罪」と「責任」の差異、その混同、消滅。
「罪」とは本来何事かを遂行したモノにのみ帰せられるのであります。然るに「責任」の場合はより包括的、複合的な視野から検討されていかねばならぬ。
全てのモノに「罪」が存する、などというのは白痴の戯言でして、何等の価値をも有するコトはないのです。「罪」とはあくまでも行為の結果生じた事態に対して問われるのであるから、すなわち、あらゆるモノに罪があると申すのならば、ソレを裏返してやれば宜しい、つまり、経緯はこうです──それならば何人たりとも罪は持たぬ、と。必然的に斯かる論理が是認されるであろう。然るに他方の「責任」に関しては、全く事情が異なってきます。其れは「罪」あるモノ自身に、「罪」とは異なる領分で抱かれます、またはその親類、友人、諸共同体、諸組織、果ては社会の構成要素、文化、風習、世論等々にまで拡大され、検討されるべき事柄に他ならぬ。畢竟するに、ソレは容易に確定できるが如く夢想されるような事態に陥ってはならんのであります。
「罪」は行為の結果を最大の証拠として抱くのであって、それはあくまでも個人的追求で完遂されねばいけない。けれども「責任」というとき、ソレは時として個人をすら超越するコトがなければダメ。ココで個人を超越するというのは、その場合、言い訳程度に「罪」を犯した当人の上に、彼を取り巻く限定的な周囲を安易に一括りにして、ソレで許容されるような類のモノであってはならないってコト、ソレこそ当たり前の要素であるはずなのに…


モチロン私は、ヒトは全てに対して「責任」を負うべきだなどと述べておりはせぬ。社会の動態で、各個人の活動と(明確に意識され得るほど)直接的な関わり合いを持つモノなどは、ほんの僅かな程度しかありますまい。社会の運動は、いかなる人々も明瞭に意識することができないほどの諸要因が複雑多岐に堆積しておる。(従って、過剰に「社会・文化に責任あり!」と騒ぎ立てます論調は、却って責任の所在を曖昧にするだけで、実際には何の解決にも結び付かぬであろう。)。それ故、己の力量を過大視して、至るトコロに的外れな能動性で以て「責任」の意識を見出さんとするのは、徒にペシミスティックな輩か、自称マリアのつもりでいるかする妄想家くらいなモノでございましょう。然るに、何の権限の故にか、広く社会に対して働きかける“有能気取り”の機関にあって、己の浸透力を全く認識するトコロなく、常に自らを異次元に位置する存在であるかの如く振る舞い、而して積極的に「責任」の在処を或る一定の箇所に留め置こうとする連中の活動、コレは果たして如何なる事態であろうか。「責任」というモノに対してあまりにもオプチミスティック過ぎるのではなかろうか。
窮極彼らのなしておるコトはと申し上げれば、「責任」を強引に一定の場所に収斂せしめるのみでありまして、仮にそうするコトによって何等かの安堵なり正義の意識なりを生産しておるというならば、ソレは途方もない偽善でしかないのです。
何等かの「責任」を追い求めてゆく行為は、決して子供の宝探しゲームの如く遊び心で展開できるモノでもなければ、或る力の行使によって強制的に定めるコトが可能なモノでもない。公に登場し来たって「責任」云々を声高に提唱するのであれば、まずは現在大事に抱えて離さぬアナタ方のその観察道具に関する検討から始めるが宜しいでしょう。斯かる低俗、安価、偏向的な<「責任」虫眼鏡>で以て、何事かを広く確定してみたつもりでいましても、本質的な部分は何も見えておらん。ソレは自家撞着する運命でしかあらぬ。そうしてまた同じ観察日記の繰り返し…
根本原因は、アナタ方の独自の嫌悪感からか、またはお遊び心しか持たぬ幼児の手には対処でき兼ねるという理由からか、決して近付こうとはしてこなかったその地点に芽生えているのでした。「責任」云々が場当たり的なお遊びでしか用いられぬ限り、結局は堂々巡り。ソレすなわち「責任」追求の資格なき、イヤ、するコトの出来ないってな事実の露呈でしかないのに… 究極の悪はその点の認識力欠如にあるのだけれども… 「精神的に向上心のないやつは馬鹿だ」

« 一歩目の挫折 | もどる | 食材は食べるコト以外にも使われる »