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2008年05月12日 愚者の選択

松本人志が硫化水素自殺で「放言」 「アホが死んだら別に俺はええねん」


何がいけないのであろう。
「アホが死んだら別に俺はええねん」って日本語はオカシイけど。
誰も擁護する積りはなく、単に自殺を峻拒致す。
こうした発言を問題とする生物の背後には、日教組の思想に共感して堪らない輩の、やれ「人権」だのやれ「平等」だのとほざき立てる頽廃した頭脳と相通ずるモノを感じ取らずにはおれないではありませんか。そういう害毒こそ真っ先に消毒せねばならぬ。と思い続けて・・・
ところで、G.K.チェスタトンがこういうコトを申し上げた。ソレを思い出したので、ココに綴っておきたい心境。


自殺は単に一つの罪であるばかりでなはない。自殺はまさに罪の中の罪である。究極の悪、絶対の悪であって、生命の存在そのものに関心を持とうとせぬ態度にほかならぬ。生命にたいして忠誠の誓いを拒否することにほかならぬ。(中略)象徴的に言って、彼の行為は、どんな婦女暴行よりも、どんな爆弾狂の破壊行為よりも性が悪い。なぜならば、それはあらゆる建物を破壊し、すべての婦女を辱める行為だからである。泥棒ならダイヤモンドで満足する。ところが自殺者はそうではない。そこが自殺者の犯罪たる所以なのだ。(中略)物を盗むということは、盗まれた人のことは大切に思わぬとしても、盗んだ物を大切と思えばこそである。ところが自殺者は、地上から何一つ盗もうとしないことによって、地上のあらゆるものを侮辱するのだ。花のために生きることを拒否することで、あらゆる花をけがすのだ。彼の自殺が嘲りとならぬものは、たとえどんなに小さな生き物であろうと、この宇宙の中にただ一つとしてない。木の枝で人が首をつれば、木の葉は怒って散り、小鳥は憤激して飛び去るだろう。みな、自分に直接個人的な侮辱を受けたからである。(中略)自殺者は、自分以外の何物にもあまりに関心を持たぬ結果、もうこれ以上何も見たくないと思う人のことである。
『正統とは何か-新装版-』 春秋社 一二五〜一二六頁


激越です。あまりに激越です。
事前の想定に反して、この文章を引用してしまえば、もう私の記し上げようとするコトなどどーでもいーと観念致した。
自殺するという愚行、それは遺族にまでも恥をもたらすモノであって、あらゆる面において同情する余地なしでもあって、而して同情は偽善であって何でありましょう? 「遺族の感情を逆撫で」云々。ソレでアナタの胸中が満潮になると証言して頂けるのであらば、コレはもう果たして十分誠に結構な仕業だ。
そうして、斯様な時に、或る者は烏合の衆を味方に備えたと決め込みまして、嬉々として安っぽい“ヒューマニズム”を振りかざしながら何やらを絶叫する。──それがマスコミの正体でなくして何であろう。それが日教組の正体でなくして何であろう。それが人権屋の正体でなくして何であろう。斯様な流れで以て、最後にこう言っておきたい─「人権」なる二文字に象徴されるモノは、往々にして“理性”と書かれた衣を纏った酔狂による危険な綱渡りを見るが如し。
世の中には<尊重されなくなる>モノとて確固として実在するというコトを、それとなくココに置いていかんとする行為であった、今日のコレは…

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