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2008年08月15日 −3でも生存可能

率直に申し上げると私はあまり泳げぬ。北島康介の水泳力を100であると致せば、私は−3に相当する。そもそも私は小学生の頃からプールなるモノに多大なる嫌悪感を示しておりました。アレは汚らわしい。実に実に実に汚らわしい。不浄! 誰が小便・大便を排泄していますかも分からぬままに、何人が唾液を吐きまくっていますかも分からぬままに、飛び込む。強制的に飛び込みを要求される。腹打ち!! 体育教師の低能!今に始まらず。学校の厄介者。日教組的悪魔の群れ…
ビート板、嗚呼、雑菌の隠れ家よ。プール底の滑り、嗚呼、雑菌の溜り場よ。プール周辺のトイレ、嗚呼、何たる臭い。
市民プールともなれば、ソレはもはや地雷地帯であると断言しても宜しくて、如何なる病原菌が水中に徘徊していますかは最早顕微鏡の世界でのみ判明可能であった。
海はより嫌いでございました。海水浴、ソレは終末処理場に飛び込むも同然。而して砂の付着、落しても落しても払いのけても払いのけても尚付着してくる砂の無限連鎖。加うるに海の家の衛生状態は基本的に信用ならぬのでした。そうしてソコに存するシャワールームの実に醜きコト、言語を絶し、常軌を逸しているであろう。壮絶な、壮絶な自暴自棄にでも陥らぬ限り、または生か死かの選択を迫られる機会が訪れない限り、海水に接するなどというのは、狂気の沙汰としか受け取れぬではございませんか。


水泳力が−3である私でも、生きながらえるコトはできる。ソコには簡明な事実が横たわるのみ。すなわち用もありませんのに川、池、海に近付かぬコトです。貨幣を消費してまでプールに赴かぬのは言わずもがな。畢竟、水泳などは大して要らん。水泳やむなしとなり果てるが如き危急の秋は、もはや覚悟して死を選ぶってのも、一つの生き方ではありますまいか。斯様な時は大抵のモノが溺死する。毎日報道される水の事故の例を引出して来るまでもないコトよ。危険地帯には近寄らぬが賢明でした。触らぬ神に祟りなし、の最も身近な例。

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