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2008年05月10日 禁忌

昨日、昭和八年に出版されてある『ジョンソン博士とその群』なる書の一部にエドマンド・バークに関する論考が収められてありますのを知ったので、早速図書館へと赴き、その一部を入手したのであった。そして現在半分程読んでいるのでしたが、何と申しても今から七十五年ばかりも前に世に出されたものであって、およそ現在単発的に出されておるバーク論とは一味も二味も異なるです。そもそも戦前に著された論考、論説、論文等は、現在流通してあるモノと著しく型を異にする場合が間々ある。ソレらの多くが──例えば今日の学者のセンセイが書き上げる論述と比較した場合においては──要点をパッパッと羅列し、それを華麗に連結させるといった具合の業で以て構成されているかの如くに思うです。つまり、今日的なソレは微に入り細に入り適切な例証等を一つ一つ御丁寧に試みんとするのに比し、昔日のソレは、必要なる最小限度の部分だけを適宜準備し、列挙し、そして一気に縫合するといった手合いの構成でありまして、予め読者との間に何らかの意思疎通を前提としておるかのような…そうした“オーソドックス”な、或る意味で潔さとも言える感が存する。而して斯かるモノこそ、元来日本人の<性>に合うのではないでしょうか、などと思うのであって、こうした要素こそ戦後の日本に欠落したモノではあらぬか、左翼の丸山眞男共が勇んで否定しようとしたモノではないか、とは過剰に過ぎる先物取りの暴論ですが…結論─戦後は宙に浮いた空論ばかりであった。故にマルクス、ルソー、ヘーゲルなどが好まれるのに、バークやトクヴィルは数年前までほとんど顧みられるコトが無かったのでありましょう。


と・・・こうした無理早急な見解の後に続くコトは、改めて思うに、論文を記し上げるに際して、幾らルソーやヘーゲルが百害あって一利なしとはいえ、資料として手元に置いておくコトの必要性を日々痛感致していた、ってな事態です。今に至るまで、それらの悪魔の書物を購入するコトは、岩波等の出版社に金を投げ渡すものであるとの罪悪感を抱き、それによる苦悩、葛藤もございました。だが、常にそれらの誤謬を確認してゆくには、わざわざ図書館から借りては返却し、借りては返却しの日々にサヨナラを告げねばならぬ。そうでありまして、とりあえず以下の奇怪なる書物を新品で購入するのです。計おそよ6100円の<壮大なる無駄遣い>。


ルソー:人間不平等起原論・社会契約論
デカルト:方法序説
ホッブズ:リヴァイアサン(2)
ヘーゲル:歴史哲学講義 (上)
ミル:自由論
ロック:統治論


ロックの『統治論』はさほどでもないのでしたが、それ以外の書物はサリンにも匹敵する危険性を備えてある。上のルソーから、読みながら「コイツ、アホやろ!」と突っ込まずにはおれない有毒性を強く包含する順に挙げた。妄想と偏屈の塊。そういうコトであるからして、amazonで購入したのだけど、コレらの本を箱に詰めたヒトは、或いは「とんでもない時代錯誤の哲学(というよりこの場合はただの“虚妄”)愛好者がいるなぁ」と思ったかもしれん。そうです、時代錯誤なんです。愚痴にも遠吠えにもならぬ負け犬。明日からお相撲さんはいつも通り土俵に上がるというのに。

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