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2008年06月08日 悪魔への侮蔑

ナゼ他人を殺す前に己自身を殺すコトを考えぬのであろうか。
──悪魔となる前に。悪魔になり果てるまで固執せねばならぬ「生」とは…


自殺は人非人の手段に他ならぬが、猟奇的な殺人行為は悪魔の仕業でして、すなわち人間の放棄を意味します。人非人にあっては辛うじて人間との接合点を見出せぬコトもないが、悪魔はソレとは異なる世界に身を置くモノであるのだから、常に全的に封殺されねばならない。一度ヒトとしての機能を放擲した存在に対して、コレをヒトとして扱うコト、斯かる愚行は彼の悪魔との契約の否定を意味する<侮蔑>でありまして、また或いはヒトとしての機能を所持致す我々への背進に直結するモノでもあるのだから、畢竟やはりソレ相応の対処をせねばならない。近代・現代のみがあらゆるモノに対して──明白な逸脱者においてすら──、半強制的に人間としての機能を永久的に背負い込ませるコトを旨としたのでございます。曰く「人権」「平等」「ヒューマニズム」「愛」「平和」・・・
斯かる幻想のクローズアップによって、精神は活動を停止し、眼前の私利私欲に眩惑されまして、如何なる形而上的なるモノをも己の内面に受容するコトなく、しかし(その必然的帰結として)自らの「生」だけは重宝して決して手放そうとはせぬ輩の暴走が世間を恐怖のどん底へと叩き込むに至るのでありましょう。こうした点について、ヨハン・ホイジンガの炯眼は、既に半世紀以上も前にあって、近現代の悲劇を的確に捉えておったといえようか。


以前の時代には、一般にみとめられた理想というものがたしかにあった。たとえば、その意味するところはともかく、神の栄光、あるいは正義、徳、知恵。定義の不完全な、古ぼけた形而上的諸概念だと、いまの人たちはいう。だが、これらの諸概念を捨て去ったとともに、文化の統一性もまた、疑惑のまなざしのもとにさらされたのである。なぜというに、けっきょくそれに代ったものはといえば、たがいに抗争する一群の欲望にすぎないのだから。今日、さまざまな文化志向を互いに結ぶことばは、豊かなくらし、権力、安全(平和と秩序ということもこれにふくまれる)といった語彙のうちにみいだされる。すなわち、これすべて自然の本能からまっすぐに出てきただけのものであって、精神によって高められてはいない、ひとつにまとめるよりはたがいに分ける方向にはたらく理想である。こんなものは、すでに穴居人類もこれを知っていた。
『朝の影のなかに』中央公論新社 四八頁


視点変更。
前回の一見確実に意味不明な投稿、実は純度100%の下ネタです。
視点変更。
昨日、ブラックマヨネーズの吉田が、南方熊楠をテーマにフリートークを行い、そこそこの笑いを奪取致していましたのを見るに及んで、相当な感心をしたものです。そんなトコロでもネタになるんだ! なかなかどうしてブラマヨは双方ともに喋りが面白い。誠に芳しいコンビです。
──終わり

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